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鍬見はこの道の先に渦巻いている不穏な気配を感じた。助手席の詩織は何も気づいていない。「何があっても、指示通りの道を行け」朱雀は言った。(朱雀様を信じよう)鍬見は迂回せず、そのまま進む事にした。悪意にどんどんと近づいて行く。それでも鍬見は止まらなかった。不意に圧倒的な気配が前方に広がった。閃光が空をよぎった。白き炎が影を一瞬で焼き尽くしたかの如く、一切の悪意は消え去った。優雅なる白き風は二人の乗る車の上をあっという間に翔け抜けていった。鍬見にはそれが何であるか、解った。(三峰様・・)二人の進む道を白き守護者が守っている。鍬見は心の中で三峰に頭を下げた。無言のまま、車は夜の底を走っていた。不意に詩織が口を開いた。「ねえ、さっき感じたの」「何を?」四方に気を配ったまま、鍬見は聞いた。「夜空に燃え上がる、白く美しい炎を」詩織も三峰の存在を感じ取っていたのだと、鍬見は思った。「白い木蓮が、夜に咲いているのを見た事がある?」「いや、ない」「闇の中に、白く空に向かって開いた花がね、まるで白い炎のようなのよ。それを思い出したわ」ハンドルを握る鍬見の手に、詩織はそっと自分の手を重ねた。「私達を守ってくれる炎だったのね」朱雀と別荘に向かう車中にある時、今後に役立つあらゆる事柄を朱雀は鍬見に教え聞かせた。白神との取引に関しても包み隠さずに語った。野に下り、密かに『奴等』の芽を摘む事、それが鍬見へ与えられた役目であった。それと引き換えに鍬見は生かされたのだ。鍬見の目頭が熱くなった。朱雀が部下としての自分に寄せていた深い信頼ゆえに、こうして何もかも打ち明けているのが伝わって来た。この人になら一生お仕えしたい。鍬見に限らず、朱雀の配下になった者は誰もがそう思う。今その人の下を去らねばならぬ自分が口惜しくてならなかった。と同時にその人の思いを裏切ってはならぬ、詩織を必ず幸せにしなければならぬという決意もまた新たにしたのであった。鍬見は頷いた。「そうだ、私達は多くの方々の手で生かされている」朱雀や三峰だけではない。白神は名刀神星を手にしていた。その真の持ち主は竹生である。白神はあえて刀の銘を口にする事で、そこに竹生の意思をもある事を鍬見に知らせたのだ。「私達が幸せになるのが、何よりもの恩返しになる。だから・・」「大丈夫」詩織は微笑んだ。「大丈夫、私達はきっと・・」白き風が過ぎ去っても、風はどこまでも二人を見守るかの如くに、深まる夜の中を吹いていた。(終)
2013/03/10
詩織が戻って来た。手には水色のトランクを提げていた。朱雀はそのトランクに見覚えがあった。百合枝の物であった。かつて誤解とすれ違いから百合枝が朱雀の家を出た時に、手にしていた物であった。懐かしさが瞬間、朱雀の目を細めさせた。悲劇はあったが百合枝は戻って来た。(求め合う魂を引き裂くなど、出来るものではない)朱雀と百合枝がそうであったように、この二人も又。朱雀は鍬見に言った。「これからはお前ひとりで彼女を守らねばならぬ。それでも二人で行くかね」鍬見よりも先に詩織が答えた。「かまいません。ただずっと生かされているだけよりも、私は鍬見さんと行きます」朱雀は微笑した。朱雀は鍬見の手に車のキーを渡した。一緒に小さな紙切れを渡した。行き先の地図であった。「今宵はそこで休むがいい。これからの事を二人で相談するといい」朱雀は封筒を詩織に渡した。「これは」中には紙幣が詰まっていた。返そうとする詩織の手を朱雀は押しとどめた。「当座の足しにしなさい。百合枝と私からの餞別だ」「ごめんなさい。百合枝お姉さまには、良くしてしていただいたのに」「私達はキミ達の幸せを祈っている」「ありがとうございます」朱雀は二人の車を見送った。テールランプが見えなくなると、朱雀は言った。「さて、私相手に勝算はあるのかね」どこからともなく現れた幾つもの影が朱雀を取り囲んだ。くぐもった笑いが幾つも沸き起こった。「今頃、二人は亡骸になっておるわ」「仲間がこの先に潜んでおったのだ」朱雀は微笑した。「それはありえんな」殺気が朱雀の周囲に膨れ上がった。「何をいう」「強がりか」「戯言よ」頭上から声がした。「そう、ありえぬ」風が吹いた。三日月の照らす天空には白き裾を翻す美しい姿があった。「私が皆、斬り捨てた」三峰であった。三峰を見上げ、朱雀は再び微笑した。次の瞬間、朱雀を囲んでいた影はことごとく地に伏していた。朱雀はいつの間にか愛刀を手にしていた。おそらく、どの影も自分が斬られた事すらも気づかずに絶命したであろう。影は音もなく黒い煙となって消え去った。三峰は優雅に地に降り立った。「これで良いのだな」「我らの未来の選択肢を増やす試みのひとつ」「ただ、肉親の情で動いたわけではないと」朱雀は三峰を見た。稀なる美貌のぬしは、兄の竹生と良く似た切れ長の目で朱雀を見ていた。「”外”に出た時から、それが私の役目」「辛いな」「そう言うな、少なくとも二人を引き裂かずにすんだ」「では」朱雀は言った。「私は自分の車で帰るが、お前はどうする、三峰」「飛んで帰れというのか?」「私の助手席はご婦人専用だ」「お前らしいな」朱雀はにやりとしてみせた「だが、今日は例外を認めよう」(つづく)
2013/03/05
「今の私は朱雀ではない。詩織の親族としてここに居る」運転席で前を見つめたまま、朱雀は言った。朱雀は濃茶のカシミアのコートをまとっていた。それを見て鍬見は寒さを初めて感じた。外の寒気にすら気づかぬほどに緊張しきっていたのだ。車は古本屋を直ちに離れ、郊外へと向かう道を走っていた。深い森の色をした朱雀の愛車ではなく、ありふれた黒い乗用車であった。助手席の鍬見にはその意味が理解出来た。朱雀の部下である前に”盾”である限りは、生殺与奪の権利は白神にあった。さすがの朱雀も関与は許されぬ領域である。表立って動く事は出来ない。だからこそ一人で鍬見を待っていたのだ。「お前は生きて表へ出る事はない、白神は皆に宣言した。だからお前は消えねばならぬ」朱雀はちらりとバックミラーを見た。「追手はいないようだな」朱雀はハンドルを握りなおした。「白神がお前を逃がした事を快く思わぬ者もいる。今の体制では、秘密などすぐに知れてしまうからな。味方の中にも敵がいるようなものだ」鍬見は黙していた。これから何が起きるにしても、受け入れるしかないと思っていた。車は別荘地へと入っていった。瀟洒な建物が森の中に点在している。ほとんどが無人で暗く鎧戸を閉ざしていた。ひとつの家にだけ灯りがついていた。一昔前に流行ったログハウス風の建物である。朱雀はその家の裏手に車を停めた。裏口から二人は中へと入った。廊下には灯りはなかった。暗闇であっても朱雀の”人でない”目には昼間同然に見える。鍬見も夜目が利く。二人は奥へと進んだ。その先の部屋の扉の隙間からから灯りがもれていた。そこは簡単な応接セットとブルーフレームのストーブがあるだけの部屋だった。二人が部屋に入ると、ソファに座っていた女が立ち上がった。詩織であった。目が合うと鍬見は動けなくなった。急激に湧き上がる愛しさとともに罪悪感もあふれ出した。自分のせいで彼女は危険な橋を渡っている。彼女は自分をどう思っているのだろう。側へ行っても良いのか、鍬見には判断がつきかねた。女の方が潔かった。詩織は鍬見に駆け寄ると抱きついた。「逢いたかった」息だけで詩織は言った。声にならない激しさを彼女も抑えているのだと鍬見は感じた。戸惑いながらも鍬見はその肩を抱き寄せた。「時間がない」朱雀が言った。「キミの荷物を取っておいで、詩織」鍬見の胸にすがったまま、詩織は頷いた。そして身体を離すと奥の扉の中へと消えた。鍬見の目はその姿を追っていた。朱雀は鍬見を見ていた。「その格好では目立つ」鍬見は黒い詰襟に似た”盾”の制服を着ていた。朱雀はコートを脱ぐと、鍬見の肩に着せ掛けた。「これを着ていくがいい。お前の着替えを用意する暇がなくてね」「ありがとうございます」鍬見はコートに袖を通した。「これから先、我らがお前と顔を合わせる事はない」「はい」頷くと鍬見は朱雀を見上げた。鍬見も背は低い方ではない。それでも朱雀の方が長身であった。鍬見を見る朱雀の目は温かかった。部下の誰もが尊敬し憧れる社長、いつもの朱雀であった。だが今その目には普段よりも複雑な色があった。(つづく)
