「斉藤宗次朗」



斉藤宗次朗は岩手県の花巻で、禅宗の寺の三男として生まれ
ました。
15歳の時に、母の甥にあたる人の養子となります。成長した
彼は小学校の先生となり、ふとしたきっかけで聖書を読むように
なり、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。
しかし、当時はキリスト教がまだ「ヤソ教」「国賊」と呼ばれて
いた時代で、彼が洗礼を受けたその日から彼に対する迫害が強く
なり、親からは勘当されてしまいます。
町を歩いていても、「ヤソ,ヤソ!」と嘲られ、何度も石を
投げつけられます。
それでも彼は神を信じた喜びに溢れて、信仰を貫いていきました。

しかし、いわれのない中傷が相次いで、遂に彼は小学校の教師を
辞めなければならない羽目になりました。それだけではありま
せん。
迫害は家族にまで及んできます。長女の愛ちゃんはある日、
ヤソの子供と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こして、何日かの
後にわずか9歳という若さで亡くなります。
教師の職を追われた彼は、新聞配達をしながら生計を立て、
毎朝3時に起き、夜9時まで働くという厳しい生活を20年間
続けてゆきます。
彼は朝の仕事が終わる頃、雪が積もると小学校への通路の雪かき
をして道をつくります。
小さい子供を見ると、だっこして校門まで走ります。
彼は風の日も、雨の日も、雪の日も、休む事なく、地域の人々の
為に働き続けます。
自分の子供を蹴って死なせた子供達の為に・・。
新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めます。

やがて、彼は住みなれた故郷・花巻を離れ、東京に移り住む日が
やって来ました。
花巻の地を離れるその日、「誰も見送りに来てくれる者はいない
だろう」と思って、駅に行ったところ、そこには、町長をはじ
め、町の権力者たち、学校の教師、神社の神主、お寺の僧侶、
そのほか町中の人達が、たくさん見送りに来てくれていたのです。
それは彼が日頃からしていた事を皆は見ていたのです。
その中の一人に宮沢賢治がいました。宮沢賢治は法華経・日蓮宗
の信者でした。斉藤宗次朗が東京駅に着いて最初に手紙を
もらったのが、宮沢賢治でした。
その5年後に、宮沢賢治が有名な「雨にも負けず、風にも負けず」
といいう詩を作ったのです。



「雨にも負けず、風にも負けず」
                 宮沢賢治 

雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な
身体を持ち、
決して怒らず、いつも静かに笑っている。
1日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、
あらゆる事を自分の勘定に入れず、
良く見聞きし分り、そして怒らず、
野原の松の林の陰の、小さな わらぶきの 小屋にいて、
東に病気の子供あれば、行って看病してやり、
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、
南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い、
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろとい言い、
日照りの時は涙を流し、
寒さの冬はおろおろ歩き、
みんなにでくの坊と呼ばれ、
誉められもせず、苦にもされず・・・
そういう者に私はなりたい。


「私たちはみなこの宝を土の器に納めています。それはこの
並外れた偉大な力が神から出たものであって、私たちからでは
ないと言う事が明らかになる為です」

             第二 コリント書 4章7節

01月17日 【主は話された】



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