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朱子学(しゅしがく)とは・・・ 南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学・程朱学派と呼ばれる。 当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学と呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学からは宋学と呼ばれた。 朱熹は、それまでばらばらで矛盾を含んでいた北宋の学説を、程頤による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)や程顕の天理(天が理である)をもとに、仏教思想の論理体系性、道教の生成論および静坐という行法を取り込みつつも、それを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立て上げた。 そこでは、自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。 なお朱子の理とは、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気は万物を構成する要素で運動性をもち、理は根本的実在として気の運動に対して秩序を与えるとする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。朱熹の主張する学説は性即理説といわれ、陸象山の学説心即理説と対比された。朱熹は、心即理説を、社会から個人を切り離し、個人の自己修養のみを強調するものとして批判した。一方で朱熹は、陳亮ら功利学派(事功学派)を、個人の自己修養を無視して社会関係のみを重視していると批判している。 朱熹の学は、社会の統治を担う士大夫層の学として受け入れられたが、元代には科挙試験が準拠する経書解釈として国に認定されるに至り、国家教学としてその姿を変えることになった。 日本への伝来と影響 一般には正治元年(1199年)に入宋した真言宗の僧俊?が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされるが、異説も多く明確ではない。鎌倉時代後期までには、五山を中心として学僧等の基礎教養として広まり、正安元年(1299年)に来日した元の僧一山一寧がもたらした注釈によって学理を完成した。 後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけてのかれらの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。その後は長く停滞したが、江戸時代に入り林羅山によってその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた。だが皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。
2008年06月10日
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2010年度の大河ドラマは『龍馬伝』に決定! 主役は「“大人”の俳優に・・・」 2010年度NHK大河ドラマの制作発表会見が5日(木)、東京・渋谷のNHKで行われ、明治維新の立役者である坂本龍馬の生涯を描いた『龍馬伝』が放送されることが決定。出演者については現在のところ未定だが、プロデューサーの鈴木圭氏は「実年齢にこだわらず、“大人の”俳優さんにやっていただきたいと思います」と構想を明かした。 同作の脚本は、ドラマ『HERO』『ガリレオ』『CHANGE』(すべてフジ系)など人気ドラマを手がける福田靖氏が担当。“幕末の奇跡”と呼ばれた風雲児・龍馬の生涯を、後に三菱財閥の礎を築く幕末屈指の経済人・岩崎弥太郎の視点から描いたオリジナル作品となる。福田氏は「今の時代にあてはまる生々しい龍馬を描きたい。史実を基に想像した面白いストーリーを書きたい」と自信をみなぎらせた。 報道陣から気になるキャスティングについて尋ねられると、プロデューサーの鈴木氏は「きましたね…実は全く決めておりません」と苦笑い。「龍馬は33歳で死を迎えましたが、当時の33歳は非常に落ち着いた大人の男だったと思う。ですから実年齢にこだわらないで、ちゃんとした“大人の”俳優の方にやって頂きたい」と展望を語った。 大河ドラマ『龍馬伝』は09年8月よりクランクイン予定6月5日16時54分配信 オリコン NHKは5日、2010年1月から始まる大河ドラマは坂本龍馬の生涯を描く「龍馬伝」に決まった、と発表した。 脚本は福田靖さんのオリジナル。龍馬と同じ土佐出身で、明治維新後も経済人として活躍した岩崎弥太郎の視線から描くという。 6月5日18時30分配信 時事通信<大河ドラマ>2010年は「龍馬伝」 NHK NHKは5日、2010年の大河ドラマを、幕末の志士、坂本龍馬を描く「龍馬伝」に決めたと発表した。 人気連続ドラマ「HERO」「CHANGE」(いずれもフジテレビ)などを手がけた脚本家、福田靖さんのオリジナル作品。薩長同盟の実現や海援隊結成に奔走した33年の生涯を、龍馬と交流を持ち三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎の視線で描くという。制作統括の鈴木圭チーフプロデューサーは「今の日本を変えるヒントになる人物。混迷の時代に生きる現代人へのメッセージにつなげたい」と語った。6月5日19時17分配信 毎日新聞大ニュースが飛び込んできました!!!!大河ドラマで「龍馬」が主役です!!!!!!!
2008年06月06日
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幕末の人物を研究すると、必ずあたるのが「学問」です。とくに「陽明学」と「朱子学」はよく聞きます。で、陽明学を知りたいと思いネットで探すと、わかりやすく紹介してありました。王陽明(おうようめい 1472年 - 1528年11月29日)は、中国の明代の儒学者、思想家。 朱子学を批判的に継承し、学問のみによって理に到達することはできないとして、静坐など実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした。 諱は守仁、陽明は号で、陽明洞(地名)に家を建てたことにちなむ。字は伯安。姓名から王守仁とも呼ばれる。文成公とおくりなされた。 父王華は、科挙を首席の状元で合格した秀才で、明の吏部尚書(官吏の人事をつかさどる長官)を務めた。浙江省紹興府の出身。 仏教、武芸、詩学など、様々な才能に秀で儒学を志し、万物に理が備わっているという朱子学の理気二元論を学んでいるとき、庭の竹の理を窮めると称して、七日七晩、竹の前に座り続け、ついに倒れたという逸話が残されている。 28歳で科挙に合格して官吏になったが、儒学の勉強を怠ることはなかった。35歳のとき、宦官劉瑾の独断的な政治を批判する上奏文を、皇帝武宗に提出したが容れられず、劉謹の恨みを買って、はるか僻地の貴州龍場駅の役人に左遷された。彼は、この言葉も風俗も異なる少数民族の住む地にあって、厳しい自炊生活を送りながら、思索を続け、「龍場の大悟」(龍場での大いなる悟り)といわれる新学説・陽明学を誕生させた。 やがて、劉謹の専横が明らかになり、彼が追放されると、王陽明は県知事に任じられたのを皮切りに、江西巡撫や兵部尚書などの高官を歴任することとなった。 1519年には寧王の乱を鎮圧した。さらに江西巡撫のときには、地方の農民反乱や匪賊の横行に対して、民兵を組織してこれらをことごとく鎮圧した。1527年、広西で大規模な反乱が起きると、王陽明にその討伐の命が下った。彼は病気をおして討伐軍を指揮し、それらを平定した。その帰途、病が重くなって広西で死んだ。 彼は、南宋の陸九淵の思想を発展させて、「事物の理は自分の心をおいてなく、それ以外に事物の理を求めても、事物の理はない」という、心即理を明らかにした。また、天地に通じる理は自己の中にある判断力(良知)にある(良知を致る=致良知の説)と主張した。また、知と行を切り離して考えるべきでないという知行合一を主張した。 