松坂世代は今②







PL学園  古畑 和彦








6月初めの土曜日、東京・世田谷の駒沢球場で、
軟式野球の国体都予選があった。


まばらな観客が見守る中、
明治神宮外苑―佐川急便関東戦が始まる。





「打たしていこうっ」





ベンチからひときわ大きな声を張り上げる選手がいた。






古畑和彦、23歳。






かつて春夏の甲子園に連続出場した
大阪・PL学園の4番打者。






今春、神宮球場などを運営する明治神宮外苑に就職し、
職場の軟式チームに籍を置く。








打席のたびわき起こる地鳴りのような拍手に鳥肌が立ったのを、
今も鮮明に覚えている。






延長17回の激闘となった第80回記念大会(98年)の準々決勝、
横浜(東神奈川)戦。


投手松坂(現西武)に対し、
打撃で注目されたのが古畑だった。








その前年から主軸を任された。
歴代の中軸には、
清原(巨人)、立浪(中日)、福留(同)らがいる。






幼い頃からの夢、プロ野球選手に一歩近付いた気がした。





春夏ともに優勝候補とされ、マスコミの取材が相次ぐ。




春の選抜では、準決勝で敗退したものの毎試合ヒットを記録した。






インタビューに

「ストライクならどんな球でも打てる」

と答えたこともある。






新聞には「天性の飛ばし屋」と載った。








あの日――。








第1打席、三塁ゴロ。

2打席目は四球、

3、4打席はともにレフトフライ。






延長11回の1死二塁の好機には、三振を喫した。







当時の監督河野有道(54)は、
試合途中に古畑がベンチ奥で泣いているのを見ている。
調子は悪くなかった。


それまでの3試合で11打数3安打、うち1本は本塁打だ。


この日も本塁打を狙ったが、
松坂の徹底した高めのストレート攻めに釣られて振ってしまった。


6打数でヒットはなかった。








期待されて入った亜細亜大学でのデビューは2年の春、
神宮での東都大学リーグの中央大戦だ。





しかし3打数0安打。


この年唯一の公式戦出場となった。


投手の直球のスピード、変化球のキレは、
高校とは比べものにならなかった。






監督の内田俊雄(56)は

「スイングのスピードが足りなかった」

と振り返る。







古畑は、練習には誰よりも早く出て、「特打ち」を繰り返した。








チームの同期には、巨人の先発で活躍する木佐貫や、
広島の抑えのエース永川がいた。

ともに甲子園出場の経験はない。


彼らはかつての自分のようにマスコミの脚光を浴びていく。








古畑に来た取材依頼は、「延長17回」だった。








練習でさえ、打席に入るのがつらくなった。

これまでなかったことだ。








3年で出場したリーグ戦は、24試合のうち5試合。
快音は響かない。







「もう野球は無理か」

「でも続けたい」


気持ちは揺れた。








卒業を1年後に控え、
古畑は内田に「社会人で野球を続けたい」と打ち明けた。








数日後に返ってきた言葉は

「普通の就職を考えてみなさい」

だった。








4年。





就職活動を続けながらも、しかし練習はさぼらなかった。






「4年間、必死でやってきた」


そう思うと自分自身納得ができた。






電話でよく相談に乗っていたPL学園の元コーチ清水孝悦(36)は、
そんな古畑を評価する。


「うまくいかないからと野球をやめるやつはおる。

華やかだったころがあると、なおさらや。

けど古畑はやり通した。

ホンマに好きなんやな、野球が」 








いま、古畑は会社の寮に住み、ゴルフ練習場で働く。





ためらわずに飛び込んだ職場のチーム。

試合があっても出場できるとは限らない。

出ても相手チームから「昔はすごかったのにな」とヤジが飛ぶ。






でも「PL時代はすごかったんだ」と振り返る余裕ができた。

松坂と闘ったことも誇りに思う。







今春、甲子園で使ったグラブを実家から持ってきた。


ほこりがかぶらないよう、
食品包装用ラップをかぶせテレビの横に飾っている。








最近、これまで使っていた硬式用グラブを、軟式用に換えた。




初めての軟式野球を楽しんでいる。





(敬称略)






<横浜―PL学園戦>


PLが7回までに松坂から5点を奪う。
だが横浜も8回表に同点とし延長戦へ。
11回と16回、横浜が1点勝ち越すが、すぐにPLも追いつく。
17回、横浜・常盤が2点本塁打を放ち、9―7で横浜が振り切った。




’03年7月 朝日新聞の特集より






■■■朋のつぶやき(っつーか、ぼやき)■■■


全然関係ありませんが、
古畑くんを電車で見たことがあります。

JR中央線に乗っていました。


めっちゃデカかったです。






第80回大会っつーのは本当にすごい大会だったと
今でも思います、ハイ。




PL学園は春の選抜でも横浜と戦って、敗れています。


PLは「打倒横浜、打倒松坂」で練習を重ねてきて
リベンジに燃えていたわけです。


そこで「予選で敗退」っつーこともよくある話ですが
見事大阪代表になりました。





やっぱ、目標を上に設定しておくと違うんでしょうかね。


甲子園にでる っていう目標じゃなくて
甲子園に出て横浜を倒す っていう目標じゃないですか。


甲子園に出ることだけが目標じゃないわけです。


甲子園に出て、更には全国制覇した強い強い横浜を倒すゾ、と。





春の選抜が終わった時点で、当時のエース上重(現フジテレビ)は

「松坂を倒す為だけに練習をした」

と言っているくらいです。






まぁとにかく、PL学園は
そんなこんなで大阪府代表になりました、と。


そんでベスト4をかけた試合で横浜と対戦。


こういうのを本当のシーソーゲームっていうんだろうな、という、
シーソーゲームの鏡 みたいな試合でした。





PL学園は横浜に5点リードしながらも
8回に同点に追いつかれる。




両者一歩も譲らない。




取られたら、追いつく。



追いつかれたら、引き離す。




延長に入っても、横浜が引き離せば
PLは意地で追いつく。






「再試合だろうか」


観戦していた人は誰もがそう思ったに違いありません。





17回表、横浜はランナーを1人おいて
常盤のホームランで2点リード。


PL学園は力尽きました。






私がよく思うのは、

「あれがソロホームランだったなら」

ということ。





それまで1点のリードを許しては追いついてきたPL学園。

もし1点だったら、また追いついていたんじゃないだろうか?
そんな考えが脳裏をよぎるのです。




勝負に「たら」「れば」は禁物です。

でももしソロホームランだったら、
また違うゲームになっていたんだろうな、と思うのです。





古畑くんが大学に入学してから、
試合に出たのを見たことはありません。


ずっとメンバーに入っていながらも
出場はほとんどナシ。


延長17回を一緒に戦った、
横浜の捕手・小山は1年からマスクをかぶり続け、
甲子園出場のない木佐貫・永川が脚光を浴びる。


そんな中で腐りもせず、最後まで野球部に籍を置いたことは
元コーチの清水氏も言っていますが、
素晴らしいことなんじゃないかと私も思います。




彼の豪快なバッティングは今でも記憶に残っています。


きれいな放物線を描きながらスタンドに吸い込まれていく
古畑くんのホームラン、
今度は軟式野球でお目にかかれるといいなぁ。





【UP DATE 2003/11/17】


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