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「丸」編集部編『沖縄血戦記録―本土決戦記』(光人社NF文庫、2011)表題こそ沖縄となっているのですが、八丈島警備部隊、名古屋市の警察官、電波警戒機など多岐にわたる内容。というか沖縄戦は最初の1作のみ、しかも軍属によるもの。本書の中では第一航空情報連隊で電波警戒機を実際に使っていたという人が書いた記録が特に珍しいものかと思います。1. 砂岡秀三郎「あゝ沖縄“武器なき兵士の島”最後の日」雑誌「丸」昭和五十三年六月号収載。著者は当時四十六歳で海軍軍需部の理事生。昭和二十年三月二十三日の空襲から始まる沖縄戦の体験談。2. 竹内尚三「八丈「鉄壁の陣」始末―知られざる磁烏防衛史/不沈要塞に賭けた青春」雑誌「丸」昭和五十九年五月号収載。八丈島警備の混成旅団「浦第一二三七八部隊」経理部勤務の記録。「高校卒の浪人となれば、否応なしにこの検査にひっかかるために、浪人の九割九分まではどこかの私立大学に無試験入学しておいて、徴兵延期の便法に走った。来年三月にはふたたびどこかの官立大学を受験するのである。」p98(昭和12年頃のはなし)「現在の三沢空港も、当時は設備不良の軍用空港であった。軍用機は格納庫もなく野ざらしの形であった。」p102(昭和19年時点のはなし)「軍の調達は、調達手続きよりも代金支払いにかんする書類作成が大変だった。売買の話がきまると、ザラ紙半分(B5)の紙に縦半分のところで線を引き、右が請求書、左が領収証になっている書類をつくる。その書類の形式がかんたんなようでなかなかややこしい。記入事項や印鑑の押し方までこまかい規則がある。司令部には内部監査の機構があって、調定室とよんでいた。調定室の幹部はもちろんのこと、兵士まで税務署のように書類の不備をほじくりさがした。戦争中になにもそんな精査をしなくてもよさそうなものであるが、仕事の流れがそう定められているのだからしょうがない。」p1573. 中野剛宏「金鯱城が炎上した日―中京大空襲始末/ある警察官の現場からの告発」雑誌「丸」昭和五十五年九月号収載。筆者は昭和十七年四月十八日時点で名古屋市中川警察署巡査、昭和十九年二月時点では名古屋市熱田警察署会計係とのこと。著者が警察官というのがこのシリーズ中では珍しいところですが、主に警防団の訓練の様子や空襲後の名古屋市街地の様子などが書かれています。(昭和十四年四月十七日(対米戦開始前)の警防団の防空訓練の様子)p187(昭和十五年三月二十六日に米国船が伊良湖沖で座礁した際の話)p192「この竹槍訓練が、どういう命令系統のもとにあるのかは、不明である。どこからその命令が出て、どこではじまったのかも、ぜんぜんわからない。軍部からではなさそうである。といって、県から出たものでもなさそうだ。もとより、町内の申し合わせではじまったことでもない。なんともわからないことだらけである。」p198「このように、家財の持ち出しよりも消火を第一に、というこれまでの訓練をうけて、一月三日の空襲では、市民はことごとく家財を焼失してしまったのである。しかし、これ以後は、消火はとうてい不可能ということが認識されて、もっぱら家財の持ち出しが優先的に考えられるようになった。各家庭においては、あらかじめ家財を荷車やリヤカーにつんでおいて、非常のさいは、いつでもすばやく引き出せるように手配しておくようになった。ところが、三月十二日の空襲のさいには、各自がこの荷車をひき出したものの、途中で荷に火が燃えうつったために、そのまま放置して逃げ出すという例が数多く見られた。これが消火・救護にどれだけ障害になったか―はっきりしたデータはないが、私は身をもって痛感させられたのであった。」p2204. 北田三郎「本土防空レーダー連隊奮戦始末―日本の秘密部隊/まぼろしの陸軍情報連隊の全貌」雑誌「丸」昭和五十五年四月号収載。筆者は第一航空情報連隊(中部第一二九部隊)所属との事ですが階級は不詳。(第一航空情報連隊の大雑把な沿革)p256-「人員構成は、航空情報という高度の訓練を必要とするためか、旧制中学卒業者が約七十パーセント、逓信講習所、あるいは中野とか目黒などの無線の専門学校出身が約二十パーセント、その他となっていた。…」p258「五、六、七、八の各中隊が、この新兵器の訓練をおこなった。これが、陸軍で最初の電波警戒機部隊となったものである。」p260「幕舎内通信所配置図」(地三号無線機を設置する幕舎のレイアウト図)p265(電波警戒機の概要説明)p270-「要地用警戒機とは要地用、すなわち東京、名古屋、大阪、北九州などの要地を守るのが目的としてつくられたもので、電源は動力用二百ボルトを使用した。極秘の兵器であったため、現存の写真は一枚もない。電波警戒機の編成は、送信機一(ただし二台一組とし、六時間ごとに交替送信する)、受信機四(四個分隊)をもって、一個中隊を編成した。送信機は、一台の大きさが約二メートル角(縦、横、奥行き)のものが並列でおかれ、ここで増幅された電波が、高さ約七十メートルの電柱から送信された。演習中は、一万三千~一万五千ボルトくらいで送信(放射)した。そして実戦には、三万ボルトまで電圧(タップ調整)を変圧した。」p271-(要地用電波警戒機の概略など)(野戦用電波警戒機)p278-「野戦用警戒機の編成は、兵員輸送車、属品車、発電車、変電車、送受信車の五車両で一個中隊が編成された。このうち、三番目の発電車は、トラックのエンジン後部荷台にもう一台のせ、五十キロワットの発電機に直結して発電し、これを変電車に送電して、ここで変圧して、送受信車へ送電するようになっていた。つぎの送受信車だが、要地用警戒機の場合は、送信機と受信機はべつべつ(場所)であったが、野戦用は送受信車といわれるように兼用だった。移動車の空中線は、電車のパンタグラフのように伸縮する仕組みになっていた。しかし、内地部隊で移動するさいは、ちぢめた状態でも高さがあり、貨車輸送の場合などは、トンネルのない鉄道路線をえらぶのに苦心したものである。送受信事の送信用空中線は、伸ばした状態の上半分とし、下半分は受信用となっていた。」「第二航空情報連隊=ビルマ・ミンガラドン第三航空情報連隊=満州・鞍山第四航空情報連隊=ニューブリテン島ラバウル第五航空情報連隊=比島・マニラ第六航空情報連隊=中支・南京第七航空情報連隊=スマトラ島第八航空情報連隊=ジャワ島、セレベス島第九航空情報連隊=(不詳)第十航空情報連隊=(不詳)」p280(各航空情報連隊所在地。出典が書かれていないのが残念です。)5. 天野俊介「志布志湾「決戦場」に敵艦影を見ず―日本陸軍最後の防衛陣/一兵士の本土防衛戦秘話」雑誌「丸」昭和六十年十一月号、十二月号収載。満期除隊していたが昭和十九年八月二日に臨時召集で小倉の野重五連隊に(再)入営したという兵卒の回想。「(小倉市)北方にはほかに野重六連隊、旅田司令部などがあったが、当時は戦争中のため、旅田司令部は西部七十一部隊、野重五連隊は西部七十二部隊、野重六連隊は西部七十三部隊とよばれなていた。」p285-「連隊は二個大隊六個中隊の編成、第一大隊は昭和十四年のノモンハン事変ではじめて実戦に使用された九六式十五榴の機械化砲兵で火砲は新品だったが、ディーゼルエンジン搭載六トンの九八式牽引車はだいぶ古かった。だがこれは、口径十五センチ、射程一万二千メートルのすぐれた砲である。第二大隊はむかしの輓馬編成の四年式十五榴。岩田連隊長は六十歳すぎで、もちろん応召の老中佐。大隊長は幹候あがりの大尉、中隊長も幹候か下士官あがりの中尉で、士官学校出の将校は一人もいなかった。下士官もほとんど召集兵で現役はすくなく、兵は予・後備の召集兵に現役、それに第一乙、第二乙の補充兵で、これが高年になって召集されてきているので、一等兵だと予・後備の召集兵か補充兵なのか、私にはさっぱり区別がつかなかった。私たちが八月五日に入隊したときに、すでに新品の軍装で動員編成を完結し、出動するばかりに準備ができた九六式十五榴一個連隊(あるいは一個大隊かも知れない)が、兵舎をでて砲廠に起居していた。そしてまもなく出動して行ったのだが、私たちはそのあとの補充として入隊したのである。」(本土決戦部隊の人員や兵器の充足状況)p288「連隊の兵員は、私たちが入隊するとがぜんふくれ上がった。だが、砲兵としての教育や演習はまったく行なわれなかった。泊がないので牽引率で火砲をひくことなど一度もなく、牽引車も火砲も車廠砲廠に格納したまま、第二大隊が執馬編成の火砲をひいて、演習に出る姿も見た記憶がない。通信・観測の演習もやっていたようすはなかった。大勢の兵隊は、防空壕掘りに明け暮れていたようである。」p291
2015.04.19
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「丸」編集部編『英国東洋艦隊を撃滅せよ―海軍中攻隊空戦記』(光人社NF文庫、2011)1. 須藤朔「英国東洋艦隊を撃滅せよ―英巡戦レパルスを雷撃した勇猛陸攻隊の奮戦記」雑誌「丸」昭和四十三年一月号収載。筆者は開戦時には鹿屋空所属で中尉。最終階級は不明。開戦初頭のマレー沖海戦の話。「去る四月十日、木更津航空隊から台湾の高雄航空隊で間借り旗上げしたばかりの第三航空隊付として赴任して来てから、同隊に課せられた軍令部命令で「A作業」とよばれた、フィリピン、ニューギニア、グアム島などにたいする隠密偵察飛行は、すべて私が担当してきた実績がある。任務については自信があったし、三空幹部も適任者と思って派遣してくれたのだろう。」p16昭和16年4月から8月にかけてこのほかにボルネオ、スマトラなどに対しても著者自身が航空偵察を実施していたとのこと。使用した航空機は九六陸攻3機とあるがそれ以上の詳細な記述(たとえば任務実施時の細かい状況や偵察対象の優先順位など)が無いのが残念。「九月二十日ごろと記憶する。その日、飛行長は数日間の出張で不在だった。藤吉司令が宮内飛行隊長に、「十月二日の夜、全飛行機隊をもって鹿屋から木更津往復の夜間飛行訓練をするから、そのつもりで準備するよう」といいわたした。…」p27対米開戦を事実上9月下旬(東條内閣成立前)には基地航空隊司令レベルでも知っていた模様。「われわれ基地航空部隊の大半はつい三ヵ月前までは、中国大陸の奥地爆撃を一手に引き受けて活躍していたため、浅海発射の研究をやっている余裕はなかった。そればかりか、この一ヵ年間くらいの聞に実魚雷を使つての雷撃訓練を実施した中攻隊は、ほとんどなかったはずだ。雷撃ができないとすると、水平爆撃だが、それにしてもこのサイゴン地区には、対戦艦用の八百キロないし一トンの徹甲爆弾の準備もなかったのだ。ハワイ空襲部隊は、戦艦「陸奥」「長門」級の四十センチ砲弾を改造した八百キロ徹甲弾を用意して行った。どうも日本海軍は水上部隊優先になっているようだ。」p472. 馬場利幸「わが愛機「T318号」の奇蹟―恐怖と歓喜の脱出行/魔の海を漂流した四日間」雑誌「丸」昭和四十七年八月号収載。高雄海軍航空隊中攻隊所属(二中隊 操縦)。昭和17年2月のスラバヤ空襲の際に一式陸攻で被撃墜というか不時着。不時着先の小島から帰還するまでの話。3. 下川一「果てしなき渡洋爆撃―秘められた大空の事件史/海軍中攻隊征空記録」雑誌「丸」昭和五十一年十二月号収載。第十三航空隊第3大隊搭乗整備員だった当時の回想。昭和十二年の第二次上海事変開始当初の九六陸攻(最初期の試作機)による初の作戦での搭乗経験から始まる支那事変序盤の九六陸攻による爆撃行の話。・<九六陸攻(初期のみ?)の欠陥について。燃料タンクと電気系統>P196-「このころになると、敵機はイ15戦闘機一種になっていた。ソ連製の複葉機である。エンジンは星型空冷の大きなもので、前方からはパイロットの姿が見えなくなるほどである。したがって、前方からの弾丸はエンジンでとまってしまい、なかなか撃墜できない。機体の外装がベニヤ板でできているらしく、胴腹に弾丸をくうと、その小穴から空気が入って、こまかい破片となって少しずつベニヤがくずれていく。落ちていくときは粉のように散乱する。」p248 昭和12年11月頃の話、それ以前の迎撃機は雑多な機種だったとのこと。3. 近藤暢亨「ソロモン空爆記―青春を燃やしつくした血に染む制空権争奪の死闘」雑誌「丸」昭和五十三年一月号収載。著者は七五一空の陸攻搭乗員(操縦下士官)。対米開戦前からの戦歴があるベテラン下士官操縦員の模様ですが、ここに書いてあるのは昭和十七年九月のカピエン基地(ソロモン群島ニューアイルランド島北端)からのガ島空爆に始まり、昭和十八年五月に内地に転属になるまでの話。「ガ島米軍の高角砲群はレーダーによる統一照準の一斉攻撃というやつで、その弾着はみごと飛行高度に横に層雲のごとくにかたまるのである。まさしくこれは撃墜するための武器であった。数秒おいて今度はもっと近く、やや低いところで雲ができた。一中隊はただちに全機編隊のまま緩降下にうつった。出発前に、つけた注意事項の中に、敵の高角砲は三斉射目はかならず同高度にくるから、二斉射の爆発後に機は高度を下げるから各隊はそれに従うように、というのがあったのを思い出して、すぐ一中隊にしたがう。これにはそうとう急激に操作したが、列機はみなよくついてきて編隊はくずれない。案の定、三斉射は頭の直上で雲をつくっていた。恐ろしい威力である。あれだけの雲をつくるためには数十門、いや百門以上の高角砲が必要だろうと思った。」p270「昭和十七年暮れごろまでのガ島攻撃には、敵の高角砲が昨裂する少し前から、さかんに錫を張りつけたテープを空中にまき散らしたものだった。そして、錫箔に敵高角砲の弾幕が集中するのを見て手をたたいて笑ったものだったが、いまや敵の弾丸はそんなものには見向きもしなくなった。とうぜん、つぎの手を考えなければならない時機にきているのに、なんの手も打たれていないのが現実であった。」p313(昭和十八年一月レンネル島沖航空戦の頃のはなしとして)4. 中野孝雄「わが青春「火だるま陸攻隊」に生きる―開戦努頭から織烈なる航空血戦に身をおいた一代記」雑誌「丸」平成二年五月号収載。同じくこちらも支那事変期からのベテランで対米開戦時には既に功六級金鶏勲章を保持していたという搭乗整備員。階級は当時一整曹とのこと。前半は開戦劈頭の千歳空陸攻隊(九六陸攻)三十六機によるウェーキ島空襲に始まりその後のソロモンから昭和17年末の内地帰還まで、後半は練習航空隊の期間を端折って昭和20年に入ってからの剣作戦の掌整備長としての話。「しかしながら上昇、降下をくりかえしたため、燃料の消費が多いようだ。四番槽で計測したところ、巡航時なら四百リッター/時であるのが、五百リッター/時ほどになっている。」p341(九六陸攻の燃料消費に関する記述です。20ミリ機銃装備という事なので二一型以降と思われますが二三型とどっちなのかまではわかりません。)「T式が入る…とは、無線基地から封止がとかれて、あらかじめとりきめである時間の三十分間、電波が発射される、これをT式帰投方位測定機により受信し、指示メーターとレバーによって帰途方向を確認するのであるが、このときは雲中飛行のため、機内電路系統のショートにより電圧の降下がはなはだしく、基地からの電波をとらえられなかったらしい。」p343(雲の中を飛ぶとショートする、っていうのが今の感覚ではちょっとわかりません。無線機などの機材だけでなくその艤装にもかなり問題があったものと思われます。)
2015.04.09
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「丸」編集部編『われソロモンに死すとも―ガダルカナル戦記』(光人社NF文庫、2012)このシリーズは雑誌の「丸」に掲載されていた短編を収録したものなのですが、何が載っているのかの内容についての記載がどこにもありません。書籍タイトルにも各短編の著者名は出ませんし、関係する部隊名なども本の紹介に無いものがほとんどなので、もしかしたら探し物をしている人の役に立つかもしれないと思い、収録されている作品とその著者の概要、あと気になったところなどを書いて行こうと思います。1. 高津善平「密林に消えた軍艦旗」昭和四十五年「丸」九月号収載。筆者は横須賀鎮守府第五特別陸戦隊員(当時一曹)。ガダルカナル島奪回作戦の先遣隊に参加。第三戦隊による艦砲射撃の誘導の為の電灯を点灯したとのこと。「隠密作戦用に設計された大発は、排気が水中に排出されるようになっているので、エンジン音はきわめて静かである。」p.17 昭和17年夏 カ号作戦での上陸時に使用した大発についての記述です。2.長谷川英夫「ドクトル玉砕島戦記」昭和四十六年「丸」十二月号収載。筆者は第二師団野戦病院 軍医少尉(当時)昭和十七年十月二十七日に第二師団第一野戦病院第一半部をガダルカナル島ルンガ屈曲点南方の密林内に開設して以降のガダルカナル戦の話。「このガダルカナル島の場合、マラリアが進行すればどのようなものになるか―まず、猛烈な下痢をおこす。そして、ついには血便をともなう赤痢症状となる。この場合、ほんとうの赤痢か、マラリアによる粘膜障害によるものか一見してはわからない。そして顔面や全身に浮腫をおこし、特有の青く透きとおるような、なんともいえない症状から、やがて末期の様相に移行する。このような症状になると食物がとれないので、とうぜん飢餓の状態におちいってゆく。そこで栄養失調症などとわけのわからない病名をつけた人もいる。残念ながら、私も医師としてこれらの病気をついに解明することができなかったが、できれば病理解剖をして医学的に追及すればきわめて興味ある有益な結果がえられたことと思う。もちろん、これはあくまで医学的な立場からの考えであることはおことわりしておく。」「この携帯嚢についてかんたんに説明しておこう。衛生部で軍医が携行するものであるが、そのなかにはかんたんな止血器やアルコールなどの消毒薬、薬品などを入れた牛皮製のカバンで、その表面には赤十字のマークがつけられてあった。いちおうこれで応急手当だけはできるようになっていた。下士官衛生兵の携行するものはもっと大きく、衛生材料、薬品、三角巾などが入れてあり、ともに赤十字マークがつけられてあった。また、隊医扱というのは、縦七十センチ、横五十センチくらいの木箱に手術用具一式を、じつに巧妙におさめてあって、これでたいていの手術に間に合うようにつめ合わされていた。しかし、いちどとり出したものをもういちど格納しようとすると、もう入らない。いくら頭をひねってもチエの輪をまえにしたように頭をかかえてしまう。もちろん私たち外科医は、これがないと処置、手術もできない。かつて私は陸軍病院勤務中によくいったものである。召集解除のときは勲章などほしくないが、この隊医扱だけはほしい―と。」p116-「「もう生きられないからはやく殺してくれ」と軍医に向かってさけぶ患者も相当数いた。そういう場合、軍医は、注射器をもって立ちあがり、患者の頚静脈をめがけて注射針をさしこみ、そして空気を注入するので、患者は虚空をつかんで死んだとか、また、毒物をあたえて殺したということが一部の戦記に書いてあるが、こんなことはありえないことであった。実際には、患者の静脈内に空気をいれることは空気栓塞をおこさせることで、簡単にいうと空気が体組織の重要部分にはいり、身体の機能をうしなうことである。しかし、体内にどのくらいの空気がはいれば虚空をつかんで死にいたる状態になるかはあきらかではない。が、すこしばかりの空気、たとえば二十CCくらいの注射器一本ぐらいの空気ではそんな状態にはなり得ない。これは医学的にみても断言できることである。ガダルカナルでも、注射器はもっていただろうが、それも二十CCくらいのもので、それ以上に大きい注射器は携帯できなかったとおもう。したがって、当時の状況からみると空気栓塞説は考えられないのである。また、べつの方法として、毒物をあたえて殺したなどとの説も信じられないことである。なにしろ、当時の状況では、そんな毒薬まで持っていくほど余裕がなかったであろう。」p161-3. 福山孝之「ブイン防空砲台に“必殺の弾幕”が絶えた日」昭和五十一年「丸」八月号収載。筆者は第八十九警備隊中隊長 海軍大尉(当時)。コロンバンガラ島からチョイセル島を経由してのブーゲンビル島への撤退とブーゲンビル島ブイン地区トリボイル砲台(高射砲)での対空戦闘などのはなし。4. 小西洋蔵「精鋭艦隊いまだ健在せり」昭和四十八年「丸」八月号収載。筆者は第八潜水艦基地隊掌水雷長。ラバウルの第八潜水艦基地隊での話。と言っても潜水艦への補給作業や各種機材、魚雷調整などの技術的な話はほとんど無いのは残念。大半がラバウルでの生活や空戦のはなし。・ 昭和18年1月時点での第八潜水艦基地隊准士官以上14名の官氏名と配置p.2595. 鈴木正光「われソロモンに死すとも」昭和五十年「丸」十二月号収載。本書に収録されている他の4編は生存者により戦後に書かれた回想と思われますが、こちらのみはガ島戦没者の日記で戦後の回想録ではないところに意味があるかと思います。昭和十七年十月七日在ショートランド泊地の項から始まっており、昭和十八年一月二十七日艦砲の集中射撃により戦死、その時点での階級は中尉とあります。ガ島戦に参加した十加という事ですので、本書にはあまり細かい説明は記載されておりませんが筆者の所属は第二次総攻撃に参加するため急遽海輸された野戦重砲兵第七連隊の九二式十糎加農砲、所謂「ピストル・ピート」の中隊で筆者はその指揮小隊長。・ 十月十二日、谷中隊(筆者の所属部隊)が野戦重砲兵第四連隊の配属下に入る(先発隊は既にガ島上陸後、砲が届く前)p328
2015.03.24
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大高勇治『第七駆逐隊海戦記―生粋の駆逐艦乗りたちの戦い』(光人社NF文庫,2010)感想などでは無く、珍しい部分があったのでメモを残しておきます。本書の特に珍しい点はあまり記録が残っていない伏見宮博義王についての記述にまるまる1章が充てられていることです。昭和十二年当時、著者が第六駆逐隊司令部付として駆逐艦「雷」乗組だった際の回想が本書105頁以下130頁まで1章にまとめられているのですが、章のタイトルが「海の宮様行状記」となっているように、この時期の第六駆逐隊司令は伏見宮博義王。いくつかのエピソードの他、迎え入れる乗組員の側からの印象なども語られておりますが、伏見宮博義王についての同じ駆逐艦に乗組んだ人物による証言というのは他の本で見た記憶がありません。ちなみに「雷」に関しては橋本衛『特型駆逐艦「雷」海戦記―一砲術員の見た戦場の実相』(光人社NF文庫,1999)という本もありますが、そちらの本には支那事変期の話は無いので伏見宮博義王の話は出てこなかったと記憶しています。ご参考まで。
2014.10.04
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小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』(日本放送出版協会,2010) その2174頁あたりスコラ学というと煩瑣でとざされた知というイメージがあるけど、近年、俗人説教論を唱えたペトルス・カントールをはじめとする一二世紀末から一三世紀初頭パリの神学の社会的言説に新たな光が当てられ、この時期にキリスト教世界が経験しつつあった変化に自覚的に対応していたものとしてイメージが一新している彼らは復興した都市社会で一般信徒が直面している結婚、戦争(十字軍)、高利貸などの司牧上の問題に聖書注解の方法で取り組み、一般信徒に固有な「キリスト教的生活」のための枠組みを作ろうとした。(煩瑣である事には理由があったわけですね。農民だけを相手にしていればよいのに比べると都市生活者は多様ですし、それまでは儀式をつかさどっていればよかったのが信徒の司牧として宗教生活や精神的なあり方の指導を求められるようになったのに対応するためにどうしても煩瑣にならざるを得なかった、という事かと思います。)254頁あたり一一世紀の教会の異端に対する態度は不確定であり、既に五世紀にアウグスティヌスが示していた世俗権力の動員に踏み切ることは無かった。教会法の伝統では司教が説得によって退けることが原則で、それに失敗しても破門し追放する程度。異端と信徒を見分けるのは難しいし、今日の異端が最後の日には信徒になっているかもしれないんだから殺しちゃまずよね、という穏当な考え方。これが2世紀後のトマス・アクィナスになると皇帝フリードリヒ二世の異端火刑の立法を正当化している。R・I・ムアによると、この2世紀の間に「迫害社会」としてのヨーロッパが姿を現わし、ほぼ並行して異端、ユダヤ人、ハンセン病患者、同性愛者などのキリスト教社会の周縁的存在に対して厳格な社会的態度がとられるようになったという。でも、「迫害社会」という概念は一般的すぎ。多かれ少なかれどんな社会も「迫害社会」。ヨーロッパの迫害社会としての特異性について言及する必要がある。(明確には書いていないけど本書のこの後の記述の流れからすると、その特異性が異端という概念とその拡大過程、更には「異端」と「悪魔による陰謀」の結び付けという事でしょうか。確かに「迫害社会」っていうフレーズはセンセーショナルですけど命名して片付く問題ではないですからね。ちなみに異端と悪魔の結び付けの責任が主としてインテリ層のものとされているのはちょっと意外でした。こういう集団ヒステリーみたいな現象の原因は無知な民衆に押し付けるのがインテリやエリートの通例だと思っていたもので…例えばねつ造された「南京大虐殺」なども左翼学者などは狂暴になった兵士が…とか言っているけど、どうも兵士による蛮行というのはそんなに多くは無く、実際に問題があったとするなら大本営から派遣された参謀(インテリというかエリートですね)が捕虜の処分を指導していた事の方じゃないのか、と思っているものですから。)おまけ以前に聞いた事があった、ドミニコ会の司教が瀕死の病人をわざわざ異端として断罪の上で火刑にした、という話。それなりに有名な話なようなのですがこれまで出典を知りませんでした。本書に記載があったのでその部分を抜粋しておきます。ちなみに「コンソラメントゥム」というのはカタリ派の入信儀礼のことらしいです(ここだけ読むとカトリックの臨終の秘蹟に近いものにも思えるのですが、死ぬ直前に洗礼を受ける、というカトリックでもたまにあるようなケースなんでしょうかね)。その詳細についてエクベルトゥスが『カタリ派に対する一三の説教』に書いた説明の概略などは本書96頁あたりを参照。「ラングドックのトゥールーズで、托鉢修道会の一つであるドミニコ会による異端審問が開始されたばかりの頃、一人のカタリ派信者の女性の身に起きた悲劇はこの点で印象的である。ドミニコ会に属した歴史家ギヨーム・ペリッソンの『年代記』がそれを伝える。ドミニコ会士であったトゥールーズ司教レイモンは、自分の修道院で会士たちとともに食事の準備のために手を洗っていた。そこに、修道院近くにあったカタリ派信者の家でコンソラメントゥムが行われようとしているという報告があったので、レイモン以下の修道士たちは食事を後回しにして、早速その者の家に向かった。そこでは家の主人であるカタリ派信者の義理の母が高熱で床に伏していた。まもなくカタリ派の「完徳者」が来て、瀕死の病人である彼女にコンソラメントゥムを与えようということだったのであろう。司教がいきなり家に入ってきたので、家人は「司教が来た」としか病人に伝える事が出来なかった。司教は病人に向かって「この世のことどもの空しさ」を説教したが、年老いた病人の女はカタリ派の「完徳者」と勘違いしてすべてを打ち明けた。こうしてすべてを聞き出した司教は自分の素性を明かし、彼女の異端信仰を断罪した。女はその放棄を拒否したため、ただちに人々は寝台に横たわったままの女を運び出し、トゥールーズ伯の放牧地で火刑に処した。」p107-ドミニコ会の人が書いた記録に残っているんですねぇ…
2014.09.27
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小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』(日本放送出版協会,2010)総合評価 ★★★★★本書で主に取り上げられているのはグレゴリウス改革以降のカタリ派、ワルド派、フランチェスコ修道会聖霊派+べガン、という3つの異端。アリウス派とかドナトゥス派とかの古代末期からグレゴリウス改革までの間の異端や、もっとのちのフス派などについてはほぼ取り上げられてはいません。大雑把にいえば、カタリ派は二元論的異端という教義に関する異端だったのが、その後のワルド派では俗人が説教を行う権利を巡っての異端という教義と教会の権威・権限の問題が混在したような点を巡っての異端になり、それがフランチェスコ修道会聖霊派になると教会に対する不服従の異端(一旦認可した修道会則やその解釈を変更しそれに従わないから異端…)というように、グレゴリウス改革後に教会が世俗的な面での勢力を伸長していく過程で、同時に異端とされる範囲も拡大していき行き着くところは教会に対する反逆罪=異端、というような内容なのですが、非常に内容が濃く、興味深い部分が多々ありました。実は著者については知らなかったのですが、いまのところ検索しても他に本は出していないようです。一冊しか本を出していない人だけどその一冊が当たり、という人が稀にいるのですがこの本はそういう部類に入ると思うのですが、そういう本は近現代史に比べ西洋中世史に多くあるような気がします。個人的にはそれだけ西洋中世史の研究者のレベルが高くなかなか本を出せない、ということなのではないかと思っていたりします。で、以下は個人的に印象に残った箇所のメモで括弧内は私のコメント93頁あたりから中世ヨーロッパの人々はカタリ派を「マニ教」ととらえたし、宗教史の概説などにはマニ教から直接かボゴミール派経由かの違いはあるがカタリ派がマニ教に連なるとするものがいまだにあるけど、マニ教が中世の二元論異端の起源であるという説はほぼ否定されている。マニ教‐ボゴミール派‐カタリ派の間の影響や伝播関係を認めるのが通説だけど、史料的根拠は薄弱だし、このような仮説に頼らなくてもカタリ派の成立と発展は充分に説明可能。60頁あたりカタリ派が「マニ教」呼ばわりされたのは異端に遭遇した聖職者が教父著作、特にアウグスティヌスの異端表とかを参照して分類・命名しようとしたから。あらたに勢力を得つつあるよくわからない異端の恐怖に対し、過去に存在したけど克服された異端の名称を付けることで飼いならそうとする、一種の象徴的な防御装置。(この2点は明確に書いてあるものを読んだ記憶がないので特に目新しかったです。個人的には説得力がある見解だと思います。)(つづく)
2014.09.24
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(前回のつづき 『大唐帝国』より抜粋(ページ数は文庫版))「東アジアと西アジアとの交通は、有史以前にまでさかの.ほることができるが、それがさかんになったのは前漢の武帝のときからである。従来中国の西方交通を妨げていた遊牧民族が漢帝国の勢力によって駆逐され、万里の長城の西端がぐっと敦煌あたりまでのびて、その南に沿った交通路が直接に天山南路の砂漠の中に点在するオアシスの城郭国家と接触が保てるようになった。漢はこの敦煌回廊を維持するため、その北方を移動する遊牧民族の懐柔にじつになみなみならぬ苦心をついやさねばならなかったのである。」p.36「中国からは各種の絹が西方へ輸出されるいっぽう、西方からは馬や宝石、工芸品などが輸入された。概していえば中国の方が輸入超過であり、そのため低廉な黄金がどしどし流出する結果となった。これは西アジア文化の水準の高さを物語るものであり、まことに余儀ないしだいである。いっぽう中国周辺では、砂金をおおかたとりつくしてしまい、中国への供給は思うほどにいかなくなった。絹の道による交易の分量は、今日から見ればいうにたりない程度だった。しかしそれに応じて当時の経済も底が浅かったのである。だからウマやラクダの背によるキャラバン貿易でも、ながい時聞をかければ、重大な変化が起きる。中国の経済界はしだいしだいに金つまりの状態におちいった。金銭を使うことは容易だが、それを取りもどすのは容易でない。昔のように一撞千金が可能な好景気はふたたび訪れなくなってしまったのである。」p35「このような不景気に際して、だれしも考えるのは、金を使わない工夫である。ここで、できるだけ自給自足をはかる消極的な経済生活が流行したが、それをもっともよく代表するのが荘園である。」p37「この荘園経済は、後漢以後いよいよ盛大になり、六朝を経て唐代に及んでいる。自給自足のためには生産の品目が多くなければならぬから、立地条件としてはもっとも地形の複雑なところを選ぶ。山あり谷あり、川あり野ありというところで穀物、野菜、鳥獣、魚介のあらゆる生産を行なうのである。そして自家消費を行なったのちの剰余を市場に売り出すのであるから、あきらかにこれは経済的に退歩逆行の現象である。」p38「生産物がまず荘園内で消費され、その剰余の残りかすだけが市場に送られるとすると、勢い市況は不活発とならざるをえない。しかも荘園経済は商業の部門にまでくいこんでくるのである。すなわち商人に口銭をとられるのを防ぐため、荘園はみずからその生産物を市場まで運搬し、同時に必要品を市場で買ってみずから運搬して帰るのである。そのため、荷車と、水路に近い場所では船が荘園にとって欠くべからざる備品となる。こうして従来商人がやっていた運搬業を、荘園が行なうようになったのである。」p38「さて後漢の時代にはいって金づまりの世の中になると、農民にとってもっとも苦しいのは銭納の賦の負担である。黄金の流出によって貨幣の絶対量が不足してくると、銅銭もまた貴重なものになる。金持ちはいったん銅銭を手に入れると、めったにそれを支出しないから、市場にほとんど出まわらず、むなしく不要な個所に死蔵されて眠ってしまう。通貨はいよいよ払底をつげるのである。当時、「穀物の値段が低いにもかかわらず、人民は穀物に飢えている」という状態が指摘されたが、これは政府が銅銭をきびしく取り立てるために、人民はやむなく自己の食いぶちまでを投げ売りして納税することを指したものであった。」p40「不景気で暮らしにくい世の中ほど、家族の団結の必要なことが強調される。親子、夫婦の関係を中心として家族が強固に結びつき、力をあわせるのでなければ浮世の荒波を乗りきっていくことができないのだ。同族が大きければ大きいほど、まずその中に含まれる小家族が堅固に結合して健全な一単位を形成してくれなければ困るし、他に身寄りのない貧乏家族ならばなおさらのこと、強固な結合をしなければ生きていくことができない。そしてそういう際に、いつも犠牲は弱い立場の者の上にしわよせされる。親にたいしては子が、夫にたいしては妻が、献身的に奉仕をするように要求されるのであった。そのような規準にかなった男女のために、無数の孝子伝や列女伝が編纂された。「国が乱れて忠臣あらわれ、家が貧しくして孝子が出る」ということわざがあるが、後漢以来の世相がまったくそれであった。古代にも孝子がいたが、それは伝説上の聖王、舜が畑をたがやしていると、ゾウが出てきて牙で耕作を助けた、というように、おおらかな話が多い。ところが後漢以後になると、身をきられるような、いたましい貧乏話になる。」p42
2014.07.30
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「デフレ」は好ましい事ではない、と言うのは経済学者や中央銀行関係者にとってはある程度常識と言っていいと思います。しかし、こうした人たちの議論はその時点での景気や為替に対する影響という面から論じることが多く、デフレが社会の在り方に長期的に与える影響、というところまで論じているものはあまり見かけません。そういう事は経済史家か社会学者の仕事だ、と考えているのかもしれません。さて、いままでに私が読んだ本の中で、「デフレ」が長期的に社会に与えた影響についてもっとも秀逸だと感じた記述は経済学者や経済史家の書いた本では無く、支那学の宮崎市定氏が書いた『大唐帝国』(中公文庫)の後漢以降の状況に関するものです。その内容を簡単に説明すると 前漢までは純粋な経済行為で財を成すのがそれ以降に比べると容易だった それは文明的に程度が低い周辺地域から金が流入したから金が安価だったため 武帝による西方への拡張でシルクロードが開けたせいで、貿易を通じて西アジアに金が流出しはじめ、更には周辺諸国の金の産出も取りつくして落ち込み、慢性的に貨幣量が減少する状態に… そうなるとみんな貨幣をなるべく使わないように自給自足を目指す。行き着くところが荘園。 荘園ではあらゆる品目を自製し、自家消費した残りを市場に売りに出す。運送費も払いたくないから自分で市場に持ち込む。結果市場はどんどん縮小。 貨幣での納税義務がとても重くなる。結果、穀物価格は安く市場に溢れているのに(金が無くて買えないため)人民が飢えている、という状態に…。 仕方なく市民権を捨てて荘園の領民(部曲)になる者が増え、荘園がどんどん強くなる。というようなお話です。宮崎氏は世代的に金本位制の時代、特に金解禁騒動を直接経験しており。それがこの観察にもよく反映されているように思われます。しかし、ハイエクは管理通貨制度の下での人為的な(過度の)通貨発行による通貨への信頼の破壊が経済的自由の土台を崩すものである、として批判していましたが、デフレも経済的な自由を破壊し身分を固定化し行き着くところ政治的な自由を破壊する、という意味では少なくとも同等以上に大きな問題があるものではないかと思われます。以下に上のような議論が述べられている箇所のうち、主要な部分を抜粋しておきます。 『大唐帝国』より抜粋(ページ数は文庫版)「史記には億万長者のことを自記した「貨殖伝」が立てられ、漢書もこれを受けついでいるが、後漢書には貨殖伝がない。しからば後漢には金持ちがなかったか、というとそんなはずはない。ただしその金のもうけ方、金持ちのあり方は大いに変わってきているのである。」p32「古代資本家たちによる富の蓄積が、純粋な経済行為によるものであったことは注意されるべきである。古代においても君主や大官など権力者の収奪による蓄財が大いに行なわれたことはもちろんであるが、それらは、史記の著者のいうところの貨殖家の中にははいらないのである。」p33「すなわち前漢時代は、古代資本家が優に政治権力者に対抗して気をはくことができる時代であったのである。ところが後漢の時代にはいると、一転して中国の経済界は停滞しだしたのである。経済成長はとまり、金銭の動きはにぶり、交易は不活発となり、一度手をはなれた金銭は容易にもどってこない。こういう社会では、三たび千金を獲得するなどは思いもよらぬ。金もうけということが極度にむずかしい世の中になったのである。ただ権力者による収奪は別物である。ここに中国社会は、富める権力者と、貧しい人民という階級の別ができ、それがそのまま固定化する傾向を生じた。どうしてこんな世の中になってきたのだろうか。」p34「中国の古代においては、黄金と銅銭とが貨幣として用いられた。戦国時代からさかんに銅山が開発されて銅銭が鋳造されるいっぽう、中国の周囲から黄金が中国めがけて流れこんできた。いったい黄金は砂金の形でいたるところに産出するので、どんな低開発の人民でもそれを採集することができる。そこで中国の文化が周囲へ波及するとともに、異民族は中国の生産物を買うために砂金を提供したのであって、それが中国へ集まってきたから、その価格は今日から考えると異常に低廉であった。漢代は、黄金一斤が銅銭一万個に相当するのが普通であったが、一斤の重さは当時の銅銭の七七個分にひとしいから、結局金銅の比価は、一三〇対一となる。これはおどろくべき金の安値である。」p.35(つづく)
2014.07.30