自分の心に理を求めたり、自己の中にある判断力を求めることは、全ての人に可能なことであり、「満街の人すべて聖人」と言った。こうして、儒学を広く庶民の学問に押し広げたのである。 この陽明学は、江戸時代の日本にも伝えられ、幕末の倒幕運動の指導者である大塩平八郎や吉田松陰らが、陽明学の心即理を理念にして行動した。しかし、彼らの心即理は心の至誠を貫くことと解されており、王陽明のそれとは異なるものだった。日本における展開 日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた。逆に陽明学には個人道徳の問題に偏重する傾向があり、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合が多かった。 自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。鏡面のような心(心即理)の状態に無いのに、致良知に基づいて、自分の心の叫びを行動(知行合一)に移してしまうと、革命志向になりやすいという説もある(後述の山田方谷も、陽明学について誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている)。江戸期の代表的な陽明学者は中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。幕末での陽明学の信奉者 幕末の尊皇攘夷運動は陽明学に影響を受けている。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山が歴史上おり、革命運動(大塩平八郎 --大塩平八郎の乱 )に呈する者が多かったのは事実である。一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、瀕死の藩財政を見事、建て直した。 長くなりました。
2008年06月06日
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下諏訪宿(甲州道中中山道合流の地、脇本陣まるや、魁塚、下諏訪宿問屋場跡、聴泉閣かめや・和宮宿泊地、下諏訪宿本陣・岩波家、来迎寺・藤田小四郎宿泊地、赤報隊士捕縛跡、下諏訪歴史民俗資料館、松本藩士墓(水月公園)、高崎藩陣営・山の神の森、西餅屋跡、東餅屋跡、永代人馬施工所) 和田宿(本陣跡)、長久保宿(石蔵本陣、釜鳴屋、石碑)、笠取峠の松並木、芦田宿(土屋本陣、山浦脇本陣)、望月宿本陣、八幡宿小松本陣・脇本陣、見宗寺、平出宿・水戸浪士休息地跡、高島城浪人塚、石投げ場・明治天皇、高松平十郎記念碑、雨宮の渡し(頼山陽歌碑)、佐久間象山砲術試射地碑、桑原宿象山記念館 八幡原史跡公園・川中島、象山神社、象山記念館、佐久間象山生誕地、煙雨亭、桜賦、望岳賦、高義亭、文武学校、旧白井家表門、真田邸、恩田木工民親銅像・屋敷跡、日本電信発祥の地・松代藩鐘楼、佐久間象山墓(蓮乗寺)、聚遠楼址 赤松小三郎遺髪墓(月窓寺)、旧上田藩主屋形跡・上田高校、戊辰役上田藩従軍記念碑、赤松小三郎記念碑、上田城址 大阪から上田まで6時間以上かかりました。しかし! それ以上に素晴らしい体験と感動がありました。史跡調査の真髄を学んだような気がします。 幕末三大義挙の「生野義挙」「天誅組の変」をほぼ制覇した私たちにとって、天狗党は厄介な存在でした。なぜなら移動距離が長いこと。生野義挙は兵庫県の生野銀山付近のみ、天誅組は大阪から奈良県下を縦断したので、これも移動距離は短い。 天狗党は水戸で挙兵して、福井の敦賀まで移動します。走行距離はすごいです。壊滅の敦賀近辺は押さえました。今回は長野県下の八幡宿から下諏訪宿まで押さえました。天狗党の乱とは? 元治元年(1864)3月、水戸藩尊攘派のなかでも過激派であった藤田小四郎・竹内百太郎らは、湊・小川・潮来などの郷校に屯集する下級藩士・郷士・村役人・一般農民などを糾合、町奉行田丸稲之衛門を首領として筑波山で挙兵、「天狗党」と称しました。 この天狗党には全国から尊攘運動有志が集まり、1000人以上を数えたといわれています。その後、日光東照宮を参詣、下野国太平山に屯集、5月に再び筑波山に戻ります。 この間、田中愿蔵は別働隊を組織して栃木町や真鍋宿などに放火、軍資金調達を行い、悪評を高めました。このような状況下、幕府は天狗党に対する取り締まりを周辺の諸藩に命じました。 これに応じた水戸藩内の反天狗党、反尊攘勢力である市川三左衛門・朝比奈弥太郎らの諸生党の人々は、江戸に上って藩政を掌握、天狗党追討を決定しました。一方、武田耕雲斎・村田理介・榊原新左衛門らの尊攘派は、6月から7月にかけて大挙して上京、藩政の主導権を再び諸生党から奪い返します。しかし、この段階では、幕府・諸藩・水戸藩諸生党連合の追討軍との天狗党の戦いが、下妻・高道祖で始まっていました。 この下妻・高道祖戦争は天狗党の勝利となり、敗れた水戸諸生党は、手薄になっていた水戸城に戻り、これを占拠しました。このような混乱に水戸藩主徳川慶篤は、その収拾のために自分の名代として宍戸藩主松平頼徳を派遣しましたが、これに多数の尊攘派が同行、「大発勢」といわれました。 以降、元治元年9月を中心に、常陸国内を舞台としては天狗党と反天狗党勢力との戦いが繰り返されることになります。10月,天狗党勢は幕府追討軍に那珂湊付近の戦闘で敗れ、翌11月、800人あまりが京都の一橋慶喜を頼って西上を始めます。 武田耕雲斎を総裁として幕府や諸藩の追討軍と戦いながら、下野・上野・信濃・飛騨を通り、越前国新保に至り、ここで金沢藩に降伏、翌年敦賀において主だったもの350人余りが斬罪に処されました。この天狗党事件には、それまで近世的な秩序のなかにとじ込められていた一般民衆が、天狗党側あるいは反天狗勢力として参加していきます。幕府体制の崩壊前夜という時代の流れのなかで、一般民衆が歴史の表舞台に登場した最初の事件でした。「天狗党」の由来は? 保守派(門閥派)の中には代々名門の家を受け継いできた上級武士が多く、改革派の中には下級武士が多かった。その為、「成り上がり者が調子に乗っている(天狗になっている)」といった侮蔑の意味を込めて保守派が改革派をそう呼んだところから来ているという説。 改革派は世直しをするものとして、自らを天狗と称したという説。 佐久間象山 文化8(1811)年2月28日~元治元(1864)年7月11日 長野生まれ。実名は国忠のちに啓、号は象山。父は松代藩の祐筆。天保4年(1833)に江戸へ出て佐藤一斎の私塾に入るが、3年後には松代に帰る。10年(1839)江戸に塾を開く。 老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ13年(1842)に「海防八策」を上書。安政元年(1854)吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。文久2年(1862)赦免。元治元年(1864)幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺される。
2008年06月05日
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備前藩御屋敷跡、川田甕江生家跡、西爽亭、新島襄玉島上陸の地 奥さんの母が岡山の玉島(現在の倉敷)出身なので、里帰りを兼ねた史跡調査に出かけた。昨年玉島上陸したときになかった新島襄の石碑にはビックリした。他にも前回見逃していた史蹟を調査した。残念ながら西爽亭は休館日で見学できなかったが、母は、玉島に柚木家があって大きな屋敷があったのは覚えていたが、それが西爽亭だったとは。とひとしきり感動していた。 記憶を辿りながら書いています。そうそう、幕史研の皆さん!! 西爽亭横に駐車場が出来ていました。これもビックリ!!西爽亭と熊田恰(くまた あたか:1825~1868) 備中松山藩士熊田竹兵衛の3男として生まれた熊田恰は、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いの際、幕府方の藩主板倉勝静の親衛隊長として大坂詰で活躍しました。 板倉侯から帰藩の命を受けた恰は、備中玉島港に上陸します。しかしこの時、松山藩は鎮撫使(明治維新政府が任命した臨時の征討長官)の征討を受けており、松山藩は恰の帰藩を認めませんでした。事情を知った恰は、行動を共にしている部下150余人の助命を嘆願し、西爽亭の次の間で自刃しました。 この史実は、熊田恰が自らの命と引き替えに多数の部下の命を救い、その結果、幕末の戦禍から玉島が救われた話として、現在も語り継がれています。