2013/03/01
鍬見(くわみ)の断罪は、鍬見の完治を待って行われる事になっていた。それは”盾”という組織の正当性を示す為でもあった。金谷(かなや)と久井(くい)が監視の名目でつききりで世話をした。彼らの献身ぶりに大半の”盾”は寛容だった。誠実な鍬見の人柄を知る者は彼に同情する者も多かった。鍬見は仲間の気持ちをありがたく思った。だが掟を破り、詩織を危険に晒した原因を作ったのが自分にあるのは明白だった。それでもたとえ死すべき運命が待っていたとしても、胸を張って死にたいと思っていた。詩織を守りきった、その誇りだけを胸に。それが鍬見を支えていた。自分がいなくなっても鹿沼も千条もいる。朱雀様も百合枝様も力になって下さるだろう。幸彦様が詩織様を幸せにして下さるだろう。何も心配はいらない。そう思いながら、鍬見は黙々と日課をこなしていた。あの病院で再会した日以来、鍬見と詩織とは顔を合わせていなかった。詩織は竹生の屋敷に保護されていた。屋敷にいる限り、誰も詩織に手出しは出来なかった。久井は鍬見に代わって百合枝の主治医をつとめていた。鍬見には言わなかったが、久井は屋敷を訪れた際に、鍬見の容態を密かに詩織に伝えていた。詩織も今は耐える時期だと悟っていた。百合枝は詩織をいたわってくれた。朱雀が立場上、詩織に何も語る事が出来ないのも、詩織は理解していた。鍬見が裁かれる日が来た。鍬見は盾の制服を纏い、車で古本屋のビルに護送された。鍬見は静かに古本屋ビルの地下室へと歩いた。拘束はされず、前後に金谷と久井が付き添っていた。廊下に人影はなかった。鍬見を辱めまいとする、盾達の気遣いであった。扉の前に一人の”盾”がいた。鍬見の知らない顔であった。金谷と久井は廊下に残り、見知らぬ盾と共に鍬見は中へ入った。部屋の奥に椅子があり白神(しらかみ)が座していた。白神の左右に護衛の盾が立っていた。その顔も鍬見の知らない顔であった。白神なりの配慮なのだろうと、鍬見は思った。情を押さえた端正な白神の顔と向き合い、鍬見は長く同僚であった白神にこんな苦い役目を負わせてしまった事をあらためて申し訳なく感じた。役目を離れれば二人は良き友人であり、友人の口調で話す仲であった。導かれるまま、鍬見は白神の前に立った。鍬見は後ろ手を組み、背筋を伸ばして白神を静かに見た。白神も静かに鍬見を見ていた。しばらくの沈黙の後、白神が口を開いた。「霧の家の三郷(みさと)の息子、鍬見に相違無いか」鍬見は胸を張って答えた。「はい」白神が右の盾に頷くと、その盾は懐から書状を取り出し広げて読み始めた。鍬見の罪状がそこに記されていた。その盾はよどむ事無く朗々と読み上げた。(張りのある声、おそらく露の家の出の者だろう。あの家の者は皆、良い声をしている)その声を聴きながら、鍬見は二度と戻れぬ故郷に思いをはせていた。幼くして親を失くした鍬見は、盾の宿舎で育った。そのような子供達は何人もいた。激化する『奴等』との戦いの中で倒れる者は多かったのだ。何の後ろ盾のない彼等には、己の力のみが頼りであった。強くなる事のみが、この村で彼らが生きる為の手段であった。彼らは競い合い、支えあった。「以上、相違ないか」白神の声が鍬見を我に返らせた。再び、白神を見据えて、鍬見は静かに答えた。「ありません」白神は頷いた。「鍬見の処分を言い渡す」努めて無情な声で白神は言葉を続けた。「”盾”、鍬見の命、ここまでとする」鍬見は静かに頭を下げた。特に同期の者同士の絆は深かった。十の歳に彼らは見習いの盾となり、訓練の末に一人前となる。異なる部署に配属となっても絆は切れる事はなかった。それゆえ、同期の千条と鹿沼は鍬見には特別の友であり、彼らに何かがあれば何でもするつもりでいた。事実、千条も鹿沼も今の鍬見に出来うる限りの事をしてくれた。その恩も返せぬ事が今となっては唯一の心残りであった。白神が立ち上がった。左の盾が白神に一振りの刀を渡した。「膝をつけ、鍬見」作法に従い、後ろ手を組んだまま鍬見は膝をつき、首を前に差し出した。白神は鍬見の傍らに立った。「我が風の家の名刀”神星(しんせい)”にて、我が自ら断罪するを、せめてもの慈悲と思え」白神が刀を振り上げた。鍬見は目を閉じた。(つづく)
2013/01/24
扉の前で朱雀が名乗ると、扉はすぐに開いた。普段なら扉の左右に見張りの盾がいるはずだが、今は目立たぬように誰も立たせていなかった。特別病棟は各界の要人の入院も多い。待合室も豪華でそれなりの調度が整えられていた。明るいベージュ色のソファに、幸彦はぐったりと身を投げ出していた。傍らの安楽椅子に三峰がいた。朱雀の為に扉を開けた金谷は、そのまま入り口の側に立った。幸彦は片手を振って、朱雀に座るように促した。朱雀はソファの真向かいの椅子に腰を下ろした。「事情は説明致しました。詩織も理解はしてくれたようです。今は詩織の気持ちも和らいでおります」「そうかい」幸彦の声に力はなかった。まだ痛みを堪えているかのような表情のままだった。「詩織が、幸彦様に謝っておいてと欲しいと。先程は言い過ぎたと」少しだけ幸彦の顔に笑みがよぎった。安堵したのか、体中の緊張が解けたのか、更にぐったりとソファに横たわる形となった。「僕は、二人に幸せになって欲しいと思っている」三峰が口を挟んだ。「ですが、掟を破った鍬見を無罪放免にする事は、”盾”の士気に影響致します」「わかってる」幸彦は短く言った。そして大きくため息をついた。「僕のせいだ、何もかも。村がああなってしまったのも、何もかも。今度は”盾”まで」朱雀がとりなすように言った。「時代の流れです。どうしても”外”の影響を受けずにはいられません。しかし鍬見の件はそれとは別の事です。あれはあれなりに、任務に忠実であろうとしたのです」「そうだね」三峰は金谷に声をかけた。「幸彦様に温かいお茶を頼む。ついでに我らにも」金谷は一礼して出て行った。室内は三人のみとなった。三峰が言った。「”盾”の長である白神(しらかみ)の面子もつぶしてはなりませぬ。ですが、詩織は『火消し』に縁のある者、彼女の願いも無下には出来ぬはず」「駆け引きは、僕は苦手だ」三峰は微笑した。誰もが魅了される笑みが幸彦の顔を覗き込んだ。「ええ、その類なら得意な者がおります」美しき微笑は朱雀に向けられた。朱雀は片方の眉を上げた。「幸彦様がお望みなら」幸彦が言った。「頼むよ」「承知致しました」朱雀は応じた。そして向けられた微笑に劣らぬ微笑を浮かべた。(つづく)
2013/01/07
朱雀は言った。「キミは、人が青い炎で包まれたように、見える時があるのではないかね」マグカップを支える詩織の手に力が入った。詩織は朱雀を見た。朱雀の目は穏やかで優しい光を湛えていた。朱雀に詰問も非難もするつもりがないのが解った。詩織はためらいながら尋ねた。「鍬見(くわみ)さんに聞いたのですか?」「いや、私は鍬見とは話していない」「では、どうしてその事を?」「百合枝も同じ力を持っている」詩織は驚いた。「百合枝さんも?」朱雀は頷いた。「キミ達の曾祖母が持っていた力だ。キミが持っていても不思議ではない」詩織の曽祖父と曾祖母に関して、朱雀はまだ語りたい事が多くあったが控えた。いずれその機会は来るだろうと、朱雀は思った。今は先に伝えねばならない事があった。「百合枝には、もうひとつの力がある。『奴等』の毒を浄化出来るのだ」「毒?」「鍬見を救ったのはキミだ」「私が?」「『奴等』の毒は普通の方法では解毒は無理なのだ。キミの力が鍬見の毒を浄化し、鍬見は生き延びたのだ」詩織は鍬見の身体のあちこちに見えた緑の光を思い出した。(あれが、毒だったのかしら)すべては無意識であった。自分が何をしたのかもおぼろげにしか思い出せない。気が遠くなって、気がついたらこの病室にいた。「私、解らないわ」朱雀はいたわるように言った。「あせらなくていい、今はキミと鍬見が安全だという事だけが理解出来ればいい」「でも、鍬見さんは罰を受けると」今まで黙っていた寒露(かんろ)が口を挟んだ。「”盾”の掟を弟は破った。回復次第、しかるべき場で裁かれる」不吉な思いで一杯になり、詩織は叫んだ。「これも幸彦様の指図なの?」