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10月16日金曜日今週も仕事を14時半で切り上げて、今度は国立新美術館に「THE ハプスブルグ」展を見に行きました。18日にテレビで特番が放送されるそうなので先週の「皇室の名宝」展に続いて2週連続になりますが混雑を避けるには仕方ありません。国立新美術館には15時頃に到着したのですが、先週おなじ金曜日のほぼ同じ時間帯に行った「皇室の名宝」展よりは空いていました。入場制限も無く、並ばなくてはならないわけでもなく、所々人が溜まっているところがある程度で展示を見るのに支障はほとんどありません。上手くタイミングを見計らうと展示物の前ががら空きになる事もあり、過去の経験の中でも比較的ゆっくり鑑賞できた部類に入るかと思われます。唯一並ばないと見れなかったのが「風俗・物語・花鳥図画帖」という日本の皇室からオーストリア皇帝に19世紀に贈られたという図画帖でした。客層は「皇室の名宝」展以上に女性の比率が高く、8割以上かも知れません。中年以上の女性が多いです。結果、一番混雑していたのが最後のショップのところ―とにかく女性ばかりが溜まっていた―だったような印象があります。あまりに女性ばかりで混雑しているのでみやげ物を買うのをあきらめてしまいました…ちなみに今回展示されている絵画についてはほとんどがウィーン美術史美術館とブダペスト国立西洋美術館の収蔵品、工芸品については数点を除いてウィーン美術史美術館の収蔵品だそうです。結論から言えば、絵画に関しては事前に本展のホームページを見て抱いた期待よりもはるかに良かったと思います。特に個人的には、大好きなドイツ・イタリアの16世紀絵画―よくバロック・マニエリスム絵画と言われているもの―が予想以上に多くあり、その質も優れていたのが嬉しかったです。中でもルーカス・クラナッハ(父)の作品は「聖人と寄進者のいるキリストの哀悼」と「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」の2点があったのですが、「洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ」が印象的でした。クラナッハの女性像では定番の赤い帽子、切れ長の眼、卵形の頭、ゴシック風というか中世風の肩幅が狭くて胸が小さい身体大学生の頃に読んだ―そしてなぜか文庫初版を今も保有している―澁澤龍彦『幻想の肖像』(河出文庫,1986)のクラナッハの「ユディット」を論じた部分がそのまま当てはまるかのような幻想的な女性の姿と、グロテスクなヨハネの首の切断面のコントラスト(「ユディット」においてはホロフェルネスの首ですが、構図も結構似ているように思えます)また、そういう構成も魅力的なのですが、この作品は左手奥、窓の外の風景の幻想的な清澄な色彩も綺麗だし、それ以上にサロメの左肩周辺の肌の色がとても美しいのも印象的でした。ちなみに、なんで学生の頃(大昔)に読んだ『幻想の肖像』など思い出したのかと言えば、今回の展覧会ではアルブレヒト・デューラー『若いヴェネツイア女性の肖像』も展示されているのですが、これもこの本の中で「ヴェネツイアの少女」として取り上げられていたから。記憶をたどって手持ちの文庫本をざっと調べてみたところ、澁澤龍彦の著作でクラナッハについて書いてあるのは上述の『幻想の肖像』以外には『エロティシズム』(中公文庫,1984)の文庫版あとがきがありました。澁澤龍彦がお好きな方は、本展を見る前にこれらを読んでおくといいかも知れません。イタリア絵画のほうはティツィアーノが有名なイザベラ・デステの肖像画を含む4点(うち一点は工房作)、ティントレットが3点。ヴェロネーゼは1点だけだったのですが「ホロフェルネスの首をもつユディット」はこれらの中で最も印象的な作品でした(単に私がこの手のテーマが好き、というだけかもしれませんが…)。スペイン、オランダ・フランドル絵画に関しては17世紀のものに重点が置かれており、ベラスケスが3点、ムリーリョとルーベンスがそれぞれ工房のもの1点を含めて3点。クラナッハが私の好みに合い印象的過ぎたので、ベラスケスの肖像画2点以外は印象が薄い…またかなりの数の工芸品もあったのですが、この分野に関しては個人的な印象ですがつい先日見た「皇室の名宝」展のものの方が優れていたような気がします。決して悪いと言うわけではないのですが…見に行く順番を間違えたかも知れません。武具については装飾的で綺麗だったのですが、武具が本来持つべき威圧感や機能美が余り感じられなく物足りなかったです。「皇室の名宝」展の刀剣の展示は2期なのでまだ始まっていないのですが、国立博物館の通常展で展示されている日本の刀剣や鎧を何度も見て慣れているからなのか、日本人(あるいは私個人)の感性に合わないのかはわかりませんが…
2009.10.16
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10月9日金曜日仕事を14時半で切り上げて、東京国立博物館の特別展「皇室の名宝―日本美の華」展を見に行きました。会場の国立博物館平成館には15時頃に到着しましたが、平日の日中だというのに先日行った国立西洋美術館の「古代ローマ帝国の遺産-栄光の都ローマと悲劇の町ポンペイ」展の土曜日より混雑していたような気がします。とはいっても、入場制限があるわけでもなく、入るのに並ばなくてはならないわけでもなく、人が多いなぁとは思いましたが展示を見るのに大きな支障があるほどではありません。平日の日中だからか、伊藤若冲目当てからか、来場者に中年女性や年配者が多いのが印象的です。この様子ですと土日は人が多くて大変かもしれません。本展は11月12日で展示が総入れ替えになるそうで、個人的には2期の刀剣に一番期待しているものですから、若冲目当ての人が来なくなって2期はもう少し空いていてくれると嬉しいところです。でも、入り口で見た限りでは1期、2期セットのチケットを持っている人が多かったので、同じくらいは混むと覚悟しておいた方がいいような気もします。さて、今回の特別展には平成館の2階が全部あてられており、ゆっくり見たつもりなのですが、所要時間は1時間半から2時間と言ったところでした。今回見てきた1期の展示内容は、近世絵画が半分、明治以降の美術工芸品が半分となっています。まず、近世絵画のほうですが、2番目の結構大きな部屋が全て若冲というのはインパクトがありました。ネットでも見る事のできる展示品の目録では「動植綵絵」として1点にカウントされているのですが、実際には30幅から成りますので、もう一点の若冲作品を含めると合計31幅あり、それが一室にまとめて展示されているのは壮観でした。できることなら閑散とした状態のときに見てみたいものですが、そんなことは維持会員になって内覧会でも招待されない限り無理でしょうね。さて、この「動植綵絵」、30幅で一組と言う事なので一幅は小さいと思っていたのですが普通の大きさなんですね。私は他の若冲の絵は見たことが無い(あるかもしれないが記憶が無いだけかもしれませんが…)ので、若冲作品のなかでどの程度の位置を占めるのかを評する事はできませんが、一幅毎の絵としての完成度も高いものです。また、教科書などにも載っているので有名な狩野栄徳・狩野常筆の「唐獅子図屏風」もパンフレットに載っている有名な右側だけではなく左側も並んで今回展示されているのですが、これも図録や写真などが実物の魅力のほとんどを伝える事ができない類の作品―ベラスケスとかギュスターブ・モローの「一角獣」とか―のひとつである事を実感させられました。やはり、作品の大きさ、背景の金色の微妙な輝きなどは最良の印刷でもその魅力の半分も表現できないのではないかと思います。これは今回展示されている近世絵画のほとんどについて言えることなのですが、表具がとても綺麗で、また保存状態も良好なものが多かった事も印象的でした。このあたり流石は皇室収蔵品、というところでしょうね。残る半分、明治以降の美術工芸品の方は、絵画に関しては近世絵画ほど魅力的ではなかった―近世絵画の方が良作を集めすぎているというのもあるのではないか―と思うのですが、工芸品の方は比較的単純で私のような素人にも見ればわかる綺麗さなので私のように日本美術史の知識がほとんど無い人でも単純に楽しめるのではないかと思いますが、やはり前半の近世絵画に比べると物足りなかったという印象があります。一見してもわかるほど工芸品としての完成度が高いものが多いのですが、やはり制作年代や作者によるバイアスが作用しているのでしょうか?この点に関しては審美眼のある方に伺ってみたいところです。
2009.10.11
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安岡正隆『山下奉文正伝―「マレーの虎」と畏怖された男の生涯』(光人社NF文庫,2008) その3 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません・ 現在までに出版された「山下奉文」に関する伝記の中で、もっとも信頼性ありとされている沖修二著『至誠通天 山下奉文』… p.13・ 生前の山下は、きわめて身近な人々にさえ母方の実家森田家や生まれ故郷の事を口を緘して語っていない。義妹の永山勝子もそれを山下自身から聞いた記憶が全くないというp.14・ 母方の実家森田家(高知県香北市白川)の由来p.14-・ 《海南学校およびその校長吉田数馬に関する記述》p.60-67・ 《明治33年9月1日 広島陸軍幼年学校に入校した4期生》50名のうち土佐出身者が17名、2年生では50名中10名、3年生が50名中15名。一方で長州出身者は全校で4名のみp.77《確かに、著者の言うとおり土佐における軍人熱の高さがよくわかります。ただ、その原因についてまでは言及されていません。その一つは海南学校の存在もあるとは思われますが…。もしかすると長州は中央勤務の親が多い可能性がありますので広島ではなく中央幼年学校の方に多いのかもしれません》・ 沢田茂(参謀次長)によると山下の幼年学校での成績はいつも10番以内。阿南惟幾は90番くらいだったp.81・ 幼年学校での山下の同期、甘粕重太郎は甘粕正彦の親戚。大杉栄惨殺事件の際、甘粕重太郎は陸軍省軍事課にいた山下のもとへ度々相談に訪れ、山下は親身になって善後策を考えてやったp.99・ 《永山元彦騎兵少将(山下の義父)の経歴やエピソード―主に永山勝子の証言による》p.111-116・ 《山下奉文の兄の奉表に関する記述―16歳で医師試験に合格したが若すぎて医師免状がもらえず18歳になって免状が下付された。軍医として旅順港閉塞戦に参加し軍医としては初と思われる功五級金鵄勲章を下賜された、など》p.137-・ 《津野田知重少佐(東條暗殺未遂事件の首謀者の一人)の親、津野田是重とその夫人に関する記述。津野田是重夫人は信州財閥小坂善太郎一門の出身で、山下の義妹永山峯子と児島高信の仲人。》p.159・ 山下は《ウィーン駐在で》渡欧する前は痩せていたが、戻ってきたときには太っていたp.195・ 《荒木陸相の秘書官だった有末精三から著者が直接聞いた、荒木陸相下での軍事課長への山下選任の理由とその評価》p.231,233・ 《著者が沢田茂(参謀次長)から直接聞いた真崎の評価》p.234・ 軍事課長時代の山下のあだ名は「散水車」。大量の汗をかくためp.235・ 当時《時期の詳細な指定なし、戦前、位の意味か?》山内家では陸士在学中の土佐出身者の中で、特に卒業間近となった者を集めて激励する会が、毎年一回もよおされていた。主賓格はその年の卒業予定者で、招待されるのは陸士在学者と陸士卒業の在京土佐出身者。山下も在京中であれば出席していたp.240・ 昭和9年8月、山下は少将に進級。同時に陸軍省軍事課長から陸軍兵器本廠付となる。同期では9番目p.259・ 《相沢事件について山下が永山勝子らに当日語った内容、並びに山下の永田軍務局長への評価》p.266第4章 山下擁護論・ 《沢田茂の所謂「山下狡猾論」に対する評価(否定的)。著者が直接聞き取ったもの》p.278・ 《皇道派と山下の関係に関する有末精三の証言》p.279・ 《清原康平元陸軍少尉から著者が得た証言―山下の「岡田を斬る」と言う発言に対する当時の青年将校側の実感》p.284・ 《永山勝子の著者への証言―山下はとにかく財閥が嫌いで、三越では物を買うなと言っていた。財閥はつぶさねばならぬと考えていたようで、贈物なども金持ちの家には持っていかない反面、出入りの大工や職人は大切にした》p.285・ 《二.二六事件当日朝の山下に関する永山勝子の証言》p.287,291・ 事件の朝、山下の自宅に第一報を電話で知らせてきたのは陸相秘書官小松光彦少佐。少佐の養家は山下家に近かった関係で、かなり緊密に連絡を取りやすかったと推定され、川島陸相の意図を小松秘書官を通じて熟知することができたと思われるp.288・ 《著者が直接、山下が青年将校に阿っていたと思うかと聞いた事に対する沢田茂の回答》p.295・ 有末精三は山下が陸軍大臣告知の作成に関与していなかったと著者に語っている《山下の評伝を書いているから、山下を美化しようとしたのでしょうか?この点に関しては著者も疑義を抱いているようで、有末の証言はこういう点からも鵜呑みにはできないのではないかと思われます》p.303・ 昭和63年5月23日、著者が池田俊彦元少尉に山下を狡猾な人物だと思うか尋ねた際の池田元少尉の回答「あの二・二六事件は、私たち青年将校が憂国の気持ちから起したもので、山下さんがそそのかしたとか、そそのかされたとは全く考えていません。私は山下さんをずるい人間だとは思っておりません。そんな方ではないと思います。《中略》当時は陸軍の首脳部の方々が、天皇陛下のご意志を明示することは、責任を天皇陛下に転嫁することになり、『禁句』であったのです。だから言いたくても言えないわけです。《中略》…『雪は汚れていた』の著作や、NHKの特集などで、実情を知らずに、「闇」という言葉を使ったりして、あたかも、陸軍上層部の将軍の陰謀などと推理を飛躍させ、三段論法的に書いておられますが、蹶起の事実を全く知らない、実にけしからぬことです。私の仲間の一人などは、これらの事件の取り扱いを、『羊頭を掲げて狗肉を売っている』といって、大変憤激していますよ」p.308《松本清張に代表される作家たちやNHK特集の採る陸軍上層部陰謀説は、青年将校の側から見る限りでは事実に反しており同意できるものではない、と言う事はほぼ間違いないのではないかと思います。これは発生後に事件を利用しようとした陸軍の将官が存在しなかった事の証明とはなりませんが…》第5章 揺れる山下・ 《二・二六事件後山下はクビになる覚悟をしていたという永山勝子の証言》p.354・ 山下の妻の妹春子は朝日放送重役になった森本重武の妻p.362・ 《有末精三の証言。何かのついでに龍山の山下(四十旅団長)へ立ち寄ったところ、陸軍省に帰ったら武藤章に『貴様まで疑われるぞ』と小言を言われた》p.375・ 山下は歩兵第三聯隊長の頃から書の依頼が多くなったので書道をはじめ、雅号は最初は紫山、後に巨杉に変更。永山勝子によると雅号の変更は龍山以後。巨杉は高知県長岡郡大杉村大杉にある樹齢三千年の杉にちなんだものp.378・ 山下の初陣は北京郊外南苑近くの黄村における戦闘《同戦闘に関する簡単な記述あるも典拠は不明》p.387・ 《安藤正(陸士47期)『非凡なる戦術家、山下大将独創的な南苑攻略』(一方会会誌第十五号)に基づく南苑の戦闘における四十旅団に関する記述》p.388-・ 《沢田茂の回想。旅団長時代の山下の言動から、第一線で死に場所を求めているとの印象を受けた、というもの》p.391・ 《永山元彦元陸軍少将(山下の義父)が鎌倉の稲村ヶ崎に恩給を担保にして家を購入したが》その恩給の担保を山下は支那事変で得た功三級金鵄勲章の恩賜金で抜く代わりに家と敷地の名義を山下久子にした。これが後に問題を惹起するp.402・ 昭和14年、板垣陸相が山下を駐蒙軍司令官に据えようとしたが昭和天皇が躊躇。理由は二・二六事件と天津租界封鎖。閑院宮が考課表をもとに説明したところ二・二六事件については納得されたが天津租界では疑念をもたれ奏上を取り下げp.404《東條の山下嫌いについて明確な原因は定かでは無いようなのですが、狭量とか言う問題より、天皇に対する忠誠心から不興を買っている山下を中央から遠ざけただけのような気がしないでもありません。実際には予備役に入れようともしていませんし、重要な作戦には起用しています。戦場に出るのを貧乏籤と考える風潮は当時(少なくとも高級将校には)ほとんど無かったことは考慮すべきでしょう。戦後に作家の書いたものには戦場に出る=左遷という下士官兵や戦後の価値観で高級将校を論じているものが少なくありません。》・ 《山下の航空総監就任人事に関する沢田茂の談話。東條が陸相になりそうになったので沢田が阿南と話し畑陸相の在任中に山下を中央に引っ張り出す工作をした。山下が東條の後任の航空総監となる事を阿南が東條に報告したところ怒鳴られた》p.414-・ 山下が航空総監時代に住んでいた家は三番町にあった鈴木「味の素」社長宅の敷地内、入り口近くにあった鈴木社長の次男の家p.419・ 山下は妻の妹永山哲子と兄奉表の長男真一とを結婚させてゆくゆくは山下家を継がせたいと考えていたようだが、真一がノモンハンで戦死したので実現せずp.424・ 《沢田茂の直話―近衛内閣総辞職のとき、後任の陸相に山下がなることを東條は心配したらしい。参謀本部に直接連絡してきて満州防衛司令官の編制を急げと催促してきた。当時山下は青年将校に人気があった。東條は山下を生理的に嫌っていたとしか思えない(何か個別・具体的な理由や因縁があったというわけではないようだ、ということでしょうか)》p.436・ 《有末精三の談話。参謀本部第二部長時代、近江の柳川平助に何かのことで電話したところ盗聴されていた》p.438・ 《山下の日誌における辛らつな辻正信評》「この男矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上、注意すべき男なり。小才物多く、がっちりしたる人物に乏しきに至りたるは、また教育の罪なり。特に陸軍の教育には、表面的端正なる者を用いて小才を愛す故に、年と共にこの種の男、増加するは困りものなり―」p.513・ 《杉田一次二十五軍参謀の証言。英軍が簡単に降伏するとは考えていなかったので降伏条件を書いた文書は慎重に書いたものではない。当時無条件降伏ということは考えていなかった。誰かが大本営に「無条件降伏」という電報を打ったのだが、事後に調査したが誰がやったのかは判明しなかった》P.575-・ 昭和53年7月8日付高知新聞に、山本春一陸軍少佐が書いた記事が掲載されている。山下の「イエスかノーか」は通訳の菱刈氏《菱刈隆文大将の子息》に言ったものである旨のものp.579・ 著者による山下の短歌への評価。「…やや古臭い感じがする。いわば古今集的ともいえる。言葉も生硬であり、おせじにも洗練された秀作とはいえない。」p.630-
2009.10.09
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安岡正隆『山下奉文正伝―「マレーの虎」と畏怖された男の生涯』(光人社NF文庫,2008) その2 ◇ 内容と雑感本書は、軍事的な面での関心から読み始めた方は途中で投げ出してしまうのではないかと心配になるほど、山下奉文の幼少期、両親、当時の出生地近辺の環境に関する描写が冒頭からかなりの紙数を費やして語られています。この部分で最も興味深いのは、「父は田舎医師で、母は豪農の生まれであった」、と山下自身が語っていたのに対して、著者が古老に聞き取りを行ったところでは母方の実家は「元」豪農の家であって、母が結婚する時点では既に没落しており、飯米を借りかんざしを親戚に借りて嫁に行った(25頁)、というような状況だったそうです。また、父親についても医師と言っても昭和の感覚で言う医師とは全く異なり、田舎で農業をやりながら片手間に煎じ薬などを少し飲ます程度という当時に関する証言を取り上げており(96,132頁)「父は田舎医師で、母は豪農の生まれであった」と言えば聞こえはいいのですが、山間の僻地でもありかなり貧しい生活だったと思われる事が詳細に語られています。山下にしてみれば、妻の実家が後に経済的に破綻したとはいえ裕福な家だったので、上記のような言い方で生家の貧しさを隠そうとしていたのではなかったとも思えます。とにかく、このあたりの生家や幼少期に関する記述は、他の顕彰的に書かれた伝記と異なり古老の証言などを元に当時の様相を詳細に描いており、とてもよくできていると思います。その後は、妻の実家(永山元彦騎兵少将 佐賀県出身)がまさに士族の商法のような感じで商売に手を出して失敗し困窮におちいるまでの様子、その中で生じた義妹永山勝子との不倫関係についての記述など山下の家庭生活など私生活の面に紙数の多くが割かれています。そういうわけで、軍人若しくは軍官僚としての山下の事績を追いかけたい方には勧めるのはちょっと気が引けるのですが、前述したように幼少期とその当時の出生地近辺の環境、並びに私生活という面に関しては、ともに貴重な証言を直接当事者から得る事により書かれていますので、まさに労作であり、今後ともこの点において本書を凌駕するものが現れる可能性はほぼ無いと言っていいでしょう。ありきたりな焼き直しの評伝ではない、というところは高く評価すべきかと思います。ちょっと勿体無いのは、著者が専門のノンフィクション作家でもなくジャーナリスト経験も無い人なので、取材をした時期、経緯、著者のした質問などをすっ飛ばしてその結果得た証言だけを書いている箇所が多く見られるので、その証言の信憑性の検証が難しいと言うところです。軍人としての山下の事績に関する記述では、二.二六事件への関与に関する部分とシンガポール戦に関する記述が目立つ程度で、例えば山下が宇垣軍縮の際に軍制改革調査委員会の主任幹事としてその草案を作成する業務の中心的人物として携わったところの記述(207頁等)を見てもわかるように、著者は山下が仕事にどのように取り組んだかという面や周囲による山下への評価というところに焦点があてられており、具体的に何を決めたのか、どういう調整や裁定を行ったのかに関してはほとんど語られていません。二.二六事件に関しては、山下が事件発生前に青年将校に話したと言われる軽率な言葉や、事件発生後の不作為、青年将校に同情的な外見を示したことなどを理由に、松本清張『昭和史発掘』を代表とする多くの作家から青年将校を利用した狡猾な人物として批判を浴びている点について、第4章(273頁以下)で反論を行っているのですが、この点に関しては松本清張らの主張よりは著者の主張の方が山下に関しては真実に近いのではないかという印象を受けました。その反論のポイントは概ね次のようなもので・ 青年将校を唆したというが、「斬る」などという発言は今日から見ると不穏当だが当時の軍人では私的な場ではよくあったことで、磯辺をはじめとし青年将校側も決起賛同とは受け取っていないし、事後に裏切られたとも言っていない。・ そもそも陸軍省の人間なので参謀本部には容喙できない・ 大臣告示の読み上げを行い、青年将校から出た質問に答えなかったのは任務外だったから。むしろ勝手に答えたらその方が無責任。・ そもそも山下は面倒見が良い人間であり、特に自身も貧家の出なので青年将校に対して同情しており、また単純に軍紀違反だから討伐しろと言えるような人間ではなく、それがそのまま行動に出たと言うもので、私が読んだ本の中では大谷敬二郎『二・二六事件の謎』(柏書房,1975)に近い立場と思われるものです。ちなみに、著者は山下の義妹永山勝子へ直接の取材を行っており、その中で不倫関係を打ち明けてもらうまでの信頼を得ていたようですので、義父永山少将を経由しての佐賀閥の荒木、真崎らと山下の関係についてなにか貴重な証言などは出てこないかと少し期待もしたのですが(私の見落としかも知れませんが)、そういうものも特にありませんでした。一方、本書で気に入らなかったのが、背景説明の部分において通俗的な誤った説明を書いてしまっている点がいくつか見られる事です。この点については著者が速成教育の予備士官学校出身で、戦場経験は無い、という点を考慮してもちょっといただけないかな、と思います。以下にそのいくつかを取り上げます。86頁以下では、帝国陸軍のドイツ傾斜、三国同盟に陸軍が積極的であった、陸軍の英米軽視等、良く言われていますが概ね間違っていることが平然と書いてありますし、軍人崇拝の風潮についても江戸時代からの尚武の精神はむしろ大正デモクラシーに向けて衰退に向かい、昭和に入ってのち盛り返したというような点を全く理解していない内容を書いています。88頁には、陸軍では全て卒業席次で決まり柔軟性が無い等とか書いていますが、自身が本書で山下より成績が劣った阿南が陸相になっている事実も記述しているのですから自己矛盾もいいところでしょう。陸軍は基本的に演習で勝てる者が残り、勝てない者は予備役行き。席次でポストが決まるのは海軍です。214頁以下の第五十九議会における幣原首相代理の失言に関する部分は、実際には中島知久平の追及により、条約は天皇陛下により批准されたのだからそれで防備は充分だと言う事になる、という旨の事を言った為に国務大臣の輔弼責任の意味を理解していない(君主無答責にも反するので違憲)として発言の取り消しに追い込まれたものであり、本書で著者が書いている通俗的な「統帥権」とは全く関係ない議論です。これについては議会記録などを見ればわかる事ですが、以前に本ブログで評を書いた渡部一英『日本の飛行機王中島知久平―日本航空界の一大先覚者の生涯』(光人社NF文庫,1997)の264及び272頁を読めば本書のこの部分の本書の記述が根本から間違っている事がわかるかと思います。では、著者は何故こんな間違いを書いたのか、と言うのは興味深い点です。私は、当時の正当派による法理論上の統帥権解釈からかけ離れた、鳩山一郎が私利私欲の為に行ったのとほぼ同一の統帥権の無茶苦茶な解釈―ここでは仮にこれを俗流統帥権と呼びます―を軍の教育課程で教えこまれたのではないか、と考えています。海軍で使用されていたテキストを復元した『海軍航空教範』(光人社,2001)を読んだ際にその教範の統帥権に関する部分が俗流統帥権そのままの記述で驚いた記憶があります。これについて、知人の研究者に聞いてみたところ教育総監を真崎がやったころから、教範類に俗流統帥権に従った記述がされるようになったらしく、これがこの時期以後に青年将校の異常な行動が頻発する一因でもあるのではないかと思われます。
2009.10.06
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安岡正隆『山下奉文正伝―「マレーの虎」と畏怖された男の生涯』(光人社NF文庫,2008) その1総合評価 ★★★☆☆同郷の歌人によって戦後に書かれた山下奉文の評伝です。著者は歴史家でもノンフィクション作家でもなく元高校の校長で歌人とのことで、予備士官学校出身という軍歴はあるのですが、本職の軍人と言うわけではありません。本書は著者が死去したために未完となっており、山下奉文の祖先や出生に関する記述から始まるのは良いのですが、最後は満州での軍司令官としての勤務のところで途切れたように終わってしまい、ルソン戦や戦後の戦犯裁判が一切扱われていないのが残念なところです。しかし、逆に言えば生い立ちから満州での軍司令官勤務までだけで文庫本約650ページという分量は類書と比べても圧倒的かと思います。特に、著者は山下奉文の出生地の近隣に居住しているということを活かして、近隣の古老に対して山下の両親、幼少期、その当時の近辺の様子などについて丁寧な聞き取り行っており、山下の幼少期と育った環境を理解する、という点において本書は最も優れた評伝ではないかと思われ、これが本書の最大の特徴となっています。この点に関しては、山下が自身の実家や幼少期に関して周囲の人間に多くを語らなかったという事もあるために、他の評伝では幼少期に関する記述が多くないということもあり、本書は価値があるものかと思われます。本書においては山下の軍人としての事績よりも、私生活を記述することを通じて人物像や人となりを描き出すことに重点が置かれており、特に山下の義妹本人から著者が得た証言をもとにした山下奉文とその義妹の不倫関係に関する記述には多くの分量が割かれているのですが、この両者間で山下の海外駐在中にやり取りされた手紙、とりわけその中に書かれた短歌についての解釈や評などは著者が歌人ならではのものと思われ、この点に関しては今後本書を越える書籍が出ることはまず無いと思われます。その結果、軍事的な事績に関する記述はやや薄く、宇垣軍縮、支那事変初期の四十旅団長時代、北支方面軍参謀長としての活動などについてはごく表面的な記述にとどまります。例外的に紙数が割かれているのは二・二六事件とマレー作戦で、特に前者については松本清張等作家の多くが主張する山下陰謀説に対し批判的な主張を行っており、この点に関しては自身による当事者への直接取材の成果を生かして、事件への山下の関与や陰謀説を否定する説得力のある議論を展開していると私は評価しています。なお、本書ではこの部分には限らないのですが、沢田茂や有末精三(本書ではこの2人からの聞き取りが最も出てくる頻度が高い)その他の各級軍人や親族への独自の聞き取りの結果が随所にちりばめられており、ありきたりな焼き直しや二番煎じの評伝ではないという事は高く評価されるべきかと思います。 ◇ 著者について大正14年4月2日、高知県香美郡香北町橋川野出身平成12年2月13日没自宅が山下奉文の生家と川を挟んだ反対側であった為に興味を持ち、近隣の古老などにも取材して本書を書き上げたそうですが、歴史家ではなく、また歴史小説家などでもなく歌人とのこと。予備士官学校を出ており陸軍での軍歴はあるとの事です。聞き取りの範囲は地元の古老、山下の身内、旧軍人(有名なところでは沢田茂や有末精三等)にまで及んでいるのは著者が高校の校長だったというので地元では信頼があったからかと思われます。 ◇ 本書について文庫で約650ページ。平成12年に『人間将軍山下奉文―「マレーの虎」と畏怖された男の愛と孤独』と題して同じ光人社から単行本として出版されたものの改題文庫版です。改題前のタイトルの方が内容をより正確に表しているのではないかと思います。まえがき、あとがきなどはありませんが、本書の編集者である高城肇氏(『信濃!』の翻訳者)による付記が巻末に付されており、そこに本書の出版に至るまでの経緯の概要が説明されています。また、文庫版のあとがきなどはなく特段の記載はありませんが、著者は既に平成12年に死去されているとの事ですので単行本から改変は行われていないものと思われます。この巻末の付記によると、高城氏は坂井三郎氏の紹介で著者と知り合い、著者が書いた草稿を見た高城氏が雑誌『丸』エキストラ版への連載を勧め、連載時の編集作業にも高城氏自身が携わったとのことで、1981年12月号から1988年6月号まで合計38回にわたって連載され、更にそれを単行本化することとなったが完成前に著者が死去した為、最終的には残された著者による確認済の校正刷りを元に出版されたのが単行本、ということです。(連載するための編集の際に当初原稿用紙2500枚あったものが1200枚まで削られているようです。)
2009.10.03
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石井直方『究極のトレーニング―最新スポーツ生理学と効率的カラダづくり』(講談社,2007)総合評価 ★★★★☆本書はトレーニングメソッドについて書かれた本ではなく、筋肉、運動、トレーニング、ダイエットなど健康と身体に関係する広い範囲を対象として、研究者の立場から最新の知見―本書執筆時点でどこまでわかっているのか、という事―を紹介する教養書、もしくは啓蒙書とでも言うべき本です。そういう意味では、タイトルよりもサブタイトルのほうがより正確に本書の内容を表していると言うことができるでしょう。本書では、例えば「ダンベルの上げ下げ、どちらがトレーニング効果が高い?」「有酸素運動とレジスタンストレーニング、どっちを先にやったほうが良い?」「プロテインの摂取はどのタイミングで行うと効率が良い?」「環境温度とトレーニング効果の関係は?」というような問題に対して、解答だけを示すのではなく、誰がどのような実験を行い、どのような結果が出て、どのような知見が得られているか、という研究の現状が簡潔に平易な言葉で説明されています。また、単に実験ではこうだ、というだけではなく、その実験が動物実験なのか人間での実験によるものなのか、という事もなるべく明示するように書かれており、自分が採用しようとしている方法論がどの程度まで検証されたものなのかを知ることができる、というのが理屈っぽい私のような人間にとっては嬉しいところです。本書が対象としている範囲は、クレアチンの効果など所謂サプリメントに関するものから、遺伝や体質、トレーニングの効果、筋肉の仕組み、ダイエット法など多岐にわたっているのですが、そうした幅広い分野に関して海外も含めて最新の研究成果を確認し、平易に説明している、という意味でよくできた啓蒙書だと思います。実際に自分の身体を鍛える上で直接利用できる知識ばかりではないのですが、健康管理の上で知っておいたほうが良いような知識がいろいろと書かれており、タイトルから見るとトレーニングやスポーツをする人向けのように見えますが、健康に興味がある人ならそれなりに面白いと感じるのではないかと思います。 ◇ 著者について『スロトレ』の著書(共著)で有名な、東大大学院教授、理学博士にしてボディビルダーという異色の研究者です。有名な方なので細かい説明は省略します。 ◇ 本書について著者自身による前書きにもありますように、プロテインなどのメーカーである健康体力研究所が出している『健康体力ニュース』という冊子に1993年から隔月で掲載してきた80以上の記事から66編を選びテーマごとにまとめたもの、とのことです。記事執筆後に修正する必要が生じた個所などには注意書き等がなされています。なお、その一部は健康体力研究所のブログ上のカテゴリー「スポーツ生理学」に逐次掲載が進んでいるようです。http://www.kentai.co.jp/blog/cat10/ ◇ 内容と雑感遺伝や体質によって太りやすい人がいる、と漠然と知ってはいても、実際に太った人の傍にいると不快感を感じるし、ちょっと軽蔑するような気持ちにもなってしまうのですが、本書の次のような記述を読んでそうした感情がかなり湧きにくくなったような気がします(280頁以下)。・ ベータ3アドレナリン受容体とUCP-1について見ると、双方が正常型の人に比べると、日本人のうち8.2%の(両方とも異常な)人は安静時の代謝が少なくとも300Kcal/日低い・ 体重60キロの人で1日5キロのジョギング相当・ 1年で見ると体脂肪換算で14キログラム相当このハンデは洒落にならないでしょう…普通の人と同じ物を食べて、同じように生活しても、1年で脂肪14キロ分のカロリーのビハインドがある人が8.2%もいるそうです。食べる量を減らそうとすると脂肪1キロが約7000Kcalですから、基礎代謝2200Kcalとしても1年に40日くらいは断食しないといけないわけですか…しかもこれが毎年累積するわけですから、そりゃ太りますよね。これで普通の体型を維持できてるとしたら本当に凄いと思います。こういうのが知識によって他人に寛容になる、というものの典型でしょう。直接役には立ちませんが、いい勉強をしたと思います。しかし、この遺伝により基礎代謝が低いと言うのは、飢餓に晒されるような状況下では圧倒的に生存に有利な特質ですよね。たまたま、ここ200年位の一部の経済的に恵まれた国においては肥満になりやすくて色々と不利なのですが、それ以外の人類の歴史上のほとんどの期間と場所においては有利な遺伝的特質だったはずです。それがこの因子の保有者が他の異常に比べて比較的多く存在する理由なのではないかと思います。また、コラーゲンの摂取って、肌にいいとか関節障害に有効とか言われていますが、あくまで経験則であってその効力発生のメカニズムも今のところ推測するしかなく、動物実験でも統計的に十分ものが言えるデータは無いとのこと。だからと言って無意味だとか、インチキだという事が証明されているわけでも無く、効果や効果発現のメカニズムが確認されていないだけなのですが…ドラッグストアならどこでも置いているくらいサプリメントとして有名だからと言っても、その効果が科学的に証明されているものばかりではない、ということです。ちなみに、どういうわけか本書には加圧式トレーニングに関する記述はあるのですが、所謂スロートレーニングに関する記述がほとんどありません。他の著作で扱っているので重複を避けたのかも知れませんが、ちょっと残念です。
2009.09.25
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佐々木春隆『B29基地を占領せよ―10個師団36万人を動員した桂林作戦の戦い』(光人社NF文庫,2008) その3第五章 桂林攻略戦(その2)・ 大森茂著『鯨波』《著者は宣伝班に勤務していた作家。四十師団戦記》・ 《同書による渡河命令発信に至る経緯》・ 《著者による同書の記述に関する不自然な部分の指摘》p.251・ 《公刊史による渡河命令までの経緯の概要》p.254・ 《著者は渡河に関して予令を受けた記憶は無いとしているが、それを佐方師団参謀長に戦後確認したら早くから予令していたと思うと回答されたとのこと》p.257・ 渡河支援火力の概算は、75ミリ山砲26門、70ミリ大隊砲6門、37ミリ速射砲3門、重機36挺、擲弾筒72筒。対する河面の銃眼は25余りで数は不足していないと思われたp.261《火力の中心が山砲である事、並びに山砲が集中運用された事がわかります。確かにこれだけ火力があれば、対銃眼だけを考えるなら著者の言うように夜間の奇襲渡河より払暁・薄暮の強襲渡河の方がよいと思います。問題は敵の重砲かと思いますが…》・ 公刊史477頁下段には、七星巌攻撃の間に師団は歩兵二百三十六聯隊に渡河準備を指導し、着々と準備が進められた旨の記述があるが、著者の記憶ではそのような事実は無いp.263・ 実は衡陽戦のとき、全滅に瀕した戸田連隊は軍旗を後退させて最寄りの第百十六師団司令部に安全を托したことがあり、これが災いして感状の選に漏れたという噂が立ったことがある。p.277《軍旗を失ったら責任問題、かといって他部隊に預けるとこういう面でペナルティがあるので簡単には下げれない。実際にこうしたペナルティがあったのかどうかは不明ですが、そうだと思われていた、というのは事実のようですね》・ 《桂江対岸(西岸)の水際障害物の状況に関する記述。著者の記憶と中国側の記録では増水により無力化されていたとのことだが、部隊下士官の回想では山砲で砲撃して破壊したとのことで食い違う》p.290・ 《公刊史480頁下段の宮川師団長による野戦重砲の砲撃に関する回想と、それに対する著者の批判的な意見―敵の砲撃に対してまったく言及がないことの指摘。著者は在支6年間で受けたもっとも激しい砲撃だったと言います》p.311・ 落下する柄付き手榴弾は下方にむかって45度の角度で破裂する《下士官の回想。本当でしょうか?》p.337・ 《占領後に見た河岸の掩蓋の様子》撃ち殼薬莢の中に二人の中国兵がぶら下がった格好で死んでおり、手は鎖で水冷式重機の脚に、両脚は針金で杭に縛り付けてある。横には水筒と細長い干し飯袋…(略)…銃眼は縦10センチ、横20センチと小さく乗船点の船着場しか撃てないようになっており、《壁の》厚さは二メートルほどもあった。これでは山砲をいくら撃っても制圧できなかったはずであるp.350《逆に言えば、弾が飛んできているところに行きさえしなければこちらも当たらないわけですが…。この特定の角度でしか撃てないようにしてあるのが、夜間の渡河攻撃を想定して標定しているのか、兵士を信頼していないからなのかは不明。先述の中正橋爆破など一部の中国兵には勇敢な行為も見られますので…》・ 夜間に街路の両側に小隊を並列して攻撃前進させた某中隊で、互いを敵と誤認して撃ち合いになり多大の損害を出したという話を聞いた。異常な損害と腑に落ちぬ報告、戦場心理を考え合わせれば噂は本当かもしれない《こういう事故については同じ連隊内の人間に対しても隠蔽されるようですね。そうなると知っている人は本当に限られるのでしょう。ましてや郷土連隊で近所や顔見知りもいるわけですから、戦後になってもそう簡単に真相が語られるとは思えません》p.359
2009.09.24