2008年06月04日
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陽明園、中江藤樹記念館、藤樹神社、中江藤樹墓、藤樹書院跡 陽明学の大家である中江藤樹の史跡を偶然発見。滋賀県高島市にあった。予備知識なしで行ったが、充実の時間を過ごせた。高島市は琵琶湖の北西部である湖西地域にある。近隣には近藤重蔵墓(蝦夷地探索をし、択捉島に上陸した幕府役人)や浅見絅斎書院がある。近いうちに行きたい。滋賀湖西地方にもたくさんの隠れた史跡がありますね。少し感動しました。中江藤樹って? 1608(慶長13)年4月21日~1648(慶安元)年10月11日は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称は与右衛門(よえもん)。別号に珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。「別号に?軒(もくけん)、頤軒(いけん)。出典 先哲叢談/原念斎・漢学者伝記集成/竹林貫一編」 農業中江吉次の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主加藤家の150石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。1634年(寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。そこで、私塾を開く。 1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤があったことから、門下生から藤樹と呼ばれるようになる。塾の名は、藤樹書院という。やがて朱子学に傾倒するが次第に陽明学の影響を受け、格物致知論を究明するようになる。 1646年(正保3年)妻・久が死去。翌、1647年(正保4年)近江大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚する。 1648年(慶安元年)藤樹が亡くなる半年前に郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商工人まで広く浸透し「近江聖人」と呼ばれた。代表的な門人として熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔などがいる。
2008年06月03日
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『歴史群像presents ものしり幕末王』が5月1日に発売になったんです。よね。実物をまだ見ていないのでどんな出来栄えかわかりませんが、デモをしたときはなかなかの出来でした。早く見てみたいな。
2008年06月02日
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4月20日 大阪・南河内史跡調査 伴林光平西願寺跡、丹南藩陣屋跡、狭山陣屋跡、廿山街道、錦織神社、水郡邸、養楽寺、西方寺、杉山家住宅、仲村家住宅、白木陣屋跡、長野一郎碑、松田重助碑、竹内峠、吉田松陰宿泊地、竹内村・綿弓塚 龍馬会主催のマニアックコース。でも充実感120%。素晴らしい内容と名講師の冴え渡る解説にうっとりした。昨年7月28日にK浦氏と一緒に行った場所。竹之内街道など、まあイベントで行くことはないだろうと思っていましたが、なかなかにくい演出でした。 吉田松陰宿泊地は概観のみの見学でしたが、昨年訪問の折にはずうずうしくも中に入らせていただきました。4月21日 大阪・奈良史跡調査 大阪-磐船神社(伴林光平歌碑)、奈良高取-鳥ヶ峰古戦場跡、池田邸屋敷跡、高取城移築門、伊勢屋屋敷跡、高取城松之門、田塩家屋敷、家老屋敷長屋門、高取城二の門(子嶋寺) 仕事の合間に寄りました。磐船神社は我が家から来るまで20分の所にあるとても古い神社。そこの伴林光平の大きな歌碑がある。K浦氏が昨年発見した。高取城には登らなかったが、念願の鳥ヶ峰古戦場に行くことが出来た。 高取の町並みをぶらぶら歩きで堪能しました。城の門が移築されているところもあり、風格のある町並みでした。
2008年06月02日
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気がつけば、半年近く書いていなかった。日記というより年誌になりそうな期間ですね。さて、幕史研はあちこち行きました。思い出しながら紹介しましょう。☆3月2日 岐阜・三重・愛知史跡調査-宝暦治水・前編☆ ☆4月6日 岐阜・三重・愛知史跡調査-宝暦治水・後編☆ ●昨年末に岐阜の史跡調査を行ったときに、宝暦治水の史跡が多数あることを知り、宝暦治水のみの史跡調査をしようということになった。あるわあるわ、宝暦治水が。ところで「宝暦治水」って何?って思うでしょう?簡単に紹介を。 宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。 木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流・分流を繰り返す地形であることからしばしば洪水を引き起こしていた。 1753年(宝暦3年)12月28日、正式に第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に御手伝普請という形で川普請工事を命じ、翌年1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。 幕府が工事を命じた目的は、薩摩藩の財政弱体化であった。 当時既に66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送る。 同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行う。砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。 薩摩義士が一丸となって、遠く離れた木曽の治水工事にやってくる。想像を絶するような幕府の命令に堪え、工事は終了する。しかし、それ以上に多数の犠牲者、多額の工事費がのしかかり藩政を圧迫する。 幕末に、薩摩藩が幕府を倒す理由は多々あるが、この宝暦治水もその中の一因としてあるのでしょうか?まわった史跡は下記のとおり【岐阜県海津市】治水神社(宝暦治水義士観音堂・薩摩義士の像・追懐薩摩義士碑・内藤十左衛門顕彰碑・宝暦治水義歿社姓名碑)、宝暦治水之碑、油島千本松、三川分流碑、国営木曽三川公園 水と緑の館→ここはいいです。木曽三川公園の治水タワーはなかなかの見所です。油島の千本松は上空から必ず見るべし。近くの治水神社には芝居のポスターあり。これ年代ものです。行基寺(高須歴代藩主墓)→宝暦治水には関係ないですが、美濃高須藩の歴代藩主の墓があります。山頂近くにそらすごい立派な寺があり、それだけでも感動ものです。墓地には会津藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬らの父や兄の墓もある。【岐阜県養老町】薩摩義士役館跡(平田靱負銅像・平田靱負腰掛銅像・平田靱負終焉の地碑・平田靱負辞世歌碑)→ここで平田靱負が自刃した場所です。天照寺(薩摩義士墓)→ここの薩摩義士記念館には埋葬した甕(かめ)があります。一瞬見てかなりびっくりしました。位牌もあります。【三重県桑名市】海蔵寺(薩摩義士墓・寳暦治水義士之墓所碑・寳暦治水薩摩義士之碑・治水観音・平田靱負木像)→平田靱負以下21名の墓がある。本堂には木像や位牌がある。【岐阜県輪之内町】薩摩堰治水神社、薩摩堰遺跡碑・薩摩堰治水神社碑、→ここの桜はとてもきれいでした。【岐阜県大垣市上石津町】舛屋伊兵衛顕彰碑、高木家陣屋跡、高木家入郷地碑・美の衆陣屋跡碑 →ここにある資料館は見所豊富です。【岐阜県海津市】海津市歴史民俗資料館→この資料館は概観がすごい。そして内部には城の内部を復元している。なかなかオモロー!
