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「お父さん、僕はどうしたら良いのだろう」柚木(ゆずき)はつぶやいた。竹生の不在の時間、一人になるのを嫌がる朔也(さくや)の為に、柚木は朔也と共に竹生の居間にいた。暖炉には火が入れられていた。はぜる薪の音が深夜の部屋に大きく響いた。柚木は床の敷布の上で膝を抱えていた。柔らかい敷布は栗色で、炎に照らされて淡く赤味を帯びていた。傍らに異国の極上の猫の如く、伸び伸びと寝転んでいた朔也が起き上がった。柚木と同じ様に膝を抱えると、朔也はじっと柚木を見た。「朔也を追い詰めるな」と竹生に言われた柚木は、過去に触れる質問を、朔也にする事はなかった。けれども一度だけこっそりと聞いてみたのだ。「お父さんと呼んでもいい?」朔也は首を傾げ、しばらく黙っていた。柚木の言った言葉の意味を理解したのかどうか、定かではなかった。柚木はまた朔也が不意に錯乱状態に陥ったらどうしようと不安になった。竹生様に今度こそ屋敷から叩き出される、朔也にも二度と逢えないかも知れないと思った。だが朔也は頷いた。「柚木が、そう呼びたければ・・」それ以来、二人きりの時だけ、柚木は朔也を”お父さん”と呼んだ。朔也はそれを嫌がる気配はなかった。「柚木、大丈夫・・鵲(かささぎ)がいるから」朔也はそう言って微笑した。幼い頃、泣いて帰って来た柚木を迎えてくれた笑顔を、柚木はそこに見た。だが過去を失った微笑は、記憶の中の笑顔よりも無垢で、あまりにも綺麗で、柚木は胸が痛くなった。胸の痛みを隠して、柚木も笑った。「そうだね、鵲さんがいる」朔也は柚木の膝に頭を載せた。柚木はいつもの様に髪をなでてあげた。黒く真っ直ぐな髪は細く滑らかで、柚木の指に心地良かった。「どんなに・・深い川があっても、鵲が橋になる」朔也がつぶやくのが聞こえた。「柚木を・・その先に行かせてくれる・・だから、柚木は・・・・・」言葉が途切れ、柚木の膝の上で頭が重くなった。「お父さん、寝たの?」柚木は朔也を抱き起こした。「ちゃんとベッドで寝ないと、竹生様に叱られるよ」「・・うん」朔也をベッドに寝かせると、柚木は枕元に椅子に腰掛けた。「僕はここにいるから、安心して」朔也の差し出した手を柚木は握った。朔也は目を閉じた。目を閉じたまま、朔也は言った。「とても・・眠い。また、しばらく起きられない・・」「無理はしないで、ゆっくり寝て」朔也は頷いた。すぐに小さな寝息が聞こえて来た。柚木はその寝顔を見ていた。(鵲さんだけじゃない。お父さん、貴方もいるから。やっと見つけた。いてくれるだけでいいんだ、今度は僕が貴方を守るよ。僕はもう十歳の子供じゃない。剣の腕も上達したよ、随分強くなったよ。竹生様にもっと鍛えてもらうんだ。もっともっと強くなる。あの雨の日に貴方を失った、あんな事が二度とないように)柚木は心の中で朔也に語りかけた。(僕は沢山の人を守りたい、今まで僕を守ってくれた人達の事も。お父さん、出来るよね?僕はなれるよね?僕は”盾”、真彦の最強の盾・・その預言通りに)風は遠くに吹いていた。風の運ぶ未来はまだ先にあった。その風の存在を感じながら、今も夜空を翔ける者がいた。その者もまた未来を託された者であった。「我らの風は、まだ止まぬ」誰にともなくその者は言った。黒衣の裾が翻り白く長い髪が闇に流れた。月が照らし出した顔(かんばせ)は天上の美を湛えていた。「夜に潜む者達よ、お前達にこの世界を渡すものか。我らの風が吹く限り」美しき影は天空を翔け上り、消えた。(終)
2010/09/01
「お前達は、私と”絆”を結ぶ必要がある」竹生(たけお)が言った。「鵲(かささぎ)と共に、真の佐原の当主を護る者となる為に」鳥船(とりふね)はその意味を知っていた。それは竹生に血を捧げる事を意味していた。己の命の一部を。”絆”を結んだ者を、竹生は何処に居ても感知し、かの者には竹生の声が届くようになると。それは竹生の支配を受け入れる事でもあった。「拒むならそれでも良い」鳥船が尋ねた。「拒んだらどうなるのでしょう」竹生のあらゆる表情を隠した無表情の白い顔が鳥船を見た。「別の者を選ぶ。鵲の部下として」「何故、それほどまでに?」「漣(さざなみ)の家の者らしくないな。当主様を護る者は当主様のお側にいる」「当主様の居場所を知る為に、火急の際の為にですか?」「それだけではない、お前達の為にもだ」「私達の?」「鵲と共にお前達も生き延びねばならぬ。それがひいては佐原の為になる」高望(たかもち)が前に出た。高望は竹生の前に跪いた。「私に”絆”をお与え下さい。我が父、火高が竹生様に命を捧げたのと同じように」鳥船が慌てて言った。「良く考えろ、高望」高望はじろりと鳥船を見た。「俺は”盾”だ。決意などとっくの昔に出来ている。俺が竹生様と”絆”を結ぶ事で、鵲様と当主様を護る助けになるのなら、拒む理由などない」「高望、お前・・」「鵲様は術を受けた身である事を苦しんでおられる。俺もその苦しみを、少しでも理解出来るやも知れぬ」高望ははっとして竹生の顔を見上げた。今の言葉は竹生に対する侮蔑とも取れる。「竹生様、ご無礼を」竹生は微笑した。高望は思わず見惚れた。「お前の心意気、我が甥への忠誠、良く解った」竹生は高望の前に屈み込み、耳元でささやいた。「お前の望み、かなえてやろう。お前を我が剣の庇護の下に」囁いた薄赤い唇が耳から首へと滑り降りた。高望は床の上に仰向けに横たわっていた。その顔は蒼白で目は硬く閉ざされていた。「すぐに目覚める、心配するな」マサトは椅子の上で胡坐をかき、ケーキを齧りながら言った。「お前はどうする?こいつ一人でも目的は達せられる。お前は拒んでもいいぞ」鳥船は高望を見下ろしていた。首筋の赤い傷を見ていた。”人でない”者の所業の痕を。鳥船は顔を上げた。「竹生様、私は漣の家の者です。漣の家の者だからこそ、貴方にお尋ねしたのです」その顔は晴れやかだった。「物事を確かめずにはいられぬ性分でして。覚悟は出来ております」マサトが笑った。「石橋を叩いて渡るってやつか」「はい。何が起きるかも、どうなるのかも、高望のお蔭で確かめる事が出来ました。これ以上、竹生様をお待たせするのも申し訳がない」鳥船は竹生の前に跪いた。「私も貴方の庇護の下へ。佐原と鵲様への忠誠、高望に勝るとも劣っているとは思いません」竹生は言った。「お前の思いは、むしろ鵲へ深いのであろう?」「”絆”を結ぶ前からお見通しとは、面目ない」「むしろ頼もしい。私に三峰がいたように、お前が鵲を支えよ」「それこそが私の望み、身も心もすべて捧げてお仕え致します」さらさらと白く長い髪が鳥船の頬に触れた。柔らかき闇を思わせる声が耳元でささやいた。「少しだけ貰うぞ、お前の命を」鳥船は目を閉じた。
2010/09/01
「鳥船」竹生が言った。鳥船は身体を硬くした。今この場で切り捨てられても仕方ないと覚悟した。だが次に鳥船が耳にしたのは、意外な言葉であった。「お前が気に入った」竹生は鵲に言った。「立たせよ」鵲は鳥船を助け起こした。竹生は満足気な顔で鳥船を見ていた。「大抵の若い盾は、己の席次を気にするか、目先の事しか見ようとしない。お前のように物事を見る者が側にいるのは、鵲の為にもなるであろう」鵲も言った。「私も鳥船を頼りにしたいと思っております」「鵲様・・」鵲にふらつく身体を支えられながら、鳥船の思いは強く固まった。(鵲様を、必ず盾の長にしてみせる)「高望」「はい」高望は名前を呼ばれて緊張した。「こちらへ来い」高望は竹生の前に進み出た。竹生は高望をじっくりと見た。「鵲の身も心も守り切るが己が務め、お前はそう思っているな」高望は眉を開いた。己の考えを見抜かれた驚きで。「仰せの通りで御座います」「私は長の年月、お前の父と共にいた。火高の事は良く解る。お前は父に良く似ている」父の火高は高望が物心つく前に亡くなっていた。「私は父を覚えておりません」「お前が覚えておらずとも、血は争えぬというやつだ」竹生は微笑した。高望は大きく息を吐いた。そうしなければ、再び呪縛に陥ってしまう気がしたからである。「お前は我が良き部下だった者の息子、期待しているぞ」「ご期待に副えるよう、精進致します」「本当に良く似ているな、その性根までも。お前の事も気に入った。お前はもっと強くなれる。お前に相応しい教師を見つけてやろう」竹生は満足げに二人を見比べた。そして鵲に言った。「良き部下を持ったな。末永く良き長として勤めよ」「ありがとうございます」鵲は竹生の様子に胸をなでおろした。「鳥船」「はい」「お前には更なる知識が必要だな。書斎の使用を許可する」竹生は立ち上がった。「二人とも付いて来い」訝る鵲に竹生は優しく申し渡した。「お前は残れ。私が戻るまで、あれの側に居てやれ。私がいないと寂しがる」鵲には誰の事を指しているか解っていた。鵲は頭を下げた。「素晴らしい蔵書ですね」鳥船は歓声を上げた。元は剛三の書斎だった部屋である。書棚には古今東西のあらゆる本がぎっしりと詰め込まれている。「好きなだけ読むがいい。だが本当に必要なものは、この奥にある」竹生は書棚のひとつに手をかけた。どういう仕掛けか扉が現れた。古びた扉であった。鳥船と高望は顔を見合わせた。竹生が扉を開けた。後について二人も奥へと進んだ。細い通路の奥に広い部屋があった。窓はない。様々な器具の並んだ机と寝台があった。一人の小柄な人物が寝台に寝そべり、黄ばんだ皮表紙の本を読んでいた。青い服を着た子供に見えた。子供はじろりと侵入者を見た。「何しに来た」竹生は子供に恭しく頭を下げた。「鵲の組の者、新しくこの屋敷に住まう者です」子供は起き上がった。「ふーん」二人は竹生が敬意を示している事と、子供の尊大な態度に戸惑っていた。子供はじろじろと二人を見た。子供は鳥船を指差した。「お前、秀明(しゅうめい)に似ているな」鳥船は驚いた。「秀明は、私の曽祖父にあたります」子供はにやりと笑った。「やっぱりな、漣(さざなみ)の家の者か」何故こんな年端のいかない子供が、曽祖父の事を知っているのか。鳥船は、あっと思った。「もしや、マサト様?お亡くなりになったはずでは?」「そのつもりだったんだがな、呼び戻された。おちおち死んでもいられねえんだ」竹生を見て、マサトは再びにやりと笑った。「俺がここにいるのは内緒だ。盾でも知ってる奴はほとんどいない。誰にも言うなよ」マサトは寝台から降りた。そして机の上のナフキンをどけた。様々なケーキが山盛りになった皿が現れた。マサトはひとつを掴むと頬張った。「まあ、ここには他にも住み着いている奴がいるがな」ケーキの皿に手を伸ばしている干瀬を見ながら、マサトは言った。干瀬の姿は二人には見えない。干瀬は首をすくめたが、机の上にしゃがみこみ、両手にケーキを持ってかぶりついた。「俺は今、策を練っている。漣の家の知識が必要だ。それにそっちのでかいの、雷(いかずち)の家の秘伝、お前が受け継いでいるんだな」雷の家の秘伝は一子相伝、父を失った高望はかろうじて存命だった祖父にそれを教えられた。何よりも存在自体が秘中の秘、他家のみならず家の内でも知る者なき、長と嫡男だけの秘儀であった。「秘伝の事を、何故?」「伊達に六百年も村の守護者をやってたわけじゃない。色々と知ってるのさ」マサトはケーキをもうひとつ取るとぱくついた。「このクリーム、美味いな。香りがいい」「アトリエ・エルダールのものですね。最近評判の」マサトはじろりと鳥船を見た。「お前、詳しいな」鳥船は頭を下げた。「恐れ入ります。明日、真彦様ご所望のアイスクリームを買いに行きます。マサト様にもお届け致しましょうか」マサトの顔がぱっと明るくなった。「そいつは楽しみだ。俺の分、忘れるなよ」「心して」マサトはクリームのついた指を舐めた。「鵲を置いて来たのは、あいつに見せたくなかったからだろう?竹生」
2010/09/01
三人が扉の前に立つと、扉は音もなく内側へと開いた。風の力である。夜に支配された部屋の中へ、鵲を先頭に、鳥船、高望と続いて歩を進めた。訓練された夜目を持つ”盾”の三人だが、何物も見る事はかなわず、まとわりつく重い気配に気おされながらも、なおも奥へと進んだ。重くとも悪しきものはなく、ひたすらに荘厳で巨大な気配が三人の心を折りそうになる。それは夜そのもの、深く底知れぬ恐怖と明日への眠りと安らぎを秘めた何か。「歓迎する、鵲の組の者達よ」夜の底に一条の月光が差し込んだ如き声がした。清涼と夜の物憂さを漂わせた声の先に、三人は安楽椅子に座する影を見出した。その者が片手を挙げた。背後のカーテンが開かれ、月光が室内を照らし出した。半分に欠けた月であっても、真の闇に慣れた目には、真昼の太陽の如き思いがした。その者の指先の形が影となって三人の目に強烈に焼きついた。その者は指でさえも神の繊細なる技より生まれた美しさを持っていた。鵲はその場に跪いた。残りの二人もそれに従った。「立つが良い」三人は従った。そして目の前に居る”伝説”を見た。ゆるやかに床まで届く程に白く長い髪が、月光を跳ね返し銀粉を振り撒いている。黒衣を纏った身体はしなやかで、安楽椅子に寛ぐ姿は優雅であり、無表情でありながらあらゆる感情を含んでいるかの如き白き美貌が三人を見ていた。三人は何もかも忘れて見惚れた。見慣れているはずの鵲でさえ、無敵の美影を目前にしてはこの有様であった。「我が甥よ、お前の部下を私に見せてくれ」その声に我に返った鵲は、恍惚の余韻に泡立つ胸を押さえて言った。「わたくしの組の者、鳥船と高望で御座います」二人は鵲より一歩下がって控えていたが、いまだに初めて見る竹生の姿の呪縛から解放されてはいなかった。二人は呆然とした面持ちで竹生を見ていた。その体は細かく震えていた。これほどに圧倒的な力と存在を持つ者に出会ったのは初めてであった。獅子に睨まれた小動物の如き心境と、あってはならぬ美に出会ってしまった感動と悔恨に似た想いが、二人の中でせめぎ合い、二人の身も心も魔性に囚われたままであった。鵲は竹生に出会った人間がどうなるか承知していた。鳥船の傍らに行くと、背中に手を当てて前へ押し出した。「これが漣(さざなみ)の家の鳥船、軍師の家の出の者です」鳥船は鵲の手の暖かさに自分を取り戻した。「竹生様に御目通りがかない、恐悦至極に存じます」何とか声は出たものの、鳥船の声は掠れていた。(我ながら情けない)鳥船は嘆いた。竹生はじっと鳥船を見ていた。竹生は頷いた。「真彦様は、お前を気に入られたようだ。大したものだな」「ありがたき御言葉」鳥船はようやく落ち着きを取り戻した。「鵲をどう思う?」意外な問いかけに鳥船は虚をつかれた。(何が知りたい?甥の器か?それとも俺の?)安易に答えてはならない、だがこの青く深き瞳の前では小細工は通用しないと鳥船は悟っていた。「我が生涯仕えるべき方に巡り合ったと思っております」「成程」竹生は興味を持った顔を見せ、少し身を前に乗り出した。それを見て鳥船は勇気を奮い起こして続けた。「鵲様こそ最高の”盾”となるべきお方、すべての盾を率いるに相応しいと」重ねて竹生は尋ねた。「お前の目指すものは?」「我らは最高の組と呼ばれるようになるでしょう」竹生の目に青き魔性の光が宿った。竹生の唇に微かな笑みが浮かんだ。「それだけではあるまい?お前の望みは」青き煌きが鳥船の心の奥を貫いた。我知らず、鳥船は己の望みを口にしていた。「私は、この戦いを終わらせたい」一度口にした思いは一気にあふれ出た。「我ら”盾”が空しく死んでいく、この繰り返しを断ち切りたいのです。『火消し』の下で死んでいく、我ら佐原の村人の宿命を変えたいのです。『奴等』との戦いに終止符を打ちたいのです」言ってしまってから鳥船は青くなった。(あまりにも大それた事を・・)竹生の不興を買ってあまりある内容であった。(鵲様に、ご迷惑をおかけしてしまう)鳥船はその場に平伏した。「過ぎた事を・・申し訳御座いません!!」