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今日は連休最終日と言うこともあるし、10月にはいると混みそうなので冬物のスーツを買いに出かけました。たまに安い既製のスーツも(汚れたりしそうなときに着るために)買うのですが、基本的には昔からちょっと細かめに指定ができるパターンオーダーで作っています。社会人になってしばらくしてから2着ほど百貨店でイージーオーダーで作ったのですが、生地や縫製の割に高く感じたので、以後はそのときに探して見つけた専門店でお願いしており、今回は5着目をお願いしてきました。ちなみに、必ずズボンは2本作ってもらい、夏冬各3着を持つようにしていますのでズボンは6本あり、週に1回以下しか使わずに済みます。こうする事で同じスーツを5年以上、生地が丈夫なものなら10年近くも使うことができていますので、仕立てるときには一時的にお金がかかりますがトータルコストはそんなに高くないと考えています。デザイン、生地、裏地、ボタンを色々店員さんと話しながら選べるのも良いところなのですが、替えズボン付、襟のあるベスト付、ベルト通しなし、ブレイシーズ(サスペンダー)用ボタン付、なんて言う(私がいつもお願いする)付帯条件をつけると紳士服量販店のパターンオーダーでも実は結構な値段になるようなので、どうせならいい生地で好き勝手に、と言うのが私の考えだったりします。さて、前回は2006年秋頃に冬物をロロ・ピアーナのZELANDER PRESTIGEという生地を使って襟のあるベスト付きで作ってもらいましたので、これを着て行ってサイズの変化を見てもらおうかと思ったのですが、結構暑かったので2006年の春にロロ・ピアーナのSuper120で作ってもらった夏用のスーツ(これも襟のあるベストつき…)を着て行く事にしました。で、今回もまた生地はロロ・ピアーナにしようとは思っていたのですが、店員さんのお勧めで安くしてもいただけると言うことなので今まで使ったことの無いシルク20%混のELEGANZAと言う生地でお願いしました。手触りはZELANDER PRESTIGEやWINTER TASMANIANなどの以前に使ったことのあるものと同等かそれ以上に滑らかなのですが、シルクが入っているのですごく光沢があり、自分に着こなせるかどうかがちょっと心配だったりします。ちなみに、このメーカーの生地はとても肌触りが良く柔らかいので着心地が良い一方、ズボンにすぐに穿き皺が―しかも結構深めに―付くという印象があるので気になったので聞いてみたのですが、確かにZELANDER PRESTIGEやWINTER TASMANIANに比べると素材として弱いけど、着用は週に1回以下という私のような穿き方なら問題ないだろう、とのことです。出来上がりは未定ですが10月中旬以降と言うことで愉しみです。余談ですが、連休最終日と言うことでお店も空いていましたので、じっくり30分以上かけて採寸しなおしてもらえたのですが、また胸囲が4センチも増えてついに100センチを超えていました。最近2006年に作ったスーツのベストの胸がちょっときついかな、とは思っていたのですが…おととしあたりから、ダンベルを買って自宅でノンロックスロー法によるトレーニングをしてきたのですが、腕・脚・腹筋・背筋と違って大胸筋は見てくれだけであまり役に立たないのでトレーニングも少な目にしていたのですけれども、それでもかなり大きくなってしまっていたようです。2006年頃から体重はほぼ変化していないんですがね…しかし、2年前どころか10年近く前に作ったスーツのサイズを記録したシートが残っていて、それを見ることができる、と言うのも同じお店にお願いしているからこそできること。こうなってしまうと、もう少し良さそうな店があってもなかなか乗り換える気にはなれませんね。
2009.09.23
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佐々木春隆『B29基地を占領せよ―10個師団36万人を動員した桂林作戦の戦い』(光人社NF文庫,2008) その2 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません第一章 衡陽西郊の決戦昭和19年7月中旬~ 衡陽西方での敵解囲部隊との戦闘・ “今次作戦の敵は、二次にわたった長沙作戦当時の敵に比べて戦力、戦意とも格段に劣る。敵も弱ったもんだ”と感じていたから、敵の真っ只中に突っ込んでいると知りながら別に危険を覚えなかった…p.19《このあたりの感覚は実際に作戦に従事した人にしかわからないのですが、長沙作戦以降の後退の途上で国民党軍もかなり人的な損害を受けていたのではないかと思われます》・ 《ここから別段の記述があるまで「公刊史」として頁数の指定があれば戦史叢書『一号作戦(2) 湖南の会戦』を指すと思われます》p.20・ このころ、インパール作戦の失敗やマリアナの失陥が口コミで伝わる…p.42・ 同じ目的のために二組の斥候を派遣するのは当時の常識でもあった・ 実戦で斥候を派遣する決心は、決して容易ではない。…一年有余にわたったこの作戦で斥候を派遣したのはこれが初めてで最後であったp.43《 意外な感があります。聯隊としての斥候派遣はそうなのかもしれませんが、大隊以下でも出していないのでしょうか…》・ 《公刊史446頁の師団が軍に報告した衡陽攻略作戦発起以来の損耗について》p.67-・ この記録は腑に落ちない。…我が連隊については計算が合わないし、間違っている。第一、第三大隊の損耗が一五%と五%であるのに、連隊が二〇~二五%(七二〇~九〇〇名)であるということは、第二大隊や直轄隊の損耗が高率であった事になるが、その事実は無い。将校の損害は二〇%(二五~二六名)とあるが戦死五名だけ。大、中隊長三名戦死とあるのは大きな誤りで、後送されたのは第三中隊長のみ。・ 戦闘損耗は少なかったが、炎天下の機動作戦が続いたために意外に戦病患者が多い。でも損耗合計は一〇%未満、幹部の損害は少なかった、と言うのが当時の筆者の認識第二章 洪橋会戦・ 公刊史501頁に連隊の洪橋進出が9月3日とあるが間違い《2日夜》p.109第三章 大追撃戦・ 公刊史520頁に9月7日の第四十師団の東安東北方の戦闘の戦果として遺棄死体600以上、迫撃砲1門鹵獲とあるが、遺体600は多すぎ、逆に鹵獲兵器数は過少(実際には中迫6門、重機6、他)p.126・ 山砲の側方よりの支援砲撃は当たらない。見る方向が違うので目標の授受が大変だし取り違えが多いp.142・ 衡陽以降15日間の追撃戦において戦闘消耗は少なかったが、険峻な山岳地帯で道も悪く、且つ昼夜ぶっ通しの強行軍だったので、衡陽付近で内地から到着した補充兵《35歳前後と比較的高齢》の損害が酷かったp.146・ 《連隊副官の久米滋三大尉(当時)が書いた『南国土佐を後にして―鯨第六八八四部隊の記録』(昭和35年刊)と言う本があるとのこと》p.146・ 《聯隊レベルから見た洪橋会戦の統帥に関する問題点の指摘。戦略的な最終到達目標地点を示さず、小刻みに次の目標を示す所謂統制前進により結果的に強行軍が続き損耗が増加。このような小刻みな目標指示になったのは総軍が兵站準備不充分であるのを懸念して軍の突進を掣肘した為というのが著者の見解。確かに著者の指摘するとおりかと思われる。長距離の突進になるとわかっていればそもそも損耗の集中した補充兵はまとめて後方警備等に残した可能性もあるわけで、この点機密保持と作戦上の便宜を勘案してどこまで下級部隊に企図を示すのか、などという点も作戦計画そのものと同じくらい重要という事か。》p.148・ 《ここから公刊史といえば特記の無い限り戦史叢書『一号作戦(3) 広西の会戦』になると思われます》p.149第四章 桂林攻略戦(その1)・ 各隊は捕虜などを荷物や病弱者の装具運搬、食料探しや炊事などの雑役夫に転用して重宝がっており、彼らも懐いて不眠不休の追撃や湘西山地越えの苦労を共にして来たのだが、ほとんどが省境を越える前後に無断で、一部が広西に入った日に断って、別れを惜しみながら湖南に帰ったそうである。理由を尋ねると、広西省人は排他心が強く、他省人は皆殺しにされる、と言ったという。p.151《 日本軍よりも隣省人のほうが恐ろしいと言うのは現代の中国にも通じるものがあると思うのですが、流石に殺されると言うのは極端のように思えます。ただ広西省というのは国民党との間で争っていましたのでありえないとも限りません。》・ 《公刊史の記述、桂林作戦における四十師団への任務明示による士気向上、に対する事実との相違の指摘》p.170・ 《著者が記憶している桂林北門への突入命令と、公刊史の記述の相違の指摘―四十師団司令部より北門攻略の命令を受けたが、これは功を焦った宮川師団長の独断によるもので、公刊史作成の際に受けたインタビューに対しては虚偽の回答をしているものと思われる―》p.193-・ 《四十師団が市内に突入したと言う誤報が流れ、三十日と一日の午前1時の2度ほど別の部隊が北門から入城しようとして猛烈な銃砲撃を受け撃退されたが、公刊史はこの件に触れていない》p.201・ 公刊史460頁に引用されている中国政府史政処編『抗戦簡史』の日本軍が数度にわたり桂林北側を猛攻したが、莫大な損害を受け陣地占領できなかった旨の記述はこの2回の誤報による突入を指すものと思われるp.208・ 《聯隊の桂江西岸から東岸への再渡河に関する公刊史の説明、並びにその不自然な部分に関する著者の見解》p.210・ 《桂江東岸の》七星巌は1930年に蒋介石が広西軍を討伐したとき、ついに奪取できずに和を講じた要害として知られていたp.212・ 公刊史399頁から400頁に堀内大佐の回想として載っている七星巌攻撃計画は、二百三十六連隊福井大隊が攻撃したC岩を右大隊が攻撃した事になっていたり、蔵重大隊が担当した月牙山の攻撃に触れていないなどおかしな点が多いp.215・ 駿河久雄・真鍋茂共著『桂林攻略戦』(昭和48年、土佐鯨会刊)《当時軍曹、第十一中隊、第十二中隊の指揮班員―渡河を行った大隊の指揮班の下士官なので桂林攻略戦の渡河部隊に関しては最も詳細な様相を伝えているのではないかと思われます。以後、本書の中でも引用多し》p.226・ 当時は桂林でも日本時間を使っていたp.233・ 第十中隊戦誌『追憶…征旅・幾千里』(昭和62年6月刊行)・ 《同書における中正橋東側への進出と、中国軍による同橋爆破の経緯。どうやら爆薬をあらかじめ仕掛けてはいなかった模様で、爆薬を背負った兵によって爆破を試みており、銃撃を受けない夜になってからやっと爆破に成功しています。七星巌の防御を過信していたので手配していなかったのでしょうか。》p.243
2009.09.22
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佐々木春隆『B29基地を占領せよ―10個師団36万人を動員した桂林作戦の戦い』(光人社NF文庫,2008) その1総合評価 ★★★★★前著『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』(光人社NF文庫,2007)と時間的に連続しており、その続編にあたる作品です。『華中作戦』が衡陽攻略作戦の途中までで終わっているのに対し、本書は衡陽攻略作戦終期(昭和19年7月頃)から桂林攻略(同年11月)までを、当時第四十師団歩兵二百三十六聯隊作戦主任であった自身の立場からの回顧録として描いています。対象としている期間が前著に比べかなり短いのですが、その理由は、著者の所属した歩兵二百三十六聯隊が、衡陽攻略作戦では側面援護が任務であったのに対し、桂林攻略作戦においては桂江の敵前渡河による城内突入を実施した所謂一番乗りの部隊であり、その準備や軍司令部との桂林城突入に関する経緯が詳述されている事によります。その結果、本書においては全363頁中200頁以上が桂林攻略作戦に関する記述に充てられており、中でも100頁ほどが桂江を敵前渡河しての桂林城内への突入に関する記述となっています。特にこの部分においては、実施部隊側で渡河攻撃の計画を立案したという著者の立場からする公刊戦史の記述の誤りの指摘が多くなされており価値があるものではないかと思われます。一方、本書はあくまで歩兵二百三十六聯隊作戦主任の視点から描かれており、桂林作戦や桂林城攻防戦に関しての全般的な記述や解説と言う点には力点は置かれていません。基本的には個人、若しくは実施部隊の視点からの戦記ということができるかと思います。 ◇ 著者について熊本県出身、陸軍士官学校卒業(54期)後、第四十師団歩兵二百三十六聯隊に配属。そのまま第四十師団に属し支那で終戦まで転戦していたようです。旧軍での最終階級は大尉で、戦後は自衛隊に入り陸将補まで昇進、防衛大学教授にもなったとのこと。図書出版社から『華中作戦』などの著者自身の従軍経験に基づくと思われる一連の戦記を出している他、朝鮮戦争に関する大部の著作もあるようです。 ◇ 本書について文庫で363頁。平成元年に図書出版社から単行本として刊行されたものの文庫版とのことです。はしがき、あとがきともに著者自身による単行本刊行時のものとなっておりますので、単行本と同一のものと思われます。著者はしがきによると、衡陽攻略作戦終期(昭和19年7月)から桂林攻略(同年11月)迄を、当時第四十師団歩兵二百三十六聯隊作戦主任であった自身の立場からの回顧録として『軍事研究』という雑誌に連載したものをまとめ補筆訂正を加えたものである、とのことです。前著である『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』(光人社NF文庫,2007)と時間的に継続しており、実際のところ続編と言っていいものではないかと思われます。 ◇ 内容と雑感戦史叢書と言うのもかなりいい加減なものなのだなぁ、と言うのが本書を読んで一番強く感じたことです。著者が別の本で、戦史叢書の自分が参加した作戦に関する記述を読むほど腹立たしいことは無いと言われている、というようなことを書いていたという記憶があるのですが、本書を読んでみてその理由が理解できたような気がします。それくらい、本書においては著者の一連の戦記の中でも戦史叢書における記述の誤りの指摘が最も多く記されているのではないかと思います。その理由は単純で、著者が作戦主任を務めていた歩兵二百三十六聯隊が桂林攻略作戦において桂江を東側から渡河して城内に突入するという作戦の一番スポットライトが当たる部分を担当したので、それだけ戦史叢書で取り上げられることが多かった、と言うものに過ぎません。これだけ公刊史と部隊側の記録や著者の記憶との食い違いを示されると、単純に戦史叢書を信じられなくなりそうです。やはり、個々の作戦について調べる際には部隊記録や戦記などもきちんと調べる必要があるという事でしょう。特に戦史叢書の高級将校の証言の部分には信頼できないところが多々あるようです。しかしながら、戦史叢書と戦記や自身の記憶の差を細かく指摘した著作と言うのは実際には多くないので、そういう意味では、戦史叢書がどういうバイアスを持ち、どの程度誤っている可能性があるのか、と言うのを知ることができる一例として本書は有意義なのではないかと思います。・ 桂江渡河による城内突入に関して聯隊作戦主任であった著者は予令を受けた覚えが無いと主張しているが、戦後に著者が確認したところ佐方師団参謀長は予令したはずだと主張、戦史叢書の記述もそれに沿っている・ 著者は桂林北門攻撃命令を受けたと主張しているが、公刊史ではその記述が無い(どうやら師団長が功を焦って、北門は他師団の割り当てなのに命令したのではないか、と著者は疑念を抱いている模様)・ 砲兵の渡河支援砲撃とそれに対する敵の砲撃に関する師団長の回想と実施部隊側の回想の大きな食い違いなど、主観的な砲撃の激しさなどという点だけではなく、どのような命令が下されたのか、という点についてすら記述が食い違っているのですから驚きます。次に考えさせられたのが、衡陽攻略作戦終了後、洪橋会戦に始まる一連の作戦で、兵站(補給)能力を心配した総軍が軍に干渉した事により、最終的な目標が桂林である事を部隊に示さず、逐次次の作戦目標を示す形をとった事で逆に実施部隊に強行軍を強いてしまう結果となり、運悪くその直前に部隊に到着した(比較的)高齢の補充兵が大量に落伍し損耗した、という著者(並びに他の士官)の指摘です。確かに、長距離の行軍だとあらかじめわかっているなら補充兵をまとめて警備に残しておくとか、別の集団にしてゆっくり輜重の警備も兼ねて追及させるなど方策はあったでしょうから、無駄な犠牲を生んだと言う事で総軍は批判されるべきでしょう。帝国陸軍については、独断専行による歩兵の突進に対して批判がなされる事が多いのですが、このような逐次の前進は敵に打撃を与える機会を逃しやすく、また足で行軍する部隊側としても大きな目標地点だけを示される場合に比べ計画が立てにくいという問題がある、と言うのを、私としてははじめて意識させられたように思います。
2009.09.21
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9月19日土曜日、国立西洋美術館に友人と2人で「古代ローマ帝国の遺産-栄光の都ローマと悲劇の町ポンペイ」展を見てきました。連休初日、おまけに展示初日ということでしたので、混雑していたら東京都美術館の「トリノ エジプト展」のほうに行こうと覚悟していたのですが、入場制限もなくチケット売り場で数分並んだだけで余裕で入場できています。会場内はそんなに混雑しておらず、展示品の前に人がいない空いているところも僅かにある、というぐらいの感じで落ち着いてゆっくり見ることができました。所要時間ですが、結構ゆっくり見たつもりなのですが、13時半ごろに入場して1時間半くらいで会場を出たと記憶しています。企画展のチケットで常設展も併せて見ることができますのでそちらも見たのですが、15時半頃には西洋美術館を出ています。(常設展は20回以上見ているので、新しく収蔵されたものと気に入っているものしか見ていませんが…)で、今回の目玉は「アレッツォのミネルウァ」というブロンズ像詳細はhttp://roma2009.jp/highlight/chapter4.htmlのほうに書いてありますが、・ 古代ギリシアのオリジナルのブロンズ像を日本で見ることができる最初の機会・ しかも長い修復作業が終わって今年の4月までアレッツォでお披露目をしていた。というので珍しいものなのですが、なんと直に全周から見ることができるんですね。紀元前の古いものですからガラスケースに入っていると思っていたのでうれしい誤算でした。(ローマ帝国とは直接の関係は無いのですが…)そういう珍しいもの好き向けの要素を別にすると、人気があったのは「ニンフの噴水」としてパンフレット裏面に小さく載っているモザイクだったと思います。とても綺麗なので思わず声を出している女性も多かったような気がします。どう綺麗なのか書こうと思ったのですが、うまく表現することができないのであきらめました…アウグストゥス広場についての展示は、今まで漠然としたイメージしかなかったものに結構具体的なイメージを持つことができるようになったというのが収穫でしょうか。ポンペイに関する展示は2006年(だったかな?)にBunkamura ザ・ミュージアムで見た「ポンペイの輝き」展の印象があまりに強烈すぎて今回のは印象が薄かったです。まあ、あれと比べるのは酷かとは思いますが、「ポンペイの輝き」展は、ポンペイの発掘とその結果明らかになった災害、そして災害以前の生活の様子というようにテーマが狭く展示内容もやや歴史解説よりなのに対して、こちらは年代的にアウグストゥスの頃を中心に、テーマが絞りきれていない代わりに大掛かりで優れた美術・工芸品の展示が多くどちらかといえば美術よりである、という印象を受けました。そんなわけで、音声ガイドは使わなかったのですが、全体的に見ると説明のパネルは多くなく、その説明の内容も物足りなかったように感じました。使ったほうが良かったかもしれませんね。素人が、ギボン『ローマ帝国衰亡史』(ちくま学芸文庫 全10冊のやつ)、タキトゥス『年代記』『ゲルマーニア』(岩波文庫)、スエトニウス『ローマ皇帝伝』(岩波文庫)、『プルタルコス英雄伝』(ちくま文庫の3冊のやつ)、カエサル『内乱記』(講談社学術文庫)『ガリア戦記』(こっちは岩波文庫)、あとあまり関係ないところではヨセフス『ユダヤ古代史』(ちくま文庫 ただし興味のなかった1巻を除く)のようなメジャーなものだけは買って読んだという程度の知識でこの感じですので、ちょっとでも齧った人には物足りないのではないかと思います。余談ですが、最後にある映像展示「古代ローマ帝国 ポンペイ『庭園の風景』」について…内容とはまったく関係ないのですが、画面が右方向にパンする(CGなんでスクロールする、というべきなんでしょうかね?)ところで画面右端のほうに何故か映像の歪みが生じる個所が数回あるのが気になりました。あれは何なんでしょう。個人的に気になります。
2009.09.20
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10月3日(金曜日) 仕事帰りに渋谷に出て、19時過ぎからBunkamuraザ・ミュージアムでジョン・エヴァレット・ミレイ展を見てきました。ラファエロ前派として一緒に扱われることの多いロセッティは結構人気も知名度もあるのですが、ミレイは今ひとつ知られていないのでそんなに混まないだろうと思っていたのですが、入場制限とか入場待ちの行列こそなかったものの、会場内は結構人がいたので閑散と言うわけではありませんでした。まあ、各所に宣伝で貼られている「オフィーリア」はかなりインパクトありますからねあれを見て気になって見に来たって言う人は多いんじゃないかな、と思います。夏目漱石もこの絵をみて強い印象(ただし、あまり良い印象ではなかったみたいですが)を受けて草枕を書いたというようなことをどこかで書いていたはずです。結局、面白いし気に入ったので図録(2500円だったかな)も購入してしまったのですが、それによるとジョン・エヴァレット・ミレイがヴィクトリア朝の英国を代表する画家という点では異論は無いようなのですが、没後すぐの1898年にロイヤル・アカデミーで回顧展が行われて以来、1967年にリヴァプールとロンドンで展覧会が行われた他は展覧会が行われる事もなく、その1967年の展覧会も全貌を紹介するものではなかったため、実質的には100年ぶりの大規模な展覧会なんだそうです。この展覧会はテート・ブリテンで昨年9月から今年の初頭にかけて行われたあと世界各地を巡回しているようで、日本では先に北九州市立美術館で開催されていたものと展示内容はほぼ同一(図録も共通)とのことです。ちなみに、この図録の巻末187頁以下には「日本語文献」もついているのですが、ここの単行図書のリストの中でタイトルにミレイの名前があるものが一冊もなかったりします。この文献一覧を見る限りではミレイをラファエル前派の一人として取り上げた書籍が多いようなのですが、実際にこの展覧会と図録を見てみるとよくわかると思うのですが、ラファエル前派として擬古典的(擬中世的、っていう方が正しいのかもしれないんですが、そんな言葉はないですよね)な絵を描いていたのは比較的初期だけ。この展覧会の構成は1.ラファエル前派2.物語と新しい風俗画(風俗画や書籍挿絵用のエッチングなど)3.唯美主義4.大いなる伝統5.ファンシー・ピクチャー6.上流階級の肖像(肖像画)7.スコットランド風景(風景画)(* カッコ内は私が付記しました)となっているのを見てもわかるように創作の幅がとても広いんですね。しかも、どの分野でも当時一流として通用したのですからたいしたものです。逆に、ラファエル前派としての中世芸術を擬した絵画、唯美主義的絵画、歴史画、肖像画、ファンシーピクチャー、風景画、どれをとっても一流の水準の作品があって、例えば「風景画家」「肖像画家」みたいなわかりやすいレッテルはりが出来ないんですね作風としても、現実主義的な描き方をしているのですが、西洋の寓意画などに多用される伝統的な象徴の体系も充分に理解し活用している。唯美主義だけども幻想的にはならないので何とか主義、とかいう断定的な表現はなかなか言いにくい。そんなわけで、分類するのが(それに意味があるかどうかは別にして)難しい画家だと思われ、その結果、「ヴィクトリア朝英国を代表する画家」という表現に落ち着いてしまうのではないかと思います。今回、あまりに有名な「オフィーリア」、「マリアナ」それと肖像画の傑作「国王衛士」の3作も当然展示されていますが、これらについてはわたしよりはるかに詳しくてセンスもある方がいろいろ書かれているようなので省略して、それ以外で個人的に印象に残ったものについて書いておこうと思います。総合的に見て、一番いいなと思ったのが38番の「姉妹」綺麗な画だと思うのですが個人所蔵の為か1971年以来公に展示されたことがないというのが知名度がない理由かもしれません。ミレイ自身の3人の娘(当時上から10歳頃、8歳頃、5歳頃と言われているそうです)をモデルにし、3人とも同じような白のモスリンのドレスに青いリボンで頭、腕、ウエストを飾っているという絵なんですが、正方形の画面、圧迫感があるくらい人物に近く隙間のない背景の植物と、かなり変わった作品です。技巧という点で一番印象に残ったのは50番の「ベラスケスの思い出」ファンシー・ピクチャーのところに分類されているのですが、他の肖像画やファンシー・ピクチャーに比べて暗く何もない背景に、さらに暗い黒と赤っぽい色のドレスを着て椅子の上に高さ調整用の本を置いて腰掛けている少女の油彩画です。服がとても大胆で荒っぽいタッチで印象派のような手法で描かれており、近くで見ると表面はグロスを塗った唇みたいに半透明のような感じのちょっとぎらつくような光沢を持った複雑な色の断片なのですが、それでいながら離れて見ると服の生地の質感を持っている…図録も出来は悪くはないと思うのですが、この絵に関してはその魅力の1割も表現できていないんじゃないかと思います。一番面白かったものは、冒頭すぐの4番「マティルダ女王の墓の掘り出し」図録によるとアグネス・ストリックランド『イングランドの女王たちの生涯』(1840)の最初の伝記を主題にした素描とのことです。1562年にカルヴァン派―長老派のことです。そういえば確か赤毛のアンって…(以下略)―の偶像破壊主義者がノルマンディ地方のカーン(第二次世界大戦での激戦地として有名なあのカーンです)を占領したときに、ノルマンディ公ウィリアム(征服王)の妻だったマティルダ女王の墓を荒らした際の様子が描かれています。取り上げた主題と、全体としては厳密な遠近法には基づかない構図、そして人物個々の表情(というか顔つき)は本当に中世の版画みたいだし、線も中世の版画を意識したような線(こっちのほうが細いけど)なのですが、人物の顔や表情がバラエティーに富んでいるところと人物の相対的位置関係の厳密さなどは中世の絵や版画ではありえない、なんか面白い絵です。しかし、それ以上に面白いのは、右半分の長老派偶像破壊主義者の皆さんの凶悪で頭も悪そうな(わかりやすく言えば北斗の拳の雑魚悪役みたいな)描き方。とっても素敵で私の抱くカルヴァン派(当時)のイメージにぴったりです。ウェーバーが言うところの「プロテスタンティズムの精神」が充溢しているのが感じられます(この皮肉を理解できる人がいったい何人いるんでしょう?)。また、余談ですが、図録(26頁のあたり)を読んでみてミレイに対しては生前から金儲け批判があったとのことで、こういうのって日本だけじゃないんだな、とちょっと安心しました。芸術家は金儲けのことなんか考えちゃ駄目だ、とか貧しい生活をしていないと芸術家じゃない、みたいな事を言ったり、その価値観に基づいてあてこすりのような小説を書くような文筆家は当時のイギリスにもいたとのことです。ちなみに、余談ですが、昨日(10月11日)Bunkamuraの一階ギャラリーを見たら『魅惑の挿画本展』として本の挿絵や版画を展示(+販売も)していました。中に、ミレイの「ユグノー教徒」のリトグラフ(だったかな? エッチングかも)もありましたね。他にもピアズリーとかギュスターブ・モローのものもあります。興味があるのでしたらこちらは無料なので帰り際にちょっと立ち寄って見てもいいかもしれません。 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.10.12
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兵頭二十八『パールハーバーの真実―技術戦争としての日米海戦』(PHP文庫,2005) その4 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません第四章 機銃装備・ 昭和13年8月シナ空軍は20ミリモーターカノン装備のデボアチン単戦を投入してきたp.226・ 《九六陸攻後部背面銃座に装備したエリコン20ミリ機銃の射撃要領》木更津海軍航空隊昭和15年8月作成『実戦ヨリ得タル射手心得』p.229・ 浦賀船渠は昭和11年1月に海軍からエリコン20ミリ機銃の製造について照会を受けている。この時点で海軍ではエリコン20ミリが航空機搭載用としてベストであると確信していて、最初は長崎の三菱兵器(株)に打診したが断られ、浦賀船渠の寺島健社長に話が回ってきたp.241・ 柴田武雄『源田實論』によると、山本航空本部長の時代に源田實が「戦闘機不要論」を唱えだし、大西瀧治郎も同調し、山本も昭和11年から支那事変勃発までの1年間同調したp.243・ 十二試艦戦の要求仕様に海軍が自信をもって「20ミリ機銃×2」と書けたのは、《20ミリMGFF2門装備の》ハインケル112という実物の存在が決定的だったと思われる《 巷で言われているほど革新的ではなかった、と言うことですね》・ エリコンの20ミリ実包は薬莢のネック部分が短く、ベルトリンクから高速で抜き取るとそこが弛んでしまう不都合があったが、イスパノスイザにはその心配が無くサイクルレートを高くできたp.250・ 《99式20ミリ、1号及び2号弾薬包の種類、炸薬並びに信管》p.255・ デボアチン戦闘機の20ミリ機関砲は400~500メートルから正確な追随射撃ができる、とされていたp.256・ 輸入FF《20ミリエリコンFF》を旋回式に改造したものを九六陸攻の後部背面ターレットに装備してみて、昭和14年4月頃までに判明したのは、250メートル以内でないと戦闘機に対して命中を期せないということ。7.7ミリと《弾量は違うと思いますが》パフォーマンスに大差はないp.257・ 《海軍二式13ミリ弾薬包の種類、炸薬、並びに信管》p.259・ 20ミリ機銃は初め単価23500円で海軍に納入していたが大戦中に半額以下までにコストダウンできたp.262・ 《米M2機銃のクーリングインターバル詳細 ただし典拠不明》p.265・ ブラウニングM2の銃身は1500発で交換された模様。一方海軍の航空用20ミリは3000発で銃身の寿命調査をしていた。陸海軍が12.7ミリを完全コピーしなかったのは、その銃身を真似できなかったからではないかp.266・ 《F-82ツイン・マスタングにおける機銃の調整と弾道 F4Fのデータがないため。典拠不明》p.266・ F-82の12.7ミリ機銃による交戦距離は最大2000フィート。ハーモナイゼーションの距離も2000フィートで調整されていたようだ。距離1000フィートから2200フィートの間で照準線から最大でも12インチ逸れるだけp.268・ 戦時中の米海軍戦闘機隊の最も一般的な機銃軸線調整として機体前方1000フィートで収束させていたとする資料もあるp.268・ 1950年頃の米空軍機の12.7ミリ機銃のディスバージョン(散乱度)《分散?の許容値でしょうかね…》は75%が4ミル、100%が8ミルp.268・ 米海軍の戦闘機パイロットは往々、曳光弾を5発に1発混ぜたというが、優秀なパイロットは曳光弾を使用せず。敵に射撃していることに気づかれたくなかった為p.269・ 《毘式7.7ミリ機銃の弾道性能、弾量等》p.269-・ 大戦初期の英国空軍のように7.7ミリ機銃を主翼に多数装備することを《日本が》試さなかった理由は、おそらく主翼内の複数の機銃をコクピット内から遠隔操作で「抽弾」や「再装」させる面倒なメカを開発している余裕がなかったからだと思われるp.271・ 《7.7ミリ機銃弾薬包の種類と炸薬》p.271・ 九七艦攻、九九艦爆の後方旋回機銃、中攻の前方・側方防御機銃は使用弾薬こそ毘式と同一だがルイス機銃のコピーなので弾倉交換時に時間がかかる。97発入りの円盤弾倉は3.992キロあるが高空ではとても重く感じ、装着に苦労するp.274・ この《円盤》弾倉に充填したまま半年保管すると各弾倉中3~4発が湿って不発となったという証言もある《南方か本土か不明》p.274・ 《海軍一式7.9ミリ機銃弾薬包の種類と炸薬》p.275・ 昭和18年8月にドイツからU-511で特殊鋼ST52の専門家が来日。引っ張り応力を犠牲にして溶接を容易にしたこの高張力鋼を素材としないと、7.92ミリにしろ13ミリにしろラインメタル機銃の模倣製作は不可能だったらしいp.276・ 《著者が、陸軍小倉造兵廠銃器試製班に勤務していた松川恒彦氏にインタビューした内容―ラインメタル製機銃の製作などに関する内容》p.276-・ 列強の機関銃のサンプルが置いてあったが、ラインメタルから来たサンプルはその中でも外観が見事だった・ フライス加工後の平面部のヤスリ仕上げ、または研磨盤仕上げの多さはソ連製>日本製>英米製>チェコ製の順で多かった・ 《海軍三式13ミリ弾薬包の種類(一部)と炸薬》p.283・ 陸軍ホ-103の威力が米軍の12.7ミリと比べてどうだったかははっきりしない《弾量についても諸説あり、その数値と出典が記載されている》p.284第五章 空母の性能・ John Campbell著”NAVAL WEAPONS OF WORLD WAR TWO”(1985,英国)が米空母艦隊の艦載兵器についての決定版に近い資料として日本のミリタリーライター達の間で広く利用されているp.297・ 昭和19年10月の瑞鳳の戦闘詳報によると、連装の25ミリ機銃は俯仰旋回を1名で行えたが、3連式では2名が必要だったp.299・ 2連装の25ミリ機銃を人力で操作する場合は、到底命中を期せるようなものではなかったという資料もあるp.299・ 日本海軍では艦艇に搭載する25ミリ弾の定数が過少気味だった。そのため対空戦闘中に弾薬が切れることがあったp.300・ 《海軍のホチキス25ミリ機銃弾の到達時間》p.303・ 25ミリ曳跟弾改一は発射後1500メートルまで青、そこから2500メートルまで赤く輝き敵機との間合いを目測できるようになっていた(当時の筑摩の砲術長が作成した資料による)p.303・ 《横須賀海軍砲術学校調製『海上機銃射撃指揮官参考書』(昭和20年4月)》p.305-・ 敵の艦攻は25ミリ機銃が3000メートル以上では当たらないと知っており、防御砲火が熾烈なときはいったん避退するか、射距離3000メートル以上から雷撃・ 25ミリ機銃は一度の発砲で半弾倉(約2秒)ずつの切り撃ちが原則・ 昭和14~15年ごろ、既に中攻隊では《高度》4000メートル未満で水平爆撃を仕掛ければ高射砲で必ず撃墜されると信じられていたらしいp.307・ 40口径八九式12.7センチ連装高角砲は当時の日本海軍として最も精度の高い時限信管を採用していたが、機械信管ではなく黒色火薬が燃える火道信管であり、平均誤差±0.2秒あった。最も詳しいデータは遠藤昭『空母機動部隊』参照p.308・ 雑誌『丸』昭和45年1月号で、飛龍の砲術士だった長友安邦氏は、九四式高射装置は水平直線運動する目標にかぎられており急降下爆撃に対応できなかったと述べているp.309《これについて著者は懐疑的》・ 米軍の7.62ミリ弾は高度400メートルまで有効なので、フィリピンでゲリラのいるあたりは必ずそれ以上の高度で飛んだ(世古孜『雷撃のつばさ』)p.311・ 日本ではネオプレンに匹敵する強靭な合成ゴムが造れなかったために、タンクの外側に分厚く生ゴムや加硫ゴムを貼り付けると言う方式にするしかなく、後にそれは搭乗員にはいかにも「死重」と嫌われるような重さとなってしまったp.315《 燃料タンクの防弾を軽視したのではなく、要素技術が遅れていたので防弾構造にすると重くなるので嫌われた、というわけで、この点に関しては防御軽視思想の問題ではない。この点に関して面白いのは、マル歴の人のほうに防御軽視思想原因を言い立てる人が多いということでしょう。唯物史観なら先に工業技術上の制約から考えるべきだと思うのですが…。まあ、マル歴が技術史をきちんと勉強していないだけなんでしょうけどね》・ 日本の飛行機マニアは空中性能だけ取り上げて評価するが、偵察機としてみると、零式三座水偵、九七艦攻の操縦席の下方視界は《主翼面積が大きいため》不良。航本の要求にも《下方視界確保などの》要求はなかった。P.317《 確かに、偵察機軽視と言う点では海軍は批判されても仕方ないです。特に後の戦略偵察機の前身ともいえる司令部偵察機を開発していた陸軍と比べるとダメダメです。思うに、水偵には砲術観測を第一目的、索敵はそれに次ぐ目的としていたのでこのようになったのではないかと思いますが…》・ 《 人口に膾炙するようになる「運命の5分間」というフレーズの成立経緯に関する著者の考察》p.325・ 海軍兵学校の学校案内兼受験マニュアル第一号は、明治41年に出た杉本巴水『海軍兵学校生活』p.330・ 陸軍の隼、飛竜《本文では飛龍》は子供でも知っていたが、零戦は新聞写真で報道される時でも「海軍新鋭戦闘機」としか解説されることはなく、1953年に同名の単行本が刊行されて漸く公知となったp.342 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.10.11
