全27件 (27件中 1-27件目)
1
今日はやや気温が上がった。研究室で図面を書いたり、スキタイ人に関する文献渉猟したほかは特に書くこと無し。 僕のお気に入りリンク先の1つに、eba3515さんの日記がある。日本の歴史、特に近世・近代史について、いつも勉強させられることが多い。また読書(主に保守系の論客のもの)記録も参考になる。 特に最近の日記で「日本の近代は黒船来航からではなくレザノフ来航からとすべき」「日本国家近代の最大の課題はロシア・ソ連帝国の脅威への対応だった」というテーゼを示していらっしゃっており、それこそ「対米従属」(笑)の歴史観からの脱却を示すものとして目からウロコが落ちる思いである。 さて最新の日記でebaさんは「日本史は世界史と関連付けて考えられることが少なかった」と書かれている。確かにそう思う。学校の日本史教育ではまるで火星人でもやってくるようにペリーの黒船は突然やって来て(1853年)アメリカ側の事情はあまり説明されない。古代に関していえば日本は「当然のように」中国・朝鮮から文明を学んでいるが、なぜ中国に先進文明があったのかまでは教えられまい。また争点の多い近代に関していえば、当時の世界情勢を知らずに東アジアの中だけで見てしまうと日本帝国はひとえに「強欲で悪質、独善的」なために朝鮮を併合し中国を侵略したように見えてしまう。侵略が善だったとは言えないが、欧米列強が我が物顔に振舞う当時の世界を見れば、むしろそれをしないものは食われるのみだったことはあまり教えられないと思う(現代の視点で善悪を論じるのは自由だが、当時の人々が対処を求められた状況は善悪論では説明しきれまい)。革新系のほうから批判の多い「新しい歴史教科書」は、個々の記述内容はともかく、少なくとも日本史を世界史の中で位置付けようとする姿勢がある点で評価出来ると思う。 そうした「内向き」な日本史教育とは別に、高校では「世界史」という授業がある。歴史を世界レベルで考えるというのは、「日本とは何か」というのを外から考える意味からも重要ではないかと思う。ただ、例えばインド古代の詩人カーリダーサが作った「シャクンタラー」という戯曲の存在をいくら習ったところで、それこそインドに関係する仕事にでも就かない限り、その先の人生で役に立つことは全く無いだろう。もちろん外国の歴史が好きな人はいるだろうが、そういうものは学校で無理に教えなくても、ほっておいても例えば小説や映画をきっかけに自分で学ぶのではないだろうか(というかもとより好きじゃない人は学校で教えても頭に入らないだろうし)。 ドイツの歴史教育についてはライコス日記の時代書いたことがあるが、端的にいうと「近代以降重視」「ヨーロッパの中のドイツ」という二つの柱に集約されると思う。 だからドイツの歴史教育で日本が出てくるのはおそらく日独伊三国軍事同盟(1940年)が最初であり(学校のレベル、教科書の種類によって異なるだろうが)、アメリカ大陸は16世紀にスペイン人に征服されるところで初めて出てくる。インドの登場は古代文明のみだろう。その一方でドイツ以外のヨーロッパの他国の歴史もかなり細かく習うし、成立以来ヨーロッパ文明と「腐れ縁」にある中東・イスラム文明についてもかなり詳しく習う(ヨーロッパ文明はそもそも中東文明の亜流に過ぎなかったので)。 実は学校で「世界史」などという無国籍な歴史教育を行っているのはアメリカ、日本、韓国だけだ、と聞いたことがある。「歴史」の長くないアメリカはともかく、日本や韓国でそれが行われているのはアメリカの影響だろうか。ともかく、世界の大部分の国での歴史教育とは自国の歴史教育に他ならない。 歴史とは「無縁な他者の身の上話・おとぎばなし」ではなく、「自分とは何だろう」ということを考える材料の1つであることのほうが重要だと思う(まあ外国の歴史ばかり書いている僕が言うのも変だが)。 そこで提案なのだが、日本でも「世界史」「日本史」と区分する互いに全く関連しない歴史教育の並列は止めて、ヨーロッパ式に代えたらどうだろう。歴史教育の時間の総量は変えずに、内容を変えるのである。「地理」を取る人の為に「歴史A」「歴史B」と分けるが、「日本史」「世界史」とはしない(最近の教育制度はよく知らないので頓珍漢な提案かもしれないが)。 従来の日本史を基本として、各時代の世界情勢を加味した内容を加える。世界史のうち、日本と直接関わりの無い地域や出来事は省き、今までの地域並列式の記述から重点配分にする。その代わり日本史の歴史記述には必ずその国際的背景や同時代の海外情勢概観を併記する。削られて少なくなった分は近代史や東アジア史、そして日本と関わりの深いアメリカ・ロシアの歴史に宛てる。 ただ世界史の中でも人類共通の話題は残す。古代文明の成立(農耕・都市の起源)、そしていわゆる三大宗教の成立は外せないだろう。あとヨーロッパの大航海時代や市民革命は日本にも関係あるので必要である。ヨーロッパの歴史はその背景として教える必要はあるだろう。この伝でいくとオスマン帝国やムガル帝国はほとんど消えてしまいそうだ。 でも自分の専門から言えば、ヨーロッパや中東の古代に興味を持ってもらったほうがいいので、これは言わなかったことにしたほうがいいかな。まああくまで学校教育での話ということで。
2005年01月31日
コメント(18)
今日は夜にクラシックのコンサートに行った。演奏するのはJunge Marburger Philharmonieという市民交響楽団で、日本人の知り合いのKさんが参加しているので(彼女はフルート)、聴きに行ったのである。大部分が僕のような「サクラ」であるとはいえ、市の公会堂のコンサートホールがほぼ満員になるほどの盛況だった。 思えば僕はドイツに留学してずいぶん経つが、クラシックの本場ドイツにいるというのにもったいないことにクラシックのコンサートは3度しか行ったことが無く、それは全てこの楽団のコンサートである(他にはフランクフルトでのブライアン・アダムスのコンサートに行った。あれは感動ものだったけど)。だいぶ昔にフライブルク音大のコンサートに行ったのも入れれば4回目ということに成るか。 「若者」(Junge)の楽団というが、実際には年齢は関係無く、最年長は70歳の人も居るらしい(まあ若くて可愛い子が多かったけど。ドイツ人は黒い服が似合う)。3年前に聴きに行った時に比べたら、今日の演奏は音もあっていて格段に良かったと思う。まあ文句をいえば、大きい管があまり良くないこと、弦の高音部及び出だしが脆弱なこと、音にやや締まりがないことがあるが、プロでもない楽団にそれをいうのは酷というものだろう(偉そうに書いたが僕は楽器は全然出来ない。聞くほう専門である)。それにしてもこんな小さな町でもこれだけの楽団が出来るのだからドイツのクラシック音楽の底辺はやはり広いのだろうか(なおマールブルクにはこれとは別に学生交響楽団もある。互いにあまり仲は良くないそうだが、両方かけもちしている人もいる)。 演目は以下の通り。・ヨハンネス・ブラームス「悲劇的序曲」ニ短調(D-Moll)op.81(1880年)・フランツ・シューベルト 交響曲第8番ロ短調(h-Moll)「未完成」D759(1822年。1865年初演)・ルートヴィヒ・ファン・ベートーベン 三重協奏曲ハ長調(C-Dur)op.56(1808年初演) 「お決まり」のアンコールは、三重協奏曲の一部を繰り返しだった。 今日マールブルク市では市長選挙が行われたが、イラクでも暫定議会選挙が行われ、妨害目的のテロが頻発し30人以上が死亡したにもかかわらず、投票率は70%を超えたという。驚くべきことだ。まあ反米・反戦の人にかかるとこの投票率も「アメリカのプロパガンダ」ということになるのかもしれないが。(追記:その後独立選管は投票率を6割程度に下方修正した。これじゃあ疑われるかもしれんね。でもまあ信任投票での支持率が100%とか99.99%という驚異的な結果の出ていたフセイン政権時代に比べれば、現実的な数字だろうか) ルーマニアからびっくりするニュース。76歳で死んだ親戚の墓を暴いてその心臓を取り出して焼き、その灰を水に溶かして飲んだ6人が、墓地毀損の罪で懲役6ヶ月を宣告された。被告の自供によれば、死者は吸血鬼として甦り村人の血を吸おうとしたので、この地方(ルーマニア南部クライオヴァ市近郊の村)の伝統に則って吸血鬼退治のためにやったという。21世紀の現代に、こういう事件が起きるというのは驚きである。 ルーマニアというと吸血鬼ドラキュラの故郷として有名だが、そのモデルは「串刺し公(ツェペシュ)」とあだ名されたワラキア大公ヴラド3世(1431?~1476年)とされている(「ドラキュラ」はヴラド3世の父ヴラド2世が「竜(ルーマニア語でドラクル)騎士団」に加盟していて、それに「息子」を表わす接尾辞「-a」をつけたのが由来だそうだ)。ヴラド3世はブラン城を根拠にオスマン(トルコ)帝国やハンガリーを相手に激しい戦いを繰り広げ、中でもトルコ兵多数を串刺しにして晒し、オスマン帝国のスルタン・メフメット2世の戦意をくじいたことから「串刺し公」のあだ名を奉られている。冷酷残忍な彼も、ルーマニアでは祖国独立維持の為に戦った英雄らしい。このツェペシュの風評に、上に挙げたような風習とあいまって吸血鬼ドラキュラ伝説は生まれたようだ。 なおルーマニアは2007年にEU加盟が予定されている。
2005年01月30日
コメント(4)
久しぶりに快晴の一日だった。気温も心持ち高いが、夜は零下になった。夜、博士論文を提出したA(今年の夏の現場で同室になったドイツ人)を祝うための飲み会。参加したのは日独伊という顔ぶれである。 その時の会話で出たのだが(そういう話に興味の無い主役のAは静かになってしまった)、元ベルリン大学教授で長年イラクでの考古学調査に従事したハンス・J・ニッセン教授の奥さんは、アルベルト・シュペアー(軍需大臣としてナチスの戦争産業を指導。戦後戦犯として投獄された)の娘らしい。その教え子の一人であるリカルド・アイヒマン博士(ドイツ考古学研究所バグダッド支部長)は姓から分かるようにアドルフ・アイヒマンの息子である(アドルフは親衛隊中佐でユダヤ人絶滅問題の責任者。戦後アルゼンチンに潜伏したが、1960年にイスラエルの諜報機関モサドに拉致されイスラエルで処刑された。リカルド氏はアルゼンチン人との間に出来た息子である)。 この話を教えてくれたDは「ナチスの人脈関係が今も生きている」と憤慨気味だったが、ちょっと考え過ぎではないだろうか。ドイツやイタリアでは軍をはじめ政財法曹学問あちこちでこうした人脈があるそうだが、国民の多くがナチスもしくはファシスト党員だったことを思えば当然とも思える。 今日もヘロドトスの「歴史」からのエピソード。このところ騎馬民族に関して調べものをしているので、馬に関わるエピソード。「歴史」巻1の80節。歴史(上) ・・・紀元前550年、メディア人の支配を脱しイラン高原の支配者となったペルシア人の王キュロス(ペルシア語でクール)は、中東征服を目指して遠征を開始した。最初の標的は小アジア(現在のトルコ)西部を支配するリュディア王国で、その王はクロイソスといった。クロイソスは砂金による富裕でギリシャにも知られ、都市国家アテネで民主的な法を制定したソロンとの問答も有名である。 クロイソスはキュロスに滅ぼされたメディア王家と縁戚だったのでペルシアに敵意をもち、エーゲ海沿岸のギリシャ人都市国家やスパルタと同盟して背後を固めた上で、紀元前547年、両国の国境だったハリュス川(クズルウルマック)を越えて侵攻した。ところが軍勢に住民まで引き連れて(これは遊牧民のことを指すのだろうか)立ち向かったキュロスに撃退された。クロイソスはいったん退却し態勢を立て直そうとした。 ところがキュロスはクロイソスの裏を掻いて追いすがり、リュディアに侵入した。騎兵を軍隊の主力とするペルシア軍ならではの作戦だろう。ところがリュディア側も勇猛な騎兵で知られ、長大な槍を武器とするその騎兵の馬術は中東一とされていた。当時中近東にはウクライナやコーカサスに起源をもつ遊牧騎馬民族スキタイ人が傭兵として多く活躍していたようで、ペルシア人もリュディア人もスキタイの馬術を取り入れたのだろう。 両軍はリュディアの首都サルディスの近くで対峙したが、整然と布陣する名高いリュディア騎馬軍団に、キュロスは恐怖を覚えた。そこでメディア人ハルパゴスの献策を入れて、陣中に駄獣(食料や荷物を運ぶ家畜)として多くいたラクダの荷を下ろし、騎兵をラクダに騎乗させて陣頭に並べた。 翌朝、いざ戦闘が始まってみると、リュディア軍の馬はペルシア軍の先頭をきって駆けて来るラクダの臭いを嫌い、またその奇妙な姿や鳴き声を恐れて、騎手のいう事を聞かずに逃げ散ってしまった。得意の騎兵隊が戦わずして壊滅したリュディア軍は、馬から下りて懸命に戦ったが敗北した。サルディスは陥落、リュディア王国は滅亡し、クロイソスは火あぶりにされたとも、キュロスの側近として生涯を終えたともいう。・・・・ 本当に馬はラクダを怖がるのだろうか。まあラクダが臭いというのは本当らしいけど。馬というのは神経質な動物らしいから、ラクダを初めて見たら驚くかもしれない。 ラクダというと童謡「月の砂漠」でお馴染みの、中東を代表する家畜と思われている。ただ僕は中東にはよく行くが、ラクダに乗ったことは一度も無い。現代の中東では人や物の運搬手段としては自動車、家畜ではせいぜいロバが主力で、扱いにくいラクダに無理に頼る必要が無いからである。 僕はトルコやシリア、レバノンしか行ったことが無いので、サウジアラビアやエジプトなど砂漠地帯ではまた様子は違うのだろう。シリアやトルコの観光地には、鳥取砂丘みたいに観光客相手のラクダが居るには居る。 ラクダにはヒトコブとフタコブの2種がいる。ラクダや馬は本来アメリカ大陸が起源の動物らしいのだが(馬はその後絶滅し、スペイン人が来るまでアメリカに馬は居なかった)、更新世にユーラシアに移動してきたという(人類とは逆の動きである)。現在家畜化されているヒトコブとフタコブの起源となる野生種については議論があったが、別々の野生種から家畜化されたというのが定説になっている。フタコブラクダの野生種は現在も中国とモンゴルの国境に細々と生存している。 フタコブのほうは寒さに強いが暑さに弱くまた気性が荒く、駄獣としての利用に限られていた。ヒトコブは高温と乾燥に強いが寒さと湿気に弱いという、フタコブと相反する特徴がある。そのため20世紀になるまでヒトコブとフタコブの分布が重なることはほとんど無かった。ヒトコブは北アフリカ・中東、パキスタンまで分布し、フタコブはより高緯度の、コーカサスからモンゴルまでの中央アジアに分布している。 他の家畜に乏しいアラビア半島ではヒトコブラクダは非常に重宝されてており、駄獣、騎獣としてのみでなく、その肉や乳も利用できる。ただしラクダは妊娠期間が長く2年に一度しか妊娠しないので繁殖が遅く、肉獣としての利用には向いていない(あと臭くて美味しくないという話もある)。 なおヒトコブ・フタコブの両種を交配することも出来るそうだ。生まれた子供のコブは1個もしくは1個半で、ヒトコブよりも毛が長く寒さにも強く、また大きさも純血種の両親より大きくなり家畜として理想的だそうだ。ただ雑種同士の交配を続けると能力が劣るそうで(力が弱いということか?)、純血種と交配させるそうだ。トルコやイランのように高原で冬の寒さが厳しく湿気も多いところでは、こうした雑種が多く利用された。 ラクダの家畜化はアラビア半島(ヒトコブ)とカスピ海東岸(フタコブ)でほぼ同時に、しかし別々に行われたらしい。その時期は紀元前3千年紀で、この時代は地中海沿岸でオリーヴの栽培が始まったことに象徴されるように「第2次農耕革命」ともいえる時代である。第1次農耕革命が生存に必要な食料である穀物や食肉獣の家畜化が中心だったのに比べ、第2次のほうは食生活や家畜利用の幅を広げる変化だった。「革命」と名づけているが、数世代かかってようやく実現したものだろう。 乗り物としてのラクダが記録に現れるのは紀元前1千年紀になってからで、画像資料として残るのはテル・ハラフ(シリア)の浮き彫りが最古だという。アッシリアとシリアの諸侯連合軍が戦った紀元前853年のカルカル(シリア)の戦いではラクダに乗ったアラブ人の騎兵1000騎が参加している。これは間違い無くヒトコブラクである。この戦いに勝った(アッシリアの馬は驚かなかったのだろうか?)アッシリアの宮殿は北イラクにいくつかあるが、その宮殿の壁を飾った浮き彫り(紀元前7世紀)には、ラクダにまたがりアッシリア軍と戦うアラブ人の姿も表わされている。またフタコブラクダも描かれているので(バラワト門)、両種とも中近東に入ってきていたのは間違い無い。 ヘロドトスの話に出てくるラクダはおそらくフタコブラクダだろう。現在のトルコ東部はアッシリア時代にはフタコブラクダの産地として知られていたからである。ただトルコ西部にあったリュディアの馬がラクダを見て逃げ出すというからには、あまり広まっていなかったのかもしれない。のちに建設されたペルシアの首都ペルセポリス(イラン)の壁の浮き彫りには、エジプトから朝貢されたヒトコブラクダも表現されている。 フタコブラクダは中国には紀元前4世紀までには入ってきたという。唐代には西方趣味からフタコブラクダをあしらった焼き物が作られている。中国ではそれほど珍しい動物ではないのだろうか? 日本には推古天皇の時代、599年9月に百済(朝鮮半島南西部)から贈られたという記録が「日本書紀」にあり、これが最古のようだ。数年後高句麗も贈っているというが、これらは当然フタコブラクダだろう。ただしその後もラクダは日本に馴染みが無かった。 江戸時代にはオランダ商人が連れて来たが、浮世絵とかを見る限りヒトコブラクダのようだ。本来将軍への献上品だったのだが11代将軍家斉は受け取りを拒否(可愛くないからか?)、オランダ長崎商館長ヤン・コック・ブロムホフは長崎の馴染みの遊女にこのラクダのつがいを贈ったが、彼のオランダ帰国と共に香具師に売られて日本各地で見世物にされた(1823年)。首が鶴、背のコブが亀に似ているのでめでたい動物とされ、33文(現在の貨幣価値でおおよそ500円)という高額な見物料にも関わらず、見物人が押しかけて押すな押すなの大盛況だったようだ。群集の騒ぎに動じず悠然と寝たり食っているしているその姿から、鈍い人のことを「らくだ」と呼ぶようになり、落語のタイトルにもなっている。このラクダは寒さに耐えきれず北陸で斃死したという。
2005年01月29日
コメント(13)
今日は昨日・一昨日よりは暖かかったが、十分寒かった。昨日の午後に降った雪がまだところどろ残っている。 今日は午後研究室でひたすら図面描き。僕は自分で言うのもナンだが図を描くのは上手いほうではないかと思う。ただこれは線描に限った話で、絵の具を使うと途端にぐちゃぐちゃになる。ずぼらな性格でパレットや絵の具をいい加減に使うからだろう。あと人物画も苦手。得意なのはあくまで無機物、しかも「絵」ではなく「図」のみである。 さて一日遅れだが、昨日のニュースから。(引用開始) 都国籍条項訴訟:管理職受験拒否は合憲 最高裁が逆転判決 日本国籍がないことを理由に東京都の管理職試験の受験を拒否された韓国籍の都職員女性が、都に200万円の賠償などを求めた国籍条項訴訟の上告審判決が26日、最高裁大法廷(裁判長・町田顕長官)であった。判決は「受験拒否は法の下の平等を定めた憲法に反しない」と初判断を示し、都に人事政策上の幅広い裁量権を認めた。そのうえで、都に40万円の賠償を命じた東京高裁判決(97年11月)を破棄し、原告の請求を棄却する逆転判決を言い渡した。原告の敗訴が確定した。 外国人の地方公務員任用は全国で広がっているが「様子見を続けてきた自治体も多い」(都幹部)とされ、管理職登用を一切認めない都の姿勢を適法と認めた判決は全国に影響を与えそうだ。 原告は在日韓国人2世で都職員の保健師、鄭香均(チョンヒャンギュン)さん(54)。94年度の管理職選考試験で申込書を出したが受け取りを拒否され、95年度は受験申込書すら配布してもらえなかった。 判決は労働基準法が国籍による差別を禁じている点に言及し「外国人について日本国籍者と異なる扱いをするには合理的理由が必要」と述べた。 さらに都の管理職を(1)公権力を行使したり、重要な施策に関する決定やその決定に参加する者(公権力行使等公務員)と(2)公権力行使等公務員への昇任を待っている者--に分け「公権力行使等公務員に外国人が就任することは、国民主権を原理としたわが国の法体系の想定外」と述べた。 そのうえで、(1)だけでなく(2)にも外国人の任用を拒否している都の人事政策について「都の判断で行うことができる」と幅広い裁量を認め「都の人事は合理的な理由があるから、違憲でも違法でもない」と結論づけた。 判決は裁判官15人のうち12人の多数意見。弁護士出身の滝井繁男、裁判官出身の泉徳治の両裁判官は「法の下の平等に反し違憲であり、都に賠償を命じた2審は相当」などと反対意見を述べた。 東京地裁は96年5月、「外国人には憲法の保障が及ばない」と請求を棄却。東京高裁は「憲法の保障は外国人にも及び、一切の昇進の機会を奪った都の措置は違憲」と逆転判決を言い渡したため、都が上告していた。【小林直】毎日新聞 2005年1月26日 15時39分(引用終了) 僕はうかつにも、地方公務員に外国籍者(多くは在日韓国・朝鮮人だろう)を採用するところが増えているとは知らなかった。まあそれはそれでいいかな、となんとなく思ったのだが、気になったのは判決後の記者会見で原告が言ったというこの言葉だった。「哀れな国ですね。世界中に言いたい。日本には来るな、と。外国人が日本で働くことはロボットになること。人間として扱われない」 正直言ってこの言葉にはむっとしたし、こう言う事を(怒りのあまりとはいえ)公言する人が公務員なのか、と思うと薄ら寒い気もした。同時に、日本とはそんなひどい国なのか?と思った。僕が今住んでいるドイツにはトルコ系200万人を筆頭に多くの移民が住んでいるが、どういう扱いを受けているのだろうか気になった。 僕はここで大学(ドイツの大学はほぼ全て公立)の仕事をしたことがあるのだが、その契約の際に「ドイツ連邦共和国基本法(憲法)に忠誠を誓う」と宣誓させられたことを思い出した(あくまで書面上のことだが)。まあこれは公務員ではなくて補助職員のようなもので、また研究機関では通常の公務員と扱いが違うみたいだし。 なんとなくこの件が引っかかっていたので、今日昼ご飯のときに法学を専攻するドイツ人学生と食事したのを幸い、ドイツではドイツ国籍の無い人でも公務員になれるのか?と聞いてみると、「ドイツ国籍が無い者は国家・地方を問わず公務員にはなれない」ということだった。「でも公立学校の先生とかにはなれるかもしれない。トルコ系の児童・生徒って多いし」とも言う。 彼女に日本における在日の立場と、ドイツにおけるトルコ系の立場の話をしたら、法学徒として興味があるようだった。また国家統合を目指すEUがらみで、今後こうした国籍問題がどうなっていくのかというのも興味深いテーマである。 その後研究室で、研究室仲間に同じ質問をしてみた。彼は政治や社会に関心があるだけに(attacの活動家でもある)、むしろ昼の彼女よりよく知っていた。答えは明確に「否」である。国籍が無いものに公務員などお話にならない、ということだった。