2010/09/01
「初日から深夜までのお役目になってしまったな、済まぬ」鵲は言った。鵲の部屋である。真彦は眠くなるまで三人が下がる事を許さなかったのだ。鳥船はソファに寛いでおり、自分の机にいる鵲に笑顔で応じた。「鵲様のせいではありませんよ。むしろ私達は嬉しいのです」鳥船は向かいの椅子に腰掛けている高望を見た。太い腕を組んだ高望は鳥船に頷き、鵲を見て言った。「当主様には直々にお声掛けを頂き、これから竹生様にも御目通り、こんな栄誉はめったに御座いません」「そう思ってくれるとは、ありがたい」鵲は安堵した表情を見せた。鳥船はずっと鵲の様子を観察していた。真彦達と話しながらでも、鳥船には容易な事だった。鵲の立ち居振る舞い、お役目への熱心さ、佐原の家への忠誠心。どれも申し分なかった。同時に鳥船は鵲の苦悩も感じ取った。”盾”として完璧である事、施された術への嫌悪、その二つのせめぎ合い。人当たりの良い物腰の奥に隠された、閉ざされた心の悲鳴。(成程、これが俺達が選ばれた理由か)高望は余計な詮索はしない。それは鳥船の役割と心得ている。高望の関心事は、鵲と共にどうすれば効率良い戦いが出来るかだ。組の長を守りつつ敵も倒す。高望は己の役割は用心棒と見なしていた。敵からも周囲からも防波堤となる。かつて父の火高が奥座敷の番人として君臨した如くに、鵲の身にも心にも悪しきものを寄せ付けない城壁となるのだと。高望は自分の考えを鳥船が承知していると思っていた。事実、鳥船は理解していた。子供の頃からの長い付き合いの二人だった。「お茶でも入れましょうか」鳥船が言った。鵲の私室は衝立で半分に仕切られている。組としての控えの場所と鵲の寝起きする場所と。湯を沸かす道具は寝起きする場所の方にあった。鵲が立ち上がった。「私がやろう」鵲がソファまで来た時、鳥船が立ち上がり鵲の両肩に手を当てて制した。「私がやりましょう」「しかし」「これからは、部下の使い方も覚えていただかねば」鳥船は肩を押して、強引に鵲をソファに座らせた。鵲は渋々従った。部屋の一角がささやかな台所になっていた。小さな流しと戸棚と焜炉が据え付けられていた。水を入れた薬缶を火にかけると、鳥船は戸棚から急須と湯のみを取り出した。桐原が用意したのであろう、程好く使いやすい茶器類が揃えてあった。無地の焼物で高価過ぎず安物過ぎず、若い鵲に似合いの簡素ながらも清楚なものであった。(まさに手頃とはこういう物だな。こんな心配りが出来る人物になりたいものよ)鳥船は桐原にあらためて尊敬の念を抱いた。桜皮の茶筒には上等の煎茶が入っていた。湯はすぐに沸いた。鳥船は道具を操りながら尋ねた。「鵲様は、珈琲と紅茶とどちらがお好きですか?」「紅茶かな」「お酒は召し上がりますか?」「普段は嗜まない。お役目に差し支えては困る」「高望は一升酒をくらった次の日に、”異人”を二十も倒す男ですよ」「豪快だな」水を向けられて、高望は鳥船の方を見てわざと大げさに怒鳴った。「二日酔いのお前の分も、倒してやっただけだろうが」「二日酔いのふりをしていただけさ。それも策の内だ」「随分と顔色が青かったぞ」「お前より色白だから、そう見えただけさ」高望は鵲を振り返って言った。「ああいう奴ですよ、鵲様」鵲は思わず笑った。「覚えておこう」自分を気楽にしようとする、二人の心遣いが伝わって来た。鵲は二人に心の内で感謝した。
2010/09/01
真彦の部屋は、にぎやかだった。鳥船は話上手で、真彦を刺激せぬように、直接に村を連想させる話題は避けつつ、自分や高望の事を話して聞かせた。鵲の組の者は、子供達と一緒にいても不自然に見えない様に、私服での警備を申し付けられていた。この集まりは、傍から見れば屋敷に住まう子供達と友人の集まりのように見えた。柚木も時折口を挟み、鳥船が面白おかしく受け答えをして笑い声が上がった。鵲は言葉少なに暖かいまなざしで一同を見ていた。桐原もお茶や菓子類の補充に顔を見せた。桐原は階下に戻ると、いつにない真彦の楽しげな様子を電話で幸彦に伝えた。部屋の中を干瀬が跳ね回り、菓子のつまみ食いをしていたが、真彦も柚木も知らん顔をしていた。他の者には干瀬は見えなかった。干瀬は鵲の側に何度もまとわりついてはささやいていた。「お前の心が紅い涙を流して叫んでいるぞ。ワシには聴こえる。お前もワシの声に耳を傾けよ、ワシに守らせろ、お前も」鵲は何も知らぬままに、真彦と柚木を見守っていた。幸彦は古本屋の事務所の書斎机に居た。前のソファに三峰が優雅に腰を下ろしていた。桐原からの電話の会話は、耳の良い三峰にはすべて聴こえていた。三峰は微笑した。「真彦様がお元気になられて良かったですね」「少しだけどね。僕も後で様子を見に行きたいな」「私がご一緒致しましょう。白神は手を離せないでしょうから」「そうだね。お前も鵲に逢いたいだろう」三峰は何も言わなかった。鵲の或る思いに気がついていたからである。それは過去の傷に由来していた。そして今度の処置に対しても。幸彦は三峰の気持ちを察して言った。「真彦の事は、鵲がいてくれたお蔭だ」「あれへのお褒めの言葉、ありがとうございます」書斎机の上に一通の封書が置かれていた。幸彦は封書を開き薄緑の便箋を取り出した。「朱雀からだ」幸彦はしばらく真剣な顔で字面を追っていた。「百合枝さんの具合も落ち着いた。もうすぐ戻れるそうだ。うれしい事が続くね」「また朱雀の惚気を聞かされるのかと思うと、どうも」わざと三峰は眉を寄せてみせた。幸彦は笑った。「昔の朱雀だったら、考えられないよね」「紫苑が生まれてから、朱雀も変わりました」「それで良いと思うよ。僕だって人の子の親だ、朱雀の気持ちが少しは解る気がする」「そうですね」三人の男達は皆、息子を持つ父親だった。夕刻となったので、鵲は部屋を辞そうとした。だが真彦は渋っていた。柚木がなだめた。「鵲さん達にだって、都合があるんだ」茶碗を下げに来ていた桐原がさり気なく割って入った。「真彦様も久しぶりに沢山お話になられてお疲れでしょう。お夕食まで、ひと休みされては如何でしょうか」真彦は口を尖らせて黙っていた。疲れていたのも事実であった。久しぶりに明るい気分で過ごした時間をまだ終わらせたくない気持ちもあった。真彦は鵲を見た。「晩御飯、お前達と一緒に食べたい」鵲は戸惑った。当主と盾が同席して食事をするなど、許されぬ事であった。桐原には鵲の考えが理解出来た。「お夕食もこちらのお部屋でなさいますか?真彦様」「僕は、この部屋から出るのは嫌だよ」真彦はぶっきら棒に答えた。「では、鵲様達の分も、このお部屋でご用意致しましょう」「解った。じゃあ、それまで僕も一眠りするよ」「畏まりました」桐原は鵲に頷いて合図を送った。「恐れ入りますが、食器を下げるのをお手伝い願えますか、鵲様」盆を持って一緒に廊下に出ると、桐原はささやいた。「あの部屋なら食堂より人目につきません。真彦様のご希望に添って差し上げて下さい」「お気遣いありがとう御座います」「竹生様は夜半にお戻りになるご予定です。それまで、新しい部下の方々と真彦様が馴染まれる良い機会かと存じます」「私は良い部下を持ったと思います」桐原は微笑した。「それは、鵲様だからですよ」「お前だからだ、鵲。夢はお前に助けを求めている」干瀬が鵲の耳に囁いたが、鵲にも桐原にも干瀬の声は届かなかった。干瀬はひょいひょいと廊下を飛び回った。「まあ、良い。鵲にも何時か届くであろう、ワシの声が」
2010/07/30
真彦は屋敷に着いてから、一歩も自室を出ていなかった。一日の大半をソファに身を沈め、百合枝に貰った浅黄色の肌触りの良い毛布にくるまって怯えた顔をしていた。村人に自分が殺されると思い込んでいた。柚木(ゆずき)が出来る限り側にいて、真彦の気持ちを和らげようと努力していた。桐原が部屋へ食事を運んでいた。津代も真彦の為に心を砕いていた。鵲(かささぎ)は真彦の部屋へ二人を伴っていった。柚木は先輩の盾達に敬意を表して、ソファの傍らに背筋を伸ばして立った。鵲は鳥船(とりふね)と高望(たかもち)を真彦に紹介した。「私の部下達です。真彦様をお守りする者達ですよ」真彦は毛布の間から目を覗かせ、二人を見た。鵲はソファに腰を下ろし、真彦を抱き起こして座らせてやった。真彦は大人しく従った。真彦は柚木に次いで鵲に信頼を寄せていた。鵲の部下の二人も、他の盾よりも若く、自分に近しい年齢の者と解り、少し警戒を解いた顔をした。「この大男の高望は、貴方の御父上の幸彦様を身を挺した護った、火高の息子なのです」鵲の言葉に真彦は興味を持った顔をした。「火高は知ってる。お父さんに聞いた。お前が息子なの?」高望は頷いた。「父が幸彦様をお守りした様に、私も真彦様をお守り致します」「そうか」真彦は安堵の表情を浮かべた。鵲は鳥船を軽く手で示した。「こちらの鳥船は軍師の家系で頭が良いのです」柚木が言った。「じゃあ、勉強も教えてもらえるかな。だいぶ遅れちゃったし」鳥船は愛想良く言った。「勿論ですとも。学校の勉強から美味しいケーキのお店まで、私に解る事なら何でも」真彦はぽつりと言った。「僕は、アイスクリームがいい」「では、明日にでも買って参りましょう。ラズベリーとクリームチーズにホワイトチョコを使ったお勧めのがあるのですよ」真彦は目を見張った。そして鳥船を見上げた。「それ、食べたい」「他にもお勧めのがありますよ。色々と買って参りましょう」「みんなの分も。柚木とお前達と、津代や桐原や伴野や、他のみんな」柚木はうれしくなった。こんな事を真彦が言うのは久しぶりだったのだ。鳥船は大げさにお辞儀をしてみせた。「承知致しました」真彦は満足げにソファに寄りかかり、柚木に言った。「そろそろお茶の時間だ。津代にお茶とお菓子を貰って来てよ。みんなの分も」真彦は鳥船と高望の顔を交互に見ながら言った。「もっと話してよ、お前達の事」柚木は台所へ行き、津代に真彦の伝言を伝えた。津代の顔も明るくなった。「少しお元気になられたのですね」「鵲さんは、やっぱり頼りになるね」津代は微笑した。「柚木様も、鵲様のお歳になられたら、そうおなりですよ」「僕、頑張るよ」台所を出て行く柚木の背中を、津代は温かい目で見送った。「”けえき”なら、ワシも欲しいな」不意に背後から声がして、津代は驚いて振り向いた。青い肌の青年が立っていた。青年の顔は朔也にそっくりだった。にやにやと笑いながら、その者は言った。「やあ、津代殿にもワシの声が届くようになったか」「貴方が、貴方様が・・・」「干瀬(ひせ)と呼んでくれ」干瀬は踵でくるくると回りながら言った。「これでもっと美味い物が食えそうだ。その分、手伝いもする」津代も佐原の”ゆりかご”の女である。立ち直りは早かった。「では、向こうの棚からお皿を出して下さいな」「承知」干瀬はひょいと飛び上がると、ひと足で棚の前にたどり着き、両手に器用に重ねた皿を持ち、またひと足で戻って来た。「これで良いかな」「助かります、干瀬様」「うむ、これで毎日の楽しみが増えそうだ」干瀬はうれしそうに跳ね回って台所を一周すると、茶の支度を始めた津代の傍らに戻って来てささやいた。「今日の夕飯は何かな?」
2010/06/13