2008年06月02日
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ページの更新です。集中してやりました。現在は長野県を作成中です。お披露目できるのはだいぶ先になるでしょうが。3月26日 東京の円通寺、染井霊園の個別ページを開設 3月25日 高知の南国市・香美市・香南市・高知市の個別ページを開設 3月24日 高知の高知市内(1)、高知市内(2)の個別ページを開設 3月22日 茨城の常磐共有墓地、酒門共有墓地、妙雲寺の個別ページを開設 3月21日 高知の檮原町、高知県西部、高知県南西部、高知市内(3)、高知市内(4)の個別ページを開設 3月18日 兵庫の尼崎・西宮、神戸、舞子、三宮の史蹟紹介文を掲載 3月16日 北海道の上ノ国町、木古内町、松前町、八雲町の史蹟紹介文を掲載 1月16日 鹿児島の南洲墓地の個別ページを開設 1月12日 鹿児島の城山付近、錦江湾沿の個別ページを開設 1月11日 鹿児島の史蹟紹介のページ開設、加治屋町の個別ページ開設
2008年06月02日
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『歴史群像presents ものしり幕末王』幕末の志士たちとクイズ対決!2008/1/4 ●幕末の政治をまとめ上げろ! 幕末を舞台にしたクイズゲームが、ニンテンドーDSで発売決定! ゲームの目的は、徹底佐幕派、武力討幕派、平和改革派のいずれかの志士となって日本の政治をまとめ上げること。坂本龍馬や近藤勇といった幕末志士たちとのクイズ対決を制し、勢力を拡大していくのだ。 ●歴史ファンも納得の問題を収録! クイズの問題は、歴史専門誌”歴史群像”による本格的なものだ。また、クイズ形式も書き取りや4択問題など多彩。クイズ対決に勝ち、志士たちを仲間にしよう! グローバル・A・エンタテインメント 対応機種 ニンテンドーDS 発売日 2008年春発売予定 価格 3990円[税込] ジャンル クイズ / 歴史 備考 監修:歴史群像 問題作成に協力しました。
2008年01月10日
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12月23日 早朝から大阪を出発し、岐阜方面へ。ほとんど皆無に近い状態であろう岐阜にも幕末の史跡はたくさんありました。あるもんですね。今回まわったのは下記のコースでした。岐阜公園(板垣退助銅像・明治天皇銅像・織田信長銅像・岐阜城跡・山内一豊千代婚礼碑)、加納宿(明治天皇休息所・和宮休息所)、河渡宿、美江寺宿、赤坂宿(赤坂港跡)、所郁太郎生誕地・銅像、妙法寺(所郁太郎墓・戸田三弥墓)、和宮公園、梁川星巌邸跡・記念館・庚申塚)、紅蘭生誕地、江馬細江退筆塚ここで時間切れとなり、大垣は後日になりました。宝暦治水の薩摩義士関連の史跡も山のようにあり、今度は大垣+宝暦治水を行くことになりそうです。まだまだ行くところはたくさんあります。
2008年01月10日
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新年明けましておめでとうございます。2008年がスタートしました。2007年の下半期はあちこち行きましたよ。8月26日、大阪龍馬会で「天誅組」を語りました。2時間近く、時間切れになりましたが存分に語りました。9月22日、全国龍馬ファンの集い高知大会に参加。10月7日には和歌山と大阪南部の史跡調査。とくに大阪南部は吉田松陰が立ち寄った庄屋など目玉がたくさんあり、勝海舟と和歌山も凄く勉強になりました。11月18日、大阪龍馬会の墓前祭に参加。月照上人スペシャルで、ゆかりの地をたくさんまわりました。12月6-8日には鹿児島へ。約90箇所の史跡を訪問。十数年ぶりに行きました。たくさんの史跡に満腹のひととき。良かったですね。12月23日には岐阜のマイナーな史跡を行きました。和宮パラダイスと中山道を満喫。とまあ、たくさん行きました。一日も早くアップしたいのですが・・・ 時間がないね。2008年も幕史研はあちこちネズミのようにチョロチョロ走り回ります。春には、お手伝いしたDSのソフトも発売されます。詳しいことが決まりましたら報告します。
2008年01月07日
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7/28と29に史跡調査に行ってきました。7/28は急遽、河内の史跡調査に行きました。伴林光平先生止住西願寺跡、天誅組松田重助先生位牌所、竹ノ内街道、司馬遼太郎が幼少期に過ごした家、泳いだ上の池、吉田松陰が泊まった旅館(現在は個人宅で見学不可でしたが、ラッキーなことに見せて貰いました。泊まった部屋を)、竹ノ内街道にある天誅組の石碑など。本当にラッキーでした。河内の天誅組史跡はたくさんあり今回も満喫しました。7/29 愛知へ伊賀神戸にある吉川治太夫忠魂碑(天誅組)、伊賀神戸城址、深見篤慶寄進の灯籠、伊藤雨村先生塾跡、松本謙三郎歌碑・生誕地・墓、宍戸弥四郎生誕地・墓、伊藤健吉(三弥)墓、近藤勇首塚など。三重の鈴鹿から始まって、愛知の豊明、刈谷、岡崎と行きました。大阪から往復600キロ。渋滞もなくスムーズに、天気も良くなかなかのコースですよ。
2007年08月01日
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さあ~て 次回の史蹟調査は・・・7月29日に伊賀神戸と刈谷です。伊賀神戸には天誅組に協力した吉川治大夫の記念碑があります。誰? と思われますが、天誅組のなかでは、少しばかりマニアックですがやってることが素晴らしい!! 人です。刈谷は、松本謙三郎と宍戸弥四郎の生誕地があります。松本謙三郎は松本けいどうとして有名で、三総裁の一人です。片眼を失明して、天誅組の戦いで、もう片方も失明します。でもすごい人なんですよ。この人が・・・宍戸弥四郎は最後の突撃隊の一人で、遺体の衣服から埋葬料としてお金を包んでいたんです。死に際を大事にするサムライはたくさんいますが、死んだ後のことを考えるサムライはそういません。だから素晴らしいですよね。そんな二人に会いに行きます。
2007年07月14日
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8月に大阪龍馬会で講演をします。「天誅組」です。4月の五條での講演会はまずまずでしたので、今度は存分に話そうと企画しました。龍馬会で天誅組の話を聞きに来る人はいるのだろうか? そんな疑問を投げかけてみると、あんたたちの話を聞きたい人が多いねんで。ファンがいるのよね。と言われました。嬉しいやら恥ずかしいやら・・・今から準備しなくては・・・今度はプロジェクターを使って、話の内容よりも写真を見ながら情景を浮かべてもらえたらと考えています。パワーポイントも入手したし、プロジェクターも借りたし・・・あとは内容・・・・?