トルコ系の先生も多いという公立学校の先生はどうだ?と聞いてみると、「その人たちはドイツ国籍を取得しているはずだ」という。例外として、ノルトライン・ヴェストファーレン州では警官にドイツ国籍で無い者を採用することがあるらしいが、それは将来のドイツ国籍取得が採用条件になっているという。 彼に「スウェーデンとかでは外国人を公務員に採用しているようだけど?」と水を向けると「そうだろうね。だからあの国は昼間っから酒を飲む奴ばかりになるんだ」と「自由」で日本でも有名なスウェーデンに対して否定的な答えが返ってきた。断っておくが彼はトルコ系住民の多いドイツ北西部の出身で、しかも日本でいえば間違い無く人権派・左翼に属する思想の持ち主だが、公務員に関しては国籍の無い者を採用することは思いもよらないらしい。 朝日新聞が今日付の社説で、昨日の最高裁の判決を「時代遅れの判決」と酷評したそうだが、環境先進国(これは部分的には正しい)・戦後補償を完全解決(これは間違い)、そして「超国家」地域統合組織EUの中心国であるドイツは、日本よりもさらに「時代遅れ」の国ということらしい。(以下ユーロピアンさんのコメントにより訂正) ユーロピアンさんによるご指摘を受けて、ちょっと調べてみたが、僕の住むヘッセン州を始めとして多くの州では公務員採用条件として「ドイツ国籍を保持するかEU国民であること」が挙げられている。「ドイツ国籍がないとドイツでは公務員になれない」というのは誤りである。 現状ではトルコ人がドイツで公務員になれないことに変わりは無いが、トルコのEU加盟交渉をめぐる議論にこのことが関わってくる可能性もあるのだろう。付言すれば、EU諸国内の関係をそのまま日韓関係に引き移すことは出来ないと思う。(さらに追記) 上の訂正について、翌日このドイツ人に聞き質したところ、「EU国民は外国人(Ausländer)とは呼ばない」という答えが返ってきた。やはり「外国人」という単語の内容をめぐって僕の理解と齟齬があったらしい。これは新鮮な発見だった。 その場にはイタリア人もいたのだが、彼女によると「イタリア語ではそういう意識は無い」と言っていた。もっとも彼女は日本人の僕らに「あなたたちも明日の(市長選挙の)投票行くの?」と聞いてくるくらいだから(言うまでも無いが非EU国民である日本人にドイツでの参政権は無い)、あまりEU内における「外国人」のこととか考えたことの無い人だろうけど。 上にも書いたが人口8000万のドイツにはおよそ200万人のトルコ系(トルコ国内では少数民族にあたるクルド人も含む)住民が居る。彼らの多くは1950年代末から60年代にかけて、西ドイツ経済の急成長を助けるために安い労働力として招かれた「ガストアルバイター」やその子孫である(ちなみに鉱夫として日本人が西ドイツに出稼ぎに行った時代もあったそうだ。なお先日日本でも話題になったが、政治亡命のクルド人も多いのだろう)。今はガストアルバイターを新たに呼ぶ制度はもう無いが、親戚による招待などの形でトルコからドイツに出稼ぎ・移住する人は後を絶たない。 その200万人のうち、ドイツ国籍を有する者は70万人くらいだという。ドイツは国籍出生地主義、また実質的に二重国籍を認めているので日本とは単純に比較できないのだが、この数字を見る限り、在日韓国・朝鮮人同様、ドイツに居ながらドイツ国籍を取ろうとしないトルコ人も多いようだ。トルコ人は独自のコミュニティをもち、概ねイスラムという宗教を保持している。若い世代はともかく、1世やお年寄りにはドイツ文化に溶け込めない部分があるのだろうし、「いつかベンツに乗って故郷に錦を飾る」というのがそういう人たちの希望でもある。 トルコ人は飲食店や美容・芸能関係など主に実業界で活躍している。そういえば市役所や警官にトルコ系を見たことが無い。夏休みになるとお土産を満載(洒落ではなく)した在独トルコ人一家の車が陸続としてバルカン半島を南下し母国に向かう。僕らはそれに混じって陸路トルコに行っている。 在日韓国・朝鮮人と、経済的理由で自分の意志で移住した在独トルコ人の問題を一緒にするな、と言われるかもしれないが、最近は現在の在日韓国・朝鮮人のルーツは経済的目的から自発的に日本に渡った人がほとんどだったというのが定説になっていると聞いている。だとすれば在独トルコ人とよく似ているし、条件が揃っても国籍を取ろうとしない人が結構多い点も似ているように思う。ドイツはドイツ国民たるユダヤ人を迫害した過去もあるので、マイノリティとかの人権はナイーヴな問題なのだが、国籍が無い限り国政参政権も公務員資格も与えられないとはやや意外だった。 まあ「歴史問題」とかが無いぶん(といってもドイツとトルコの腐れ縁は19世紀後半から始まっているのだが)、在独トルコ人は決して第2の祖国であるドイツを憎んでは居ないと思うし(在日の人だって日本へのルサンチマンを抱えつつもどっぷり漬かっている訳だが)、「ドイツの公務員になれないのは不当だ」とトルコ人が騒いでいる話は寡聞にして知らないが。 在日韓国人(僑胞)は韓国での選挙権が無いなど国籍上の「母国」でも差別されていると聞くが、在独トルコ人はどうなのだろう。 以下は余談。僕はかねがね韓国・朝鮮人とトルコ人というのはよく似た国民性ではないかと思っている(どちらも中央アジアの騎馬民族に起源があるからだとか言うともはや眉唾の話だが)。自分自身の乏しい体験に加え、楽天とかでトルコ及び韓国に住む人の日記を読み比べるとその感を強くする。 その母国が熱狂的な民族主義であること、自国が世界に冠たる国だと(冗談でなく)思いこんでいる人が多いこと、親族・家族の絆が強いこと、性格が「熱い」ことなどである。朝鮮語で「ケンチャナンヨ」またそれとは別に「恨」と呼ばれる気質も、トルコ人には濃厚にあるように思う。韓国人の顔かたちこそ、トルコ人よりも日本人のほうが近いけど、ハートはよりトルコ人のほうに通じるのではなかろうか。
2005年01月28日
コメント(29)
いや今日はホンマ寒かった。日中でも零下だったのではなかろうか。 夕方研究室で図面を描く。無心でトレースしていると充実感があって精神的にいい。ロットリングの握り過ぎでペンだこが出来た。 とりあえず今年は既に「業績」2本が決定しているが(大した業績でもないが掲載される雑誌だけは立派)、これは去年からの繰り越しだからもう1つか2つは欲しい。まあほんとは博士論文をとっととまとめるほうが先決だが。 次の日曜日は僕の住むマールブルク市の市長選挙が予定されている。多選が禁止されているので現職のディートリッヒ・メラー市長(CDU=キリスト教民主同盟)は任期(4年?)満了に伴い引退、新人5人の争いになっているが、あまり争点も無いのでさほど盛り上がってもいないようだ。まあ僕は外国人なのでもとより参政権はないのだが。 今日から不在者投票が出来るらしく、郵便受けには「最後のお願い」のチラシがどかどか入っている。名前見れば参政権なさそうなことくらい分かりそうなもんだが、片っ端から入れてくれる。本命はCDUのルッツ・へーア氏とSPD(社民党)・緑の党の推すエゴン・ファオペル副市長らしい(ドイツの市では与党が市長、野党第一党が副市長を出す仕組みのようだ)。JUSO(SPDの下部青年団体)のチラシを見ると、PDS(民社党=旧東ドイツ共産党)のピート・メッツ候補に入れても死票になるのだからファオペルに入れろと露骨なことが書いてある。第一回投票で誰も過半数を得なかった場合、上位二人の決選投票になる。 僕の研究室仲間のDはattac(反グローバリゼーション団体)の活動家だが、attacマールブルク支部は各候補に公開質問状を出したらしい。彼によればCDUの候補は回答もいい加減なうえ、ブルシェンシャフト(右翼学生団)の支持もあって思想的に問題がある、さらにマールブルク出身ではなくケルンの出身でこことは本来全く縁が無いそうで、とても推せないそうだ(なおattacは特定政党の支持はしないとのこと)。ついでに僕にはこの候補の顔が気に入らない。 今日カールスルーエの連邦憲法裁判所(最高裁)は、「大学授業料は違憲ではない」という判決を下した。早速ハンブルク州、バーデン・ヴュルテンベルク州などCDUが政権を取っている州では授業料導入を検討しており(卒業・就職後に徴収するプール制も検討されている)、反対する学生の抗議活動も始まっている。CDUはこの判決を歓迎しているが、国際競争力強化のため大学進学率の向上を目指しているエーデルガルト・ブールマン連邦政府教育相(SPD)は、授業料導入によって進学率向上に歯止めがかかることを危惧するコメントを出している。 ドイツでは「希望するものは誰でも教育を受けられる」という建前から、戦後長らく大学の授業料は基本的にタダだった(登録料などの名目で年間1万円程度の金額は徴収されていた)。授業料の徴収は法的に禁止されていたようだ。しかし教育行政を管轄する各州の財政事情が悪化するにつれ(日本と同じく高齢化社会の問題に加え、従来の高度福祉政策が破綻しつつある)、規定以上の修業期間を超過する学生から授業料(一種の罰金というべきか)を徴収する州が増えてきた。我がヘッセン州でも、昨年から10ゼメスター(1ゼメスターは半年)以上在籍する学生から1学期500ユーロ(約7万円)程度の授業料を徴収している(なお大学院生は対象外なので僕は授業料を払っていない)。 判決理由について憲法裁判所は、授業料導入により大学教育の質を向上させうること、大学や学生自身の自助努力を促すこと、1学期500ユーロ程度の授業料ならば学生の経済生活に支障は無いことなどを挙げている。一方授業料導入反対派は「貧乏人から教育の機会を奪うネオリベラリズム・階級主義であり、戦後のドイツが目指した社会保障国家の崩壊だ」と批判している。 まあ授業料のないドイツで学生が優遇され、いきおい在学期間が他国に比べて長かったのは事実ではある。一方でそのために基礎学問の充実や堅実な研究が保障された「ドイツらしさ」があったのもまた事実だと思うのだが・・・。全般にドイツの高等教育は速成重視のアメリカ・イギリス式への変化を目指しているようだ。 2003年10月に「ユダヤ人も虐殺をした犯罪民族だった過去がある」と講演で発言し、「ホロコーストを相対化しようとした」と猛烈な批判を浴びてCDUを追放されたマルティン・ホーマン衆議院議員(無所属)の近況。メックレンブルク・フォアポンメルン州ヴィスマル地区のユンゲ・ウニオン(CDUの下部青年組織)は二月の講演会にホーマン氏を講演に招いたが、党のイメージダウンを恐れたCDU党中央が慌ててその招待取り消しに躍起となり、昨日になって取り消された。 責任を取って辞任したこの組織の代表によると「CDUのアンゲラ・メルケル党首を招待したが、多忙な上興味がなさそうだったので、ホーマン氏を呼んだだけだ」と述べている。ホーマン氏は「反セム主義とCDUの時代思潮」というタイトルの講演を行う予定だったという。ヘッセン州選出、しかもCDUを除名されたホーマン氏を招いたのが、旧東ドイツのCDU青年団体だったことに注意したい。 この取り消し措置についてホーマン議員は「私は未だにCDUに属すると思っている。しかし思想の自由は民主主義の根幹であり、若者に党上層部の耳当たりのいいことやあたり障りの無いことばかりを聞かせることの将来には危惧を覚える」とのコメントを出している。 賭けのための八百長判定疑惑の出ているサッカー主審のロベルト・ホイツァー氏(25歳)について、ドイツ・サッカー協会(DFB)はこの件の捜査を検察に委ねた。協会は同氏に辞職を迫ったが、同氏は疑惑を否定し辞職しない構えを見せ真っ向から対立している。一方「シュテルン」誌は同主審がクロアチアのマフィア組織と接触があったと報じている。 2006年のドイツでのサッカー・ワールドカップを控えての、ドイツ・サッカー協会のイメージダウンを招くスキャンダルに、同大会実行委員長であるフランツ・ベッケンバウアー氏も困惑しているそうだ。
2005年01月26日
コメント(4)
今日このページへの来訪記録(50件まで残るアクセスログ)を見てみたら、ドイツ連邦議会(Bundestag)からのアクセスがあった。ドイツの国会議員がこのページを見たのか??(まあ日本語読めないでしょうけど)。あとイスラエルからと思われるアクセスもある(テルアビブに居る僕の後輩のThucydidesさんとは別人)。先日のネオナチに関する日記が検索に引っかかったのだろうか。まあナチスを賛美することなど書いてないから問題無いのだが、ネオナチを取り締まる連邦刑事局や連邦憲法擁護庁からのアクセスがあったらやはりビビるだろうな。 歴史を扱った内容が多いから大学からのアクセスも多い。昨日は奈良国立博物館からのアクセスがあったが、先輩のあの人にもこのページが見つかってしまったのだろうか。バカなこと書いてないで論文書けといわれそうだ。あとEU新規加盟国の歴史を連載したせいか東欧(cz、hu、at)からのアクセスも時々ある。 今日ドイツを始めヨーロッパ各国では27日のアウシュヴィッツ解放60周年に先立ち記念式典が行われた。ゲルハルト・シュレーダー首相(SPD=社民党)はベルリン・ドイツ劇場での記念式典で演説したが、その内容をニュース(AFP通信)から抄訳。「ネオナチの不快な扇動に立ち向かうことは、全ての民主主義者の共同の義務である。(アウシュヴィッツで)殺害された人々には私は(羞恥のあまり)あわせる顔がない。わが国の国内に限らず、ユダヤ人市民を脅迫し傷つけ、またわが国に不名誉をもたらす反セム主義は、二度と成功させてはならない。こんにちのドイツ国民の大部分にはホロコーストに対する責任はない。しかし特別な責任を負っている。ナチス支配時代とその犯罪行為を記憶することは道義的義務である。我々は(ホロコーストの)犠牲者、生存者、その遺族のみならず、我々自身にも責任を負っているのである」 一方この式典にはアウシュヴィッツでの迫害経験者も参加しており、ノア・フルーク国際アウシュヴィッツ協会総裁が「我々生存者、そして全ての善意の人びとは、アウシュヴィッツが二度と繰り返されないよう注意しなければならない」と述べた。世界ユダヤ会議のイスラエル・ジンガー代表は「ドイツは右翼的傾向との戦いやホロコーストの記憶に特別な責任がある。ドイツはホロコーストの教訓が忘れ去られることの無いよう保障しなければならない」と強調した。 国際アウシュヴィッツ協会のクルト・ユリウス・ゴールドシュタイン名誉会長(90歳)は、ドイツでは極右の活動の自由が認められていると批判した上で、「もし我々の祖国でネオナチが大手を振って行進し、ドイツの最高裁が思想の自由を理由にそれを保護するようなことがあれば、それは我々にとって非人間的なことと言わざるを得ない」と訴え、涙ながらに「アウシュヴィッツは世界最大の墓地である」と述べた。 全然うってかわって、シリア(イスラエルの隣国)バシャール・アル・アサド大統領がロシアを4日間の予定で訪問中のニュース。ロシアのプーチン大統領と会談し、今後の軍事協力で合意したという。ただし新たな武器取引の合意はこの訪問中では話し合われず、専らシリアの対露債務支払いが議題になる予定。 シリアといえばイラクで暗躍するテロリストの潜入拠点としてアメリカに睨まれている国である。現にイラク戦争の際はアメリカ軍とシリアの国境守備隊が交戦したこともあった。アメリカは昨年9月にシリア軍のレバノンからの撤退を要求する国連決議を採択させて、さらにシリアに圧力をかけている。ただ今やアメリカの目は核開発疑惑のあるイランに向いているとの専らの評判で、シリアは首が繋がりそうだ(なおシリアとイランは友好国で、シリアも北朝鮮と同じく大統領が親子継承、しかもバアス党が与党である)。僕はイラクで手一杯?のアメリカがイランを攻撃することは無いと思うし、そう信じたいのだが(今週の「田中宇の国際ニュース解説」には言いたいことも多多あるがまたの機会に)。 ロシアはトルコへの武器売込みにも成功しているが、シリアは伝統的にロシア製兵器に頼っている。アメリカがイスラエルを支援しているのに対抗してのことで、首都ダマスカスの軍事博物館では古いロシア製兵器が多く展示されていた(あと旧宗主国フランス軍の豆戦車や、中東戦争でイスラエルから鹵獲した兵器、さらにシリア人宇宙飛行士を乗せたソ連の人工衛星の部品なども展示している)。 ロシアはドイツに対して多額の負債を抱えており(ドイツが最大の債権国)、先日ドイツと返済について話し合ったばかりだが、そのロシアがシリアやイラクに援助して多額の債権があるとは、東アジアのどこかで見たような光景ではある。 またがらりと趣の違うニュース。(引用開始) いかめしが35年連続1位 全国駅弁大会で 東京で25日まで開催された「第40回元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」(主催京王百貨店)で、北海道森町の名物駅弁「いかめし」が、35年連続で売り上げ個数1位となった。 催しは13日から始まり、全国から約200点が出品。期間中、いかめしは約6万1000個売れ、2位の「摩周の豚丼」(北海道・JR摩周駅、約2万3000個)、3位の「牛肉どまん中」(山形・JR米沢駅、約2万個)を大きく引き離した。 森町の「いかめし阿部商店」が1941年に製造・販売を始め、甘辛い味付けが人気を保ってきた。常時販売しているのは、JR森駅構内のキヨスクなど町内の数店だけ。「日本人はイカが大好きで、1個470円と安価なことも人気の要因」(同商店)という。(共同通信) - 1月25日22時24分更新(引用終了) 僕は「いかめし」を食べたことが無い。食べたい食べたいと念じつつ果たさぬままドイツに来てしまった。しかも最近になって、イカはコレステロールが多い上、肉などよりもカロリーが多いと聞いて「イカ断ち」をしている。「いかめし」を食べる機会はもうないのだろうか。まあ別にイカ断ちしなくても、他で節制すればいいんだが。ドイツでもイカは食べられるが高いし、レストランで出てくるのはイカリングばかりである(ギリシャでさえそうだった)。 ところで2位、3位の弁当知らないなあ。僕の好物の「柿の葉寿司」(奈良?)や「ますのすし」(富山)は何位くらいなのだろう。そういや「鮭はらこめし」(仙台?)も食べたいと念じつつ食べたこと無いが、イクラもコレステロールが多そうだなあ・・・。僕の故郷では「まつり寿司」というチラシ寿司が名物駅弁なのだが、僕は好きではない。
2005年01月25日
コメント(17)
今日は実に寒い日だった。 そんな寒い中、夕方映画を見に行く。この8日間で4回目の映画だ。さすがにこんなハイペースはあまり例が無い。まあ映画料金が日本の半分かそれ以下だから出来るのだが。今チャップリンの「独裁者」と「アメリ」も再上映しているのでそっちも見たいし(これらはドイツでは珍しく字幕版)、ナチスもののドイツ映画「NAPOLA」も見たいし、ハワード・ヒューズの伝記である「アヴィエイター」も見たいし、しばらくハイペースが続きそうだ。 今日見に行ったのは連続で中国映画の「2046」(ウォン・カーウァイ監督)だった。日本ではキムタクが出ているというのでそこそこ話題になっていたようだが、こっちではもちろん誰もキムタクなんて知らないので、監督のウォン・カーウァイの名前に惹かれて来るのである。観客はいかにも外国映画が好きそうな学生風の若者ばかりで、まずまずの入りだったと思う。少なくとも同じ中国映画とはいえおととい見た活劇「ラヴァーズ」の観客層とは毛色が違う。 主演の一人コン・リーはドイツでは比較的人気の高いアジアの女優だと思う(僕はあまり好みではない)。他にフェイ・ウォンとかチャン・ツィイーといった僕でも知っている中国?の女優が出ている。主人公の俳優はトニー・レオンというらしい。 この映画を見ていて思ったのだが、フェイ・ウォンって松本伊代に似ているように思う。あとチャン・ツィイーは水野真紀と篠原涼子を足して二で割った感じ(もっと似ている人がもっと若い人にきっと居るはずだが、僕には最近の日本の芸能界は分からんのです。これでも日本の研究室では「芸能部長」と言われていたのだが)。コン・リーはちょっと思いつかない。あと寅さんシリーズの「タコ社長」みたいな人が出てたのは笑った。日本人と中国人って(韓国人よりも)顔つきがよく似てるものだ。僕も二度ならずここで中国人に中国人と間違われたことがある。 見に行く前に「こういう映画は多分あんたには面白くないよ」と警告されていたので、全然期待せずに行ったのだが(あとキムタクの出番に興味があったのは否定できない)、案に相違して楽しめた。少なくとも「ラヴァーズ」よりはずっと良かった。 1960年代後半の香港を舞台とした現実世界と、主人公(トニー・レオン)が書くSF?小説「2046」の中とが交錯してちょっと判りにくいかもしれないが(だからストーリーの紹介は難しい)、問題無かった。「2046」というのは主人公が住む隣りの部屋の番号でもある。ストーリーは「主人公の女性遍歴」というと、ちょっと違うかな。 香港はとにかく「ゴージャス」ですね。僕は一生縁が無いかもしれないけど。あと随分センスがいいと思ったら(別に中国映画がセンスが悪いといいたい訳ではない)、制作段階でイギリス・フランス・ドイツのテレビ局が関わっているらしい(ドイツはZDF)。道理でヨーロッパ映画に通じるものを感じたし(少なくともアメリカ映画のノリではない)、こっちの人にもあまり違和感なく見れるわけだ。出てくるのはキムタク以外全部中国の俳優でまぎれもなく中国なのだが、どことなく無国籍な感じがするのは香港という舞台のおかげもあるかもしれない(僕は香港に行った事が無いので分からないが)。 キムタクの役は象徴的な意味もあって案外重要なのが意外だった(チョイ役くらいに思ったよ)。聞くところでは日本語の台詞らしいのだが、ドイツでは全部ドイツ語に吹きかえられている(日本語が出てくるのはキムタクの恋人役のフェイ・ウォンが日本語を練習するシーンのみ)。しかしキムタクでなければ、というよりあの役が日本人で無ければならない理由はちょっと思いつかない。香港なんだからイギリス人(ユアン・マクレガーとか)にしても良かったんじゃない?まあ白人が画面に入りこんだらこの映画の印象も変わってくるだろうし、日本重視ということなのかもしれないが。
2005年01月24日
コメント(8)