朱雀の顔から笑みが消えた。朱雀は”外”のお役目の長としての顔になった。「幸彦様は、こんな事は望んでおられない」詩織は食い下がった。「では、どうして」「”盾”の掟は絶対だ。それ故の苦渋の選択なのだ」詩織の胸に村への嫌悪が広がった。最初から二人を隔てていた壁、その頂点にいる幸彦という存在。何も知らずに幸彦の好意を受けた。それが彼の”想い人”という扱いになった。あるじの想い人を略奪した部下という汚名と罪状が、鍬見に被せられた。ただ、二人の心が通じ合っただけなのに。再び強張った詩織の顔を見て、朱雀は首を振った。「幸彦様はご存じなかったのだ。キミと鍬見の事を。あの方は今、傷ついておられる」詩織は言い返した。「傷ついているのは、鍬見さんです」「いや、キミには説明していなかったな。あの方は人の負の感情を身体の痛みとして受け取ってしまうのだ」「そんな事がありえるの?」「そうだな、いきなり信じろと行っても無理だろう。キミは憎しみをあの方に向けた。あの方にはとても辛い事だ。あの方は後悔による心の痛みと、キミからの憎しみによる肉体の痛みと、その両方に苛まれているだろう」寒露が呼んだ。「詩織」詩織は愛しい人の兄を見た。「お前は弟の為に、何もかも捨てる覚悟はあるか?」寒露には何か考えがありそうだった。「何もかも?」「家も家族も職も名前も、今のお前のすべてを」詩織は胸を張って答えた。「それで、鍬見さんが助かるのなら」「百合枝や朱雀殿にも、逢えなくなる」詩織は朱雀をちらりと見た。朱雀の顔には温和な笑みが戻っていた。「私達は、何よりもキミの幸せを願っている」深く豊かな声が言った。その声に背中を押され、詩織ははっきりと言った。「鍬見さんと共に生きられるのなら、捨てます」寒露は満足げに微笑した。「その決意、聞き届けた」詩織は不意に疲れを覚え、ぐったりと背もたれにしていた枕に沈み込んだ。朱雀は詩織の手からカップを取ると、テーブルに置いた。しばらく病室には沈黙の時間が流れた。それには当初の重苦しさはなかった。それは何かを越えた後の静けさに似ていた。気持ちが落ち着くと、詩織は幸彦への態度に後悔を感じ始めた。気が進まないのに誘いにのった。幸彦や周囲に誤解を招く行動を取ったのは自分なのだ。「朱雀さん」「何だね」「幸彦様に謝りたいの。私、気が立って酷い事を」「解った。さっそく伝えて来よう」「俺がここにいる。誰が来ようと指一本たりとも詩織には触らせない」寒露はあえてひょうきんに言った。「金谷が診察に来た時は、そうだな、必要な分だけは許してやる」朱雀は寒露と目配せした。先程の「聞き届けた」の意味を正確に理解しているのは、この二人のみであった。(つづく)
2012/11/27
「貴方が、鍬見(くわみ)さんのお兄様?」「腹違いの訳ありでね、公にはしていない」寒露は片手に銀盆を載せたまま、部屋の隅から小さなテーブルをもう片方の手で軽々と運んで来た。細身の身体に似合わぬ怪力に、詩織は目を見張った。寒露は盆をテーブルの上に置くと、朱雀の隣に折りたたみ椅子を広げて腰を下ろした。「俺からのお見舞いだ」寒露は顎でテーブルの上のケーキを示した。黄金色のスポンジに白いクリームとたっぷりのフルーツを載せたケーキは美味そうだった。「まあ、ありがとうございます」朱雀は銀のポットを取り上げて、三人分の珈琲茶碗に黒く熱い液体を注いだ。珈琲の香りが、詩織の心を更に和らげた。朱雀が珈琲を詩織に渡しながら言った。「私達は珈琲だけでいい。食べ物はすべてキミのものだよ、詩織」「あら、こんなに食べられないわ」「全部食べなくてもいい。元気が出るのに十分な位で」温かい珈琲が胃の腑に落ちると、詩織は急に空腹を覚えた。マグカップのスープを飲んでみた。コンソメの良い香りがした。柔らかく煮込まれた野菜を飲み込んだ時、詩織はこれが久しぶりの食事である事を思い出した。今の詩織に食べやすいように工夫された料理であると、詩織は感じ取った。男達はさりげなく二人で言葉を交わし、詩織から目をはずしていた。二人のいたわりと気遣いも詩織の中に暖かく染みた。「そのスープ、金谷が作ったのだ」寒露が言った。「金谷さんが?」「金谷は弟を尊敬している。それはあいつのせめてもの心尽くしだ」朱雀が口を挟んだ。「金谷は自分のせいだと悔やんでいる。せめて自分が同行すれば、こんな事にはならなかったのではとね。キミに同情していても、自分の立場ではどうにも出来ない事にも苦しんでいるのだよ」詩織は自分の態度を反省した。「私、あの人に八つ当たりしてしまったわ。後であやまらないと。スープのお礼も」寒露が聞いた。「美味かったか?」「ええ、とても」「それは白露(はくろ)、俺の双子の兄貴の得意な料理だった」「双子の?」「ああ、今はもういない。金谷は白露の下にいた事があったからな」「不思議ね」「何が?」「鍬見さんのお兄様のスープを、私が食べている事」寒露は一瞬だけ、暗い顔をした。死んだ白露の事を思い出したからだ。だがすぐに笑顔を取り戻した。「俺は、俺達は、詩織に感謝してる。詩織が俺達の弟の命を救ってくれた事を」詩織は驚いた。「私が?」朱雀が言った。「キミには、不思議な力があるだろう?」「私に?」「キミ達を襲った敵が、青い炎に包まれて見えたのではないかね?」詩織は頷いた。「やはりな。その力ゆえに、キミは奴らに狙われたのだ」(つづく)
2010/12/22
病室の扉が閉まると、朱雀は詩織の枕元の椅子に腰を下ろした。「さて、どこから話そうか」詩織は堅い顔で身構えた。朱雀は微笑した。「私の事も、信用してもらえないのかね?」詩織は強い目をして黙って朱雀を見ていた。朱雀も”盾”である事は聞いていた。朱雀は百合枝の従妹である自分を、身内として温かく向かい入れてくれた。そして何くれとなく世話を焼いてくれた。だが肉親と”盾”の掟を守る者と、彼がどちらの立場でここにいるのか、詩織には判断がつきかねた。詩織は鍬見の容態が気になっていた。金谷は無事だと言った。彼には鍬見を気遣う気配が見えた。だが彼は鍬見に関して話す事を禁じられていた。朱雀なら教えてくれるだろうか。詩織は思い切って聞いた。「鍬見さんは、どうなったのですか?」「危機は脱した。快方に向かっている」朱雀は即答した。詩織は少し気が楽になった。微笑を絶やさずに、朱雀は言った。「キミと鍬見の事は、百合枝からも頼まれている。二人を引き裂かぬようにと」ようやく詩織の表情が和らいだ。「百合枝さんが?」「キミ達には、私も不幸にはなって欲しくない」朱雀と百合枝は自分の味方になってくれる。詩織は心強く思った。とはいえ、不可解な事ばかりである。何故、自分が襲われたのかも解らなかった。朱雀は詩織の混乱を感じ取っていた。「鍬見の罪は、キミと必要以上に係わった事にある」「必要以上に?」「我らは、戦いの中にいる」「『奴等』との?」「そうだ。だから部外者との深い係わりは避けている」「私は、百合枝さんの従妹です」「それは、別の話だ」朱雀は片手で自分の首のあたりを触った。「喉が渇いたな。珈琲でもどうかね?腹は減っていないかね?」「少し」朱雀が立ち上がった。扉を細く開けて、朱雀は誰かと短く言葉を交わした。戻って来て椅子にどっかりと腰を下ろすと、朱雀は言った。「ルームサービスを頼んだ。ホテル並とはいかないがね」そして悪戯っぽく片目をつぶってみせた。詩織は思わず笑ってしまった。いつもの朱雀だった。詩織の前でも百合枝を愛する事を隠さず、陽気で皆を笑わせながら、何もかも的確に物事を運んでいく。今もそうであった。詩織の心をほぐし、良い方向へ事態を転換させようとする彼の気持ちが伝わって来た。扉を軽く叩く音がした。朱雀が応じると、一人の青年が銀色の盆を手に入って来た。器用に片手に載せた盆の上には珈琲と白い陶器のスープボウル等が並んでいた。黒髪の青年に、詩織は何かを感じた。親近感に似た感情を。青年は微笑した。その微笑に、詩織の胸が泡立った。詩織は青年の名を思い出した。「寒露(かんろ)さん」「やあ、弟が世話になったな」あっと詩織は心の内で叫んだ。寒露の顔は、眼鏡をはずした鍬見に瓜二つだったのだ。(つづく)
2010/11/28
