「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ばっちっこ その18から
心の備えがなかったので避けきれなかった。逆にそれが災いし、素人っぽい拳の親指が頬をかすめた。親指の先に普通は付いている爪がこの教員の場合は特に研ぎが入っていたらしく、左頬にちょっとだけ痛みを感じた。右後ろにのけぞっていた俺はそのまま机を回りこんで、周りで見ている同級生たちに怒鳴った。
「いいな、先に暴力をふるったのは名前の通り、崎野教諭だからな」
おう、証言するからやっちゃえ、と、俺と一緒に生徒会を副会長として切り盛りしてくれた山田が真っ先に励ましてくれた。続いて光子がきゃあきゃあした声で、すてきい、あたし、裁判所いくからねえ、と叫んだ。
俺は詰襟のホックを止めなおして崎野との間合いを詰めた。喧嘩に臨むときいつもするように、左の唇を思い切り引き上げ、嫌みたっぷりに見える表情を作ったのだが、さっき殴られた痛みが残っていて、ますます引きつった顔になっているのが自分でもわかる。
「お前、そんなことしてみろ、高校入試だぞ」
まだ言いたいことがあったはずだろうが、ぐだぐだ脅しの文句を連ねている間に一気に近づいて鳩尾(みぞおち)を正拳突きした。頭の上を崎野の右腕がうなりをあげて通って行ったが、途中でスピードがなくなり、90度くらいオーバーランしたあたりで崎野はそのまま前屈みに倒れた。
実は一番近い交番よりも新宿警察署の方が近い。だから真っ先に飛んで来たのは金沢警部率いる、いわば後詰の部隊だった。部隊と言ってもたった3人だが、それでもこの中学校に警察が導入されるのは開校以来初めてのことだと生徒会担当顧問の教員が大声でわめいているのが聞こえる。
「先に手を出したのは、どっちかな、先生のほうかい、そうかそうか」
俺は立ち回りの後すぐに現場保存だと叫んで生徒全員を教室に残した。崎野教諭は腹を押さえながらすぐ下の階にある職員室に駆け下り、警察を呼んだようだ。しかし3階の俺たちの教室に校長以下学校の幹部とほかならぬ崎野教諭を連れて戻ってきた金沢さんが最初に声をかけたのは生徒のほうだった。
俺の方を向いて、背広をきっちりと着こなした金沢さんが言った。
「高松くん、君はこの崎野さんを傷害容疑で告発することができる。その時点で警察は動く」
ここまで聞いたとき校長が、そんなバカなことがあるか、悪いのは生徒だ、暴力を振るうのはこの生徒だ、先生はやむにやまれず罰を加えようとしただけだ、とわめきだした。
金沢さんは校長の方にどん、と音をたてて一歩踏み出した。校長は黙った。
「ほかの生徒たちの証言があります。それに」
教員たちが一斉に生徒の証言なんてどうのこうのと言い出したのを左手で大きく平泳ぎのように空を掻いて制止すると、
「それにこの子の剣道の腕なら、至近距離で鳩尾に正拳突きを食らうようなどんくさいけんかの腕前の男を相手にして頬にこんな傷を負うわけがない。不意を突かれたに決まっている。間違いない、先に手を出したのは崎野さん、あなただ」
3年A組にいた中学生も教員も、誰ひとり声を出さずに金沢警部を見ていた。俺すらびっくりして見ていた。やがて再びゆっくりと俺の方に向き直ると、
「校長の教育委員会主幹昇進は夏の一件でつぶれたし、崎野氏の教頭昇進も消えてるし、この上、連中に泥をかけると恨みだけが残るよ。ここはひとつ、示談にしないか。校長先生、部屋、貸してください、4人で話し合いましょう」
金沢さんは俺ではなく校長と崎野教諭の背中に腕を回し、肩をたたきながら出て行こうとした。振り向いて俺の方を見た。示談が何を意味しているかわからないまま、俺は金沢さんを信じて後ろからついて行くことにした。
校長室に入ると金沢さんはドアの鍵を下ろした。応接のソファに3人が座ったのを確かめるようにして、提げていた黒いよれよれの鞄から書類を取り出した。大きく示談書、以下かなり小さな字で何事かが不動文字(注1)で書かれている。
「じゃあ、ここ、甲のところは高松さん、乙のところ、崎野さん。で、崎野さんは今後請求なし。高松さんは、その傷、障害等級は、と」
高松さんはクリヤファイルに入ったB5サイズの黄ばんだ紙を取り出した。