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兵頭二十八『パールハーバーの真実―技術戦争としての日米海戦』(PHP文庫,2005) その3 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません第一章 艦攻と魚雷・ 《日本における航空魚雷の発達の概略 九一式以前》p.28-・ 《九一式魚雷の各型と発達の概要》p.32-・ 昭和16年5月の海軍文書に記載された航空魚雷の命中率予測値p.40・ 東京帝国大学には《記述からは時期不明ですが》世界で唯一の魚雷の講座が置かれていたp.46・ 《潜水艦用の九五式》酸素魚雷は加熱爆発事故防止の為、油を塗ることができず、保管2ヶ月で摺動部品が錆付き、高温多湿の水雷室内での細かな調整が事実上不可能。撃っても偏斜したり、水面航走したり、海面に跳出して自爆したりするので、経験ある艦長は軍艦攻撃には使用しなかった《朝雲新聞社『国防』昭和47年7月号》《 著者も書いていますが、確かにインディアナポリスを撃沈した橋本以行は九五式使用と言っているのでこの辺矛盾があります》・ アンダーキール爆発の際のウォーターハンマー効果は爆速ではなく、爆発によって生じる不溶性ガスの量が関係すると思われる。よって《磁気信管使用を前提とすれば、でしょうが》魚雷の威力を考える上では使用爆薬の爆速だけでは不十分p.50・ 《九四式から九七式、九八式爆薬までの爆薬(炸薬)の概略》p.50・ 《第二次世界大戦における米軍の航空魚雷に関する概要説明》p.52-・ 磁気に感応する複動信管は米軍では実用化されていたが、特定の海戦で航空魚雷につけて使用したかどうかは資料が見つかっておらず現在でも不明確。それだけ秘度が高いと思われるp.53・ 潜水艦魚雷に取り付けられていたマーク6《原文ではローマ数字 機種依存文字につきアラビア数字》爆発尖が磁気感応式であるのは昭和17年中ごろまで軍事機密であり、艦長と水雷長など限られたクルーしか知らなかったp.54・ 昭和7年末頃に、空母の維持費は戦艦よりかさむではないかとの誹謗がやかましくなったと言う《出典不明》p.61第二章 魚雷主義・ 「海軍軍令部は当初、軍縮条約枠を取り払いさえすれば、戦艦や補助艦の対米比率は7~8割まで回復するだろうと思い込んでいたという。近代日本国の秀才官僚たちによる最も愚かしい誤判断の一つが、ここになされている。」p.81《 この主張の根拠となるものの出典は不明ですが個人的にはありそうなことだと思います。実際この条約廃棄通告を何故に日本側からわざわざ行ったのか、その際の見通しはどういうものだったのか、と言う点を明確に説明した旧海軍軍人はいません。実松氏も米内の評伝のなかでこの部分にはふれていなかったと記憶しています》・ 山本五十六が海軍航空本部航空技術部長時代、陸攻の第1号である九五式大型攻撃機の試作を指示したのは昭和7年だが、そのときの要求仕様に雷撃は想定されていなかった(横森周信『海軍陸上攻撃機』(昭54刊))p.86・ 航空魚雷は全て艦政本部で戦訓検討し、開発計画を立てて、三菱造船(株)の長崎兵器製作所で極秘裡に完成させてのち、おもむろに航空本部にあてがうという仕組みが、牢固としてあった。このため、新型の雷撃機が完成しても《その速力を活かして》発射できる強度充分な航空魚雷がないという齟齬が生じたp.89・ 《魚雷の価格に関する記述》800キロ爆弾600円に対し航空魚雷は昭和16年で2万円。原因は部品点数が多く複雑なこと。簡単なものでも1200種、3000~6000点の部品から成るp.103-・ 空母の魚雷庫には常用全機の3出撃分、大型空母で81本の魚雷を貯蔵すべきとされていたが、実際には翔鶴型でも45本―2出撃分―に過ぎなかったp.106・ 真珠湾攻撃隊収容時に波が荒かったために約50機が着艦事故を起し、うち20機は機体を全損したと源田實が戦略爆撃調査団に戦後答えているp.108《 当時、飛行機と言うものが飛んで帰ってくるだけで命がけ―特に空母の場合は―というのがよくわかります》・ 《航空魚雷の調整》p.111-・ 《航空魚雷の深度調定》p.115・ 《航空魚雷の取付方法、取付作業》p.117-・ 荒天を利用して優勢な米海軍に対するハンデを埋めようという打算があったため原則として甲板駐機を考えなかったp.117《 機体の強度の問題だと思っていました…。それこそ荒天だと雷撃機は発着艦が困難で、雷撃優先と荒天の利用は相反すると思うのですが、どうなのでしょう》・ 『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ7 運命の海戦』(昭和62年刊)所収 秋本勝太郎「ミッドウェー敗残記」の要約による航空魚雷の兵装作業の概要説明p.122・ 魚雷も爆弾も運搬車に載せ格納庫に出した状態で、魚雷を800キロ通常爆弾に交換するには1時間半その逆には2時間かかったp.136・ 水平爆撃の場合、投下鋼索を手で引いたのでは最大2秒の狂いが生じて命中は期せなくなると、陸軍八七式重爆のソレノイド投下器を担当した柴田真三朗が『航空隊二十年』に書いているp.139・ 日本の空母でエレベーターの速度が判明するのは翔鶴と加賀のみp.179第三章 発艦と着艦・ 《当時の航空機用発動機の暖機運転について》p.144-・ 空母の格納庫の並び発動機調整室があるが、これは機体から取り外したエンジンを取り扱うものp.145・ 《暖機運転の手順》p.148・ 熱地ではクールダウンを長めにやらないと余熱で電纜《電線のことですね》が焼損するp.148・ 《発艦手順に関する記述》 p.152-・ 米空母だと、戦闘機の前にVS(索敵爆撃中隊)の艦爆が並べられる。VSの爆装はVB(爆撃中隊)のSBDの半分より軽いp.154・ 源田實の戦後の尋問調書を読む限りでは、米軍がSBDに艦偵の役割を振っていたことをよく理解していなかった模様p.154・ 《雷装した九七艦攻の行動半径に関する考察》p.164・ 栄一一型は油圧系統のパッキンが皮製のため、油温80度にもなると硬化し油漏れが生じることがあった。可変ピッチプロペラも油圧駆動なので皮パッキンが原因で引き返す事故が多発したというp.183・ 人造ゴムに代わるものとして大正6年から錆びず、カビず、燃えず、油を通さない膠化ラミネート紙Valcanaized Fiberを製紙会社が造っている。防弾タンクもこれで造ったというp.185・ 米国は当時工作機械では世界最先進国であり、昭和16年には4万分の1インチの精度で航空機部品を仕上げており、1937年にはダイムラー社も米国から大量の工作機械を買い付けようとした(外貨不足で実現はせず)p.186《 精密工作機械といえばドイツというイメージがあるのですが、米国の方が上だったのですね》・ 平時の演習でも母艦の見張りが、仮装敵の急降下爆撃を降下前に発見できず、しばしば発艦作業中の奇襲を許してしまっていたp.202・ CAP機を高空、中空、低空と3層にわける方法は米海軍の戦法として戦前から既知だったp.203・ CAPとしての零戦は燃料より20ミリ弾の少なさから頻繁な着艦を強いられたp.205 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.10.08
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兵頭二十八『パールハーバーの真実―技術戦争としての日米海戦』(PHP文庫,2005) その2参考文献本来、巻末に参考文献と索引はつけて欲しいんですけどね。内容的には学術書と比べても遜色ないわけですし…と言うわけで参考文献で主観的にみてめぼしそうなものをメモしました。ページ番号は本書で関係しているページですが、完全ではありませんので、あしからず。* 《 》の中は私が参照するためにつけたメモです・ 『特集文芸春秋 日本陸海軍の総決算』(昭和30年12月刊)に「海戦風雲録―提督座談会」と題する記事あり。豊田副武p.16・ 横森周信『艦攻と艦爆』(昭和55年刊)p.23・ 和田秀穂『海軍航空史話』(昭和19年刊)p.23《 以上2点は雷撃機の歴史の概説を書くに当たり参考としたものとのこと》・ 松永寿雄『雷撃機』(昭和19年刊)p.24《 著者は空母草創期の龍驤と赤城の艦長》・ 大井上博『魚雷』(昭和17年刊)p.31《著者は三菱造船所長崎兵器製作所で魚雷設計に携わった人物》・ 金谷恭三『爆撃機出撃』(昭和17年11月刊)p.38《九六陸攻の電信手兼機銃手を6年務めたベテラン。支那事変中も雷撃の戦技維持の為の訓練が行われていたことがわかる、とのこと》・ 柴田武雄『源田實論』(昭和46年刊)p.79,202,243《昭和8年の自由回避する戦艦への雷撃演習。》・ 横森周信『海軍陸上攻撃機』(昭和54年刊)p.86,166,170,228・ 肥田真幸『青春天山雷撃隊』(昭和58年刊)p.111,146他《光人社NF文庫から再版されており入手可能》・ 『海軍航空教範』2001年に光文社より翻刻されている p.112,164・ 海軍省教育局編『昭和十四年度航空術年報 第四 戦闘飛行(雷撃)』(昭和15年9月調製)防衛研究所戦史部図書室蔵 p.112《 以上2点は九一式魚雷の調整に関する記述のある資料》・ 森拾三『雷撃隊出動』(昭和42年刊)p.118,178他《蒼龍の艦攻操縦員。真珠湾、ミッドウェーでの発進前の作業に関する証言など。同じ著者の本で光人社NF文庫から出ているものが一冊ありますが、それとは別のものです》・ 丸別冊『太平洋戦争証言シリーズ7 運命の海戦』(昭和62年刊)所収 秋本勝太郎「ミッドウェー敗残記」p.122他《現在手に入る資料で航空魚雷の兵装作業を最も詳しく教えてくれるもの、とのこと》・ 金沢秀利『空母雷撃隊』(昭和59年刊 初稿は昭和30年刊)p.131《飛龍所属の艦攻搭乗員。真珠湾やポートダーウィンの攻撃準備の記述の要約》・ 丸別冊『日米戦争・ミッドウェー』(平成4年刊)所収 多賀一史論文p.136《インド洋で訓練した際の兵装交換作業の所要時間に関するデータ》・ 松田憲雄『忘れえぬ「ト連送」』(平成5年刊)―改題文庫版『雷撃機電信員の死闘』p.137・ 柴田真三朗『航空隊二十年』(昭和18年刊)p.139《著者は陸軍八七式重爆のソレノイド投下器を担当した人物》・ 増戸興助『彗星特攻隊』(平成11年刊)p.145《著者は内地勤務のみで上飛曹で終戦とのこと》・ 永村清『航空母艦』(昭和17年刊)p.146・ 石井鉄之助『我等の航空母艦』(昭和18年刊)p.146・ 天藤明『珊瑚海を泳ぐ』(昭和17年12月刊)p.146,172,204・ 関義茂『航空発動機入門』(昭和18年5月刊)p.148他《著者は中島飛行機の技師。若い工員向けに書いた本。エンジンに関する貴重な情報がある、とのこと》・ 大戸喜一郎『若鷹とふる里』(昭和19年9月刊)p.150《ハワイで戦死した長井泉飛行兵曹長の絶筆日記の一部が紹介されている》・ 野口昂『爆撃』(昭和16年12月刊)p.169・ 森本藤吉郎『合成ゴム』(昭和14年刊)p.184・ 高橋九郎『ゴム工業』(昭和18年刊)p.184・ 加藤弁三郎『機械科学の驚異』(昭和16年刊)p.186・ 川瀬泰史「ナチス期のダイムラー・ベンツ」平成11年1月『立教経済学研究』所収p.186・ 九一会編『航空魚雷ノート』p.191・ 南條初五郎編『航空発動機』(昭和10年10月刊)p.215・ 野口昂『福山航空兵大尉』(昭和14年9月刊)p.226・ 岩堂憲人『機関銃・機関砲』(昭和57年刊)p.241,243・ 『浦賀船渠六十年史』(昭和32年刊)p.241,262《 海軍からエリコン20ミリの製造を子会社を作って請け負った経緯など》・ 『海軍航空技術廠材料部終戦50周年記念誌』(平成8年刊)p.252《 20ミリ機銃弾の製造に関する細かい説明があるようです》・ 阿部信夫『支那事変戦記海軍航空戦』(昭和14年6月刊)p.254《 支那空軍のデボアチン戦闘機のモーターカノンに関する記述》・ 萱場四郎『支那軍はどんな兵器を使ってゐるか』(昭和14年1月刊)p.256・ 小福田晧文『零戦開発物語』(昭和55年刊)p.259・ 碇義朗『鷹が征く』(平成12年刊)p.259・ 『機上作業教範資料』(昭和17年11月海軍作成)p.263《 機銃の弾道と取り付け時の調整に関する記述がある》・ 中正夫『航空の書』(昭和19年4月刊)p.270・ 金谷恭三『爆撃機出動』(昭和17年刊)p.274・ 海軍航空本部『中攻空中戦に関する戦訓所見』(昭和14年8月1日)p.274 -戦場での駆け引きを教えてくれる好資料である、とのこと・ 横須賀海軍砲術学校調製『海上機銃射撃指揮官参考書』(昭和20年4月)p.305・ 遠藤昭『空母機動部隊』p.308《 信管の誤差についての記述があるらしい》・ 世古孜『雷撃のつばさ』(昭和61年刊)p.311・ 南方経営調査会ゴム専門委員会『ゴム資源をめぐる敵戦時経済の動揺』(昭和18年7月刊)p.315 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.10.07
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先々週の土曜日は午後から渋谷に出てセガフレード・ザネッティでガトーマロンを食べながら兵頭二十八『パールハーバーの真実―技術戦争としての日米海戦』(PHP文庫,2005) の読書記録の続きを作成したのですが、なんかいまひとつ集中できずに作業は未完。この本は結構しっかり調べて作ってある本なのに巻末の索引と参考文献がないのが残念。そこで自分で参考文献の一覧を作成していたりします。但し、興味がない本と著名な本は除外しているので完全ではないんですけどねで、日曜日は自転車で日本郵船歴史博物館に行ってきました。そんなわけで読書記録がぜんぜん書けていません…さらに、先週の金曜日は仕事のあと、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムでやってるジョン・エヴァレット・ミレイ展を見てきました。やっとこさ日曜日で『パールハーバーの真実』の摘録を仕上げて、それが終わったら服部龍二『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』(中公新書,2008) にとりかかろうかと思っているのですが、その前にこの本のあとがきなどでも取り上げられている城山三郎について思ったことをまとめて書いておくとこんな感じです。まず、何が嫌いかって『男子の本懐』(新潮文庫)が一番嫌な本ですね当時から既に旧平価での金解禁をやればデフレでどうしようも無くなるのは、イギリスの実例を見ても初歩的な経済学からもわかっていた―ただし経済学者の主流(主に東京帝大)は旧平価での解禁に賛成しています。汚点だから少数派だった人をほめることでそんなことを主張していた人たちはいなかったかのように今では振舞っていますけどね―のに、公約だから、でやってしまうんだから為政者としての責任より、自分の面子とプライドのほうが大事という、本来首相や大臣になってはいけない人達ではないかと思います(もしくはものすごく頭が悪いか…)。まあ、そんな奴に投票した選挙民もアレなんですけどね政治家でありながら国民の迷惑顧みず自分の思い込みを通し、その結果全くなんの必然性も無いのに経済混乱と大不況を招いたわけですから、高潔だろうが意志が強かろうが浜口雄幸と井上準之助には弁護すべき余地など全くないと思います。政府の政策決定を行う地位にある人間を評価するには、まず第一に治績で評価するべき信念を貫き通したいなら市民活動家か宗教家にでもなればいいんですよね。『官僚たちの夏』(新潮文庫)も官僚を美化しすぎこれを読んで国家I種受けてキャリアになって、騙された、と思っている人って多いんじゃないのかなぁ。実際にはそんな権限なんてないです。そもそも通産省の産業政策って一つもうまく行ってないんですけどね日本で初めて(今では当たり前になっている)一貫製鉄所を作ろうとした川崎製鉄を妨害して、浪費呼ばわりして公然とぺんぺん草も生えないようにしてやるとか言った日銀プロパーの総裁に通産省も同調しなかったっけ?つぶれかけた山一は特融で救ったのに、トヨタは救済しなかったよねぇなんで?(これについては通産は作為ではなく不作為ですけど、日銀の官僚が直接関与してます)そういえばホンダの4輪参入を小汚い手でいろいろ妨害したのは通産省だったよなぁあと最近では石油開発でも大失敗して国庫にツケをまわしてるよねぇ(まあ、天下りで自分たちはがっぽり稼げたから官僚の視点では大成功)結局、産業政策に投入する資金を減税で企業に自由に使わせたほうが良かったんじゃないの?それでも日本の発展は官僚のおかげなのかなぁ…ちなみに浜口は元大蔵官僚ですし、井上は日銀あがり、広田は元外務官僚、石坂泰三は逓信省城山三郎の書く物には、官僚出身者を美化し、全ての責任を軍や政党政治家におっかぶせる傾向が明確に見て取れると思うのですがどうなんでしょう?まあ、ひとことで言えば官僚のプロパガンダですよね。ここで最大の問題がなんでそんなことをするのか、その理由がよくわからないことなんですが… ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.10.06
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9月28日(日曜日)は久しぶりに馬車道の日本郵船歴史博物館に行ってきました企業の博物館としてはとても出来がよいので結構気に入ってます48分の1の大きな船舶模型があるし、メインの展示は時系列に整理されていて明治初期から丁寧に海運事情を説明するビデオも見れるようになっているしで、土日でも混んでない(商業的には問題あるか…)地味ですが面白いと思うんですけどねぇちょうど今月から企画展「渡辺義雄が写した船」と題して、主に当時日本郵船の広報用写真として撮影された客船新田丸の写真が展示されています。新田丸は老朽化した欧州航路用の客船の代替船として建造され、昭和15年3月に竣工。結局、第二次世界大戦勃発の為欧州には一度も行かず北米航路に就航した当時の日本郵船の看板客船です。のちに改造されて護衛空母冲鷹となり、昭和18年には沈没してしまったというとても短命な船。さすがに日本郵船の看板客船として建造された3隻のうちの1隻だけあって内装はとても豪華だったんですね。空母に改装するときに客船の内装や調度品って下ろして保管していたはずなんですが、どうなったんでしょう?空襲で焼けたのか、焼けたことにして官僚か海軍の軍人あたりがネコババしたのか…それと、客船って書いてますけど厳密に言えば貨客船じゃないのかな?前後の甲板上に大型のデリック(船荷を積みおろしするクレーンみたいなもの)がついてますよね詳しい人はご存知かと思いますが、北米―欧州航路などは距離も短くて旅客の需要も多いから3等船客とかも多く専用の客船も多いのですが、日本―欧州航路は長距離で旅客の絶対数も少なく、おまけに低緯度地帯も通りますから3等船客は需要が少ないので純粋な客船ではなく下のほうには荷物を積む貨客船が中心だったと記憶しています。だから、タイタニック号みたいな専用の客船と違って貨客船だとそんなにすごい数の乗客がのるわけではないんですよね。写真で見る限り食堂とかにしても、大きいというわけではありません。ほかに気になった点は明治初期の時点で、儲け過ぎ批判(これも多分、新聞などを政府や高官が裏で操作したものと思われますが)を背景に政府がわざわざ競合会社を作り(しかも社長は海軍から…今で言う天下りです)、その結果として過当競争によるダンピングで収益が低下したところに、西郷従道が仲介して和解と称して両社合併したとのこと日本最大の船舶会社の最大株主が土佐(自由党系)というのが気に入らないから仕掛けた出来レースっぽいですよね(仲介者が海軍/薩摩ですから余計胡散臭い)こういう民業圧迫っていまに始まったことではないんですねまあ、海運って言うのは国防上重要ですからある程度仕方ない部分もあるとは思いますがhttp://www.tez.com/blog/archives/001209.htmlを見てもわかるように、議決権が所有株式数に比例しないというどう見ても大株主(岩崎家)の議決権を制限したかったと思しき、あからさまに社会主義的なやり口です明治期の日本人は公明正大だったなんてのは大嘘じゃないかとも思います。また、こういう政党の腐敗や利権漁りというのも既に明治10年代から行われているんですね。大正デモクラシーになってから堕落した、というわけでもないようです。ちなみに、自宅から2インチ幅のブロックタイヤの自転車で馬車道まで約45分でした。行きは、新羽―新横浜―岸根公園―東神奈川―馬車道、となるべく坂道を避けて移動帰りは陽が暮れていたので、馬車道―東神奈川―六角橋―妙蓮寺―菊名―綱島―自宅、とほぼ直進コースこちらも久しぶりにそこそこの距離を走りましたが、日頃のトレーニングの成果もあって脚力が上がっているのか上り坂も余裕でした。天候も、肌寒いくらいだったのも自転車での移動にはもってこい。曇りで日焼けもしないで済んだのもありがたいです。ただ、整髪料が汗で流れて額についたのかちょっと左の眉の上に吹き出物が… ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.09.29
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兵頭二十八『パールハーバーの真実―技術戦争としての日米海戦』(PHP文庫,2005) その1総合評価 ★★★★★著者は軍事関係の著述家なのですが、私見ではその著作に大きく分けて3つの系統があり、現代における日本の軍備や国防について論じたもの、近世以前の古武術や日本人についてのもの、旧軍の兵器や軍人に関するものに概ね分かれています。そのなかでも本書は最後の部類に属し、「山本は生前、何を考えていたのか?山本の頭の中を占めていた懸案は何だったのか。 それは山本が海軍省や軍令部の中枢にいたときに、何を熱心に導入しようとしたかを調べないと分からない。私生活ではなく、語録でもなく、ひたすら「海軍航空行政」の跡を年表式に調べていかなければ、これは分かるはずは無いと考えた」(p.340文庫版のための後記より)とあるように、山本五十六という人物の思考の変遷を、当時彼と帝国海軍の置かれていた軍事と技術上の背景、ならびに彼が海軍省や軍令部や軍政にいた時にどのような兵器の開発に重点を置いていたのかという状況証拠から検討する、というのがテーマとなっているものです。このように、行政資料を追いかけることで、当時は何が当たり前のこととされどのようにものを考えていたのかを知ろうとする、というアプローチは『旧体制と大革命』におけるトクヴィルのアプローチに通ずるものがあるのではないかと思います。とても手間がかかるのですが本来はこれが正当な研究の方法でしょう。しかし、著者自身が同じ文庫版の後記に、山本五十六に関して本書で提起した仮説に対して全く反応が無い、とも書いています。思うにそれは、本書の空母運用の細部にわたる描写、それに裏付けられた「空母+艦攻+航空魚雷」という組み合わせが如何に運用が困難なものだったか、というディテールの説明、これがあまりにリアルでインパクトがありすぎたからでしょう。その解説があまりに詳細で抜きん出ている為に、読者の印象もそっちに偏ってしまい、山本五十六に関する記述の印象がどうしても薄くなってしまっていると思われます。この点、私にとっても本書で最も魅力的だった部分は山本五十六に関する記述ではなく、第二次世界大戦期の帝国海軍の空母における航空機の運用に関する実に細やかな描写でした。よく見かける単機レベルでの離着艦作業のようなマニュアル的なものではなく、艦と航空機の全体を攻撃隊を敵に向けて送り出すひとつのウェポンシステムとみなして、飛行甲板上への整列と固定、エンジンの試運転や暖機運転、航空魚雷や爆弾の吊下・交換作業、航空魚雷の調整、航空魚雷の保管にまで遡って著者が調べ上げた知識が丁寧に記されています。これほどリアル且つ細密に、また当事者の証言と資料を渉猟して当時の空母における艦載機の運用のあり方を描き出した本を私は知りません。この真摯な取り組みとそれによるデータの量というだけでも値段分の価値は充分にある本かと思います。しかし、本書全体の中で見ると、この本書の最も魅力的なポイントというのも、帝国海軍が、国力でも戦艦の数でも優越する米国に対して何とか勝てる方法を編み出そうと足掻いた結果、一時的に米国に対して「空母+艦上攻撃機+航空魚雷」というシステムでなら優越することができる、と考えるに至った経緯、そしてその考えが結果として正しかったかどうかを検討する、という目的の上で必要であるから仔細に検討されているに過ぎません。著者の判断は、「空母+艦上攻撃機+航空魚雷」というウェポンシステムは、万全の準備を整えて払暁から攻撃するケース―例えば真珠湾攻撃のような奇襲開戦―では有効に機能するものの、大洋で相互に索敵を行いながら殴りあうミッドウェー海戦のようなケースではあまりに複雑で準備に時間がかかり、また急降下爆撃機や戦闘機との速度差も大きく、総合的に見て用兵上の制約が大きすぎて問題があるものだった、となっています。その、どれだけ、どういう手間がかかり、結果としてどういう用兵上の制約があるのか、と言う点を説明する為に「空母+艦上攻撃機+航空魚雷」システムの細密な説明が行われているわけです。この問題は別に日本が技術的に遅れていたから、と言うわけではなく米軍からみてもやはり同様な問題から使い勝手が悪いウェポンシステムであって、ミッドウェー海戦後にこのシステムの問題点を実感した山本五十六、源田実らはこのシステムに見切りをつけ、陸上基地からの航空攻撃に方針を転換した、というのが著者の主張です。一方、山本五十六にとっては陸上攻撃機こそが航空本部長時代から手塩にかけた思い入れのあるウェポンシステムであり、「空母+艦上攻撃機+航空魚雷」という取り扱いが難しいシステムで戦う以上はその専門家である南雲忠一に任せるしかなかったが、陸上基地からの作戦となると自身が指揮を執るのが当然として陣頭に立ち戦死した、というのがその後の作戦の変遷に対する著者の説明になります。これにより、真珠湾、ミッドウェーでは後方にいた山本五十六がそのあと何故陣頭に立ったのか、ということが説明できますし、また、何故に暗号が解読されている可能性が高く危険であると警告されている中でわざわざ陸上攻撃機で移動したのか、という合理的には説明しがたい部分についても整合的な説明を与えてくれるものでもあり、著者の試みは充分に達成されているのではないかと思います。さて、本書を見てみますと数字や技術的な話が多くお世辞にも読みやすい本とは言えません。しかし、当時の海軍の軍人というのは今で言うと全員が重度の兵器マニアであって、頭の中には各国の兵器のスペックとかが一杯詰まっていて、その数字と技術の世界にどっぷり浸かって何十年も暮らしている人なわけだから、そのマニアの数字と技術の世界をある程度理解することなくしては当時の海軍軍人を理解することはできない、という著者の主張は正しいものだと思います。生い立ち、幼少期のエピソード、家族、恋愛、女性関係、交友関係、発言録…こういうものは適当に調べれば分かるし、前提となる知識の説明も必要なく、普通の読者にも理解しやすいものです。こうしたものを中心に据えて共感を得やすいように並べた評伝なんかを読めば、なんとなくその人物が理解できた気になるかもしれません。では、著者も決定版と認めている阿川弘之が書いた山本五十六の評伝を読んで彼の対米作戦構想が理解できますか?そこでは山本五十六の対米作戦構想について合理的に説明しようと言う努力が充分になされていると思いますか?本書を読んだ後でのこの問いに対する答えは両方とも必然的にNOとなると私は思います。更に言うならば、軍人を評価するのに軍事の部分に大きな欠落がある状態で人格を論ずることになんの意味があるのでしょうか?これは、城山三郎が『落日燃ゆ』で描いた、良き夫、良き父親、良き上司であったことに重点を置いた広田弘毅像に対し、服部龍二氏が『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』(中公新書,2008)で、政治家は第一に政治家としての実績で評価されるべき、として批判を試み、詳細に政治家としての事績を検討したのと全く同質のとても大切な問いだと思います。本書において著者が兵器に関する数字と技術的説明に固執したことにはこのように明確な目的があり、その点において本書は単なるマニアによる知識開陳本ではない、と思います。 ◇ 著者について昭和35年 長野県長野市出身東京工業大学 理工学研究科 博士前期課程修了自称「軍学者」として軍事関係の著作多数保守系雑誌にコラムを書いたりもしているフリーライターです。自衛隊に在籍した経験があるほか、旧軍兵器に関する著作が多数あります。余談ですが、日本では旧軍兵器の研究に関しては学者よりも著述家や市井の研究者のほうが圧倒的に優越しています(例えば著者の他にも佐山二郎、竹内昭の両氏などが典型)。ですから、殊にこうした分野では学者が書いたものに重きを置く必要は全くない―この点生物学や物理学、工学などに関する本を選ぶときとは基準が全く異なる―ということを付言しておきます。 ◇ 本書について文庫で343ページ。平成13年に単行本として同名にてやはりPHP研究所から出版されたものの文庫版です。まえがきは単行本刊行時のもの、あとがきは単行本刊行時のものと文庫版のものの2つ、全て著者自身によるものが付されています。その文庫版の後記によると、単行本の第一刷には誤記がいくつかあり2刷で修正した、殊に弾薬包の炸薬量の転記ミスがあったとの事なので単行本の第一刷をもっている人は要注意、との事です。尚、その後記には文庫版で内容を改訂した旨の記述は無く、基本的に単行本と同一のものであると思われます。 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.09.27
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斎藤政治『「烈兵団」インパール戦記―陸軍特別挺身隊の死闘』(光人社NF文庫,1999) 総合評価 ★★★☆☆工兵第三十一聯隊の下士官によって書かれた、著者自身の視点による回想的な戦記で、著者の軍歴は昭和15年北支での現地入隊に始まり昭和22年に復員となっていますが、本書で取り上げられている時期は昭和19年4月のインパール作戦のコヒマ戦の初期から昭和20年2月中旬のイラワジ河会戦前後の時期までに限定されています。コヒマ-デマプール道のズブザ橋梁の爆破を命じられ少人数の部隊で浸透を行うところから、その後のコヒマ周辺での戦闘までが第一部として約90ページ、その後のチンドウィン河までの退却、悪名高き「靖国街道」での経験が第2部として約60ページ、それ以後のおよそ半分は比較的平穏なビルマでの駐留生活、と言った構成になっています。インパールからの退却のときの話でよく出てくる、シッタンで後退してくる部隊のチンドウィン河渡河に任じ英印軍の攻撃直前まで野戦病院の患者の渡河作業を行っていた部隊に所属していたそうです。後半は、負傷した為に中隊の功績係という文書管理の職に就いたために戦闘に関する話は空襲を受けたことぐらいしか記述が無く、イラワジ河会戦などに関する記述はありません。戦闘に関する記録を好む人にとっては退屈かも知れません。 ◇ 著者について大正9年9月、北海道上川郡美瑛町生。昭和15年12月 独立混成第七旅団工兵隊に現役兵として現地入隊昭和16年12月 北支方面工兵下士官候補者隊に分遣昭和17年10月 原隊復帰昭和18年4月 工兵大三十一聯隊に転属昭和22年5月 復員(最終階級は曹長)カバーの略歴によると以上です。本書の中にも、あまり個人的な回想や生い立ちの説明もなく、著者個人に関する情報はあまりありません。18年4月の転属は聯隊編成によるものですので、工兵第三十一聯隊ができたときから所属していたことになると思われます。 ◇ 本書について 文庫で293ページ。平成3(1991)年に同じ光人社から同名で刊行された単行本の改題文庫版です。 まえがきはなく、著者自身によるあとがきが付いていますが平成3年とありますので単行本刊行時のもので、特段の断り書きも無いので単行本と同一のものと思われます。 ◇ 内容と雑感コヒマ西北方8キロの敵補給路上の鉄橋の爆破を命じられ、橋まで辿り着いたものの、8名が各自2キロずつ携行した黄色薬では爆破には不足(橋は2条あり、著者によると片方だけでも40キロは必要と思われたとのことです)。その後も、爆薬手配の連絡に出した兵がコヒマ攻撃に参加させられてしまい、好機を逃してしまったとの事ですが、この橋を爆破できていたらと考えると本当に惜しいですね。しかし、一日1600台の車両が往復し増援を送っているこの補給路上の鉄橋を爆破することを命じたところまではいいのですが、橋の構造や大きさを確認せず、爆薬量の積算もせず、地図も持たせず、しかも将校ではなく下士官の指揮で実施させるというのは杜撰ですね。さて、あくまで個人的な印象なのですが、本書で最も印象に残ったのが兵站勤務の兵の敗走してきた兵士たちに対する扱いのぞんざいさを描いた部分でした。退却時のウクルルの野戦倉庫(p.120)、その後しばらくしてからのキャクセの野戦倉庫(p.248、p.276)での都合3回ほどそうした類の話が出てくるのですが、これを読むと昔の日本人は立派だったとか、思いやりがあったと言うのはちょっと単純には信じられなくなります。ウクルルでは、2ヶ月間、前線で食うや食わずで戦ってきた者に対して、血色が良い配給係が、臭いから近寄るな、とか平気で口にし、伍長や兵長でありながら、少尉、曹長などを呼び捨てにし、キャクセの野戦倉庫でも将校用の略帽をかぶり金の指輪をした傲慢な兵長がおり、同じような態度で威張り散らしています。それに対して、食料にありつきたいが為に著者も含め皆何も言わない…まあ、物資が欠乏しているところでは洋の東西や国を問わず、配給を行う者がこうした傲慢な態度をとることは見受けられ、日本も別に例外ではなかったわけです。兵站勤務だった人の書いた戦争の回想というのを見かける機会がほとんど無いのは、やはりこうした行為や不正について直接自身は関与しなかったにせよ少なくとも見聞きしており、回想を書けばそうしたことを書かざるを得なくなる、という事情もあるからなのかもしれません。死亡率は圧倒的に低いはずですから、生存者は結構いると思うんですけどね。戦争で儲けるのは、軍需産業ではなくそういう物資や経理に関係する仕事に着いてドサクサにまぎれて私服を肥やす官僚や官吏だと思います。 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません・ 戦時名簿は各人の聯隊区、兵科、本籍地、住所、留守担当者の氏名、続柄、生年月日、進級月日、入隊以来の行動概要、賞罰までが記されており、軍隊手帳の原簿となる・ 功績名簿は、将校、下士官、兵の3つに区分され、各人の序列が付き、序列に重複(同位)はない。序列は小隊長が分隊長と協議して決めたものを持ち寄り、中隊長、小隊長、人事係准尉らによって決定されるp.101・ 仏領インドシナやタイでは機関車の燃料は薪を使用していた。ビルマでも同様らしくC56が夜間のみ運行していたが、黒煙ではなく火の粉を撒き散らしながら走っていたp.206・ イラワジ河沿いで防御配置についた時点での工兵第三十一聯隊の兵力は定数の4分の1の約300名に減少していたp.226・ 作戦前、マラリアの高熱で発狂したという話は聞かなかったが、作戦が失敗し食料が無くやせ細ったときにマラリアになると発狂する兵隊も多かったp.268・ 終戦後、ミンガラドンの収容所では精神異常者のみを収容する病室があり、周囲は頑丈な柵が作られていたp.268 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.09.25
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ようやく渡部一英『日本の飛行機王中島知久平―日本航空界の一大先覚者の生涯』(光人社NF文庫,1997) の読書記録作成が終わりました。中島知久平の関連年譜がWikiでも貧弱だったのを見て、もう少しましなものを作ってやろうなどと考えたのが運のつき…文庫とはいえ500ページ近い本に都合3回も目を通す羽目になり時間がかかりました。まあ、本自体はいい本なので苦ではなかったのですが…とか言いつつも実は読書記録こそ未作成ですがアレクシス・ド・トクヴィル著 小山勉訳『旧体制と大革命』(ちくま学芸文庫,1998)アレクシス・ド・トクヴィル著 喜安朗訳『フランス二月革命の日々―トクヴィル回想録』(岩波文庫,1988)などという結構分量も内容もある本を一通り読み終え服部龍二『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』(中公新書,2008)もついでに読了しています。実際のところ、読書はしていても読書記録を書くのが億劫なだけなんですけどね。ちなみにこれらの中でも一番のあたりは『旧体制と大革命』でしょうかこの本を読む際のポイントとしては、巻末528頁以下の『大革命期に存続していた封建的賦課租(権利)と当時の封建法学者の見解』と題する注解を、『旧体制と大革命』の部分を読む前に一通り読んでおくと読みやすいのではないかと思います。フランスにおける封建的賦課租について詳しい、というごく一部の特殊な人以外にとってはタイユ税がどうこうとか言われてもなかなかピンとこないわけで、ここを先に読んでおけば第2部(なかでも第9章以降)を読む上でちょっとは理解が楽になるのではないかと思います。読んでいて一番面白かったのは第3部第1章の百科全書派の著述家・文人に対する批判の部分。いまだに、ジャン・ジャック・ルソーみたいな狂人をありがたがっている無教養な人間がたくさん存在し、且つそういう人種がどういう政治的主張を掲げているかを想起しながら読むとこれほど面白い物はなかなかないと思います。『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』については、城山三郎のおかげで広田に関して妙な評価が世間的に定着しているのに対する啓蒙活動としては良い本かと思います。・ 政治家なら政治活動上の実績で評価しよう・ 東京裁判で沈黙したのは保身の為・ 広田は玄洋社の構成員である・ 肝心の時に何もしてないよねとか本書は普通のことしか言っていないと思います。それだけ『落日燃ゆ』が悪質な事実歪曲に満ちているわけなのですが、その読者層を意識して書くなら、「玄洋社」ってどんな組織って部分は説明不足かも玄洋社の役割や活動内容については、共産党のように統制が完全に行われていたものでもないので意見が分かれるところだとは思うのですが、実際の行動から1) 資金源は企業などに対するゆすりや恐喝 またはそれによって得た口入の独占権など2) 利権獲得過程では暴力を使用3) テロを肯定4) アジア主義(反英米)5) 政党政治に対する反感ということは公約数的に言えるのではないかと思います。また、気になるところとしては、盧溝橋と第二次上海事変の間の時期について、なんかわざと記述をすっ飛ばしているようにも見えるんですよね。これって、支那事変は占領地を広げたい日本の軍閥が盧溝橋で始めた、と主張したい左翼学者に遠慮しているんじゃないのかな?と思います。盧溝橋の後、現地では停戦協定締結。蒋介石がそれを破棄させようと策動するとともに上海付近の非武装地帯に第一次上海事変の停戦協定に違反して部隊を配置し陣地構築をすすめていたわけで、別に相手がやる気で動員かけてるんだから、こっちも部分動員かけて派兵しろって言うのは強硬論ではなく普通の対応だと思うんですが個人的には『落日燃ゆ』において城山が行った事実歪曲を総合的に判断して、城山にどのような政治的意図があったのか、という推定をするところまで踏み込んで欲しかったのですが、さすがに学者が作家をそこまでやるのは大人気ない、と思ったのでしょうか私は城山三郎の最大の問題はそこにあると思うのですが… ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.09.24