「癒しの力?」「ああ、キミと同じだ」「詩織さんに?」「鍬見の容態が持ち直した。毒が消えていた」「貴方、お願い」「何だね」「詩織さんの気持ち」「困った事になったな」「二人を引き裂く事だけはしないで」「解ってる」安楽椅子の百合枝を軽く抱きしめると、朱雀は出て行った。目が覚めると、詩織は寝台に横たわっていた。詩織は起き上がり、部屋を見回した。鍬見の病室と似たような部屋だった。違うのは、白いカーテンの向こうの、窓の外が明るい事だった。鍬見の病室で意識を失った後、ここに連れて来られたのだろう。同じ病院の何処かに鍬見がいる、生きている。その事実だけは確かめたいと思った。「失礼致します」一人の医師が入って来た。見覚えがある顔だった。百合枝の元に、鍬見に従って来たのを見た事がある。確か金谷(かなや)と言った。鍬見と同じく穏やかさと知性を感じさせる細身の男だった。白衣のボタンがきちんと嵌められていた。「ご気分はいかがですか」「少し、ぼんやりしています」「頭痛や吐き気は?」「ありません」金谷は頷くと、手にしたファイルに何かを書き込んだ。「金谷先生」詩織が言うと、金谷は微笑んで言った。「金谷とお呼び下さい。私を覚えていて下さって光栄です」「鍬見さんは、どうなったの?」金谷の笑みが消えた。「ご無事です。それ以上は、私の立場ではお答え出来ません」詩織は、佐原の村への猛烈な反発を覚えた。百合枝と再会を果たしてからずっと感じていた不満が爆発した。「立場とは何ですか?では幸彦様に連絡をして下さい。あの方が一番上なのでしょう?すべてあの方が命令しているのでしょう?鍬見さんを閉じ込めて、私を閉じ込めて」金谷は困った顔をした。金谷を困らせてもどうにもならない事は、詩織にも解っていた。だが言わずにはいられなかった。「私は佐原の人間ではありません。幸彦様は佐原の村では偉い方でも、私を自由にする権利はありません」「僕は、そんなつもりは・・」二人は戸口の方を見た。花束を抱え、顔面蒼白の幸彦が立っていた。傍らに朱雀が居た。朱雀が素早い身のこなしで病室に滑り込んだ。深く豊かな声が優しく言った。「少し気が立っているようだね、詩織」朱雀は振り返り、幸彦に言った。「私が説明致しましょう。控え室でお待ち下さい」そして金谷に言った。「幸彦様のお側に」金谷は安堵の表情を浮かべて一礼した。(つづく)
2010/11/05
人の気配がした。鍬見は目を開いた。「鍬見さん」鍬見を覗き込んでいたのは詩織であった。鍬見は驚いた。「・・詩織様?・・何故、ここに」「鹿沼さんが連れて来てくれました」「そう・・ですか」鹿沼らしいやり方であった。今の見張りは、彼の組の当番なのだろうと、鍬見は思った。鍬見は痛む口を動かし、詩織に言った。「どうか、お座り下さい・・お疲れに・・なるでしょう」詩織は鍬見の枕元の椅子に腰を下ろした。包帯だらけの鍬見を、詩織は痛ましげに眺めた。包帯に覆われていない部分も、紫や赤に腫れ上がった箇所があった。詩織は何と言って良いのか解らなかった。詩織の為に”盾”の掟を破った鍬見が、病院で監禁同然の身である事は、鹿沼から聞いていた。ここへ来るまでの間も、厳しい目をした男達が幾人もいた。鹿沼は彼等を避け、或るいは彼等と短く言葉を交わして、詩織を人目から隠す様にしながら、ここまでたどり着いたのだ。病室の扉が施錠されていた事に、詩織は衝撃を受けた。鍬見が罪人のような扱いを受けている、その原因が自分のわがままにある事を、詩織は悔やんでいた。「ごめんなさい、私の為に」詩織は、顔を覆って泣き出した。鍬見は、そろそろと動く方の手を伸ばした。指先が、詩織の手に触れた。「泣かないで・・下さい、私などの為に。貴方は・・幸彦様の大切なお方、お守りするのが、我らの役目・・・」詩織は手を下ろし、涙に濡れた目で鍬見を見た。「幸彦様の?」「お聞きに・・なりませんでしたか?佐原の事を」「聞きました。まだ良く理解出来ていないけれど」幸彦が彼等の主人であり、鍬見達は、幸彦を護る為にいるのだと。幸彦が自分に好意を寄せているのは感じていた。詩織も幸彦を嫌ってはいない。だからといって詩織は幸彦の恋人になったつもりはなかった。詩織が愛しているのは鍬見だった。今ここで傷ついた鍬見を見て、詩織はその事を強く感じていた。鍬見は口を聞くのも億劫になっていた。眩暈が酷くなっていた。(何とか、詩織様にお帰り願わねば)鹿沼も厳罰に処せられるのは明白であった。鍬見は必死で口を開いた。「・・・こうして、詩織様とお話する事も、本来なら・・・さあ、お戻り下さい。鹿沼は良い奴で、命令違反をしても、貴方の願いを聞いたのでしょうが・・・・・これ以上長引くと、あいつも罰を受けかねません。私は軽率でした。詩織様と親しくしすぎました。ご無礼をお許し下さい。忘れて下さい、あんな出来事は・・・これからは安全です。幸彦様と盾達が、貴方を・・・守り・・・・・」不意に、鍬見の言葉が途切れた。鍬見の手が、パタリと毛布に落ちた。「鍬見さん!?」詩織の目に、緑に光る何かが、傷のあちこちに見えた。包帯を通して、その光が見えた。詩織は鍬見の手を握った。すると詩織から暖かい光が鍬見に流れ込み、緑の光はみるみる色あせていった。詩織は鍬見の名を呼びながら、自身から流れ出る光を感じていた。詩織の中の何かが、それが鍬見に必要なのだと教えていた。(鍬見さん・・)病室の異変に気付き、鹿沼が駆け込んだ時には、詩織は意識のない鍬見の上に突っ伏していた。そして、同じく意識を失っていた。(つづく)
2010/10/31
千条は言った。「朱雀様からお聞きした。村は酷い有様だったそうだ」「もう、俺達の知っている故郷はないのだな」「俺は人である事を捨てた。その時から故郷はないがな」「俺だって”外”へ出たのだ、だから・・」「無理をするな」「無理?」「逢いたくないのか?」「・・・誰に聞いた?」「誰にも」「誰にも?」「そういう噂はあった、お前の父親が誰か。寮にいた頃だ、お前は知らないだろうが」「そうだったのか」「妙な噂を流した奴は、鹿沼と俺で締め上げたからな」千条はにやりとしてみせた。「それきり、噂は消えた」太い声がした。「そんな事があったな」鹿沼だった。鹿沼のいかつい身体が戸口に立っていた。三人が顔を揃えるのは久しぶりだった。これは神の恩恵だと、鍬見は思った。(今ここでなら、言える)鍬見は、三人しか残っていないと嘆いた仲間が、また一人減る事を、彼等に伝えたいと思った。彼等に伝えねばと思った。鍬見は静かに言った。「俺は・・毒に侵されている。もう長くない」「馬鹿を言うな」千条が驚いてたしなめた。鹿沼は黙して鍬見を見ていた。「俺は医者だ、その位わからなくてどうする」「毒なら、百合枝様が・・」「・・俺の様な一介の盾に、そんな事は許されない。俺の盾としての席次は低い。俺が倒れても、代わりはいる」「お前には、まだやる事があるだろう。お前の部下の事も考えろ」「金谷も久井も、立派に一人前だ」「まだ、お前が必要だ」「・・俺は、最低の盾だ。村を守る為に戦って、死ぬのではないのだからな」黙って聞いていた鹿沼が、遂に口を開いた。「千条と俺は、お前が立派な盾である事を知っている」今度は鍬見と千条が驚く番だった。「俺の立場を気遣ってくれた事には礼を言う。だがお前は大馬鹿者だ。俺が知っていれば、お前はそこまでやられずにすんだかも知れんぞ。お前は俺に、友を救う機会を与えなかった。俺は怒っている、解るか?怒っている」これほど長く鹿沼が一気に話すのを、長い付き合いの二人でも聞いた覚えがなかった。鹿沼の気持ちに、鍬見は胸が熱くなった。「・・お前に、規則違反の・・片棒を担がせるわけには・・」鹿沼は大声で言い放った。「だから馬鹿なんだ、友を思う気持ちに理由などいるか。お前も言っただろう?もう俺達しかいないんだ、あの十の歳に見習いになった仲間は」「鹿沼・・」「二度と隠すな。俺に言え、俺に頼め」「お前・・」「千条は百合枝様をお守りせねばならん。だから俺に頼め」鍬見は感謝の念と共に、鹿沼へ死に行く自分の最期の気掛かりを託した。「詩織様を・・頼む。お守りしてくれ」鹿沼は大きく頷いた。「承知した」(つづく)
2010/10/22