「私が鵲だ」(三峰様に良く似ておられる)鳥船の口元が綻んだ。若さゆえに貫禄はないが、育ちの良さと誇りの高さが感じられる。艶やかな黒髪はうなじで切りそろえられ、頤の細い色白の顔は、涼しげな目元にまだ少年の色を残していた。桜色の唇の結び方に生真面目な性格が垣間見られた。それも鳥船には好ましかった。そして赤い瞳がこちらを見ていた。(極上の紅玉か、暖かき炎の如き色だ)隣の高望も鵲に好感を持ったのを、鳥船は感じ取った。(俺達は”盾”で最高の組になるだろう)鳥船は確信した。鵲が呼ばわった。「鳥船」「はい」「高望」「はい」「若輩者ゆえ、組の長として物足りぬやも知れぬが、よろしく頼む」鳥船が言った。「我等も未熟者ながら、精一杯お仕えさせていただきます」高望も頭を下げた。「よろしくお願い致します」鵲はほっとした顔を見せた。二人に自分を侮る気配がなかったからである。鳥船は素早くそれを読み取った。(まだお若くていらっしゃるな)己の心を隠すのも盾のたしなみではあるが、鵲は完璧とは言えない。鳥船は、鵲を最高の自分の作品として育てる決心をした。人生をかけての大仕事を、初めて見出した心地がした。(我が家の悲願、この方ならきっと)鵲がすまなそうに言った。「お前達の部屋の用意がまだ出来ておらぬ。しばらく相部屋で我慢してもらう」鳥船が陽気に言った。「何、寮で慣れております。こいつとは長年の付き合い、今更の気兼ねもありません」高望がじろりと鳥船を見た。「気を使うだけ損な男だしな、お前は」二人のやり取りに、鵲も思わず微笑した。二人が懇意であるのは、上に立つ者として好ましいとも思った。「夕刻過ぎに、竹生様にご挨拶に伺う。それまでに荷物を片付けておけ」鳥船は驚いた。高望の硬い顔にも驚きが刻まれた。鳥船は身内の高揚を抑えながら尋ねた。「我等もですか?」「三人揃ってだ」二人にとって、三峰は雲の上の人であった。増してや竹生はそれ以上である。長年”盾”にいても屋敷の警備に当たっても、顔すら見た事もない者も多いのだ。(俺達は強運だ。だが気は抜けないな、竹生様が見ておられるなら)鳥船は心の内でつぶやいた。部屋で荷物を解きながら、高望がからかう様に鳥船に言った。「一目惚れか?」「ああ、そうだ」「やけに素直だな」「別にお前に隠しても仕方ない。妬くなよ」「馬鹿を言え、俺は女の方がいい」鳥船は壁に作りつけの箪笥の引き出しの下二段を引き出した。「ここを俺の領分にする」鳥船はてきぱきと荷物をしまいながら言った。「本気を出すぞ」「珍しいな、それほどに惚れたか」「何とでも言え」「そうだな、俺もあの方の下でならと思った」「そうか、お前も本気になるか」「俺はいつだって手を抜いた事はないぞ」「全力は出さぬくせに」高望は時勢を見る目を備えていた。”盾”の主流ではなく傍流に身を置いた為に、全体を見る視野を持てたのである。無鉄砲に戦うだけでは、お役目をしくじる結果になる例も沢山見て来た。それ故に無骨な外見に似合わぬ慎重さをも持ち合わせていた。「相手を倒すに十分なだけの事をしている。それと手を抜くのは別の話だ」「理屈を言うのは、俺の担当だぞ」「ああ、鵲様への言い訳は、お前に任せた」「俺は鵲様に言い訳なぞしないぞ」高望はにやりと笑った。「お前に言い訳なぞ、させないさ」鳥船もにやりと笑った。「そうだと思ったよ」
2010/06/07
竹生の部屋にたどり着くと、鵲は息を整えた。呼ばれもしないのにここまで来た。それだけでも鵲の中で臆する気持ちは強くなっていた。ここはいわば”聖域”なのだ。普通の盾ならば、その姿を見る事もかなわぬ、生ける伝説の住まう場所。(私は、私は強くならねばならぬ。その為に来たのだ)交代で派遣される警備部の者達は、伴野の小屋の二階に寝泊りした。屋敷詰めとなった高望と鳥船にも、鵲の部屋よりは狭いが、個室が与えられる事になっていた。三隅と須永の組は交代で専用の部屋を使っていた。鍬見も検診に定期的に訪れた。磐境と白神からの伝言と若手の監督も兼ねて、鹿沼も立ち寄る事が多かった。柚木と真彦は二階の中央が扉で繋がった部屋を与えられた。廊下を通らずに互いに自由に行き来が出来た。真彦の不安を和らげる為でもあった。大所帯となった屋敷では、盾達も家事を手伝う事となった。身の回りの事は自分で始末する習慣のある彼等には、特に苦になる事ではなく、桐原の指示に従い黙々と働いていた。利口な一棹のような盾は、伴野と庭掃除をしながら、庭の地形や木の位置、足場となる場所を覚えこみ、いざという時に役立てようとしていた。津代のお気に入りの鹿沼は台所の手伝いが多かった。表情の変わらない鹿沼だが、むしろ嬉々として手伝う気配がしていた。食事時は、台所は食欲旺盛な盾であふれかえる。津代は盾の寮の頃を懐かしがり、彼らに少しでも美味い物を食わせようと、工夫と算段をするのであった。変わらぬのは三階の暮らしだけであった。いつもひっそりと静かなままであった。用事のある者以外は上がっては行かず、竹生も朔也もめったに階下の者達の前に姿を見せる事はなかった。鵲が叩く前に扉は音もなく内へと開いた。中から風が青く甘い香りを運んで来た。竹生が自分の入室を許可したのだと、鵲は感じた。「失礼致します」夜に満たされた部屋に、灯はなかった。部屋のあるじが必要としないからである。暗闇の中から声がした。声は夜の物憂さと安らぎを帯びてた。「お前の心、定まったようだな」「はい」鵲は声のした方角に答えた。風が吹いた。濃緑の厚手のカーテンが、レースの如く軽々と翻り、開け放たれた。窓から煌々と輝く月の光が差し込んだ。いつもの安楽椅子に竹生はいた。絹のゆるやかな黒いシャツとズボン、黒い繻子の室内履きの足がオットマンに投げ出されていた。片方の肘掛に肘をつき、竹生は白く繊細な指で顎を支えていた。さらさらと純白の髪がこぼれ、床に触れそうになりながら、月明かりを鈍く跳ね返していた。青く深い魔性の目が鵲を見ていた。鵲は何もかも忘れ果て、竹生に見惚れた。父の三峰に良く似た面差しだが、そこには美だけではなく、あらゆるものが存在した。誇りも気高さも恐怖も非情も、そこには人に敬いと畏れを与えてやまないすべてがあった。「来い」その声に我に返った鵲は、竹生の椅子の方に歩いていった。竹生の前に立つと、鵲の背筋は自然と伸びた。竹生はしばらくじっと鵲を見ていた。鵲も竹生を見ていた。見ていたというより、目が離せなくなってしまったのだ。”盾”始まって以来の最高の盾、村の守護者、”人でない”者、多くの伝説を持つ者。だがそこに居るのは、ただただ美しい姿をした者なのである。「お前の望みを聞こう」鵲は全身に絡みつく誘惑の如き甘い戦慄と呪縛に耐えながら言った。「私を鍛えて下さい」「何の為に」「当主様と柚木を護る為に。そして一人でも多くを護れるように」「今の己をどう見ている?」「私は弱い、身も心も」竹生は微笑した。それを目にした途端、鵲の緊張のすべてが解れ、鵲の身から力が抜けた。ゆらりと傾いだ鵲の身体は、素早く立ち上がった竹生の力強き腕に抱き取られた。竹生は鵲を抱きしめた。竹生は鵲より背が高かった。白く長い髪がさらさらと帳となり、鵲は白い闇と青く甘い香りに閉じ込められた。頬を押し付けられた胸は温かかった。「我が甥よ、三峰の子よ。聞くが良い。我等は人より優れた力を授かった故に、皆険しき道を歩む者。私もお前の父もそうだった。形は違えど多くの試練が与えられた。だが我等は今ここにいる」恍惚として、鵲は竹生の言葉を聴いていた。「お前も乗り越えよ。風の家の正統よ、未来の盾を率いる者よ」鵲はようやく頷いた。声は出なかった。「明日、お前の部下となる者達が来る。揃ってここに来い。盾は組で動く。三人三様に強さを求めねばならぬ。鍛えてやるとも、我が甥とその部下を。”外”の誰にも、己にも負けぬ程にな」
2010/06/07
「柚木、そうじゃない!」思わず鵲(かささぎ)は叫んでしまった。芝生に着地した柚木が怪訝な顔で鵲を見た。「相手の攻撃を受けた時は、後ろにも風を置くのだ」「後ろにですか?」「そうすれば、剣だけではなく風でも相手を受け止める事が出来る。反動を用いて、より早く次の攻撃に出る事も出来る」柚木の顔に尊敬の色が浮かんだ。「さすが鵲さんだ」「いや・・」今の自分には風は使えない。それを鵲は思い出した。鵲は相手をしていた竹生に深々と頭を下げた。「余計な事を、申し訳ありませんでした」鵲は足早に屋敷の中へと入って行った。竹生は黙って鵲の背中を見送った。夜空には満ちて行く半分の月があった。鵲はそのまま二階の自室に引き上げた。鵲は個室を与えられていた。作り付けの箪笥と寝台、書物机に棚。日常には何不足ない部屋であった。隅に簡素ながら洗面台と流しもあった。茶を沸かす位は出来る。寝台のある片隅は衝立で仕切っていた。ここで警備の打ち合わせをする事もある。個人的な空間と分けたかったである。書物机の椅子に腰を下ろすと、鵲は左の拳を右の掌で包んだ。そしてぎゅっと手を握り締めた。悔しかった。(風の力さえ、力さえあれば・・)柚木がまだ未熟なのは若いから仕方ない。それは許せる。だが自分の風を封じられた事を、鵲は未だに納得出来ていなかった。顔でも洗って気分を変えようと、鵲は洗面所に立った。鏡に鵲の顔が映った。三峰ゆずりの色白の端正な顔の中で、赤い瞳がこちらを見ていた。。赤い瞳はイサクの血の作用だった。それは毒に侵されない唯一の盾の証。だが同時に風の力を失った証でもあった。鵲は大きく息を吐いた。漆黒の髪がさらさらと揺れた。髪は肩先まで伸びていた。風の力を持つ者は長髪の者が多い。風になびく髪の感覚で多くを知る事が出来るからだ。(私には、もう・・必要ない)大股で机に戻ると、引き出しから鋏を取り出した。再び鏡の前に戻ると、鋏でじゃきじゃきと髪を切った。黒くしなやかな髪が洗面台に落ちた。鵲は表情のない顔で鏡を見詰めながら、髪を切り続けた。「髪をどうされたのですか」廊下で行き会った千条が鵲に尋ねた。鵲は少し決まり悪そうな顔をして言った。「鬱陶しいので、切りました」「後ろが不揃いですね。揃えて差し上げましょう」千条は鵲を自分の部屋へと導いた。椅子にかけさせると首の周りに白い布を巻いた。千条は専門家の使う髪切り鋏を出して来た。千条は鋏の穴に指を通し、少し笑って説明した。「百合枝様の髪のお手入れも、私の仕事なのです。お屋敷の他の方の髪も、切って差し上げる事もあります」鵲は大人しく俯き、うなじに鋏をあてる千条のされるがままになっていた。千条も風の家の者である。鵲の行為の意味を理解していた。自身も長く伸ばした髪を後ろにひとつに束ねていた。「鵲様の剣の腕は、若手では抜きん出ておられる」鵲は苦笑した。「気休めはやめて下さい」千条は世間話でもする様に言った。「私はかつて盾ではなくなりました。この片足が不自由になったからです」五体を損ねた者は盾を引退するのが決まりである。その事は鵲も知っていた。「それでも竹生様は、私をここにお呼び下さった。百合枝様をお守りする為に」「多少の不自由があろうと、貴方の強さは並の盾以上だと思われての事でしょう」千条は微笑んだ。「来てから、竹生様に鍛えられました」「羨ましい。私も柚木の様に、竹生様にご指導を仰ぎたい」「竹生様は、それをお待ちなのでは?」「え?」「今以上に、剣技を磨いて欲しいと」ショキショキと快い音を立てて、千条は白いうなじの漆黒の髪を切り揃えていった。「風の家の者は、風の力に頼り過ぎて、他が疎かになる者も多い。鵲様は努力しておられる。剣の腕は、まだまだ上達する見込みありと、私は見ています」鵲は千条が自分を励まそうとしているのを感じた。「ありがとうございます」千条の声に強さが混じった。「もっと上を目指して下さい。今のご自分に不満でしたら、もっと強くなる事を」鵲ははっとした。(そうだ、その通りだ。悩んでばかりいても仕方ないのだ)「出来ました」千条はささっと刷毛で細かい毛を掃うと白い布をはずした。鵲は立ち上がると千条に頭を下げた。「貴方のおかげで、目が覚めました」千条は微笑した。夜はそこまで来ていた。「三階に行かれますか?」「はい、竹生様にお願いしてみようと思います。駄目なら自分で鍛錬の方法を見つけます」「その時には、及ばずながら、私もお手伝いを」「はい、その時には」鵲はようやく明るい笑顔を見せた。その顔は三峰に良く似ていると、千条は思った。鵲は出て行った。千条の”人ではない”耳は、鵲が階段を昇って行く力強い足音を聞き取っていた。
2010/06/07
幸彦は寝台を半分起こし、窓の外を眺めていた。二つ並んだ寝台の窓に近い方には、真彦が安らかな顔で眠りについていた。起きていても眩暈を感じる事はなくなった。(だんだんと身体を動かないとな。体力が落ちるばかりだ)夢の力を持っていても、普通の人間である幸彦の身体には確実に老いが忍び寄っていた。緩やかに波打つ髪にも白い物が混じり始めた。痩せて筋が目立つ様になった両手に、幸彦は目をやった。(僕はいつまで真彦の傍にいられるのだろう)佐原の血筋は短命と知ってから、幸彦はその事を考える様になった。佐原の血を引いてはいても、祖父のマサトの呪いを受け継いだ真彦は長く生きる定めであった。自分が死んだ後、本当の意味で真彦を守る者はいなくなる。その為に”生ける人形”と化した春日根を真彦の側近としたのだが、それは裏目に出てしまった。春日根の真彦への絶対服従の態度が、真彦の我がままと苛立ちを助長してしまい、不毛な行動へと走らせてしまった。(僕が傍に居て、叱ってやるべきだった)多忙であった事は事実である。『火消し』が姿を隠した後、すべての責任は幸彦の肩にかかっていた。村の事も”盾”の事も、勿論『奴等』の事も。三峰や白神の献身があり、朱雀の尽力があったとしても、問題は山積みだった。成人まで何も知らされていなかった幸彦にとって、自分の周囲に何が起きているかを正確に把握するだけで、精一杯な日々が続いていた。一国の首相以上に激務であったかも知れない。ましてや幸彦が相手としているのは、人間でも外国でもなく、化物と異世界なのである。扉を軽く叩く音がした。「失礼します」幸彦には朱雀の声だとすぐに判った。「入れ」「お加減は如何ですか、幸彦様」朱雀はいつもながらに良い男振りであった。仕立ての良い薄茶色の背広、豊かな赤味を帯びた髪にも乱れはなく、何よりも精気に満ちた姿勢の良い長身と笑顔が誰にも好感を覚えさせる様子もいつもと変わりがなかった。朱雀を見ると、幸彦は自分にも力が湧いて来る心持がした。「いいよ。そろそろ普通の生活に戻る練習もしなくてはね」朱雀は微笑した。「それは何よりです」幸彦は朱雀の後ろに控えている人物に目を止めた。幸彦の目が驚きに満ちた。黒い野球帽の影になって表情は見えないが、春日根に間違いはなかった。「春日根、無事だったのだね」春日根は黙って俯いたまま、幸彦の傍へと進んだ。朱雀は微笑したままであった。「お前には済まない事をしたね。僕は・・」言いかけた幸彦の顔を覗き込み、春日根はにやりと笑った。「ユキ、ただいま」その声を聞いた幸彦が息を呑んだ。戸惑いと喜びと入り混じり奇妙に歪んだ顔で、幸彦は春日根を見上げた。「お父・・さん?」マサトは幸彦を抱きしめた。「ああ、そうだよ」「本当に?いや、お父さんだね、この気配、感覚、流れ込んで来る・・」「俺だよ、ユキ」安堵ともにずっと一人で耐えて来た思いが一気に崩れ、幸彦から涙と共にあふれ出した。マサトは幸彦の髪を撫でながら、朱雀を振り返って又にやりと笑った。「言っただろう、幸彦に俺が判らないはずはないって」「はい」朱雀は部屋の隅にあった折りたたみ椅子を広げて運んで来た。「気が利くな」「恐れ入ります」マサトは身軽な動作で椅子を引き寄せ、腰を下ろした。「お前と真彦に土産を持って来たぞ、ユキ」マサトは指を鳴らした。一人の”盾”が白い大きな箱を運んで来た。「ここのケーキ、美味いぞ。俺の分は車の中で食った」「お父さんらしいな」(やっぱりお父さんだ・・)幸彦の目から又新たな涙があふれた。