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山本武利『ブラック・プロパガンダ―謀略のラジオ』(岩波書店,2002) その2 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません第一章 ブラック・プロパガンダとは何か ・ 米国ではCOI設立とプロパガンダ活動の一元化に対して国務省、陸軍省、海軍省が反対したので、OWIとOSSに分割・ 英国ではMOIが連合国、中立国、自国向け、PWEが敵国、敵支配地域向けプロパガンダを担当し、外務省が統轄・ どちらも組織統合にはセクショナリズムの抵抗により失敗p.20・ 米国ではOWI(戦時情報局)がホワイト、OSS(戦略諜報局)がブラックと区別したが、そもそもその境界は明確ではないので競合や重複が生じ次第にセクショナリズムが目立つようになったp.26・ 英国はポーランド占領直後よりブラック・ラジオを開始。即応体制がこの時点で出来ていたp.35《 米英ソ、どこでも諜報/謀略機関の権力闘争は激しいですね。日本はむしろ一元化されていなかったのが幸いしているのか?憲兵隊と陸軍省防衛課の間ではいろいろあったようですが…》《OSSのMoral Operation部門のブラック・ラジオ・マニュアル》p.40-・ 短波は水面に強いが砂漠には極めて弱い・ 突然周波数を変えたり放送を一旦中断した後に再開させると言った“自由放送局”というまさにそのことばにある秘密性と危険性を強調すること《やばそうなものに興味を持ってしまう人間の習性を利用すると同時に、国内からの放送だと思わせる手段?》・ OSSと英軍共同の宣伝放送「カレー兵士局」、1944年夏の捕虜調査では90%が定期的に同局を聴取p.44第二章 日本に刺激されたアメリカのブラック・ラジオ《OSSのMoral Operation極東部門責任者による1944年1~5月のCBI(支那、ビルマ、インド)視察報告の概要》p.51-・ 支那の日本軍占領地域における日本軍のポスター、ビラ、雑誌などのいくつかは特に優れている・ 華南の中国人は日本軍のプロパガンダの為に米軍参戦の事実を知らされていない・ 日本軍は広範なプロパガンダを展開しており、ホワイトのラジオに加え秘密放送局も稼動させており、プロパガンダで日本軍に大きく引き離されている《ビルマで英軍が1944年4月18日に捕獲した、1943年12月30日付光機関ビルマ支部発行の月報》p.52-・ 陸軍はNHKの協力を得てラングーンからインド向けに13の言語による放送を行っていたが、これはニュースソースを明示したホワイト・プロパガンダ・ 対して自由セイロン放送はブラックだった・ 「自由錫?放送(秘密放送局)」と記載されているが、秘密放送局とか自由放送局と言う言葉は他の日本軍関係資料には出てこない・ これはドイツのブラック放送に匿名で出演したこともあるボースの経験が反映されたものと思われるp.59・ 日本軍の謀略放送活動《支那や南方侵攻作戦で謀略放送の事例》p.60-・ 謀略放送、特殊放送と呼称・ セイロン島を標的とした長期的・戦略的なものは例外で、基本的に小規模で戦術的《総じて米側の日本陸軍のプロパガンダに対する評価は高い。陸軍ファンとして嬉しい限りだが予算を取る上で障害や相手を過大評価するのは役人の習性―失敗の言い訳になるし予算も取れる―なので割り引くべきでしょう。ただやるべきことはやっていた、ということではあります。むしろ日本のプロパガンダの欠点についての言及があれば興味深いのですが》《グルーとライシャワーによる対日プロパガンダに関する提言》p.65-共通点・ 日本では短波受信機の所持が一般に禁止されており《サイパン失陥以前であり中波が届かずビラも撒けない》大衆へのアプローチは不能・ 短波受信機を所持できる指導者層を対象とすべき・ 日本は西洋諸国のプロパガンダに相対的に強い免疫を持っている《相違・ グルーは、東洋ではデマが広がりやすいので適切に用いれば効果的、忠誠心をまぶした“日本人”の手になる印刷物や声明で「危険思想」を注入可能と主張 助言先がOSSなのでブラック・プロパガンダに肯定的・ ライシャワーはより細かく、指導層の趣向に合わせて真面目で重々しい調子での知的・文化的話題などを取り上げて興味を持たせる内容の宣伝放送を主張 こちらの助言先はMISなのでホワイト・プロパガンダに肯定的》・ VOAの日本語放送は42年に開始されたと思われるが、放送された番組の記録が存在しないので内容は不明。MISの所管につき概ねライシャワーの提言に沿ったものと思われる《有識者の意見が意見を聞きに言った人に有利になるのは別に日本だけではないか…》第三章 ブラック・ラジオの制作と日系人《マリーゴールド・プロジェクト》p.81-・ MO極東部門最初のプロジェクト・ 最初にOSSが獲得した日系人はアメリカ共産党日本人部のメンバー芳賀武、藤井周而で、その結果ほとんどが共産党員となった・ 日系人の使用にOSS幹部が反対・ 芳賀と藤井の給料は陸軍少佐格、他も大尉・中尉格の高給・ 偽造雑誌は上質紙の入手が日本国内で入手困難となっていたので上海で印刷されたものとして制作p.92・ 偽造された中野正剛遺稿「大東亜戦覚書」の写しp.94《マリーゴールド・プロジェクトと次のコリングウッド・プロジェクトの比較》p.99-・ マリーゴールドは共産党的規律、コリングウッドはリベラルな考え、メンバーは方法や姿勢で対立関係にあったと思われる・ マリーゴールドがFBIにも存在を秘密にしていた一方、コリングウッドは44年7月27日のオープン式典には60名が国務省、陸・海軍省などから出席・ マリーゴールドには無かったオフセット印刷機が置かれ、録音機のみだったのがスタジオやモニターも揃い、コリングウッドは設備も大幅に改良・ コリングウッドのスタッフは給料や家族の為に参加したメンバーが多いp.107・ コリングウッドのリーダーになったのはジョー・コイデ(本名鵜飼信道)―東大教授鵜飼信成の兄・ コイデはアメリカで共産党に入党し、ソ連に派遣されレーニンスクールで学んだエリートで一世。開戦時、党の指示を無視して収容所に入った為実質的に除名されたとも言われるが、ソ連崩壊後に出てきた資料では《その後も?》共産党幹部とされているp.108・ コリングウッドの日系人スタッフの多くがブラック・プロパガンダに消極的p.113・ コイデが執拗にOSSにブラック・プロパガンダ反対を主張p.113・ ホワイツ・プロジェクトはコリングウッドのチラシやパンフレットを作成する係りを44年11月に西海岸のカタリナ島移動させたものp.122《コリングウッドのほうがOSSより高評価の模様、機材割当なども違うがやはり共産党員は警戒されていたと思われる》・ 《コリングウッドのその他の主要メンバーの概略》p.132・ OSSによる捕虜を使ったラジオプロジェクトに選抜された3名の氏名と略歴p.138《3名とも海軍うち一名は商船学校出身》・ プロジェクトメンバーは軍属ではなく嘱託扱いで辞める事も出来た。優秀な人間は一世に多く、同時に一世には密入国者が多かったのでセキュリティ上と、国外に出た後の再入国手続上の問題もあり国務省との調整に手間取ったp.142・ 藤井周而とコイデは犬猿の仲、カタリナ島で合流したが共同で作業することはついに無く、一緒の輸送船で両プロジェクトのメンバーが移動した際には米軍将校が喧嘩しないようエスコートp.143《権力闘争と内ゲバは左翼の習性、としかいいようがないですね。OSSがここでセクト間対立を煽って扱いやすくしようとか考えなかったのは賢明。プロイセン型の官僚組織ならそういうことをして逆に官僚組織内に対立が持ち込まれる》第四章 サイパン・ブラック・ラジオ・ ニミッツとマッカーサーはOSSを不要として管轄地域から排除、マッカーサーはOWIの活動すら管轄区域内では認めずp.152・ サイパンからの中波での放送はVOAが44年12月26日から開始。OSS幹部によるニミッツ説得によりブラックラジオは45年3月7日ようやく許可p.153《マッカーサーが反共であり、OSSを警戒していたといわれることの傍証になる事柄だと思います》 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.09.23
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山本武利『ブラック・プロパガンダ―謀略のラジオ』(岩波書店,2002) その1総合評価 ★★★★★『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(文春新書,2001)の著者による、アメリカ国立公文書館で公開されたOSS(戦略諜報局。のちにCIAとなった組織)資料を基に米国の第二次世界大戦のおけるブラック・プロパガンダ―非公然のソースから出た作りごと、にせのメッセージを敵国のオーディエンスに伝える活動のこと―を主にブラック・ラジオ(謀略放送)に焦点をあて、プロジェクトの発端から、プロジェクトへの日系人や日本人(特にアメリカ共産党日本人部)の関与、その内容、効果などを詳細に記した労作です。サイパン島の失陥によりB-29の本土空襲が可能になった、というのは有名ですが、同時に中波による日本へのラジオ放送が可能になった、という点はほとんど知られていません。当時、日本は一般人の短波受信機の所持を禁止していたのですが、これが防諜上極めて効果的で米国はサイパンの占領以前、本土向けの宣伝は短波受信機を所持することが出来る(全国で500台程度、との事です)指導者層に向けにVOAによってホワイト・プロパガンダを行うことしかできませんでした。幸いにも、サイパンからの日本の反政府勢力による放送を装った中波放送はほとんど影響を与えることなく終わったようですが、その放送向けに番組を制作するOSSのプロジェクトにおいて中心となったのは、既に支那、ビルマ、南方などでばら撒く為の宣伝ビラを作成するために作られていたアメリカ共産党日本人部の幹部がリーダーとなっているグループでした。また、それに先行してアメリカ共産党日本人部のメンバーが構成員のほとんどを占める別のプロジェクトも存在し、2つのプロジェクトのメンバーの間には左翼セクトが2つあれば必ず存在すると言われる根深い対立もあったとの事です。そして、戦後定説となった「軍部のみが悪い」とする考え方は、この前者のプロジェクトのリーダーでアメリカ共産党日本人部の幹部であったジョー・コイデ(本名鵜飼信道)―東大教授鵜飼信成の兄、アメリカで共産党に入党しソ連に派遣されレーニンスクールで学んだコミンテルンのエリート―が考案し、最も日本の指導者層に受け入れられやすい宣伝としてOSS側に提案して了承を得た宣伝方針であったということです。この段階でコイデは宣伝の方針としてOSSに天皇制に対する宣伝上の方針を決めることも要求し、OSSは捕虜の尋問結果から天皇制の攻撃は反感を買うとして避けるように指示したとのことです。天皇制に対する日本共産党の戦後の姿勢もこの辺が源流ではないかとも思われます。また、本書には野坂参三のOSSへの協力に関する記述があるのも珍しいところでしょう。彼自身が自伝では黙して語らなかった大戦中のOSSへの協力や終戦直後の占領軍への売り込みなどが米国側資料により一部ではありますが明らかにされています。 ◇ 著者について一橋大学大学院社会学部研究科出で、一橋大学社会学部教授を経て早稲田大学政経学部教授どうして一橋大学のようなマルクス主義者・左翼学者の巣窟のようなところからこういう学者が出てきたのか不思議で仕方ないのですが、諜報活動の中でも特に宣伝やメディアに関しての専門家です(真面目に宣伝戦を研究したらどうやっても社会主義国のシンパではいられなくということなのでしょうか…)『占領期メディア分析』で米軍占領下における検閲や世論操作について仔細な分析を刊行した後、米国で1996年から2年間を公開された大戦中の一次資料の調査にあて、98年から『特務機関と謀略―諜報とインパール作戦』『日本兵捕虜は何をしゃべったか』そして本書と立て続けに第二次世界大戦の宣伝や諜報に関する書籍を出しています日米間の戦時諜報活動の分野は米独間のものに比べて(言語の壁もあるのでしょう)遅れているらしく、米国においても一次資料を確認している人物は少ないということですので、第一人者と言っていいでしょう ◇ 本書について四六判ハードカバーで310ページほどの単行本。各章尾に出典が明示されている他、巻末に図版出典一覧も付いており研究書としての要件を充足していますが、文章は平易でわかりやすいものです。本書には著者自身による基礎を成す関連論文がある旨が著者自身によるあとがきに記載されていますが、本書への収録に伴い大幅な修正、再編を行ったので原題は省略したともありますので、事実上論文集ではなく(アマゾンの書評には本書を論文集と書いている人がいますが多分きちんと読んでいないのでしょうね。アマゾンの書評には良くあることですが…)書き下ろしと言うべきでしょう値段は三千円程度とこのサイズの単行本としてはやや高価ですが充分値打ちはあると思います。 ◇ 雑 感興味深く勉強にもなったのですが、読後感のすごく悪い本ですなかでも一番気味が悪いのはジョー・コイデ(本名鵜飼信道)の存在でした。彼は日系人や日本人にも比較的受け入れやすい日本人の一部(この場合は軍)に責任を転嫁する主張を掲げ、攻撃的な共産党員中心の同種のプロジェクトと対立することで、リベラルや保守的な普通の日系人までを対日謀略の協力者に取込んでいます。著者は言及しませんが、彼が創作した「すべて軍だけが悪い」とする説が米国のホワイト・プロパガンダの宣伝放送を通じて日本の指導者層に浸透し、それに(故意かも知れませんが)乗せられた指導者達が終戦と同時に翼賛選挙に関する謬説を流布しはじめるなどして戦後史観をつくり始めたと思われます。また、普通の市民運動を左翼プロ市民が乗っ取るやり方や、受容されやすい歴史観の提示による事実歪曲などの左翼の常套手段は既にこの時代から行われていたと見るべきなのではないか、という疑念が生じてくるような内容が気味悪さを感じさせます。この、軍部が全て悪いとする説は、マスコミ、政治家、官僚、国民、誰にとっても耳当たりがよく受け入れやすいものです。また、これは同時に軍人は以外処罰しない、という米国からの暗黙のメッセージともとれるわけで、保身を図ることしか考えない官僚や政治家の講和受容を決める上での大きな要因にもなったと思われます。戦後の基礎となる歴史観、戦争観はOSSに高給で雇われたコミンテルンのエリートが創作し、大戦中から日本の指導者層に影響を与えていた(憲兵隊は指導者層の短波受信自体は取り締まらなかった―そこで聞いたことをおおっぴらに口外すれば取り締まるけど)、ということを本書から読み取ることが出来ると思います。 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.09.21
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S・ソンタク他著 平賀秀明訳『潜水艦諜報戦(上・下)』(新潮OH!文庫,2000) その3第六章 《1969年、当時最新のスタージョン級攻撃型原潜レイポン(艦長チェスター・M・マック)による、ソ連の新型ミサイル原潜ヤンキー級の47日に渡る追尾に関する一章徹底的に追尾することで、どのように音響特性や行動パターンを把握し、どのような情報が得られるのかがよくわかる一章です相手に気づかれること無く追尾した結果、搭載ミサイルの射程に関する予想まで覆してしまうわけですから、当時にあっても最重要任務であったということは理解できますこの章は、日ごろから潜水艦は(始終海に出ていて)何をしているのだろうか、ということを知る上で参考になるかと思います》・ この時代、リスクを回避しがちな艦長は「チャーリー・ツナ」「海のチキン」などと軽蔑的なあだ名で呼ばれたp.263・ この手の小競り合い《バレンツ海での》で、ソ連側は大抵爆発しない模擬弾《魚雷》を撃ってくるp.264《こういう事実があるのでスコーピオンの沈没原因としてソ連による撃沈説があるのでしょう。寿命が縮みますよね。反撃は禁止されているし》・ SSN-607デース(キネアード・R・マッキー艦長)は1969年、曳航されていくソ連の原子力砕氷船の写真を撮影し、原子炉事故を証明する放射能汚染された大気のサンプルを採取。翌年にはヴィクター級攻撃型原潜、チャーリー級巡航ミサイル原潜の接近写真と音響特性を初めて獲得p.265・ 《スタージョン級では》寝台の共有の必要はなくなっていたが、引き出しは一人当たりひとつでそこに3か月分の下着、制服など必需品全てを収納。ディーゼル臭と結露は無くなり空気もよくなったが、タバコの煙は充満。一回の任務中に数回妻と両親が3,4行の「ファミリー・グラム」という電報のようなメッセージを送ることを許されていたp.270《 当時の原潜の居住環境についておおよそのイメージが把握できます》・ 《乗組員のうち》下士官兵は高校卒業がやっと。識字増進プログラムで入隊した者もいたp.273・ グリーンランド沖の水中は騒がしく、ソ連潜をソナーで発見するには1400ヤード以内に接近する必要があった《この艦が搭載していたのは実験用の改良されたソナー》p.276・ それまでの原潜と異なりヤンキー級は静粛。特に真後ろにつけると追尾不能になるが、左舷側がやや騒音が大きく、左舷方向からは機関が艦のどの部分よりも大きく音を出しているのが聞こえた。これにより音が大きくなれば取り舵、小さくなれば面舵と判断できた・ スクリューは一回転ごとにクリック音を出すので、その回転数がわかり速力を判断できたp.282・ それまで米海軍はヤンキー級が米国の沖合700海里に派遣されていると考えていたが、追尾した記録によりSS-N-6ミサイルの射程は1,200乃至1300海里に達すると判断したp.284・ レイポンのソナー員は米国製ソナーはソ連製の2倍の探知距離があるらしいと理解していたp.286・ 1969年10月9日《追尾中》、ニューヨークタイムズ紙に「ソ連の新型潜水艦は予想よりうるさい」という見出しの記事が載って数時間後、深夜の定時連絡受信のために浮上した追尾中のヤンキー級潜水艦が「クレージー・アイヴァン」と呼ばれる不規則で乱暴な操艦を開始p.289《さすがニューヨーク赤旗新聞と呼ばれるニューヨークタイムズですね。記事に掲載することで自国の将兵を危険に晒すかどうかなんて考えないわけです。》・ 《時期不明の話ですが》ソ連がシチリア海峡にブイを帯状に設置しようとしたことがあり、米情報部は音響装置ではないかと考え国務省から海軍に取扱に苦慮している旨の意思表示があり大論争になったが、マルタ島に駐留する英国駆逐艦がひとつ残らず砲撃で沈めてしまったp.294《おそるべしイギリス海軍…》第七章 《前章のレイポンの成果により、ソ連潜水艦の追尾が任務として注目されるが、その一方で双方の潜水艦の衝突事故が多発その中でも1970年6月にSSN-639トートグ(ビューレ・G・ボールダーストン艦長)がペトロパブロフスクから南下中のエコー2級潜水艦と衝突。相手が沈没したと判断し、そのまま日本を経由せず真珠湾まで直行(いわゆる当て逃げ…海洋法では救助義務があるのでどうみても違反です。まあ、現場にとどまっても救助の方法などないのですが)したケースについての一章実際には沈んでいなかったようで、衝突相手の潜水艦艦長とのインタビューの様子が載ってます》・ 1969年1月、SSN-615ガトーが旧式のホテル級潜水艦と衝突。これはヘルシンキでの米ソ軍縮交渉の2日前に発生。・ 大西洋艦隊司令部の指示でガトーの艦長は偽の作戦報告書を作成し事故の2日前にパトロール終了した事にした・ 1970年に他に2件の衝突事故がバレンツ海と地中海で1件ずつ発生。衝突を免れたケースは大統領、補佐官向け海軍情報部報告書にも大抵記載されずp.295-・ エコー2級追尾の目的は、何基のミサイルをどれくらいの時間で連続発射できるか、飛行経路を推測するための電子パルスの捕捉、発射の瞬間を写真に撮ることで使用している推進剤の検討をつける、などp.299・ 米ソ双方とも、潜水艦は自艦の発生する騒音や要具などの収納状況を確認するため「アングルズ・アンド・ダングルズ」という不規則で乱暴な操艦を《出港直後に》一度は行うp.302・ 《衝突報告後の司令官からの指示は》真珠湾に直行し、深夜まで港から離れて待機、その後灯火を消して入港しろとのものp.316・ そこから上への報告は、全て証拠を残さない為口頭で行われたp.317・ ボールダーストン艦長は提督にはなれず退役し死去するが、妻子にもこの衝突事故のことは一切口外せずp.318《 これが一番苦しいでしょうね。そのままソ連の潜水艦が沈んだものと信じて冷戦終結前に亡くなられたそうです》----ここから下巻です第八章 《1971年から開始されたソ連のペトロパブロフスク-ウラジオストク間の海底ケーブルの最初期の盗聴作戦に関する一章前出のハリバットの上にDSRVと称してダイバー向けの与圧室を載せ、オホーツク海で海底ケーブルを探し出し盗聴器をしかけたり、海底のミサイル部品を回収する話そういう海底ケーブルが存在する、という確証はなく場所も不明。そこで、海底ケーブルがあれば間違えて船などが切断しないように沿岸に標識を立てるだろう、という仮説のもと潜水艦で領海を侵犯して沿岸の標識を探し出し、そこからケーブルを見つけるなどというのは賢いと思いますそれだけでも情報戦というのが厳しい世界だというのがわかるのですが、更にこの計画を発案し推進した当人が、盗聴によって得られた情報を見せてもらえないという…また、本章ではキッシンジャーの話が頻出します。共著者の1人がニューヨークタイムズのデスクということで共和党に批判的で、取り上げられているエピソードもほとんどが共和党政権時のものとなっているのは注意すべきでしょう。》・ 深海300フィート(90メートル)まで潜ると大気圧が大きい為10倍の酸素と窒素が肺にはいる。酸素は有害物質に変り、窒素は麻薬のような効果―窒素酔い―をもたらす・ その対策として酸素と窒素の大半を毒性のないヘリウムで置き換えたものを使用。深度に応じて酸素、窒素の比率を調整・ カリフォルニア州ラ・ホーヤ沖深度200フィートにシーラブと呼ばれる海底居住実験室が作られたが、1969年に水漏れ事故でダイバー1名が死亡し実験中止p.14・ 1971年夏の終わりごろ、ハリバットの改修が修了。地元紙は上甲板上の構造物をDSRVと紹介したが、実際はダイバー用の与圧・減圧用の気密室p.25・ 《最初に海底ケーブルに設置した》盗聴装置は大きなテープロールを装填した録音機、リチウム電池を収納したシリンダー、ケーブルをくるむセパレート式コネクター。ケーブルに切れ目を入れずに誘導原理で情報を取得《電磁誘導ですかね》p.34・ ソ連の新型巡航ミサイルは米軍が対抗手段を持たない新しい赤外線誘導システムを使用しており深刻な脅威となっていたので、その破片の回収がオホーツク海で最初のハリバットの任務で盗聴の後に行われたp.35・ ミサイルの破片はエネルギー省の秘密施設で復元されたが、赤外線追尾装置は発見できなかった。レーダー高度計は見つかったのでソ連の巡航ミサイルを海に突っ込ませてしまう対抗装置が開発可能になったp.37・ ソ連の潜水艦基地と海軍上層部は《有線では》全く暗号を使わないか、ごく初歩的な暗号で通信p.38・ 初回の成果を受けて、ベル研究所にスタッフを派遣し大型の盗聴装置の開発に着手。原子力が動力源《人工衛星などによく使われた核電池のことと思います》で一度設置して置けば数ヶ月間、数十本の電話線を録音可能p.39・ キッシンジャーとツムウォルト海軍作戦部長の反目。キッシンジャーが軍縮交渉でミスをしデルタ級潜水艦の建造に枠をはめないまま合意を結んだ事に怒り、埋め合わせとしてトライデントミサイル搭載潜水艦の建造の承認を求め、認めさせたp.42・ ハリバットには艦首、艦尾、中央部にブラックボックスとして爆薬を搭載。これが自爆装置につながっており、水雷科の兵曹が起爆装置の爆発準備の訓練を受けていたp.44・ 2回目の盗聴内容は、実戦部隊の指揮官同士の戦術、計画、補修上の問題、ヤンキー級の欠陥に関する会話、兵站に関して部品不足で出航できない艦船名、ハイレベルの報告など。ただし、一番欲しかったミサイル実験に関する情報はなかったp.53・ 《それまでは2本の錨で艦を固定して作業していたが、安全の為》ハリバットの艦底に橇のような足をつけることで、着底して活動できるように改造したp.55・ ニクソンがハイフォン港の機雷封鎖を発表した直後、ソ連は3隻のエコー2級潜水艦をヴェトナムに派遣。これを米潜水艦が察知し、ワシントンからモスクワに警告したところ退去したp.57 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.09.20
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書いたけどアップするのを忘れていました。8月15日の金曜日、上野の東京都美術館に「フェルメール展―光の天才画家とデルフトの巨匠たち」を友人と見に行きました。金曜日は20時まで開館しており、17時からはペアチケットで割引があるそうなので、17時になったら急に入場者が増えるだろうと思ってわざと16時過ぎに入場。数百円の金額をケチって混雑するリスクは回避したいと思ってそうしたのですが、見込どおり17時を過ぎたら入場者も急に増えたようでした。ちなみに入場の待ち時間はゼロだったです。さて、フェルメールは現存する作品の少なさでも有名な画家ですので、当然今回の出展作品のうち半分どころか5分の1もありません。それでもフェルメール作品7点同時と言うのは記憶する限り日本の美術展では最多だと思います。フェルメール作品の前後には17世紀のデルフトに関係する絵画が沢山並んでおり、普通の見方をするなら副題のとおり17世紀デルフトの絵画展と言ったほうがいいような内容(興行的にはありえない選択ですが…)。実際のところ、今回一番多いのはフェルメールでは無くてピーテル・デ・ホーホ(Pieter de Hooch?スペルには諸説あるようですが)の絵で8点もあります。フェルメールとほぼ同時代にデルフトで活動、しかも相互に影響があったらしく絵の主題や構図でも似たものがいくつかある、ということで、フェルメールの引き立て役兼穴埋めとして引っ張り出されることが多いという、ある意味不幸な立場の画家です。その生涯についても余り詳しくは知られていないようで、そんなに著名な画家と言うわけではないのですが、風俗画ばかり8点もあると言うのはそれはそれで興味深いものです。(今回展示されている「アムステルダム市庁舎、市長室の内部」は私のようなド素人がみても構図が破綻しているように見えるので逆に印象的でしたが…)しかし、その絵はちょっと例外的なもので、基本的には精密な遠近法に基づいていて、構図や絵の着想などの点でもホーホとフェルメールに決定的な差はないように見受けられます。でも人物、特に女性の顔、表情、それとなにより配色…それでこれだけ差が出る、というわけで、何故にホーホの絵が一緒に展示されるかの理由もなんとなくわかってしまうのが悲しいところですね。そんな中で個人的に一番興味があったのは「ヴァージナルの前に座る若い女」この絵は、最近になってフェルメール作と言われるようになったもので、現在でも真贋については意見が分かれているとのこと。興味本位ですが他の作品と比べてどうなのだろう、と思っていたわけですが、やはりプロでも意見が分かれているものをド素人の私が見てわかるはずも無いですね。贋作だと言う理由として挙げられる、奥行きが無くて狭そうに見える構図、という方はみればわかりますが、ショールの表現がどうこうという方は正直よくわからないかったです。余談ですが、きな臭いもの大好きな私にしてみれば17世紀のデルフトといえば・ 英蘭戦争(第1次から第3次)・ デルフトの爆発事故という印象があります。特に後者のほうですが、1654年10月12日に約40トンの火薬(爆薬ではない)が爆発し死者100名という大惨事。この手の大爆発事故として記録に残っていて実際にあったことが確認されている中では最も古い事故なんだそうです。ちょうど第一次ウエストミンスター条約により第一次英蘭戦争が終わって半年という時期ですから、なんかイギリスが悪いことをやってそうな気がするんですが、爆発原因などはよくわかっていない模様。しかし、当時は街の中に火薬庫があったんですねぇ…今回の出展作品にも爆発の被害を受けた市街を描いたものがありましたが、爆発後であって、爆発時の様子を描いた絵は無かったです。その点はちょっと残念。しかし、黒色火薬程度のものでも40トンも爆発すると被害範囲はかなりのものになるのだな、という印象を受けました。もしかすると、いまの花火工場のように天井が簡単に吹き飛ぶようにして上に爆発力を逃がす(密閉による威力の増加を起こさせない)というようなことを考えていなかったのかもしれません。 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.09.17
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渡部一英『日本の飛行機王中島知久平―日本航空界の一大先覚者の生涯』(光人社NF文庫,1997) その4・ 昭和15年1月17日に米内が組閣の大命を拝受すると、米内から中島に参議に就任するよう交渉を受け、閣僚1名を割り当てられたが、参議は断ったp.367・ 参議は第一次近衛内閣で創設された制度で親任官待遇p.367・ 昭和11年から12年にかけて、近衛文麿(当時貴族院議長)を擁立して強力な革新政党を結成しようと運動した者があったが、その中に前田米蔵や中島がいたp.368・ 《昭和15年3月末頃、近衛が中島を自邸に招いて協力を求めた際に交わされた密約》p.369・ 昭和15年6月、枢密院議長辞任後軽井沢の別荘に赴いた近衛を武藤章(当時軍務局長)が訪れ、陸軍は強力な新政党をつくることに反対であると脅したが、この事は極秘とされたp.371・ この直後、腰砕けになった近衛は中島と密かに会見し、政党が一本になるとただちに軍から叩かれるので解党せずにそのまま頑張ってほしい、民政党にも桜内幸雄氏にその旨を伝えた、と話したp.372・ 本項中の近衛と中島に関する部分は、中島が急逝する4時間前に中島と「政党解消前後の実情」について対談し、中島からくわしく裏話を聞き取られた松村謙三氏から、筆者が三十年七月四日、文部大臣室において秘書官田川誠一氏とともに聴いた談話に基づくものであるp.372・ 中島は即座には解党要請に応じなかったが、第二次近衛内閣における近衛の人気が素晴らしく、近衛の手で新体制が生み出されると信じている代議士が解党を強く主張し始め、7月30日に解党p.373《このあたりも、軍部の横暴と言うより議会(政治家)の自滅、という私の考え方には適合しているかと思います》・ 第七十六議会では大政翼賛会の性格が問題となり、近衛は痛いところを突かれて答弁に窮し病気と称して議会を欠席するようになり、内務大臣の安井英二を罷免し平沼騏一郎を後任として答弁に当たらせたp.375・ これを受けて、議会終了直後(16年4月)に大政翼賛会は改組。議会局、企画局、政策局の3局を廃し、公事結社であることを規定するなどして性格を明瞭にしたp.375・ 昭和16年9月29日に衆議院内に議員倶楽部が組織されたのは、既成政党が解消し衆議院が無党派の議員によって構成されるようになり、運営を円滑に行う必要が生じた為p.376・ 議員倶楽部は5人の世話人によって運営されたが拘束力がおぼつかない為、9月2日に翼賛議員同盟が結成され発展的解消p.376・ 昭和15年9月1日からは、陸軍と海軍からの注文品については原価計算制が実施されたp.378・ 昭和17年5月20日に翼賛政治会創立集会が行われ、その前日に翼賛議員同盟は解散。翼賛政治会は下部機構がなく、実権は選挙民と強靭なつながりを持っている旧政党人に握られていたp.384・ 《軍需省の設立時における航空関係での処理》p.420-・ 既設の陸海軍航空技術委員会内に試製富嶽委員を設け、中島が委員長となったが、、設立することとなったのが昭和19年初め、4月からスタートしたp.424・ 試製富嶽委員の設置は軍需大臣兼任の東條が決めたが、遠藤航空兵器総局長が反対しその命令で技術者を出向元に戻すこととなり、研究打ち切りとなったp.425・ 《昭和27年3月発行の雑誌『世界の航空』に野村外代雄が書いた記事の誤謬箇所指摘》p.427・ 昭和20年3月2日の閣議において、航空機工場の国営化を決定。ただちに情報局から発表すると同時に、中島飛行機に対する工場の借り上げ交渉を開始したp.432・ 中島が最初に選ばれた理由は、最重要工場であることもあるが、株主が中島兄弟だけなので話をまとめやすい、自己資本に対して借入金が多く、しかも政府保証の命令融資が大半を占める、債権者は興銀一本で利害関係者が少ない為p.432・ 昭和20年4月1日、豊田軍需大臣から中島飛行機会社に対し、使用令書と共用令書《供用の誤記?》の令達が行われ、同時に長官として中島喜代一が勅任され、即日開庁式が行われたp.434・ 《第一軍需工廠開設時の廠長一覧》p.434・ 中島の各製作所長以上の者は2名を除き全員が軍需官(高等官二等 長官は一等)となったp.434・ 中島飛行機会社が第一軍需工廠になったと思われているが、中島飛行機会社は生産に必要な一部の物件を第一軍需工廠に貸し付け、従業員の供用に応じ、自社での生産を中止したものであり、戦争が終われば借り上げ契約は解除されることとなっていた・ 借り上げ施設の利用料は資本金に対して7分の配当が実施できる範囲で支払われる契約だったp.435・ 中島知久平が昭和20年4月に中島飛行機の社長になったのは、実弟の社長と前社長が軍需官になってしまった為。中島知久平が中島飛行機の役員になったのはこのときが初めてp.436・ 昭和24年10月29日(死去の当日)、松村謙三が午前10時ごろ泰山荘に中島を訪ね、中島は政党解消時の前後の事情を詳しく話した。その要点の一部は松村が『町田忠治翁伝』366~368頁に記しているp.466おまけさて、中島知久平と中島飛行機関係の年譜をまとめてみるとこんな感じでしょうか。(漏れはたくさんありますが…)ちなみに本書から拾ったものだけで作っています。軍人時代の階級はWikiにもあるので厳密には拾っていません。でもWikiにあるのよりこっちのほうが詳しいかももしかして、ネット上における中島知久平に関する最も詳しい年譜?明治17年1月11日生明治23年4月1日 尾島尋常高等小学校入学明治31年3月 尾島尋常高等小学校卒業明治33年 親の金を盗んで陸士入学を目的に東京に出奔明治35年10月(推定)専験合格明治36年12月21日 海軍機関学校入学(15期)明治40年4月25日 海軍機関学校卒(15期 3位/44名)明治41年1月16日 機関少尉任官明治44年5月9日 巡洋艦「出雲」乗組同年同月 22日 巡洋艦「出雲」分隊長心得明治44年7月26日 海軍大学選科学生(飛行機科としては3人目)明治44年8月5日 臨時軍用気球研究会御用掛明治45年6月26日 海軍航空術研究委員会委員明治45年6月30日 海軍大学(飛行機科選科学生)卒明治45年7月3日 米国にて飛行機製作術と整備技術を習得するため横浜を出帆 (大正元年12月15日帰朝 その間に日本人で3人目となる米国飛行倶楽部の飛行士免状を取得)大正2年5月19日 横須賀鎮守府海軍工廠造兵部部員(海軍航空術研究委員会委員は引き続き兼務)大正3年1月21日 造兵監督官に任命 フランス出張を命ぜられる。大正3年9月4日 第一次世界大戦勃発に伴い急遽帰朝。艦政本部の命により造兵監督官のまま飛行機工場に出張し、飛行機の製作に協力するとともに新式機の設計を行う大正3年12月26日 造兵監督官を解職。造兵部員(飛行機工場長)大正4年1月21日 検査官を兼務大正5年4月 海軍技術本部会議員を兼務大正5年8月1日 海軍航空隊付を兼務大正6年6月1日 待命大正6年12月1日 予備役編入 のち飛行機研究所を創設大正7年4月1日 飛行機研究所から中島飛行機製作所に名称を改める大正7年5月 法人に改組 川西の出資を受け合資会社日本飛行機製作所となり、その所長に就任大正8年11月 川西と契約締結。10万円を支払い合資会社日本飛行機製作所を買い取り大正8年12月26日 合資会社日本飛行機製作所の解散後、中島飛行機製作所に改名し所長となる大正11年3月 中島商事株式会社(材料等の調達会社)を設立。社長となる大正12年(春) 中島事務所(個人事務所 のちに中島同族の本部となったこともある)を設立大正12年(秋) 政治資金獲得のために株の清算取引を始める(~昭和5年)大正14年 フランス政府よりレジョン・ドノール・シュバリエ勲章授与昭和3年 フランス政府よりレジョン。ドノール・コンマンダー勲章加贈昭和3年11月10日 勲五等瑞宝章昭和5年2月 臨時総選挙に群馬県1区より出馬し当選昭和5年3月? 政友会に入党 会計監督に選任される昭和5年5月 立憲政友会群馬県支部大会において支部長に選任され就任昭和5年12月 東毛政友倶楽部(選挙母体)が設立され会長に推戴される昭和6年1月20日 中島飛行機製作所の所長を(実弟喜代一に譲り)退任昭和6年1月29日 中島商事の社長を(実弟喜代一に譲り)辞任昭和6年6月1日 国政研究会 開所昭和6年12月1日 富士合名会社(同族会社)を創立昭和6年12月15日 中島飛行機製作所を中島飛行機株式会社に改組(資本金千二百万円 半額払込)昭和6年12月? 商工政務次官に就任(犬養内閣)昭和7年12月1日 国家経済研究所を創設昭和8年3月27日 政友会総務委員に選出される昭和9年3月27日 政友会顧問となる昭和10年1月31日 小島久代を養女として入籍昭和10年12月24日 勲三等瑞宝章昭和11年2月 衆議院に当選(3回目)昭和11年5月28日 政友会議員総会で大総務制採択。総務に就任昭和11年9月30日 富士合名会社(中島一族の同族会社)を解散昭和12年2月28日 政友会議員総会にて総裁代行委員に指名され就任昭和12年3月25日 中島商事株式会社を解散 中島飛行機株式会社増資(千二百万円→二千万円 うち二百万円は商事の資本金―《合併か?》)昭和13年2月 田無に田無鋳鍛工場を新設昭和13年6月 鉄道大臣就任(近衛内閣)昭和13年6月15日 従三位に昇叙昭和13年7月5日 勲二等瑞宝章昭和13年7月18日 政友会群馬県支部長を辞任(後任は小暮武太夫)昭和13年9月19日 大田、東京、武蔵野の製作所と田無鋳鍛工場が陸軍の管理工場に指定(翌日には海軍からも管理工場指定を受ける)昭和13年9月20日 中島飛行機株式会社の本社を太田から丸の内三丁目4番地に移転昭和13年11月2日 中島飛行機株式会社 増資(2千万円→5千万円)昭和14年4月30日 政友会大会において第8代総裁に選任され就任(20日後に久原も選任され政友会分裂)昭和15年9月5日 小島久代を養子として入籍昭和17年2月? 大東亜建設審議会委員昭和17年5月20日 翼賛政治会顧問昭和20年4月1日 中島飛行機株式会社の工場と従業員を政府が借り上げ第一軍需工廠となる。中島喜代一が第一軍需工廠長官となる。同時に、中島飛行機は社務を大幅縮小し、役員定数を法定限度まで減らし、中島知久平が取締役社長となる昭和20年8月16日 中島飛行機株式会社定款の目的と商号を変更。富士産業株式会社と改称。中島知久平取締役辞任(22日中島乙未平が取締役に選任され社長となる)昭和20年8月17日 軍需大臣に親任(東久邇宮内閣)昭和20年8月26日 軍需省廃止。新設された商工大臣に就任昭和20年10月30日 正三位に昇叙昭和20年11月6日付 中島グループに対し連合軍総司令部の覚書にて四大財閥に準じた解体指令昭和20年12月2日 戦犯指定を受ける昭和24年10月29日 死去 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.09.16