「いつもと反対だな」千条はわざと陽気に言った。”盾”の息のかかった病院である。厳重な警戒下であっても、誰も千条の出入りを妨げる者はいなかった。千条は竹生達に準じる扱いを受けていた。”盾”達は知っていた、千条が竹生達と同じ者になった事を。包帯だらけで横たわる鍬見は、苦しげに息をしながらも、片目まで包帯に覆われた顔で、口元だけ笑ってみせた。「たまには・・いいだろ・・・」鍬見が口を聞いたので、千条は少し安心した。「お前には散々世話になったからな、俺は」「でも、お前は・・・」「ん?」「いや、いい・・俺が、弱いだけだ・・だから・・」千条は励ます様に言った。「お前は、弱くなどない」鍬見は枕の上で、微かに首を左右に振った。「強ければ・・こんな無様な姿を、晒さない・・」「俺の方がもっと酷かったぞ」「それは、相手が・・・」かつて百合枝を守る為に、千条は最強の”異人”鞍人(くらうど)と戦い、片足を損なう瀕死の重傷を負った。その為に盾ではいられなくなったのだ。五体満足でない者は”盾”でなくなる。それが掟だった。そして竹生の血によって”人でない”者として生き長らえた。不具の身となった百合枝に一生仕える為に。「詩織様は、竹生様のお屋敷に保護されている」鍬見は黙っていた。「お前は、詩織様を・・」「・・言うな」「そうか」「・・ああ」「そんな所まで俺と一緒か?付き合いが良すぎるぞ」鍬見は寂しげに微笑んだ。千条も鍬見も、かなわぬ相手と知りつつ、愛する事を止められなかった。「お前みたいに、強かったら・・な」「お前は弱くない、それにな、俺とお前は決定的に違う事がある」「違う・・事?」「俺は百合枝様をお守りする事が出来なかった。だが、お前は詩織様を守り切った」千条は暗く笑った。「俺はお前が羨ましいよ」しばしの沈黙の後、鍬見がぽつりと言った。「どういう・・気持ちなんだ?」「何がだ?」「百合枝様のお側に、ずっと・・償い?辛くはないか?百合枝様は・・」千条はふっと笑った。「俺は、朱雀様を尊敬している。お前だってそうだろう?」「ああ」「朱雀様と俺は、百合枝様の幸せを願っている・・回りくどいな、いいんだよ。痛みはあるさ、だがな・・俺は、百合枝様の笑顔を見る事が出来れば、それでいい。多くを望めば苦しい、だからいいんだ、それで」「多くを望めば・・か」鍬見は目を閉じた。久しぶりに人と話して、疲れを感じていた。「幸彦様は、詩織様を幸せにして下さるだろうか」「真彦様の事が気になるか?」「詩織様を嫌っておられる」「父親を取られると思ったのかもな」「・・かな」千条は窓の外を見た。「俺には、親子の気持ちは分からん」「・・俺もだ」幼くして親をなくした二人は、寂しく笑った。(つづく)
2010/10/20
廃墟の地下室で二人は発見された。鍬見は床に座り込んでいた。壁にもたれかかり、しっかりと詩織を抱きしめたまま、身動きひとつしなかった。(二人とも生きてる)寒露の”人でない”感覚が、そう言っていた。寒露は鍬見に駆け寄った。鍬見は満身創痍である。裂けた衣服は血に染まっていた。だが腕の中の詩織は意識はないものの無傷であった。(弟よ、お前はそれほどに・・)寒露は振り向くと怒鳴った。「敵は、いない」周囲に転がる残骸と破壊され尽くした地下の有様が、鍬見の激闘を物語っていた。普段は医師に似つかわしい、温和な態度を崩さない鍬見である。しかし本来の戦闘力の高さは、千条や鹿沼にも引けを取らない。寒露は気づいていた。鍬見にも自分と同じ”速さ”があると。霧の家の限られた者だけに発現する能力。鍬見はそれを同僚に見せる事はなかった。詩織を金谷にまかせ、寒露は鍬見を抱き起こした。鍬見の眼鏡はどこかへ行っていた。鍬見を見下ろす寒露の横顔と鍬見の面差しの酷似を、人々は今更ながらに感じ取った。鍬見は薄っすらと目を開き、寒露を認めた。鍬見の口元が微かに動いた。「安心しろ、詩織は無事だ。怪我ひとつしていない」鍬見はかすかに頷き、そのまま再び意識を失った。凄まじい戦いの痕跡に、盾達は驚愕していた。「お前達は、鍬見を軽く見ていただろう」普段は寡黙な鹿沼の声に、一同は振り向いた。「鍬見は、模擬戦では本気を出す事はなかった」若い盾が若さ故の不用意で尋ねた。「何故ですか?」鹿沼は質問した盾をじろりと見た。若い盾を見据えたまま、鹿沼は低い声で答えた。「奴が本気を出したら、相手は必ず死ぬからだ」鹿沼の目が鋭さを増した。「千条も俺も、本気の鍬見に勝った事は一度もない」鹿沼の目を見た若い盾は、背筋が寒くなった。(この方達は、俺などよりずっと高い次元で、戦っておられるのだ)金谷は手際良く鍬見の傷の具合を見て、てきぱきと処置をした。彼等が乗って来たワンボックス車は密かに救急用に改造されたものである。磐境が警備部から寄越したのだ。担架に乗せられた詩織には薄い毛布がかけられ、さりげなく顔も隠されていた。鍬見も共に運び出された。鍬見が意識を取り戻したのは、一週間後であった。口が聞けるようになるまでには、更に時間がいった。口を聞ける様になっても鍬見は黙していた。命令違反の行動である事は解っていた。どんな処分が自分を待っているとしても、鍬見は後悔はすまいと思った。(あの方さえご無事ならば、俺の事など・・)(つづく)
2010/10/18
詩織のアパートの近所の公園で二人は待ち合わせた。鍬見は部下の久井(くい)には「外出する」としか言わなかった。同行を申し出た久井を鍬見は「すぐに戻る」と同行させなかった。”盾”は通常一人で行動する事はない。今までにない事に久井は訝ったが、それ以上は聞かなかった。詩織は不安げな顔をしていた。「時々、人が青い炎に包まれて見えるのです」「何ですって」(詩織様も、人と”異人”を見分ける力を・・)百合枝の従姉妹であれば、その力があってもおかしくない。「私、おかしくなってしまったのでしょうか」「詩織様、それは・・」説明しようとした時、鍬見は異様な気配を感じた。咄嗟に身体が動いた。詩織を抱き寄せ、地面を蹴った。爆発音がした。二人のいた後ろの樹が無残に焼け焦げ、煙を上げていた。囲まれる前にここから離れねばならない。鍬見は驚いて座り込んだ詩織の手を引っ張った。「ここから移動します、急いで!」公園の出口に遺体が転がっていた。その男に鍬見は見覚えがあった。詩織の見張り役の一人であった。(風穴が、こうも簡単に?)敵は普通の”異人”ではない。武器も持たずに一人で来た軽率さを、鍬見は悔いた。鍬見の肩の傷口から、身体の奥に冷たいものが流れ込んで来るような感覚があった。(不味い、毒か・・・)「こちらへ」詩織は鍬見の腕を取り、ひとつの建物に鍬見を引き込んだ。そこは詩織のアパートだった。扉の前で鍬見はためらった。「お邪魔するわけには・・」「早く傷の手当てをしないと」足元がふらついてきた。やはり毒だと思った。(俺も、長くはないか・・)『奴等』の毒を完治する事は出来ない。それは医師である鍬見自身が一番良く知っている。入ってすぐの板の間に鍬見は倒れ伏した。「鍬見先生!・・鍬見さん!!」詩織が鍬見を抱き起こした。鍬見は口を聞くのも億劫になっていたが、ようやく言った。「詩織様、服が・・汚れます・・・どうか、お放しを」「いえ、服などどうでも良いのです」詩織は鍬見の指示を受けながら傷口に包帯を巻いた。父のシャツを出して来て、鍬見に着せた。詩織が鍬見に触れた。鍬見は逆らわなかった。自分がもはや長くは生きられないと悟っていたからである。重なる思いが、二人をつかの間の愛の時間に導いた。鍬見は体が楽になったのを感じた。(何故だ、少し休んだからか?)ぎりぎりの状態の鍬見は、その時は気づいていなかった。詩織のもうひとつの力に。警備部も慌しくなっていた。「鍬見からの連絡が途絶えました」鍬見だけではなかった。感知力の高い者達が、その近辺の気配を探ろうとしたが、敵はおろか配置されているはずの味方の気配も感じる事は出来なかった。「おかしい、何も気配を感じない」「妙な結界が張られているな」突然の声に、部屋中の者が入り口を振り返った。”盾”達が口々に叫んだ。「寒露様!!」村の守護者の突然の出現に、磐境以外の盾は驚いた。寒露が”外”に居る事は、限られた者達しか知らない。それに今は昼間なのだ。「俺なら、あいつの居場所がわかる」磐境が尋ねた。「寒露様、お身体はよろしいのですか?」「俺の事はいい。詩織と鍬見を見つけ出す事が優先だ。”異人”に容赦はないぞ」元は盾の長であった寒露の言葉に、一同は身が引き締まる思いがした。「俺が行く。鹿沼、お前も一緒に来い」「はい」「金谷と久井も来い。鍬見も無傷では済まないはずだ」「はい」久井は答えながら、鍬見を一人で行かせてしまった事を悔いていた。(せめて、私だけでも・・)(つづく)