2009/12/30
幸彦の病室に、もう一台の寝台が運び込まれた。真彦の為であった。親子一緒の方が良いと、幸彦が主張したのだ。「警備もその方が楽だろう」幸彦は”盾”の現状も慮っていた。「申し訳御座いません」村からの増援が望めない今、幸彦の心遣いはありがたかった。だが幸彦にまで気を使わせた事を、実質的に”外”の盾の長となった白神(しらかみ)は無念でならなかった。今の”盾”にはかつての様な猛者は少ない。近年の激化した戦いの中で多くの古株の”盾”は倒れ、訓練が不十分な若い”盾”も各所に配置せざるを得ない状況であった。「僕が真彦と一緒にいたいだけだ。しばらく離れていたからね」幸彦は横になったまま微笑んだ。真彦は命には別状がないものの、意識は戻っていなかった。幸彦は夢を通して真彦の状態を見ていた。「思ったより落ち着いている。様子を見よう」「はい」同じ病院の地下で、柚木も昏々と眠り続けていた。マサトはベージュのスラックスに薄青のシャツを着込み、スカイブルーのフリース地のパーカーを羽織った。マサトは青が好きだった。朱雀は遠慮がちに言った。「お忍びにしては、派手過ぎませんか」マサトは試着室の鏡に映った自分の姿を満足そうに眺めていた。「いいじゃないか。大人の身体もいいもんだな」本来のマサトの身体は成長する事が出来なかった。六百年余りを生きた時も外見は少年のままであった。朱雀程ではないが、春日根もすらりとした長身の良い男だった。「行こうか」マサトが笑顔で言った。声も口調も朱雀には懐かしいマサトであった。その顔も春日根のはずなのに表情が明るくなっただけで別人に見えた。だが朱雀は違和感を当分拭い去る事は出来そうになかった。マサトはそれと察して言った。「そのうち慣れるって」マサトは黒い野球帽をかぶり、鏡で具合を確かめた。「じゃ、朱雀、支払いよろしくな」マサトは意気揚々と店内を横切っていった。朱雀の車の助手席で、マサトはドーナツを食べていた。車は病院へ向かっていた。「これ、美味いな」砂糖衣がびっしりと掛かった揚げたてのドーナツを、抱えていた袋から取り出すと、マサトは運転席の朱雀に差し出した。「食う?」朱雀は苦笑いした。「いえ、私は」「そうだったな。俺が少し寝ている間に、色々あったんだな」「はい」朱雀には確かめたい事は他にもあった。マサトとして有していた能力が、今の身体でどの程度発揮出来るのかどうか。もし圧倒的な霊力を誇る”村の守護者”であった時のマサトのままであれば、戦力として有り難い事この上ない。朱雀はマサトの慎重さも覚えていた。(必要な事は、マサト様からおっしゃるだろう。今は聞かないでおこう)青い色が好きで、甘い物が好きで・・朱雀はふっと笑った。ドーナツをぱくつきながら、マサトが朱雀を見た。「何だ?」「うれしいのですよ、マサト様がお戻りになったのが」「ふん」マサトは鼻先で笑いながら、またひとつドーナツを取り出した。「神内は何と言うか、解らないな。前例がないからな」「転生については、私には解りかねます」マサトは笑った。「俺にだって解らない。何だって何度も同じ奴等の顔を見なくちゃならないのか」「・・私は、前の事は覚えていません」「俺だって、いちいち覚えてるわけじゃない。そんな面倒臭い」もうひとつ気掛かりだった事を、朱雀は口にした。「真彦様は、どうなるのでしょうか」「そうだな」マサトは空になった袋を両手でくしゃくしゃと丸めた。「ひとつの器に二人分の魂、という状態が異常だったんだ。これからの方が良くなると思うな」「先に戻った赤荻からの連絡では、まだお目覚めにならないとか」「ふむ」マサトは前を見ながら、何かを考えていた。しばらく沈黙が車内に流れた。やがてぽつりとマサトが言った。「俺が最後に感じた真彦は、怖がっていた」「怖がっていた?」「自分の周囲の人間・・いや、村人かな」有り得る事だった。すべては当主としての重圧、そして反発から起きた悪夢だった。不意にマサトが叫んだ。「停めてくれ」「何か?」マサトは外を指差した。白とピンクの砂糖菓子で出来たような瀟洒な店があった。「あのケーキ屋に寄って行きたい」「後ではいけませんか?」「せっかく自分の舌で味わえるようになったんだ。堅い事を言うなよ」朱雀は店の前に車を停めた。マサトは急いでシートベルトを外し、ドアから滑り出たが、再び車の中に首を突っ込んだ。「あ、朱雀」マサトは片手を朱雀に差し出した。「お金」朱雀は再び苦笑しながら紙幣を渡した。紙幣を握り締め、マサトは子供の様に勢い良く走って行った。
2009/12/23
用意された着物に着替え、二人は案内された部屋に落ち着いた。部屋は欄間にも天井にも贅を凝らした座敷で、籐の肘掛け椅子と小卓があった。朱雀と赤荻は椅子に腰を下ろした。座敷は縁側に続いていた。硝子戸を通して、朱雀には広い庭が見渡せた。赤荻の目にも幾つかの建物の影が見えた。「お前は初めてだったな」「こんなに広いとは思いませんでした」小卓に置かれた湯飲みを取り上げると、朱雀は口に運んだ。焙じたばかりの香ばしい茶だった。朱雀が手を付けたので、赤荻も茶を飲んだ。赤荻が飲むのを見ながら朱雀が言った。「良い香りだろう」「はい」「丁寧に焙じてある。昔ながらのやり方だ」朱雀が思うのは、茶の味についてだけではない事は、赤荻にも解った。村を頼る事なく、尚且つ”盾”の正しき技と規律を維持していく事の困難さを、朱雀は考えている。古き因習から解放された後、自由が怠惰と堕落のみに繋がってはならないのだ。「失礼致します」襖の向こうから男の声がした。「雪火様が至急お二人に来ていただきたいとの事です」廊下は暗かった。迎えに来た男は手燭を掲げて先に立った。闇を見通す朱雀の目には必要ではないが、後の二人には、灯が必要であった。灯に黒光りする廊下の幾つもの角を曲がり、更に階段を下がり、朱雀と赤荻は奥の間に導かれた。そこは天井が低く奥に長い座敷で、油を湛えた古風な蜀台が並び、室内を照らしていた。突き当たりの壁に白い布が重なりあって垂れ下がっていた。その手前に白い布で包まれた寝台があり、その上に春日根が横たわっていた。周囲を白衣の群青の家の者達が囲んでいた。一人の小柄な白衣の者が二人に手招きした。雪火であった。朱雀は奥へと進んだ。赤荻も続いた。人々は場所を開けた。朱雀は寝台の横に立ち、春日根を見下ろした。春日根はきれいに洗い清められ、白い着物を着せられていた。胸の半ばあたりまで白い布で覆われていた。不意に春日根の目が開いた。焦点の合わぬまま、ぼんやりと宙を漂っていた視線が朱雀を捉えた。春日根の目に生き々々とした光が宿った。春日根が言葉を発した。「やあ、朱雀」滅多に動じぬ朱雀の顔に驚愕が走った。「どうした、俺を忘れたか?」弱々しく掠れてはいたが、その声も口調も朱雀の良く知る者に間違いはなかった。「・・マサトさま?」「ああ」「何故、ここに?」春日根=マサトは目を閉じた。「説明は・・・後だ。今は・・とても・・眠い・・・・」朱雀は驚きに目を見張ったまま、横たわる身体を見下ろしていた。
2009/12/07
赤荻はうつ伏せの男の顔が朱雀に見えるように、少し上を向かせた。泥まみれの顔は春日根であった。「中身だけ、逃げたのか」「その様です」「丁重に葬ってやれ」「はい」朱雀の背中の上で老婆が言った。「まだ、助かるぞえ」「本当ですか、雪火様」「嘘を言って何になる」「ご無礼を」「その男をワシの屋敷まで運べ」赤荻は朱雀の命令を待つ事なく、春日根を背に担ぎ上げた。背広が泥だらけになったが、表情を変えなかった。朱雀が言った。「思わぬ残業になったな。戻ったら特別ボーナスを支給しよう。背広一着分でいいかね」「ありがとうございます」赤荻が極端な清潔好きである事を朱雀は知っていた。「急げ、急げ。時が経つほど難しくなるぞ」朱雀の背の上から、老婆が怒鳴った。群青の家の土間に入ると、出て来た下男が驚いて叫んだ。「雪火様、お怪我でもされましたか」朱雀は丁重に背中から雪火を下ろした。「馬鹿者、それより神那(かんな)を呼べ」下男は再び奥へと引っ込んだ。「気が利かぬ奴じゃ」朱雀が微笑した。「気の利く方もおられるようですが」一人の若い女人が白い布を捧げ持って現れた。雪火に何処か似ている。「お婆さま、お帰りなさいまし」「孫娘の蘭火(らんか)じゃ」「これは美しい」朱雀は目が合うと蘭火に微笑みかけた。蘭火の頬が赤くなった。「色気付いておらんで、さっさとやらんか」慌てて蘭火は一段高くなった板の間に布を広げた。雪火は赤荻に言った。「それを布の上に下ろせ」「はい」赤荻は春日根をゆっくりと布の上に横たえた。初老の男を筆頭に数名の男が奥から走り出て来た。「神那(かんな)、遅いぞ」雪火は不機嫌な声で言った。男達は平伏した。「お館様、お帰りなさいまし」「挨拶はいい、これを奥へ運べ。すぐに手当てするぞ」「ただちに」男達は布ごと春日根を持ち上げると運び去った。老婆は朱雀を見てにやりとした。「ひと風呂浴びていけ。蘭火に背中を流させても良いぞ」「お婆さま!」蘭火が叫んだ。朱雀は湯の中で手足を思うさまに伸ばした。檜の湯船は広く、満たされた湯は柔らかく肌に心地良かった。「朱雀様」引き戸の向こうから赤荻の声がした。「何だね」「磐境(いわさか)様に連絡しておきました。真彦様には二星が付き添い、急ぎ病院へ。こちらの迎えには一棹(ひさお)が参ります」「ご苦労、お前も汗を流せ」赤荻のためらう気配がした。「いえ、私は・・」「何だ、私の背中を流してくれないのか」「そういうわけでは・・」「いいから入れ」「失礼します」朱雀の背中を手拭いでこすりながら、赤荻が消え入りそうな声で言った。「あの・・朱雀様、どうかこちらをご覧にならないで下さい」朱雀は笑った。「そうか、お前は”外”で育ったからな」「はい」「村の”盾”の宿舎は大風呂だ。子供の頃からそれが当たり前だからな」「申し訳御座いません」「気にするな、これからはそういう奴が増えるだろう」
2009/11/02
朱雀と赤荻の行く手にひとつの影があった。二人は立ち止まった。赤荻が身構えた。小柄な人影は敵ではなかった。夜風が皺枯れた声を運んで来た。「騒々しい事よの」雲間から現れた月が、後ろ手を組んだ小さな老婆の姿を照らし出した。朱雀は呼びかけた。「群青の家の・・雪火(せっか)様ですか?」群青とは『奴等』の侵入を阻む”壁”を管理する一族である。老婆は腰を伸ばし、目の前の朱雀を見上げた。「ほう、善衛(よしえ)のとこの長男坊か。随分と色男になったな」「ここは危険です。お屋敷にお戻りを」「ひよっこに心配されるほど、まだ耄碌しておらんわい」老婆は朱雀の頭の先から爪先まで、無遠慮にじろじろと眺めた。「それより、女遊びは程々にしておるか?お前は昔からモテたからの」老婆は小指を突き立て、朱雀を見るとにやりと笑った。「何をおっしゃます、お婆(ばば)さま」さすがの朱雀も、子供の頃に世話になった老婆には頭が上がらなかった。軽口とは裏腹に、意味ありげな視線と共に、老婆は顎をしゃくった。その示した先の地面に何かがあった。闇をも見通す朱雀の目には、倒れ伏す人であると解った。後ろに控えていた赤荻に軽く手を振ると、赤荻は頷いて調べに走った。二人きりになると朱雀は言った。「お婆さま」「何じゃ」「お婆さまも、我らと同じ道を・・」老婆は肩をすくめた。「今時の若者は辛抱が足りないからの。楽隠居は当分無理だわい」老婆は再びにやりと笑い、朱雀を見上げた。「たまには遊びに来い。良い男を見ると寿命が延びる」朱雀は老婆の前に跪いた。そして老婆の痩せた手を取り、恭しく口付けた。「『奴等』の援軍を阻止して下さって、ありがとうございます」「気付いておったか」「”壁”の穴を塞いで下さいましたね」「”壁”を護るは我らの役目、そうそう穴を開けさせてたまるものか」「ネズミ一匹分だけですね」老婆はじろりと朱雀を見た。「今も口の減らん奴だの。負けたネズミの逃げた穴は、すぐに塞いだわ」朱雀は跪いたまま、老婆の手を両手で暖かく包んだ。「感謝しております、お婆さま」老婆の皺だらけの頬がほんのりと朱に染まった。「本当かえ?」朱雀は老婆の目を覗き込んで微笑した。「はい」老婆は満足そうに頷いた。「では、屋敷まで背負って行ってくれんかの。さすがに堪えたわ」「仰せのままに」「朱雀様」倒れた人の横に屈みこんでいた赤荻が叫んだ。「今、行く」朱雀は老婆の方に背を向けた。「どうぞ、お婆さま」老婆はひょいと身軽に朱雀の広い背中に飛び乗った。
2009/10/08