・・・・皆様こんにちは、わたくし「オシリス葬祭」営業部のランプシニトスと申します。この度はわが社のご奉仕について説明させていただきます。 人間亡くなりますと、その魂である「カア」が口から出ていってしまいます。このカアはあちこちさまようのですが決して消滅することはございません。ましてやカアは時々遺体に戻って来ることもございます。昨今野蛮なギリシャ人が遺体を焼いて灰にしたり、傲慢なペルシア人が遺体を鳥に食べさせたりしておりますがとんでもないことで、このように遺体が無くなってしまうとカアの戻る場所が無くなってしまいさまよう事になってしまいます。そんなことでは故人のあの世(イアルの野)での幸福な暮らしは望むべくもありません。そのためにご遺体はミイラとして保存しておき、時々食べ物もお供えしなければならないのです。わが国エジプトではもう数千年もそうしております。 イアルの野は一面の葦の原で、緑溢れ水量豊かなそれは素晴らしく美しい田園地帯です。故人はイアルの野で現世と同じように自給自足の悠悠自適な農耕に従事し、神々に親しく接しつつ永遠の生命を得ます。 お葬式の手順ですが、ご不幸のあった家庭の女性の方々には顔に泥を塗ってもろ肌脱ぎになっていただき胸を叩きながら大声で泣いていただきます。男性も同様です。こうして死者への哀悼を示すのです。しめやかなムードを盛り上げる泣き上手な「泣き女」もこちらでご用意させていただきます。 さて肝心のご遺体ですが、これは既に述べましたとおり腐ってなくならないよう、葬儀が終了しましたのち、専門職人の手でミイラに加工する必要があります。こちらに木製の見本模型がございますが、松竹梅3コースございます。 「松」コースの場合、鼻孔から腐りやすい脳髄を刃物や薬品で取り出し、黒曜石で腹部を切開してこれまた腐りやすい内臓を取り出します。取り出した内臓は椰子油で清め別途壷(カノプス)に収めますのでご安心ください。心臓のみは故人の記憶や精神が宿る神聖な器官ですので防腐処置ののちご遺体に戻します。内臓を取り出した腹腔には防腐のため没薬と香料(肉桂と乳香を除く)を詰めて縫い合わせ、ご遺体を天然ソーダ(ナトリウム化合物)にきっちり70日間漬けます。 こうすることで水分が抜かれて腐りやすい脂肪などは取り除かれ、肉体の保存率が良くなります。これが済みますとご遺体を取り出して洗い、亜麻布の包帯で丁寧に巻き、防腐のための蜂蜜を塗りさらに樹脂(天然ゴム)を塗りつけて真空パックして、ご親族にお引渡しということになります。ミイラを収める人型の木棺の料金もセット価格に含まれて居りますのでご安心ください。 「竹」コースの場合、内臓を取り出す過程を簡易化するため注射器で薬品を肛門から流し込んで栓をし、全身を70日間ソーダ漬けにいたします。その後栓を取りますと溶けた内臓が流れ出ます。このコースでは、包帯を巻く作業以降をご遺族にご負担していただきます。「梅」コースの場合、下剤で腸内を洗浄するだけでソーダ漬けにし、その後の作業はご遺族の負担となります。このコースの場合、ご遺体が腐る多少のリスクがございます。 先日ミイラ職人が死後間も無い美貌のご婦人の遺体に辱めを加えていたというショッキングなニュースがございましたが、わが社ではそのようなことを防止するため死後4日目以降にミイラ製作に取りかからせていただいております。なおナイル河で溺死もしくはワニに襲われた方のご遺体は神に属しますので、わが社ではお扱いいたしかねます。 気になるお値段ですが、「松」コースが銅500デベン(1デベン=91グラム)、「竹」が銅200デベン、「梅」が銅100デベンのご奉仕価格となっております。 愛するご家族とのお別れを演出し、故人の来世における永遠の暮らしを幸福なものとするために、我が「オシリス葬祭」に是非ともご用命くださいませ。 なおイアルの野での農耕作業が面倒だという方のために、故人に代わり農耕に従事させるためのウシャブティ(像)のご用命も承っております。・・・・ ・・・とまあふざけたことを書いてみたが、これはヘロドトス「歴史」巻2、85~90節に書いてある古代エジプトの葬送に関する記述をいじったものである。 価格についてはヘロドトスは書いていないので、古代エジプトで雄牛1頭が銅50デベンしたという取引記録に基き、現代日本の牛1頭(去勢牛)の平均価格40万円を基準として、松竹梅それぞれ社葬規模・参列者100人規模・40人規模の葬儀の葬儀会社による設定平均価格に換算してみた。特に日本で高価なお墓の値段を考慮していないし、まあ「お遊び」なので当時と現代の物価の違いは言いっこ無しである(なお銅の生産量が桁違いな現代では、銅1デベンはおよそ30円くらいでしかない)。なおドイツでは墓地代も含めて葬送・埋葬におよそ50万円かかるらしい。 現代の法律では遺体を埋葬せずミイラにしたら犯罪になるんだよなあ(一部の共産主義国のぞく)。そういや最近そういう宗教団体があったっけ(あれは「死んでない」と言い張っていたのだから違うか)。 なんでこういう日記を書いたかというと、以下のニュースを見たためである。(引用開始)<ミイラ発見>エジプト・カイロの遺跡で 早大研究所が発表 エジプト・カイロ近郊のダハシュール北遺跡を調査している早稲田大学エジプト学研究所は21日、約3750年前の古代エジプト中王国・第13王朝期と見られるミイラを発見したと発表した。未盗掘で、未破壊の完全な形で発見された例としては最古級という。保存状態は極めて良く、当時の墓制や宗教慣行など今後の研究に寄与しそうだ。 ミイラを納めた木棺は今月5日、地下約5メートルで見つかった。棺には「セヌウ」という男性の名前と、行政官を意味する「アチュ」という称号が書かれている。ミイラは白い布で包まれ、顔を覆うマスクには青や赤、黒など鮮やかな彩色が残っている。ミイラ自体の調査はまだだが、装身具など豊かな副葬品があるのは確実という。 ミイラや棺は副葬品目当ての盗掘で破壊された例がほとんど。しかし、今回は、棺を収めた穴の上部に岩が詰められていたことなどから発見されにくく、無事だった。 会見した同大学の吉村作治教授(エジプト考古学)は「学史上重要な墓域の変遷の解明につながる。顔料や副葬品の産地分析が進めば、他地域との交易の様子も分かるはず」と話した。 内田杉彦・明倫短期大学助教授(エジプト学)の話 保存状態のいい史料が少ない時代のものであり、貴重な発見だ。当時の宗教慣行などを知るうえで重要な手がかりになる。【栗原俊雄】(毎日新聞) - 1月21日20時23分更新(引用終了) いやはや大発見だ。あれ、コメントを求められている内田さんて、去年酒席でご一緒したなあ。吉村先生も学会でお見かけしたことがある(とても忙しそうだった)。突っ込んだ質問をした聴衆(おじさん)に「それはご自分で調査なさってください」と答えていたのが印象に残っている。早稲田の調査隊には昔テレビ番組で高橋由美子や宜保愛子が参加していたが、宜保さんはともかく高橋由美子みたいなのが参加してくれたら調査も楽しいだろうなあ・・・・。 ・・・さて、手元の本にはエジプトでミイラがいつ頃から作られ始めたのか書いてないが、乾燥したエジプトでは遺体が自然にミイラになることもあり、それを見たエジプト人が来世観と結びつけて人工的にやり始めたらしい。 ミイラ作りは最初は王の独占物で、臣民は王に仕える事で永遠の生命の分け前に与るという考え方だったらしい。ところが第6王朝の崩壊で王権が失墜した第一中間期(紀元前2145年頃~)からミイラ作りは臣下にも広まり「大衆化」していった。ミイラを作れない貧乏人は「死者の裁判」の観念を発達させ、正しい行いをすれば肉体を失ってもあの世で永遠に暮らせると信じた。 特に紀元前1千年紀に入るとミイラ作りは盛んに行われ(紀元前5世紀の人であるヘロドトスの記述は、この時代を反映している)、人間のみならず聖獣とされたワニ、トキ、猫などもミイラにされた。現在まで残り博物館に展示されているミイラのほとんどは、有名なツタンカーメン王より後の紀元前1千年紀のものである。ミイラ作りはキリスト教が広まる3世紀頃まで連綿と続けられ、特にローマ時代にはミイラの頭部に生前の肖像画を描いたマスクを載せるのが流行った。 副葬された財宝目当てのみならず、ミイラは薬(漢方薬)になるというので、アラブ時代以降は盗掘されることも多かった。 ヨーロッパ近代初期では死んだ王の心臓とかを取り出したりしているが、あれは古代エジプトの風習と何か関係するのだろうか(eugen9999さんによれば、ハプスブルク家に起源があるようです)。上にも書いたけど、共産主義国ではミイラ製作が絶対権力の象徴として今も健在ですね。歴史(上)
2005年01月23日
コメント(26)
夕方、ドイツ人のD、C及び日本人のK君と映画を見に行った。「House of flying daggers」(原題「十面埋伏」、邦題「ラヴァーズ」)、中国映画である。 中国映画を見たのは2年ぶりだが、その時もやはりチャン・イーモウ監督の「Hero(英雄)」だったし、見に行こうと言い出したのはDだった。Dはハリウッド映画や暴力的な映画は行かないというポリシーを持っているが、どういうわけだかチャン・イーモウの映画には行きたがる(チャン・イーモウはドイツでも比較的知られた監督で、若者にはファンもいる)。その彼女のCもまた暴力的な映画は一切受けつけないのだが、今日の映画がどんなものか知らずにDに連れて来られたようだ。 さて映画のほうだが、一応舞台は唐代末期(9世紀後半)の中国、反政府武闘組織と治安組織との攻防を背景に、三人の男女(チャン・ツィイー、金城武、アンディ・ラウ)の愛憎をめぐる話らしい。ところがストーリーはチャン・イーモウ作品らしくどんでん返しが多いし、しかもかなり荒唐無稽なところがあるので紹介のしようが無い。一緒に見たK君は「痴話喧嘩に唐とか反政府組織とか大袈裟な背景を付けただけ」とバッサリだったが、それも一理ある。 先に褒めておくと、映像の色彩感覚は素晴らしいし(おそらくヨーロッパと思われる森や、竹林など)、マーシャル・アーツもまあお口あんぐりのすごい出来だった(スローモーションの多用は定番とはいえ、ちょっと食傷気味かな)。「マトリクス」を最初に見たときの興奮に似たものはあった。あと僕はあまり中国の女優とかに知識も関心もないのだが、チャン・ツィイーはどちらかといえば好みだな。 ところが映画の中身のほうはかなり???である。事前に思ったより露骨な流血シーンが多くてCは辟易しているだろうなあ、と思いながら見ていた。最後の大流血のシーンなんかタランティーノの「キル・ビル」を思い出してしまった。 あとドイツ人と中国人(日本人も?)とではこの映画への感受性がかなり違うらしい。「おいそこ泣くところだろ」「おいそこ感動するところだぞ」というところでドイツ人の観客は笑うのである。ラブシーン見て笑うとはどういうことだ。感じ悪い。館内のドイツ人の反応を見ているほうがこちらとしては面白かった。 最前列に座っているガラの悪いドイツ人たちがさかんに「ガイル!」(すげえ!)、「クール!」(かっちょいー!)と連発していたが(うるさいんだよ)、連中にはこの映画は悲劇ではなくコミックのようなものらしい。まああまりに荒唐無稽で笑うしかないシーンも多かったが。最後のほうの主人公三人の死闘のシーンでは、倒れては甦りなかなか死なないヒロインには観客たちは悲しむというより笑っていた。 映画が終わって一緒に見たドイツ人二人に感想を聞いた。Dは「大袈裟過ぎて可笑しい。でもダメ」、Cは「前に中国映画を見てもう二度と見ないと思ったけど、今回もそう思った」とのことだった。僕は単純にアクション映画として楽しめたが、暴力的なのやわざとらしいのが嫌いなこの二人にチャン・イーモウの映画が合うわけもなく、選択を誤ったというべきだろう。 その後飲んで帰ったが、駅前のバス停でトルコ人同士と思われる喧嘩の現場に出くわす。 誰かが通報したのかパトカーが2台駆けつけたが、降りてきた警官がベージュのズボンに革ジャン、防弾チョッキの屈強そうな男二人組で、しかも髪を短く刈っていてまるでネオナチに見えてしまった。ああいうのにはお世話になりたくない。
2005年01月22日
コメント(6)
今日は昼間は晴れていたのに、夕方になって昨日のような雨模様になった。おかげで川も増水している。今年の冬は全般に暖冬である。 ドイツ極右の政治組織というと、NPD(ドイツ国家民主党)とDVP(ドイツ国民連合)がある。ドイツの選挙制度にはナチスの台頭を許したワイマール共和制時代への反省から、小党乱立を防ぐための「5%条項」というのがあって(得票率5%以下の政党は議席を貰えず、その得票は上位党に分配される)、この両党が国政の場に議席を確保することは防がれてきた。また現在のシュレーダー政権は2002年にNPDを非合法化する法案を提出しようとしたが、憲法違反のおそれもあったので見合わせた経緯もある。 しかし昨年の旧東ドイツ2州(ザクセン及びザクセン・アンハルト)での地方議会選挙では、失業率の高さ(2割近く)や「二等国民」という差別(賃金格差)に起因する極右への支持、さらにシュレーダー政権の保険削減に対する不満を吸収する形でこの両党が躍進、5%条項を突破し議席を得た。対立していたこの極右両党はつい先日選挙協力を約し、2006年の国会選挙での議席獲得を目指すと発表したばかりである。 今年は終戦60年ということで第2次世界大戦に関する行事が多いが、今日ザクセン州議会の会場を、12議席をもつNPD議員が騒然とさせる出来事が起きた。 エーリッヒ・イルトゲン議長(CDU=キリスト教民主同盟)は、今日で議会が休会に入るため、休会中に控えているるアウシュヴィッツ強制収容所解放60周年(1月27日)、ドレスデン大空襲60周年(2月13日)を前に、開会に際してナチスの犯罪行為による犠牲者に黙祷をささげることを提案した。ところがNPDはドレスデン空襲の犠牲者にのみ黙祷を捧げることを主張、議長に申し入れを行った。議長はこれを退け黙祷が行われたが、12人のNPD議員はその際に一時議場を去った。 その後ドイツの過去に関する演説が行われたが、NPDのホルガー・アプフェル州幹事長はその演説で「ドレスデン空襲の犠牲者数は非常に厳密に数えられているが、その他の犠牲者の場合はそのように些細さは無く、ゼロが1つ抜けても気にしない」と、皮肉を込めて犠牲者数のはっきりしないホロコーストを暗に指す発言を行った。またドイツ敗戦の日(1945年5月8日)を「偽りのドイツ解放の日」と呼んだ。 アプフェル議員がさらに「ドレスデン空襲は1933年以降のナチス支配とは関わりの無いところで行われた、イギリス・アメリカのギャング犯罪者による冷血な産業的大量殺人で、爆弾によるホロコーストと言ってもよい」と叫んだところで、イルトゲン議長は制限時間超過を理由に同議員のマイクの電源を切らせた。 続いて登壇した、ドレスデン大空襲の体験者でもあるSPD(社民党)州幹事長のコルネリウス・ヴァイス議員は演説の中で「このようなゲッベルス宣伝相を思わせるような憎悪を煽る演説の後で話すのは困難なことだ。全ての民主的政党はこのことを悲しみ、記憶に留め、またこのようなことが二度と繰り返されないよう神に祈るだろう」と述べ、またドレスデン大空襲は、1933年のナチス政権掌握、焚書による思想弾圧、1938年のユダヤ人大迫害事件である「水晶の夜」、そしてゲルニカ(スペイン)やコヴェントリー(イギリス)に対するドイツの無差別爆撃の延長上にあることを忘れるべきではない、と強調した。 ヴァイス議員はさらに「恐怖は破滅へと導く。炎は最後には放火者自らの国にも及ぶ。ドイツの都市は次から次へと連合国の爆撃の犠牲となり、ドレスデンも最悪の形でそうなった。眩惑された国民は最後にはその責任を取らされたのだ」と続け、復讐主義を警告したうえで「(放火のための)たいまつを取ろうとする者を押さえ込まねばならない」と締めくくった。NPDを除く全ての政党(CDU、SPD、PDS、FDP、緑の党)の議員は、ヴァイス議員に対し起立して数分間に及ぶ拍手を送ったという。 審議進行妨害を理由に議会ははNPDに対する懲罰を検討しており、またPDS(民社党=旧東ドイツ共産党)はNPDの結社禁止法案の提出を検討している。一方ザクセン州検察庁はアプフェル議員他一名に対し国民扇動罪(日本の破防法のようなものか)容疑で捜査することを検討している。 一方2月13日には全国のネオナチ5000人がドレスデンに集結し、州議会の前を行進する事を検討しているという(もっとも、ネオナチ集会には必ずそれに数倍する人数の反ネオナチの集会がすぐ傍で行われることが多い)。 ドイツに来たばかりの頃、日本の知り合いたちに「ドイツに居てネオナチとか大丈夫なのか」とよく聞かれたが、僕はネオナチに遭遇したことは一度も無い。一方旧東ドイツ出身の学生に「俺の故郷はネオナチばかりだぜ」とおどかされたことがある(彼自身は共産党の支持者だった)。東にはあまり行ったことは無いが(ドレスデンとマイセンくらい)、普通に町を歩いていていきなりネオナチに襲われるということは無いので、誤解の無いように。 ただ反ナチス教育が徹底していた西側と、「ナチスのみならず資本主義も敵」という教育を行っていた共産党独裁政権が崩壊してしまい、その偽善が白日の下にさらされた東側とでは、歴史認識にも違いがあるのだろう。高い失業率や一向によくならない東ドイツの経済状況もそれに拍車をかけているようだ。 ただし、連合国の都市爆撃がいかに冷酷であったかは、最近ドイツの保守系マスコミもよく取り上げるようになった。日本ではむしろ革新系の反戦運動のほうで原爆や東京大空襲の悲劇がよく取り上げられ海外にもアピールするが、自国の戦争被害をアピールするのはドイツではナチスの罪悪を相対化しようとする極右のすることとされている。
2005年01月21日
コメント(6)
いつの間に雪が降ったのか午前中は道端に雪が積もっていたが、午後には全部溶けてしまった。 日記全文が表示されてページがでろーんと長く表示されていたのだが、原因を突き止め修正。メンテナンスか新機能追加のせいか知らないがいじくりまわしてぐちゃぐちゃにするのは勘弁して欲しい(以前には非公開日記が機能追加の変更の影響で公開されてしまったこともあったそうだ。僕は非公開日記は書いてないので関係無いが)。 先日韓国政府が1965年の日韓基本条約の議事録を公開し、個人補償に反対したのは他ならぬ韓国政府で、法的に個人補償の義務があるのは韓国政府だということが明らかになった。韓国側では「(もはや理屈ではなく)道義的責任から日本はさらに補償すべきだ」「条約を解消して締結しなおせ」という声もあがっているようだが。 どういう偶然か知らないが、今年はドイツ・イスラエルの国交樹立40周年でもある。まあ日韓関係とドイツ・イスラエル関係を同列に扱うことには抵抗感があるが(日本は韓国・朝鮮人の「最終的解決」=絶滅など目指していなかった)、戦後補償をめぐる問題があったので一応「似ている」としておこう。 ドイツからは今月末にホルスト・ケーラー大統領がイスラエルを訪問し、国会(クネセト)で記念演説することになっているのだが、一部の国会議員からこの大統領演説に対し抗議の声が上がってちょっとした問題になっているようだ。 イスラエル紙「マアリヴ」が月曜に報じたところでは、与党リクードのダニー・ナヴェー保健相は「ホロコーストの生存者が生きている限り、イスラエルの国会でドイツ語が話されることは許しがたい」と同紙に述べた。またクネセトのへミ・ドロン副議長は「ドイツ語がイスラエル国会で響き渡ることなど考えられない」と、国会議長に対しケーラー大統領がドイツ語で演説することを禁じ、英語で演説するよう求めたという。またケーラー大統領がドイツ語で演説する場合はボイコットを呼びかける動きもある。 続報によればルーヴェン・リヴリン議長は「ドイツはイスラエルの友好国であり、その大統領が母語で話すことを禁じることなど有り得ない」と、これらの要求を拒否したという。2000年2月に当時のヨハンネス・ラウ大統領がイスラエルを訪問した際にドイツ大統領として初めてイスラエル国会で演説しホロコーストについて謝罪したのだが、その時ラウ大統領はドイツ語で演説し、また歓迎されているという。ただ抗議してボイコットした議員はいたようだ。 在独ユダヤ人協会のパウル・シュピーゲル事務局長は「南ドイツ新聞」の取材に対し「どの言語で演説するかは大統領の裁量に任される」としながらも、「もしドイツ語を聞くに耐えられないという国会議員が居るのならば、その感情は理解されるべきだ」と述べている。 一方ワルシャワ・ゲットーでの迫害経験者である文芸評論家マルセル・ライヒ・ライニッキ氏は「フランクフルター・アルゲマイネ」(火曜日付)とのインタビューで、「このような要求が出てくるのは恥ずべきことだ」と批判し、「ドイツ語すなわちナチスの言語という考え方はばかげている」として、アインシュタイン、フロイト、マルクス、カフカ、シェーンベルクといったドイツ語を話したユダヤ人の業績や、シオニズム運動を率いてユダヤ人国家を提唱したテオドール・ヘルツルはドイツ語をその国家の国語に考えていたことを挙げた。同氏はまた「このような議論はイスラエルに今育ちつつある世代には無く、やがて無くなるだろう。そしてそれは喜ばしいことだ」と述べている。 ユダヤ系ドイツ人である両氏以外の意見は報じられておらず、ケーラー大統領が何語で演説するかは不明。IMF専務理事だったケーラー大統領ならば、英語での演説に語学力上の問題は全く無いが。 様々なホロコーストを扱った映画とかを見ると、がなりたてるドイツ兵が叫ぶドイツ語が出てくる。それは醜く恐ろしいものに聞こえる。死の恐怖と隣り合わせで毎日を過ごしたホロコースト経験者が「ドイツ語は二度と聞きたくない」というのも理解できる(所詮理解したつもりなだけなのだろうが)。 しかしいくらなんでも一部国会議員の今回の要求は行き過ぎではないだろうか。外交慣例にも反するし、全く前向きではないように思う。 ついでにドイツとイスラエルの国交樹立について簡単に調べてみる。 戦後の戦勝国による占領を経て主権を回復した西ドイツ(ドイツ連邦共和国)政府は、1953年にイスラエルとの間でナチスのユダヤ人迫害に対する補償に関するルクセンブルク協定を結び、在イスラエルのユダヤ人に対し30億ドル、また他地域のユダヤ人に対しユダヤ人協会を通じ4億ドルの個人補償を約束した(この協定には与党キリスト教民主同盟はじめドイツ国内の反対が大きく、批准は国会で辛うじて可決した)。この協定締結の背景には、過去の克服への姿勢を示すことで、当時交渉中だったアメリカからの経済援助をさらに引き出す思惑もあったという(アデナウアー首相の書簡にも書かれている)。(イスラエルとの協定とは別に、ドイツ国内に居住するもしくはしたことのあるユダヤ人被害者に対しては同年連邦補償法、1957年に連邦返済法を制定、さらに各国とのナチス犯罪被害者救済協定、さらに1992年のユダヤ人協会との合意による過酷緩和措置などの立法でドイツ政府は合計800億マルク以上をユダヤ人個人に支払っており、給付は現在も続いている。なおドイツ政府が一時消滅し、かつ冷戦構造下で東西分裂したため戦勝国との包括的な平和条約は締結されず、国家間賠償は現在に至るまで行われていない。「賠償」という言葉は戦争当事国間で使われるものであって、たとえば日韓間やドイツ・イスラエル間の問題では用いられないそうだ) 第2次中東戦争後の1960年、ドイツのコンラート・アデナウアー首相とイスラエルのダヴィッド・ベングリオン首相はニューヨークで会談し、ドイツによる対イスラエル経済・軍事支援を約した。建国から10年あまりのイスラエルは、独立から続いている周辺アラブ諸国との戦争に備えるための軍事費や貿易赤字に苦しんでいた。イスラエルは1962年には貿易保護関税を撤廃し、フランスを中心とするEEC(ヨーロッパ経済共同体)との協定で対欧接近を図った。当時イスラエルの核開発などを巡り最大の支援国アメリカとの関係が冷却化していたことも関係するのだろう(当時アメリカはアイルランド系のケネディ大統領だったが、ベングリオン首相は「カトリックがホワイトハウスに入るとろくなことが無い」とこぼしていたという。一方フランスはイスラエルと共同で核開発を進めていた)。 1963年、ヨルダン川の水資源利用を巡りアラブ諸国とイスラエル関係は再び緊張した。ドイツは秘密裏にイスラエルに武器援助を行い、続いて1965年5月、ドイツのルートヴィヒ・エアハルト首相とイスラエルのレヴィ・エシュコル首相との間で国交が樹立されている。国交樹立のための秘密軍事援助とみてよいだろう。イスラエル国民の多くはドイツとの国交樹立に反対していた。 イスラエルと敵対する、エジプトを始めとするアラブ諸国10ヶ国はこれに抗議して西ドイツとの国交を断絶、エジプトは西ドイツへのあてつけとして東ドイツのヴァルター・ウルブリヒト国家評議会議長を招待している(当時西ドイツは、東ドイツを国家承認した国と断交する「ハルシュタイン・ドクトリン」を採っていた)。なお東ドイツは「ナチスの過去とは無関係」という立場をとっていた上、イスラエルとの国交を樹立しなかったので、ユダヤ人に対する補償は行っていない。