2010/10/13
肩先の焼けつくような痛みに、鍬見は膝をついた。なぎ払った先に手応えは確かにあった。敵の気配が遠ざかるのを、鍬見の鍛えられた神経が感じ取った。「鍬見先生!」「詩織様、お怪我は?」「私は大丈夫です」鍬見が片手で押さえた肩先からあふれる血に、詩織は目を止めた。「ごめんなさい、私の為に」二人は建物の影に身を潜めた。「眼鏡、どこへ行ってしまったのかしら」「ああ、そうですね」「ごめんなさい」「いえ」「貴方の素顔、初めて見るわ」詩織の顔が近づいた。壁にもたれたまま、鍬見は顔をそむけた。そして軽く首を左右に振った。「どうして?」「貴方は、百合枝様の従妹。私はお仕えする者、身分が違います」「そんな」「お許し下さい」「私が、嫌い?」「そうでは、ありません」「私は・・」「お願いです、これ以上は」「鍬見先生?」「鍬見とお呼び下さい。私は・・詩織様をお守り致します。この命をかけて・・それが私の役目です」「・・役目?それだけ?」「それ以上は・・・何もおっしゃらないで下さい」病院の職員は定期的に検診を受ける義務があった。「先生って、痩せてると思ったら以外に筋肉質なんですね」前田留美のあけすけな言葉を鍬見は不快に思った。検査が終わるとすぐにシャツを羽織った。(詩織様はそんな事はおっしゃらないだろう)比較してしまってから、鍬見は自分の中の切なさに気が付いた。同時に、聴診器をあてた、肌蹴た白い胸の薔薇色の乳暈を思い出し、頬が熱くなった自分にうろたえた。「先生?」不振げな留美の声に、鍬見は何食わぬ風に取り繕い支度を終えた。「仕事に戻る」その後の事だった。詩織から鍬見の携帯に電話があった。「それは・・出来ません」「どうしてですか?」「私は、あのお屋敷にお仕えする身です。詩織様と個人的にお逢いする事は、とても許される事ではないです」電話の向こうで、詩織は黙った。(携帯の番号を教えるのではなかった)鍬見は心を強く持とうと気を引き締めた。詩織への愛しさを必死で押さえつけ、鍬見は言葉を続けた。「ご気分が優れないのでしたら、どうか病院へおいで下さい。予約をお取り致しましょう。明日の9時以降でしたら、詩織様のご都合で・・」詩織の声が鍬見の言葉を遮った。「私は佐原の村の人間ではありません。村の掟に従う理由はありません」「しかし」「病院では、他の人に聞かれているようで、お話しにくいのです」「デリケートな問題もあるでしょう。同性の方が相談しやすいかも知れませんね。女医を紹介しましょう」詩織が張り詰めた声で言った。「私が信頼出来る医者は、あなただけです」鍬見はしばらく黙っていた。詩織の息遣いが聞こえるような気がした。「解りました」鍬見は言った。「明日の午後でよろしければ」そして二人は密かに逢い、二人は『奴等』に襲われた。(つづく)
2010/10/10
百合枝と詩織は庭に続くベランダでお茶を楽しんでいた。良く晴れた午後の庭を見渡せるベランダは、食堂と仏蘭西窓で繋がっている。薔薇の咲く小道を吹きぬけた風が通り過ぎ、屋敷の奥まで馥郁たる香りを運んでいた。仲の良い従姉妹二人が過ごすには、似合いの場所であった。円卓の白いリネンのクロスの上には、胡瓜とサーモンのサンドイッチ、津代の自慢のケーキの類が並んでいた。百合枝の横には千条が控え、世話を焼いていた。「お仕事の方は慣れた?」「ええ、皆さん良くして下さるの」朱雀の口利きで、詩織は画廊に勤め始めていた。小さいながらその筋では老舗で、上客も多く信用のある店だった。「幸彦様から、お誘いがあるのですってね」「いつも素敵なお店に連れていって下さるの。何だか申し訳なくて」百合枝は千条の方に顔を向けた。「お茶のお替りを、お願い」「はい、百合枝様」千条は一礼して、ポットを手に屋敷へと入って行った。千条の姿が見えなくなると、百合枝は声を潜めて言った。「私達に気兼ねして、お断り出来ないではなくて?」たとえ台所にいても、千条の”人でない”耳には二人会話が届いている。その事を百合枝は知っているが、詩織は知らない。自分と二人きりの方が、詩織が本音を言い易いだろうという、百合枝の配慮であった。詩織は俯いた。「そんな事はないわ。でも」「でも?」「私なんて、何の取り柄もないのに」百合枝は微笑んだ。「貴方は十分に魅力的よ」「ありがとう、百合枝お姉様」詩織も微笑み返した。部屋に上がり込んでいた前田留美を駅まで送ると、鍬見はすぐに戻った。寒露は床に伸び伸びと寝そべっていた。「兄さん」「ん?」「前田君を部屋に入れないで下さい」「いいじゃないか」「良くはありません、彼女は誤解している」「何だ、あの子に気があるわけじゃないのか」「彼女は同僚です。それ以上でもそれ以下でもない」寒露は鍬見の不機嫌に結ばれている唇を見た。やや先を尖らせ両端を引き締めた結び方。(白露と同じだ)永遠に失われてしまった寒露の半身、双子の兄。(こいつはやはり、俺達の弟だ、白露)「他に誰か女がいるのか?」「そんな余裕はありませんよ、忙しくて」鍬見は不機嫌な声で言った。寒露はふと思いついて言った。「詩織か?」鍬見がきっと寒露を睨みつけた。「俺をからかわないで下さい!」叫んでから、鍬見はひるんだ顔をした。「すみません、兄さん」「”俺”・・か」「はい?」寒露は鍬見を背中から抱きしめた。鍬見はいつもの如く逆らわなかった。「”私”でなく、”俺”と言ったな」「すみません・・つい、礼儀を忘れて」「いいんだ、俺はうれしい」「でも」「それだけお前が、俺に気を許してくれたという事だろう?」互いに兄弟と知れてからも、霧の家の長の息子として敬われていた寒露に対し、鍬見は女中の子である自分を卑下していた。「すみません」「謝るな、いいんだ。その方が俺はいいんだ。ずっとそれでいい。二人でいる時は兄と弟、それだけでいい。もっと打解けて欲しいんだよ」鍬見は兄の腕の中で力を抜いた。二人は鍬見の寝台に転がった。鍬見の耳元で寒露がささやいた。「詩織が好きか?」鍬見は息のかかるくすぐったさに首をすくめた。それからぽつりと言った。「詩織様は、幸彦様の想い人です。あの方にとって俺は、たまたま診察した医者でしかありません」寒露は、鍬見を見ていた詩織の視線を思い出して言った。「さあ、どうかな?」「雲の上の人です。だから俺は・・いや、やる事が多すぎて、俺には余計な事をする時間はない」「誰かを愛する時間もか?」「余計な事です。ただでさえ俺は弱い。兄さん、今度付き合って下さい。俺の剣が少しでもましになる様に教えて下さい」「俺でいいのか?」「兄さんは強い。俺は弱い・・弱すぎる、俺は・・」鍬見は大きく息を吸い、そして吐いた。「弱すぎる」(つづく)
2010/10/04
織はずっと鍬見の胸に頬を押し付けたままの自分に気が付いた。詩織は慌てて身を起した。「ごめんなさい」鍬見は微笑み、詩織の顔を覗き込んだ。「落ち着かれましたか?」百合枝の世話係として常に付き従う千条も、男として並以上の容姿を兼ね備えていたが、鍬見も負けずに良い男で、医師らしい落ち着いた雰囲気と柔和さを持っていた。端正な白い顔に覗き込まれて、詩織の顔に朱が走った。「はい、失礼を・・すみません、鍬見先生」「先生はおやめ下さい。鍬見とお呼び下さい、詩織様」(詩織様・・)自分の名を柔らかい響きを持つ声に呼ばれると同時に、詩織の胸に甘い痛みが疼いた。百合枝の計らいで、詩織は膝の傷の手当てを受ける事になった。詩織の為に用意された客用の寝室で、破れたストッキングを脱ぎながら、詩織は何か後ろめたい事をしている気分になった。扉を軽く叩く音がした。「入ってもよろしいですか?」鍬見の声だった。詩織は深呼吸をしてから言った。「どうぞ」寝台に腰を掛けた自分の前に、ひざまずいて傷の手当てをしている鍬見の柔らかそうな髪を見ながら、詩織は悩ましい気持ちになっていた。鍬見は丁寧に傷口の汚れを拭い消毒をしていた。誠実がこもった仕草だった。(指も細くて綺麗、爪の形も)詩織は自分に触れる鍬見の指の感触に愛撫を思い描いていた。このまま素足の爪先の唇を押し付けて欲しい。