2007年07月13日
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ブログは日記ですよね。僕は結構さぼって書いていますが、少なくとも週一は書かなくては・・・いつもそう思うのですがなかなか書けないですね。でも今日から発奮してやってみますか!いつまで続くか・・・・な。
2007年07月12日
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歴史群像8月号に、幕史研提供の大量の写真が掲載されています。作家の坂本犬之介氏の記事「戊辰戦役 関東激闘譜【不羈独立の武士、かく戦えり!】」でグラビアとして史跡写真や弾痕、位牌などが掲載されています。もちろん記事がいいですね。現場に行ったからこそ書ける貴重な証言がいいですよ。書籍にはない生の歴史を感じることが出来ます。是非お買い求め下さい。写真についての問い合わせは幕史研まで。
2007年07月11日
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5月の後半に、姫路史跡調査がありました。マニアックな龍馬会のマニアックな講師によるマニアックな史跡調査でした。姫路は知らないことがほとんどで、大変勉強になりました。知らない地域がまだまだあることを実感させられました。6月2~5日の2泊3日で関東の史跡調査に行きました。これは編集者兼ライターであるS氏からのお誘いで、次回学研の特集を組むことから急遽写真撮影と現場の取材に向かいました。伝習隊や伊庭八郎、古屋作左衛門関連の旧幕府軍が関東近郊で戦った現場を紹介する企画で、箱根の遊撃隊墓地や激戦地、本邦初の遊撃隊士の○○(これは記事を読んで確認下さい)、埼玉の飯能で起こった飯能戦争、宇都宮戦争や梁田戦争(弾痕の残る柱)、鬼怒川公園にある小原沢の戦いの戦跡、塩原妙雲寺の本堂など盛りだくさんのコースでした。140年前の戊辰戦争の戦跡が現在に残っていることに感動しましたが、地元の方の伝承話は資料や文献には載っていないことばかりでしたし、史跡を保存されているご厚意に感謝しました。書籍名や記事内容は後日出版協力のページで紹介します。
2007年06月06日
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今日は久々に時間が取れたので更新作業をしました。福井県の小浜と敦賀のページを新規開設、滋賀県の彦根のページをコース順に再編成し、説明文をアップしました。次回はいつ出来るやら・・・。
2007年05月11日
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日記から月記になっていますね。さて、最近の幕史研は色々忙しかったです。4/7 奈良県五條市で天誅組のイベントがありました。その中で「天誅組と坂本龍馬」という演題で1時間ほどお話ししました。皆さん熱心に耳を傾けていただき、話す方も楽しくお話しできました。その後のパネルディスカッションも良かったですよ。おいしいお酒を飲みました。4/15 岡山城博物館で「幕末維新の岡山の人々」を見学。資料を見学し、土居の四ツ塚、石井宗謙生誕地、滝善三郎義決碑、藤本鉄石生誕地、玉島の熊田あたか関連の史跡を満喫しました。5/3-5 高知へ3日は渋滞をすり抜けて、14時過ぎに南国へ。南国と野市の史跡を満喫。4日は檮原、東津野、佐川、葉山、日高の史跡を堪能。5日は高知市内をいやというほど史跡をまわりました。どのぐらいまわったかカウントしていませんがすんごい数です。龍馬記念館と桂浜を最後に、夕方18時に出発、帰阪は1時過ぎでした。渋滞には若干あいましたが、車中は替え歌やおもろい話で盛り上がり、苦痛ではなかったです。ベストメンバーでしたね。3才の長男は龍馬に会えて大喜びでした。いい思い出が出来たようです。なんとか訪問地をアップしたいと思いますが、いずれまた。
2007年05月07日
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2月から書いていないので、2ヶ月ぶりですね。2/18 京都国立博物館の御所の襖絵展を見に行き、京都史跡ボランティア協会の「幕末維新の悲劇会津白虎隊」飯沼貞吉の子孫が語る。と水戸天狗党を聞きに行きました。3/5-7 高知へ。仕事でいきましたので、史蹟調査の時間は早朝と夕方日没までの時間にみでしたが、宿毛・中村の県西部を探索しました。3/25 神戸史跡探訪 龍馬会主催の史蹟散策。無茶苦茶歩きました。今後の予定は4/7 奈良五條で「維新話に花を咲かせよう!」13時から五條市史蹟公園長屋門前にて講演します。「坂本龍馬と天誅組」です。その後パネルディスカッションにも参加しますけど。。。4/15 幕史研主催の岡山史蹟調査です。「幕末維新をかけぬけた岡山の人々」岡山城にてを見学のあと、市内史蹟散策。藤本鉄石史蹟じゃ。。。5/3-5 高知史蹟調査があります。行き先は南国・野市・檮原・東津野村・佐川・日高・高知市内と盛り沢山。今後もますます忙しい幕史研でした。なんとはHP更新作業もしようと考えてはいるのですが・・・
2007年04月04日
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2007年は亥年。今年は年男。今年は最高の結果で一年を過ごそうと!! 1月末の試験結果を楽しみにしておりました。 しかし 結果は・・・・ サクラチル でした。しばらくは放心状態で日々過ごしておりましたが、やっと復活!!まあ、今年もしっかりがんばろう!! と決意しました。皆さん、今年後半もお世話かけますがよろしく協力お願いします。さあ、上半期!! しっかりたくさんの史蹟をまわりましょう!!2月はいつどこに行きましょうか? 連絡しますよ。
2007年02月06日
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昨日、幕史研の面々で淡路島の史蹟調査をしました。こんなにも淡路島に幕末維新の史跡があるのか? と驚くほどの数に、日没までの時間に追われながら、一つ一つ丁寧に史蹟調査しました。HPも少しずつ充実しています。栃木県の史跡紹介の個別ページをアップしておりますし、北海道もすこしずつ頑張っています。しかし、説明文はまだですが。。。上半期の幕史研は、2月に京都、3月は岡山と展示会の見学、4月か5月に十津川史蹟調査があります。龍馬会も3月が神戸史跡で、5月が姫路方面です。充実した史跡調査が目白押しです。史蹟調査をスムーズにするためには、事前の文献調査がものを言いますね。さあ、次回の場所もそろそろ決めねば・・・
2007年01月29日
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昨日は、じっくり時間をかけてHPの更新作業をしました。京都の「河原町・烏丸」と「室町」、奈良の「東吉野」のページを開設。北海道の個別ページ、大阪と奈良の個別ページの一部を写真のみアップしました。是非ご覧下さい。天誅組顕彰の歴史もアップしました。写真加工作業も残すところあと1/4程度になりました。ただ、説明文が追いつかずに、必死こいています。
2007年01月18日
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久々に京都に行ってきました。河原町・烏丸コースと二条城コース、室町コース、相国寺コースを10時から16時まで満喫しました。今朝は水ぶくれができ筋肉痛ですが、心地の良い疲労がなまった体に刺激を与えてくれました。やはり史蹟はいいですね。一人でまわりましたが、楽しいひとときを過ごすことが出来ました。次回の幕史研史蹟調査は1月28日に行います。行き先は淡路島と徳島です。初調査地域なので下調べを楽しんでおります。
2007年01月11日
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やっと更新作業が実を結びました。この一年はほとんど写真の整理をしていました。恐ろしい数の写真です。びっくりしました。これでも飽きたらずまだまだ史蹟を調査していきます。1月9日 北海道の史跡紹介のページを更新 1月7日 奈良の東吉野の個別ページを開設 天誅組顕彰の動きを開設 1月6日 京都の祇園・円山公園の個別ページを開設 西京の写真を追加
2007年01月09日