2005年01月19日
コメント(12)
阪神大震災からもう10年か。長いようで経ってみると早いものだ。 研究室仲間のドイツ人を公開中の映画「アレクサンダー」に誘ったのだが「長いしああいうハリウッドものは見たくないよ」と断られてしまった。前に言ってたのと違うぢゃ無いか。ということで一人で行こうと思っていたらK君も行くと言い出したので、二人で見に行った。 この映画はとにかく長いし、予告編を見る限り主演のコリン・ファレルはミスキャストのように思えたし、またあまりいい評判を聞いていなかったので全然期待していなかったのだが、まあ思ったよりは良かったと思う。 特に考証面は去年の映画「トロイ」に比べれば格段に優れている。まあアケメネス朝ペルシア時代ともなると資料が増えるから復元もしやすいのだろう。スペクタクルなガウガメラの戦いやインド象との戦いもまあすごいと思った。最近の傾向らしく描写が非常に血なまぐさく、そういうのが嫌いな方には全くお勧めできない。 あと戦場が現在のイラクやアフガニスタンで、しかも合戦の前にアレクサンドロスが「自由の為に!」などと演説するシーンがあるのだが、否応無く今のアメリカを連想してしまう。「ヨーロッパ」が「アジア」を征服するという話なので「オリエンタリズム」満点な場面もあるし。 アレクサンドロス役のコリン・ファレル、その母オリュンピアス役のアンジェリーナ・ジョリーは熱演だとは思うのだが、僕はもっと品のいい人を据えて欲しかった。それとこの二人及び父親のフィリッポス2世(ヴァル・キルマー)以外は性格付けが説明的に過ぎて決定的に弱く、あまり感情移入できない。アレクサンドロスもただの戦争気違いに見えるよ(実際そうだったのかもしれないが)。 2時間半のドラマにアレクサンドロスの短い(33年)ながら怒涛の生涯を詰め込むのは難しいのは分かるのだが、おホモだちとして描かれるへファイスティオンや妃のロクサネとの絡みは必要だったのだろうか?と思う。ゴルディオンでの逸話(Gordian Knot)やイッソスの戦いが省略されたり、乳兄弟のクレイトスの扱いが小さいのが意外だった。アンソニー・ホプキンスがアレクサンドロスの学友・護衛隊長でのちにエジプト王となってアレクサンドロスの伝記を残したプトレマイオス(=女王クレオパトラの祖先)の老年時代役で出演しており、キャストはまずまず豪華である。 関連年表を載せておく(年号は全て紀元前)。・356年 アレクサンドロス、マケドニア(現ギリシャ北部)王フィリッポス2世と王妃オリュンピアスの長子として誕生・343年 哲学者アリストテレス、アレクサンドロスの家庭教師に招かれる(~340年)・337年 フィリッポス、コリント同盟を組織し全ギリシャを支配下に置く。対ペルシア遠征を開始・336年 フィリッポス暗殺される。アレクサンドロス(3世)即位・335年 反旗を翻したテーベを破壊し市民を虐殺・奴隷化する・334年5月 歩兵4万、騎兵6千を以ってダーダネルス海峡を渡りペルシアに侵攻、グラニコス川(トルコ)の戦いでペルシア軍を破る。ハリカルナッソスを攻略・333年11月 親征してきたペルシア王ダレイオス3世の大軍をイッソス(トルコ)で破る。シリア・フェニキア・エジプトを攻略・331年 エジプトのシワ・オアシスのゼウス=アムモン神殿で神官に「神の子」と呼びかけられる・同年10月1日 ガウガメラ(イラク)の戦いでダレイオスの大軍を撃破。ダレイオスは逃亡。バビロン(イラク)に入城しアジア王を名乗る・330年 ダレイオス、バクトリア総督ベッソスの裏切りにあい殺害される。アケメネス朝滅亡。アレクサンドロスは復仇を宣言しベッソスを追討、イランに入る・329年 イラン東部を攻略しベッソスを処刑。中央アジアに侵攻しヤクサルテス川(=シル・ダリヤ。カザフスタン)を越える・328年 ソグディアナ平定に苦戦。ソグド諸侯の娘ロクサネと結婚し東方化政策を開始、ペルシア式の拝跪礼を導入・327年 東方化政策にマケドニア人が反発、陰謀が発覚し将軍パルメニオンらを処刑。「世界の果て」を目指しインド遠征を開始。酒宴で口論となった乳兄弟クレイトスを殺害・326年 ヒュダスぺス川(パキスタン)の戦いでインド王ポロスの戦象隊を破る。インダス河に到達。兵士が前進を拒み、ヒュファスシス川(=サトレジ川。パキスタン)で反転する・324年 スーサ(イラン)に帰還。マケドニア人とペルシア人の集団結婚式挙行、彼自身はダレイオス3世の娘スタテイラと結婚。オピス(イラク)でマケドニア兵の騒擾。ペルシア系総督を大量粛清・323年6月13日 バビロンにて急死、享年33歳。精神障害のあった異母弟フィリッポス3世が即位する。プトレマイオス、エジプト総督になる。ロクサネ、スタテイラを殺害・321年 帝国の実権をめぐり親族・将軍たちの内紛が勃発、分裂状態に・317年 王太后オリュンピアス、フィリッポス3世を殺害・316年 マケドニア総督カッサンドロス(フィリッポス2世の娘婿)、オリュンピアスを処刑・310年 カッサンドロス、ロクサネと王子アレクサンドロス4世(13歳。アレクサンドロスの死後に誕生)を処刑、アレクサンドロスの血筋が絶える・304年 プトレマイオス、エジプト王に即位・283年 プトレマイオス没する(73歳) ヴァル・キルマー演じる父親フィリッポス2世(戦闘で片目を失ったという)は粗暴な人物に描かれているが、弱冠20歳でマケドニア王となり戦争に明け暮れたアレクサンドロスの業績の半ばは、フィリッポスに帰すべきではないかと思う。一代で辺境の弱小国だったマケドニアで経済的(貨幣発行、鉱山開発・都市建設・干拓・開拓)・社会的(人材登用・軍制改革)な大改革を断行し、全ギリシャの覇権を握ったフィリッポスの手腕は尋常ではない。既に古代からアレクサンドロスとは不仲説が取り沙汰されているが、仲は良かったのではないかと思う。 それを示すのは、ギリシャ北部のヴェルギナで発見されたフィリッポスの墓である。地下式の墓室には豪華な金の矢筒や青銅の武器・容器、銀製の水差し、そしてフィリッポス自身やアレクサンドロスを表現したと見られる小さい象牙の頭部像が副葬されていた(出土品はテッサロニキ博物館に展示されている)。フィリッポス自身の骨も見つかっている。死後の世界に関心が薄かったのか古代ギリシャの墓は全般に質素だが、フィリッポスのそれは最も華麗といっていい。ちなみにアレクサンドロスの墓所はエジプトにあるというが、未だ見つかっていない。 アレクサンドロスが率いてペルシアの大軍を破った軍隊もフィリッポスが育成したもので、マケドニア軍の中核はぺゼタイロイと言われた歩兵とヘタイロイと言われた騎兵である。アレクサンドロスの作戦指導が優秀だとしても、父の育成した軍隊なしではあの短期間での成功はあり得なかっただろう。 ぺゼタイロイはギリシャ都市国家の市民軍によるファランクス(重装歩兵による密集陣形)にヒントを得たもので、長さ5m以上(ファランクスでは通常2m程度)の長槍と小型の楯で武装し、密集陣形で槍衾を作って敵に向かう。前4列の兵士は槍を倒して前に向けて敵をアウトレンジで攻撃し、後ろの列では槍を立てて、前の兵士が倒されたときに入れ替わるように備えている。この戦法を実行するには集団訓練が必要で、一種の職業軍人制度ともいえる。はるか後年、16世紀後半の日本では織田信長の槍足軽がやはり長槍を使用しまた兵農分離・兵士の職業化が進むが、それに似ている。馬上での弓射を主とするペルシア兵は全般に軽装かつ統制が取りにくく、重装備のギリシア・マケドニア兵の密集陣形に歯が立たなかった(今日の映画ではその辺はよく描けていた)。 ヘタイロイは貴族層からなるエリート騎兵部隊で、戦場の局面に応じて臨機応変に投入され敵への最大の打撃力となった。ただし当時の乗馬術では鞍もあぶみも無かったので(そのため少年時代から騎馬に慣れた貴族層に限られた)、走行しながら槍で突くのは不可能であり(衝撃で落馬する)、馬を止めて突いたか下馬して戦った。山がちのギリシャでは騎兵は重視されなかったが、より北方の平原地帯であるマケドニアでは、北方の騎馬民族トラキア人から騎馬術を習ったことは疑い無い。 ギリシャ文化がアジアに影響を与えたという「ヘレニズム」はアレクサンドロスの東征が契機だったという。しかしそれは一面でしかない。確かに中央アジアにまでギリシャ文化が及びまたギリシャ人の東方への大量移住を促進したが、ギリシャ文化の東方への影響はアレクサンドロスに始まったことではない。ペルシアの首都ペルセポリスやパサルガダエは紀元前6世紀に建設されているが、そこにはギリシャ美術や建築の手法が見られるという。また遅くとも紀元前4世紀初めには、シリアやアナトリア(小アジア)の少なくとも沿岸部では、ギリシャ風の美術品が登場しかなり浸透していたことが窺える。 その背景として考えられるのは、多くのギリシャ人がアジアに渡っていることがあるだろう。土地が痩せ狭隘なギリシャでは経済発展で増える人口を養いきれず、傭兵や労働者として、経済力のあるペルシアやエジプトに大量に雇われていた。近代のスイス傭兵と通じるものがあるが、ギリシャ人は最強の傭兵という定評があり、エジプト王やペルシアの王子キュロスはペルシアの大王に対して叛乱を起こす際ギリシャ傭兵に頼っている。何よりもアレクサンドロスと戦ったダレイオス3世の軍隊の中には、万単位のギリシア傭兵が居た。 ギリシャ人は自分たちの文化に誇りを持っていた。そういうと聞こえはいいが、要するに不寛容ということであり妥協性に欠けるとも言える。ギリシャ人がアジア人を「バルバロイ」と蔑称で呼んだ裏返しに、通商の盛んだったコスモポリタンの中近東人から見ればギリシャ人は辺境の田舎者で、世間知らずの田舎者が自分たちの流儀を押し通したのがヘレニズムと言えなくも無い。まあギリシャ文化の偉大さは認めざるを得ないし、現に中東の人々はそれを受け入れたのだが。 一方ギリシャ文化の中のオリエント(中近東)伝来要素は最近飛躍的に研究が進んできており、無視しがたいものがある。 アレクサンドロスの成功はもちろん軍事力の凌駕や彼の天才も預かって大きいだろう。しかし征服されたペルシア・中東の側から見れば、200年の統一を保っていた帝国は紀元前4世紀半ばから総督達の叛乱で分裂の危機に瀕しており、マケドニアはそこに上手くつけこんだとも言える。マケドニアが征服しなくとも、アケメネス朝ペルシアが何らかの形でいくつかの地方政権に分裂した公算は大きい。 むしろ「辺境からの簒奪者」アレクサンドロスをもって、古代中近東の統一王朝であるペルシア帝国の最後の大王と見るほうが正しいかもしれない(現にイランではアレクサンドロスは「イスケンデル」と呼ばれ正式なペルシア王の一人とされている。また彼がダレイオスの娘と結婚したのは、アケメネス朝継承の正当性を強調する必要からだろう)。アレクサンドロスの死後彼の帝国は四分五裂しているが、これは将軍たちの私利私欲ばかりが原因ではなく、中東文明の分裂傾向は征服者たるマケドニア人にも止めることは出来なかったのだろう。 アレクサンドロスの記憶はローマ帝国に引き継がれたが、5世紀の西ローマ帝国の滅亡と共にむしろ中東や東ローマ帝国(その大部分は中東に属する)で生き続けた。ヨーロッパ人がルネサンスの時代にギリシャ人を自分たちの理念上の先祖と決め、またアジアを含む全世界を植民地化したとき、中東の大王イスケンデルは、ギリシャ=ヨーロッパ文明の宣布者・オリエンタリズムの体現者アレクサンドロスとしての役割を担わされたといえる。
2005年01月17日
コメント(12)
今日は非常にいい天気だったが(放射冷却のせいかとても寒い日だった)、特に外出しなかった。 夕方お誘いを受けて映画を見に行く。今日の日記のタイトル「Ray」である。昨年6月に73歳で亡くなったレイ・チャールズ(本名レイ・チャールズ・ロビンソン)の半生を描いた伝記映画である。 レイ・チャールズの曲はいくつか知っているし、嫌いではない(僕はビリー・ジョエルとのデュエットから入ったクチだが)。ただ彼のCDを買うほどのファンでもない。 この映画はレイ・チャールズ(以下面倒なのでレイと省略)の生前から企画されていた。監督はレイと長い交流があった人のようだし、レイを演じたジェイミー・フォックスはレイじきじきの指名だたという。映画の完成を見ることなくレイは逝ってしまったのだが。これはいわばレイのチェックを受けている映画なのだが、彼を美化するところは微塵も無い。過去の愛人問題やヘロインに溺れた前歴も驚くほど率直に描かれている。 しかしながら、正直言って中盤(レイがミュージシャンして成功してから)以降はかなりダレてしまった印象は拭えない。一代で成功を収めた会社社長がよく自費出版で自分の自叙伝とかを出版したりするが、その手の本を読まされている気分がした。こんな苦難(彼の場合は苦難というよりむしろ自業自得のところがあるのだが)を乗り越えたんです、と声高に叫ぶ臭みがある。 あと不満があるとすれば、レイの音楽のルーツがさらっとしか描かれておらず、彼は最初から天才という特別な存在として登場していることである。少年時代に弟を失ったり緑内障で視力を失ったエピソードは描かれているのに、肝心の音楽との出会い(ゴスペルやナット・キング・コールやチャールズ・ブラウンなど)が省略されているのはむしろ不自然な感じがした。 ただ、レイ・チャールズやソウル、R&B(リズム・アンド・ブルース)のファンは必見の映画だと思う(僕はレイよりはナット・キング・コールのほうが好みなのだが)。演じるジェイミー・フックスもレイが憑り移ったかのような演技だった。レイの仕草とか見てるとなんとなく井上陽水を連想したんですがね。陽水もレイに影響を受けた人なのだろうか。この映画にはレイの手ほどきを受けたクインシー・ジョーンズ(「愛のコリーダ」とかが有名ですかね。もちろん本人出演ではない)も出てきます。 レイの代表作は「我が心のジョージア(Georgia on my mind)」だが(彼自身ジョージアの出身。盲学校はフロリダだったのでフロリダ暮らしのほうが長かったのだろうが)、彼は1961年に人種差別から黒人と白人の座席を分離した彼のコンサートを拒否したためジョージア州ににらまれ、州立ち入り禁止の措置を受けた。ジョージア州は1979年にレイに公式に謝罪し、「我が心のジョージア」はジョージア州の州歌に制定された。イラクなどをめぐっていろいろ批判されるアメリカだが、もし将来があるとすれば、こうした懐の深さこそそれではないかと思う。 ナット・キング・コールやチャールズ・ブラウンの物真似に過ぎなかったレイにオリジナリティを持たせたのは、トルコ系のプロデューサーであるアフメット・エルテギュンであるというのは初めて知った。トルコ系はアメリカではあまり目立つほうではないが、アメリカ芸能界とかでの活躍もあったのは、今のトルコ人を見ているとむしろ意外だった。turkuvazさんの日記で、ボブ・ディランが実はトルコ系移民の子孫であると初めて知ったのだが(Kirgizという苗字で、トルコ東部出身。ただしボブ・ディランの本名はロバート・ジマーマン、ドイツ語だとツィンマーマンで、ロシアでのポグロムから逃れてきたドイツ系ユダヤ人であり、彼自身シャヴタイ・ベン・アブラハムというユダヤ名もあるそうだ。先祖の中にトルコ系が居るといった程度か)、少なくとも20世紀初めのトルコ人はそういう柔軟さを持ち合わせていたのだなあ、と思う。(追記:海外の各界、特に文化・芸能で目立たないところで活躍するトルコ人は多いようだ。ドイツでは映画界での活躍が著しい。ヴァリエーションが豊富とは言い難い現代トルコ歌謡曲の印象をそのまま書いてしまった)
2005年01月16日
コメント(6)
なんか紛らわしいタイトルだが、ここでいう「メディア」は「マス・メディア」のメディアではない(つまりハーストとかハワード・ヒューズとかベルルスコーニとか、ましてや「エビジョンイル」やナベツネの話ではない)。紀元前にイランに居た民族およびその国の名前である。 「マス・メディア」の「メディア」はラテン語で「中間」を意味するmediumの複数形で、イラン山岳部に居て元来「マーダ」と呼ばれたメディア人とは関係ない。まあここ数日のメディアをめぐる議論からメディア王国を連想したというのと、今ちょうどメディア(イランのほうの)について調べ物をしているので、メモのつもりで書く。 今まで何度か書いてきた「ヘロドトス「歴史」を読む」の続きでもある。王妃の裸を覗き見したのをきっかけに王になったリュディア王ギュゲスについて以前書いたが(「のぞきをして王になった男」。リュディアは現在のトルコ西部にあった王国)、今回の即位伝説はやや趣が異なる。 メディア人というのはイラン高原に居た民族で、紀元前1000年頃までにイラン高原にやってきたインド・ヨーロッパ語族の一派である。言語的にはペルシア語に近いようだし、「イラン系」ということで総称される中に含まれることもある。 ヘロドトス「歴史」の第1巻では、紀元前500年以降数度に渡ってギリシャに攻めこんできたペルシア人が、いかにしてアジア(中近東)の覇権を握ったかということが述べられるが、メディアの説明はそこで出てくる。ペルシア人以前にはアッシリア(今のイラク北部)人が「上アジア」、つまり小アジアより東のアジアの覇権を520年にわたり握っていたが、その支配はメディア人の離反で崩壊した、と記している。以下ヘロドトスの記述を引用する(松平千秋訳の岩波文庫版を利用)。 ・・・メディア人はそれぞれ集落を作って生活しており、国家というものがなく不法行為がはびこっていた(ヘロドトスは詳しくは書いていないが、無法状態・弱肉強食ということだろうか)。 さてメディア人にデイオケスという男が居た。彼は独裁者になることを夢見て、上のようなメディアの状況に鑑みて周囲と逆に正義を守ることに精励したという。もともとデイオケスは自分の集落では名望があったが、その名望を他の集落にも及ぼそうと努力した。 人々はデイオケスが正義の人だというので彼を裁判官に選んだ。デイオケスはますます正直・公正に振るまい、彼の評判はメディア中で高まった。よその集落からもわざわざデイオケスに裁いてもらおうとやって来る者が増えた。ついにはメディア人たちはデイオケス以外の裁きを受けたがらなくなった。 頃は良し、と見たデイオケスは、「もう自分は裁判の椅子には座りたくない、自分のことを放擲して隣人のために日がな裁判をしても何の得も無いから、もう裁きはしない」と宣言して引っ込んでしまう。たちまちどの集落でも無法状態が復活し、メディア人たちは困ってしまった。 メディア人たちは集会を開いて善後策を協議したが、そのうちの一人が「このままでは我々はこの国には住めぬ。我々の中から王を選んで国を治めてもらおう。そうすれば我々は家業に励めるし、不法行為におののいて国を捨てることもしなくてよいではないか」と述べた(ヘロドトスはこの発言をしたのはデイオケスの息のかかった者と見ている)。人々はこうして王制の導入に賛成した。 さて誰を王に選ぶかということになったが、誰もが公正なデイオケスを推奨してやまなかったので、彼が王に選ばれた。デイオケスは王にふさわしい宮殿を造営することと、王の地位を強化するため親衛隊をおくことを条件としてこの申し出を受けた。 この結果首都アグバタナ(エクバタナ)が建設されて壮麗な城郭が築かれ、またデイオケスは自分の気にいった者を親衛隊として登用した。宮殿では彼は誰にも姿を見せず、政務は取次ぎの役人を通して処理されたという。これは王として振舞うデイオケスの姿を見れば、かつての同輩が不快に思い謀反を起こすだろうと危惧してのことだった。(余談だが、日本や中国では皇帝が自分を「朕」と呼ぶが、「朕」は日本語で「キザシ」と読める。つまり臣下にとって皇帝は感じるものであって直接見る対象であってはならない。この自称を始めたのは秦の始皇帝であるが、その500年前のデイオケスと合い通じるものがある。始皇帝は取り次ぎ役人たる宦官の趙高の専横を許し、またこの自称と裏腹に各地に巡幸して民衆に顔を見せたために、「彼、取って代わるべきなり」と考えた項羽や劉邦といった野心家の反乱を招くことになる) デイオケスは王として独裁を固め、治安・正義を守るためにきわめて峻厳な態度で臨んだという。また全国に密偵を巡らして不法行為がないか監視探知させた。デイオケスはメディア王位に在ること53年、死後は息子のプラオルテスが王位を継いだ。・・・ ・・・プラオルテスはアッシリアの支配に反旗を翻し、プラオルテスの子キュアクサレスの代に、アジアを支配するアッシリアを破り全ての上アジアはメディアの支配下に入った。キュアクサレスの子アステュアゲスを倒してアジアを統一したのが、アケメネス朝ペルシアである。・・・ 支配者が公正や弱者保護(寡婦や孤児の保護)といった社会正義を掲げてその支配の正当性を主張・宣伝するのは、中近東(西アジア)では既にメソポタミア(今のイラク)に栄えていたシュメール人の時代、つまり紀元前三千年紀には行われていた。ヘロドトスのこの記述はそうした中東の伝統的支配理念を反映したものだろう(実現していたかどうかはともかく)。この伝統は今も中東に息づいていると思うのだが、フセイン政権などはいい例だが現実の政権はどうもえこひいきが過ぎるようだ。 このデイオケスは実在の人物らしく、紀元前8世紀のアッシリアの記録には「ダイウック」という名前で出てくる。ダイウックは多く居たメディア人首長の一人で、アッシリアの宿敵ウラルトゥ(今のトルコ東部に栄えた王国)のルサ1世に息子を人質として送って援助を受け、45人の首長が団結してアッシリア帝国の侵略に抵抗したが、紀元前713年にアッシリアのサルゴン2世に敗れて捕虜となり、家族ともどもシリアのハマに流刑されたという。 アッシリアの記録を見る限り、当時のメディアはヘロドトスの伝えるような統一王国ではなく、部族連合のようなものだったと分かる。ダイウックは部族長の一人に過ぎない。ダイウック=デイオケスが都したというエクバタナは現在のハマダンにあたると考えられているが、今も人が住むハマダンの市街地を掘り返すわけにはいかないので、いくつかの遺跡が調査されたほかはメディア王国の初期のことはよく分かっておらず、それに加えてメディア人は自身の文字史料を残していない。 アッシリアの記録には、紀元前673年頃にカシュタリティ(ペルシア名フシャリスタ?)なる人物が諸侯に推戴されてカル・カッシという城塞を首都とするメディア人の王になったという記述があるそうだが、このカシュタリティはデイオケスの息子プラオルテス(ペルシア名フラワルティ)にあたるのではないかと考えられている。ヘロドトスのデイオケス即位に関する記述はむしろこちらに近い。 世界史の教科書ではアッシリア滅亡(紀元前612年)後にエジプト、リュディア、バビロニア、メディアの四国が並び立って西アジアを分割支配した、と教わり地図も出てくるが、メディアについてはイランからトルコ東部を統一するような大帝国が存在したのかどうかは最近は疑問視されている。去年の夏に参加した学会ではアメリカの学者が「ヘロドトスが伝えているメディアの物語は、実際はウラルトゥの史実を反映しているものだ」と唱えていた。 ただメディア人という民族集団が存在したのは間違い無く、のちにメディアを支配下において西アジアを統一しギリシャにまで攻めこんだアケメネス朝ぺルシア(紀元前550頃~330年)の時代には、メディア人は支配民族であるペルシア人と並んで貴族として重用されている。騎馬民族スキュタイ人と並んで騎馬戦を得意とする戦士集団だったようで、「アキナケス」と呼ばれる柄と刀身が一体造りの短剣は、スキュタイのみならずメディア人の風俗でもあるようだ。