二つの影が夜空で重なっては離れた。刃の触れ合う鋭い音が響き渡った。朱雀の刀を受け流しながら、すっかり自分の顔を取り戻した照柿が裂けた口で言った。「まさか『お前の目的は何だ』などと、そこまでの愚問は吐かないでしょうね」「吐かないさ。吐くならお前の方だ」「問答無用という奴ですか」笑いながら照柿は大きく手を振った。無数の攻撃が朱雀に襲い掛かった。朱雀の刀身がそれをすべて跳ね返した。その隙に照柿は素早く飛び退った。満ちた月が雲間から現れた。月を背に照柿はふわふわと浮いていた。「では、また」灰色の靄が照柿を包み始めた。「まただと?」朱雀が片手を大きく振った。朱雀の手からも無数の針が飛び、照柿の全身に突き刺さった。「ぐっ・・!!こ、これは!!」灰色の靄の中で照柿が激しい苦痛に身悶えた。針の突き刺さった部分から黒い煙がしゅうしゅうと湧き上がっていた。「『奴等』へのお土産だ」針には朱雀の血が封じ込められていた。朱雀の血は『奴等』を滅ぼす力がある。”異人”の中でも『奴等』とより深く繋がっている者には多大なる苦痛をもたらす効果があるのだ。「ぐわ、ぐわぁぁぁああ!!」もがき苦しみながら、照柿の姿は灰色の靄の中に消えていった。朱雀は大地に降り立った。朱雀は周囲を見渡した。かつて佐原の村だった場所は荒野となっていた。わずかな日々の間に荒廃は急速に進行していた。田畑は雑草が生い茂り、家は朽ち果てていた。かつての豊かな営みの痕跡はどこにもなかった。(皆が、無事でいてくれれば良いが)苦い思いが広がってゆく胸の内で、朱雀はつぶやいた。消えた村と再び意思疎通が出来るまでには十年以上の歳月が必要だと術師が言った。閉ざされた扉はそれまで何者も受け付けぬと。長き命を持つ”人でない”身には短くとも、普通の人々の十年は長い。その間、残された者達だけで体制を立て直し、地盤を固めて行かねばならぬ。村からの助けはもはやないのだ。そのすべてが、”外のお役目”の頂点に立つ朱雀の双肩に、重く圧し掛かっていた。赤荻が走り寄り、朱雀に鞘を差し出した。朱雀は懐紙で刀を拭うと、鞘を受け取り、焔丸を収めた。赤荻が言った。「敵を追わなかったのですか」「村の件が優先だからな。奴もしばらくは悪さは出来ないだろう」「奴に深手を?」朱雀は片方の眉を上げ、にやりと笑った。「キミまで、愚問を発する様になったのかね?」赤荻の眼鏡の奥に戸惑いが走った。外出の前に預かっていた赤い針を朱雀に渡したのは赤荻自身だった。「失礼致しました」「いや、いい」朱雀は磐境のいる方角へ目を向けた。「真彦様はお怪我もなく、意識を失っておられるだけのご様子です」「それは良かった」「迎えがすぐに参ります」「磐境達を先に返せ。白神も気を揉んでいるだろう。後始末が済んだら私達も戻ろう」「はい」不意に眉間のあたりに何かを感じ、朱雀は片手で顔を覆った。(ありがとう・・)朱雀の脳裏に声が聴こえた。幸彦の声だった。(幸彦様、どうかご無理はなさらずに)朱雀は心で呼びかけたが、返事は戻って来なかった。赤荻が心配そうに声をかけた。「朱雀様?」朱雀は顔を上げた。「何でもない」風が佐原の村であった場所を吹き過ぎて行った。二度と戻れぬ覚悟で出た場所、永遠に失われてしまった朱雀の故郷を。風の声を朱雀は聴いていた。悔恨も憐憫もそこにはなかった。何事もなかったかの如く、風はただ過ぎていった。それが自然のことわりなのだと、朱雀はあらためて感じていた。人の思惑など、まさに何処吹く風なのだ。「さあ、行こう」朱雀は歩き出した。更なる修羅の道へ。
2009/10/03
磐境の去った方角を遮るように、朱雀は照柿の前に立っていた。照柿は空中より朱雀を見下ろしていた。「心が痛みませんか?かつての同胞を斬り捨てても」朱雀は静かに照柿を見返した。「心なき者に、心の痛みが解るのかね?」「冷酷無比とはこの事ですね」朱雀は正眼に刀を構えた。「それが私の役目だ」くくっと喉を鳴らして照柿が笑った。「何とも滑稽な正義感ですね」「正義?正義など・・」朱雀の周囲に風が巻き上がった。なぶられた赤き髪が端正な美貌を縁取りながら激しく揺れた。照柿を見据えていた眼に赤き光が灯った。「お前と論じる気はない!」朱雀が飛んだ。激しく刃が触れ合う音が、黒く染まる夜空に響き渡った。磐境の腕の中の真彦を、毛布で丁寧に包みながら、二星は言った。「朱雀様もあんなにお急ぎにならなくても良いのに。そうでなければ、我らも戦いのお手伝いが出来たものを」磐境はじろりと二星を見た。「それが、朱雀様のお気持ちだと解らんのか」二星は思いがけない磐境の声の激しさに驚いた。磐境はめったに感情を露わにする事はなかった。「悪鬼のほとんどは佐原の村人だ。元は我らの身内も一族だった者もいるだろう。朱雀様は我らに同族殺しをさせぬ為に、お一人で先に行かれたのだ」二星は抗議した。「私も”盾”です。その心構えはしております」「悪鬼になった身内を斬った事はあるか?」二星はひるんだ。「いえ・・」「朱雀様はその苦しみを嫌と言う程に知っておられる。だから我らに、その苦しみを与えまいとされたのだ。いつもご自分の手だけを汚され、血に染めても、すべてを護ろうとされる」磐境は夜空の戦いを見上げた。「朱雀様はそういうお方なのだ。誰よりも深く傷つき、誰よりも辛い戦いを続けておられるというのに」二星はうなだれた。「竹生様も三峰様もそうだ。だからこそ、我ら”盾”は、戦うすべを持たぬ人々を護る為に戦わねばならぬのだ。あの方達の戦いを、苦しみを、無駄にせぬ為にも」磐境が言った。いつもの”部長”の顔と声で。「真彦様のご無事を、皆に知らせて来い」「はい」二星は勢い良く立ち上がった。
2009/10/02
抜き身の刀を持ち、朱雀は夕暮れの泥道を走っていた。薄茶色の背広に包まれた身体は、しなやかで力に満ち、赤味がかった髪は軽やかに風になびいていた。廃屋の曇った硝子窓にも、破れた引き戸の奥の闇にも、目が光っていた。悪鬼である。この先にも多くの敵が待ちかまえているのを、朱雀は”人でない”感覚で察知していた。そしてそのほとんどが元は佐原の村人であった事も。(黒く染まった心は、容易に操られる)朱雀はその事を良く知っていた。村の再度の封印の際に取り残された村人の始末が、”外のお役目”に与えられた極秘の任務であった。彼らが村を狙う”異人”の格好の目標となる事は目に見えていた。理解していなかったのは、当人達だけであった。真彦と彼を連れ去った者の行く先もそこであった。真彦と残りの村人の力で村を呼び戻す事を企むのも予測の範囲内であった。だがそれは達成出来ず、人々の心は破壊され、食い荒らされていった。私欲に歪んだ人々に、土地の力は味方するはずもなかった。無数の濁った叫び声が朱雀に飛びかかって来た。しかし朱雀の歩みは止まらなかった。露でも払うかの如く、左右に軽く刀を振るうのみであった。後には切り裂かれた死体が塁々と残された。神社の鳥居が見えた。朽ちた社殿の前に、細身の影が立っていた。春日根であった。その目には何の感情も宿ってはいなかった。少なくとも人としての。少し離れて、朱雀は春日根の前に立ち止まった。二人の目が合った。朱雀の目は赤く魔性に燃えていた。春日根はぎこちなくお辞儀をした。朱雀が言った。「人間の真似をするのは、やめた方が良いぞ」いつもと変わらぬ、良く通る深く豊かな声であった。春日根は左右に首を振った。そしてゆっくりと口を開いた。「真似では、ありません」「人の皮をかぶっても、私は誤魔化せない」「誤魔化すつもりはありません」春日根の発する気配が変わった。にやりと笑った口が耳まで裂けた。オーケストラに合図する指揮者の如く、春日根は両手を大きく振った。放たれた無数の攻撃を、朱雀は刀身で叩き落とした。鉛の固まりが点々と地面に散らばった。朱雀の周囲には風が渦巻き、赤き髪がなびいた。春日根の両手は鈍く銀色に光っていた。朱雀は刀を構えなおした。「”中身”はお前か、照柿(てるがき)」「あの餓鬼・・失礼、真彦様を落すのは簡単でしたよ。この姿があれば」「何故、子供達を狙う」照柿は驚いたような顔をした。「貴方がそんな愚問を口にするとは」照柿の身体が宙に舞い上がった。空中で赤い口が大きく裂けた。「弱いからに決まってますよ」朱雀の攻撃に備え、照柿は身構えた。だが朱雀はその足元を駆け抜け、社殿へと飛び込んだ。「しまった!」照柿は振り返り、ありったけの攻撃を社殿に叩き込んだ。建物は木っ端微塵に吹き飛んだ。夕暮れの空に黒々と爆煙が舞い上がった。その中を翔ける影があった。朱雀であった。両腕に意識のない真彦を抱いていた。ふわりと朱雀は着地した。「両手が塞がっていては、圧倒的に不利ですね」朱雀は照柿を見上げて微笑した。「どうかな」照柿を一発の銃弾が貫いた。「ぐはぁ!!」ぐらりと傾いだ身体は、かろうじて体勢を立て直した。照柿はわめいた。「やりやがったな!!」揚げた面は悪鬼と化していた。離れた岩陰にライフルを持った盾がいた。照準はぴたりと照柿に当てられていた。三隅の組の者、一棹(ひさお)である。三隅は自身が警備部の司令塔として残るのと引き換えに、自分の部下を磐境に同行させたのであった。鍛え上げられた彼ら”盾”の足であっても、朱雀の速さにはかなわず、少し遅れての到着となった。「朱雀様」駆け寄った磐境に朱雀は真彦を託した。「真彦様を頼む」「はい」磐境は素早くその場を離れた。三隅のもう一人の部下、二星(にせい)もようやく追いつき、磐境の下へ急いだ。二星は霧の家の出身で医療の心得があった。磐境の腕の真彦の様子を手早く診ると言った。「気を失っておられるだけです」磐境はほっとした様に頷いた。
2009/09/22
会社の地下駐車場の奥に、朱雀の深い森の色の車があった。朱雀はキーを差し込んだ。エンジンの振動が軽やかに車の底から沸き上がり、穏やかな細波の様に朱雀を包んでいった。朱雀はこの瞬間が好きだった。だからあえて遠隔操作でエンジンを駆ける事をしなかった。車を出そうとすると、助手席側の窓を誰かが叩いた。身を乗り出し、朱雀はドアを開けてやった。乗り込んで来たのは磐境(いわさか)だった。「お前が来てしまって良いのかね?」アイボリーレザーのシートは大柄の磐境をも余裕で受け止めた。磐境は几帳面にシートベルトを締めた。「朱雀様がお出になるのなら、お供をしないわけには参りません」朱雀は微笑むとクラッチを入れ、アクセルを踏んだ。「後はどうした」「三隅にまかせて来ました。三隅は篠牟様、忍野様の片腕を務めておりました。本人のたっての希望がなくば、とっくに私の後任となっていたでしょう」「柚木のせいで、すまない」「いえ、良い機会です」「屋敷の方は?」「鹿沼に人を預けて来ました」「警備はそれで良いだろうが」朱雀の言いたい事は磐境にも解っていた。「桐原様からのご指示で、我が社のホテルから元”盾”を数名呼び寄せました」高齢になったり怪我で引退した盾に、朱雀は自分の会社で働き口を見つけてやっていた。”外”へ出た盾の大半は村に身寄りがない為、村には戻らず、朱雀の世話になる者も多かった。「朔也の身の回りの世話も、竹生様が何時お戻りになられても、大丈夫なわけだな」「津代殿がご無事で何よりでした。鹿沼もあれで家庭的な男でして」「家庭的な男か」朱雀は磐境に劣らぬいかつい大男の鹿沼のエプロン姿を思い浮かべた。「津代殿も気に入っておられるそうです」磐境の口調は通常の報告時と少しも変わらない。朱雀は思わずふっと笑った。磐境は怪訝な顔をして運転する朱雀の横顔を見た。「何か?」「いや」磐境は首を傾げ、再び前を向いた。磐境は報告を続けた。いつしか車は郊外の街灯すらまばらな道を走っていた。「柚木様には、須永が付いております」「目覚めるまで、もうしばらくかかるだろう」「おそらく」「それまでには、けりを付けておきたいな」「はい」そうでなければ、柚木は自分の不在中に真彦が失踪した事に責任を重く感じてしまうだろうと、朱雀は思った。磐境も同じ思いでいた。「白神の方は?」「『火消し』と幸彦様の警備を強化しております」「幸彦様のご様子は?」「起き上がるのも難儀だとか」「”あの時”に、無理をされたからな」「我ら全員を守って下さいました」磐境の声には幸彦への敬意がこもっていた。朱雀はそれを感じ取った。(幸彦様、今の貴方は立派な佐原の当主として、皆に慕われておりますよ)朱雀は胸の中で、次第に遠ざかってゆく幸彦に向かい、語りかけた。
2009/09/16
「僕には償うべき罪がある」「今がその時なのです」少年は荒野を見渡した。かつて穏やかな暮らしが営まれていた場所。だが、赤味がかった剥き出しの大地と僅かに生えた草の他、そこには何もなかった。「これも、僕のせい?」少年の両肩に大きな手が置かれた。「残念ながら、すべてが」少年は振り返り、男を見上げた。「僕は、どうすればいいの?春日根」男は少年を見下ろした。男は微かに笑った様だったが、逆光で翳ったその顔を、少年は確かめる事は出来なかった。朱雀は社長室にいた。いつもの椅子に身を預け、机を挟んで前に立つ磐境(いわさか)の報告を聞いていた。その顔が蒼褪めていたのは、昼間の苦痛の為だけではなかった。「真彦様を連れて逃走したと言うのか?」「おそらくは」「何の為に」「今はまだ不明です」「奴は動ける状態だったのかね?」「医師も術師も不可能だと」「何かが”動かした”のか」「”操っている”と考えた方が適切かと」朱雀は黙った。磐境も黙して朱雀の言葉を待っていた。「竹生様がご不在とはいえ、屋敷には桐原も伴野もいた。二人に重傷を負わせ、真彦様を連れ去ったとなると、奴一人の仕業とは思えないな」「はい」「他の護衛は?」磐境は床に目を落とした。「生存者はいません」朱雀は口の端を堅く結んだ。片手を伸ばすと、卓上のコンソールを操作した。小さなランプが点滅した。「和樹」「はい」コンソールから声がした。「すべてお前の所に回しておいた。しばらく留守にする」「了解。お気をつけて、社長」「後はまかせたぞ、専務」ランプが消えた。朱雀は立ち上がった。磐境と目が合った。朱雀が頷くと、磐境は小さく頭を下げ出て行った。歩き出す前に、朱雀は机の上の写真立てに目をやった。朱雀の大切な家族達の写真であった。中央に百合枝の笑顔があった。(行って来るよ。いや、キミの側に行く事になるかも知れない)