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新年あけましておめでとうございます。昨日の紅白は白が勝ちましたね。いまさら歌合戦とは・・・少々時代遅れの感もありますが。。。さて、2007年開幕!! 今年は絶対にいい年にするよう皆さんも頑張りましょう。史蹟調査の一発目も、淡路島・徳島の史跡探訪で決まりました。日程はこれから調整しますが。。。HPの更新も徐々に頑張りますのでお楽しみに。。。
2007年01月01日
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本当に久々の書き込みです。前回から3ヶ月がたちました。やっと時間が出来たので、更新作業を始めたところです。某龍馬会のHPの更新を先にやりましたので、これから幕史研のHP更新作業をします。まずは写真の加工ですが、これが暇かかる作業ですね。それから文章の整理と・・・ぼちぼちやっていきます。まずは取材記録を新たにしました。今年は幕史研の史跡調査は終了しましたが、来年早々にも京都にでも行くかな?と思っております。
2006年12月11日
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ブログを辞書でひくと「日記-毎日の出来事を書く」とありました。はたしてここはそうなっているのだろうか?毎日は無理でももう少し書きたいと思いますがちょっと難しいですね。でも11月までは月一で書きたいな。さて、ここ一月の動きは、幕史研ではありませんでしたが、某龍馬会ではたくさんありました。9月に生野義挙の史跡調査です。生野義挙は兵庫県中部、現在の朝来市の生野で起きた事件で、平野国臣や南八郎(河上弥一)を中心に地元の農兵を率いて挙兵した事件です。首領は沢宣嘉(途中で逃亡しますが)。地元では中条右京や北垣国道などがいた。天誅組の挙兵に呼応してと諸本ではありますが、9月25日に天誅組は壊滅し、それから10月13日の挙兵までの間に、当然ながら壊滅情報は知っていると思われるので、この説には無理があると思うが、石碑にも刻んであるので、それが正史となってしまっている。3日間で壊滅する挙兵。あっという間に終了してしまう。歴史の中でもほんの一瞬の出来事。何人の人がこの事件に目をとめてくれるだろうか?でも、私達は、このようなマニアックな事件や人物が大好きで、目にとめてしまうのです。年内には幕史研のHPで生野義挙の頁を開設したいと思います。さてもう一つ。某龍馬会の機関誌が100号を迎え、その記念号が先日発行されました。186頁の大作で、制作期間が3ヶ月かかりました。会の歩みやメッセージは70頁、のこりは100にちなんだ記念記事。墓石、史跡(遺跡編と石碑編)、銅像、雑誌、書籍、100人、100日、天誅100件など素晴らしい出来です。賞賛の声があちこちから聞こえてきます。さあ、試験まで48日となりました。憂いはすべて取り除きましたので、死に物狂いでがんばりますわ。次はいつ書き込めるかな?
2006年09月25日
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2ヶ月ぶりの書き込みです。久々のブログですわ。今年は11月の資格試験のため、HPの更新は試験終了までお預けにして、目下勉強中。構想は色々あるのですが。。。30を過ぎるとなかなか頭に入らない・・・ 死滅が進行する脳細胞をいかにくい止めるか。。。目下の課題です。龍馬が死んだ年を過ぎ、土方が死んだ年になり、自分を見つめ直す意味でも、今後の生活基盤確立のため、慣れない法律と向き合っています。試験本番まであきらめないを合い言葉に頑張りますわ。でもこの期間どこにも行ってないかというと、結構史蹟調査には行ってます。これが唯一の息抜きなんですね。また時間を見て史蹟調査は更新しますが、東京都内史跡探訪(谷中墓地、雑司ヶ谷墓地、染谷墓地など)や、函館(結婚10周年記念で家族で行きました)、生野義挙史蹟調査など。さあ、今から勉強しますわ。
2006年08月09日
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ワールドカップ予選リーグ 一生懸命応援しています。オーストラリア戦とクロアチア戦では明らかに戦い方が違いました。評論家が戦術的なことをテレビで言うてますが、なんのこっちゃようわからん。でも試合を見てて、当然ですが、選手が一生懸命ピッチで頑張っていること!!マスコミの報道はこれを忘れてるような気がします。結果はオーストラリア戦では残念でした。クロアチア戦では引き分け。たしかに若干のミスはあったと思いますけど、もう少し選手をほめてあげてもええのとちゃうやろか。そら、勝てばええけど、負けるときも勝負の世界やからあると思う。そんなときこそ、みんなで精一杯頑張って戦ってくれ!!と応援したいと思う。前回は日韓大会やったから親近感があって、町中めっちゃ盛り上がったけど、今回はそんなに盛り上がる試合ではないのに、渋谷の街で暴発するニセサポーターの映像が流れる。要するになにかにかこつけて騒ぎたいだけの人たちなんでしょうね。騒ぐのはいいけど人の迷惑を考えたら、あんなことはせえへんとおもうけどな。大阪にもゴミ袋を投げるやつがおった。あほちゃうか。あとで、掃除して帰るんやったら許すけど、そのまんまで知らん顔。ちょっとあきれるというかあほの子やね。最近の若者は・・・という言葉をよく聞くけど、若者にもええやつとあほなやつがおる。ただ、あほなやつのほうが目立つからマスコミに取り上げられて、それが若者全体のようなイメージになってしまう。ゴミ袋投げたあほはそのまま帰りよったけど、その後始末を違う若者がしていたらしい。騒ぐのもええけどほどほどに。。。さあ、あとはブラジル戦ですね。深夜というか朝方に近いけどしっかり応援しましょう!!なんとか予選リーグ突破して欲しいけど。。。夜中なので大声での応援には気をつけましょう。昔知り合いが、ワールドカップがそんなに日本で有名でない頃、大声で夜中応援していたら、警察が来て、近所迷惑ですと怒られたことがあったそうな。。。
2006年06月20日
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最近は史蹟調査に行ってないし、資料も読み込んでないし、当然本も読んでいない。。。幕末のことは何もしていないのです!!少し困ったなあ。今年は個人的に勝負の年なので、それに集中したい!! 集中しなければ!!凝り性な性格で、勉強よりページの更新のほうが楽しいでしょ。そうなったら、「まあ、いいか。明日やれば。。。」を繰り返してしまいそうで。。。集中せなあかんときほど、雑念が入りよる。人間うまいこと出来てますね。ええタイミングで「魔」というのが、耳元でささやきよるんですわ。人間の決心ほど弱いもんもないですな。だから日々朝起きて、「今日はこれするぞ!」と決心。飯食うてから今度は「発心」。奮い立たすんですな。でも、これの繰り返しで、結局「今日はあれがあったから出来へんかった」とか「寝不足は体に悪い」とか、適当に都合のいい言い訳を自分で考えて、自分に言い聞かせる。。。すごい嫌なことやけど、それを繰り返している自分がおる。まあ、それを乗り越えたところに栄光のゴールが待っているでしょうな。日々コツコツの繰り返しで、積み重ねですな。頭ではわかっていても、弱い心をどのようにコントロールすればいいのか。。。目下、最大にして最強のテーマです。頭は使わなあきまへん。
2006年06月20日
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本当に久々のブログです。最近は講演活動が忙しく(あまりお金になりませんが・・・)、さぼっておりました。先日も吉田松陰と現代の青年を熱く語ってきました。今月末から7月上旬まで、「幕末の時代背景と登場人物」や、中学校の社会科教育の一環で「坂本龍馬の魅力学」、そして龍馬会では「手紙で見る龍馬と長州のやりとり」があります。少しずつですが、講演や原稿依頼が増えてきております。あまり忙しくならないで欲しいけど・・・。さて、先日、幕史研期待のホープと図書館へ行きました。久々の図書館に少しはしゃぎましたが、目的とする「生野義挙」の資料を手当たり次第コピーしました。数百枚したかな? 朝から夕方まで半日図書館で過ごしました。7月には生野義挙の史蹟調査に行きます。今から楽しみです。そしてこの夏にはもう一つ大きなイベントが。。。7月14日から18日まで、函館・松前・江差の戊辰戦争戦跡調査に赴きます。家族3人で、榎本武揚や土方歳三、大鳥圭介など、蝦夷共和国の面々が築こうとした天地。。。今からワクワクしています。そろそろ梅雨空になるかな。しばらくは史蹟調査はお預けで、資料調査に入ります。