2005年01月15日
コメント(0)
今日の日記のタイトルはラテン語で「およそ人は自分の(信じたいと)望むことを喜んで信じるものだ」という意味である。 ガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100~44年)が著した「ガリア戦記」第3巻18節からの引用である。カエサルは英語の「シーザー」のほうが通りがいいが、ローマ帝国のガリア(今のフランス)征服の総司令官となり、その記録を「ガリア戦記」という本にした。いわば戦況報告のようなものだが、ローマ市民はカエサルの簡潔にして要を得たこの報告に熱狂したという。 この言葉は、カエサルの副将クィントゥス・ティトゥリウス・サビーヌスが、紀元前57年にガリア(ケルト)人の一部族で今のノルマンディ地方に居たウェネリー族を詭計で破ったときの描写で出てくる。「ローマ軍が困窮している」というサビーヌスの流言を信じ込んだウェネリー族は勇躍蜂起するが、周到に備えていた寡兵のローマ軍に破れてしまう。 もっともサビーヌスは3年後に現在のベルギーでケルト人の詭計にかかって虐殺されるし、この言葉を残したカエサルは、紀元前44年3月15日に信頼していたブルートゥスらに暗殺されて「ブルータス、お前もか」という言葉を残すのだが。 さて、長々とこの言葉について書いたのは、今回の「NHK特番に対する政治介入」問題を論じる人々を見ての感想である。 僕はもちろん詳しく知らないし、ニュース源はネット上のニュースとブログ(一応いろんな立場の人のを読んだつもりだが)でしかない(悪名高い「2ちゃんねる」は見たことがありません)。あくまでその上で書く。 涙の会見を開いて内部告発したという長井さんというプロデューサーは「~と聞いている」「~と思う」と歯切れが悪かったということだが、この人がどういう人か知らないが、このカエサルの言葉が当てはまるのかなあ、などと思った。もちろん人間である以上僕もその法則から逃れられず、これまた「信じたいことを信じている」だけかもしれないが。まあ「NHK対朝日新聞」の様相を呈してきた今後の成り行きを見ていきたい。 ところで「何で4年前の出来事を今になって?」という疑問は残る。これは海老沢会長をめぐる問題が絡んでいるのは疑いない。海老沢批判(僕は実はエビジョンイルと呼ばれる彼が、どういう悪事をしたのかよく知らないのですが)が激しい中、「これはいける」と計算して、その尻馬に乗って会見を開いたのは間違い無いだろう。会見で流した涙は本物かもしれませんが、会見時期は計算ずくだろうなあ、と思う。まあ長井さんの支持者は「NHK改革の好機」と取るでしょうけど。 批判の矛先が安倍・中川という自民党の政治家に向いたのも偶然ではないように思える。つい数日前、朝鮮中央通信は「横田めぐみさんの偽遺骨」問題に関連して「日本は拉致問題で騒ぐが、植民地支配での強制連行や従軍慰安婦問題の謝罪と解決のほうが先だ」とかつての辻元清美(元社民党代議士)の主張をなぞったような報道をしていた。安倍幹事長代理というと対北朝鮮最強硬派で知られ、またこの特番の内容も北朝鮮の通訳(安倍氏は工作員と呼んでいる)同席の上で慰安婦問題で昭和天皇を(弁護人無しの欠席裁判で)有罪判決にする、というものだったそうだ。これはキタチョ・・・・ピー(以下自粛。ふふふ)。 まあこれも僕が「自分の望むことを喜んで信じている」だけかもしれませんがね。 「報道の公正」とか「政治の介入」とかがいろいろ言われているが、NHKって国営放送ですよね?国営放送って政府や自国の都合の悪いことは放送しないものとばかり思ってましたよ私は。政府批判が聞きたければ反体制メディアや民放を見ればいい、と思ったのですが(かつてのソ連・東欧みたいにそれが弾圧されている場合は、アネクドートが流行る)、日本の常識は違うみたいだ。 チャンネルが国営放送一つしかないシリアのテレビなんか、ニュースは政府要人の動向とイスラエルの悪事ばかりだし、放送の合間には勇壮なシリア軍の宣伝?ばかりが出てくる。シリア人はあまり面白くない国営放送のチャンネルよりも、電波が届く隣国トルコの映画チャンネルを(トルコ語が分からないにも関わらず)見ていた。まあアサド(父)政権の末期から、シリアでもエジプト製のコメディとか、プロパガンダ色満載だが結構見所のあるシリア製歴史ドラマを放送するようになったのだが。 検閲のある北朝鮮、ロシア、中国と変わらないシリアと、民主主義国家の日本を同列に論じるな、とか言われそうだが、日本と並んで先進国(G7)の一員であるイタリアではどうか。村上春樹の「遠い太鼓」に出ていたが、イタリアには国営テレビが3チャンネルあって、1が保守・キリスト教系、2が革新系、3がその他中道、と政治色で分かれているらしい。出てくるお天気お姉さんの化粧や服装まで違うそうだ。NHKもこうしてみたら面白いかも。ただ日本には朝日やTBSといった民放がたくさんあるから必要無いかな。もちろんイタリア国営放送は政府や国会によって管理されている(それはNHKも同じ事か)。まあ「メディア王」ベルルスコーニが首相になってから変わったかもしれませんが。 ドイツのテレビも国営放送は二つあるが(ARDとZDF)、色分けとかはあるのだろうか。無さそうに思うけど。ただドイツだってナチスを賛美するような番組が制作されたら、政治家がストップかけると思いますがね(左右のベクトルは逆だが、本質はこれと変わらないと思う)。ちなみにドイツはかなり最近まで国営放送くらいしかチャンネルが無かったそうだが、衛星放送の導入もあいまってテレビのチャンネルが激増した(僕はテレビを持っていないのでよく知りません)。 まあいまどきテレビや新聞の言うことを100%鵜呑みにする人もそういない、と思いたいが、こんな騒ぎになると言うことは、そうではないんだろうなあ。ともあれ、今回の件で新聞やテレビといった既存の報道媒体への疑問や嫌悪感が増すのではないだろうか。 その分誰かが「便所の落書き」と言ったというインターネットを通じた情報取得の依存度が高まって、「ネット右翼」や「プロ市民」が増えるんですかね。ははは。ネット依存度のまだ低いドイツではまだ先の話のようだ。
2005年01月14日
コメント(15)
ブログ(Web Logの略)を始めてもう3年半くらい経つ。 最初は友人がブログ(当時はこういういかにもアメリカ的な無粋な略称はなく、Web日記と呼ばれていた)を始めたのを見て、自分もやってみようと気軽に思ったのが始まりだった。もともと文章を書くのは嫌いではなかったのだが、手続きが簡単でホームページ作成のような煩わしさもないので(ていうか作ったこと無いから知らんけど)、横着者の僕が三日どころか三年も続いている。 ブログサイト(正確にはなんて呼ぶんでしょうね)の都合で二度引越しさせられたが、移るたびに量が多くなり、楽天ではついに暫く持つことはないだろうと思っていたホームページ紛いなもの(このページの事です)まで持つに至った。全く驚きである。今はニュースは他の方のブログから得ることも多い。 さてこのブログ・ブーム、ドイツではようやく火がつき始めたところらしい。現在ドイツ語圏にはおよそ7万5千のブログがあるそうだが、楽天日記だけで15万の会員が居ることを思えば(15万全員が続けているわけではないだろうが)、その少なさが分かるというものだろう。(Leadcoreさんの御指摘により訂正;日本最大のブログサイトである楽天広場の会員数は、30万以上である。「15万」というのは24時間以内に日記を更新した人の数らしい。すげー。楽天だけでドイツ・スイスオーストリアのブログ総数の4倍くらいになるわけだ) ただブログ数は急増中らしい。報道、文化、政治、コンピュータ、趣味、日常などブログの種類は日本と変わらないようだが、どうもドイツ人からはじっくりコンピュータに向かってブログを書くというのがイメージしにくい。携帯電話もそうだったが、ドイツは意外と保守的なのか鈍感なのか、こういうものの導入がアメリカや日本よりも数年「遅れて」いるようだ。そういえば僕の周りにブログをやっているというドイツ人をまだ見たことがない。自分の日記を人に見せようという感覚もドイツ人にはあまり無いのではないだろうか(道路から家の中は丸見えですけどね。そのせいかきちんと片付いている家が多い)。 フランスでも若い人を中心にようやくブログ・ブームに火がついたようで、一日1000づつくらい増えているようだ。父親が娘のブログを見て娘の飲酒を知ったり、靴マニアのブロガーが靴の写真400枚を掲載して問い合わせが殺到している、なんていうのが物珍しそうに報じられている。日本では似たような記事が99年くらいの「AERA」に載っていたみたいだが、まだ一般のドイツ人やフランス人には自分の日記や趣味を不特定多数にさらけ出すブログは「奇異なもの」なのだろう。僕はブログの存在を知ったのと始めたのがほぼ同時期だったので、さほど違和感無かったが。 聞いたところではアイスランドでもブログ・ブームだそうだ。 ヨーロッパでブログというと「アメリカのもの」という印象があるようだが、実際ブログ・ブームはアメリカでもっとも進行している様だ。 ある調査によれば昨年11月の段階で、アメリカのインターネット利用者の7%(800万人)がブログを持ったことがあるらしい。また27%はブログを常習的に読んでいるという。2003年3月の時点ではそれぞれ3%・11%、2004年2月の時点で5%・17%だから、この数年、特に昨年急増したことが分かる。ただしインターネット利用者の3割弱しか「Blog」という言葉を知らなかったという調査結果も出ている。 ドイツではまだこういう調査さえ行われてないみたいだから、ブログが定着するのはまだ先のようだ。 上に「遅れている」と書いたがこれは実は不適切で、インターネット普及率や国民性も関係するかもしれない。トルコ人が人と話さずにコンピューターに向かってブログをしこしこ書いているのは想像つかないし(フィンランド人やチェコ人はなんとなく「ブログ向き」な気がする)。去年インターネットカフェで見た限りでは、チャットはトルコでもなかなか人気のようだ。
2005年01月13日
コメント(10)
今日は図書室で文献探しなどをした。なかなか成果あり。 夕方K君と軽く飲む。我ながら情けない(?)ことに、今年最初のビールだった(ワインとかは家でちょくちょく飲んでいたが)。ドイツに住んでいるというのに。 脈絡の無い雑記。 ジャン・マリ・ル・ペンというとフランス極右の大物で、2002年の大統領選挙の際には現職のジャック・シラク氏との決選投票にまで残り、しかも18%もの得票があって周辺国を驚かせた人物である。 そのル・ペンが7日付の極右紙とのインタビューで「第2次世界大戦中のドイツによるフランス占領はそれほどひどいものではなかった」と発言して物議を醸しているようだ。ル・ペンによれば「ドイツ軍の占領はそれほど非人道的ではなく、ちょっとした過ちはあったが55万平方キロもの面積では起きうることで驚くにはあたらない」と述べたという。 これに対してドミニク・ペルベン法相は今日になって捜査の開始を指示(容疑は国家反逆罪か??)、訴追を予定している。在仏ユダヤ人団体もこの発言に反発、ナチス・ドイツが7万6千の在仏ユダヤ人を連行しそのうち2500人しか戻らなかったことを挙げて、この発言は容認できないとしている。 僕は極右というのは国家主義・民族主義というか、自国万歳!という立場だと思ったのだが、フランスの極右はフランスを破ったナチスやその傀儡だったヴィシー政権を擁護するのだろうか?そういやドイツ軍にはかなりの数のフランス人義勇兵が加わっていたそうだが(最近それを扱った歴史雑誌を見た。フランス人ばかりでなく、100万のロシア人はじめヨーロッパじゅうから参加があったようだ)、ドイツが敗れるや対独レジスタンスの活動ばかりが宣伝されるようになった。 アメリカはイラクでの大量破壊兵器捜索をやめたようだ。結局見つからず(まあ無いとは思ってたけどさ)、「イラク戦争の大義」がますます糾弾されることになるのだろう。結果論からいえば、恐怖政治でテロを抑えていたフセイン政権を、「対テロ戦争」を行うアメリカが自ら倒してテロリストをイラクに吸い寄せることになったのだが。 そのイラク戦争(2003年3月~4月)の前後、ドイツでもデモが頻繁に行われたが、その参加者の多くが「Pace」と書かれた七色の旗を持っていた。この旗は一時はあちこちの家の窓にも飾られていたが、去年の後半あたりからめっきり減ってしまった。 僕はこの「Pace」というのは何語だろうと気になっていたのだが、ちょっと調べるとすぐ分かり、まあ予想通りイタリア語だった(ラテン語だとPaxだし)。「パーチェ」と読むらしい。しかしなぜドイツの反戦運動にイタリア語なのだろう?という疑問は残った。 ちょっと調べると、この旗はイタリアの非暴力主義団体が1961年に使い始めたもので、当時は文字ではなくハトのマークがあしらわれていたそうだ。その後同性愛容認運動の活動家が使っていたが、イラク戦争の反戦運動の際、イタリアでこの旗を窓に掲げて反戦の意を示すのが流行り(それとも誰かの指示なのだろうか?)、それがヨーロッパ周辺国に広まったらしい。それでイタリア語なのか。イタリアというとファッションの発信地の1つだが、こういうのも発信してるのね。ちなみに僕はイラク戦争には反対だったが、アメリカが「やる気」なのは分かっていたのでデモとかには参加しなかった。むやみに人の多い所って好きじゃないし(そういう問題じゃないか)。 ファッションと同じで流行り廃りがあるようで、ドイツではめっきり見かけなくなったが、日本でもこの旗を見かけることはあるのだろうか(反戦デモのニュースとかで見かけたような)。まあ日本でも非暴力を訴えるこの旗を掲げて、武力で威嚇している東アジアの国々に対しても訴えかけて欲しいものだ。イスラエルとかでも見かけるのだろうか。 今日ドイツ各地(ヘッセン州含む)でイスラム過激派の一斉捜索が行われ(家宅捜索やモスクの捜索)、22人(うち5人が女性)が逮捕された。国籍はアラブ諸国のようだ。これら容疑者はテロ行為に関係する過激派団体やアル・カイダとの繋がりがあるとのこと。この捜索で偽造パスポートや偽造書類、「聖戦(ジハード)」を呼びかけるビラなどが押収されている。 「対テロ戦争」は、イラク占領に参加していないドイツにとって日本以上に深刻な話題のようだ。
2005年01月12日
コメント(2)
今日はイランに関係するニュース二題を貼り付け。(引用開始) ペルシャ湾が本物…「アラビア湾」併記にイランが反発 イラン南部とアラビア半島を隔てる海域について、イランが歴史的国名にちなむ「ペルシャ湾」という名称を定着させようと躍起になっている。 地理分野で国際的に権威のある「ナショナルジオグラフィック協会」(本部・ワシントン)が最新版の世界地図で、「ペルシャ湾」と、アラブ諸国の呼び名の「アラビア湾」とを併記したことが発端で、アラブ人に対する優越意識が強いイランの民族感情を逆なでした形だ。 イラン国防軍需省の施設で7日まで、ペルシャ湾の名称の正当性を訴える特別展が開かれた。会場には「ペルシャ湾」の表記が歴史的、国際的に認知されていることを示すため、内外で発行された古地図や文献など70点以上が並べられた。(中略) ナショナルジオグラフィック協会が問題の地図を出版したのは昨秋。この中で、これまでペルシャ湾としてきた同海域を「ペルシャ湾(アラビア湾)」として2つの名称で表記した。 イラン政府は同協会にアラビア湾の表記の削除を求めるとともに、同協会が発行する月刊誌の輸入を禁じ、同協会関係者へのビザ発給も停止した。国民の反発も強まり、同協会に表記訂正を求めるネット上の署名運動には10万人以上が参加したとされる。 こうした動きを受け、同協会は先月30日、アラビア湾の併記をやめ、「ペルシャ湾という名称が歴史的にも一般的にも広く受け入れられた名称だが、アラビア湾と呼ばれることもある」との注釈を付けると発表した。 イラン地理協会のモハマド・ファヒミ氏は、アラブ人が10世紀に作った地図も「ペルシャ湾」と表記していると指摘し、「アラビア湾という名称は地理上の用語ではなく、アラブ民族主義が高まった1960年代にアラブ諸国が使い始めた政治用語だ」と説明する。 ペルシャ湾についてイランは従来、アラブ諸国が独自の名称を使うことを問題視してこなかったが、「今回は国際的に影響力のある団体がペルシャとアラブを同列に表記したためイラン人のプライドが傷ついた」(イラン人記者)との見方が出ている。(テヘラン 緒方賢一)(読売新聞) - 1月11日0時27分更新(引用終了) ・・・なんか東アジアのどこかでも似たような話がありましたね。「こちらのほうが文化が古い」という意地からこういう主張は出てくるのだろうけど、イランの主張は東アジア某国の主張に比べればまあ説得力はあるように思う。日本でもドイツでも、ほとんどの地図は「ペルシア湾」と表記しているし。「アラビア湾」と書いてるのはおそらくアラブ・シンパの団体(石油会社とか)が作った地図だけではないだろうか。 アケメネス朝、ササン朝やアルサケス朝といったイランの王朝はペルシア湾全体を支配下に置いてきたし、イランがイスラム化してからも、ペルシア湾岸でのイランの影響力は大きいものがあった。元来砂漠の遊牧民だったアラブ人に対してペルシアは幾多の王朝を経験しており、アラブ人(のちにはトルコ人も)は政治・経済・文化のあらゆる面でイランの多大な影響を受けている(イラクの首都がペルシア語起源の「バグダード」と呼ばれたりするのは一例)。シーア派が特にイランで特に多いのも、こうした歴史的経緯が絡んでいるのは間違い無い。 ペルシア湾に浮かぶ小さな島国バハレーンは1521年にポルトガルに征服されるが、元来イランの影響が大きく、イラク同様シーア派が国民の7割以上を占める。1782年にイランのカージャール朝はバハレーンを支配下に置くが、アラブ系のアル・ハリーファ家はその支配から脱し、やがてイギリスの保護下に入ってこんにちのバハレーン王家になった。イスラム革命が起きる1979年までイランはバハレーンの領有権を主張していたようで、30年くらい前のイラン製の地図を見たらバハレーンも入っていた。今もバハレーンにはイラン系が1割弱ほどいるようだ。 さて名前の問題だが、ドイツや日本では「ペルシア湾」がほぼ一般的である。では昔はどうだったのだろうか。 紀元前のメソポタミア文明の頃はペルシア湾は「下の海」と呼ばれていた。では「上の海」はどこかというと地中海である。北西から南東に流れているユーフラテス河の流れに則った呼称らしい。その伝でいくと大阪の人には瀬戸内海が「下の海」、琵琶湖は「上の海」(湖)ということになる。(注・Thucydidesさんの指摘により修正) ギリシャ人やローマ人は「紅海」(エリュトラー海)と呼んでいた。ただしこれはむしろインド洋の総称で(ペルシア湾がインド洋と繋がっているという地理的知識が既にあった)、今ではエジプトとアラビア半島の間の海域のみにその名前を残している。(後で調べたが、2世紀の地理学者プトレマイオスの世界図にはちゃんと「Sinus Persicus」、つまり「ペルシア湾」と出ている。なお「アラビア湾」もあって、これは現在の紅海にあたる) トルコでは「バスラ湾」(バスラ・キョルフェジ)と呼んでいるようだ。バスラはいうまでもなくイラク南部にあるイラク第二の都市だが、実際はペルシア湾に面していない。ただオスマン帝国の時代はイラク南部全体がバスラ州と呼ばれていたし、それに則れば湾頭にある大都市の名前を取った名称はごく妥当ともいえる(東京湾だってそうだしね)。もし折衷案を出すとすればこれも良いのではないだろうか。イランは納得しないだろうけど。(引用開始) <訃報>加藤卓男さん87歳=人間国宝、陶芸家 古代ペルシャ陶器「三彩」「ラスター彩」「青釉」を現代によみがえらせた国の重要無形文化財(人間国宝)、加藤卓男(かとう・たくお)さんが11日午前11時45分、岐阜県多治見市の病院で死去した。87歳だった。(中略) 江戸末期の徳川家御用窯で、美濃焼の名窯「幸兵衛窯」五代目の長男。幼いころから父の手ほどきを受け、多治見工業学校(現多治見工高)を卒業。1938年に徴兵され広島で被爆し、終戦後帰郷したが、後遺症の白血病で10年近く療養を強いられた。 陶芸家としての出発は遅く、56年に39歳で日展に初入選。61年、フィンランド工芸美術学校に留学中、中東各地の古窯跡を訪ねペルシャ陶器と出合った。その後、世界で初めて幻の「ラスター彩」の復元に成功。50代後半からラスター彩作品を次々に発表し、不動の地位を築いた。 78年に、故福田赳夫元首相が中東を訪問した際、イランのパーレビ国王へ贈った「ラスター彩鶏冠壷」を制作。宮内庁の委嘱で88年に日本最古の施釉陶器「正倉院三彩鼓胴」(奈良三彩)を8年がかりで復元した。 ペルシャ陶器と奈良三彩の研究は、西アジアと日本を結ぶ日本陶磁史に大きく貢献した。95年に日本国宝に。日本工芸会参与、日本新工芸家連盟顧問。美濃陶芸協会名誉会長、日本オリエント学会員、紫綬褒章受章。(中略)■幻の古代ペルシャ陶器を追求 巨星落つ――400年以上も前に消えた「幻の古代ペルシャ陶器」をよみがえらせる仕事に情熱を傾けてきた人間国宝の加藤卓男さんが11日、亡くなった。桃山陶の織部や志野の名門に居ながら、異色のペルシャ陶器を追求する生き方は、伝統を重んじる陶芸界に新風を吹き込み、革新的な役割を果たしてきた。美濃焼文化の支柱が、また1人消えた。 「再現不可能。それなら自分が」。加藤さんはペルシャ陶器の再現のために、1965年以降16回も中東の砂漠に通った。四十数カ所の古窯などの発掘、研究を繰り返してきた。20年間に1800回以上焼成。三彩の復元、技の錬磨という実績が買われ、80年に宮内庁から正倉院三彩の復元を委嘱された。 「復元の仕事は非常に厳しい。出来上がりの寸法まで同じでないとだめ。まさに神業」と話し、土探し、釉薬(ゆうやく)作りに何度も奈良の山奥や正倉院に通った。三彩鼓胴は7年間に96個、二彩鉢は40回焼いて88年3月と翌年3月にそれぞれを納めた。 