大陸が眠るまで。

～７～

一つの町が納まるくらいの大きさと広さを誇るドーム状の空間、
その半分ほどの高さには、貧弱な岩の足場が張り巡らされ、
炎と岩と蒸気以外の存在をかろうじて許容していた。
一方底面では、動的な怒りに満ちたどろどろの岩の流れが、
岩の間からしみ出た地下水や落下した岩盤のかけらを、容赦なく灼熱に染め上げている。

あり余る力を振るう相手を求めて、熔岩がゆらめく視線を向けている先では、
バフォラートが感電死させたダークメイトを、手足をつっぱって蹴落とそうとしていた。

とうの昔に肺のすみずみを占領した熱気が、体内にまで進入して理性を熔（と）かしてしまったのか。
なにやら頭がぼおっとして、他愛ない作業に熱中する自分を遠くから見つめているような、
そんな感覚が魔術士にはある。

やがて回廊の途中、広間と呼べるほどの大きさをもった楕円（だえん）形の岩盤から、
人間より一回り小さい二足歩行のトカゲであったものが滑り落ちて、
陽炎に抱かれて地の底へといざなわれていった。
汚れた裾をを手で払いながら、魔術士はその様子をたいした感慨もなく見下ろしている。

やがてゆっくりと振り向いた魔術士の瞳には、
狙いを定めたかのようにすぼめられた、三つに分かれた顎（あご）と、
その奥に広がる暗さだけが映っていた。

くん、と巨体が伸び、熱気を裂いて迫る刃のような顎を、反射的に身をよじって避けようとする。
三本の鈍い光の筋が魔術士の左側を通り過ぎ、
視界の半分が、さっと紅く染まった。

『レクリーと、その亜種であるデストラカンは、今我々のいるこの場所の真下、
ケタースヘルにのみ生息しておりまして、外見的な特徴といえばやはりこの、
三つに分化し、大きく発達した顎ですね。この特殊な凶器を用いて、
彼らは獲物を突き刺し、切り裂いて丸呑みにするという、
人間の乳幼児が飲み食いするのとまったく同じ野蛮な方法で食事をいたします。
ヒトの場合早期に癒合する左右の下顎の骨がこの獣ではそのまま発達することで、きわめて珍しい形態を得、
またそれによって口を大きく開けることができているわけですが、
ために食物をうまく摂取できず、いつもぽろぽろとこぼしているそうです。
その辺りも前掛けをした子供と大差ないといえるでしょうね』

他ならぬハリス師の博物学の講義を、かつての神学生はその外見に見合った謹直さをもって聞き取っていたものだ。

（……そういえばあの日も、地獄の火であぶられているような暑さだった）

そんなことを思いかえしつつ、バフォラートは数分前までその知識の内にしか存在していなかった
『先割れスプーンを持った赤ちゃんの大きいやつ』
を相手に悪戦苦闘している。

額の傷は浅かったが、あふれる鮮紅が片目をふさいでしまっているうえに、
それを洗い流そうととめどなく涙が流れるため、視界がいちじるしく狭く、遠近感も失われている。
レクリーの執拗（しつよう）だが単調な突進をかわすだけでも、容易ではないのだった。
実際に横っ飛びがわずか一拍遅かったときには皮鎧がずたずたに切り裂かれ、
逆に早すぎたときは方向を転換した巨体に迫られて、とっさに出した盾を噛み砕かれていた。

顎の一閃（三閃というべきか）がまたも空振りに終わったことに気づくと、
レクリーは筋肉の盛り上がる下肢（かし）を懸命につっぱり、爪痕を冷えた熔岩に深く刻んだ。
素早く後退る今日の獲物を横目で見ながら、レクリーは悔しそうに顎を開閉させた。

（はぁ……はぁ……はぁ……）

逃げ回ることしかできない魔術士は、汗で重くなった僧衣の袖を額に押し付けつつ、
必死で体勢と荒れる息とを整えようとしていた。

なおも流れ続けるぬるい液体が、ひげの伸びつつある頬を伝い、強情そうな下顎からぽたりぽたりと墜ちる。
紅いビーズは、ねばつく唾液を飲み下すたびに上下するのどぼとけの前方を過ぎ、
呼吸に合わせて前後する、氷山のような存在感の布袋と衝突し、弾け、微細な繊維の間に浸透する。