2006年06月14日
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昨日は、大阪龍馬会主催の神戸史蹟探訪に行ってきました。昨年は海側の神戸を徒歩で回りましたが、今回は尼崎から西宮そして神戸の山側の史蹟を満喫しました。車での史蹟調査なので、楽は楽でしたが、57カ所訪問予定が結果は半分以下でした。でも見所いっぱいのコースに充実の一日を過ごすことが出来ました。今回の目玉は岩倉具視終焉の六英堂(東京にあった建物を神戸に移築)、勝海舟寓居跡(庭を見学させてもらいました)があり、行って良かったコースでした。やはり大人数でまわる史蹟もいいもんですよね。車4台でしたから。いつもは1台で行っていますので。。。さて、そろそろ梅雨の季節が到来しそうです。梅雨の期間は史蹟調査より資料調査になりそうです。近々神戸の図書館に生野義挙を調べに行こうと思っております。ということで、次回はいつになるでしょうかね。
2006年05月22日
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昨日2000アクセスを突破しました。身内にはそんなに宣伝していませんが、これだけの方が見てくださっていることにびっくりします。開設してから約半年。毎日書こうと思いながら、三日坊主の性格では厳しいですね。週一もクリアできず。。。その上、史蹟紹介のページの更新もままならず。。。あせっても仕方ないので、じっくりと構えてやりましょう。基本的に史蹟調査は秋から春にかけてがベストです。紅葉と史蹟や桜や新緑と史蹟などいい写真がたくさん撮れるからです。冬は、快晴が多いことと、樹木の葉が落ちて、木々で撮りにくい史蹟写真がじっくり撮れるからです。夏は暑いので、史蹟調査はバテますよ。ということで、夏はあまり調査に行かないかな?でも、行くんだろうな。幕史研は。。。
2006年05月15日
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6日は昨日に続いて、京都へ。妙法院大法院が春期特別公開をしていたので、見学に行きました。佐久間象山墓は非公開でしたが、係員の特別のご配慮でお参りさせて頂くことが出来ました。これはなかなか良かったですよ。その後、嵐山へ。天竜寺境内の弘源寺(長州藩士刀傷)、松厳寺の龍馬像、天明院の楢崎将作・お龍の供養墓を見学。長遠寺の人見勝太郎墓と、松林寺(見廻組屯所)を見学後、春期特別公開中の妙法院(七卿落ち出発の地)をじっくり見学しました。大法院や妙法院は庭が美しく、時間を忘れて庭園をじっくり見学しました。まあ、それなりにええコースでした。
2006年05月07日
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5日に、東京の編集者兼幕史研メンバーのS氏ご夫妻が来阪したので、久々に天誅組を散策しました。まずは安堵町で開催された「天誅組展」を見学。草奔義挙研究家の草村氏の主催。安堵町歴史資料館で行われ、規模は小さかったですが、見応えのある資料と丁寧な解説に感動しました。行って良かったです。その後、今村文吾墓と額安寺(伴林光平立ち寄り地)、三枝しげる生家(淨蓮寺)、藤堂藩古市代官所跡、奈良奉行所跡(奈良女子大)、川路聖謨記念碑、奈良町資料館、柳生正木道場(京都所司代建物を移築)を見学しました。柳生はのどかな風景と、柳生剣術師の子孫らしい老人たちが畑仕事をしていました。なかなかよいコースでしたよ。
2006年05月06日
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久々ですね。最近更新も出来ていないし、史蹟紹介も止まっているし、調査報告も書いていない。。。なかなか腱鞘炎が治らずに、とうとう親指を動かすと激痛が走るまでになってしまった。前に病院に行ったが、結果良くなっていない。高価なサポーターを巻いているが無理みたい。。。やはりもう一度病院に行くべきでしょうかね。こんな状態なので、更新作業もままならないのです。でもこの休み中に少しぐらいはいじりたいかな。親指と相談して。。。さあ、今週は天誅組の史蹟調査があります。今からわくわくしますね。
2006年05月01日
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昨日は、5人で滋賀方面の史跡調査に行きました。大阪を出発して、まず守山の古高俊太郎生誕地と顕彰碑を見学して、金剛輪寺の水雲閣へ。赤報隊結成の場所です。高源禅寺では村山たかの肖像画を見ました。最晩年の肖像画で老婆の姿をしていました。彦根に入って天寧寺には井伊直弼供養塔と長野主膳墓、村山たか供養塔に、五百羅漢を見学し、清涼寺へ。ここは井伊直弼が学んだ参学道場があり、龍譚寺には文塚と井伊家菩提寺に石田三成銅像を、井伊神社は朽ち果てて哀愁を感じました。彦根城近辺には、埋木舎から、彦根城、長野主膳宅跡から家老宅跡が多数あり、ゆっくり徒歩で散策しました。もちろんおいしいお団子をほおばりながらですが。義吉地蔵は、長野主膳が処刑された場所に建っている地蔵で、牢屋がその近辺にあったそうです。天気も昼過ぎから良くなり、桜は散り始めていましたが、残る桜もあり、満開の時はさぞきれいだろうと思うほど、桜がたくさんありました。それに、新緑の緑が鮮やかで、寺の庭もきれいで、史跡調査にプラスして庭園散策もでき、満喫した一日でした。もちろん帰阪しておいしいお酒を飲みました。やはり、史跡調査はいいですね。
2006年04月24日
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生まれて初めて腱鞘炎になりました。右手首が痛い痛い。パソコンのしすぎとかマウスのさわりすぎとか書いてありましたが、そこまでしてないのに。。。おまけに書き物が多く、右手を酷使しながら、湿布を貼ってサポーターをまいています。不便ですね。木曜日に有名な鍼灸院に行きます。幕史研のK氏行きつけの店で、腕は素晴らしいとのこと。痛みを取ってくれたら、それだけでもお願いしたいな。
2006年04月18日
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急遽決定!次回は4月23日、滋賀方面です。集合時間と場所は直接メンバーに連絡しました。今度は、古高俊太郎生誕地(守山市)と高源寺(村山たか肖像画公開中)と彦根です。彦根はU氏の得意中の得意ですが、物忘れが激しく・・・ K氏が史料を引っ張り出しているそうなのでK氏にお願いしましょう。頼むね。で、GWも幕史研は動きます。日程は23日に決めましょう。行き先は天誅組!!です。5/1.3.4.5と、安堵町で「天誅組展」が開催されますので、それを見学して、近辺の史跡を堪能する予定です。忙しくなるね。
2006年04月18日
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久々の京都で桜満開!!陽気な天気に誘われて3ヶ月ぶりの史蹟調査へ行ってきました。今回は、息子も同伴して、風邪でダウンするメンバー続出しましたが、強行しました。とにかく春の京都は道が混むから、郊外へ行こう! ということになりまして、まず樫原にある勤王志士三士の墓と遺跡、西念寺の西川耕蔵の墓。西川耕蔵の墓は、新しくなっており、前の墓石も残されていました。これは発見! それから太秦方面へ移動して、車折神社境内にある福田理兵衛を祀る癸忠社に、正定寺にある墓を探索。この車折神社は芸能の神様を祀るところで、芸能人の名前がいっぱいありました。米倉涼子の名前があったときは感動!!しました。かつみ&さゆりや里見浩太朗などすごかったです。車で嵐山へ入るのは不可能と判断し、車折神社に車を置いて(勝手に)、嵐山電車に乗車し、嵐山へ。案の定人の波・・・。人混みをかき分けて、天竜寺へ。ここには龍馬の銅像がある寺や、お竜・楢崎将作の顕彰碑があったり、見所一杯。そして長州藩が禁門の変の時には、ここを屯所としていた。その弘源寺には長州藩士の刀傷のある柱があります。特別公開の時しか入れませんが、今回はその期間中だったので入って見学。まあ、普通の刀傷ですわ。車に戻って、南区の狐塚にある都城隊士の墓を見学し一路大阪へ。史蹟調査のあとの酒はまた格別で、今度はどこに行こうか?などと、時間の許す限り話し合いました。さて、次回はどこ行こ?幕史研の皆さんGWまでに、佐久間象山の墓行かな! 4/30まで、村山たかの肖像画を滋賀のお寺で公開してるよ! GW中に天誅組展が安堵町で行われているよ! さあ、どこ行くの?