三彩の技法で人間国宝に認定された時「美濃陶芸全体にいただいたもの」と、美濃焼を愛する気持ちを表現した。ペルシャ陶器の復元を模索する63年、美濃陶芸協会を設立し、初代会長に就任。後進に道を譲った後も、名誉会長として活躍するなど、最後まで美濃焼を愛し続けた。(以下略)(毎日新聞) - 1月11日16時34分更新(引用終了) シルクロードを通じた東西交渉史は日本でも人気の分野の1つだが、その重要な交易品の1つに陶磁器があった。奥州藤原氏の首都平泉(岩手県)からはペルシア陶器(緑釉)の破片が出土しているし、大宰府の鴻臚館(古代の迎賓館・福岡県)からも青釉陶器片が出土していると最近知った。 さすがにアラブ人やペルシア人が日本まで来たとは思えないが(ただし遅くとも9世紀には日本の存在は既に中東に知られていた)、その文物は確実に日本に来ていたのである(まあローマ帝国やペルシアのガラスが古墳から出土したりしているから来ること自体は新しいことでもないのだが)。 品物としての陶器だけではなく、陶器の製作技術もアジアの東西を行き来している。特に中国陶器と中東(イスラーム)陶器の技術交流は盛んだったようで(ただし中東は化学知識にこそ優れていたものの、最後まで中国の技巧に追いつくことは無かった)、東大及び青山学院大学教授だった三上次男(1907~87年)はアジア貿易陶磁研究の先鞭をつけた(中公文庫「ペルシアの陶器」はその成果を分かりやすくまとめたもの)。 ヨーロッパでは16世紀くらいまで土器のような土色剥き出しの焼き物ばかりが作られていたのとは、鮮やかな対照をなしている。 上の記事に出てくる「三彩」(緑・褐色・茶色の三色の釉薬がかかっている)は7世紀の中国(唐)で作られ始め(「唐三彩」と通称される)、最初は王侯貴族の墓に副葬する焼き物として作られたが(ラクダや人物像が比較的著名ですね)、のちに実用品の容器としても作られるようになった。日本には717年に派遣された第9回遣唐使に参加した玉生(ガラス職人)が持ちかえったものらしい(国立歴史民俗博物館カタログ「陶磁器の文化史」1998年より)。日本では普通「奈良三彩」と呼ばれる。中国のものに比べ色がややくすんで見える。また同時代の朝鮮半島でも作られ、こちらは「新羅三彩」と呼ばれる。 この三彩はやや遅れて中近東にも波及し、9世紀から10世紀にかけて、バグダードを首都とするアッバース朝の時代に盛んに作られている。技巧は率直に言って東アジアのものに比べてかなり劣る。少し遅れてイラン北東部(ホーラサ―ン地方)でも作られたが、こちらはインド洋の海上交易ではなく内陸交易で伝播したものと思われ、モデルは唐三彩ではなく中国北方のキタイ(契丹)人の王朝である遼の三彩が伝わったという説が有力になっている。 一方「ラスター彩」は中東独特の陶器である。ラスターとは英語で「光沢」という意味で、僕も破片を手に取ったことがあるが、この陶器の釉はキラキラと輝いており光の加減によって七色に変化し実に美しい(惜しむらくはイスラム陶器らしく絵柄がやや稚拙で器形がいささか鈍重なことか。画面でお見せ出来ないのが残念)。9世紀にイラクで作られ始め、のちその生産中心地はエジプトやシリア・イランに移った。 その釉は錫を含んでいるといい、呈色剤として硫化銅や硝酸銀を混ぜた鉄分を多く含む粘土で白色陶器の上に色付けをして二度焼きしている。ただその製法は秘密とされていたうえ、ヨーロッパ人の支配でインド洋交易が変質する18世紀以降作られなくなり、現代の中東ではもはや忘れ去られてしまい「幻の陶器」と呼ばれていた(近代にヨーロッパで似たものは製作されたが)。 加藤氏は苦心惨憺の末ラスター彩を再現することにほぼ成功したのである。細野不二彦の漫画「ギャラリーフェイク」(「ビッグコミックスピリッツ」に連載)で、主人公のフジタがアラブ人に脅迫されて「幻の陶器」ラスター彩を再現する、という話があったが、そんな簡単に出来るものではない。 加藤氏の業績は、「技の日本」を象徴する汎アジア的・世界的な偉業だったといえるだろう。ご冥福をお祈りします。
2005年01月11日
コメント(21)
今日は自分のことで書くことは特に無し。というわけでニュースなど。(以下引用) 復元住居放火、高校生ら逮捕=寒くて温まろうと-国指定史跡の加曽利貝塚・千葉 千葉市若葉区桜木町の国指定史跡「加曽利貝塚」で、展示用に復元された竪穴住居に放火したとして、千葉東署は10日、同市在住の私立高校1年の男子生徒ら、いずれも16歳の少年3人を非現住建造物等放火容疑で逮捕した。 調べによると、3人は10日午前3時20分ごろ、木の枠組みなどを使って作られた竪穴住居(高さ約3メートル、直径約5メートル)のそばで落ち葉にライターで火を付け、住居に燃え移らせて全焼させた疑い。3人は遊び仲間で、「寒かったので温まろうとした」と容疑を認めているという。 (時事通信) - 1月11日1時1分更新(引用終了) ・・・お前らあほか。寒くてやったというが、ちゃんと火にあたったのだろうか?江戸だったら火あぶりの刑だぞ。縄文時代はどうだったかしらないけど、疫病の起きた住居に火を放つことはあったらしい(ちょっと違うか)。この記事では意図的に住居に火をつけたのかどうか分からないが、なんでライター持ってるんでしょうか?タバコでも吸ってたのだろうか。僕は二十歳になるまでまで吸わなかったぞ(今は吸わない)。 加曾利貝塚には去年の3月に先生(繰り返すがドイツ人)とK君と三人で行った。復元された立ち並ぶ竪穴住居を見て先生が「こういうのを作るとドイツではすぐにいたずらで火をつけられる」とぼそりと言っていたのだが、先生、どうやら日本はドイツと同じようです。 今日は成人式だったそうだが、例年よりは荒れなかったそうだ。といってもどこにも馬鹿者はいるもので、式の壇上に酔っ払って駆け上がってもみ合いになったり、式のあとに酩酊状態で街に繰り出したり、飲酒運転で事故ったりした輩も居るという。あほくさ。 僕は成人式には出なかった。大学が故郷と遠く離れていてそのために帰省する(もしくは帰省を遅らせる)のが面倒だったし。当時住んでいた町の市役所から招待状は来たが、「林家こぶ平の講演」を聴きたいとも思わなかったし、幼馴染でもない連中と一緒に祝うのもあほらしいので行かなかった。というわけで成人式に感慨はなし。 まだ書き足りないので、ここ(マールブルク)からドイツ各都市への鉄道による移動の所要時間を表にして書いておこう。マールブルクはドイツのほぼ真中にあるから(やや西より)、日本と比べたらドイツの大きさが実感してもらえるかもしれない。マールブルク中心だからここに住んでいない人にはあまり役に立たなさそうだが・・。 僕は中学のとき「旅行プランクラブ」というのに入っていて(我ながら変なクラブに入っている。あと軟式テニス部)、時刻表とかを見るのは好きだし得意なのだ。まあ以下のは簡易時刻表から書き出しただけだが。 表は左から目的地、特急無しの所要時間、特急(IC/EC)を利用した所要時間、新幹線(ICE)を利用した所要時間(待ち時間含む)である。?は時間がかかりすぎるので掲載されていないが、丸一日かければ不可能ではないだろう。 Ohne mit IC/EC mit ICE アーヘン 4:38 4:11 3:13 バーゼル(スイス) ? 5:05 4:20 ベルリン(ツォー) ? 5:49 3:58 ボッフム 3:54 3:38 なし ボン 3:40 3:07 3:07 ブレーメン ? 4:19 3:22 ドレスデン 7:11 7:35 5:25 デュッセルドルフ 4:13 3:28 3:04 フランクフルト 0:58 0:58 なし フライブルク ? 4:19 3:26 ハレ 4:35 4:33 4:27 ハンブルク ? 4:06 3:56 ハノーファー ? 2:35 2:11 ハイデルベルク 2:52 1:55 2:13 カールスルーエ 3:57 3:01 2:24 カッセル(中央駅) 1:14 1:17 なし キール ? 6:15 5:00 ケルン 3:19 3:03 なし コンスタンツ ? 6:11 5:41 ライプツィヒ 5:21 5:21 4:59 マンハイム 2:45 2:11 1:53 ミュンヘン ? 5:38 4:58 ニュルンベルク 4:24 3:49 3:39 ザルツブルク(墺) ? 7:28 7:11 シュツットガルト ? 3:18 2:33 ウィーン(墺) ? 9:00 8:49 ヴュルツブルク 2:49 2:51 2:52 こうして書いてみると、路線によっては特急、特に新幹線は全然時間の短縮にならないことが分かる。日本のように細長い国ではないので幹線がいくつもあって複雑で(例えばここからニュルンベルクに行くには特急利用のフランクフルト経由の南回りと、新幹線を使うカッセル経由の北回りがある)、遠距離移動だと1つの目的地でも複数のルートがある(西村京太郎の十津川警部もののネタになりそうだが、ドイツにああいう「鉄道ミステリー」ってあるのだろうか?)。だからドイツでは自分で調べて自動券売機で券を買うよりも、窓口で一番早く安く行ける路線を聞くほうが、迷わないしむしろ手っ取り早い(まあもともと自動券売機はものすごく少ないし操作性が悪く不便。ただし窓口のほうは手際が悪いのか待つ時間はかかるのだが)。 ちなみに特急料金は乗る距離に関係無く4ユーロくらいを通常運賃に追加で払う。新幹線は別の料金体系になっていて割高になる。日本の新幹線ほど速くないようだ。駅に改札は無く、車内で車掌が検札に来る。基本的には切符を買ってからのるものだが、車内で支払うことも出来る。 非常に大雑把に言うと、ドイツを北から南まで列車で移動するとおよそ12時間、東から西まで乗ると8時間くらいかかることになる。日本だとどれくらいかかるのだろうか。
2005年01月10日
コメント(12)
今日は快晴の一日だったのだが(北欧では暴風で14人が亡くなったそうだが)、原稿の手直しがあるので一日中家に居た。 こういう時は日記(ブログ)を妙に書きたくなる。そんなの書いている暇があったら原稿を進めろ、と突っ込まれそうだがさにあらず、書き方(資料に基いた厳密性)や書くべきこと(テーマ)がある程度決められている原稿を書いていると、何でも好きなことが自由に書けるこの日記についつい逃げてしまうのである。逃げている割には歴史のことばかり書いているが、それは僕という人間の幅が狭いのだから致し方あるまい。書く作業自体は嫌いではないのだろう。 村上春樹が「翻訳は自分にとって癒しのようなもの」とどこかに書いていたが(彼はサリンジャーやフィッツジェラルドの翻訳もしてますね)、翻訳という頭を使う作業をしつつも、根本ではオリジナル小説と違って自分の頭の中から捻り出さなくてもいい作業は楽しみな作業なのだろう。この気分はモノ書きとも言えない僕にもよく分かる。村上春樹はそのエッセイや作品を読む限り、性格的に僕と似たところがあるように思うのだが(能力とかではなくあくまで性格の傾向です)、彼とは仲良くなれなさそうな自信(?)がある。 関川夏央はやはり煮詰まったときにはバイクを運転して首都高をぐるぐる回ると書いていたが、それも分かる。何も考えず「機械の一部」となることが彼にとっての癒し行為の一つらしい。僕も日本にいて車を持っているときは、ふらりとドライブに出かけたものだった。 僕の大学に居た高名な犯罪心理学者のO教授は自宅に「止り木」を作っていて、煮詰まったときは鳥みたいに止り木にとまって考えているそうだが、癒し方はいろいろあるものらしい。 トルコからドイツへの帰路にセルビアで食べた「セルビア風オムレツ」が美味しかったので再現しようと挑戦しているのだが、どうも「これだ」というものにならない。何の事は無い、オムレツにハムとトマトが入っただけのものなのだが。日本と違い卵はよく焼く。 同じものを「スペイン風オムレツ」というのだそうだ(スペインじゃ細切れのジャガイモを入れたりもする)。映画「ひまわり」に新婚のソフィア・ローレンがそれを作るシーンがあるそうだ。セルビアというより地中海料理なんだろう。 気になったニュースの張り付け。(引用開始) <少林寺拳法>「卍」紋章を変更 香川・多度津の本部 香川県多度津町に本部がある「少林寺拳法グループ」(宗由貴総裁)は9日、40年以上使用してきた「卍(まんじ)」の紋章を、4月から変更すると発表した。「卍」はナチスのかぎ十字(ハーケンクロイツ)を裏返した形になっているため、欧米のユダヤ人団体などから反発が続いていたといい、世界中に少林寺拳法の普及を目指す同グループの活動の妨げになっていた。 新紋章は、白と黒の二つの円を重ねたもの。「調和」を表すという。ロゴは「SHORINJIKEMPO」とローマ字にした。 少林寺拳法は、中国の修行僧の護身術を基に、宗総裁の父親が1947年に創立。同グループは世界32カ国に支部があり、会員約150万人。国際大会も4年に1度開かれている。「卍」は仏教で功徳を意味し、61年に商標登録した。新紋章にした後も、商標としては残される。 この日の除幕式で、宗総裁は「全世界に向け、一つのマークの下に少林寺拳法をアピールしていきたい」と話した。【清水直樹】(毎日新聞) - 1月9日18時56分更新(引用終了) ドイツでは鉤十字のマークをあしらうことは基本的に(学術資料などを除いて)禁止である。言うまでも無くナチス賛美に繋がるからだが、反対向きの仏教のマークや少林寺のマークは明らかに起源を異にするというのでドイツでも引っかからなかったのだろうか。 そういえば中国政府に弾圧された「法輪功」の活動が盛んな頃、この町でも中国人にビラをもらったのだが、その中で卍の起源について紹介しており、このマークは仏教ではよく使うがナチスとは関係無いのでご安心を、と書いてあったように思う。うちの先生(ドイツ人)は日本に二度来た事があるが、日本で買った地図上に鉤十字がたくさんあるので違和感があったそうだ。まさかナチスの支部があるとは思わなかっただろうけど。 鉤十字の起源は古く、古代インドやギリシャにはあったという。そういえばトルコでも鉤十字をあしらった土器を見たことがある。ナチスが用いたのはヨーロッパ人の優位性を説いた人種主義者が、ヘブライズムに対置されるギリシャ(ヘレニズム)の象徴として用いたものを真似たらしい。 そういえばドイツでは夏学期(Sommersemester)をSSとよく省略するが(例えば「SS03」など)、これはナチスの親衛隊の略号と同じである。去年「Express」と書いていたらドイツ人に「ssはこう書け」と直された。僕が書いたのはカクカクしていて親衛隊のマークにそっくりだったからだ。(引用開始) 「小森のおばちゃま」映画評論の小森和子氏が死去 「小森のおばちゃま」の愛称で親しまれた映画評論家の小森和子(こもり・かずこ)さんが、8日午前1時42分、急性呼吸不全のため亡くなった。 95歳だった。(中略) 東京生まれ。小さいころから活動写真を見て育ち、雑誌「婦人公論」記者、翻訳業などを経て、1949年に「映画之友」編集長だった淀川長治さんの勧めで映画評論を始めた。ちょうど40歳の時で、「私の評論は40の手習い」とよく話していた。 赤く染めてカールをした髪と若々しい服装。さらに「おばちゃまね……」で始まる独特の口調で、テレビのバラエティー番組などでも活躍した。若くして亡くなった俳優のジェームス・ディーンを愛し、会ったスターはシャーリー・マクレーン、オードリー・ヘプバーンら600人を超える。(中略) その後は、パーキンソン病のため自宅で療養していた。98年11月に淀川さんが亡くなった際、車いすで通夜、告別式に駆けつけたのが、公の場に現れた最後だった。(以下略)(読売新聞) - 1月9日20時8分更新(引用終了) 小森のおばちゃま、長いこと見ないので(まあ僕が外国に居るせいもあるが)、失礼ながらもう亡くなっていたかと思ったが、パーキンゾン病だったのか。 小さい頃、淀川長治や小森のおばちゃまのような映画評論家はどうやって食っているのだろう、またどうやったらなれるのだろうと不思議に思っていたものだった。同じように女の子には「兼高かおるになるのが夢」という人もいた。テレビが面白くて仕方なかった頃の記憶である。 ご冥福をお祈りします。
2005年01月09日
コメント(25)
今日はエルヴィス・プレスリー(1977年没)の70歳の誕生日だそうだ。 「アメリカの歴史」の続き。やっと独立である。 七年戦争の負債解消の為にイギリス本国政府が1767年にアメリカ植民地で施行したイギリスからの輸入品への課税(タウンシェンド法)は、アメリカ人の反感を助長し、それはイギリス製品の不買運動という形で現れる。1768年には不穏な情勢を察した本国政府はボストンに兵士を駐留させ緊張は高まった。1770年3月にイギリス兵がデモ隊に発砲し5人が死亡する事件が起きる。 事態の急を悟ったイギリス政府はタウンシェンド法を撤回するが、「茶は除く」という例外付きだった。ヨーロッパ人は喫茶の風習を16世紀に中国から学び、タバコと共に爆発的に流行、18世紀に入ると一般家庭でも必需品となった(イギリス式のミルクティーが確立されたのもこの頃。ただしまだ緑茶だった)。ところが当時茶の栽培は中国と日本でしか行われておらず(イギリスがインド植民地で茶の栽培を始めるのは19世紀半ば)、その輸入はイギリス東インド会社が独占していた。しかしフランスと競ったインド経営で政治・軍事支出が増大し、東インド会社は破産寸前に陥る。茶に対する関税が廃されなかったのは東インド会社救済の意味もあった。アメリカ人たちも本国の影響で喫茶の風習に染まっていたので、これは憎むべき関税だった。 経済的な要因のほか、思想的な要因もあった。「代表無くして課税無し」という言葉が唱えられイギリス本国議会への代表権要求が高まっており、ここまでは単なる反英的自治権拡大要求運動だったのだが、サミュエル・アダムスやトーマス・ジェファーソンといった急進派は、イギリスを去ってアメリカに来たばかりのトーマス・ペインの王制撤廃・人民主権を訴えた思想に影響され、反王制・独立運動を唱え出した。ペインはのち1776年に「コモン・センス」というパンフレットを著してアメリカ人を独立へとかき立てていくことになる。 イギリス本国政府はこのアメリカ人の要求を無視したばかりか、1773年5月に改めて茶法を制定して東インド会社の茶葉交易独占体制を確立しようとした。関税にもかかわらずこの茶葉はアメリカ人自身の密輸する茶葉よりも安価であり(一種のダンピング。中国がヨーロッパに輸出していたのは最下級の茶葉だった)、茶の供給がイギリスに一手に握られる事は明白だった。1773年12月16日、インディアンに変装したサミュエル・アダムスらはボストン港に停泊するイギリス船3隻に乱入、茶の梱包された342箱を海に投げ捨てた(ボストン茶会事件)。 植民地政府は非常事態を宣言してボストン港を閉鎖、マサチューセッツ州の自治権を停止しイギリス本国法を施行した。さらに1774年に入ってケベック法を制定、カナダでのカトリックの宗教的自由を認める一方で自治を認めず、五大湖周辺までをイギリス直轄植民地とした。カナダに多いフランス系植民者懐柔のためのカトリック解放令だったが、プロテスタントの多いアメリカ人の感情を逆なでするもので、かつ五大湖がイギリス直轄植民地になるという事は、アメリカの西方拡大を封じられたに等しかった。 1774年秋、ジョージアを除くアメリカ植民地13州の代表が初めてフィラデルフィアで一堂に会し、「大陸会議」を開いた。対英穏健派も居たが大勢は強硬論に傾き、対英交易の停止とイギリス政府が1763年以降に制定した法律(アパラチア山脈以西への入植禁止や関税法、ケベック法など)の撤廃要求、全州での民兵の結成を宣言した。ただし「独立」という言葉はこの時点ではまだ見られない。 1775年4月18日、マサチューセッツ州レキシントンに武器を集積していた民兵と、それを押収しようとしたイギリス軍の間で武力衝突が発生、事態はついに戦争に発展した。アメリカの人口はおよそ300万人に達していたが、彼らには職業軍人がおらず、また兵器もインディアンから身を守るための銃器程度しかなく、さらに統一的な指揮系統を欠いていた。1775年6月、第二回大陸会議はヴァージニアの農園主で州の代表を務めていたジョージ・ワシントン(43歳)を総司令官に任命した。七年戦争で市民軍を率いてフランスと戦った経歴が評価されたのである。 一方イギリスはアメリカ派遣軍を3万近くにまで増強したが、その兵士のうち1万7千人はドイツのヘッセンやブラウンシュヴァイク出身で、彼らは金と引き換えに母国の諸侯によって異郷に送られて来ており士気に問題があった。また同じアメリカ人とはいえイギリス王に忠誠を誓う王党派や、イギリスに懐柔されたインディアンもアメリカ独立派にとって敵となった。 ワシントンは当初独立には懐疑的だったようだが、ペインの「コモン・センス」を読んで独立論に転じ、1776年7月4日、ジェファーソンの起草したアメリカ植民地13州の独立宣言を発表した。この独立宣言は基本的人権(「生命・自由・幸福の追求」)や支配に対する抵抗権(革命権)を謳っている。単なる植民地支配からの独立ではなく「アメリカ独立革命」と言い習わされる所以である。なお独立13州を示す赤白13の縞があるアメリカ国旗は、2年後の1777年6月17日に制定された。 戦況は一進一退だった。正面切って戦えば勝ち目の少ないアメリカ軍は、今で言うゲリラ戦のような奇襲を各地で繰り返した。上述のようにアメリカ人全てが独立派だったわけではなく親英派や無関心派も多かったので、イギリス軍としては敵の捕捉が難しかった。1776年12月、アメリカ軍はクリスマスをついてトレントンのヘッセン軍を攻撃して勝利、またプリンストンでもイギリス軍を奇襲して破り、ニュージャージー州を奪還する。イギリス占領下にあったフィラデルフィア攻略に失敗するも、1777年にはサラトガで勝利を収める。 アメリカ政府は、雷が電気であることを証明して既にヨーロッパでも知名度の高かったベンジャミン・フランクリンを大使としてフランスに派遣、その立場を代弁させた。ヨーロッパの開明的思想を持つ貴族たちには、イギリスに対する反感や自由を求めるアメリカ人への共感から、アメリカ軍に義勇兵として従軍する者も出て来る。フランス貴族マリ・ジョセフ・ラ・ファイエット(のちのフランス革命の大立物)や、たまたまパリに留学していたポーランド軍人タデウシ・コシュチュシコ(ワシントンの副官として活躍、のち母国で対露反乱を起こす)、ドイツの男爵フリードリッヒ・フォン・シュトイベンなどである。特にシュトイベンは素人の寄せ集めだったアメリカ軍に軍事教練を施し再編成した。またフランスやオランダからの武器密輸でアメリカ軍の装備は向上した。 フランクリンの活躍もあって、1778年にフランスとスペインはアメリカに味方することを決め(植民地をめぐってイギリスとの抗争を続ける絶対王制の両国には自由や独立とかはどうでもよく、イギリスの窮地という絶好の機会だった)、ジブラルタルやカリブ海のイギリス植民地を攻撃し始めた。その他のヨーロッパ諸国は中立を掲げてイギリスによる海上封鎖に協力しなかったので、アメリカは経済的打撃を受けなかった。 さらにフランスは1780年にジャン・ロシャンボー率いる援軍をアメリカに派遣する。