血とともに生気が流れ出していくようで、魔術士の面貌のうえでは深紅と蒼白の対比が見る間に強調されていった。
黒褐色の広間の反対側で堂々たる体躯がゆっくりとその向きを変え、
雷撃を弾き氷刃を砕く闘気と争気をまた新たに立ち昇らせる様子に、卑小な人間は気圧されつつある。

――からり。

意志とは関わりなく、じりじりと後退した先は、楕円から空間にせり出した、あやうくたよりなげな突起だった。
岬のふちに長靴のかかとがかかると、岩の小片がぱらぱらと熔岩の海へ落ちていった。
流動を続ける火光に吸い込まれるような錯覚があり、魔術士はかすかにゆらめいた。

機を逃さず、なにかに弾かれるようにレクリーが行動を開始する。
はるかに高い天井にまで届く咆哮をとどろかせ、一直線に疾駆（しっく）をはじめる威容は、まさに
「死の（デス）」
という最高の形容を与えられるにふさわしい。

バフォラートが追い詰められた貧弱な岩盤は、ちょうど魔術士の背丈くらいの長さがあり、
その付け根の両側には、反り返った二本の石柱が虚空に突き出ている。
それはまるで、人間を丸呑みにしようとする舌と牙を思わせた。
背後と真横への運動を制限され、まさに虎口の難というべき状況にあって、
魔術士は片目が見えないままかすれた声で呪文を唱えている。
心身の消耗（しょうもう）が激しい。これが最後の詠唱となるはずだった。

マナをかき集めて放った雷光の束は、
迫り来る狩人と立ちすくむ獲物のちょうど中間、そびえ立つ二本の「牙」の間に突き刺さった。
岩と光の破片にひるむことなく、狩猟本能のかたまりは猛進をつづけ、
そしてとうとう、「舌」の付け根に足をかけた。

そのとき、
雷撃によって強度が低下した継ぎ目がとうとう限界をむかえ、
切り離された岩盤の「舌」はバフォラートを道連れに自由落下をはじめた。
落下にあわせるように、魔術士はすっと身体を屈め、そのバネを利用して、ななめ前方へ跳躍（ちょうやく）した。

これまで数多の生物を屠（ほふ）ってきたはずの頑丈な顎は、一瞬前に獲物の頭が存在した空間を破砕し、
そして、通り過ぎた。
蜘蛛の巣のような岩石の網から開放された巨躯は、虚無と空漠の支配する舞台へと駆けあがっていく。

あるいは間一髪でとどまれたのかもしれない。
しかし、誇り高き動物を駆る誇り高き死神は、手綱（たづな）を引こうとはしなかったのである。
身をよじりながら地の中心へと航行をはじめたレクリーの瞳は、
おどろくほどに澄み、深い色をたたえていて、隻眼（せきがん）を通じて魔術士の脳裏に強く残った。

右手に握っていた杖を、地底に眠る火神（ラピス）への贄（にえ）としてささげ、
かろうじて「牙」にしがみついていたバフォラートは、
常にない力を発揮して奈落のふちから這い上がった。
朱に染まった顔を清潔な布で無造作にぬぐい、
それをおぼつかない手つきで頭に巻きつけ、包帯の代わりにする。
熱病に冒された患者のように、さまざまな思考が次々と生まれては消えて、まとまらない。

（これから……どうするんだったろうか？）

なんとか意識を未来へと向けつつ、盾を失った左手で胸のあたりをまさぐる。
血と、涙と、汗に濡れた麻布の袋に、吸い寄せられるように指が触れた。

これだ。この中身を捨てにきたのだ。

しかし……。

（なぜ捨てなければならないのだったろうか？）

あの忌まわしい赤い石は、あと少しでまばゆい黄金の輝きに変わるのだ。
それに、
貴様はクレイグの、そして魔物たちの恐慌と狂気を見たはずではないか。
理性に反するものが、城壁の中にあってはならないのだ。

そうだ、その通りだ。

しかし、それならば、なぜ……。

（なぜわたしは『捨てたくない』のだろうか）

どさりと音をたて、ぼろぼろの男は冷めた溶岩の通路にうつぶせになって倒れ伏した。
ようやく乾いた血が張り付いた顔の前に、血を吸って黒く色を変えた麻布の袋がたたずみ、
やがて布地の隙間からあふれ出た光が、熱気が充満するケタースヘルの広い空間を照らした。

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