「ええと、男子の容貌に醜状を残すもの、と。14級、給付基礎日額の五六日分、と。いやあ、まあ、著しい醜状ってほどでもないでしょうねえ。しかしいつも思うんですが、女子の容貌に著しい醜状を残した場合は、男子の容貌に著しい醜状を残した場合に比べて格段に重いんですよね、5倍くらいかなあ。女を殴るもんじゃないね、男女平等じゃないなあ、ということで、まあ、判例(注2)では100万円だそうですが、まあ、70万円、どうですか。治療費は別で」
最後に、響子に無理やり作らされた拓銀の口座番号を書かされて、そこに12月10日までに70万円と治療費相当の20万円を足した90万円が振り込まれることになった。崎野教諭のボーナス日を考慮した日付だったようだ。
「さあ、終わり、これで何もなかったことになりました。久保田さんも崎野さんも、被害者である高松さんの温情に感謝したほうがいいですよ、お二人とも、傷害罪で告訴なんてことになったら社会人として終わっちゃうところだったわけですから」
俺はやり取りをぼんやり聞いているだけだったので、金沢さんの『温情』がいまいちピンと来ていなかった。二人ならんで校長室を出、何気なくそのまま新宿署までついて行く形になってしまった。道すがら直前までのことを話題にするのが何となく恥ずかしく、また憚られる気がしたので、わざと話題を変えて新宿やくざのことを聞いてみた。
すると意外な厳しい口調で金沢さんが言った。
「高松くん、本当は君も同罪なんだよ、明らかに過剰防衛。普段のきみを知っているぼくだから、あんな形の示談にしてあげられたけど、どこか一つ歯車がずれていたら今頃きみの方が取調室だよ。きみは、きみはもっと自重しなければならない」
「感謝してます。たまたま金沢さんがおいでくださったからこれで済んだということはよくわかっています。ご期待に添えるよう僕なりに頑張りま、いや、自重します」
「わかってくれればいい。きみは、もっともっと大きくならなくてはいけない。あんな小物どもにかかずらわっている暇はないはずだ。新宿のやくざの話なんて聞いてどうするつもりだ。まあ、いまは2派が争っていて危うい均衡に乗っている状態だから素人は手出ししない方がいい。きみなんかは絶対近づくな。百害あって一利なしだぞ。きみは、区立Y中の星、なんだ」
俺は勝手に星扱いされたり思い込みで過大な期待をかけられたりそのおかげで品行方正を装わざるを得なくなったりするのは愚の骨頂だと思う。だから本当はバカバカしくてしかたないのだが、でも金沢さんを傷つけるのも忍びない。
「バカくせえ、俺はあんたの星じゃねえよ」と、少年の本来の残酷さを発揮するのを百分の九十九のところで踏み止まった。かろうじて虚飾を吐き出した。
「はい。まあ、星は、犯人みたいで願い下げですが、ご恩は忘れません」
「俺、Y中の2期生なんだ、だからきみはずっと下の後輩なんだ、だから、なんか、な。頑張って欲しいんだよな」
「わかりました、じゃ、先輩、ですね、今度、剣道も、よろしくお願いしますね」
「だめ、そっちは手は抜かないぞ、もたもたしてたら横面(注3)張るから覚悟しとけよ」
新宿署では留さんと呼ばれる五十いくつの定年間近の鑑識が本職のおっさんが丁寧に傷口を処置してくれた。かえって男前が上がったかもしれんぞ、と笑われた。捜査で藪に入ったり捕り物で立ち回りをしたような浅手の傷を、痕が残らないように始末する腕前は新宿署の誰もが頼りにしているそうで、そもそも爪で引っ掻かれたほどの傷は何の痕跡も置いて行くわけがない、顔には。でも、中学校の教員たちにとって俺は、いきなり我を忘れて殴りかかられるほどいやなやつになっていたということに、ある意味ショックを受けていた。そちらの傷は留さんにも癒すことはできそうにない。更に、その『ショック』だって、自らまいた種から成長したものによって与えられたに過ぎないのであって、いずれそうなることはわかっていたはずのことだ。好き勝手をすれば当然、こうした形で自分自身に責任と結果が降りかかってくるのだということを、いったい、これで何度目になるのだろう、思い知らされた俺は、不機嫌をできるだけ顔に出さずに新宿署を出た。
向かう先は言うまでもない。
注1)契約書などで、はじめから印刷されている定型的な文章のこと。