米仏連合軍は1781年にヴァージニア州ヨークタウンでイギリス軍を包囲、7200人を捕虜(この中にはのちにプロイセンの軍制改革に活躍するアウグスト・グナイゼナウも居た)とする大勝利を収め、ここに独立戦争の帰趨は決した。 1783年、イギリスはヴェルサイユ和平条約でアメリカの独立を認めさせられ、かつての13州の領域のみならず、五大湖以南・ミシシッピ河以東がアメリカ領とされた(フロリダはスペインに返還)。なおこの戦争で多大な出費を強いられたフランスは財政が悪化して重税に走り、また自由のために戦った義勇兵たちが帰国するに及んで絶対王制への反感が強まり、6年後のフランス革命へと繋がっていく。この戦争でのアメリカ人の死者は7万人に及び、またイギリスによる独立承認後、王党派10万人がカナダに移住した。 こうした独立運動の成功には、小異を捨てて大同を取る統一された指揮系統の存在、外国列強の支援、そして中立派を独善的な論理で巻き添えにせず、巧みに取り込むことが不可欠なのだろう。 新生アメリカ国家は、どのような国体をとるべきかという問題に直面した。今まではイギリスという共通の敵がいたものの、戦争が終わった今、緩やかな連合に過ぎない13州はともすれば分裂の危険があり、独自通貨の発行やインディアンとの抗争などで各州は連合の枠組みを必要とした。各州はそれぞれ独自に、主権在民(1776年のヴァージニア権利章典)、権力の分散、公務員の公選、政教分離が定められていたヴァージニア州を範とした憲法を導入していた。 1787年、フィラデルフィアで制憲会議が開催されるが、中央集権志向(連邦派=フェデラリスト)のワシントンやジョン・アダムズらと連合・分権志向(共和派=リパブリカン)のジェファーソンらの意見が対立した。フランクリンの調停で13州55人の代表は「大統領制による連邦共和国」の樹立で合意する。こうして9月17日、アメリカ合衆国憲法が制定される。当時もっとも民主的とされた議会制度をもつイギリスは成文憲法をもたないので、このアメリカ憲法が最初の近代民主主義憲法ということになる。その特徴はシャルル・ドゥ・モンテスキューの思想を体現した三権(司法・行政・立法)分立制度、そして「チェック・アンド・バランス」と呼ばれる連邦(防衛・外交・貿易を管轄)と各州(交通・教育・司法・警察を管轄)、及び連邦行政機関同士の相互監査システムにある。なおこの憲法は22の追加条項が加えられた他はこんにちまで変化していない。 1789年、最初の大統領選挙が行われ、かつての軍最高司令官ワシントン(57歳)が選出された。ワシントンは同じ連邦派のアレクサンダー・ハミルトンを財務長官に任命し、北東部の都市を中心とした新生アメリカ国家の産業・交易育成を推進した。1793年、彼の名を冠したワシントン市が建設され、彼の死後の1800年から大統領府と議会もそこに置かれたが、ヴァージニアとメリーランド両州がしぶしぶ差し出したその土地は、有り体は不毛な沼沢地だった。 彼の就任早々フランス革命が起こり、ヨーロッパは革命・反革命の戦乱に巻きこまれる事になるが、フランスとの同盟にもかかわらずアメリカは中立を維持した。ワシントンは2期8年を務め、その退任演説でヨーロッパ諸国との固定的同盟を避けるように警告したが、足元の固まらない若い共和国が、老獪なヨーロッパ外交に振りまわされて瓦解するのを恐れたのだろう。 個人的信望のあったワシントンに続く第2代大統領には副大統領ジョン・アダムズが選出された(1797年)。連邦派だった彼の在任期間中、早くも連邦と南部(ケンタッキー州)の対立が始まっている。強権的と批判されて不人気だった彼は一期で任期を終えたが、その息子ジョン・クインシー・アダムズは1825年に第6代大統領になっている。現在のブッシュ大統領はアダムズ父子以来の親子による大統領就任となった。 第3代はやはり副大統領だったジェファーソンが選出される。1809年まで2期8年務めた彼は自由思想の持ち主、かつハミルトンとは対照的な農園主層を代表する共和派で、各州への介入を極力避けた。ジェファーソンの在任中、大陸西方への進出が加速した。政府は開拓者に土地30アールにつき僅か1ドルで所有権を認めたので、アパラチア山脈を越えて白人植民者が殺到、そのため先住民であるインディアンとの衝突が激化した。開発の進んだケンタッキー、テネシー、オハイオが州に昇格し連邦に加盟した。 1803年、イギリスと争うフランス第一統領ナポレオン・ボナパルト(翌年皇帝に即位)は、1800年にスペインから得たミシシッピ河以西の土地(ルイジアナ)を、好感を得るためにアメリカに1500万ドルで売却、アメリカ領は北部でロッキー山脈にまで及び、その面積は一挙に倍増した。またヨーロッパからの移民が相次ぎ、1790年に390万だった人口は20年後には720万にまで増えている。
2005年01月08日
コメント(4)
今日は特に日記を書く気も無かったのだが、まあドイツらしいニュースが入ってきたので書きとめておく。 昨日(三王礼拝)の説教で、ケルン枢機卿のヨアヒム・マイスナー氏は中絶や安楽死を批判して(言うまでも無くカトリック教会は妊娠中絶を認めていない)、以下のように述べた。「まずヘロデ王が、ベツレヘムの子供たちを皆殺しにさせた。ついでヒトラーやスターリンのもとで数百万人が殺害された。そしてこんちにの我々の時代には、数百万の生まれる前の子供たちが殺害されている」 これに対して、在独ユダヤ人協議会議長のパウル・シュピーゲル氏が「ザールブリュックナー・ツァイトゥング」に対し「このような言葉は数百万のホロコーストの被害者に対する侮辱だ。ナチス政権の犯罪行為と中絶や安楽死を同等に見るような発言はまったく容認できない」と述べて謝罪を求めた。「緑の党」のクラウディア・ロート党首や教会信者組織からも厳しい批判が出ており、「枢機卿の権威を損なうものであり、またユダヤ教とキリスト教の対話のうえで計り知れない損害をもたらした」と厳しい批判を浴びている。 ドイツではナチスのユダヤ人虐殺(ホロコースト)は「比較のしようのない絶対的な悪事」とされていることを知っておかないと、一種の例え話のつもりで話したであろう枢機卿のこの発言が、なぜこうも厳しく批判されるのかが理解できないだろう。聖書に出てくるへロデ王の逸話やスターリンによる粛清と同格に語られただけでも許しがたいうえに、妊娠中絶や安楽死と同等に扱ってナチスの悪事を「相対化」しようとした、というのがこの批判の眼目である。ちなみにナチスには心身障害者を安楽死させて「処理」した罪もあるのだが。 断っておくが僕はナチスのユダヤ人迫害を肯定するつもりも無いし、「ホロコーストは無かった」などというつもりも毛頭無い。その凶悪さ、許しがたさについては人並み以上に知っているつもりである(あくまで本や映画でですが)。また中絶や安楽死については「出来ればしないほうが良い」という程度の意見である。それにしても、このような一種の「言葉狩り」が建設的なものだろうか?という疑問はある。 ドイツでは一昨年奇怪な自殺を遂げたユルゲン・メレマン元副首相(自由民主党=FDP)やマルティン・ホーマン議員(CDU)がやはり「ユダヤ人も人殺しをした」とか現在のイスラエル政府の施策を批判してドイツ中の非難を浴び、共に所属政党を追放されている。僕は彼らの発言を逐語的には知らないが、傍目には一種の意見封殺のような印象をもった。住んでいるとはいえよその国のことだから口出しはしないし彼らを擁護する謂れも無いのだが、何か釈然としない気分は残っている。 ドイツでは政局や時事問題をパロディにして茶化す「カヴァレット」という漫談がある。ラジオを聞いていたら今度の津波災害についてもかなりきわどい不謹慎なことを言っていたように思う。そのような批判精神旺盛なカヴァレットも、ユダヤ人のことには口をつぐんだままである。僕も身をもって体験したが、とにかくホロコースト関連のことだけは絶対に冗談になりえない。日韓ワールドカップでドイツ・韓国戦のときに韓国サポーターがヒトラーの肖像とかを持ち出していたそうが、それはドイツ人がもっとも忌み嫌う嫌がらせだったろう。 日本では「進歩的」な人が例えば南京大虐殺や日本軍の蛮行を取り上げてナチスの蛮行と比較しようとする。ところがドイツの「進歩的」な人は「ナチスの蛮行は絶対的な悪で他のものと比較などしてはならない」という意見だから、むしろ西尾幹二氏のような保守系の意見のほうがドイツの「進歩派」と意見があう。逆に日本の進歩派は「日本も過去にこんな悪いことをしたんです」と訴えようとするが、ドイツやイスラエルの人に「でもナチスほどの悪事は在り得ません」とたしなめられることになる。これは僕のオリジナルな意見ではなくて、ドイツ近代史に詳しい西尾幹二氏や佐藤卓巳氏(国際日本文化研究センター)の著書から得た知識である。 ドイツのマスコミは概ね「日本は先の大戦への反省と補償が足りない」という論調で、韓国や中国の主張と一致している。ところが建前ではドイツの犯した悪は本来比較のしようが無いのだから日本のことをどうこう言えた義理ではないようにも思うのだが。僕はドイツの戦後補償が「成功した」、つまり周辺諸国と良好な関係が築けたのは、ドイツが誠実だったからではなくて(いやまあ誠実な一面はあるでしょうけど)、冷戦という国際環境とソ連という同じくらい暴虐な帝国がヨーロッパに身近に存在したからドイツへの憎しみが「相対化」されたのだと思っている。 ていうか周辺諸国もユダヤ人迫害という点では同じ穴の狢だったし、そもそもドイツは周辺諸国に国家賠償をしていないのだが。イスラエルの人は今でもドイツを許さないそうだが、そこは日韓・日中関係と似ている。ドイツの戦後補償が「成功した」とはそもそもいえないようにも思える。 話が変わるが、「田中宇の国際ニュース解説」の最新号を読んだのだが、ますます過激な意見になっているのでびっくりした。アメリカはイラクでは勝てない、というのが最新号の分析で、その意見そのものはまあ現状分析の結果でもあるし僕も「まあそうかな」と納得出来るところがある。 ところが最後の結論の所で、「自衛隊の派兵延長を支持する親米派の論客より、小泉政権を嫌う反戦運動家の方が日本の国益に沿った主張をしているという、皮肉な事態になっている。日本は、イラク撤退を主張するパット・ブキャナンあたりの保守派や、アメリカの反戦運動家に、こっそり資金提供するぐらいのことをした方が良いともいえる。」ときたもんだ。なんかもうすごいですね。 ブキャナンというとキリスト教・白人至上主義のバリバリの保守派(孤立主義)で、それこそ中絶や避妊に反対するような人なのだが、それかそれとは正反対の反戦活動家を支援しろって、言ってることが支離滅裂じゃないか。そんな秘密工作とも言えないお粗末なことに税金を使われたら国民はたまったものではない。第一日本がしなくたって、田中さんの大好きな中国とかがやるだろうに。
2005年01月07日
コメント(10)
今日も学食には津波の犠牲者を追悼してか半旗が掲げられていた(掲げられているのは黒赤黄のドイツ国旗、赤白青のヘッセン州旗、馬上の騎士のマークが目印のマールブルク市旗)。昨日の12時の黙祷に追記だが、バスとかもその時は停車したそうだ。 今日は久しぶりに先生との懇談会(?)が開かれた。僕らの指導教官の教授は現在文学部長をしていて忙しく、博士論文の指導もかねた懇談の時間を決めて、院生やトルコでの調査プロジェクトのメンバーで週一度先生の研究室に集まる。自分のやっている研究の進捗状況とかも話すが(今日はK君が煮炊き用の土器について話をした)、学界の情報やイラク情勢などの雑談も多い。 今日はその他「ネブラの天空盤」(Die Himmelscheibe von Nebra)をめぐる騒ぎについてのニュースが話題に出た。ドイツでは結構マスコミに取り上げられて「ツタンカーメンやアイスマン並の大発見」と言われる有名な考古遺物なのだが、日本ではまだ紹介もされていないだろうから(このブログが最初で最後かな?)、ちょっと書いてみるか。 「ツタンカーメンやアイスマン並の大発見」というのはあくまでドイツのマスコミの言で、ちょっと大袈裟かもしれない。1922年に手付かずで大量の財宝が見つかったツタンカーメン王墓や、1991年にアルプスの氷の中から5000年前の男性のミイラ(「アイスマン」)が見つかったのに比べると、このドイツでの「大発見」はかなり地味かもしれない。ただし「ナショナル・ジオグラフィック」2004年1月号に特集が組まれている(この特集号には当時そこの博物館で働いていた僕の知り合いのHが出ている)。 「ネブラの天空盤」は直径30センチくらいの薄い青銅の板で、金であしらった星や三日月、船の模様が嵌め込んである。星はプレアデス(昴)を表わしているとされ、天文学の発達していた古代エジプトやメソポタミアの遺物ならばともかく、先史時代ヨーロッパにはきわめて珍しく(というか初めての例)、当時の天体知識が表現された遺物である。 一緒に見つかった遺物(青銅製の短剣、斧、鑿、黄金の腕輪)の型式から見て、紀元前1600年頃の前期青銅器時代の遺物と考えられている。ついでながら同じ時代の中近東はトルコのヒッタイト帝国やギリシャのミケーネ文明の初期、中国は殷(商)王朝、日本は縄文時代後期にあたる。 この「天空盤」は残念ながら正規の発掘調査で見つかったものではない。盗掘者がザクセン・アンハルト州ネブラ近郊の山中で1999年に発見し、故買人(盗品を隠匿し古美術市場に売り払う人)は各地の博物館や考古学者に売りつけようとした。2002年、ザクセン・アンハルト州の考古学者ハラルド・メラー氏(現在ザクセン・アンハルト州立博物館館長)は警察のおとり捜査に協力する形でこの人物に接触(電話による事前の接触で333000ユーロで商談が成立していた)、故買人は取引現場で逮捕されて「天空盤」などの遺物は押収され博物館に収められた。盗掘者の自供に基いて発見地を発掘調査したところ、平石を立てた祠のような遺構が発見され、これらの遺物は日本の銅鐸や銅鏡のように、祭儀のため地面に埋められた(埋納)ものと判断された。 センセーショナルな経緯でこの世に出たこの遺物の真贋は、発表当時から問題視されていたが、鉛同位体(Pb210)などの化学分析の結果はこの青銅の原料はオーストリアのミッテルベルク銅山起源で、かつ少なくとも数百年は下らない以前に製錬された銅であることも判明したという。ただし遺物を削って銅そのものを分析したわけではなく、遺物が発する放射線から測定した結果である。最終的な総合分析結果は今年刊行される予定だそうだ。ともあれ贋物ではなく、また犯人の自供通りに青銅器時代当時のものと思しき遺構が発見されたことから、学会やマスコミは、ヨーロッパ先史時代の天体観を物語るこの大発見に飛びついた。現在ハレのザクセン・アンハルト州立博物館ではネブラの天空盤を中心とした青銅器時代のヨーロッパを扱った特別展も開かれている(今年4月まで)。 もともとセンセーショナルな経緯で世に出た遺物だが、最近になってまた騒動が持ちあがった。レーゲンスブルク大学のペーター・シャウアー教授(考古学)が「ミッテルバイエリッシェ・ツァイトゥング(中バイエルン新聞)」に「あの天空盤は一目見て贋物だと分かる」と投書したのである(なお僕の先生はここに来る前レーゲンスブルク大学に居たから、シャウアー教授は僕の先生にとってかつての上司ということになる)。「錆に見えるのは銅に酸をかけて見せかけたもので、写真を詳細に見ればその痕跡も分かる」「この天空盤のデザインはシベリアのシャーマンの太鼓の模様を真似たもの」「盤の外周に開けられた小穴は現代のペンチを使ったもの」と指摘した。 学会誌に投稿するならともかく、いきなり一般紙に投書したというのでマスコミがこれに飛びつき、騒ぎが大きくなった。「これは本物」と太鼓判を押した化学者たちは「実物も見ないで何を言う」と怒り出して学界に回状を廻した(うちの先生のところにも来ている)。疑問をもつのは学問の初歩だが、確かに一般紙に投書したのは軽率で良くなかったかもしれない。1000万ユーロを投入して観光開発を目指す、ネブラのあるザクセン・アンハルト州当局の反応も大きかった。 何より一番怒ったのは、この遺物の押収に尽力し現在所蔵されている博物館の館長であるメラー氏だった。「遺物を削って真贋鑑定しろというのか」と怒りをあらわにし(なおこの経緯の記述は2004年12月16日付「ツァイト」紙による)、また「こういうことを言い出すシャウアー氏は、私が2002年に盗掘犯と接触する以前に犯人と接触して実際に手に取っていたに違いない」と、シャウアー氏を故買未遂容疑で告発する姿勢を見せている。 「ツァイト」紙が考古学の専門家にインタビューしたら「確かにこの遺物はきわめて例外的で、ケルト時代のものというならともかく青銅器時代のものとは誰も思わないだろう」「一緒に見つかった銅剣などが無ければ私にも年代を決めることなど出来ない」という答えが返ってきた。 真贋を疑うのは誰も同じで(むしろ学者として健全といえる)、犯人からの押収・自供や現場検証(発見地の発掘)といった「状況証拠」が無ければ、誰もこの遺物を本物とは信じようとはしなかっただろう。シャウアー教授はやり方が拙かったようで、日本でもそうだったがマスコミがからむと妙なことになってしまうようだ。 盗掘と贋作は考古学者の敵である。トルコでは盗掘が急増しているが、ドイツでも特に失業率の高い東部で盗掘が横行している。トルコの盗掘者はあちこち掘り返すだけだが、ドイツの盗掘者は金属探知機を持っているだけにタチが悪い。贋作も精巧なものは学者にも見破ることはなかなか出来ない。日本でも京都大学教授だった梅原末治が骨董屋に贋物をつかまされ、梅原の権威の前に誰も「それは贋物だ」と言い出しにくい雰囲気があった過去がある(「裸の王様」みたいだ)。 「敵だ」と言ってるばかりではダメで、対策や科学的議論の出来る学会にしないといけないのだが、学者という一種の徒弟社会に生きている以上なかなか変わらないかもしれない。ドイツはその辺比較的オープンで率直に物が言えるところがあるが、トルコなどはなかなか難しいだろうな。
2005年01月06日
コメント(5)
スマトラ津波の犠牲者は15万を越え、まさに史上最悪の自然災害の1つになった。疫病流行の恐れもある被災地での救援活動も本格化してきた。 ドイツでも募金や寄付の呼びかけが盛んで、うちの大学の学食にまで張り紙がされて募金箱が設置されている。こういうのはかつて無かったことだ。僕も小額だが思わず募金した。 今日の正午は犠牲者を追悼して3分の黙祷が捧げられ半旗が掲げられたというし(僕はその時間は家に居た)、新聞(「ビルト」)やテレビ(WDRなど)でも募金を呼びかけて相当な額が集まっているといる。 ドイツ人F1レーサーのミヒャエル・シューマッハーが高額の募金をしたというのも話題となっている。芸能人ではスピルバーグ監督やディカプリオ、サンドラ・ブロックの名前も出ていたな。もちろん善意の募金だから額の多寡ではないだろうしいいことだとは思うのだけど、やはりスターの募金ばかりが大きく報道されるというのは何か一言いいたくなる気もする。 そんな中以下の報道があった。(引用開始) 独、695億円の津波支援を決定【ベルリン=宮明敬】ドイツ政府は5日、インドネシア・スマトラ島沖地震と津波の被害への対応について特別閣議を開き、支援額を当初表明した2000万ユーロ(約27億8千万円)から5億ユーロ(約695億円)に引き上げることを決めた。 支援期間は3-5年を見込んでいる。ドイツはこれで日本が予定している5億ドル(約525億円)を上回り世界最大の支援国になる。 ドイツの被災者が死者60人、行方不明者1000人以上に上り国民の関心が高い上、国連安保理常任理事国入りの条件である国際的声望を高めるためにも大規模支援が必要と判断したとみられる。(読売新聞) - 1月5日21時34分更新<インド洋津波>被災地支援で700億円拠出 ドイツ政府【ストックホルム斎藤義彦】ドイツ政府は5日、スマトラ沖大地震の被災地支援のための緊急閣議を開き、5億ユーロ(約6億6300万ドル)の拠出を正式決定した。その数時間後に、豪州が10億豪ドル(7億6500万ドル)の拠出を表明。トップの座を明け渡したものの、積極的な支援が注目を集める。(中略) 死者数は現在60人だが、最終的には数百人にのぼるとの予測もある。ドイツの災害・事故史上、最大級の犠牲で、政府としての哀悼を最大限に示す狙いがある。ドイツ大統領府は5日、犠牲者を追悼する国家式典を20日に連邦議会議事堂で開催すると発表。9日にはベルリン大聖堂で追悼礼拝も行われる。 一方、福祉削減などで内政面での支持率が低下しているのを憂慮し、外交面で得点を稼ごうとした意図も透けて見える。シュレーダー首相は02年の総選挙前、独東部の洪水に際して巨額の支援を行い、得票率を上げたことがある。 財政難の中で、財源も不透明なままの大盤振る舞いに野党からは「ふまじめだ」との批判が出ている。また、海外への援助に従事する市民団体からは「他の地域への援助が削られて回されるのでは」との疑念の声も出ている。(毎日新聞) - 1月6日1時35分更新(引用終了) シュレーダー首相は今日の閣議で復興費用5億ユーロの拠出を決め、日本が既に拠出を表明していた5億ドルを抜いて最大拠出額となった。ドイツのマスコミも嬉しそうに(?)「この額は世界最大」と報じていた。早期にけた違いの5億ドル拠出を決めていた日本の名前がここ数日の報道で頻出していたから、これは報じがい?もあっただろう。ただしドイツの名誉の為に断っておくが、シュレーダー首相は「大事なのは額の多寡ではない」と記者会見で断っている。 しかし数時間後に、インドネシアの隣国であるオーストラリアがさらに多額の拠出を決めたため、2位になった。現在のドイツの報道では「第2番目の額」と報じている。日本の名前はあまり出てこなくなった。 当初3500万ドルの拠出を決めていたアメリカが日本の5億ドル拠出を追う形で一挙に10倍に増やしたことも示すように、言うのは憚られるが拠出額の競争の様相を呈してきているのは否めない。現に復興支援会議のためジャカルタ入りするルイ・ミシェルEU委員が「美徳行為の競争になるのは好ましくない」と苦言を呈している。一方国連のヤン・エゲラン災害対策調整担当官は「競争は私にはどうでもいいことで、拠出額が多ければ多いほど良い」と述べている。 どなたかがブログで書いていたが、この額の多寡って為替レートに相当影響されている。今でこそ史上最高水準のドル安ユーロ高で五億ユーロは五億ドルよりもかなり多額になるが、ユーロ導入時はほとんど同じだったはずだ。ユーロ高のおかげで心持ち日本より物価が安いと感じていたドイツは、今や割高に感じるようになった。ユーロ高のおかげでドイツは今やアメリカを抜いて世界最大額の輸出国になっている。 たかが為替の問題じゃないかというがさにあらず、湾岸戦争のとき(1991年1月)には日本が90億ドルの戦費拠出をアメリカに約束したが、橋本蔵相とブレイディ財務長官の会談の際に拠出が円建てかドル建てかが詰められておらず、日本側は当然円建て、アメリカ側は当然ドル建てと思っていた。ところがその後のドル高進行で日本が拠出した額が5億ドルほど目減りしてしまい、日米間に深刻な対立をもたらすことになった(マルク建てだったドイツが目減り分を追加拠出したので、日本も別の名目で追加支援して目減り分を補填している)。 被災者援助はもちろんいいことだし賛成なのだが(まあ無理でない程度ならですが)、国家が国家に援助する以上、100%善意の援助などありえず、それは政治的な意味を持たざるを得ない。現に今日の記者会見でドイツのフィッシャー外相は対象国(インドとマレーシアは辞退)のインドネシアとスリランカについて「この災害を機に内戦の終結を望む。この援助はそのためのものでもある」と訴えていた。被害の大きかったインドネシアのアチェやスリランカでは分離独立派と治安当局の衝突が続いている。 上に引用した読売と毎日の解説は、ドイツの巨額拠出の理由をそれぞれ外交と内政的要因から説明しているが、あながち的外れでもない。今日の「フランクフルター・アルゲマイネ」紙などは、政府がこの災害の「援助外交」において、ドイツの国際的地位向上や当地の内戦終結など政治問題解決にむしろ腰が引けている(慎重に過ぎる)ことをやや批判的に報じていた。拠出額競争では全く名前の出てこないフランスを引き合いに出して「フランスの外相は地震翌日には軍用機で現地入りした」と報じ、現地入りしようとしないシュレーダー首相やフィッシャー外相の姿勢に疑問を呈している。 日本のマスコミがこんな事書いたら「不謹慎だ」と叩かれるだろうなあ。