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渡部一英『日本の飛行機王中島知久平―日本航空界の一大先覚者の生涯』(光人社NF文庫,1997) その3・ 《中島喜代一、中島乙未平の中島飛行機製作所入社までの前歴》p.224-・ 大正9年12月より中島喜代一を渡米させ、米国とカナダからスプルース、マホガニーその他の木材を大量に買いつけ、汽船1隻をチャーターし大量輸入したが、深川の木場の材木店を通じて広く販売し多大の利益を得たが、このことは一部の人にしか知られていないp.230・ 《大正10年3月末までに中島飛行機製作所が作った飛行機数累計。150機中陸軍の中島式5型が118機。航空機への期待と戦力化は圧倒的に陸軍が早かったことがわかります》p.230・ 《大正8年1月に来朝したフランス航空技術指導団とその影響》p.231-・ 陸軍が大正10年度から中島式の注文をやめてフランス製機のコピー生産を命じたのはこの航空団の来朝による・ ニ式二四型(のち甲式三型練習機に改称)はニューーポール式二四型。大正6年に陸軍がはじめてフランスから輸入し、製作権を買い所沢で生産していた・ この指導団は、クレマンソー首相の申出によるもので、給与と往復の旅費をフランス政府が負担してもよいと言ってきたもので、当初予定期間は3ヶ月であったが最長で1年に延びた部門もあった・ 陸相田中義一は、その航空団の指導を受けさせる為に「臨時航空術練習委員」を設置。委員長に井上幾太郎少将を任命し、その指揮下に委員43名、練習員と各航空部隊を置き練習計画の立案と実施にあたらせた。・ その所要経費はシベリア出兵の臨時軍事費の一部から支出した・ 大正11年度に陸軍から三菱と川崎に飛行機を初めて発注p.236・ 陸軍が川崎と三菱にも飛行機を作らせる方針を決定したのは大正10年4月。井上幾太郎航空本部長《航空部長の間違いか?航空本部になったのは大正14年》p.237・ このころ《大正12年秋》から昭和5年まで、中島は清算取引制度を利用して株の取引を行っていた。当初は親友の飯塚まさ《しめすへんに氏》吉(大阪商船会社釜山支店長)を代人にしていたが、のちには個人秘書の野田真を係りとしたが、中島の名前は出さず、玉も2,3店に分けて出して一切を秘密にしていたので野田以外の者は株をやっていることを知らなかったp.240・ 日本の民間工場で、営業として航空発動機を製作し始めたのは東京瓦斯電気工業株式会社(のち日立航空機)が最初。次が川崎造船所、三菱、中島、愛知時計電機会社の順p.245・ 《中島飛行機製造所東京工場(発動機工場)の立ち上げ経緯》p.246-・ 昭和4年末頃には、株で得た資金は850万円に達し、それ以外にも一流の株式多数を保有していたp.252・ 《昭和5年の選挙では》内務政務次官在任中に急死した武藤金吉(政友会群馬県支部長)の一族よりの要望を受け後継者として出馬《選挙時は中立候補。当選後に政友会に入党》。当時、会社のほうも多事であり辞退したが仕方なく急遽出馬したものp.260・ 《第五十九議会における中島の質問》p.264-・ 《幣原首相代理の失言とその原因になった中島の質問―議会議事録より引用》p.272《これが何故に撤回しなければならないほどの失言なのか、即座に行われた島田俊雄委員の攻撃や野次は日教組教師が教える明治憲法の説明では全く理解できないのではないかと思います。明治憲法下における大臣の輔弼責任と天皇無答責、というのは少なくとも当時の議員には(官僚出身の幣原のような者以外には)自明だったわけです。一方、これ(君主責任、官僚無答責)は幣原の本音だったのではないかとも思われます。》・ 中島は国政研究会を設立し昭和6年6月1日に開所。太田出身で衆議院書記官長をしていた中村藤兵衛を理事長に迎えた・ 米英独伊で刊行される、政治、経済、哲学に関するベストセラー級の新刊書を直接購入し、数十名の専門学者に読ませて要点を訳させ、それを謄写印刷して中島に提出・ 毎週金曜日に嘱託の学者が輪番で講演・ 昭和15年に廃止されるまでの約10年間に購入した洋書は四万六千冊・ 嘱託の主要な学者は、田辺忠男、大西邦敏、猪谷善一、常時30名最大時は50名p.287《 こういう効率的な勉強法という点でも合理的ですね。学者としても洋書をいち早くただで読め、給料ももらえるのでいい仕事だったでしょう。海外で学んだ際にこういうやり方を見て試したのでしょうか?》・ 国政研究会の4万6千冊の洋書は、解散後中島事務所で保管したが損傷なども多く、最後に残った1万3千冊を昭和28年に群馬県の県議会専用図書館に知久平の嗣子源太郎より寄贈p.289・ 昭和7年12月1日に国家経済研究所を創設。理事長は中村藤兵衛だが、中島直系の貴族院議員渋谷金蔵(太田出身の多額納税議員で帝大出の法学士)が運営にあたり、昭和18年末まで存続。スタッフには太田正孝、船田中などがいたp.292・ 中島は、昭和8年夏に強羅の山荘に篭って「昭和維新の指導原理と政策」《まえがきによると焼却されたらしく著者も入手できなかったとのこと》を執筆・ 数年後にその論文を借りて一読した評論家伊藤金次郎が昭和14年7月1日発行『政界往来』に「中島と久原」と題した評論の中でそのアウトラインを紹介しているp.293・ 《中島による金鉱開発》p.294-・ 千歳鉱山の開発は、初め中島商事会社内に鉱山部を置きそこで行っていたが、昭和11年10月1日千歳鉱山株式会社(社長中島門吉)を設立し運営を移管。他にも九州に錫鉱山(岩戸鉱山)を保有していたが、こちらも同年12月23日鉱山株式会社(社長中島門吉)を設立し移管・ 岩戸鉱山会社は昭和18年3月15日中島鉱山会社、20年10月には中島産業会社、26年8月29日中島鉱山株式会社と改称p.297・ 昭和9年に中島飛行機は太田工場の大拡張を実施。株式の未払込金を全額徴収した資金をこれに充当。太田町の東端に7万5千坪の土地を買収し新工場をつくり、以後これを太田工場と称し本社を移転、旧工場は呑龍工場と呼ぶようになった・ 昭和12年に太田工場は太田製作所に改称。同時に東京工場も東京製作所となったp.298・ 《中島知久平の養子と内縁の妻について》p.302・ 中島に正妻は無かったが大正8、9年頃から他界するまで小島ハナという女性が身の回りの世話をしていた。知久平はこの女性との間に久代、源太郎の一男一女を設け、養子とした《小島ハナと入籍しなかった理由についての記述なし。理由は不明です》・ 《「政友会夏の陣」―昭和13年夏の鳩山一郎対中島知久平の政友会第8代総裁をめぐる闘争》p.314《要するに、大会を開催して選任すれば勝てると思った鳩山一郎とその取り巻きが、総裁の公選を主張して騒いでみたが、実際に公選とすることが決まって大会の期日まで決めさせたのに、いざやって見ると負けそうになったので公選をやめろと騒ぎ立ててやめさせた、と言うことのようです。しかし、自ら総裁になろうとして運動するだけで本人はやる気が無かった中島の周りに反対勢力を結集させてしまう鳩山一郎の人望の無さと無能は笑えます。当時の政治家にも、鳩山は統帥権干犯論争をはじめて議会政治の自滅を齎した元凶だという認識があったのでしょうか》・ 昭和13年2月、田無に東京製作所の分工場として田無鋳鍛工場を新設。昭和14年11月5日には独立して中島航空金属株式会社(資本金1千万円 社長中島喜代一 昭和18年10月乙未平に交代)となり、戦後は瑞穂産業株式会社に改称p.325・ 《支那事変以降の中島飛行機の資金調達について》p.326-・ 昭和13年11月2日の増資による払込金3千万円は興銀にそのまま預けた。これは新しくできた臨時資金調整法により社債の発行総額が払込資本金の2倍までに制限されたため、1億と見込んだ資金需要を社債発行によりまかなうために増資したもの・ この増資の払込金は全額を第一銀行と興銀から半分ずつ借入(のち1千万円を興銀が肩代わり)。融資の条件は担保として中島飛行機の株を3千万円分預け入れ、且つ中島飛行機会社として3千万円を預金するというもの《今やると、見せ金増資にもなりそうですね。完全な両建てですから銀行は実質一円も出さずに利息が入ってきます》・ 中島飛行機の株式は中島兄弟5人で全て所有。その理由は中島によると 軍事上の機密保持に都合が良い 営利を旨とする株主は都合が悪い 戦争終結後に経営規模の縮小が必要になり株価が暴落するので迷惑をかけるというものだったp.326・ 昭和13年11月15日、海軍航空本部長より生産力拡充命令。中島は海軍の要求に従い、海軍の仕事をする工場を分離し、小泉製作所(機体工場)、武蔵野製作所の隣に多摩製作所(発動機工場)を新設することに決定したp.328・ 工場拡充の資金調達は困難視されていたが、実際には国家総動員法3条3項の発動により、政府保証の強制貸付金を興銀から借り受けられるようになったので少しも困らなかった。第一回の融資は昭和14年6月に8千万円。昭和20年6月末までの合計は26億1千2百万円にのぼったp.328・ 《昭和13年冬の所謂政友会「冬の陣」の概略説明》p.333・ 《 第七十四議会後の中島総裁擁立運動と政友会分裂に至る経緯》p.335-・ 昭和14年3月21日に《政友会》代行委員会開催。幹事長の人選の為のものだったが鳩山と前田、中島、島田の意見が対立しまとまらず。翌日も代行委員会を開催し、4月中に大会を召集し総裁問題を解決する事で覚書を作成したp.336・ 4月14日代行委員会で、鳩山は自派の不利を見て覚書に反し党大会開催に反対。島田に一蹴され、これにより鳩山の人気は更に落ちたp.338・ 当時は中島ではなく、久原が正統な総裁として新聞では報じられていたp.349・ 実際には、中島は総裁選挙資格者の3分の2によって推戴されており、党本部の建物や総裁印、政友会本部印、幹事長印などの印章、党員名簿や諸帳簿、印刷物まで中島側が新総裁として管理し、職員も引き続き勤務していたp.351・ 《久原派(当時、中島側は三縁亭組とも呼称、三縁亭で党務を行っていた為)が開催した大会の模様を伝える昭和14年5月21日付東京日々新聞の記事》・ この記事には出席者数について誤魔化しやミスがあり、代議員87名出席とあるがこれはほとんどが無権限者だったp.352-・ このように、新聞報道に久原や鳩山に有利な虚偽が多かったのは、中島が出入りの新聞記者や通信社員(山下倶楽部員)に名誉税を出さなかった為と言われる。中島は総裁になった折、側近から山下倶楽部に金一封を御酒代として出すように薦められたが頑として応じなかったp.354《 このあたりの事情の説明に関しては、鳩山・久原側の人の回想とは異なり中島側の視点によるものですが、手続的にはどうも久原のほうに分が無いようですね。少なくとも鳩山の権力亡者ぶりと節操のなさは酷いものです》
2008.09.15
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渡部一英『日本の飛行機王中島知久平―日本航空界の一大先覚者の生涯』(光人社NF文庫,1997) その2 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません・ 天性、売名を好まなかったため、伝記の資料になるようなものはつねに処分していたらしく、中島家には何一つ残されていなかった。位記や勲記すら残っておらず、昇叙されても家人にも話さなかったため、遺族や兄弟も正三位勲一等であったことを死後に知ったp.6・ 四十九日の法要に出席した友人知己が伝記をつくる委員会を設け、前田米蔵氏が委員長になって2年余りも資料集めをやってみたが、思うように集まらないのでそのままになっているうちに前田氏が死去したためウヤムヤになったと聞くp.6・ 中島の半生記を載せた雑誌は数多くあるが、そのトップを切ったのは昭和6年1月発行『講談倶楽部』p.21-・ この本は、作者が中島の生家を訪ねて両親から直接話を聞いたという意味の付記があるので信用されその後中島のことを扱う本の種本となったが、肝心なところはことごとく誤っている・ 中島家は代々水呑百姓となっているが間違い・ 《著者が調べた中島の家系詳細》・ 昭和10年4月1日発行『実話雑誌』掲載の「近世成金物語・飛行機王中島知久平」には「父粂吉は藍玉の行商などして生計を立てていたというから、決して裕福な生活ではなかった」とあるが、藍玉は染料だから行商するようなものではないので間違いp.24・ 13歳の折に将来軍人になることを決意したが、これについて正田満(中島家の隣人で歩兵第三聯隊の曹長。日露戦争の水師営の戦いで戦死し特務曹長)の勧めという説もあるが、三国干渉に対する憤りが原因p.41・ 知久平の出奔時の所持金は、親から盗んだ藍玉の売上金110円と貯金20円p.59・ これには300円、200円、150円の説などがあるがいずれも間違いp.62・ 明治42年「臨時軍用気球研究会」発足。発令は7月31日・ 6月31日、稀に7月30日としている刊行物があるが、これは明治42年11月博文館刊行大浦元三郎編 陸軍気球隊長工兵少佐徳永熊雄検閲『最近世界の飛行船』97頁の誤りが発端・ 同書には「陸軍省は、本年六月三十一日、軍用気球研究会条例を発布し、ついで八月二十七日、左の如く会長及び委員を任命…」とあるが、陸海軍の現役軍人と研究者による組織であり条例ではなく勅令により設置されたもの、また、会長及び委員の任命は28日である。七月三十日は勅令案の閣議決定日p.92-・ 中島は、明治44年の3、4月頃には航空機による魚雷攻撃により軍艦を撃沈する時代が来ると言っていたと言う機関学校同期の古市元中将の証言があるp.96・ イ号飛行船による飛行船の本邦での初飛行と2回目の飛行での中島の記録について知っている者は極めて少なく、中島の閲歴を書いてある雑誌でこのことに言及しているものはなく、単行本でも理学博士中村清二『田中館愛嬌先生』と航空協会発行『日本航空史』のみ・ その単行本にも誤謬がある《具体的な指摘あり》p.110・ イ号飛行船の試験飛行は明治44年10月27日で伊藤工兵中尉が2人の同乗者を伴い2回飛行・ 中島はその翌日に操縦。気球隊3名を同乗させ、高度400メートル、時間1時間40分、距離約3万3千メートルを飛行し、前日の伊藤中尉の記録を大幅に更新したp.113・ 明治45年6月26日海軍航空術研究委員会発足。・《当初委員19名のリスト》p.114・ 臨時軍用気球研究委員会は会長も幹事も陸軍から出していたばかりでなく、委員も御用掛の数も陸軍側が圧倒的に多く、予算面も陸軍の所管だったp.115・ 明治45年3月24日に開催された万国水上飛行大会(水上飛行機の大会)と、同年4月28日のアット・ウォーター(民間飛行士)の来日に刺激され、海軍独自の研究機関を持つべしとの意見が上層部にも受け入れられ、海軍航空術研究委員会が作られたp.116-・ 中島は米国飛行倶楽部から飛行士免状を得た日本人としては3番目。先の2人は民間人でともに事故死しているp.120《 当時の飛行機は本当に事故が多いのですが、そんな時代から飛行機を飛ばしていたわけですね。》・ 中島が飛行機工場長なり、最初に手がけた飛行機は大正2年7月に完成。「日本海軍製の第一号機」と呼ばれたカーチス式。P.126・ 渡仏前に中島は「大正三年度予算配分に関する希望」を海軍航空術研究委員会委員長山内四郎中佐に提出・ その中では、航空関係予算が削減されるなか、相変わらず飛行術の訓練に予算の大部分が振り向けられ、飛行機の国産化や改良にはわずかな金額しか割り当てられていないが、航空機が威力を発揮するのはその発達によるのだから、航空機構造の研究に重点を置き、飛行術などは飛行機の進歩により変化するので研究しても効果は疑わしい、と主張p.127《 正論ですね。》・ 大正5年4月に製作した単フロートの双発水上機は当時は先進国でも珍しいもの・ 中島はこれを雷撃機として設計し製作したが一度も飛行することなく終わった・ 当時としては大馬力のベンツ式150馬力×2を搭載していたが、当時三十数名いた操縦員の中でも数名を除くと百馬力以上の飛行機に慣れたものは無く、操縦員が怖がったものと思われるp.139-・ 大正5年に中島は「水雷落射機」を考案した。・ これについて昭和16年12月29日発行「讀賣新聞」掲載の記事の植松錬磨海軍少将の談話では植松少将から魚雷の威力を聞き「水雷落射機」を考案したことになっているが、既に明治41年には中島は航空機からの魚雷攻撃を考えていたp.146・ 中島が現役を去ろうと決意したのは大正5年の5月ごろと思われる《以下に著者の推論あり》p.147・ 《大正5年のことか?》造兵部の中には飛行機部が無かったので水雷部の一科とされていた。大正5年4月からは航空に関する行政事項は艦政本部を離れ軍務局の所管になったp.156・ 海軍では、機関学校を優等で卒業したものを機関中将まで昇進させる方針をとっており、病気以外での理由による途中退役願を認めないという伝統があったp.158・ 中島の退役願が認められたのは、教育本部員岸田機関少佐が鈴木貫太郎海軍次官に直接話を持ち込んだ結果p.163・ 《利根川河川敷の尾島飛行場創設の経緯。あれって中島知久平が創業初期に作ったのですね》p.166‐・ 群馬県庁、埼玉県庁ともに営利事業者には河川敷の占用許可を与えることができないというので、財団法人帝国飛行協会名義で占用許可を申請し、大正7年末頃許可を得た。協会と中島の間で費用は中島側が負担するという契約を締結した・ 中島の立ち上げに際して集まったのは、栗原甚吾(元海軍工廠の工手 東北帝大専門部機械科卒で発動機工場勤務)とその勧誘による、佐久間一郎、佐々木源蔵、石川輝次の他、中島門吉、奥井定次郎(海軍造兵部 飛行機工場の部下で図工)の6名・ 《佐久間一郎の略歴》p.170-・ 《中島知久平が予備役編入後に友人や先輩に出した「退職の辞」全文》p.172・ 創業時の社名は「飛行機研究所」《日本も中島もついてない》だったp.178・ 昭和15年10月1日付帝国飛行協会発行の月刊誌『飛行』の『製作工業会社の濫觴』と題する記事には、合資会社日本飛行機製作所が濫觴であり、所謂中島と川西の提携である、とあるがこれは誤り《赤羽飛行機製作所に次ぐ2番目、次が川崎とのこと》p.178・ 《医学博士岸一太と彼が創業した日本最初の飛行機製作会社「赤羽飛行機製作所」の創業から倒産に至る経緯》p.179-・ 岸一太は耳鼻咽喉科の専門医として名高く明治42年以来築地明石町で病院を経営、後藤新平の子分としても知られ、妻は美しいドイツ人というので評判が高かった・ 大正2年に井上幾太郎工兵少佐(のち大将)から航空機用発動機の試作を勧められ、ルノー70馬力を井上のはからいで借りて研究を始めたのが契機p.180・ 《大正3年に帝国飛行協会が行った「発動機製作懸賞」の結果》p.181・ 赤羽飛行機製作所の開所式は大正6年12月1日、大正10年2月には経営難の為工場閉鎖p.186・ 失敗の原因は、個人資金で創業しその後の資金調達に失敗したことと、機体や発動機設計ができる技術者がいなかったこと、最初から(小規模な製鉄所まで備えた)総合工場として大規模に立ち上げたこと、などp.187-・ 《中島知久平と井上幾太郎の関係、並びに井上幾太郎に関する記述》p.194-・ 井上と中島は臨時軍用気球研究会時代から面識はあった・ 中島は一型陸上機の設計が大体終わった頃、所沢に井上を訪ね、航空工業に関する話を交わし、その後支援を受けることになる・ 大正6年度の特別大演習にファルマン機(モ式六年型)14機が参加するため所沢から飛び立ったが、9割が故障で途中に着陸。演習参加中にも故障が続出し大問題となった。この問題の解決のために大島陸相に指名されたのが井上幾太郎p.197-・《井上幾太郎大将の略歴》p.198・ 大正8年4月15日 陸軍航空本部長(初代 在職4年)・ 大正12年3月 第三師団長。各務原の2個飛行聯隊と編成途上の浜松の爆撃聯隊を管轄し、3年以上その演練を指揮・ 大正15年7月28日 陸軍航空本部長(在職3年3ヶ月)、軍事参議官に親補・ 大正7年5月、川西の出資を受け中島飛行機製作所を法人に改組、合資会社日本飛行機製作所とし、その所長となる・ 資本金75万円、うち60万は川西清兵衛、15万が中島の労務出資・ 大正8年2月に陸軍より大量注文の内示。4月15日に中島式5型20機、機体だけの単価1万1千円を正式受注したのが初受注p.205・ このころ《大正8年?》の従業員数は約300人で前年の2倍p.206・ 《帝国飛行協会主催「第一回懸賞郵便飛行」の概要》p.207・ 《川西と中島の対立の概略》p.209-・ 中島がエンジンの売り物が少なかったためホールスコット150馬力エンジン(単価1万5千円)100基を《陸軍の意向を確認後》見越し注文したのに対して、川西側がキャンセルをしたが間に合わず商品が届いてしまったことが、対立に拍車をかけた・ 川西からの会社の買取資金10万円は武藤金吉の紹介により新田銀行(現群馬銀行)より借入。武藤は当時政友会群馬支部長、のち田中内閣の内務政務次官、昭和3年4月22日在任中に死去p.216・ 大正8年11月27日に川西と中島の間で契約を締結。内容は1)米国から輸入した機械全部を川西側に引き渡す、2)陸軍に納入した飛行機の代金を川西が受け取る、3)11月30日までに中島は川西に10万円を支払う、というものp.218・ 川西の引き上げ後に中島は運転資金に支障を来たしたが、井上幾太郎の仲介で三井物産との提携が成立し、資金面の問題は解消した・ 井上幾太郎の夫人の実妹が三井物産機械部長(当時 のち重役)中丸一平の夫人だった・ この提携により、三井物産は中島飛行機製作所が作った飛行機を一定の歩合をとって仲介する権利を取得。中島側も金の心配がなくなるとともに営業費を節約できた・ 陸軍機に対する仲介権利が解約されたのは昭和12年4月1日、海軍機に対する解約は15年7月1日。ともに軍部の命令による解約p.221《 三井物産に関しては、戦後でも北朝鮮が受領した援助物資を売却して資金化するのを手助けしたり、資源利権獲得の為に途上国要人のところに高級娼婦を送り込んだり、戦前でも、支那の占領地で物資の買占めをやって現地軍から出入り禁止になったり、軍に納入した食料品の缶詰の中身が石だったりと、全く良い話を聞かないのですが、何か初めて人の役に立った話を聞いたような気がします》
2008.09.14
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渡部一英『日本の飛行機王中島知久平―日本航空界の一大先覚者の生涯』(光人社NF文庫,1997) その1総合評価 ★★★★★松岡正剛氏が、本書の著者である渡部一英と中島知久平という題材の組み合わせを「ゴールデン・コンビである」と評しただけのことはあると思います。何故にゴールデン・コンビなのかを簡潔に述べると、著者が1) 中島知久平本人やその周辺の人々と親しかった (中島知久平に関しては本人が処分したために資料が非常に少ない)2) 航空関係の出版や協会に長く関与していたので明治から大正にかけての航空界の草創期の事情にとても詳しいという条件を満たしており、本書がどちらの面でも他の者には書けない内容となっているからだと思われます。そういう意味で、本書は中島知久平の伝記の決定版と言えるでしょう。また、本書においては本邦航空界草創期の古い文献や戦前の新聞記事などの誤りがかなりの数、具体的に指摘されており、摘録部分にも記載してありますがそういう面でも価値があるかと思います。一方で、中島知久平本人が政界入りしたわけですから当然のこととして本書の後半は多くが政界に関する記述で占められています。特に興味深いのは、政友会の分裂に至るまでの鳩山一郎との対立の経緯と、大政翼賛会成立前後の近衛文麿との密約や関係などについての記述でしょうか。この点、単なる飛行機に関する本ではない、と言うところは好みが分かれるところかもしれません。 ◇ 著者について明治23年5月3日、福島県出身。昭和32年8月没。「飛行界」「飛行少年」「国民飛行」などの主幹、主筆および「航空時代」社社長を歴任。国民飛行会の創設や帝国飛行協会との合併に参画、という経歴の持ち主とのこと。詳しい経歴などはわかりませんが、戦前の航空界の大立者なのでしょうか。著者が中島知久平の名を知ったのは大正元年、知遇を得たのが大正3年、以後数百回対談し、本人以外にも中島飛行機の幹部、政治家となってからの側近者、中島一門の人物も良く知っていた、とのことで一応伝記ではありますが証言者としての立場に近く、中島知久平の伝記作家としてはまさにうってつけの人物です。また、著者は航空関連の職歴が長く、特に草創期、明治から大正にかけての航空関係の事情にとても詳しいため、中島知久平の前半生を描こうとすればどうしても必要になるこの背景事情に関する説明においてもまさに適任者、そういう意味でこの人にしかかけない本、ということができるでしょう。 ◇ 本書について文庫で468ページ。昭和30年に鳳文書林より『巨人中島知久平』というタイトルで出版された単行本の改題文庫版です。著者自身に序文がありますが、あとがきなどは無く特段の断りもないので単行本と同じものと思われます。また、特に編集者による注釈などもなく、文庫版の刊行に伴う事実関係の確認などは特に行っていない模様です。 ◇ 内容と雑感本書の改題前のタイトルどおり、まさに「巨人中島知久平」とでも言うべきでしょう。中島知久平については、米本土爆撃用重爆の開発構想を取り上げて笑い物にするか、ちょっと頭がおかしいような扱いがなされる場合が多いわけなんですが。・ 日本での飛行船による飛行での2人目の操縦者(初飛行の翌日に操縦)・ 海軍製第一号飛行機の製造(外国機のコピーですが)・ 日本人で3人目の米国での飛行士免状取得海軍機関学校を3位で出て海軍大学校選科学生のエリートなのに、航空機のような日進月歩の物を開発するには官業は非効率すぎる、として飛行機製造会社を立ち上げたり、明治時代に航空機による雷撃で戦艦を沈める時代が来ると発言したり、技術に関する知識も先見の明もあり、逆に言えば大きくはずしたのはこの爆撃機の件ぐらいではないかと思います。また、・ 資本を出した川西との内紛から今で言うマネジメントバイアウトを実施・ 事業の資金を政治活動には使わないとして株でもうけて政治資金をつくる・ 政友会の総裁にまでなっているなど、技術だけの人ではないのも明らか。巨人という表現があながち大げさではないのは結果を見ても明白だと思います。本書の中でも、大正6年に予備役編入後、飛行機研究所を立ち上げた際に友人や先輩宛に中島が送ったとされる「退職の辞」(172頁以下に全文あり)は最も印象的な文章です。この文章における、航空機の重要性に関する先見の明もさることながら、官業の非能率の指摘については全面的に賛成できるもので今日にも通じるものがあるかと思います。しかし、それ以上に印象的なのは日本が欧米に航空機生産において遅れているのは日本人が駄目だからとか、日本の基礎技術がどうとかいうような山本五十六や戦後の海軍軍人のような泣き言が一切無いこと。彼の、官業による非効率を脱し(また自国起源の技術に固執さえしなければ)技術面でのキャッチアップは充分可能、という認識は1950年代には結果として正しかったことが実証されているのではないかと思います。また、彼自身が海外で航空機関係の技術を学んだからか、昭和に入ってからも積極的に海外から技術者を招致して発動機の設計を行うなど、明治初期の軍人にはなかったのにその後(特に海軍で)顕著になってしまった自国起源の技術への意味の無い固執が全く見られないのも中島知久平が当時の海軍軍人と隔絶しているところだと思います。ただ、その中島であっても、この人が無ければこんなに急速に中島飛行機製作所(というか日本における航空産業)は発展しなかっただろうという人物として、井上幾太郎陸軍大将との関係が本書では丁寧に書かれています。井上幾太郎大将に関しては長州閥の4代目、航空本部長として草創期の陸軍航空を語る上では欠かせない人物なのですがあまり研究されていないようで、大正期の陸軍に関する研究でも同じ長州閥の大井成元とともに穴ではないかと思います(どういうわけか長州閥では田中義一にばかり研究や話題が集中しています)。現在では入手が容易な伝記すら存在していないため知名度も低いです。良くも悪くも長州閥らしく、技術や新兵器に関する先見の明があり、軍工廠よりも民間会社の育成に重きを置き(その結果、長州閥は軍需産業と癒着しているとの批判を受けやすかったわけですが、実際のところ軍需産業は儲からないんですけどねぇ…)、海外からの技術導入や技術者の受入についても積極的。九七戦に至るまでの陸軍航空戦力の順調な整備の進捗は中島と井上の両者の功績と言ってもいいのではないかと思います。さて、話は変わりますが、本書では古い文献や新聞記事の誤りがかなりの数、具体的に指摘されています。どうも昭和初期の雑誌や新聞の人物伝や伝記というのは特に加減なものが多いようですね。特に中島知久平という人物が自身の位記や勲記などに至るまで、自らの伝記の資料となるようなものを片っ端から処分していたという事情からそうなるのかもしれないのですが、本書において著者がいちいち否定している中島知久平の―特に比較的若い頃の―エピソードなどを見ると、何の根拠も無く適当な事柄を捏造して書いてあるものが多くあることに驚きます。そこで、知りあいの近現代史の研究者に聞いて見たのですが、戦前から戦後にかけての人物の評伝にはろくにリサーチもせずに書かれたいい加減なものも結構多く見受けられ、特に編纂委員会のような形式で事実上の匿名によって書かれるものでは、ろくに資料も見ずに事の真偽ではなく参加者の多数決で内容を決めていた、などというとんでもない話もあるそうです。そんなわけで、古い評伝などを読んで書いてあることをそのまま真に受けると痛い目にあう可能性があるので気をつけたほうがいい、ということを本書から学びました。ここまで本書をべた褒めしているわけなんですが、じゃあ本書で抜け落ちているのは何か、と言えば日進月歩の目まぐるしいスピードで進歩していた当時の航空界の様子はそこそこ丁寧に描かれている一方、その航空界の発展が戦前から戦後にかけて如何に青少年の心をとらえていたか、という部分でしょう。その点を補っているのが前述した村松正剛氏の本書に関する書評。特に稲垣足穂が飛行機好きだった、という部分はちょっと意外な感じがしておもしろかったですね。(つづく)
2008.09.13
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今日もいつもと同じ通勤電車に乗ってみてすごく人が少ないのに気が付く巷ではお盆休みなんだよないまの常駐先にはそろそろ3年になるけどお盆休みが無いそんなわけでお盆休みが無い夏というのもすでに3年目そんなに残業もないし収入も悪くないし、土日祝日と年末年始は全部休めるし、おまけに金曜日は4時間であがれることもある結構いい条件なんだけれど、お盆にスーツ着て電車に乗っているときだけはなんか損してる気分。そんな気分になって、ちょっと去年のことを思い出してみると、たしか去年も同じようなことを考えたような気がします。なんか進歩してないなぁ…お盆といっても特に旅行などには出かけないのですが、金曜は友人と東京都美術館(混んでたら国立博物館か西洋美術館)、土曜日は高校時代の友人とカラオケ+食事、その次の週はまた別の人とプールでも行こうか、なんて話しになっています。そんなわけで、読書記録の更新がしばらく途絶えがちになりそうです。気が向いたらフェルメールの絵を見た感想なんかを書くかもしれません…昨晩はそんなお盆の打ち合わせを電話でしながら、片手間にフリーページの「読書記録一覧」をひさしぶりに更新しました今回は、直近に読書記録を書いた7冊分を追加しています。もうすぐ100冊になるのかなわれながら仕事がある身でよく続いていますね ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.08.12
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フランク・オーエン著 永沢道雄訳『シンガポール陥落』(光人社NF文庫,2007) その3 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません第七章 スリム河の惨劇・ 《1月6日、7日以降のスリムリバー周辺の戦闘において》日本兵はハイウエー本道が直線化されたため不要となったループ道を利用しはじめ何度も陣地の背後に回りこみ、その後本道を戦車がやってきたp.108・ スペンサー・チャプマン大佐のレポート。日本兵の進撃の様子。服装は各人まちまちで軽装。4,50人の集団で自転車を利用。英軍の兵士が完全装備なのと対照的p.110《帝国陸軍って軍律が厳しいはずなんですが、こと服装に関しては(特に南方)兵士も好き勝手やっているのが不思議です。将校も小銃以外はあまりうるさく言わなかったみたいです》・ 落伍兵は樹上からの狙撃を受けたp.110・ 《スリム河の惨劇の》災厄の原因は対戦車防御、突破された後の後方への警告の遅れ、適時に橋を爆破できなかったこと、などがあげられるが、パーシバルによると、一ヶ月にわたる後退戦闘による肉体と精神の疲労p.113第八章 ジョホールへの退却・ 1942年1月23日に到着した増援第三派には全く訓練を受けていない部隊があったp.115・ 豪州軍司令官ゴードン・ベネット少将によると、指揮官の積極性にも問題があったp.115・ 数で圧倒していたが、日本空軍《陸軍航空隊?》の地上軍支援はお粗末だった《ここも翻訳に問題か?いわゆる近接航空支援の問題ではないのか―偵察に関しては効果的なようですが》・ マレー諸都市の爆撃では日本軍は真の勝利を誇っても良い。p.120《航空撃滅戦の成功について、ここで言及が無いのが妙ですね》・ レーダー網が不備のため、バッファロー戦闘機が迎撃高度の6000メートルまで上昇するのに必要な30分前の警報すら出せなかった・ ゴードン・ベネット将軍は著書で、日本軍は誘導電波設備をジョホール堤道近くのどこかに隠し、侵入機に規則的な信号を送っていたと言っている(所在の探知は機材が本国から届かなかったのでできなかった・ シンガポールには日本の爆撃機に届く3.7インチ高射砲がほとんど無かったp.120-・ プリンスオブウェールズとレパルスの生き残りはどこでも重宝がられたが、クアラルンプールからの撤収においては大部分の列車の運行に当たったp.124・ 英国増援第三陣の18師団第53旅団グループは2線級の地方軍で3ヶ月も海上を移動、車両は保有せず。高射砲連隊2個、対戦車砲連隊1個も来たが砲は持っていなかったp.126第九章 ムアルの戦い・ 1月11日のムアル港への爆撃は水道や発電所に勤務するアジア人労働者の離脱を引き起こし、引き続きカーフェリーの乗組員と桟橋人足がいなくなったp.131《 こうしたケースについて、単に現地人が臆病なので逃亡したのか、空爆を合図に職場放棄するよう宣伝工作が行われていたのか、という点は本書を通じて触れられていません》・ 《1月20日の戦闘において》日本軍の重戦車が出動してきたp.142《日本軍の重戦車って何でしょう?八十九式を見間違えた》第十章 最後の道のり・ オーストラリアの公刊戦史『極東の戦い』が記すように、チャーチルも三軍参謀長も、シンガポールへの途上にある増援の行き先を《ビルマへ》変更する事をためらい、結局ビルマへの変更は行われなかったp.150《一次対戦のガリポリもそうですが、チャーチルはこういう戦略的判断では初歩的な問題でもミスが見られます》・ ジョホール州ブキトバナン地域で日本人はゴム園や鉄鉱山を買い入れ発展させ、日本人に好意的な地域社会を作り上げていた。以前のここの日本人住民の一人が歩兵聯隊長としてこのとき日本軍にいたp.154《予備役で聯隊長?それとも諜報活動として長期滞在していたのでしょうか。訳注がほしかったところです》・ 1月27日《ここの日付は前後関係がおかしいです。誤訳もしくは誤植かも》増援として第44インド旅団と7000人のインド補充兵が到着したが未熟で経験不足。かつてのインド陸軍のバックボーンだったようなタイプの下士官はほとんどいなかった。大部分は前線ではなく演習場に送られたp.156第十一章 かの“シンガポール要塞”・ 北部と西部の防御施設は《シンガポールが戦場となる》数週間前にウェーベル大将も催促したが、ほとんど裸で放置された。大きいのは、民間労働者の空爆を契機とした職場放棄p.171・ ジュロン・ラインでは射界を広げる為の伐採はかなり進んでいたものの、対戦車壕はほとんどない状態だった・ 防御工事の人手以外に、海岸線が110キロもある為に防衛兵力も不足。防衛兵力は85000人、うち15000は後方要員p.172・ 極東における戦争の勃発前、シンガポールの水の消費量は2500万ガロン/日《工業、農業、一般の総計)、そのうち1000万ガロンは本土の貯水池からパイプラインで運ばれ、残りは島の河で集水した3つの貯水池から給水p.176・ ダンプ(臨時の弾薬・軍用品集積所)は空襲を避けるために島内に広く分散していたが、これが地上攻撃で奪われる可能性が出てきた。特に大規模なものはシンガポール市ではなく島の中央部にあった。例えば軍の主たる食料貯蔵所はブキテマ付近・ 最大の弾薬庫は島の北側に位置しており、ジョホール側からの砲撃にさらされていたp.180《半島の要塞が、海側の防御に重点を置いており、陸側からの攻撃により比較的容易に陥落したケースとしてはノルマンディー上陸後のシェルブールが思い浮かびますが、やはりこうした防御施設の配置の問題はあったようです。対照的なのはセバストーポリで、そこでは陸が防御上最重要な正面とされていたようですね》・ 海軍基地の破壊については「Q計画」という緻密な破壊プロジェクトを海軍工廠スタッフが実行する予定だったが、スタッフがシンガポール市とセイロンに退避したため、第11インド師団工兵隊が実施することとなった・ このことが、マレー軍司令部どころか第3軍団司令部にすら伝達されなかったため失敗p.181・ 2月5日からシンガポール市の包囲が始まったといってよい。2万2000メートル彼方のジョホールの日本軍放列から砲弾が政庁庁舎に落下した《 本当にこの距離なのでしょうか?何かの間違いではないかと思うのですが》第十二章 シンガポール陥落・ 《日本軍の上陸前後に》野戦電話設備が終日の砲爆撃と、日没後にジョホール水道に引き出された舟艇からの迫撃砲砲撃で粉砕された・ 海岸の探照灯は早々に破壊されることの無いよう、隊長の直接命令以外での照射を禁ずる命令が第22オーストラリア旅団司令部から出ていたが、命令が無かったので日本軍の上陸を照射することは無かった。これも電話線の故障によると思われる・ 砲兵も日本軍がシンガポール島に足場を得るまで沈黙していた。これも同様に通信線の破壊によるものらしい。更に歩兵の信号弾はカートリッジが湿気で膨れ上がって信号銃の薬室に収まらないため使用できなかったp.185・ 舟艇機動のほかに千メートル近い水道を泳いでくる兵もいた。銃と装備を頭上にくくりつけ、たいていの者は進路を知るために手首に磁石計をつけ、目標となる一定の地点もしくは人間のいる所に着くよう指示されていた。日本軍はずっと以前より第5列を組織しシンガポール島内に展開させていたp.187・ パーシバルはシンガポール市外周への後退計画を立案し、2月9日夕方、ヒース中将、キース・シモンズ中将と協議の上、2人とゴードン・ベネット少将とそれぞれの参謀長に文書化して手渡した。事態の急進展で命令が出せないときに備えたもの。・ この命令は、厳密に個人宛のもので(参謀以外)他に見せてはならない、としたがゴードン・ベネットは部下の上級指揮官全員に見せたp.192《 この結果、勝手な後退が行われ非常な混乱を来たす様子が以後に詳細に描かれています。これを見ると兵力規模はやや少ないながら、より激しい砲爆撃にさらされ長期にわたる戦闘の後に行われた沖縄の首里外郭陣地からの後退は敵からも高い評価を受けている理由が良くわかります》・ 第27オーストラリア旅団のD・S・マクスウェル准将は2月9日朝からブキマンダイの丘の陣地への後退計画を持っていた。ベネット少将は許可をしていないと主張しているが、2月9日/10日の深夜にかけて旅団の前衛部隊は後退命令を受領。マクスウェル准将は正式な許可を得ていると主張しているp.195・ この結果、ジョホールの堤道は放棄され日本軍の手に渡った・ 堤道の破壊は不十分で、干潮時には人がやすやすと渡れ、英兵が立ち去ると日本軍は早速修理を開始した・ この堤道地帯からの撤収は第27旅団の上級司令部も10日の夜明けまで知らなかった。P.196・ H・B・テイラー准将はゴードン。ベネット少将から、《先述の》パーシバル中将の指令のコピーを受領し、それをシンガポール周辺への撤退の直接命令と勘違いしたp.197・ この頃《2月10日―日本軍の上陸開始は8日夜ですからわずか2日目です》には各隊長は総司令部命令なるものの写しを受領しており、シンガポール突出部を再編成するという趣旨で即時実行すべしという誤った解釈が付されていた・ これにより、ジュロン・ラインからの総退却が開始されたが、相互の通信が断絶し移動が調整されなかったのでまもなく完全に統制を失ってしまったp.198第十三章 最後の抵抗・ 《2月13日》軍隊の乱脈はシンガポール市内部でもつのりつつあった。飢えた落伍兵が流入し、武器を持つ脱走兵も危険な規模に膨れ上がり、地下室に隠れたり、略奪目的で群れをなして市中をうろついていた。船にもぐりこんだり銃を突きつけて漁船を盗む者いたp.209・ ペナンの放送局からは、昼夜のべつなくウソの宣伝が行われ、英軍がひそかに撤収する、戦線離脱、坑命、民間人の暴動や蜂起など・ 2月12日おそく、強力なアメリカ軍がペナンに着いたという噂が広まり、守備隊の戦意が高まったが、このニュースが途絶えると戦意はがた落ちとなったp.211・ 香港陥落の際、日本兵が看護婦達を暴行したという噂があり、シンガポールの民間処分計画では150万本の洋酒と6万ガロンの中国酒を既に処分していたp.214・ シンガポールでは防空壕の建設の遅れにより市街地への砲爆撃により多くの死傷者が出た。これは、市当局がシンガポールが沼地の上に建てられており少し掘ると水が出て蚊の発生源になるとして妨害したためp.219・ 日本軍は2月10日には全ての貯水池を押さえたが、なぜか給水を止めなかった。理由はわからないp.230・ 2月15日の時点で軍用食料の備蓄は数日分に減少、小火器用の弾薬はかなりの分量があったが、野砲弾は払底、高射砲弾は皆無p.224(了) ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.08.08