2009/09/03
柚木は朱雀のマンションにいた。竹生の屋敷に居を移す為に、部屋を片付けていたのだ。荷物はあまりなかった。”盾”としての躾を受けた柚木は、身の回りの物を多くは持たなかった。いつ倒れても良い様に常に身辺の整理をしておく、それが”盾”のたしなみであった。着替えと学校の教科書と本が少し。そして短刀とはいえ霧の家に伝わる名刀”風斬(かぜきり)”。それは唯一柚木が佐原の村から持って来た物だった。柚木は”風斬”を普段使いの厚布の鞄に丁重に入れた。それだけは自分で運ぶつもりだった。柚木は育ての親・忍野と自分の絆として、この短刀を大切にしていた。進士(しんじ)に教わり、手入れを怠らなかった。何故自分が”外”にいるか、自分のすべき事は何なのか、曇りなき刀身に己の心を確かめるのが、柚木の密かな習慣だった。柚木はまだ自分の刀を持たなかった。将来を嘱望されてはいても、柚木の扱いは子供のままであったからである。練習用の木刀を布で包み、寝台の上の”風斬”を入れた鞄の隣に置いた。迎えの車がまもなく来るはずであった。朱雀の住居へ通じる扉を軽く叩く音がした。誰であるのか、柚木には気配で解っていた。「どうぞ」入って来たのは進士だった。進士は柚木に会釈すると部屋の中を見渡した。「寂しくなりますな」「和樹さんが引っ越して来るのだよね」「その予定です」「そしたら、今より忙しくなるよ」進士は微笑んだ。「老人を慰めて下さるのですね」「進士は全然老人じゃないよ。手合わせしても、僕、全然かなわないし」「直に私など、追い越してしまわれますよ」「進士」「はい」「和樹さんの身体・・」「その点は充分の心配りを致すつもりです」「うん、お願い」柚木は箪笥に歩み寄り、扉を閉めた。背中を見せたまま、柚木は言った。「・・遊びに来てもいいかな」「勿論です」「ここの風が好きなんだ」「朱雀様がここをお選びになった理由もそれでした」「進士のシチューも好きなんだ」「ご用意してお待ち致しますよ」進士は柚木が漠然と不安を覚えているのを感じた。決心したと言っても未来に背負う物の重さに。「この部屋は、いつでも柚木様がお休みになれる様にしておきます。和樹様も、仕事を抜きに柚木様とお過ごしになりたいと思いますよ」柚木は笑顔で振り向いた。「そうだといいな」「お屋敷の皆様もそうでしょうが、この摩天楼の者達も皆、柚木様を大好きで御座いますよ。和樹様もずっと弟の様に思われておられます」進士は柚木の顔を覗き込んだ。「柚木様は一人ではありません」柚木は大きく息を吸った。そして吐き出した。「うん」柚木は天井を見上げた。「僕は一人じゃない」そこにも柚木を暖かく見守る視線がある事を、柚木も進士も知っていた。
2009/09/01
「村の長に茶を頼む」霜月の言葉に、珊瑚は微笑むと部屋を出て行った。珊瑚が出て行くのを見送ると、高遠は重い声で言った。「珊瑚殿と御子もあちらへ?」霜月は頷いた。「寒露様が良くご承知なされましたな」霜月はじろりと高遠を見た。「家族を離れ々々する方が酷と、寒露がな」「成程」「珊瑚は今まであまり良い人生を送って来なかったらしい。静かな村で暮らせるなら、その方が幸せだと寒露が言うのだ」ふと高遠は気がついた。「寒露様のおっしゃる”家族”とは、霜月様も含まれての事ですね。これまでの分も取り戻そうと思われているのでは」霜月は眉を開いた。「そう思うか」「はい、私は長年、白露様と寒露様にお仕え致しました。寒露様のお考えなさる事、少しは解るつもりです」霜月はうれしそうに高遠を見た。「そうか」高遠は霜月の目を見て微笑んだ。「はい」「寒露とは、まだゆっくりと話をしておらんのだ」「明日を越えれば、そのような時間も充分に取れましょう」「そうあって欲しいな」「先程、劉生殿が見えた」「露の家の用意が出来たのですね」「霧の家もそろそろ片が付く」「人の移動が済めば、久瀬からも知らせが参りましょう」「風の家の長よ、お前が一番の犠牲を払う」「元より、風の家の顔役が引き起こした事、私の不徳の・・」いきなり込み上げた激情に、高遠は両手を畳に付き、叫んだ。「何もかも私の!!・・今も私は思うです。もし白露様が、篠牟(しのむ)様がご存命なら、こんな事にはと!!」あふれる涙を拭おうともせず、高遠は叫び続けた。「至らぬ私が村の長に、風の家の長になる事なく・・こんな事には。もし・・・」霜月が立ち上がった。「お前のせいではない、高遠」「しかし・・」霜月は高遠の傍らに進み、どっかりと腰を据えると、大きな掌で高遠の優しく背中をさすった。「辛き事は、ここで吐き出してゆけ。この老いぼれでも愚痴位は聞いてやれる」「霜月様・・」「我らは長き戦いの中にある。長過ぎて、その戦いの意味が何なのか、忘れてしまうのよ、皆。あの顔役達の様にな」霜月は高遠の背を撫でながら言った。「竹生様も三峰様も、人として苦しみながら生きておられた。今もその苦しみは続いておられるだろう。朱雀様も、寒露もそうだ。幸彦様も多くを背負い続けておられる」「はい」俯いたまま、高遠は頷いた。「お前もそうだ。しかし我らは未来を守らねばならぬ。それが我らの”お役目”」霜月は襖の方を見やった。「一人だと思うな。自分のせいだと思うな。お前が咎と思うなら、それは共に背負う覚悟、ワシも村の守護者も」襖の向こうから力弥の声がした。「盾の長がお見えになりました」霜月は続けた。「そして、久遠も」「た、大変だ!!」佐原の屋敷の奥座敷に、すでに我が物顔に寛いでいた顔役達の下へ、彼らの腰ぎんちゃくの一人が飛び込んで来た。「何だ、もう皆集まって来たか」「夜明けもまだというのに、気が早いな」広がった笑い声の上に、悲痛な村人の声が響いた。「村が大変なんだ、とにかく外へ!!」尋常でない男の様子に、顔役達はようやく立ち上がり、表に出た。男の後を追って行くと村の大通りに着いた。震える男の指先を見るより早く、顔役達の顔も驚愕に満ちていった。「何だ、これは!!」「村が、村がなくなっている!!」大通りの向こうには、白々と明けゆく朝靄の中に、見渡す限りの野原が広がっているだけであった。だた一軒の家も、犬一匹の姿もなかった。見慣れた禁忌の山すらも消え失せていた。顔役達は呆然と、何もない野原を見るばかりであった。
2009/08/26
案内役の後に付き従い、高遠は霧の家の屋敷の奥へと進んだ。磨きぬかれた廊下は冷ややかに飴色を帯びていた。佐原の屋敷にも負けぬ格式の漂う家である。紺色の作務衣を纏った案内役の若者は、高遠の顔馴染みであった。「力弥(りきや)、長老のお加減はどうだ」「寒露様がお戻りになられてから、目に見えて良くおなりで」「それは良かった」力弥は含みのある笑顔で振り向いた。「お目出度い事が、他にも」高遠がそれが何かを聞く前に、霜月の寝所に着いた。力弥は廊下に膝を着き、襖の奥へ呼びかけた。「村の長がお見えで御座います」奥より応じる声がした。高遠の為に、力弥は襖を開けた。座敷の奥に、霜月は褥の上に半身を起していた。すっかり白くなった髪を後ろに撫でつけ、白い寝巻の衿も今しがた直したであろう、きっちりと整えられていた。病の床にあっても、霧の家の長たる威厳は損なわれていなかった。褥よりやや離れて、高遠は正座をして深々と頭を下げた。「予てからの手筈通り、明朝と相成りました」「やはり、そうなってしまったか」「私の力不足、申し訳御座いません」「いや、あれ等の気持ちを変える事は、所詮は無理な事。村の長のせいではない」霜月は高遠をねぎらった。「楽にしてくれ。本来はその場で長を助けねばならぬのに、こんな有様なのが不甲斐ない」高遠は面を上げ、足を崩した。一人の女が霜月の肩に薄い綿入れを掛けた。高遠の見知らぬ女であった。高遠の視線に気付き、霜月が言った。「これは珊瑚という。昔”外のお役目”に出た者の娘よ」女はにっこりとして高遠に挨拶をした。子供の様に小柄なだけでなく、顔にもあどけなさが残っていた。花柄の着物も子供じみていたが、笑顔から気立ての良さが伝わって来る。高遠も思わず笑みを返した。「可愛そうに、口が聞けぬ。だが利口な子じゃ」「成程。私は高遠という者だ。よろしくな、珊瑚」高遠は優しく語りかけた。珊瑚は再びにっこりとした。「寒露が連れ帰った娘でな。まだ他には言っておらん」「ほう、寒露様が」霜月が破顔した。「寒露の嫁だ、腹に寒露の子がいる。ワシの孫だ、霧の家の跡取りじゃ」「それは目出度い」(力弥が匂わせたのは、この事か)高遠は霜月の喜びにあふれる様を見ながら思った。
2009/08/26
「結論は明日の朝、それでよろしいか」村の長の高遠が宣言した。佐原の家の奥の間では、連日の話し合いが続いていた。村の長の高遠を中心とする者達と、顔役達を中心をする者達の激論は、何処までも平行線のままであった。高遠は一同を見渡した。「村の大通りを境とする。禁忌の山寄りを我らの賛同者の土地とする」坂の家の長の久瀬が、大柄な身体に似合いの大声を張り上げた。「女子供は俺の家に来い。大人達の話し合いが住むまで、握り飯でも食わせてやるから」顔役達は坂の家の長に蔑みのまなざしを向けた。一人が聞こえよがしに言った。「握り飯なんぞで釣ろうとは、下種な輩の考える事よ」久瀬は平気な顔をしていた。「本当に偉い人間は、他人を悪く言わないものだって、竹生様に教わったよ」言った者は決まり悪そうな顔をした。高遠は微かに笑みを浮かべたが、瞬時に厳しい表情を取り戻した。「夜の間に各自の家族らと話し合い、決めよ。明日の朝、大通りを挟んで向かい合い、数の多い方の意見を通す」顔役の一人が言った。「ワシらの意見が通ったら、長はどうする」高遠は穏やかな顔をその者に向けた。「私は村を離れようと思う」非難がましい声が飛んだ。「逃げるのか」「いや、後は顔役の皆様の思う通りに、村を治めて欲しい。その為には、私はいない方が良いだろう」顔役達は傲慢な顔に笑みを浮かべた。「村の長が坂の家を頼りにするなら、我らの根城はこの佐原の家としようぞ」高遠は鷹揚に頷いた。「互いの為に、それは良い事だろう」高遠は胸の内でつぶやいた。(そう、互いの為に)人々が去った後も、顔役達はまだ奥の間に居残って顔をつき合わせていた。「大通りからこちらには、佐原の家と風の家がある。村の中心たる場所だ」「村の長が坂の家に行き、我らがここに残ったとなれば、村人には我らこそが佐原の正統なる意見と見えるであろう」「村の長も若いな、そんな事にも気付かぬとは」「もう、明日からは長でなくなる。我らの中の誰かが長となる」顔役達は互いの顔を探るように見た。誰もが「自分こそは」と思っているのが伝わった。高遠は佐原の家を出ると、霧の家の屋敷に向かって歩き出した。臥せっている長老の霜月に事の次第を報告する為であった。「高遠様」背後から大声がした。久瀬であった。高遠から一歩後ろを歩こうとした久瀬に、高遠は言った。「何を遠慮する」風の家を始め”盾の家”の者達は、農業を営みとする”坂の家”を下に見る者が多い。あの顔役達の如くに。だが高遠は違っていた。彼にとって、村人はどの家の出であっても、等しく彼の守るべき村人なのであった。久瀬はうれしくなり、いそいそと肩を並べて歩き出した。高遠は長身であったが、久瀬はそれよりも高かった。横幅もあった。「今回の事、お前にも随分と迷惑をかけるな」「いえ、俺はこの村が好きなんです。それに俺は約束したんです」「約束?」「間人(はしひと)に」それは若くして亡くなった佐原の当主の名だった。数奇な運命の末に当主となった間人が、心許せるたった一人の友が久瀬であった。二人は当時の当主・幸彦を守る為に、竹生の下で共に戦った仲であった。久瀬は今も毎日の間人の墓参りを欠かした事はなかった。「間人様にか」高遠が感慨深げに言った。「この村に、毎年桃が咲いて、いつまでも穏やかに人々が暮らして欲しいと・・それが間人の願いでした」「”外”に憧れる者も多いのだ。戻る事は出来ぬ」「そういう奴等は、何処へでも行けばいい。俺たちは違う」高遠の端正な顔に笑みがよぎった。「私もだ」
2009/08/16
「私に異存はありません」「柚木の部屋の手配はまかせた」「はい」朱雀は軽く頭を下げ、卓上の三つのグラスに琥珀色の酒を満たした。竹生の居間である。竹生と朱雀には灯りは必要ないが、今は幸彦の為に部屋の隅のスタンドが燈されていた。金色の絹張りの背の高いスタンドは、周囲の闇に暖かい光を投げかけていた。竹生はいつもの安楽椅子にいた。黒い絹の部屋着をまとい、オットマンにすんなりとした足を伸ばしていた。隣には幸彦が、これも安楽椅子で寛ぎながら、二人の会話を聞いていた。朱雀はソファから立ち上がり、幸彦と竹生にグラスを渡した。朱雀がソファに戻ってグラスを手にすると、幸彦がグラスを掲げて言った。「我らの未来に」三人はグラスを掲げ、酒を楽しんだ。竹生が言った。「お前は良い酒を持って来るな」「進士(しんじ)のお手柄です」「柚木まで屋敷に来てしまったら、進士が寂しいのじゃないかい?」幸彦の言葉に、朱雀は口元を少し上げ、それから言った。「そろそろ、和樹にすべてを譲ろうと思っております」「お前もここに腰を据えるという事?」「はい、摩天楼は和樹と進士に任せるつもりです」朱雀は幸彦に言った。「しかし、良く真彦様を手放されるご決心をなさいましたな」「この屋敷に居るのが、一番安心だからね。竹生がいるし」竹生は幸彦を見て微笑んだ。長き主従は互いの目を見て頷いた。幸彦の顔が不意に真剣になった。「”盾”の間でも、真彦への不信感は拭いきれていない。白神が努力してくれているけれど」「村の方も、三峰と高遠が動いておりますが・・難しいですな」幸彦は竹生を見た。「やはり、やるのかい?」「すべてが失われる前に」「そうか」幸彦は朱雀を見た。真夜中であるのに、朱雀は一分も隙のない格好をしていた。特別誂えの背広に皺ひとつない。柔らかに波打つ赤味がかった髪も綺麗に撫で付けられている。何時見ても惚れ々々する男振りである。「百合枝さんには、まだ何も?」朱雀の端正な顔に影が走った。「はい」「あれは、彼の望みでもあるんだ」「はい」「彼なりの贖罪なのだろうね」「はい」ふと、幸彦は宙を見るような目をした。淡い光が幸彦を包んでいくのを、朱雀は見た。(夢の力だ)幸彦は何処か恍惚とした口調で言った。「お前の未来、百合枝さんも子供達も、幸せなのだね・・暖かい光を感じる」朱雀は戸惑った。(何故、私の?)幸彦を包む光が消えた。白く柔和な顔が哀しげになった。「真彦を頼むよ。僕はもう側にはいてやれないから」不吉な思いがして、朱雀は急いで言った。「古本屋まで、そんなに距離はありません。すぐに逢いに来られますよ」幸彦は微笑んだ。「ああ、そうだね」ふわりと風にカーテンが舞った。竹生の風だった。現れた窓の向こうに半分に欠けた月が見えた。一同は黙って月を見上げた。それは満ちていく月だった。