注2)最高裁判決ではないので、狭義の「判例」ではない。
注3)剣道で、文字通り、耳のあたりを払い打ちする「面」撃ち
ばっちっこ その19
寝ないで待っていたのが歴然だった。泣き腫らして丸くなってしまった頬と荒れた肌が、あたし泣いてたのよ、と自己主張している。が、俺の顔に10センチほど塗り付けられた水絆創膏(注1)と、その上にご大層に斜めに張られたガーゼとテープを見て、
「あんた、あんたったら、とうとう筋もんと喧嘩したの? あの女のヒモでしょ、それで大丈夫なの、顔以外は無事なの? 死んじゃいやよ」
と靴を脱がすのももどかしげに俺を部屋に上げた。
「これか、これは教師にぶんなぐられそうになって、よけそこねた。酔いが抜けてなかったからドジ踏んだ。他は問題ない。こんなもんで死ぬもんか」
「よかったあ、あたしあたし、あたし」
外は早めの木枯らしが吹いている。新宿御苑の木々がざわざわと鳴っているのがガラス戸越しにくぐもって聞こえる。部屋の中は冷え切っていて、風を切って歩いてきた俺の体も冷たくなっていて、更に響子の体もスイカかカボチャみたいに寒々しい。
こんな成り行きだから仕方なく抱きとめてやったが、俺はすぐにモモヨの骨細で満足に肉がついていない、それでいて妙に色気のある身体を思い出していた。決して太っているわけではない響子を組みしだいて、いつものように指や手のひらが吸いつくくらい緻密で白い肌をくすぐるように弄(もてあそ)んでいると、俺も響子もようやく温かみを感じられるようになってきた。
「あたし、あんただけなんだから。ゼッタイ、のぶひこさま、あたし、のぶひこさまだけなんだから。あんなシャブ漬けのガイコツ女よりずうっといいって言ってよ、ねえ、もう行かないって言って、言って」
今度は響子が悋気(りんき)に狂う番だった。俺はまだ会ったことのない磯田とかいうじじい(かどうかもわからないのだ)についこの前猛烈に嫉妬したが、昨日と今日は響子のがこの最低の感情の嵐に翻弄されているわけだ。眼尻にたまった涙を舐めてみた。確かにしょっぱい。なるほど、これがジェラシーの味なのだと知った。
身づくろいすると響子の顔は赤みが戻っている。俺もきっと上気した顔をしているはずだ。
「おなかすいちゃったあ。夕べからなんにも食べてなかったんだっけ。のぶひこさま、何か食べる? ああ、もう5時じゃない、ご飯ごはん」
「ご飯じゃないだろ、焼きそば、いや、焼きもちの妬きそばだな」
「あたしさあ、安部定(注2)の気持ちがすんごいよくわかっちゃったのよ、夕べ」
安部定と聞いて俺はちょっとびっくりした。ゴールデンウィークのさなかに、同じような事件が東京であったからだ。思わず股間を見てしまった。しかし響子のあっけらかんとしたトーンは、そんな昭和の安部定事件とは全く関係がなさそうで、恐らく俺がちゃんと響子の元へ戻ってきたという確信と安心感が出させているのだろう。しかしそうではないのだ。
「桃代に狂ってる。響子は好きだ。わかるか、わからないかもしれないな」
「あんた、あの娘、シャブ漬けよ、カクセイザイやってるのよ、間違いなく。そんなのと付き合ったらあんたの方が危ないわよ。本格的にすじもんの世界に行っちゃうわよ、ねえ、ぷろみっしんぐ東大なんでしょ、人生狂っちゃうわよ、これはね、ああしのこと言ってるんじゃあいのよ、のうひこさんのね、のぶくんのね、こと、かんあえて言ってるんだからね」
最後のほうは涙声で、しかし言うべきことはちゃんと言うんだという意思がありありと伝わる言い方だった。しかし俺はすでに響子の方を向いていない。あくびが出そうになるのを我慢するのが精いっぱいだ。いくらなんでも大演説を聞きながら退屈しているのを感じさせてはまずかろうと、代わりにモモヨのことを考えていた。
バングルの下の傷のことを思い出した。幅が5センチもある不釣り合いなほど太い緑のバングルの下には、細いのや太いのやら、5条か6条、いやそれ以上の切り傷があった。芸術家は繊細なる神経をお持ちだからいろいろあるんだろうとその時は深く考えなかった。考える前にやることがあったせいもあるが。それに、せっかく知り合ったジャズ演奏家だ。繊細、で済ませておかないと、俺自身が詮索を始めてしまいそうだった。