2006年04月11日
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初めての出版協力した書籍が発売されました。2006年4月12日 初版発行 出版社 (株)マックガーデン 定価781円+税 ISBN4-86127-262-9 PEACE MAKER KUROGANE 東下覚書 原作者:黒乃奈々絵 取材・執筆・編集:オフィス新大陸幕史研のメンバーS氏の執筆作品です。幕史研は史蹟写真の提供と史蹟マップ作成をしました。下記アドレスに情報をアップしましたので是非ご覧下さい。http://bakusiken.cool.ne.jp/syuppan.html
2006年04月02日
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幕史研の皆さん次回の史蹟調査は、お知らせしたとおり、4月9日です。詳しい時間と集合場所はこちらからメールします。しばらくHPの更新をしておりません。。。仕事が忙しくてなかなか時間が取れませんのだ。ただし、全国の史蹟紹介の本をあちこちから取り寄せをしています。うずたかく積まれた本を目の前にして、手が付けられない寂しさ。。。本当に時間を作りたい。。。
2006年03月27日
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仕事の関係で、萩へ行ってきました。ちょうど九州で仕事があったので、前日に休みを取り16年ぶりの萩へ。しかし! その日は一日中雨。。。自転車借りて傘さして行けばいいか! と安易に考えていた。。。夜行バスで萩市内にはいると、雨にもかかわらず、自転車に乗ってる人は傘を差していない! 雨合羽か帽子である。その時は別段何も感じなかった私は、その後痛い目に遭ってしまった。。。風が強すぎて、傘はすぐに折れてしまう。。。なるほど!それで傘を差さないのか!ずぶ濡れになって、急遽レンタカーを借りたが、史蹟調査の気持ちが萎えてしまい、椿東(ちんとう)地区だけすませて、下関へ移動しました。やはり雨の中の史蹟調査は気持ちが大いに萎えてしまいますね。次回は2泊3日で、晴天の日に行くぞ! と心に決めました。
2006年03月18日
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幕史研が全面的に写真の提供や史蹟カウンセリングをして、本が出版されます。書名は『東下覚書(とうかおぼえがき)』で、3/29日刊行予定。出版社はマッグガーデンという、マンガ雑誌やアニメ書籍を出しているところです。マンガがメインですが、史蹟の紹介(主に東日本)の頁もあります。是非お買い求め下さい。
2006年03月14日
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寂しい出来事がひとつ長崎の亀山社中が閉館することになった。所有者の意向は十分尊重しなければならないが、もう少し早くから観光課なり役所が交渉できなかったのか? それか交渉したが結果良くなかったのか?またひとつ維新の史跡が消えていくような気がする。現在の所有者はどのように考えておられるのか? 是非お聞きしたいと思う。維持費には莫大なお金がかかる。以前台風で屋根が壊れたとき、自費で修理された話を聞いたような気がする。最近長崎に行ってないが、以前はよく行った。そして早朝に社中に行くと、本村さん(所有者)から酒を勧められ、よく飲んだものだった。あの名調子の説明には、いつも感心した。長崎弁の混じった標準語は行く人を心からもてなすごちそうだった。まあ、寂しいが仕方がないのかも。これも歴史かな? 今週末で見学できなくなる。出来れば、特別拝観をして欲しいな。あまりにも急なので。。。行きたいけど行けない。。。。所有者の意向を尊重しつつ、時期を限定して公開して欲しいと思う。
2006年03月14日
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一週間ぶりの書き込みですな。この一週間は、龍馬会の原稿書きなどでばたばたしておりました。昨日やっと終わりましたので、ほっと一息です。来週は九州出張があり、思うように更新作業は出来ませんが、出来る範囲でやっていきます。久々に九州のにおいを嗅いできます。
2006年03月10日
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たまには個人的なことも書いてみましょう。プロフィールは団体のことを書きましたが、管理人はどんな人? って聞かれまして少しだけ紹介。大阪生まれの30代。両親は福岡出身。おかげで眉毛が太くて濃い。。。大阪の北部、京都に接する枚方の大阪よりに居住。難波で生まれ、ミナミで育ち、結婚して、東淀川→守口→枚方へと転居。2年前に大きな病気をした直後に長男誕生! 龍馬が大きく飛躍する記念の日に生まれた。そのこともあって、長男には「龍」の字がついている。芸術関係の仕事をしていますが、昨年より一念発起して「行政書士」試験に挑戦。昨年は玉砕しましたが、今年は予備校に通い、今から試験の準備と対策に明け暮れている。それにしても難しいですね。合格率が2.8%・・・まあどこまで出来るかわりませんが、全力で取り組んでいます。いまさらサラリーマンは厳しいので、資格を取得して、自営業をしながら、幕史研や龍馬会を続けていきたい。時間的なゆとりがあるだろうと勝手に想像していますが。。。現実は結構厳しいかも。所属している龍馬会とは、坂本龍馬や幕末をこよなく愛する人で結成されたサークルで、イベントや会報など様々な活動をしている。結構活発で、年6回のイベントと年4回の機関誌を発行しています。しかし、龍馬会で行く史蹟は限られており、スタッフのフラストレーションがたまりはじめ、それまでにも有志で史蹟調査はしておりましたが、その有志名に名前を付けようと言うことになり「幕末史蹟研究会」となったわけである。
2006年03月03日
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