2009/08/15
灯りのない室内は、闇が支配していた。外から射しこむ光は微かであった。だが窓際に立つ竹生の姿は、そこだけ青白き月の如き光を帯び、柚木の目にもはっきりと見る事が出来た。魔性の者、人でない者。柚木はその背中を見詰めながら、あらためて竹生が誰であるのか、何者であるのかを感じていた。竹生の白く長い髪が、ふわりと宙に舞った。風の力である。締め切った部屋の中でも竹生の風は自在に吹いていた。竹生の黒衣が優雅に翻った。柚木の柔らかな栗色の髪も風になぶられていた。竹生が振り向いた。「その代わり、二度と朔也を追い詰めてはならぬ。あれが元に戻らぬとしても嘆いてはならぬ」柚木はすぐに理解した。「じゃあ・・」竹生の青い瞳が光った。「そうだ、あれは忍野(おしの)だ」遠い風の残響が聴こえた。柚木の中の風も、過去の記憶に向かって吹き始めた。あの時・・・吹き荒れた風は竹生のものであったのだ。柚木を運び、忍野を佐原の村から連れ去ったのは。竹生は忍野に自らの血を与えた。忍野は生と死の境でかろうじて留まった。それ以上は竹生の力を持ってしてもどうする事も出来なかった。竹生は忍野を匿い、時を過ごす事にした。忍野を目覚めさせる手段が見つかるまで。百合枝の力が忍野を救った。だが意識を取り戻した忍野には異変が生じていた。「あれはすべてを失っていた。記憶もなく、子供の如くに成り果てていた。身体も弱く、無理をすればすぐに熱を出す・・誰よりも強い盾であった忍野ではないのだ」竹生は言った。「忍野は元に戻らぬかも知れぬ。それでも側にいたいか?お前には辛い事かも知れぬぞ」竹生の言葉に、柚木は何のためらいも見せなかった。「では何故、竹生様はお父さんと一緒にいるのですか?」少年の澄んだ目が竹生を見据えた。「どうなっても、お父さんはお父さんだからでしょう?僕もそうです」竹生の顔に笑みが浮かんだ。柚木は竹生の笑顔を初めて見た。それは天上の微笑だった。柚木の一切の緊張も逡巡も何もかもが一瞬で消え去り、柚木はその微笑に見惚れた。深い夜の慈悲を秘めた声が、柚木の恍惚となった耳に聴こえた。「この私によくぞ言った。まさしく忍野が育てた子だ。気に入ったぞ、柚木」竹生は音もなく柚木に歩み寄ると、柚木を抱き締めた。青く甘い香りが柚木を包んだ。「あれは私がいないと不安がる。その時はお前が側にいてやれ。そうすれば、あれも心強いであろう」柚木は心地良さの中で朦朧としながら答えた。「はい、竹生様」「急ぐな、柚木。あれの心はとても不安定なのだ。だから、あれに過去を聞くな。あれが自分で思い出すまで・・待てるか?柚木」「はい、竹生様」竹生の腕の中から解き放たれ、柚木の身体に普通の感覚が戻って来た。柚木は大きく息をした。今は一緒にいられるだけでもいい。柚木は思った。失ったと思ったものが帰って来たのだ、たとえすべてではないにしても。そしてこれからずっと一緒にいられるのなら、それだけでも良い。竹生の声に、今宵は喜ばしげな響きが宿っていた。「お前もこの家の家族となるのだ。鍛えてやる、誰よりも強く。覚悟せよ、柚木」うれしい気持ちと同時に、柚木はちょっぴり不安になった。竹生の訓練好きは”盾”の見習の間でも伝説になっていた程、有名であったから。(つづく)
2009/07/31
青く光る魔性の目が柚木を見た。底の無い青い泉のような目が、柚木を恐怖に満たしていった。悪鬼達がその気配を感じただけで脱兎の如く逃げ去り、”盾”の剛の者すらひれ伏すという絶対の存在。言い知れぬ畏怖と恐怖に、柚木の全身が締め付けられていく。人外の者は厳かに言った。「二度と、ここへ来るな」それでも柚木は首を縦に振らなかった。柚木は目をそらさなかった。柚木は必死で竹生の目を見た。(せっかく逢えたのだ。お父さんかどうか分かるまで、僕は絶対・・・)竹生の腕に、そっと朔也の手が触れた。「・・柚木は、悪くない」か細い声で朔也が言った。「柚木は・・誰よりも優しい目で、私を見る。竹生様以外では、柚木が一番・・・私に優しい」竹生の瞳に柔らかな光が灯った。「私は・・柚木を失いたくない。優しい目で私を見てくれる人を、私は二度と失いたくない」朔也はそう言うと、竹生を見上げた。竹生は朔也に頷いた。「お前がそう言うのなら」竹生は朔也を抱きあげると寝台へと運んだ。情のこもった手付きで朔也を寝台に寝かせると、竹生は手を打ち鳴らした。軽やかな音が響いた。桐原がやって来て、竹生の前で頭を下げた。「私が戻るまで、朔也の側にいてやれ。私は柚木と話がある」桐原は黙って頭を下げた。竹生は朔也の顔を覗き込んだ。「すぐに戻る」涙に濡れた瞳で、朔也は幼子の様にこくりと頷いた。竹生は目顔で柚木に着いて来る様に合図した。柚木はちらりと朔也の方を見た。朔也は目を閉じていた。隣室は空き部屋だった。絨毯も敷いておらず、木の床が剥き出しになっていた。「柚木」「はい」柚木は素直に返事をした。竹生を前にすると自然と柚木の背筋が伸びた。「お前は目をそらさなかった。さすがは風の家の子だ」柚木は誇らしい気持ちになった。竹生様に誉められている。”盾”始まって以来の最高の盾と呼ばれ、村の守護者であった竹生様に。佐原の村を嫌ってはいても、竹生への尊敬の念は、柚木の中で健在だった。「その力、無駄にするな。お前は強くならねばならぬ、いずれ来る戦いの為に」「はい」柚木は誇りと共に頷いた。「私が教えよう」「竹生様が?」柚木は驚いた。今の竹生は、めったに人前に姿を現さない。屋敷の者も桐原以外には逢う事は稀であった。柚木も数える程しか顔を見た事はない。”盾”ですら直接竹生を見た者は少なかった。「お前も、この屋敷に住めば良い」「僕が、ここに?」「嫌か?」ここに住めば、朔也の事がもっと分かるかもしれない。柚木は勢い込んで言った。「そうさせて下さい」竹生は満足げに頷いた。「この部屋が空いている」竹生は古いカーテンを巻き上げたままの窓から外を見た。夜になりかけた庭は、柚木の目にはほとんど何も見えないが、竹生には隅々まで見えているのだろうと柚木は思った。「お前には、知りたい事があるだろう」竹生は庭を見詰めたまま言った。「教えてやる」(つづく)
2009/07/30
穏やかな一日だった。嵐の前の静けさである。柚木は、自分の行動が引き金となり、村が急速に崩壊していく気配を、肌で感じ取っていた。村人の感情を直接に”痛み”と感じる幸彦と真彦に比べれば、微細であったとしても。憂鬱な気持ちでありながらも、柚木は百合枝とお茶を飲んだり、幼い紫苑の相手をしたりして、表面上は何事もなく時間を過ごしていた。風が吹いた。風は上の階から吹いていた。柚木は三階への階段を上がっていった。廊下の先に朔也の部屋があった。扉が少し開いていた。柚木は中を覗いてみた。敷物の上に朔也は腹ばいになっていた。上半身は黒い袖なしで、下は柔らかい木綿の生成りのズボンだった。足を交互に天井に蹴上げている。素足の指先が仄かに薔薇色を帯びている。美しい者はこんな所まで美しいのかと、柚木は思った。思い切って扉を開け、柚木は声を掛けた。「朔也さん、何をしてるの?」「・・運動」朔也は少し顔を上げ、柚木を見て微笑んだ。その微笑が、柚木の胸に甘い痛みを呼び起こした。記憶の中の微笑に酷似している。だがそれよりも無垢で無邪気な笑みだった。「身体と、話してる・・どこを、どう鍛えたら良いか」(忍野はそういう事が得意だった)柚木は朱雀の言葉を思い出した。「柚木・・やってみる?」「うん」「上を脱いで・・その方が、いい」柚木は素直に従った。朔也のしなやかで均整の取れた身体に比べ、ひょろんとして貧弱な自分の身体が恥ずかしかった。育ち盛りの身体は急速に背が伸び、クラスの中でも三本の指に入る長身になっていた。それでも朔也の方が背が高かった。朔也は柚木の身体をじっと見た。何故か柚木から羞恥が消えた。暖かい目が柚木を見ていた。その目を柚木は知っている気がした。朔也が頷いた。「・・このへん」朔也の指先が柚木の背中をなぞった。くすぐったくて柚木は身をよじった。「・・ごめん」「ううん」朔也の指先は優しく柚木の身体の上を移動していった。朔也がぽつりとつぶやいた。「大きくなったな、柚木」それはいつものおっとりとした口調ではなかった。柚木を慈しんでくれたあの人の言葉だった。柚木はたまらなくなり、朔也にしがみついた。「お父さん、やっぱりお父さんなんだね?」朔也は茫然として柚木を見た。「分からない・・」「お父さんだよね?」朔也は怯えた目をした。柚木を震える手で押しやった。「・・私は、竹生様の人形で・・私は・・」朔也は両手で頭を抱え、がっくりと床に膝をついた。朔也は叫んだ。「分からない、分からない!!私は・・!!」朔也は泣き出した。「私は、わたしは・・・・・誰?」風が吹いた。荒々しく扉が開いた。影がすべり込ん来た。竹生だった。竹生は朔也を抱き起こした。「朔也、落ち着け。お前は朔也、私のものだ」「ああ・・竹生様・・」朔也は泣きながら竹生にすがりついた。柚木は動く事も出来ず、目を見張ったまま、その様子を見ていた。「柚木」無慈悲な夜の声がした。柚木の全身が恐怖に凍りついた。「朔也に、二度と近づくな」(つづく)
2009/07/28
屋敷の中は静けさで満たされていた。百合枝は起きているはずだが、早朝から女性の部屋を訪ねるのは恥ずかしいと、そろそろ感じ始める年頃になった柚木であった。部屋に戻っても、真彦の睡眠の邪魔になりそうに思えた。(どうしようかな)柚木は玄関から奥へと廊下を進んで行った。来てみたが、古い本の詰まった書庫は退屈だった。「暇そうだな」振り向くと干瀬が立っていた。朔也と瓜二つの顔だが、こちらは陽気に笑っていた。柚木の中に先程の痛みが甦った。しかしそれを脇に押しやり、柚木は干瀬に言った。「朝ご飯は?」干瀬は更に悪戯っぽい顔をした。「津代殿に謝ってくれ」「何か食べたの?」「色々とな」柚木は台所に行く事にした。津代は洗い物をしていた。「お早う御座います、柚木坊ちゃま」「お早う」柚木はシャツの裾を捲り上げた。「手伝うよ」「いけません、そんな」「いいんだ、いつもやってるから」「では、お願いしましょうかね」柚木は津代と並んで皿を洗い始めた。「あのね」「はい?」「干瀬が色々とつまみ食いしてすまないって」津代は怪訝な顔をしたが、すぐに満面に笑みが広がった。「お握りだけでは足りなかったのですね」「驚いた?」「佐原の厨(くりや)でも良くありましたから」(あいつ、村でも同じ事していたのか)柚木は笑いをこらえながら謝った。「ごめんね」「いえいえ、たんと召し上がっていただける様に、これからはご用意致しますよ」津代が振り向くと、後ろの卓上に拭き終わって積み上げてあった食器が、すべて戸棚に綺麗にしまい込まれていた。柚木の耳に囁く声がした。「干瀬がお詫びのしるしだって」「津代も、干瀬様とお話出来ると良いのですがね」「おそらく、そのうち・・と干瀬は言っているよ」津代は食料戸棚からパンを出して切り分け、大皿に盛った。津代はそれとなく宙に向かって語りかけた。「干瀬様の分ですよ。遠慮なさらずに召し上がって下さいな」柚木が干瀬の言葉を伝えた。「バターとジャムもあったらいいなって」「はいはい」津代はにこにことしながら、冷蔵庫から陶製のバター入れとジャムの壷を取り出した。「追々、干瀬様の好物も覚えさせて頂きますね」柚木は喜ぶ干瀬が食卓の上を跳ね回るのを見て言った。「テーブルの上に乗っては駄目だよ」干瀬は渋々と床に下りた。「急に厳しくなったな、柚木」柚木はすまして言った。「”外”には”外”のやり方があるんだ」津代には柚木の声しか聞こえていなかったが、子供達を守る者がいる事を、微笑ましくも心強くも思った。これから先、彼らを待ち受ける運命の険しさを、津代も知っていたからである。台所が大方片付くと、津代は裏庭の物干し場へ行った。今日最初の洗濯物が洗い終わる時間だった。洗濯機の側に行きつく前に、津代は見た。青空の下、物干し竿にずらりと洗濯物が翻っているのを。洗濯機の上に干瀬がしゃがみ込んで笑っていたが、津代にはその姿を見る事は出来なかった。(つづく)
2009/07/27