当時、周りではグループサウンズが真っ盛りだった。同級生の女たちは、事あるごとにジュリーだショーケンだ、と騒ぎ立てた。ビートルズもまだ人気があった。小学校時代、テストのたびに答えを盗み見させてやっていた於歌多(おかだ)という料亭の一人息子の岡田邦彦は、どううまくやったのか成城学園中学に滑り込んで、そこで勉強もせずにへたくそなバンドを編成し、ドラムを叩いていたのだが、文化祭に遊びに行ったときのタテカン(注3)には『林吾岡田」と飾り文字で書かれていた。無論、肩より遥かに下まで髪の毛を長く伸ばしていた。お前のどこがリンゴ・スターだ、というのはなし。演奏はへたくそとしか言いようがなかったが、姿かたちはかわいいものだった。
でも俺の周りはジャズ一色だった。初めてプロのジャズマン、じゃない、ジャズウーマンとお近づきになったのだ。一晩ご一緒したのだ。すごい美人なのだ。
が、響子の見立てが本当なら、麻薬中毒で情緒不安定になり、何度も自殺を試みた証拠ということになる。であれば、何の前触れもなく発作のように自殺を図ることがあり得るわけだ。俺は俄(にわ)かに心配になった。
今晩は夕べと同じ『J』で、出番は7時半からと聞いていた。例によってジャガイモが入った奇妙な味のソース焼きそばを食べ終わってもまだ6時にならない。そういえば豚肉が上等になっている。これは今までの豚小間と呼ばれる、どこの部位かわからない肉ではない。たぶん、ロース肉だ。俺のうちで食べる豚肉は豚小間よりもまだ安い正真正銘の屑肉だから、本当は豚小間の入った焼きそばなんて豪勢な料理なのだが、響子と過ごした3年の間に、俺もそれだけ口が奢ったと言うことになろうか。しかしこのロース肉はうまいぞ。
無言でパクパク食べる俺を見て少しは安心したのだろうか。響子は自分では半分も食べずに俺の皿に移すと、化粧道具を持ってテーブルに戻ってきた。
「少しでもね、長くね、のぶひこさまと一緒にいたいしね。でも今日は7時に出勤なの、だからもうあたし行かなくちゃいけないの。またあした、ね、のぶひこさま」
気が急いているのを見破られずに済んだらしい。6時半に響子と二人で部屋を出て、新宿通りに出てすぐのところにある地下鉄の入口を降りていく響子を見送った。2段降りるたびに振り向いて泣きそうな顔をする。今生(こんじょう)の別れでもあるまいしと思うのは俺だけで、響子は芯から別れがたかったのかもしれないのだが、人に寿命があるなどということに全く想像がついて行かない年齢だったのだ。俺は、まだまだ若かった。
ばっちっこ 続く
注1)コロジオン(セルロースのグルコース単位につき2ヶ所に硝酸エステルを持つニトロセルロース(ピロキシリンと呼ぶ)をエタノール、ジエチルエーテルの混合液に溶かしたもの)を主成分とした接着剤のような液体を患部に塗布し、乾燥させることで被膜を形成し、細菌の侵入等を防ぐ。被膜が患部に密着するため皮膚の屈伸に強く、また、水にも強いという特長を有する。(Wikipedia)
注2)言わずと知れた安部定(あべ さだ)。1905年5月28日生まれ。東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)出身。(Wikipedia)
注3)立て看板のこと。大学から消えて久しい。
ばっちっこ その20
開演まで1時間ある。いきなり押し掛けるのもはばかられるし、だいたい女は追うといい気になるもんだと他ならぬモモヨさんから教えられていたから、新宿通りを渡ったあたりをぶらぶらすることにした。
新宿御苑駅から『J』に向かう道の左側が新宿2丁目である。しかし背中にへそがついている俺はとりあえず右に行くことにした。普段のテリトリーは同じ新宿でも西口からせいぜい歌舞伎町までだから、このあたりになじみはない。意外と暗い道を少し行くと小さな消防署があり、古びた、しかしピカピカに磨き上がられた消防車が2台、それに救急車が紅白のお餅のように並んでいる。その隣に間口が2間位しかない小さなお宮があった。