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前にも書いたかもしれませんが、わたしは自分の部屋では冷房どころか扇風機も使用しない(冬も暖房はほとんど使わない)という生活をしています。仕事が経理・財務・法務などの事務所内での作業なので、なるべく家では冷房に当たらないようにしようという考えなのですが、周りの人に話すと信じられないという反応が返ってきます。ちなみに夜は、週に5、6回のペースで1時間ほど自分の部屋で筋トレとストレッチをして汗をかいてから風呂に入って寝ることにしているので、あまり寝苦しいとか寝付けないということは無いです。そうは言っても、私の部屋は南がベランダ、西が出窓と日当りがよく、西日がとにかく厳しいのでどうしても自分の部屋では読書をする気になりません。(まあ、自分の部屋にいるとゲームとかで時間をつぶしてしまうというのもあるんですけどね…)そんなわけで、休日はどこか喫茶店などで読書をしながら読書記録作成をしていることが多くなります。今週も、金曜日に仕事がはやめに終わったらいつもどおり渋谷に出てセガフレード・ザネッティで何か甘いものでも食べながら、フランク・オーエン『シンガポール陥落』(光人社NF文庫)の摘録作成があと少しでおわるので、それを完成させて、次の・ 渡部一英『日本の飛行機王中島知久平―日本航空界の一大先覚者の生涯』(光人社NF文庫)に取り掛かりたいと思っています。自動車メーカースバル(富士重工)の前身、中島飛行機の創業者の評伝ですね。既に一度ざっと読んでいるので、再読しながらの摘録作成作業になります。この本については松岡正剛氏が2001年に書評を書いていますが、彼の少年時代には中島知久平は結構有名だったらしく、本書にもかなり影響を受けたそうです。実際、読んでみると面白い本でした。でも、ちょっと量が多い本なので土曜日中に読書記録を仕上げるのは難しそうですね。
2008.08.07
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フランク・オーエン著 永沢道雄訳『シンガポール陥落』(光人社NF文庫,2007) その2 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません第一章 旗は失われなかった・ 山下奉文中将は降伏式を行うよう主張。虜囚を辱めようとする、日本人らしい尊大さと巧妙さの工夫であるp.12《 降伏式典の実施に対するこの批判は妙ですね。病人を含めた捕虜を赤の広場で見世物にした国の同盟国がそんなことを言えた義理なのでしょうか。降伏式典の実施自体は当時の国際法的には白に近い灰色ですが、故意に下級士官や兵士に至るまでを病人を含めて見世物にするソ連やドイツ行為は明らかに違法です。だからその点日本は巧妙だって言うのならまあそうですけど…》・ パーシバルによれば降伏文書は一通しかなく、それを日本軍が持っている 「確か、私はコピーを受け取っていない。だから実際の降伏条件は正確には再録できない」p.13《そういえば関東軍のソ連に対する降伏文書も日本側には無いですね。それが瀬島龍三が批判されている一因になっているわけですが、これが当時の慣習だったのでしょうか。》・ 捕虜のうちインド兵は他の英豪軍から隔離され、インド人脱走兵から「インド国民軍」への志願を勧められ、多くの者がころんだが、グルカ兵は一人も落ちなかったp.16・ 《戦後のシンガポール陥落に関する英国の調査について》p.16-・ 1951年にチャーチルは「関係した将校と兵士の公平のためにも、戦闘がおわった後すぐ、あらゆる状況について査問するべきだと考えた。だが政府委員会はいまも作られていない」・ 公式の英国政府報告書が出たのは1957年。これとて対日戦争の包括的な歴史にしようという試みは放棄している第二章 赤信号は無視された・ われわれ《英国側》は、秘密機関により日本人が東南アジアに入念な諜報網をつくりあげたことを知っていた。この地域では理髪店と写真屋の2軒に1軒は日本人だと思われていた。海軍基地の対岸のジョホール海岸線はスパイに調べ上げられた・ それでも《スパイの》連中が無事に仕事を続けられたのは、情報組織である極東合同ビューローが彼らの通信文を傍受解読でき、やり取りする情報に結構価値があると評価されていたからp.20《 スパイを見つけても、捕まえてしまうとまた新たな潜入が試みられ、今度は監視できないかもしれないから泳がせておいて、彼らが本国に送る報告と行動を監視する、というのは『FBI対CIA』にもありましたが諜報の世界ではよくあることのようです》・ 《田中上奏文に関する記述。1960年当時の英国において田中上奏文がどのように考えられていたのかを知るにはいいかと思います》p.21・ 1941年の秋。マレーとシンガポールの英軍は弱体な2個師団に航空戦力は約160機・ しかし、日本軍の優越性は量よりも質にあった。マレー志願兵以外はジャングル戦の訓練をマレー到着前には受けておらず、戦闘訓練さえしていなかった・ 《パーシバルによる到着した部隊への評価》p.29・ 《昭和16年》11月29日夜、シンガポールとマレーの映画館でスクリーンに「全英豪軍人は直ちに部隊に出頭せよ」との告示が映し出された・ 翌日《11月30日》情報部が駐独大使宛の東京の暗号電信を捕捉。ドイツに対英米戦の勃発の危険を警告するよう指示する内容p.34・ 最初の日本の爆弾がシンガポール市に降り注ぐときまで、華やかで贅沢な社交生活が続いていた・ トップレベル以外は有色人種とは簡単には溶け合わなかった。オーストラリア兵だけはマレー現地民とうまくやっていたp.36・ 12月6日正午頃、オーストラリア空軍のハドソン機がコタバル沖300キロで戦艦1、巡洋艦5、駆逐艦7、商船25隻の船団を発見した旨を報告・ 1時ごろには別のハドソンが巡洋艦2、駆逐艦10、商船約20の船団を発見と報告。このハドソン機は日本軍機に追跡された・ 報告を受けた極東軍総司令官ブルックポパム大将は「第一級戦闘準備」の発令以外何もしないことと決めた。日本軍はタイに向かっているとの判断によるp.37・ シンガポールでの灯火管制演習は9月に2回行われたのみ。シンガポールの民間防衛は行政の管轄で軍との効果的な連携は無かったp.39第三章 国境を越えて・ 《戦前の英国側のマレー・シンガポール防衛計画の推移》p.44-・ 帝国防衛委員会は、英本国からの救援が海路シンガポールに到着する《見込》期間を、1939年に70日から90日に増やした。1940年には参謀本部がそれを180日とした・ 1940年11月22日付チャーチルの海軍大臣アレクサンダー宛手紙―優勢な主力艦隊が真珠湾かシンガポールにいる限り、日本海軍が根拠地を遠く離れるとは思えないp.45・ シンガポール要塞の持久機関が2ヶ月から6ヶ月に伸ばされたのに伴い、守備隊と民間人用の食料備蓄を6ヶ月に増やすように提案されたが、1941年12月時点でも準備にすら取り掛かっていなかった・ パーシバル本人がマレー軍司令部参謀だった1937年、日本軍のシンガポール攻撃についての認識と対策プランをつくり、その秋の帰国時に陸軍省に提出している・ その執筆に当たりパーシバルは日本の陸海合同演習を視察し、特殊な上陸用舟艇《大発のことでしょうか》をたくさん使っているのを見た。また日本の造船所で18ノット級の商船隊が建造されていることに注目したが、デッキは貨物より乗客向きにできている《これは日本に多かった貨客船のことでしょうか?特に兵員輸送に適した貨物船を建造したわけではないと思うのですが…。もしかすると陸軍の特殊船のことかもしれません》p.46・ 1938年5月、マレー軍司令官ウィリアム・ドビー少将は、北方からの攻撃がシンガポール要塞の最大の危険であり、北東風モンスーンの期間中も実施できる。たいていのジャングルは歩兵の通過は不可能ではない、と書いているp.47・ 1940年4月、マレー軍司令官ボンド中将の積算。日本軍の攻撃は南部タイより行われるが、国境線は数ヶ月持ちこたえられる。必要兵力は4個歩兵師団、3個機関銃大隊、2個戦車連隊。適切な空軍力(第一線機566機)があれば3個師団+数個の対戦車砲・装甲車隊p.47《航空兵力の評価が数百機で1個師団+2個戦車聯隊程度というのは1940年としては低い評価だと思うのですが》・ 英軍も南部タイで私服の将校による偵察を実施。日本もイギリスも熱心であり多くの旅行者を送り込んだのでよく鉢合わせしたp.49・ 当時マレーは世界の半分のゴム、三分の一の錫を産出し、戦争初年度9800万ドル、2年目は11ヶ月で1億3500万ドルを稼ぎ出しており、労働者やその管理者を防御施設の工事に使うべきかどうかという問題があった。ここで英国政府は、召集免除の基準は総司令部の判断ではなく、必要な生産の維持と効率的な労働管理と決定p.50第四章 巨艦沈む・ マレー戦の間、敵の秘密無線がシンガポール~ジョホール地区から日本軍の前線にメッセージを送っていたとパーシバル将軍は信じている。発信源の探索は全て失敗p.59・ 《レパルスに対する最初の航空攻撃において》水平爆撃機の編隊による攻撃の前に爆撃機がレパルスめがけて舞い降り、その強力な対空砲火をひきつけた上で旋回して行った。巧妙な牽制。それも一回だけではない。p.63 第五章 国境の南・ 12月10日の夜明けには活動できる英空軍機は100機強から半分に減少。2日間の戦闘で空軍力は10対1になってしまった。防空に充分な高射砲や有効な警報システムが欠けていたため、給油や弾薬補給中に捕捉されたp.71・ 12月9日にはクアンタン飛行場から撤退(以後は前進着陸地として使用)。どう飛行場には高射砲は一門も無かったp.71・ 《撤退時の資材の》爆破のタイミングは厳密に調整されていた。早すぎると爆発音・閃光・煙が《前方で》交戦中の部隊にパニックを引き起こす。そこで、燃料はエンジンで浪費し、建物は引き倒し、爆破は工兵に残しておくようにするよう指示が出された・ パニックに襲われた軍人が民間人の車や公営バスを銃で強奪したp.73・ ロンドンの戦時内閣からは無制限の焦土方針―鉄道、橋、港湾、電力施設、給水設備、食糧倉庫等の破壊が―訓令された・ この破壊は「アジア人のアジア」という日本のプロパガンダの下では実行しにくいものだった。シンガポールとロンドンでやり取りがあり、給水設備、発電所、民間に引渡し済みの食料を除外したp.73・ 12月10日のペナン島空襲では死傷者は千人台を数えた。ペナン島はペナン要塞と称されていたが防空施設は無く、本国が約束していた高射砲は未着p.74・ 《ジットラにおいて》雨の中、水浸しの土地に敷設した野戦電話用ケーブルは多くが役に立たなかったp.76・ マタドール作戦の放棄の悪影響。前進防御の訓練のためにジットラ陣地の強化を行う時間が奪われた。また、これに伴う命令変更の多発は混乱と士気の低下をもたらしたp.82《最初から手堅く陣地防御しとけばいいんじゃないでしょうか…》第六章 北部マレーの失陥・ 《ジットラ陣地からの後退中》南進中にマレー服で擬装した日本の狙撃兵が紛れ込んだp.83・ グルン付近の十字路は、戦争勃発前から防御拠点に選定されていたが、準備は何もできていなかった。過去一週間、民間の労働力を大量に集めて軍の監督下に作業を進めるように指示されたが、陸軍省が賃金を民間の相場より安く設定したため労働力があつまらなかったp.84・ 12月13日にはプリンスオブウェールズとレパルスの生き残りの水兵50人がペナン着。空襲で逃げた現地人に代わりフェリーを運航するためp.88・ ペナン撤退において、英領マレー放送局の建物と施設の爆破に失敗。1週間しないうちに激烈な反英宣伝が流れ始めた。また、小船、はしけ、ジャンクを沈めず、特に2ダースの自力推進船《これが適切な訳語かどうかは不明》が日本軍の手に渡り、マレー西海岸での海上機動に利用されてしまったp.89・ 損害の出た第6、第15旅団の統合が決まり、第6・15改変旅団となった。同様に大隊の“結婚”も行われたp.95《旅団、大隊の統合というのは帝国陸軍では行わないですね。任務別に支隊はよく編成しますが。》・ サー・ヘンリー・パウナル陸軍中将が12月22日にシンガポール着。極東総軍司令官の地位をサー・ロバート・ブルックポッパム空軍大将から引き継いだ。この人事は日本に参戦の一ヶ月以上前にチャーチルの了承を得ていたが、実行を三軍参謀総長に抑えられていたのを、下院議員ダフ・クーパーの主張で実現したものp.96《この時期の英国でも政治家の人事介入を参謀本部が好ましく思わず抵抗するということはあったようです。ちょっと意外ですね》 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.08.06
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ここ3ヶ月ほど読書記録の作成をサボっていましたが、その間にも実は結構本を読んでいたりします。まあ、どんなものを読んだかざっと書いてみますとこんな感じです・ 児島襄『平和の失速―大正時代とシベリア出兵』(文春文庫) 全8冊大正時代については漠然と「大正デモクラシー」のイメージで語られることが多く、かくいう私もそんなに詳しくは知らないのですが、本書には大正年間の国内政治、外交交渉、世相などが時系列で丁寧に書いてあり、大正時代の大まかな流れを網羅的に描いているという類書が無いものなので一度読んでおいた方がいい本だと思います。とにかく分量が多いのが難点といえば難点なのですが、大正時代の概観をつかむ為にいろいろな本を探して読み比べ、つなぎ合わせる作業をすることに比べると、どう考えても本書を読んでしまったほうが手っ取り早いでしょう。この本の中で重用されているのは原敬、山縣有朋、牧野などの日記類あと、なぜか新聞の引用については東京朝日新聞が多いのは目立つところかなあと、大井成元って軍事参議官にまで出世していて重要人物なんですけど、あまり研究されていないらしいですねぇ。また、原敬暗殺の背後関係に関してはもう少し突っ込んで調べてほしかったですね。・ 藤木久志『土一揆と城の戦国を行く(朝日選書)』(朝日新聞社)・ 藤木久志『雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社)下のほうは新版が出ているのですが古本で買ったので旧版だって、左翼学者+左翼新聞社の組み合わせにお金を落としたくないんだから仕方が無いでしょ…というわけで典型的な左翼学者―主体思想研究とマル経で有名な立教大学の名誉教授、当人に限ってみても護憲派―なのですが、少なくとも本を読んでいる限りではマル歴独特の妙な用語の使い方とかもしないし、牽強付会に疎外論や階級理論に話を持っていくことも無い、という意味ではとても常識的な論理展開で面白い本。(でも朝日だから買わない。さんざん罵倒し続けた「論座」の廃刊が本当に嬉しくて…)著者には全くその意図はないと思うのですが、中世から近世へ、戦乱から安定への移行に関する豊臣秀吉の功績の大きさを認識しましたそういえば、戦前は織田信長より豊臣秀吉の方が偉大だという考え方が主流だったみたいです(徳富蘇峰はこの点では少数派だったらしい)。織田信長は概ね日本人しか殺してないから占領軍が意図的に祭り上げたに過ぎない、と知人の研究者が言ってましたね…この著者、反欧米、反キリスト教だからかどうかわかりませんが、キリシタン大名が火薬ほしさに日本人を奴隷として売り飛ばしていたとか、豊臣秀吉のキリシタン弾圧はそういう人身売買をやめろと警告した上でやめないので実施したものだ、とかいう事実を書いたら、本人も予想していなかったことに反米保守や右翼から絶賛されてしまって迷惑しているという愉快な状態になっている人。でも内容的には面白いし、しっかりしている本でした。マーク・リーブリング著 田中昌太郎訳『FBI対CIA―アメリカ情報機関 暗闘の50年史』(早川書房,1996)ハードカバー2段組で600ページ近い大著。これもとても興味深い本でした。原注と参考文献が翻訳時に省略されてしまっているのが惜しい。フーバーの強烈な個性と採用方針により確立されたFBIの質実剛健な組織風土が、当初よりディレッタント的で高学歴者優遇のCIAとの間での軋轢の一因となり2つの機関が対立する様相あとは、お決まりの縄張り争いそうした対立に政治がからんで更に複雑化し、更にはもっと根本的なところでは防諜に関する両者の基本的な考え方の差があるのでやはりそこでも対立戦後の米国の諜報活動を概観するという点では、著者自身はCIA(というか諜報におけるCIA的なアプローチの有効性)に好意的なのですが、大きく偏向することなく両機関の関係の変遷とその間に生じた主要な事件が記述されています。学術書ではなく、ジャーナリスト的な書き方なので読みやすいほうなのですが、読んでいて考え込むことが多く時間のかかる本でした。ソ連の崩壊自体がKGBによる諜報(宣伝)工作、という指摘は昨今のロシア事情を注視していると気味が悪いものがあります。ゴルバチョフを擁立したのはKGBですし、共産党はなくなりましたがKGBは名称だけ変わって今も健在です。ケネディ暗殺は、カストロ暗殺を仕組んだCIAがキューバがらみの人脈を逆用されたものでそれゆえに情報公開できない、とかBCCI事件ではイラクに核兵器開発用資材を販売する商社にはCIAの工作員が要所に潜入していて、おかげでイラクがいつ原子炉を稼動状態に出来るか、どこにどのような核関連施設があるかを全て米国側は把握していたから後に正確な攻撃が出来た(同時にBCCIの捜査でこのことが明らかになるとイラクの核開発状況が把握できなくなるので困る)とか、いろいろ面白いことが書いてあります。以上は、今のところ読書記録を書くつもりが無い本(というか手に余る本…1冊に1ヶ月かかるかも知れません)他に一読した後、読書記録作成準備中のものが6冊ほどありますが、そちらのほうはそのうちこのブログに載せますので気長にお待ちください。 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.08.05
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フランク・オーエン著 永沢道雄訳『シンガポール陥落』(光人社NF文庫,2007) その1総合評価 ★★★☆☆原著は The Fall of Singapore(1960)シンガポール陥落といっても普通の人にはピンと来ないでしょうが、1942年の当時においては日本側でも開戦からたったの70日で英国の要塞化された重要拠点を攻略したというので提灯行列に記念切手の発行と大騒ぎをしていたわけで、対する連合国側でもあの名著『ジョセフ・フーシェ』の著者シュテファン・ツヴァイクがシンガポール陥落の報を聞いて絶望して自殺してしまったくらいのショッキングな大事件だったわけです。本書は、そんな当時としては歴史的な大事件であったシンガポールの陥落について、開戦前の諜報戦の段階からマレー半島での戦闘を経て、シンガポールでの降伏までを一通りなぞった英国側の視点から見た簡潔な戦史となっています。類書で入手が容易なものとしてはノエル・バーバー著 原田栄一訳『不吉な黄昏―シンガポール陥落の記録』(中公文庫,1995)があるのですが残念ながら未読なために比較はできません。分量的には本書はその半分以下ではあるものの、日本に奇襲を許すに至った経緯からマレーでの緒戦以降シンガポール陥落に至るまでついに混乱を収拾し切れなかった英連邦軍側の様子が一通り網羅的には書かれています。 ◇ 著者・翻訳者について著者は1905年生まれで、戦後最初にシンガポールに入った英軍将校の一人とのことですが、所属、軍歴の詳細の説明なし。他にもビルマ戦役に関する著作もある戦史作家とのことです。マイナーな戦史作家なわけですからもう少し細かい説明があってもよかったのではないかと思います。(主として編集側の問題)翻訳者は1930年東京出身。元朝日新聞整理本部長、編集委員、朝日カルチャーセンター(東京)講座部長等を歴任、とのこと。2回ほど本書を読んでみたかぎりでは翻訳に関して疑問な箇所が(原著を持っていないので確実ではありませんが)p.97(多分、コントロールを「瞰制」と訳すべき箇所を「制御」としている)、p.114(パイオニア大隊→工兵大隊じゃないかな?まあ誤訳ではないけど…)他数箇所ありましたので素晴らしい出来とは言えませんが、この手の本の翻訳としてはまあ一応水準には達しているのではないかと思います。 ◇ 本書について文庫で235ページ。訳者によるあとがきはありますが、著者によるあとがき、まえがき、解説などはありません。(これが翻訳時に省略したものかどうかは不明です)一応、原著の訳注が14個巻末に付されており、特記も無いので抄訳ではないものと思われますが、原著の参考文献は記載されていません。 ◇ 内容と雑感「帝国陸軍の大将で政友会総裁の田中(義一)男爵は、一九二七~二九年、日本の首相だった。二九年七月、彼は国際的略奪のダイナミックな陰謀を天皇に提出した。」うわー、田中上奏文を本物扱いしていやがるですよ…というのが本書を読んでまず強く印象に残ったところです。いくら1960年の出版とは言っても少なくともこの点はひどすぎます。まあ、駄目なのは日本の近現代史家だけではないということでちょっと安心もしますが…これって現在では支那が流布した偽情報だというのがほぼ確定として取り扱われているのですが、このあとご丁寧にトロツキーによる入手経路の暴露話(当然でっちあげ)まで書いていたりします。まさに恥の上塗りですね。日、米、英の人(学者も含む)の多くは、支那、ソ連(帝政ロシア時代からいまのロシアも…)、ドイツの政府機関や政府関係者が公式報告書や公式声明の類で平気で嘘をつく、ということが理解できていないのでこういう妙なことが起こるのではないかと思われます。日本が宣伝戦において支那に完膚なきまでに敗北していたというのが良くわかりますね。しかし、このことについて訳者が解説で一切触れていないのは翻訳者の出身が朝日新聞社なだけに悪意を感じますが勘ぐり過ぎでしょうか…まあ、いきなりこんなことを書いたら本書の信頼性が根底から揺るいでしまいますが、こういう部分は読み飛ばせばいいだけのことです。本書の主たる価値は、日本の開戦に至る意思決定過程の部分とはあまり関係なく、マレー戦役の経過が簡潔にまとめられていることと、何故にシンガポールはかくもたやすく陥落してしまったのか、という点を英国側の視点から解き明かそうとしている所にあると思います。さて、本書ではシンガポール及びマレーの防衛が事前の危険を告げる情報が多かったにもかかわらず、対応がいかに不十分だったかが良く描かれています。山本七平の著作でルソンにおける日本の戦備の遅れが描かれていましたが、私の中ではかなりイメージとして重なるものがありました。やはり、官僚組織では人事権を遠慮なく行使する強引なくらいの人間を上に持ってこないとこういう危急の時期にはうまくいかない、というのは共通なのかもしれません。あと、本書を読んでいてふと気が付いた点として、「陣地を迂回されたが包囲は免れた」というシチュエーションが結構出てくるのですが、著者は浸透戦術については理解していても、どうやら帝国陸軍が包囲殲滅ではなく並行追撃を主眼としていることを全く理解できていないのではないか、という気がします。p.125のクランの拠点が包囲され、罠が閉じられる前に脱出したが2縦隊が道路沿いの伏兵につかまった、なんていうのはもろに帝国陸軍からみればマニュアルどおり。包囲殲滅なんて多分最初から考えてもいないでしょう。浸透して、相手が堅固な陣地を放棄して退却したら、退路を並行して進撃しながら恐慌状態を拡大させつつ損害も与え続ける、というのは帝国陸軍の十八番です。著者も、一応戦史作家という事で関係する軍人の回想などは一通り目を通しているわけでしょうから、この視点が完全に抜け落ちている、というのはもしかすると英軍には並行追撃というものが全く理解されていなかった、という可能性もあるのではないかと思いました。また、本書の中では第三章でマタドール作戦―日本の攻撃に先立ち中立国タイに進撃して有利な地形で防御する前進防御―について比較的分量を割り当て、実施されなかったのがアンラッキー、実施の決断がなされなかったのが問題、という考え方みたいですが、ここは不同意。日本のタイへの進駐が最後通牒の交付を含め、現地外交官との綿密な打ち合わせに基づいて行われているが(タイの中立義務違反が先にあるからでしょうが)、その点の準備が英国は杜撰です。そもそも、制海権と制空権の確保に失敗しているわけで、前進防御は最初から考慮の対象外だと思います。わずかな地形効果のためにとるリスクとは思えません。
2008.08.04
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伊藤桂一『黄塵の中―かえらざる戦場』(光人社NF文庫,1996) その2 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません 黄塵の中・ 《北支山西省駐留中の部隊の話》 サンジャックの敵・ 《インパール作戦初期のサンジャック攻撃時の第三十一師団歩兵第六十聯隊第三大隊(福島大隊)の話》・ 《指揮官の性格や気質が部隊の運営に与える影響の大きさ。従軍経験の長い著者ならではの視点かと。このあたりが、従軍経験者や戦記をよく読む人とそうでない人との間での認識の格差が実は一番大きいのではないか》 インパールの灯を―見た?・ 《上と同じ歩兵第六十聯隊第三大隊のカングラトンビ攻撃時の話》 幼女の眼・ 《北支山西省駐留部隊の話》 担架の小隊長・ 《第3師団衛生隊 光松秀一中尉へのインタビューに基づく回想録風の短篇》・ 《支那での衛生隊の様子を描いているという点で珍しい》・ 衛生隊は師団司令部直轄部隊として歩兵から人員を集めて編成され、衛生隊長(中佐)の指揮下担架中隊3個、車両中隊1個、他に衛生部(応急手当班)や行李(補給班)がある・ 担架中隊の編成は、中隊長の下に指揮班が准尉1、下士官1、兵若干、2個小隊編成・ 1個小隊は4個分隊。1個分隊は担架4つで兵員16名。担架小隊は小隊長以下69名p.112《この編成では負傷者と担送者の装具の運搬要員が考慮されていませんね。負傷者の分は負傷者の所属部隊の人が運ぶとしても、衛生隊員の装具は(小銃はほとんどの隊員が持ってないとは言っても)どうなるのでしょうかね》 分屯隊の家族・《昭和19年4月 江蘇省高淳県の駐留部隊の話。他の各話については解説に執筆の経緯について簡潔な言及があるのでですが、この作品に限っては不明なので、どういう取材に基づくものかは不明です。》 密林の挿話・《第十八師団歩兵第五十五聯隊第十一中隊所属の井上咸少尉のマレー戦からフーコンまでの記録(最終階級は不明)。航空自衛隊の機関雑誌「翼」に発表したものを資料としたとのこと。》 波の果て・《石垣島に配備され、そこで終戦を迎えた第三十八震洋隊の隊長を務めた予備士官旅井理喜男中尉(当時)の話。》・ 第三十八震洋隊は川棚で編成。隊員120名、艇は36隻。3隊編成で1隊は12艇。基地隊長、主計長は少尉。艇の操縦兵は予科練生の一等飛行兵曹・ 基地隊員は整備兵、基地設営隊員、通信兵、主計兵、衛生兵、運転兵などがいた・ 昭和19年に佐世保を出た。3隻の輸送船に分乗し、海防艦と駆潜艇が護衛に付いたが3隊のうち1隊のみが目的地につき、残りは海没p.194-・ この島のマラリアはキニーネでは効果が薄い。《海兵出身で警備隊の》伊納副長はマラリアの特効薬のアテブリンを自室に大量に隠し持っていたが一般に分けようとしない。ただし旅井中尉がマラリアのときには分けようとしてくれたp.200 求道の戦旅・《戦後、吉川栄治文化章を受賞した梁瀬義亮氏へのインタビューに基づく、主に捜索第十六聯隊の軍医中尉時代のルソン戦の回想》 揚子江岸の放浪・《独立歩兵第二百十四大隊所属の石野十郎中尉の、終戦後の放浪の記録。》 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.08.03
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伊藤桂一『黄塵の中―かえらざる戦場』(光人社NF文庫,1996) その1総合評価 ★★★☆☆全部で10篇の短篇からなる短編「戦場小説」集。10篇のうち2篇は著者自身も駐留した経験をもつという比較的平穏な山西省を舞台にした駐留部隊の話。また、2篇はインパール作戦時の第三十一師団(祭兵団)歩兵第六十聯隊第三大隊(福島大隊)の話。他は、震洋(特攻艇)部隊の指揮官であった予備学生出身士官の話が1つ、第十八師団歩兵第五十五聯隊第三大隊に関するもの1つ、捜索第十六聯隊所属の軍医のルソン島に関するもの1つ。その他3篇はやはり支那が舞台ですので、半分は支那駐留部隊関係。やはり支那駐留部隊に関するものが多くなっています。各短編の内容としては、八重山群島で出撃を待ち終戦を迎えた第三十八震洋隊の海軍予備学生出身の隊長、第三師団衛生隊の下級士官、終戦後に現地除隊し支那で自ら望んで軍閥に投じた下級士官の話、インパール作戦と多種多様で、この点に関しても一貫性があるというわけではありません。2度ほど読んでみましたが、私には著者が設定した共通するテーマのようなものを見出すことはできませんでした。実際のところ、同じ第二次世界大戦(一部その前の支那事変の部分もありますが…)の戦場と言っても、本書で扱われているものだけでも、比較的安定していた北支から激戦地であったインパールまで様々。当然、そこで生じる事柄もきわめて多種多様であって、偶然に特攻艇のエンジン故障で命拾いする人もいれば、ちょっとした手違いから日射病で死ぬ人もいる。そんな雑多といってもいい事柄が、各話ごとに特定の人物の視点を中心に(著者の解説での表現をとるならば「人間的真実」に焦点をあてて、という言い方になるでしょう)つづられている本書のような短篇集を数多く読み込んでいくことを通じて、戦史や戦闘中心の戦記により得られる知識とはまったく次元が異なる形の戦場のイメージを掴み、当事者の心情を(わずかでも)理解することができるのが伊藤桂一氏の短篇集の魅力というところでしょうか。こうして著者により語られる多種多様な戦場・戦地の様相やそこにおける人間のあり方は、巷で反戦活動家などにより「悲惨な戦争」という決まり文句とともに繰り返し語られる戦禍の様相や軍人の姿がいずれもありきたりな恐怖映画のようで空虚さを伴うステレオタイプとしか感じられないのと正反対に、リアリティをもって感じられます。このあたりが従軍経験者に著者の作品が好まれる理由なのでしょうね。 ◇ 著者について大正6年、三重県三重郡神前村(現四日市市)出身。旧制世田谷中学卒。詳細な軍歴については不明ですが、解説には騎兵聯隊に所属し山西省臨汾付近に3年ほど駐留した経験がある、と書いてあり、昭和13年から満7年の勤務経験があり、終戦時には伍長とのこと。カバーの経歴によると昭和37年、『蛍の河』で第46回直木賞受賞昭和58年、『静かなノモンハン』で第34回芸術選奨文部大臣賞と第18回吉川栄治文学賞を受賞との事ですが、復員後は出版社の編集部に勤務し、既に昭和27年には『雲と植物の世界』で芥川賞候補となっており、戦後の戦記文学の第一人者といってもいいくらいの古参の作家さんです。 ◇ 本書について文庫で279ページ。昭和54年に同名で光人社より出版されたものの文庫版です。まえがきはなく、あとがきとして著者自身による文庫版刊行時の解説が付いていますが、特段の断りもないので内容は巻末の解説部分に加筆修正がある以外は単行本と同じものと思われます。 ◇ 内容と雑感本書では最後の「解説」において、著者の「戦争小説」に対する考え方や思いがとても簡潔に述べられており、著者の考え方、戦争に対するスタンスを理解する上で著者の他の作品を読んでいないという方は先に読んだほうがいいかもしれません。著者は「戦場小説」という言葉を用いており、本作もその「戦場小説」であると位置づけているのですが、実際のところ「戦場小説」という言葉は明確に定義されてはいないのではないかと思います。この「戦場小説」というのは、「戦記」もしくは「戦記文学」に近い言葉なのかもしれませんが、「戦記」というと(個人的な思い込みかもしれませんが)基本的にノンフィクションということになるので、そこをあえてフィクションの部分もあるということで「戦記文学」とか「戦場小説」という言い方をしているのかもしれません。で、さらに「戦記文学」というとどうしても戦闘が主題に来るわけなのですが、著者の軍歴は北支への駐留が中心なので、短編集でも舞台は北支が多くなり、その結果当然に戦闘よりも駐留している間の話が多くなる。そこで、戦闘中心の印象を与える「戦記」という比較的耳慣れた言葉をあえて使用せず「戦場小説」と読んでいるのではないかな、などと考えた次第です。他にも「戦史」というものがあり、これは学術的なものを示すのですが、では「戦場小説」や「戦記文学」が「戦史」より価値が低いかというとそうではないと思います。大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫)の解説に「個人の経験を戦争全体のなかに位置づけるところまで進まなければ、戦争について書きつくしたことにはならない」とあるのですが、戦史だけでは戦争を描くには不十分だ、というのは従軍経験のある多くの方が公刊戦史や高級将校の書いたものを読んで感じておられる事であり、またそうした方が戦記を執筆する大きな動機となっているのではないかと思います。さて、個人的には本書の中で最も印象に残り、また読んでいて面白かったのが「サンジャックの敵」と「インパールの灯を―見た?」のインパール作戦間の第三十一師団歩兵第六十聯隊第三大隊(福島大隊)を描いた2作品です。どちらも後味がちょっと悪い話で、取り上げているテーマも重いのですが、短篇小説としての出来は他の作品に比べてよいのではないかと思います。「サンジャックの敵」では、歩兵第五十八聯隊の福永聯隊長とその上官の宮崎歩兵団長のなんとしてもサンジャックを攻略するという気迫と鬼気迫る感じが良く描かれています(単純に狂気といえないところがまた怖い…)。本部に聯隊旗を預けて聯隊長自ら夜襲に出て、攻撃に関する打ち合わせの要請に対しても取り付くしまもない返答…犠牲者を出すほど攻撃的になる、という帝国陸軍の精鋭部隊によくある傾向だと個人的には思うのですが、それに対して部下の人命を軽視しすぎじゃないの、っていう疑問を感じる六十聯隊の下級士官が話の主役でも、その下級士官もその姿勢には疑問も感じるが「 」も感じる、っていうその辺の心情がどういうわけか私には共感できるんですよね前進陣地であるサンジャックでもこんなに堅い陣地で攻略に苦戦しているのだから、そんな狂気じみた戦い方でもしないとこの先は…というのは部下を持つ者としてどうしても考えざるを得ないのだと思います。「インパールの灯を―見た?」は、出世は遅いが部下や同僚からの信望が厚い古参の中隊長と、その上に立つ新任の兵隊上がりだけど(むしろそうであるゆえに)上ばかり気にしている大隊長の話。会社なんかでも良くありそうなシチュエーションですが、会社と戦場で異なるのは多くの部下の命にかかわる決断を下さなくてはならない場合があること。そんな中、逡巡に逡巡を重ねた上で大隊長が中隊長の反対を蹴って攻撃を実施するも、奇襲には成功したけど後続部隊を掌握できていなかったため後が続かずに失敗。中隊長は戦死し、本部では大隊長一人だけ逃げて助かる。ただ、その大隊長もどうしようもない人間というわけではなく、教官としては立派であったというのがまた複雑なところです。 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.08.02