緑の窓の屋敷は三階まである。一階は食堂や台所、応接間、書庫などがあり、二階は百合枝や朱雀達の部屋の他、客用の寝室がいつでも用意されている。三階は竹生の住まい、すなはち一種の不可侵の領域である。家の者も執事の桐原以外はめったに足を踏み入れる事はない。そこには居間、書斎、寝室がつながる部屋を中心に、竹生の生活空間があった。朔也もそこで暮らしていた。部屋へ戻る途中、柚木は桐原と行き会った。桐原は朝食を載せた大きな銀の盆を持っていた。「幸彦様の?」「幸彦様と真彦様の分で御座います。お二人ご一緒に召し上がるそうです」「そう」「幸彦様は夕方までこちらにご滞在です」「お身体、大丈夫かな」「この屋敷にいる間は、安心してお休みになれるでしょう」古本屋へ戻れば、休んでいる暇などない事は、柚木にも解っていた。その日、真彦はずっと幸彦の側にいた。二人は久しぶりに親子の親密な時間を過ごしていた。白神は今後の体制固めを急ぐ為に古本屋へ戻った。三隅と須永は残った。それは朱雀のはからいでもあった。今は誰かに交代させるよりも、柚木と真彦を深く気遣う二人が屋敷にいた方が、子供達が心強いだろうと思っての事だった。”盾”は一人で動く事はない。三隅も須永も部下を連れて来ている。当面の屋敷の警備は彼らで間に合うだろうという目論見もあった。朱雀は珍しく朝から出かけた。出がけに柚木を呼んだ。叱られるかと思い、柚木は恐る恐る朱雀の前に立った。日中の痛みが全身を蝕んでいるはずなのに、玄関のホールに差し込む光の中で、朱雀の笑顔には一点の曇りもなかった。背広の着こなしも完璧であった。朱雀は甥に言った。「後は大人にまかせなさい。しばらくは大人しくしているのだよ」「はい」柚木は神妙な顔で頷いた。朱雀はちょっといたずらっぽい目をして柚木を見た。「いやに素直だな」「真彦はどうなるの、朱雀おじさん」朱雀は顔を引き締めた。「佐原の村も、混乱している。お前達に一番良い様にしたいと、私達は努力している」「私達?」「お前は、敵と味方の区別もつかないのかね?」柚木は口を尖らせた。「少なくとも、百合枝さんは僕らの味方だと思うよ」朱雀は苦笑した。「お前を和樹と一緒に居させ過ぎたな」「僕は、和樹さんとも百合枝さんとも紫苑とも、もっと一緒に居たいよ」柚木はニヤリと笑って付け加えた。「勿論、朱雀おじさんとも」朱雀は声を上げて笑った。「ありがとう。では百合枝の所へ行って、朝の挨拶をして来なさい。紫苑の世話も頼んだぞ」「まかせてよ。いってらっしゃい、朱雀おじさん」深い森の色を映した愛車に乗り込むと、朱雀はつぶやいた。「さて、これからがやっかいだな」(つづく)
2009/07/27
いつもの時刻に柚木(ゆずき)は目が覚めた。隣の寝台の真彦はぐっすりと眠っている。真彦を起さぬ様に柚木はそっと身支度をした。階下の食堂へ下りると、桐原がやって来て折り目正しく挨拶をした。「お早う御座います」「お早う」「ご朝食になさいますか」「うん、他の人は?」桐原はひとつの椅子を引いた。柚木はその椅子に腰掛けた。「皆様、まだお休みで」「そう」「珈琲とトースト、目玉焼きの卵は二つでよろしゅう御座いますか?」「良く覚えていてくれたね、ありがとう」桐原は会釈して奥へ下がった。桐原の運んで来た朝食を食べていると、柚木はふと視線を感じた。天気が良いのでベランダの続く窓が開け放たれていた。誰かが窓の側に立っていた。桐原がいつの間にか戻って来て、その人物に声をかけた。「あまり日に当たり過ぎると、お体にさわります」伸びた前髪に顔のほとんどが隠されていたが、形の良い唇の端が少し上がり、美しい笑みを形作るのを柚木は見た。柚木の胸が高鳴った。食べる手を休める事が返って恥ずかしく、柚木は皿の上に顔を伏せた。桐原が柚木の向かい側の椅子に朔也を導いた。「ご朝食はいかがなさいますか?」「少し、欲しい」桐原が下がると、朔也が言った。「おはよ・・」柚木は顔を上げた。朔也はパジャマのままだった。縦に並んだボタンは光る貝を刳り貫いたもので、柔らかそうな布地は淡く黄色を帯びていた。前髪の間から覗く目は穏やかに見えた。唇には笑みが浮かんだままだった。柚木は思い切って言った。「お早う、朔也さん」朔也はにっこりと笑った。柚木は胸に甘い痛みを感じた。(この人は、本当に誰なんだ)桐原がオレンジジュースとカフェオレ、クロワッサンを載せた皿を運んで来た。さわさわと崩れるクロワッサンを少しずつ千切り、朔也はゆっくりと口に運んだ。食事を終えると、柚木は庭に出た。朔也はすでに自室に引き上げていた。腹ごなしに日課の運動をする事にした。シャツを脱ぐと手近な木の枝に引っ掛けた。袖なしの下着一枚になると柔軟体操をした。それから”盾”として学んだ幾つかの鍛錬方法を順番にこなしていった。手の甲で額の汗を拭おうとすると、真新しいタオルが差し出された。庭師の伴野(ばんの)だった。「ありがとう」伴野は黙って律儀そうに頭を下げ、竹箒を抱えて何処かへ行ってしまった。伴野の姿が消えてから、柚木は伴野が近くにいた事にまったく気づかなかったと思い当たった。伴野が元”盾”であると知ってはいたが、己の迂闊さに柚木は唇を軽く噛んだ。(僕も、まだまだだな)(つづく)
2009/07/27
眠る朔也を残し、竹生は居間に戻った。夜の暗がりに支配された部屋で、安楽椅子のひとつに青い肌の者が寛いでいた。”人でない”竹生には、灯は必要ない。たとえ月がなくても昼間同様に何もかもが見渡せる。異界の者も同様であった。竹生を見ると、青い顔に楽しげな表情が浮かんだ。竹生は片隅の戸棚から琥珀色の酒の瓶とグラスを取り出した。グラスに酒を満たすと、硝子に混じりこんだ鉛が、月明かりに鈍く虹色に淡いきらめきをみせた。竹生はグラスのひとつを異界の者の前に置いた。もうひとつのグラスを手に、いつもの椅子に腰を下ろすと、竹生は言った。「礼を言う」「いや、何。容易い事よ」差し出した干瀬の手にグラスがふわりと飛び込んだ。干瀬は軽くそれを掲げ、上手そうに飲み干した。「良い酒だな。斤量(きんりょう)の分もあると良いな」「酒なら、充分にある」「屋敷のあるじが戻ったのだ。斤量の術も解いて良いな」天井から野太い声が響いた。「酒をもらっても良いかな、竹生様」竹生は顎で瓶を示した。「好きなだけ」見えない手が瓶を掴んだ。どういう仕掛けか、瓶の中身の半分が消え失せた。干瀬は目玉をぐるぐると回して呻いた。「おいおい、ワシの分も残しておけよ」竹生は戸棚を指差した。「あそこにまだ幾らでもある。安心せよ」干瀬はうれしそうな顔をして、天井に向かい呼びかけた。「お役御免だ、お前も降りて来て飲め」野太い声が素っ気無く答えた。「人の形を取るのは面倒だ」干瀬は手酌で杯を満たした。「ワシはここにやっかいになる。御子達が心配だからの」竹生は頷いた。「歓迎する」野太い声が響いた。「我が仮住まいは摩天楼に。進士(しんじ)殿は我が友なれば」竹生は再び頷いた。杯を干すと干瀬は立ち上がった。「肴も欲しいな」次の瞬間、その姿は消えた。野太い声が響いた。「この屋敷が我らの次なる城」竹生は天を仰いだ。「そうはしたくなかったがな」「人の世の移ろうは、常なる事なれば」竹生は居ながらにして、屋敷中の諸々が手に取るように解る。それが”人でない”者の感覚である。竹生は彼にとって何よりも大切な存在を感じていた。「幸彦様は眠っておられる。大分お疲れの様だ」「随分と無茶を」「その為にも・・」扉を軽く叩く音がした。竹生が応じた。「入れ」「失礼致します」朱雀であった。深夜であっても、朱雀の装いには一分の隙も無い。仕立ての良い背広に皺ひとつなく、赤みがかった髪にも乱れは無い。竹生は言った。「お前も飲め」「では遠慮なく」朱雀は勝手知ったる様子で自分の分のグラスを戸棚から出して来た。朱雀が椅子のひとつに腰を下ろし、一息に一杯目を空けたのを見届けると、竹生は言った。「報告せよ」朱雀は軽く頭を下げた。「”外”の体制は、ほぼ計画通りです。村については、三峰からまだ・・」朱雀は胸のあたりにちらりと三峰の想いがよぎるのを感じた。”絆”に距離は関係ない。「あちらも予想通り、荒療治を選択する事となりましょう」どさりと卓上に様々な食い物が置かれた。「これでゆるゆると酒が飲める」干瀬が元の椅子に戻り、両手をこすり合わせていた。「腹がへっては、というからな」干瀬は生ハムの塊にかぶりついた。そして上目遣いに朱雀を見た。「ワシらをこき使うつもりであろう?飯を食う暇もない位にな」朱雀は苦笑いした。(つづく)
2009/07/27
竹生はまだ戻らない。身体が軽い。熱は下がったようだと、朔也は思った。朔也は寝台から滑り降り、生成りのネルの寝巻きのまま、ソファに身を沈めた。カーテンを開け放した窓から硝子越しに半分の月が見えた。風の音が遠くに響いていた。それほど強くない。(まだ遠い。まだお戻りにはならない)月は仄かに黄色を帯びた光で室内を照らしていた。不意に声がした。「久しぶりだな」朔也は声の方を見た。自分そっくりの青い肌の者が立っていた。「貴方は誰ですか」青い同じ顔が笑った。「ワシを覚えておらんのか」黒い目がじっと朔也を見た。「お前の足、お前の手、治してやろう」朔也は首を傾げた。「出来るのですか」「それくらいはな」青い肌の者は床を指差した。「横になれ」素直にソファから立ち上がり、朔也は指された床に仰向けに横たわった。「目を閉じよ」朔也が目を閉じると、青い姿は炎天下のゼリーのようにどろりと溶け、朔也を押し包んで行った。「ああ・・」身体中を包み込まれ、愛撫されるような感覚に、朔也は思わず声を漏らした。悪い方の手足が温かくなっていく。「干瀬、面白い事をしているな」細く高い声がした。さわさわと羽ばたく音がした。「きれいな男・・ああ、何だ、竹生様のものではないか」「ああ、癒してやるのだ」「どれ、私も」朔也は目を閉じ、快感の中をたゆたいながら、意識を失った。風が吹いた。テラスに続く仏蘭西窓がひとりでに開いた。白く長い髪をなびかせ黒衣を翻しながら竹生が入って来た。「お帰りなさい」竹生はしっかりとした足取りで歩いて来る朔也を見た。「お前、足をどうした」「青い人が、治してくれました」「干瀬か。あれは昔からお前を気に入っていたからな」「昔・・思い出せないけど」竹生は朔也を抱きしめた。「思い出さなくて良いのだ。覚えていて楽しい事など、この世には少ないのだから」「竹生様」「何だ」「私を捨てる前に、ここへ連れて来て下さって、ありがとうございます」「気に入ったか」「そうですね、良く分からないけれど。ここに来て良かったという気がするのです」「そうか」月は高く登り、窓からは見えなくなっていた。竹生の腕の中で朔也の漆黒の髪が揺れた。「竹生様、私はいつ捨てられるのですか」「何故、そんな事を聞く」「飽きられて捨てられるのなら、その前に壊れてしまいたい」「馬鹿を言うな」「そんな風にやさしく私を見てくれた同じ顔が、或る日突然、私を憎しみの目で見る。そんなものは、もう見たくない」(そうして私は壊れてしまったのだ、悲しみのあまり・・)「そんな事にはならない。私はお前よりも長く生きるだろうから」「竹生様」「私は、私のものを大切にする性分なのだ」(つづく)
2009/07/27
都(くんづ)のアジトが壊滅した。照柿(てるがき)は気にしていなかった。どうせ時間つぶしである。仲間となった人間も、直接に”あの方”達の洗礼を受けねば脆い存在でしかないのだ。小男の薫都は逃げ込んだ”壁”の向こうの領域で座り込んだ。「”盾”の奴らめ、いい気になりやがって」・・・金銀花は夜に咲く(46)「脆きは人の常ならば」その1こちらに掲載致しました。
2008/10/07
朱雀は久しぶりに摩天楼のマンションで時を過ごしていた。百合枝が竹生の屋敷に居を定めてから、朱雀はマンションと竹生の屋敷と半々の生活を送っている。元より多忙な朱雀は、私的な時間は百合枝と過ごす事を優先していた・・・金銀花は夜に咲く(45)「夢幻の境界」その4こちらに掲載致しました。
2008/09/26
柚木の夢の中で、天青(てんせい)が笑っていた。心を奪われし者、『奴等』の手先となってしまった友達。柚木が手をかけた最初の”異人”。(”盾”になるとはこういう事なのだ。この苦しみも背負うという事なのだ)柚木は目を閉じたが、眠りはやって来なかった。あの日から、時折こういう夜がある。天青の顔が脳裏に浮かんで離れなくなる・・・金銀花は夜に咲く(45)「夢幻の境界」その3こちらに掲載致しました。
2008/09/26
腹の中の子は預言の子である。未来の村の守護者となるべき者、当然男の子である。風の家の血を引く”盾”。(”最後の盾”・・)真彦は胸が冷たくなった。この腹の中の子が”最後の盾”なのだと、夢が語ったのだ・・・・・・金銀花は夜に咲く(45)「夢幻の境界」その2こちらに掲載致しました。
2008/09/18
金銀花は夜に咲く(45)「夢幻の境界」その1こちらに掲載致しました。
2008/09/10
金銀花は夜に咲く(44)「闇の清算」その2こちらに掲載致しました。
2008/07/30
金銀花は夜に咲く(44)「闇の清算」その1こちらに掲載致しました。
2008/07/26
金銀花は夜に咲く(43)「立ち尽くす血II」その3こちらに掲載致しました。
2008/07/14
金銀花は夜に咲く(43)「立ち尽くす血II」その2こちらに掲載致しました。
2008/07/10
金銀花は夜に咲く(42)「立ち尽くす血II」その1こちらに掲載致しました。
2008/07/09
金銀花は夜に咲く(42)「立ち尽くす血」その3こちらに掲載致しました。
2008/07/08
金銀花は夜に咲く(42)「立ち尽くす血」その1こちらに掲載致しました。
2008/07/04
金銀花は夜に咲く(41)「知られざる再会」その2こちらに掲載致しました。
2008/06/26
金銀花は夜に咲く(40)「生贄の鳥」その3こちらに掲載致しました。
2008/06/23
金銀花は夜に咲く(40)「生贄の鳥」その2こちらに掲載致しました。
2008/06/21
金銀花は夜に咲く(40)「生贄の鳥」その1こちらに掲載致しました。
2008/06/20
金銀花は夜に咲く(39)「人知れぬ涙」その3こちらに掲載致しました。
2008/06/20
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