『秋葉神社』とある。奥ゆきも10メートルとない、本当に猫の、いやネズミの額くらいの境内だ。本堂にはそれでもちゃんと燈明があって内部を照らしている。そろそろ酉の市が立つ時分だったこともあり、掛け軸に目を凝らすと、『沢坊御真筆』と付箋のような紙が横についていて、『火伏守護』と大書してあった。どうやらこの神社には防火・消火の神様が鎮座ましましているらしい。消防署の隣であまりに出来過ぎのような気もしたが、ちょっと面白かったので戻って消防署の事務所にいた若い隊員に聞くと、隣にそんな神様がいるなんて知らないという。しかし鳥居の銘には大正三年建立とある。どっちが古いかわからないと思うのだが、どうせこんな若いやつに聞いてもろくなことはわかるまいと自得して2丁目のほうへ戻ることにした。そう、俺よりは年上に決まっているのだが、なんだか最近の俺は妙に老成した気分が横溢している。
角の古本屋の軒先には俺の背の高さ以上にアメリカのペーパーバックが積まれている。その手前の平台には箱根や湯河原あたりの旅館が土産にしたらしい白黒の絵葉書が並べてある。響子がやけに熱海に詳しいと思ったが、どうやらこの店から仕入れたもののようだ。俺にとってはたとえば駒ケ岳や旧東海道をのんびり登山するのが箱根のイメージだが、たぶん響子は俺か、あるいは「磯田」と温泉につかるのが一種の妄想なのかもしれない。
すっかり暗くなってしまったが、まだ7時前である。ゆっくりと散歩するつもりで北へ向かうと、広い境内を持った大きなお寺があった。霞関山本覚院太宗寺というらしい。門をくぐってすぐ右手に高さ5メートル近いお地蔵さんの銅像がある。その先に小さめのお堂があって、裸電球がぶら下がっている。中を覗くと閻魔堂だった。ほの暗い明かりのなかで赤い法服をまとい、かんざしみたいな筒みたいな角みたいなものを横に2本生やしている。そんなに怖いものではない。どちらかというと愛嬌のある顔立ちだ。五円玉でも上げようと思ってポケットを探りながら何気なく左のほうを見て腰が抜けそうなくらい驚いた。なんとも気味の悪いばあさんが片膝立ててこっちをにらんでいる。
「うう、こりゃなんとも」
俺は思わず独り言を漏らした。右手には何か萎(しな)びた抜け殻のようなものを持ち、しわくちゃの顔は口が大きく開かれ、今にも「ばかもん」というどなり声が聞こえてきそうな迫力である。はだけられた胸にはあばら骨が浮きあがり、申し訳のように房が二つ、垂れ下がっている。そう、おっぱいのなれの果てだ。響子の豊かな胸も、モモヨの薄い胸も、この歳になればどちらも同じような単なる『房』になるのだろうと思った。俺の股間の袋もきっと。
と、人の気配がする。敵意はなさそうだ。
肩を叩かれた。フルートグラスをなでるような感じだ。ゆっくり振りかえる。
「そんなしなびたばあさんじゃなくって、あたしなんかどうよ、って、ここははってんばじゃないから、あんたはそっちのひとじゃないのか、な」
160センチくらいでちょっと小太りのおじさんがにこにこしている。たとえばひげのない「伴 俊作(注1)」といえば分かる人にはわかるだろう。俺はすぐに目をそらした。そう、育ちと躾がいいので、見ず知らずの人をじっと見つめたりしないのだ。
「あらあ、ざんねんねえ、おしくらさんかしら。このへんだと1けんだけあるわよ、そっちも」
まだ文脈が読めない。そういうときは黙読に限る。
「でもねえ、たまには『らんや』にもきたら」
うーん、はってんば(注2)。八点? おしくら(注3)。まんじゅうか?らんや(注4)。なんのこっちゃ。
「こんなじかんにだつえばばあにおまいりしてんだからただもんじゃないやね、だけどどっかのくみのひとでもなさそうだし。だしょ、だったらちょっとかおかしなよ」
あまりにもおもしろそうな世界なので俺は一瞬どこにいて何をしようとしていたのか忘れてしまった。
「あらうれしや、ごいっしょしてくれるわけね、やだあ、あたしって、まだいろけむんむんなわけ、かなあ」
おじさんは有頂天に見える。山門を出て右すなわち西からぐるりとお寺の境内を回りこんでしばらく歩いて行くあいだ、何か言うたびに胸の前で両手を合わせたり、指を組んだりしている。これで、右手の甲を左の頬に当てて小指でも離せば立派なもんだと思っていると、
「そこ、そっちが新宿公園。はってんばよ、あんたがここにいたんならまちがわなかったんだけど、ね、ふふふ、てがかかっちゃう」