2005年01月05日
コメント(0)
1492年のコロンブスによるアメリカ大陸(中南米)発見に続き、1497年にカポトにより北米大陸がヨーロッパ人に発見され、1524年にヴェラッツァーノの航海でアメリカ東海岸の地理が知られることになったが、ヨーロッパ人の入植はずっと遅れた。中南米には先住民の金銀財宝や豊富な銀鉱山が既に知られており、そこを征服したスペインは手っ取り早く収奪することが出来たのだが、北米先住民は冶金を知らず、鉱山の存在は未知数だった。 イタリア人航海士カポトやヴェラッツァーノに探検を委託したのはイギリス王やフランス王だったことも留意しておきたい(コロンブスもイタリア人だが、早くから地中海・イスラム文明との接触があったイタリアでは地理学や航海術がヨーロッパでもっとも進んでいたのだろう)。先行のスペイン・ポルトガルが中南米の植民地化を独占してしまったのに対抗して、この両国は「無人の地」を探していた。海上勢力として興隆するイギリス、そしてスペインから独立(1581年)するオランダの両国は、スペイン船に対する海賊行為に留まり、その中南米植民地を奪うほどの力はまだ無かった。 当初北米の産物として重視されたのは魚介類(鯨油)、毛皮、そしてタバコである。北米原産のこの植物を利用した喫煙の習慣は、スペイン人によって一世紀足らずで地球の裏側の日本にまで爆発的に広まった(同じように梅毒も猛烈な勢いで広まった)。今やヒマワリと共に北米原産の世界中どこにでもある栽培植物だろう。16世紀中は大規模なヨーロッパ人による本格的な北米入植は行われず、これらの品を獲得するための一時的な滞在だった。 1584年、イギリスのエリザベス女王の寵臣ウォルター・ローリーは処女王にちなみ「ヴァージニア」と名づけた北米植民地に入植者120人を派遣したが、行方不明になった。かつて(1000年頃)のヴァイキング同様、良好な関係の樹立に失敗したインディアンに不意に襲撃されたと推測される。イギリスが植民地建設に成功するのは1607年のヴァージニア州ジェイムズタウンを最初とする。ヘンリー・ハドソンによる探検で北米の地理が明らかになるにつれ、入植も進んだ。スペイン植民地と異なり、イギリス人の北米入植は国家事業ではなく企業(ヴァージニア・カンパニーなど)や個人的な動機によっており、国家はむしろ無関心だったという特徴がある 1620年11月20日、イギリスのプリマスを出航しアメリカに向かっていたメイフラワー号の船内で、祖国での宗教的迫害を逃れ新天地を目指す清教徒(ピューリタン)101人が「メイフラワー誓約」という自治を定めた誓約を行った。これはアメリカ民主主義の嚆矢としてよく知られた逸話である。彼らはその年末に上陸地をプリマスと名づけ植民地を建設したが、厳しい冬に耐えられず最初の冬に半数が病死した。しかしインディアンからトウモロコシの栽培などを習って辛うじて生き延びた。 1641年までにイギリス人7万人が大西洋を渡ってアメリカに入植したが(1640年頃の植民地人口25000人以上)、その内訳は一旗組も居れば流刑もあり、また清教徒やカトリック(1632年のメリーランド入植)、クエーカー教徒(1683年のウィリアム・ペンによるフィラデルフィア建設)のような宗教的理由の者も居る。1692年にはセーラムで魔女狩りが行われ20人が処刑されるなど、ヨーロッパ人の宗教的偏執体質も持ちこまれた。ナサニエル・ホーソーンの小説「緋文字」(1850年)は、当時の世情に取材して書かれた初期アメリカ文学の代表作である。 当初北米植民地に無関心だった本国政府も免状や貿易特権を与えて入植を奨励した。1670年にはサウス・カロライナを占拠して、長さ2000km、幅300kmに及ぶ大西洋沿岸地域をほぼ支配下に置いた。植民地の大部分は王立とされ、王に任命された総督が派遣されるようになった。住民から制限選挙で選ばれた代表がイギリス議会を模倣した集会(アセンブリー)を開き、財政面で総督に意見を述べることが出来た。アセンブリーは徐々に北米植民地全体に影響力をもつようになる。 北米に入植したのはイギリス人ばかりではない。 スペインはフロリダ半島に植民しサン・アゴスティン(セント・オーガスティン)を建設している。しかし中南米に比べ儲けの少ない北米にあまり関心を示さなかった。英仏の北米分割が激化する中ようやく危機感を抱き、1697年にフランスに対抗してフロリダ植民地の境界(アラバマ州)にペンサコラを建設、またアメリカ西部をメキシコ領の一部とし、ロシアのアラスカ進出に対抗して1780年にロサンゼルスを建設している。 オランダは1609年に西インド会社を設立し、アメリカで敵国スペインの船舶を攻撃すると共に、入植を開始する。1623年にインディアンからマンハッタン島をタダ同然の約20ドルで購入し、ニュー・アムステルダムと名づけた。今のニューヨーク市の始めである。オランダ人はインディアンやイギリス人の襲撃から守るため集落北端に城壁を築いた。現在は株式取引などでよく耳にする「ウォール街」という地名にその名残りがある。発掘調査の示すところによれば、オランダ人たちはその生活用具(陶器やガラスなど)のほとんどをオランダから輸入して賄っており、母国と変わらぬ生活をしていた。 北欧のスウェーデンも現在のデラウェア州などに小規模な植民地を建設したが、オランダに奪われている。しかしオランダも海上交易の覇権を巡るイギリスとの英蘭戦争に敗れ、1664年にニュー・アムステルダムをイギリスに奪われた。イギリスはこの集落をニューヨークと改名した。オランダ人たちはイギリス支配下でそのままアメリカに住み続けた。現在オランダ系はアメリカ国民の中では多く無いが(ミュージシャンのヴァン・ヘーレンやスプリングスティーン、二代の大統領を出したルーズヴェルト、鉄道王ヴァンダービルトといった苗字はオランダ系)、その文化的な影響はサンタクロースの行事などに残っている。 一方フランスは初代カナダ総督サムエル・シャンプランの下、より北方のニューファウンドランド島(1603年)を基点に、セント・ローレンス川沿いに入植を始め、1608年にケベック植民地(モントリオール)を建設している。1625年からはフランス・イエズス会が布教のためアメリカ内陸部に入っている。フランスはインディアンとの毛皮と酒の交換で利益を挙げた。蔵相ジャン・コルベールのもと重商主義政策をとるフランスは、国を挙げて活発な入植活動を続け1690年頃カナダ入植者は1万を越えた。その植民地は五大湖に達しさらに1682年に以降はロベール・ラ・サールによるミシシッピ河沿岸探検が成功した(当時のルイ14世にちなみルイジアナと名づける)。フランス人たちは要所に砦を建設しつつさらに南下、1718年にはついにカリブ海沿岸にニューオーリンズ(オルレアン公に因む)を建設してフロリダのスペイン植民地との関係が緊張し、また大西洋沿岸部のイギリス植民地を大きく包み込む形勢となった。 オランダがイギリスの軍門に降った今、ともに世界帝国を目指すイギリスとフランスは、アメリカを含む世界中を舞台に帝国主義国家同士の戦争を繰り返すことになる。 1619年にオランダの海賊船が、カリブ海でスペイン商船から奪った20人のアフリカ黒人をヴァージニア植民地のイギリス人に食料と引換えに渡したが、これがアメリカにおける黒人奴隷の始まりといわれている。ニューヨークでも初期の黒人奴隷の墓地が発見されているが、その中には歯を平らに削ったり腰の周りにタカラガイをぶら下げるアフリカ大陸の習慣を残した「第一世代」の骨も見つかっている。骨に歪みや激しい磨耗があること、乳幼児の骨が多いことや平均死亡年齢が低いことなど、出土した人骨は黒人奴隷が過酷な条件で厳しい労働を強いられたことを窺わせる。 そもそも黒人を奴隷として使う習慣は中東に古代からあり、アラブ商人に雇われたアフリカ黒人が敵対部族などから奴隷狩りをしていた。南米植民地でインディオを酷使して激減させ(南米には無かった結核の蔓延もあって人口の9割が死滅)労働力供給に悩んだスペイン人は、いわばその真似をしたのである。後発国オランダ、イギリス、フランスなどはスペインに習い、より組織的かつ大規模に西アフリカで奴隷を入手し、むしろ南米よりも北米のほうが黒人奴隷は多くなった。 黒人奴隷の連行は続き、やや時代は下るが1770年代の10年間だけで71万人のアフリカ人が奴隷として南北アメリカに連行され、1820年頃には200万人のアフリカ系住民が北米大陸におり、これは当時の北米人口の2割にあたる。 イギリス北米植民地の人口は25年毎に倍増していき、18世紀後半にはのちの「建国13州」となる地域の人口は250万人を数え、都市化も進んでフィラデルフィアは人口4万、ニューヨークは2万、ボストンは人口1万5千を数えた。ヨーロッパから持ちこまれた麦の栽培も成功し、逆にヨーロッパに輸出するほどになった。移民の6割はイングランド人だったが、スコットランド、アイルランド、ドイツからの移民も多くなった。また大規模な農園経営のため特に南部で黒人奴隷の需要が増した(黒人の9割が南部に居た)。 アメリカ、インド、アフリカでの植民地経営で競りあうイギリスとフランスは、1754年にヨーロッパでプロイセン(ドイツ)が起こした七年戦争に乗じてアメリカを舞台に戦争を始めた(イギリスがプロイセンを支援)。40万という少ない人口にも関わらず要所が砦で守られたフランス植民地軍はインディアンも味方につけて善戦し、オハイオ川に進撃する。イギリスはウィリアム・ピットが宰相に就任し、海外派遣軍を増やして態勢を立て直し逆襲、1758年にはフランス側のデュケイン砦を奪いピッツバーグと改名(のちのアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンも従軍)、1760年にはモントリオールを落としてアメリカ大陸のフランス植民地を全て奪取した。 1763年にパリで和平条約が締結され七年戦争はプロイセン・イギリス連合の勝利に終わった。条約の結果イギリスはカナダ及びミシシッピ河以東(ルイジアナ東部)、さらにスペイン領フロリダを獲得し、北米大陸のヨーロッパ植民地はほとんどイギリスの有に帰した(ミシシッピ以西はスペイン領とされたが、未開発だった)。 イギリス系入植者にとってみればフランス植民地による包囲網からの解放だったのだが、イギリス本国政府は1763年10月7日に、獲得したルイジアナについてはアパラチア山脈以西への白人の入植を禁止してインディアンの所有地とした。敵対して苦戦したインディアンを懐柔するための策だったのだが、人口増加による農地の不足を感じていた植民地住民(以下「アメリカ人」と呼ぼう)たちにとっては、西方への拡大を封じられ、包囲網がフランスのそれからイギリスに代わっただけだった(1774年に五大湖周辺がイギリス直轄のケベック植民地に編入され、この危機感はさらに高まった)。 イギリスは大勝利を収めたものの、その戦費調達のための負債が国庫を圧迫していた。イギリス政府は1764年に北米植民地に「アメリカ国庫管理法」、一般に砂糖法と呼ばれる税を導入する。それまで本国政府がアメリカ人に税を直接かけることは無かったので、アメリカだけに施行されたこの法は、「アメリカ人を二等市民として扱うのか」という反感を招いた。さらにイギリスは翌年印税法を導入、公文書、新聞、書籍に税をかけた。この税は猛反発を呼び翌年撤回されるが、代わりに輸入関税をかけ、本国とアメリカ人の感情的対立は決定的なものになった。 こうして独立運動が起きてくるのだが、そのきっかけは領土拡大制限への危機感や特別税・関税への反感だったということは留意すべきだろう。あくなき拡張主義と自由貿易主義というアメリカの体質は既に独立時に見られるようである。
2005年01月03日
コメント(13)
今日はフランクフルトのシュテーデル美術館(フェルメールの「地理学者」が所蔵されている)にでも行こうと思ったが、あまり体調がよくなさそうに思えたし、午前は天気もさえなかったのでやめた。 朝っぱらから日本の母から新年を祝う短い電話(うちの家族は皆電話が短い)があったので、目がさめた。何やら夢を見た気はするのだが、どういうのか思い出せない。ということで今年の初夢は不明。 寮の中が騒がしくなっている。というよりいつもの様子に戻ったというべきか(なんとうるさい所に住んでいることか)。帰省していた学生が戻ってきたのだ。ドイツは元日で冬休みが終了である。 マツケンサンバ(見たかった・・)にも関わらず、紅白は史上最低の視聴率だったそうだ。ヨン様が出なかったからか?(笑)。まあそれが流れなのだから仕方ないでしょう。まあ僕は格闘技とかに全然興味が無いので、もし日本に居れば紅白をみただろうけど。 レコード大賞のほうはミスチル(Mr.Children)だったそうだが(浜崎あゆみが続いていたから良かったんじゃないでしょうか)、「innocent world」以来10年ぶりの受賞だって。へえ、「イノセント・ワールド」で受賞してるんだ。おいらはてっきり「tomorrow never knows」のほうかと思ったよ。こうしてみるとミスチルも息が長い。(追記・当初英語の「トゥモロー」の綴りが分からず間違えて書いてしまった。まずいなあ。英語使ってないからなあ。最近英語で論文書いたけど、昔のことやってるから「明日」なんて単語出てこないし) クロアチアで大統領選挙が行われ、即日開票の結果現職のスティエパン・メシッチ氏(70歳)が過半数を制し、決選投票無く当選を決めた。他に立候補していたのは与党HDZ(クロアチア民主同盟)のヤドランカ・コソル家族相、1998年のサッカー・ワールドカップで監督としてクロアチア代表を4位に導いたミロスラフ・ブラゼヴィッチ氏など12人だった。 メシッチ氏はかつての学生運動のリーダーで、ユーゴスラヴィア連邦内でのクロアチア人権利拡大運動に参加して投獄された経歴を持つ。1990年に中央政界に入り、何とも皮肉なことに1991年にユーゴスラヴィア連邦幹部会議長(国家元首)に就任したが、同年クロアチアが連邦からの分離独立を宣言するのに伴い辞任、旧連邦の最後の元首ということになる(その後誕生した新ユーゴの大統領は悪名高いスロボダン・ミロシェビッチ元セルビア大統領)。 1992年から95年まで、クロアチア国内の少数派セルビア人武装集団と新生クロアチア政府軍との間で内戦になり、当初こそユーゴスラヴィア連邦軍(実質的にセルビア軍)の装備を受けたセルビア系が優勢で、アドリア海岸にある世界遺産の都市ドブロヴニク(「魔女の宅急便」に出てくる町のモデルだそうだ)が砲撃を受けたり、セルビアとの国境の町ヴコバルやオシエクがセルビア人の手に落ちたりしたが、ドイツなどの支援を受けたクロアチア政府は1995年夏に反撃に転じ領土をほぼ奪還、その年末のデイトン和平合意にこぎつけた(アメリカはボスニア、セルビア、クロアチアの三大統領を半ば軟禁して和平合意を強要した)。 ボスニアも巻きこんだこの内戦ではセルビア人ばかりが指弾されるが、クロアチアもセルビア系住民や同盟相手だったイスラム教徒への弾圧が問題になった。この三「民族」は宗教が違うだけで言葉はほとんどといっていいほど差が無いのだが、過去の歴史的経緯(セルビアによる支配、クロアチアの対ナチス協力など)から憎みあうようになってしまった。もっとも、この三国に分かれた今はノーヴィザで互いに行き来しているようだけど。 クロアチアは前任のフラニヨ・トゥジマン初代大統領(かつての対独パルチザン指揮官)のときに民族主義・強権的な施策でEUから忌避されたが(むしろドイツがクロアチア寄りにEUを引きずっていた)、1999年に急死したトゥジマン大統領の後を襲ったメシッチ大統領になってからEUとの協調路線に転じ、旧ユーゴ内戦の際の戦犯引渡しなどにも応じている。 ドイツのニュースを読むと2007年にブルガリアやルーマニアと同時に加盟を目指す、とあるが、ほんとかいな。僕はクロアチアは通過しただけで高速道路とドライブインしか知らないが、インフラを見る限りドイツ資本がかなり入っていてEU諸国と大差ないように思えた。ただ警官とかの態度が悪かったのが今も悪印象として残っている。まあブルガリアよりはEUへの距離が近いように思う。 なんかとんでもないニュースが入ってきた。(引用開始)北朝鮮、比過激派に武器売却…潜水艇密輸も図る【ジャカルタ=黒瀬悦成】北朝鮮が、国際テロ組織アル・カーイダと関係が深くフィリピン南部ミンダナオ島の分離独立を目指すイスラム過激派「モロ・イスラム解放戦線」(MILF)に対し、1999年から翌年にかけ自動小銃など1万丁以上を売却し、自国製の小型潜水艇の売り渡しも図っていたことが東南アジアの治安当局の調べで明らかになった。 潜水艇は、自爆テロや構成員の潜入を目的としたものと見られ、域内諸国の治安当局は、一連の取引に関する情報を共有するなどして警戒を強めている。 東南アジアの治安筋によると、北朝鮮とMILFとの武器取引は、治安当局が2004年11月にMILFから押収した書類などから発覚した。(以下省略)(読売新聞) - 1月3日3時3分更新(引用終了) いやまあ何というか、アメリカはイラクを攻撃する前に・・・、ぶつぶつ。 まあある程度予想は出来たのだが。日本人拉致のほかにもドルの偽造(スーパーK)、外交官特権を利用した麻薬の密輸(北欧諸国が舞台)などに手を染めている国だしなあ。国というより犯罪集団でしょう、こりゃあ。これも反米帝闘争、反帝国主義民族闘争支援の一環なんでしょうね。それとも「ねつ造だ、謝罪しろ」の一点ばりだろうか。ふう。
2005年01月02日
コメント(6)
2005年になりました。皆様明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。 夕方ラジオでシュレーダー首相の国民向け談話を聞く。話題は東南アジアの津波被害とそれに対するドイツ政府の支援のことに終始し、内政のことは「今はその話題は適当でない。改革は続く」とお茶を濁した。人道支援とかの話題はむしろ大統領談話にしたほうが適当だと思うのだが。 昨日の夜は研究室仲間のドイツ人D及びCやK君Uさんと共に、大学の近くにあるイタリア料理店に行った。この店には時々来るが、いつもはスパゲッティくらいしか食べないのだが、今回はサルティンボッカ・ローマ風という肉料理を食べた。美味しかったがちょっと高い。 この店には特にコースというものも無く、やはりピザやパスタもしくは肉料理だけを食べるドイツ人向けになっているのだろうか(正式なイタリア料理だと前菜・パスタ→肉魚料理→デザートとなるようだが。そんなのしょっちゅう食べたら太るよな)。 その後、年越しパーティーに合流すべく歩いて移動、いつもは家でホームパーティーをするのだが、今年はドイツ人の意見で飲み屋などでイベントとして行われる年越しパーティー(参加有料)に参加することになっていた。ところが最初に行った会場は子供向け、二つ目は逆に中年以上の人ばかりで、駅の近くにある「クラブ」風の若者向けの店に辿りついた。入場料は大晦日特別料金で7ユーロも取られた(年越し後はタダになったらしい)。ここで他の日本人RさんKさんとも合流。 店内は赤が基調の内装で、やかましい音楽がかかっている。服装をばっちり決めた肌も露な若い女性がたくさん踊っている。男のほうはむしろさえない格好の奴が多い。最初は店の雰囲気に慣れずに戸惑った。しかし一緒に行ったドイツ人二人は僕よりも年上なのにも関わらずこの若者(10代ではなく学生層)向けの店を気に入っているようだった。Cなどは曲に合わせて身体をくねくねさせている。 年越しの直前に皆で店外に出て、シャンパンが無料で配られてカウントダウンの後乾杯した。その後は各自持参した花火に点火して一しきり楽しむ。人や車があるところで平気で火をつけるし、どこに飛ぶのか分からない花火が多いので結構危なかったりする。僕はロケット花火ではなく設置(地上噴射)型の花火を中心に持参したのだが、これは正解だった。様々な色の火が噴き出して綺麗だし、ロケットに比べて間がもつ。 今年は以下のようなニュースもあったが、町中で市民が上げる花火がちょっと少な目かな?と思う以外は、例年と変わらなかった気がする。(引用開始) 独、新年番組で支援訴え 祝賀行事の会場でも【ベルリン1日共同】ドイツでは12月31日から1月1日にかけ、新年祝賀行事を伝えるテレビ各局の放送が、スマトラ沖地震と大津波の被災者支援の募金を呼び掛ける“チャリティー番組”となった。 「世界最大の屋外パーティー」を自称する首都ベルリンのブランデンブルク門近くの祝賀会場の特設舞台では、バンド演奏の合間に何度も「津波被災者に義援金を」との呼び掛けが行われた。地震当日に赤十字に寄付したという女性会社員(29)は「ドイツは観光だけでなく経済でもアジアと一体です」と話した。 シュレーダー首相が「(祝賀の)花火より寄付を」と訴えたこともあり、地元報道によると、この数日の花火の売り上げは例年の半分から3分の1に減少した。(共同通信) - 1月1日12時34分更新(引用終了) 花火が終わったあとは店内に戻り、またやかましい音楽がかかって皆が踊り出す。案外古め(90年代)の曲もかかったので、年甲斐もなく僕もかなりはしゃいでしまった。こんなパーティーに出るのは本当に久しぶりだったが、10歳くらい若返ったような気になった。 それにしてもこういうときのヨーロッパ人を見ていると日本人よりも動きが本能的だなあと感じる。こういうのは踊り好きで知られたケルト人以来だろうか、と場違いなことを考えてしまった。まあ若い女性が多くて悪い光景じゃなかったけど。 3時過ぎまで店に居て、パーティーは続いていたが僕らは解散した。というわけで今日は起きたのも昼前だし、昨日の夜のタバコの煙やいがり過ぎたせいで(店内が喧しく会話は大声で無いと出来なかったので)、喉が痛い。店も博物館もどこも開いてないし、今日は家でおとなしくすることにしよう。
2005年01月01日
コメント(10)
全27件 (27件中 1-27件目)
1