そんな自分の淫らな幻想を、もしこの人が知ったらどうなるだろう。そんな事を思う自分に呆れもした。廊下で行き会った鹿沼に、鍬見は先程の”盾”について尋ねた。「警備部の人間ではないな」「見張り役か。詩織様を先にお助けするべきではなかったのか?」「奴が凶器でも持っていたら、そうしただろうな」「気に食わないな」「そう言うな、あいつらにはあいつらのやり方がある」詩織が百合枝の部屋へ戻ると、朱雀と見知らぬ紳士がいた。詩織が入っていくと、紳士は穏やかに微笑んで詩織を見た。「貴方が詩織さんですね」品の良い紳士だった。ソファにゆったりと寛ぐ彼は、この屋敷の客人に似つかわしいと詩織は思った。人々の態度が彼に恭しいのを、詩織は不思議に思った。朱雀が説明した。「我らは、代々幸彦様の家にお仕えする家系でね」皆はそれを当然の如く思っているらしい。詩織は今時珍しいと思ったが、不快ではなかった。彼らは皆、礼儀正しく誇り高い人々であったから。幸彦と呼ばれた紳士は、詩織に好意的なまなざしを向けた。「詩織と呼んで良いかな」「はい」詩織は微笑んで応じた。優しい声が遠い記憶を思い起こさせた。父或いは祖父の。垣間見た真に豊かな暮らしと共に。それは物だけではなく心も豊かな世界だった。(つづく)
2010/09/18
男が詩織のバッグに手をかけた。「あっ!!」バッグのベルトが千切れ、詩織の身体が道路に転がった。男は成功を確信して駆け出した。不意に男の目の前が何かに遮られた。次の瞬間、男は腕に激痛を感じ、呻いた。背中に腕を捻じ曲げられ、男は押さえつけられていた。わめきもがいたが、身動きが取れなかった。押さえつけているのは、眼鏡をかけた長身の男だった。背広にベージュのコートのごく普通の身なりをしている。とてもこんな荒事が出来るとは思えない温和な顔が言った。「鞄を放さないと、腕が折れますよ」男の腕に更なる激痛が走った。男は鞄を捨てた。眼鏡の男が手をゆるめると、男は素早く立ち上がり逃げていった。詩織は道路に座り込んだまま、事の次第を驚いて見ていた。眼鏡の男は詩織のバッグを拾うと、詩織を助け起した。「大丈夫ですか?」眼鏡の奥の目は優しかった。詩織が立ち上がると、眼鏡の男は詩織にバッグを返した。「膝を擦りむかれていますね」破れたストッキングから血が滲んでいた。詩織は何か言おうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。眼鏡の男は怯えきっている詩織を黙ってみていたが、ふと気が付いた様に言った。「もしや、詩織様ではありませんか?百合枝様の従姉妹の」詩織は目を見張り、長身の男を見上げた。「はい、あの・・」「私は百合枝様の主治医で、鍬見(くわみ)と申します。お屋敷に向かわれる途中でしたか?」詩織は頷いた。「では、ご一緒致しましょう」歩き出そうとしてよろけた詩織をしなやかな腕が支えた。思わず倒れこんだ胸は暖かく微かに青く甘い香りがした。「あせらずに」「はい」鍬見は片手で詩織を支えながら、ゆっくりと歩き出した。もう片方の手には往診用の鞄を提げていた。鍬見は目の端で、逃げた男を追って行った影を捉えていた。(背後に”異人”がいるか、確かめにいったな)おそらくは朱雀の命令で詩織の身辺に付いていた者だろうと鍬見は思った。(後で、鹿沼にでも確かめておくか)門を開けた伴野は、鍬見にすがる詩織の様子を見ても、余計な事は何も言わなかった。いつも通り律儀に頭を下げただけであった。玄関で出迎えた桐原も同様であった。先程の出来事はすでに屋敷に知らせが入っているのだ。”盾”でもある鍬見には解った。”盾”は三人一組で動くのを常とする。一人は男を追い、一人は屋敷へ知らせ、もう一人はその場に残り、詩織と鍬見の警護についたはずであった。(だったら、最初から詩織様をお助けすれば良いものを)鍬見は心の中で少し怒ったが、詩織の前に姿を見せる事は禁じられているのだろうと思い直した。桐原は言った。「どうぞ、百合枝様のお部屋へ」鍬見は詩織を支えながら階段を昇った。「まあ、詩織さん、どうなさったの?」いつもの安楽椅子から、百合枝は驚いて叫んだ。鍬見は手短に事情を説明した。「とにかくお座りになって」鍬見は詩織をソファに座らせて下がろうとしたが、詩織は鍬見の服の端を硬く握ったままだった。それを見て取り、百合枝が言った。「鍬見、詩織さんの側にいてあげて頂戴」鍬見は詩織の隣に腰を下ろし、震える詩織の背中をそっとさすった。百合枝は千条に温かいお茶を用意する様に言い付けた。「今日はここに泊まって行きなさいな。一人暮らしの家に帰るより良いでしょう?」詩織は頷いた。「鍬見、悪いけど、今夜はここに居て下さる?」百合枝がこんな事を言うのは珍しい。数少ない肉親の事を、百合枝様は深く心配なさっているのだと鍬見は思った。「はい、幸い明日は非番ですので」「それなら、ゆっくりしていらっしゃいな。千条と久しぶりに積もる話もあるでしょう」鍬見はおどけて言った。「ありがとうございます。一人身の男同士の話など、面白くも何ともありませんが」丁度戻って来た千条が言い返した。「こちらだって願い下げだ」笑い声が広がった。互いに信頼しあっているからこその軽口だと、詩織にも解った。詩織はそれを聞きながら、次第に緊張が解れて来るのを感じていた。(つづく)
2010/09/11
見覚えのある道へと車は入って行った。(その角を曲がると蔦の絡まる塀が見え、まもなく門が見える)詩織の記憶通りの道を辿り、車が止まった。朱雀は素早く降りると、反対側に回り、助手席の扉を開けた。詩織は外へ出ると屋敷を見上げた。見覚えのある窓に灯りがともっていた。緑色に塗られた窓枠の形を、詩織ははっきりと覚えていた。詩織の視線を追って、朱雀も窓を見上げた。「あの窓が百合枝の部屋だ」「昔と変わらないのね」「ああ、そうだ」一人の男が門を開けた。「お帰りなさいませ、朱雀様」「ただいま」朱雀は男に鷹揚に頷き、詩織に言った。「庭師の伴野だ」伴野は武骨な身体をかがめ、詩織に頭を下げた。朱雀は詩織の肩を抱いて促した。門をくぐり、左右に薔薇の植えられた石畳の道を歩いた。暗闇にも仄かに揺れる花が見えた。「綺麗だわ、オールドローズね。アリスター・ステラ・グレイ?」「左様で御座います。このお屋敷に相応しいと思いまして」伴野はうれしそうに答えた。伴野は詩織の着替えを詰めた鞄を下げ、二人の後に続いていた。「詳しいのだね」「お爺様に教えていただいたの」「他にも沢山の種類が御座います。お時間がある時に是非」「ええ、案内して下さいね」「喜んで」そういうやり取りの中に、朱雀は詩織の資質を思った。彼女も百合枝同様に屋敷の女主人として申し分のない女性なのだ。裕福とは言えない暮らしであった事は、新明の報告で聞いている。けれども持って生まれた品格は損なわれる事無く、この花の様に香っているのである。玄関のファサードの奥の扉が開いた。痩躯の男が立っていた。「お帰りなさいませ、朱雀様。ようこそ、詩織様」深夜であるのに、ジレ付の背広に細いネクタイを締めている。男は伴野から鞄を受け取った。「桐原はこの家の執事だ。屋敷の住人については、後でゆっくりと話してあげよう」「百合枝様がお待ちかねで御座います」「二階へ行こう、詩織」朱雀は桐原に言った。「荷物は詩織の部屋の方に」「はい、朱雀様」階段の手すりにも見覚えがあった。詩織の中に懐かしさがこみ上げた。(つづく)
2010/09/06