最後はかすれた声を鼻に抜きながら精いっぱい科(しな)を作った感じだ。ふふふ、のところで期待していた『右手の甲を左の頬に当てて小指を離す』決めポーズが飛び出した。間違いない、この人はそっちのひとで、これから俺が連れて行かれる所はそういう場所だ。
途中でさっきの萎びた乳房の「だつえばばあ」の正体がわかった。「奪衣婆」。閻魔様に仕えていて三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、罪の軽重を測るのだそうで、右手に持っていた抜け殻のようなものがそのはぎ取った服だとのこと。江戸時代は何故かこのあたりの飯盛女(注5)たちの神様としての信仰も集めていたらしい。
あーらけんちゃん、という声に迎えられてひらがな二文字の店のドアをくぐった。
「どこでそんなじょうだま(上玉)拾って来たのよん。お客さんたちかすんじゃうじゃないのさ」
「まあまあのっけからやかないの。あたしのほうがだつえばばあよりましだってだけでついてきちゃったのよね、ぼく?」
俺は敢えて無言のまま一番奥のストールに座った。カウンターが少し湾曲しているので、ここからだと店の入り口からママ(というのかどうか知らない。あとでクロちゃんという通称であることはわかった)の横顔まで見通せる。
「モテモテだからね、あんまり時間ないらしくてね、とりあえず、あたしから一杯、ね」
ケンちゃんという、ひげのないヒゲオヤジが俺にウイスキーのロックを勧める。何の気なしにワンショットで飲み干すと、ボックス席にいた3人連れから、じゃあ、あたしたちもと声がかかって、こちらはチェイサー付きでシングルグラスが3杯贈られてきた。なかなか凝ったグラスで、干してからしげしげ見ているとクロちゃんが
「良さ、わかるのかしらね、わかったふり、かな、それとも」
「ラリック写し、ですか。本物にしては色が新しすぎる」
「ラリックはあたり、ね、『写し』じゃなくってよ。も、の、ほ、ん」
「へえ、でも惜しくないですか」
3人組のリーダー格の男が、いや、どっちだろう、女、とお呼びする方が好まれるのだろうか、がクロちゃんの答えを待たずに言った。
「あれにだって未練ないんだから、たかがガラス、どーってことないーのよねー、ねえ、クロちゃん」
クロちゃんは苦笑しながら言い返した。
「物欲と性欲と、それにニュウヨクはあしたでもいいけど、キンヨクは一期一会よ。お別れするのはツライもんがあるのよ」
「モロッコまで行ったのよ、この人」
ケンちゃんが俺に向かって言った。
「でもそんなのはまた、いつでもお話、できるよね、ねえ、雲さま」
何故かこの時俺は本名を名乗らず、父親の名前を告げていた。『雲(くも)』というのは正真正銘俺の親父の本名である。
新顔ということで飲み代はタダにしてくれるという。その上この後行くところがあるからと自己申告してあったので、どんどん入ってくるお客さんも含めてご挨拶交換が続いた。2丁目の情報収集も抜け目なくやったつもりだ。
「並びにはみんだん(注6)もあるしね、やばいときはほんとにやばかったりするのよ」
「南北対立ですか」
「そんなブンガク的なもんじゃないわよ、にんげんのしんえんがのぞけるってもんよ」
「しんえん?」
「あんた、ガク、あるようでないのね、しんえんつったら、深い淵よ、深淵」
「ミリタリールック、店あんのよ、あんた、にあうかもね。けっこう立川とか、兵隊も来るのよね。でときどき、ものほん置いてくのよ。」
「ライフルとか?」
「まさか。長尺のナイフとか、せいぜいハジキくらいよ、それも実弾が5発とかね、まあ、使い捨てみたいなもんでさ、ときーどき、ソ連製もあったりして。どっから手に入れるんだろうね」
こちらがヘテロだとわかってしまっても、格別の分け隔てなく笑いに興じてくれるこの人種に俺は好意を持った。その好意が彼らの好意と輻輳して、ほんの1時間強で足腰が立たないくらい酔いが回った。が、それでも7時過ぎ、予定通り俺はモモヨの待つ『J』に向かった。
注1 伴 俊作:ヒゲオヤジ。当時流行っていた手塚治虫の漫画の有名なキャラクター。たとえば
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%A4%E3%82%B8
注2 はってんば:発展場。同好の士が集う場所。
注3 おしくら:まんじゅう(女性器の異名)。転じて、男性のヘテロ(注7)のこと。