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小室直樹『論理の方法―社会科学のためのモデル』(東洋経済新報社,2003) 総合評価 ★★★☆☆ケインズ、マックス・ウェーバー、丸山真男、平泉澄について、その主張(の一部)をどのような構造になっているか、という観点から解説することを通じて、副題のとおり「社会科学のためのモデル」というのが、どういうものなのか、ということを解説した本。で、誰がどういうモデルを作ったのか、ということは解説されているのですが、後述するように、1) じゃあ、どうやってモデルを構築するの2) そのモデルが構築されるにいたったその時代の問題意識やモデルの変遷の歴史ふつうは何か目的があっていろんな人がモデル構築を試みて、その中で最も目的にかなった―もしくは最も世間で受け入れられた―ものが高く評価されるのだと思います3) そのモデルに対する批判や検討といった事は書いてないので、これを読めば俺も社会科学に使えるモデル構築が出来るようになる…なんて(よほどの馬鹿でもなければ考えないとは思うが)期待するとハズレ。1)については、後述するような理由で書いてなくて当たりまえだと思うのですが、2)、3)はちょっと違和感があります。いや、平泉なんか取りあげてる紙数があるなら(以下自己規制)評価が低いのは個人的に大嫌いな丸山真男とかカルヴァン派とかが褒めちぎられている(ように見える)のが気に入らないだけじゃないですよ。 ◇ 著者について学者なのか評論家なのかよくわからない人です学者としても充分な経歴を持っているのですが著述に力を入れているとしているようです。細かい経歴はWikiでも読んでくださいな結構網羅されているので私ごときが特に書くことはありません。しかし、弟子が橋爪大三郎、宮台真司、副島隆彦っていうのは教育者としてみると如何なものかと…ただ、本人が勉強家で博学であることは間違いないです。 ◇ 雑 感たまたまブックオフで2冊で1000円のセールをしていて、一冊掘り出し物(マーク リーブリング『FBI対CIA―アメリカ情報機関 暗闘の50年史』)を見つけたのでついでにこの本も購入しました。そういうわけで、著者の書いた他の本は全く読んでいないですし、ファンでもないことをあらかじめお断りしておきます。で、第一印象は読みやすい、わかりやすいということですね。厚い本なのですが(紙も厚いので)あっという間に読めてしまうので達成感があるのでしょう字面も行間が広くて余白が少ないビジネス書に多いタイプ。その結果文字の密度は低くて字がぎっしり詰まっている感じがしませんそこそこ売れ筋の本ではこういう点もちゃんと考えているのでしょうねさて、内容についてですがリカードのモデルの説明からケインズのところまではとても明確であまり異論の余地はないかと思います。ケインズの『一般理論』の最初の要点はセイの法則からの脱却、なんて所はほぼクルーグマンの解釈と同一。でも、名目賃金の下方硬直性を説明するところで労働組合が原因で賃金が下がらないと書いていたり(労働組合が賃金の切り下げに同意しないから完全雇用が達成されない、というのはむしろケインズが古典派の主張と言って批判しているものではないかと思うのですが…)ちょっと違うのではないかなというところもありますが、瑣末なことで本筋とは関係ないのでまあいいのでしょう。ちなみにこの辺で、目新しかったのはJ.K.ガルブレイスの評価でしょうか。個人的に経済学者としての評価は低いのですが、著者によると「バブル」と「恐慌」を取り扱う経済学者、と言うことで(私なんかは経済史家ではないかと思っていたのですが)そういう経済学者もありなんですかね…また、ウェーバーの宗教論のところ、プロテスタンティズム―特にカルヴァンの予定説(特殊神寵説)―礼賛のところは、確かにウェーバーはたしかにそう主張してはいるんですけど、それに対する批判を全くしないで先に進んでいくので読んでいてすごく違和感があります。米国の初期の入植者が予定説を掲げマニフェスト・ディスティニーとして、「新大陸」を自分達に約束された土地、そこに住んでいた原住民を自分達が入植するまでその土地を開墾させておく為(だけ)に神が造ったもの、として原住民虐殺や略奪を正当化したのも、どうしてプロテスタントなのに米国の初期の入植者が魔女狩りをしたのかといえば、これも予定説に基づく主としてカルヴァン派(どういうわけか日本語では長老派、と書かれることが多いですが)によるもので、魔女は魔女と見えるように振舞うよう定められているから魔女と疑われるような行動をしている奴は魔女(として神が定めた存在―だからカトリックの魔女裁判と違って改悛しても助命されることはなく火あぶり確定…)、というように、予定説の帰結が如何に無茶苦茶なものであるかを無視しているわけですからちなみに私から見ればカトリックが聖書を一般信徒に読ませないようにしたのも単に内容があまりに反社会的だったからだと思うのですが…さて、アマゾンの書評も参考に読んでみたのですが、普通の人が本書を読んで多分感じるであろう典型的な印象としていいレビューが載っていました「タイトルから社会科学の分野でのモデル化方法論、モデルを用いた思考法の説明だと思いましたが、ひたすら多くの例を解説するだけでどうやってモデル化するのか、例えば、単純化する時に切り捨てる部分と残して純粋化する部分をどう決めるのか?モデルと現実の差異をどう扱うのか?モデルの検証はどうするのか等の疑問が湧きます。」確かに、本書にはモデル構築をどうやってやればいいかを一切書いていませんその点、このレビューは正しいと思いますでも私からするとこの批判はちょっとおかしいなんでって?もし、そのモデル化する部分をマニュアル化できたら学者の仕事は全部ルーチンワークになっちゃうじゃないですか(歴史学者はたしかにルーチンワークが大部分だとは思いますが…)そうなるとモデル構築のマニュアルとデータがあれば先人が書いた本や先行研究を読んだりする必要もないわけでしょ?私は教養主義者なもので、そこは先人が構築したモデル(と用いたモデル化の方法)をいろいろと学び批判検討しながら自分のセンスを磨くしかないと思うのですがねぇ実際、本書に取り上げられているモデルの作者は同時代において比較的優れた(この言い方が気に入らないのでしたら「インパクトのあった」と読み替えていただければ…)モデルを構築したがゆえに名を残しているわけですその作り方がマニュアルで学べるようなものなら新しいモデルを構築したくらいでノーベル賞がもらえたり著名な学者になれたりするってことは多分ないでしょうねだからモデル構築には(もって生まれた頭のできもあるでしょうが)ある程度の数の例を学んでセンスを磨くしかないわけで「ひたすら多くの例を解説するだけ」の本書はちゃんと「モデル構築の方法」の入門になっているのではないかなぁ、と思いますむしろ本書を批判するとするなら、どうしてそういうモデルがその時代に作られ高く評価されたのか、そしてその批判検討からどのように修正されていったのか、という批判検討に関する部分が(最初の経済学の部分を除いて)弱いところを突くべきでしょうねそのモデルが構築され社会によって大きく扱われたのには、その時代における問題意識が大きく関係していると思いますだから、モデルの批判・検討による発展を語ろうとすればモデルの変遷の歴史と通史を同時に説明する必要があると思うのですが、その点(最初の経済学の部分を除くと)本書はいろんな分野におけるモデルを取り上げているので、モデルが静的に並列に並んでいる博物館のように見えてしまいます。それはよしとしても、実際のところモデルの構築って全く新規に行われることってほとんどなくて、基本的にはそれまでのモデルの批判・検討に基づく改良。で、過去にどんなモデルが構築されそれがどのように批判され改良されたかを学ぶ以外にモデル構築の方法論を学ぶ方法って言うのは多分ないでしょうが、本書の後半ではそこが弱いのではないかと思います。そもそも、誰も思いつかなかったような斬新なモデルを構築するなんて一部の天才か鬼才にしかできないけど、モデルの批判検討なら凡人でも訓練を受ければそこそこできるわけですし、著者自身も書いているように、それがモデルに過ぎない、ということを理解しないで「教条」として受容されてしまったことが悲惨な結果を招いた事も多々あるわけですから、やはりこのモデルの批判検討とそれによる発展という部分は、もっと丁寧に書いてくれたほうが良かったんじゃないのかな、という気がします。 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.08.01
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さて、更新再開して2冊分ほど読書記録をアップしました。いまは、・ 伊藤桂一『黄塵の中―かえらざる戦場』(光人社NF文庫,1996) を読み終えて、ちょうど摘録の部分を作成しているところです。摘録といっても小説なのであまり書くことは無いので苦労していますで、これ以外にも実はかなり前に書きかけた読書記録があるのでそれに手を入れたものをアップしようと思っています。・ 小室直樹『論理の方法―社会科学のためのモデル』(東洋経済新報社,2003)ちょっとこのブログに今まで読書記録を書いてきたものとは傾向が違うのですが、実はこういう本もたまには読みます。ちなみに通勤電車の中ではこのまえブックオフで買った・ アレクシス・ド・トクヴィル著 小山勉訳『旧体制と大革命』(ちくま学芸文庫)を読んでいます。実はトクヴィルの著作を読むのははじめてなのですが面白いですね。他の著作も読みたくなりました。第2部の執筆中に死去したということでいわゆる遺作というやつなのですが、立場的には修正主義といってもいいのではないでしょうか。最大の主題が、どうやらフランス革命はブルボン王朝でもとから他国に比べて進んでいた中央集権化を飛躍的に進めたものであって、革命後と革命前に決定的な差はない―むしろ共通点のほうが多い―ということが言いたいみたいです。あと、中央集権化がもたらす民主的専制―私なんかは官僚による統治といってよいかと思いますが―に対する批判は、そのまま今の日本にも通ずるものがあるのではないかと感じます。しかし、こういう本は読書ノートを作ると何ヶ月もかかりますからねぇ…というわけで明日は仕事がはやく終わったら、渋谷のスタバかセガフレード・ザネッティで終電まで『黄塵の中』の読書記録を作成し、ついでに次の・ フランク・オーエン著 永沢道雄訳『シンガポール陥落』(光人社NF文庫)の読書記録作成にとりかかれたらいいかなとか考えています。これも土曜日中に書きあがるといいんですけどね…ちなみに最近は毎週といっていいほど土曜日は午後から渋谷のセガフレード・ザネッティで読書記録を作成しています。しかし、こんな偏った仕事とは縁の無い本ばかり読んでいていいんでしょうかね… ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.07.31
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隈部五夫『機雷掃海戦―第一五四号海防艦奮戦記』(光人社NF文庫,2008) その2 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません第一章 卒業と開戦前夜第二章 応召第三章 局地警備部隊・ 捕鯨用キャッチャーボートは南極圏の暴風帯にも耐えられるよう船体は丈夫で、安定性があり、大波に突っ込んでも船内に浸水しない構造であり、舵効きがよく、船橋からの視界も広く、船体の振動も少なかった・ 特設駆潜隊は船名から見てキャッチャーボートの改装が多かった模様p.46・ 開戦後の駆逐艦の航海長は予備士官が多かった・ 特設艦艇でも大型艦には航海長、運用長、機関長、並びに航海士、機関士として予備士官が多く乗っていたが、特設掃海艇には乗組員40名中、艇長として予備士官が1名のみp.50第四章 第三三掃海隊に編入《貴重な、海上トラック改造掃海艇の運営者(艇長)としての印象や、対米開戦直前における特設掃海艇への改装作業の様子の証言》・ 《焼玉エンジンの振動は大きく、しかも船橋が後部にありエンジンに近いため》船橋の振動が甚だしく、双眼鏡を持つ手が揺れて目標が捕らえにくかった。船橋に取り付けられた倍率の大きな双眼鏡は台とともに絶えず振動する為、目標を捕らえるには熟練を要した。p.55・ 船橋が低く、船首が浮き上がるようになって視界を遮る《海上トラックにほぼ共通》この艇の艇首に砲一門が取り付けられたが、船橋から見ると水平線より上にあるため、死角が非常に大きかった・ 通常の航行時でも船橋の左右に移動していなければ視界を狭められて安心できなかったp.56・ 改装においては商船の規則は無視されていた。船底に探信儀用の穴があるほか、船倉が居住区となったため、ハッチの上に兵員の出入口が2箇も設けられ、波で破れそうな木製の扉だったp.57《この船倉を居住区にした→船倉の蓋であるハッチに兵員の出入口をつける→沈みやすくなる、という貨物船の転用に伴う問題の指摘は大内建二『輸送船入門―日英戦時輸送船ロジスティックスの戦い』(光人社NF文庫,2003)の兵員輸送船についてと同様ですね》・ 《対米開戦直前の》この頃はまだ未教育者は召集されていなかった・ 特設艇の艇長は応召海軍予備中尉か大尉、機関長及び分隊士は召集された特務士官であった・ 特設艇には召集者が多かったが、電信と信号、砲術並びに機銃には現役兵が配置されていたp.61・ 特設掃海隊として記録に残っている二十五隊のうち、第三三掃海隊のように異なった型の船で編成された隊は他に無かったp.62・ 《第三三掃海隊 所属の特設掃海艇6隻の要目》・ 《トン数こそ概ね300トン前後で揃っていますが、主機がレシプロ2隻、ディーゼル2隻、焼玉2隻…》・ 焼玉エンジンは前進から後進に切り替える時、停止してしまうことがある・ この為、編隊で一斉投錨する時や着岸するときは非常に苦労したp.65・ 《掃海方法の説明―当時の係維機雷に対する掃海索による掃海方法》p.68・ 海軍では毎月左右の錨鎖を交替に片舷に集めて長くし、強風には長く伸ばし、反対舷は短いほうを振れ止めとして錨泊するのが常であったp.87・ 特設掃海艇にも水中探信義はあったが、焼玉エンジンの音と振動に邪魔されて潜水艦を探し出すことはできなかった。したがって対潜哨戒は専ら肉眼による見張りとなったp.91・ 第三三掃海隊の初代艇長は昭和17年以降逐次交代し、昭和19年に著者を最後に全員が掃海艇長、輸送艦長、海防艦長に転出p.94・ 戦後、残された機雷の掃海は掃海部隊によらず海防艦によって行われた。掃海部隊は終戦時には専門家であったが、人員の復員や船の徴用解除を急いだ為p.95第五章 丁型海防艦・ 海軍の艦艇は2軸《推進》が普通で、戦闘用の艦艇で1軸は無かったと思うが、丁型海防艦は1軸・ 丁型海防艦のタービンエンジンは、出入港で機関を頻繁に使用するとき面食らうこともあったが、慣れると不便を感じなくなった。むしろ航行中の音は静かで振動も少なく探信にはディーゼルより適していたかもしれないp.100・ 甲板は平らで湾曲が無く、雨が降れば上甲板の雨水が部屋に落ちるのでバケツで受けて部屋中が濡れるのを防いだp.101・ 昭和20年2月7日第一五四号海防艦竣工。艦体は脆弱で機器も故障が多かった。速力試験中に操舵装置の故障(軸受が焼きつき)。操舵装置の故障は全く考えたことが無かったので、驚くというより愛想が尽きたp.106・ 艦底の潤滑油パイプの継ぎ手の接合不良により《主機の》潤滑油にビルジが混入。主機タービンの羽が錆びていたp.109《 いくら粗製濫造といっても、操舵装置と主機がこれでは…。さすがは統制経済》・ 2軸の艦は操艦が容易で潮の流れに関係なく接岸できるが、単軸では潮の流れを考慮し更に錨を使わないと接岸できないp.114《海兵出身者を小型艦艇乗せない、と批判してきたのですが、実は海兵出身者を小型の特設艦艇や丁型海防艦の艦長にしない理由はこのあたりにもあったのかもしれませんね。》第六章 米軍投下機雷の掃海の苦闘・ 当時B29により投下された機雷を磁気機雷と呼んでいた。感応機雷であることがわかったのは海岸や地上に落下した機雷の頭部の起爆装置を分解し調査研究をしてからp.121・ 掃海作業は漁船2隻と大発2隻で実施。いずれも掃海艇として改装はされておらず、三式掃海具二型磁 式(鋼索に鋼の棒を吊り下げ2隻で曳航する対檻式)と発音弾を積んでいたp.124・ 掃海索には10メートル間隔で鋼の棒を吊り下げていたp.125・ 前夜の投下を見て翌日掃海しても機雷を処分できなかった。これは掃海具が機雷《機雷の起爆装置に対し》不十分だったため・ この機雷は艦船の大小、喫水の浅深に係わらず起爆するので、係維機雷と異なり喫水の浅い掃海艇でも危険p.129・ 機雷は1分足らずに7から9個が落下。落下傘が付いており、着水間隔は300メートルくらいp.136・ 《著者の米軍が投下した感応機雷の起爆装置に関する所見》p.142-・ 陸上からの監視では機雷の投下位置と個数を正確に掴む事は難しく、海上で機雷投下海域に錨泊することは危険ではあるが監視し掃海を指揮する上では最適だったp.147・ 応召以来3年間掃海隊にいたが、感応機雷についてもその処分方法についても聞いたことが無かったが、昭和19年には高雄に既に投下されていたと後になって知らされたp.150・ 司令部が《関門海峡の》航行禁止解除を発令する際には50トン以下の小型船から解除した・ 当時50トン以下の船は内航海運の機帆船くらい。船長が夫で機関長が奥さんという組が多かったp.155・ 《米軍の感応機雷による艦種別の沈没状況概観》p.157-・ 木造、焼玉エンジンで50トン程度の機帆船でも感応機雷は起爆p.158・ 触雷し沈没しそうになっている船が航路を塞がないように移動させるのも掃海隊の仕事と考えていたp.161・ 関門海峡東部の機雷戦開始以来の通行艦船は小型船舶が多く、沈没も小型船が多かったp.163第七章 わが軍敷設の機雷を掃海・ 海防艦は、後甲板の砲と爆雷投射器をはずして掃海甲板とすればあまり手を加えないで掃海に使えるようになっていたp.190・ 海防艦はすべての点で《特設掃海艇より》操艦も作業も容易であったp.193・ 応召海軍予備仕官名簿で現在厚生省に残されているのは、昭和19年9月1日現在のものが最後となっている・ 応召予備士官と戦没予備士官を調べようとしたが、この名簿にはそれ以降の商船学校卒業者が含まれておらず、また、昭和19年9月1日に召集解除となった人を調べる必要があるp.214 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.07.29
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隈部五夫『機雷掃海戦―第一五四号海防艦奮戦記』(光人社NF文庫,2008) その1総合評価 ★★★★☆個人的にはこういう本は好きなのですが、以下のような内容に興味がもてるかどうかというと、興味があるという人はやはり少数派でしょう。巷の普通の帝国海軍好きな人にとっては華々しい活躍のひとつも無く、著者も言うとおり、敵に殺される可能性はあっても敵に損害を与える可能性が無い任務なわけですから、退屈な本かもしれません。かなりマニア向けです。でも、これが通商破壊戦時代の海上戦闘の実際の姿なのではないでしょうかね?で、内容ですが対米開戦前に予備士官として召集され、300トンにも満たない海上トラックを改造した特設掃海艇の艇長となり対潜哨戒などを行い、その後丁型海防艦の艦長として昭和20年4月から終戦まで関門海峡東部の機雷投下地域にずーっと停泊し、夜はB29による関門海峡への機雷投下の監視、昼はその掃海の指揮を行い、終戦後も海防艦でわが軍の敷設機雷の掃海作業に従事と、ある意味最も長い期間戦った予備士官による回想です。タイトルに海防艦とあっても「特別掃海艇」という言葉はありませんが、本書の前半は著者自身が対米開戦直前に特設掃海艇の艇長に補せられるところから、自ら立ち会った海上トラックの特設掃海艇への改装の様子とその概要、その後の特設掃海艇艇長時代の回想と所感、また当時の係維機雷の掃海索による掃海方法などが記述されています。後半では、昭和20年に海防艦一五四号艦長に転じたのち、4ヶ月にわたって関門海峡東部に停泊し、夜間はB29が航路封鎖のために投下する機雷の投下位置を確認し、昼間は小型の掃海艇での掃海作業を指揮するという、困難で重要な任務に従事した経験の回想となっています。どちらも珍しく類書が無い、という意味で貴重な本だと思います。日本の船舶輸送の途絶に関しては、潜水艦による通商破壊、船舶・港湾への航空攻撃が取り上げられることが多く、航空機による機雷投下に関しては言及されることは少ないのですが、機雷による封鎖も大きな効力を持っていた、ということをあらためて認識させてくれたという意味でも高評価です。 ◇ 著者について明治44年3月 熊本県出身昭和10年5月 神戸高等商船学校航海科卒業昭和10年7月 大阪商船株式会社入社昭和14年8月 東亜海運株式会社に転籍昭和16年9月 応召 特設掃海艇第二号朝日丸艇長昭和19年12月 横須賀鎮守府付(第一五四号海防艦艤装員長→同艦長)平成3年 没戦後の職業についての記述は特に無く、他の著作も無いようです。 ◇ 本書について文庫で215ページ。昭和62年1月に同名で成山堂書店より出版されたものの文庫版です。まえがき、あとがきともに著者自身によるものがありますが、特段の断りもないので単行本と同じものと思われます。 ◇ 内容と雑感内航海運用に作られた海上トラックを改造した特設掃海艇について詳しく書いてある本自体がそもそも稀少。更にその特設掃海艇への改装作業から艇長としての運用経験まで書いてある本書はとても珍しい本だと思います。小型、低速、喫水も浅く、船橋が船体後部にあり視界不良、おまけに後進かけると止まることがある上に振動の大きな焼玉エンジン。そんな小型の駆潜艇すら羨ましく見えてしまうような特設掃海艇の艇長として、対潜哨戒、航路指示などの任務に走り回る。おまけに航海を任せることのできる乗組員がいないので海に出たら船橋を離れることができない。何より、荒天になると船が沈まないかをまず心配しなければならないというのが泣けてきます。大型艦艇に乗って贅沢な食事をし、風呂では従兵に背中を流させている海兵出身の将校とは同じ海軍とは思えないくらいの激務ですね。で、やっと少しは大きな海防艦の艦長になったと思ったら、艦の初期不良のおかげで南方には行かずにすんだものの、関門海峡東部の米軍がB29で機雷を投下する海域に停泊して、夜は安全な航路を確認するために機雷の投下位置を調査し、昼間は小型の掃海艇を指揮して掃海作業という地味でも重要な仕事に従事しています。(機雷戦としては)一番の激戦期に4ヶ月にもわたって関門海峡に停泊し、複雑な起爆条件の設定が可能で現在でも掃海が困難だといわれている米軍が投下した感応機雷に対して、効果のたいして見込めない掃海具で掃海を試みつづけ、触雷した船の遭難者救助から死体の収容まで奔走した著者の苦労が偲ばれます。なにより、感応機雷の起爆装置に対応できる掃海具が無いため、落下位置がわかっていても掃海できず、眼前に多くの艦船が触雷する様子を見なければならなかったのは、元が商船の乗組員であるだけに精神的にはかなり厳しかったものと思われます。目の前で、海上交通の要衝である関門海峡が、日々投下される機雷によりじわじわと航路が狭められていき交通が途絶していく様を見ながら、対応手段が無いわけですから…しかし、こういう重要海域での危険な任務に大型艦が沈んで余っている海兵出身者は就けずに、商船学校出身の予備士官を充てるところがいかにも海軍らしいですね。ただ、著者によると単軸推進の船では操艦が2軸推進の場合に比べ格段に困難で、着岸作業の際の潮流への配慮の度合いも全く異なる(単軸の場合は潮流が複雑だと錨の打ち直しなども行わなければならない場合もあるそうです)、ということですので、特設掃海艇や丁型海防艦に関しては商船での経験が豊富な予備士官を充てるほうが良かった、という事情もあるのかもしれません。船型も兵装もほとんど同じで主機が異なり、その結果カタログデータでは速力と航続距離が異なるという丙型海防艦と丁型海防艦ですが、実際に操艦する人の立場から見ると全く異なるものなのですね。 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.07.28
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大内建二『ドイツ本土戦略爆撃―都市は全て壊滅状態となった』(光人社NF文庫,2006) その2 ◇ メ モ(摘 録) ・ 《 》 の内側は私見や所感です ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです 内容の要約やあらすじにはなっていません・ 1933年7月には《米国》陸軍航空隊独自で新しい爆撃機開発計画をスタート。目標は1トンの爆弾を搭載し8000キロの往復飛行が可能というもの。この片道4000キロメートルという距離は大西洋横断もできないもので短すぎる。洋上での米本土防衛を考えたものではないかp.20《 著者は海外基地での米軍による運用までは考慮した上でこの結論を出しているようですが、私は英国への供与用兵器としてどうだろうか、という視点も忘れてはならないと思います。実際にも米国は兵器供与を早期から実施しています。ただ、英国からドイツ本土を攻撃すると考えると逆にちょっと長すぎるような気もしますが…》・ 《いわゆる「まやかし戦争」―宣戦布告からフランス戦まで、でしょうか―の期間中》英国は航空大臣の、軍需物資生産施設はあくまでも私有財産で攻撃の対象とすべきではない、との意見がとおり、ドイツ本国内で爆撃した目標はなかった《軍港は攻撃してます》《 この、私権尊重の姿勢と、最初は慎重に手加減するがやるとなると徹底的、というのは見習いたいですね》・ 《いわゆるバトル・オブ・ブリテンの時期》ドイツの爆撃機は英国本土を爆撃する場合の爆弾搭載量は1.5トンが限界で破壊力不足。但し、1940年12月時点で英国の爆撃航空団に配備されていた爆撃機の主力はホイットレー、ウェリントン、ハンプデンで1.8トン搭載で航続距離2000キロとドイツ爆撃機をわずかに上回る程度だった。両国の差はその1、2年後に現れる戦略爆撃機p.50《 戦略爆撃機を持たない状況で、空爆により英国を屈服させようとしたのはそもそもの間違い、という主張のように見受けられますが、私としては迎撃機のみで制空戦闘機を持たないことのほうが問題だったように思えます。》・ 1940年から41年一杯、英国爆撃航空団の目標までの航法は天測とコンパスと目視が主体。写真偵察機にも様々な機体が用いられており、充分に高速力ではなく未帰還が多く爆撃の効果判定も容易ではなかったp.54《この点、司令部偵察機を既1937年には制式化していた帝国陸軍は先見の明があったと思いますが》・ 写真偵察機による写真で検証すると、1940年5月から1941年6月までに実施されたドイツ国内、オランダ、ベルギーなどの目標に対する爆弾の命中率は平均49%と予想以上に低かったp.54《 個人的には夜間爆撃でこれなら高いと思うのですが…。多分、この命中率の判定基準が甘いのでしょう。もう少し命中率の定義についての説明が欲しかったところです》・ 1941年4月、英国は20機のB17Cを購入し実戦に投入したが実用爆撃機として不適と判断され使用を中止。ターボ過給機の不具合、貧弱な武装など搭乗員が拒否反応を示した。p.61・ ホイットレーは「まやかし戦争」期間に大きな積載能力を活かしてリーフレットの散布で活躍したが、散布方法は胴体後部の床に直径40センチほどの穴を開け、これに同口径の金属製の筒(シュート)を取り付け、このシュートから人力で投下するp.63《酸素の薄い高空で数トンの紙をシュートに延々投げ込みつづける作業って結構重労働では?爆弾投下のほうが圧倒的に楽…》・ ハンプデン双発爆撃機は断面積を小さくして抵抗を抑える為、胴体幅を1.2メートルと細くし爆撃機としては極端に縦長の胴体断面としたが、実戦では長距離飛行では搭乗員の疲労を増長し、機銃の操作にも制約が生じ、爆弾搭載能力はあっても胴体が狭く天井が深いため爆弾倉への爆弾搭載作業に手数がかかるという欠点があり、早期に生産終了p.70《 何か「銀河」に通ずるものがあるような気がするのですが…。「銀河」って本当にエンジンだけが問題だった名機なのでしょうかねぇ…》・ スターリングは空軍省の意向で当時使用していた最大の格納庫に収める為に全幅31メートル以内と制限された。その為充分なアスペクト比を得ることができず、この結果航続距離、実用上昇限度、搭載量などでハリファックスやランカスターに劣り、更には爆弾倉の構造上の問題から大型爆弾の搭載にも制限があり、量産されたものの早期に《爆撃機としては》退役p.92・ イギリス空軍は戦闘機においても爆撃機においても7.7ミリ機銃を固守しているのが謎。敵機を撃墜する破壊力はなくても、損傷させ戦線を離脱させれば充分という考えかp.94《あるいは、ドイツ本土上空で戦闘するわけですから撃墜より搭乗員の殺傷を狙ったという可能性もあると思いますが、どうなのでしょう。それは別にしても、夜間にかぎるなら損傷した機体での離着陸は非常に困難でしょう。》・ ドイツ本土爆撃へのランカスターの総出撃機数は47,069機。投下した爆弾は60万9427トン。1機平均5.7トンで、B17、B24の2倍半に達するp.101・ 《5トン爆弾 トールボーイに関する説明》p.106・ 《1944年6月14日ル・アーブル港の魚雷艇を目標とした、トールボーイ爆弾による津波効果を利用した攻撃について》p.107・ 1942年8月の4回の米軍による昼間爆撃の精度は、投弾高度6700~7300mで目標の中心点から160m以内への弾着が全投弾量の90%超。同条件での英軍による夜間爆撃では5~10%で英軍を驚かせた・ この差は《夜間と昼間の差もあるでしょうが》ノルデン爆撃照準器によるもの。といってもノルデン爆撃照準器が格別に予想を超えるような構造をしているわけではなく、それまで爆撃手が口頭で操縦士に指示していた照準修正のための針路変更を、自動操縦装置と照準器を組み合わせて自動的に行われるようにしたものp.117《 アメリカらしい技術だと思います。しかし、著者はこういう平易な説明が上手ですね。》・ B17Fの実用上昇限度は11,200mだが、与圧装置がないため常用作戦高度は7000~7500mであり、乗員は氷点下40度前後の環境下で防寒飛行服に酸素マスクを着用。酸素マスクを装備していても低気圧下での任務が肉体的負荷となったp.132・ B17の常用作戦高度7500m前後はBf109 やFw190が極端な性能低下を示す8500mまでには余裕があり、性能的に余裕を持って迎撃戦闘を行えた。これは与圧装備を完備し常用作戦高度10000mのB29に対して日本の戦闘機が飛行限界を超えているため余裕を持った戦闘ができなかったのと大きく条件が相違するp.132・ B17の最大爆弾搭載量は4トンだが、ドイツ本土往復の際は通常2.5トンであった。F型以降では最大搭載量は6トンになっているが、その場合の行動半径は500キロ以下p.133・ B24の長距離性能のよさはデービス翼の採用によるものだったが、細長い為に主翼が折れやすく被弾に対して脆弱。しかも主翼が折れると垂直錐揉み状態になり、機体の回転による遠心力の為、搭乗員の脱出は困難p.140《確かにB24のキリモミでの墜落に関する記述は戦記でいくつか読んだ覚えがあります。》・ 《1943年における米軍による主要な戦略爆撃とその損害―戦闘機による迎撃が激しく許容損害率4%を超えていた》p.143-・ カサブランカ会談でドイツに対する戦略爆撃の目標順位を決定した際に一位になったのはボールベアリング工場。英国はチェルムスフィールドのベアリング工場をバトルオブブリテンの際に爆撃され戦闘機用エンジンの生産に支障を来たした経験があったp.165・ 《当時》ドイツのボールベアリング産業の65%はドイツ南部のシュバインフルトに集中していたp.166・ 1943年8月の米軍によるシュバインフルト、レーゲンスブルグ爆撃では出撃した376機中、被撃墜54機、機体廃棄87機、搭乗員およそ800名の損失。対してドイツ側の損害は次の10月の爆撃とあわせてもボールベアリングの生産量34%減少程度、復旧作業により半年後には生産量は元にもどったP.172《第二次の損害は更に大きくどう見ても割りに合わないですね》・ 《米軍爆撃航空団による過大な戦闘機撃墜戦果報告について》p.177-・ 1943年1月27日のフェケザック爆撃における米側の戦果報告は戦闘機22機撃墜、対して諜報機関が入手したドイツ側損害は戦闘機7機・ この過大戦果の原因は米爆撃機がコンバットボックスによる立体的な隊形を採用していた為・ 過大戦果が英軍から不信の目で見られたため、米側はフェケザックの実例を参考に集計した撃墜数を単純に3分の1にして発表することとした《その時期不明》・ 1943年10月14日のシュバインフルト爆撃時の米爆撃機の各銃手の敵撃墜報告数の合計は297機だが、ドイツ側が迎撃に出撃させた戦闘機は312機、実際の撃墜数は35機。米側発表は99機撃墜・ この数字の乖離の問題は決着がつかずに終戦・ 《当時》1トンの鉄を生産するには8トンの水が必要とするとされていたp.238・ 《ルールダム攻撃の効果》p.248・ 《1943年8月のプロエスチ製油所爆撃》p.248-・ ブカレストとプロエスチ周辺で対空砲火により撃墜されたB24は33機。これだけ多数の四発重爆が対空砲火で一挙に撃墜されたという記録は例がない。・ プロエスチに侵入した165機の内51機が目標周辺で撃墜された。・ 超低空攻撃のため撃墜された爆撃機の搭乗員は脱出できずにほとんど死亡・ 巨大なコンクリート構造物を爆弾で破壊しようとする場合、爆弾を直接目標に命中させるのではなく至近距離の深い地中で(巨大爆弾を)爆発させることにより、地震波のような衝撃波とハネ上げ効果によって破壊する、という理論に基づいてトールボーイ(5トン)爆弾が製造されたp.290・ 高度6100mからトールボーイ爆弾を投下すると、爆弾は地表面から27mまで潜り込み、弾着地点から半径130m付近まで強力なハネ上げ効果を発揮p.293《 同じ巨大爆弾でも地表破壊を目的としたMOABなどとは原理からして全く異なるものです。 ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.07.27
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大内建二『ドイツ本土戦略爆撃―都市は全て壊滅状態となった』(光人社NF文庫,2006)その1総合評価 ★★★★☆第二次世界大戦における英国空軍と米国陸軍航空隊によるドイツ本土への戦略爆撃に関する概説書。主として英米側の視点から、第二次世界大戦前の英米における爆撃機の開発に始まり、終戦に伴う両国の爆撃機部隊の縮小・再編までの時期が取扱われています。一部、例外的にドイツ本土ではないプロエシチ油田爆撃やサン・カンタンの収容所爆撃なども取り上げられていますが、戦域としてはほとんどが本書の題名どおりドイツ本土で、それに対する英米の空爆に関する内容となっています。内容ですが、戦略爆撃に使用された爆撃機―米国のB17,B24、英国は双発のウェリントン、ブレニム、モスキートから四発重爆スターリング、ハリファクス、ランカスターなど―の開発経緯と概略、さらにその背景にあった両国の爆撃に関する方針については比較的詳しく記述されており、さらに爆撃を実施する側の方針や戦術とその変遷、損害などが重点的に書かれています。基本的に英米側視点の記述となっている為、戦果と損害の比較でも地上側の被害は余り詳しく述べられていない一方、出撃した側については被撃墜、不時着、帰還後機体廃棄など細かく書かれているのですが、その損害の大きいことが特に印象的です。米軍の損害許容率は出撃あたり参加機数の4%と想定していたようですが、それでも条件が悪かったりすると護衛戦闘機としてP51が戦場に現れるまでは10%を超えるケースも多かったようですし、そもそもの投入される機数からして数百から千程度と多いため、何十機という単位で10人くらいが乗り込んだ大型機が消耗していくわけで、日本上空で行われた空爆や防空戦闘とは比べ物にならない壮大な規模の消耗戦だったことがわかります。そんなわけで、戦略爆撃の実施側から見てその様相を概観し、消耗戦としての様相をきちんと描いた本というもの自体が少ないので余程詳しい人でもない限り一読の価値はあるかと思います。不満があるとすれば、消耗戦としての様相と規模の大きさを強調する部分に重点が置かれていて、戦略爆撃が戦争継続能力にどの程度の影響を与えたのか、という戦後最も問題になった部分―特に都市を目標とした爆撃は一般人を巻き込み、且つ馬鹿みたいに資源を喰った割には相手の戦争継続能力には影響しなかったのでは?という至極当然な疑問―については充分な掘り下げがなされていないと感じました。また、ドイツ側の防空体制についての記述において、他に入手可能な書籍も多い(光人社NF文庫で入手可能なものだけで2冊あり。両方とも既読だから余計にそう感じたのだと思いますが…)夜間戦闘機に関する部分の割合が多く、その内容もありきたりなものだった点も今ひとつ。どうせならフラックタワーとか探照灯とか対空聴音器とか高射砲弾の時限信管の切り方とか取り上げてほしかったなぁ(趣味です…夜間戦闘機の話の方が一般にうけはいいでしょうね) ◇ 著者について本のカバーの略歴によると、昭和14年東京生まれ。立教大学理学部卒。1999年に小野田セメントを定年退職した後、雑誌と光人社NF文庫を中心に著述活動をはじめた人のようで、商船や船団護衛に関係する著作でのほうが類書が少ない為に有名ですが、本書のような軍用機関係の本も何冊か光人社NF文庫から出しています。でも別に海運会社とかに勤めていたわけでもないので趣味なのでしょうか。しかし、他の著作でもそうなのですが参考文献として挙げられている書籍には稀少な本が多く含まれています。それ以外の細かい経歴などは不明です ◇ 本書について文庫で348ページの書き下ろし。まえがき、あとがきともに著者自身によるものがついています。 ◇ 内容と雑感お年寄りの空襲体験談が大仰である、などというつもりは毛頭ありませんが、著者の主張どおり日本に対する米軍の戦略爆撃はドイツに対する米英のそれと比べると期間的にも短くまた投下された爆弾量も圧倒的に少なかったのは事実です。でも、空襲というと日本人の大部分にとってはB29(せいぜいB25とかグラマンの機銃掃射くらいかな)でしかないわけなんですよね。しかし、実際問題として本土に対して行われた爆撃の規模を比較してみると(p.324第10表)、総爆撃参加機数530,223機:25,915機、総爆弾投下量1,643,398t対155,000t、国土面積比4.6t/キロ平米対0.4t/キロ平米と全部桁ひとつ違うわけです。この様な大差が生じた原因は、イギリスとドイツの距離が短かったというのもあるし、そもそも英軍が盲爆(というか命中精度には余り期待しない)前提でとにかく爆弾搭載量の大きな四発重爆の開発を早期から行っていたこともあります。本書では、このドイツに対する戦略爆撃というものがどれだけ膨大な資材を投入して実施され、爆撃する側と迎撃する側の間で行われた戦いが如何に熾烈なものであったか、が描かれています。まず、英国の戦略爆撃用重爆の開発着手がとにかく早かったこと。ドイツの再軍備宣言とほぼ同時期の1932年には既にウェリントン、ホイットレー、ハンプデン等の2トン前後の搭載量をもつ双発爆撃機の開発に着手し、その開発終了後も1935年にはスターリング、マンチェスター、ハリファックス、ウォーウィック等の四発重爆の開発に着手しています。しかも、明確にこのときに戦略爆撃を意識して搭載爆弾量をとにかく重視しているわけです。対する米国も同時期に着手しB17、B24が開発されてはいますが、最初から戦略爆撃機という目的で設計されたものではないため爆弾搭載量は見劣りし、実際の1出撃あたりの平均搭載量でB17とランカスターでは2.5倍もの差が生じたのをとにかく機数を揃えてカバーした、とのことです。しかし、日本人が書いている航空関係の戦記では軒並みB24やB17の爆弾搭載量の多さが強調されていますが、イメージで言うと ランカスター>(2.5倍)>B17>(2倍)>九七重爆などというわけで、断じてアメリカが飛びぬけていたわけではないのですね。また、同様に防弾装備についても米軍の重爆は固いような事を言われていますが、英軍と比べて特に優れていたわけではないみたいですね。ただ、英軍が航空機用機銃で7.7ミリに最後まで固執している理由については、著者も確たる理由は述べられないようで、相手を故障させ離脱させればそれで足りるという考えではないか、と述べています。私などは、撃墜より搭乗員の殺傷を目的とする場合も小口径弾をばら撒いた方が効率がよいからではないかと思うのですが、どちらも確証はないみたいです。また、どうにも左翼プロ市民や反戦思想の持ち主には戦略爆撃機の搭乗員=自分は安全なところから平気で市民に爆弾を落とす倫理感覚の麻痺した人間だと考えている人が多いようなのですが、少なくともドイツ本土への爆撃に関しては、1944年後半に入ってP51の護衛ががっちり付くようになるまでの間はやる方もかなり危険だった、というのが数字の裏づけをもって理解できるかと思います。下から悠々と飛行しながら爆弾を落としていく爆撃機を見上げる立場からみると、爆撃機搭乗員は気楽に見えるかも知れませんが、少なくともドイツ本土を爆撃する英米の爆撃機搭乗員は文字通り生きて帰れる保証のない厳しい戦いを強いられていた、ということがよくわかりますちなみに、日本とドイツを爆撃した爆撃機の未帰還率は2.0%対1.4%と、迎撃の困難なB29を相手にし、貧弱な防空体制だったにもかかわらず日本は健闘していますが、これは単純に基地が遠く損傷が未帰還につながりやすかったという事情が原因ではないかと思います。本書を通読してみると、戦略爆撃に関して実施した側からの詳細な作戦参加兵力の損害に関する記述はあるけど、逆側、即ちドイツからみて例えば米軍の昼間精密爆撃と英軍の夜間攻撃とどちらへの対応が困難だったのか、どちらによる損害が戦争継続能力への影響が大きかったのか、とか敗戦による資料の喪失というのもあるでしょうが、ごく一部(第八章の特殊攻撃)以外についてそうした部分への言及がないのは物足りないです。特に戦略爆撃の中でも都市への無差別爆撃については、実際には戦争継続能力への影響が小さくそのわりに一般市民の殺傷が多い、という意味ではとても褒められた手段ではなかった、という指摘が結構昔からあるのですが、この点についても本書は取り上げていません。そういう意味で、今までに人類が経験した最大規模の戦略爆撃というものが主に実施側から見てどういうものだったのか、という様相をきちんと描いているという点では非常にいい本だと思いますが、もう一段踏み込んで、では戦略爆撃が総体として戦局をどれくらい左右したのか、都市への無差別爆撃は戦争継続能力に本当に影響を与えるのか、という戦略爆撃の意義や効果を考える、という点では(その為の資料としても)不足があるかと思います。私としては、戦略爆撃に関してはこの効果と意義というのが一番重要な論点ではないかと思っているので物足りなく感じます。(本を評価する上で、ある事柄について書いてないことを批判する、というのは例えば個人の評伝で美化する為に不都合な部分を書いていないというような悪意あるものでない限り、正当な評価方法ではないとは思うのですが…) ◇ 過去の読書記録一覧はこちらです ◇ 人気Blogランキングに登録しています よろしければクリックをお願いします
2008.07.26
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