深い森の色をした外車だった。朱雀は助手席の扉を開けて詩織を乗せた。運転をしながら朱雀は言った。「百合枝の事を、話しておかねばならない」夜の街の灯りが車内に飛び込み、朱雀の整った横顔をくっきりと浮かび上がらせた。「百合枝は、しばらく前に事故で身体が不自由になってしまったのだ。自分では歩く事も起き上がる事も出来ない」「まあ、百合枝お姉様が?!」思わず昔の呼び方で詩織は叫んだ。「通夜の席で言って、キミに余計な心配をさせたくなかったのでね」「お気遣いありがとうございます、社長」朱雀は笑った。「キミは我が社の社員じゃない、朱雀と呼んでくれたまえ」「はい、朱雀さん」「キミの事を詩織と呼んでいいかね?」「ええ」「では、詩織」「はい」「百合枝は、足が動かないのだ。両腕も失ってしまった」「そんな」「しかし彼女自身は変わらない。素晴らしい女性だ。私は百合枝を愛してる」朱雀の言葉に、詩織は百合枝の現在の幸福な人生を感じた。「百合枝さんが羨ましいわ、朱雀さんの様な素敵な方がいて」朱雀は微笑んだが、何も答えなかった。百合枝をあんな身体にした原因は自分なのだ。しばらく沈黙が続いた。車は渋滞に巻き込まれる事もなく、滑らかに走り続けていた。「キミは、ずっと一人で?」「母と二人で」朱雀は詩織の頭の良さを感じた。話していて退屈しない女性は少ない。百合枝を知った後、朱雀はそれを痛感する様になっていた。詩織はそんな所も百合枝に似ていた。朱雀はおどけて言った。「我が社には良い男が沢山いるのだ。キミが気に入る者が居るといいな」「まあ」詩織は笑い出した。ここ数日で初めての笑いだった。「そんな心配もして下さるの?」「そうだな、キミが百合枝を姉と呼ぶなら、私はキミの兄だ。相手が出来たら、必ず私に知らせるのだよ」「試験でもなさるの?」「勿論さ。キミには幸せになって欲しいからね」先程逢ったばかりなのに、詩織は朱雀という男とずっと知り合いだった気がしていた。たちまちのうちに人と打ち解けてしまうのも、社長業で必要な社交術かも知れない。けれどもそんな事は今の詩織にはどうでも良かった。母が死んで天涯孤独と思っていたのに、そうではないと感じ始めていたから。(つづく)
2010/09/03
狭く侘しい葬儀場だった。通夜の席に人影はまばらで、それが一層寂しさを漂わせていた。祭壇のすぐ側に立つ黒いワンピースの女に、朱雀の眼が引き付けられた。華奢で何処となく品のある女である。長い髪を後ろに束ねている。滑らかな真珠色の肌が、薄化粧の下から透けて見える。精一杯に耐えている風情がありながら、毅然として見せようという誇り高さも感じられる。朱雀が入っていくと、人々の視線は彼に集まった。驚きと好奇の混じった表情と共に、この長身の美丈夫の為に、人々は自然と道を開けた。朱雀を見た女の目元が百合枝に良く似ていると朱雀は思った。百合枝より七歳下と聞いたが、姉妹と言っても可笑しくない。何処か百合枝と共通の雰囲気があった。焼香をすませ、女が頭を下げるより早く朱雀は会釈をし、そして女の眼を覗き込んだ。「詩織さんですね。私は百合枝の連れ合いです」詩織の顔に、親しみのこもった笑顔が浮かんだ。「百合枝さんの?」詩織の問いたい事を、朱雀は先回りした。「百合枝は身体の具合を少し悪くしましてね。今日は一緒に来られずに申し訳ない」朱雀は会場を見渡した。「他の親族の方々は、どちらに?」詩織の顔に困惑の色が浮かんだ。「母の身寄りは殆どいなくて」「では、私だけかな?」詩織は恥じて頷いた。「はい」朱雀は詩織に微笑みかけた。やや砕けた口調で朱雀は言った。「では、親族としてお手伝いさせてもらえるかな?」詩織は驚いた顔をした。「それでは申し訳ありませんわ」「仕事柄、こういう席には慣れているのでね」朱雀が眼くばせすると、新明(しんめい)が入って来て、詩織に頭を下げた。「この度は・・」形式通りの挨拶をすると、新明は言った。「私どもも、お手伝いさせて頂きます」新明は警備部の者を数名連れていた。彼らも詩織に頭を下げた。新明が詩織と話している間、朱雀は部屋の隅で中年の葬儀屋の男と言葉を交わしていた。自分の名刺を渡し、男に素早く金を握らせた。朱雀の会社はそれと名の知れた会社である。陰気な顔の小男はいきなり愛想良くなり、ペコペコと頭を下げた。戻って来た朱雀は新明に言った。「後はまかせた」「はい」新明は葬儀屋と打ち合わせを始めた。朱雀はそのまま詩織の隣に並び、訪れた人々に挨拶をしていた。喪服であっても只者ではないと一目で解る、威厳と同時に人を惹きつける魅力を持つ朱雀がいるだけで、場内の空気が変わった。詩織は朱雀の存在を心強く感じていた。写真の母の顔も、心なしか少し安堵した様に詩織には思えた。人々が去り、会場には詩織と朱雀だけが残っていた。詩織は神妙に朱雀に頭を下げた。「本日はありがとうございました」朱雀は笑って言った。「他人行儀はやめよう、堅苦しいのは苦手でね」「でも」朱雀は長身を折り曲げ、詩織の顔を覗き込んだ。「私達は他人ではないのだよ。キミは百合枝の従姉妹だ、私は百合枝の夫だ」詩織の目の前に端正な顔があった。青く甘い香りがした。詩織の頬に朱が走った。うろたえた自分を隠す様に詩織は言った。朱雀の眼から眼をそらす事は出来ないままで。「親しき仲にも礼儀あり、と言いますわ」朱雀は詩織の眼を覗き込んだまま、そっと詩織の肩に手を置いた。「私は、礼儀にはずれた事をしたかね?」夜気に冷えた肩に、朱雀の大きな手の温もりは心地良かった。「いえ」詩織は小さく答えた。「今夜は、この近くのホテルに泊まるそうだね」「はい、明日は早いですから」「屋敷へ来ないか?知らない部屋で一人でいるよりは良いだろう。百合枝も逢いたがっている」「御影のお屋敷に?」「ああ、知っているかね」「子供の頃に、お伺いした事があります」「剛三氏は、キミを可愛がっていたそうだね」「ええ、でも」玲子は剛三に気兼ねして、あまり屋敷を尋ねようとしなかった。心無い身内に「金目当て」だと露骨に嫌がらせをされたせいもある。玲子はその事は剛三に言わずにいた。だが気付かぬ剛三ではなかった。百合枝に二人の様子を見に行かせる事もあったのだ。「百合枝さんは、いつも優しくして下さいました」「では百合枝に逢いに来てくれるね。心配ない、あの屋敷には部屋なら沢山ある。キミの部屋もすぐ用意させる」詩織の脳裏に、緑の窓の屋敷が浮かび上がった。「ホテルの方は新明に処理させておく。私の車で行こう、着替えは?」「ここの受付に預けてあります」「よし、受け取ったら行こう」詩織はすでに屋敷に泊まる事になっている事態に気が付いた。だがそれを断る気持ちにならない自分に驚いていた。詩織は朱雀にいつのまにか深い信頼を寄せていたのだ。(つづく)
2010/09/02
百合枝の元に一枚の葉書が届いた。叔母の葬儀の知らせだった。差出人は御影詩織。朱雀は葉書を見ながら尋ねた。「キミの従姉妹なのかね?」「私より七つ下」「普段の付き合いはないのかね?」「悠二郎叔父様は、お爺様に画家になる事を反対されて家を出たの。だから御影の家とは疎遠で」「なるほど」「お爺様の葬儀の時も、お知らせはしたけれど」百合枝は言った。「玲子叔母様は、今更そのような席に出るのは申し訳ないと言って、後でこっそりとお線香だけ上げに来られたの」「慎み深い人だね」「優しい方だったわ。叔父様が早くに亡くなられたので、お爺様も後悔する気持ちがおありだったのか、叔母様と詩織さんの事を気にかけていらしたみたい」「そうか、キミの代わりに私が行って来よう」「そうしていただける?」「ああ」「それと詩織さんの事」「ああ、悪い様にはしない」「お願い」朱雀は詩織の事を新明(しんめい)に問い合わせた。百合枝の家の件を任せた弁護士である。「間違いありません。剛三氏の次男、悠二郎氏のご長女です」新明は気が利く男だった。すぐに資料と共に朱雀の社長室にはせ参じた。「悠二郎氏の死後、御母上とお二人でご苦労された様です。母の玲子様は、剛三氏からの援助の申し出も断ったそうで。御影の家に迷惑をかけたくないと」「随分と他の親族とは違うようだな」新明は笑った。「親族の中で、この母子のみが、最初から権利を放棄されました」「それで?」「私は法は公平であるべきだと思っています」「お前らしいな」「私がお尋ねした時も固辞されましたが、詩織様の将来の為にもと説き伏せて、お二人の相続された分は私の管理下にあります。百合枝様に比べれば些細な額ではありますが」「その件も、彼女と話し合う必要があるな」「はい」「百合枝も気にかけている」「社長」「何だね?」「詩織様は会社を退職された直後のご様子です。その・・人減らしで。詩織様の相続分は信託化して月々決まった額をお渡しする形ですが、それで生活のすべてを賄うにはいささか・・」「分った」朱雀は新明を笑顔で見た。「お前は戦場よりも法廷での戦いに向いているらしいな」「恐れ入ります」彼も”盾”の一人であった。(つづく)
2010/09/01
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