注4 らんや:蘭屋。有名なゲイバー
注5 飯盛女:めしもりおんな。江戸時代、このあたりは甲州街道の一番目の宿場町だった。旅籠(宿)で夕飯の時、そばにいてご飯をよそってくれる女性、ではなく、まあ、そういうこともしたかもしれないが、男のすりこぎを受け止めるすり鉢の役を果たし、白くてちょっと粘るものを男から分泌させる仕事を専らとした女性たちのこと。
注6 みんだん:民団。在日本大韓民国民団のこと。もう片方が朝鮮総連。
注7 ヘテロ:ヘテロセクシャル。異性とだけする人。
ばっちっこ その21
クロちゃん、ケンちゃんに明るく見送られて『ぱる』(ああ、この店の名前だ)を出たのだが、大方10杯くらい飲んだストレートのダルマ(注1)が足に来ている。こういうのを「しこたま酔って」と表現するのだと、妙にそこだけ醒めた頭で『J』へと歩いて行った。
階段を下りて地下の扉を押すと、3組くらいしか客がいない。ステージも空だった。モモヨもいない。中学に入った時に父親からもらったセイコーの時計を見ると、すでに7時40分を過ぎている。ちょうど演奏の合間なのだろうと見当をつけた。まだ、冷静である。
と、他の客が帰っていく。俺は朦朧としながら前から3番目の、ステージに向かって左側のテーブルに崩れるように座った。半分目が開いていない。その開いているほうの目の端に、一人だけ、残っている男の姿が映った。一番前の列の右側にいる。他には誰もいなくなった。
俺のテーブルにオンザロックが置かれるのと同時くらいにステージがごそごそ言い出した。カルテットがめいめい楽器を抱えてステージに現れたのだ。ひどく散漫になっている俺の注意力でも、バンドの連中が息をのむほどびっくりして腰が引けているのがわかる。
ちょっとした地震があった。それをネタに何かくだらない前口上を短くしゃべってからすぐに演奏が始まった。『クレオパトラの夢』だった。ピアノのイントロが終わるのを待っていたように、むちゃくちゃな殺気が流れて来た。一番前にいた男。そういえば昨日もいたような気がする。
「モモヨに手を出したんだって、俺の女だって、わかってやったんだな、いい度胸だな」
俺は黙っている。さっきのけんちゃんとの邂逅と同じだ、文脈が読めないときは黙読に限る。上目遣いで見上げる。少しだけアルコールが抜けていく。視線に載せて放出しているような感じだ。間合いを測る。170センチくらい、すなわち俺と同じか、少し小さいくらいの上背だが、肉付きはいい。角刈りがいかにもその筋で長く生きてきた風格を見せつけている。
凶器は出ないと踏んだ。空手や柔道などの本格的な武道をやっていたようにも見えない。
「ふん、クレオパトラか。シーザーの次はアントニウス。おお、そういや、あんた、アントニウスに似てらあな。モモヨはあんたの夢を見るのか」
椅子を引き、立ち上がってついた悪態を無視して男はリズムを刻んでいる。顔には笑いが張り付いている。もちろん、笑っているわけではないのだ。次に来るのは修羅場だということがお互いにわかっている。ジャズを背景に、俺たちのにらみ合いは終わらない。アルコールは俺の身体と頭を行き来している。身体に行ったときは頭は冴える。頭に戻ってきたときは、身体は軽くなる。
曲が終わる直前に男は3メートルをひとっ飛びにステージめがけて跳躍し、モモヨの手を乱暴に引いて戻ってきた。身のこなしは年齢以上に若い。
「おお? このお手々で、ほっぺをなぜてやったんだな、うん、まだおひげもはえそろわない若いおにいちゃんだもんな。よかったか?」
モモヨは身体をねじって振りほどこうとする。その動作のあいだに右手もとらえられた。男に両手をつかまれた格好になっている。俺は手が出せない。突っ立っていると喧嘩にならないので、半歩ずつ、ステージから後ろ、つまり出口のほうへ身体を送った。モモヨともどもそれを追いかけるように男が迫ってくる。テーブルは昨日より端に寄っていて、間の抜けたように通路が広くなっている感じがする。
「ここ、よかったんだなあ、きっと」
俺の股間にモモヨの右手を誘導しようとするのを、モモヨは歯をくいしばってうなり声をあげて抵抗している。俺はまた一歩、出口に後ずさった。頭と体を行きつ戻りつしていたアルコールがとうとう体中を駆け巡るようになった。胃のあたりをなんとも言えない気持ち悪さが渦巻いている。半分目をつぶりながら、でもモモヨとその男を視界にぼんやりと捕えながら、まるでわざとスローモーションで活動しているかのように右パンチを繰り出した。遠慮がちに殴ったようなものだ。
当然命中した、が、男は倒れない。どころか、モモヨを文字通り放り出して俺に向ってくる。さっきの左頬をクリーンヒットした一発でたいていの敵は沈んでいるはずなのに、この男は平気で立ち上がってくる。おかしい、どうかしている。男の振り回す右フックは俺の場合と同じようにスローモーションである。いつもの喧嘩と同じだ、すいとかわせば右側頭部ががら空きになるはずで、そこに手刀一発で気絶するか再起不能になるかのどっちかだ。のはずだろう、そうあるべきだ、どうした。かろうじて右の拳は避けたものの、続いて繰り出された左が腹に当たった。そんなバカな、ことが、あるか。思いっきり吐いた。食道のあたりが焼けそうに酸っぱい。次の右フックも避けられない。今度は左の顎に向って来そうだ。ちょっとだけ伸び上がれないか、できた。あごの下の首筋と肩の間くらいを叩かれた。鎖骨に当たった。たぶん男のゲンコツは相当痛いはずだ。ああ、そうだ、俺も仕返しに手数を稼がなければ。パンチのスピードはまだ充分だから当たることは当たる。しかし腰が入らないから全然効かない。これは勝負ありだ。そうなれば、あとはダメージコントロールを上手にやって、骨折くらいで許してもらえるように逃げ回るしかない。後退、後退、後退、だ。
気がつくと薄暗がりだった。ソファーに横になっているようだ。誰かが上から見ているのに気がついた。けんちゃんが眠そうに、しかし心配そうにのぞきこんでいた。
「きがついたみたいねえ、どうしちゃったのって、きいてもしょうがないわね、どっかでたちまわりしたんでしょ、そんでもってぼろまけしてかえってきたわけ、『ぱる』に、ね、うれしいじゃない。あああ、動かないの。ほっぺとか冷やしてるんだから」
さっき、いや、だいぶ前、パンチを食らうまえにモモヨに向かって発せられた表現と同じだ。そうか、俺の『ほっぺ』か。思わず笑いがこみあげてきた。が、笑えない。顔中が腫れている感じだ。やっと自分が自分に戻ってくる気分がする。いったん離れた魂が再び戻ってくるときの感覚って、こんなものではなかろうかとふと考える。けんちゃんが新しいタオルを取りにカウンターの中に入っている間、身体をゆっくり動かしてみる。筋肉痛はあるものの、骨折は免れたようだ。腕時計は、ガラスが半分割れてなくなっている。秒針も長針もない。動いてはいるようなので、短針からかろうじて読み取れた時刻は10時のあたりを指していた。頭の芯に残っていたアルコールが眠気とともに意識の表面を覆い出す。胃のあたりがむずむずするのだが、それ以上に意識にかかってきた靄のほうが勝ったようで、次に気がついたときは12時に近い頃だった。
「このへん、おいしいお蕎麦屋さんが多いから、帰りに食べて行きな。こづかい、あげるよ」
けんちゃんがしわしわになった板垣退助(注2)を二人、差し出したのをありがたく押し頂いて、その上電話を借りた。さっきかすかに聞こえた鐘の音みたいなやつは近くの小学校か何かの合図だったらしい。そうなると、いや、鐘が鳴ろうとなるまいと、学校は二日続けて重役出勤になってしまう。ここは、顔の状況も勘案して欠席することにした。電話連絡だけは必須だ。無断欠席とかくだらない言いがかりを避けるためだ。
で、さて、行くところは一か所しかない。下北沢、モモヨのアパートだ。一瞬、母親の端正な横顔と、響子のふっくらした身体が目の前を横切ったが、このときの俺にはモモヨの青白い、殆ど肉が付いていないのではないかと思われるほっそりした体が優先順位一番だった。
注1 ダルマ:サントリーオールド。黒くて丸っこかったのでそう呼ばれた。当時は
高級な酒である。たとえば大学生は飲めないのが普通だった。いや、大学生
どころか、なみの若いサラリーマンではボトルキープはできなかった。
注2 板垣退助:当時の百円札に肖像が印刷されていた。
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