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「竹生、ダメじゃないか。忍野は病人なんだよ」「こんな綺麗で可愛いもの、可愛がるなと言う方が無理です」竹生は言った。「絶望に世を儚んだ魂に、この世の喜びを、身にも心にも味わわせてやりましょう」幸彦は竹生を何度見ても飽きる事無く美しいと思った。そして忍野も。幸彦は恍惚とそれを眺めていた。忍野は夢見心地の中で、様々なしがらみも考えも消えてゆくような気がした。雑多なものがなくなると、澄んでいく心の奥に、あの笑顔が輝いて見えた。(麻里子様・・)偽る事を捨てた時、やはり自分の一番愛する者は麻里子であり、一番欲しいものが麻里子の心なのだと、忍野はあらためて感じていた。竹生の青く輝く瞳は、忍野の思いを見ているかの如く、その耳元にささやいた。「お前は、お前のまことに生きるべき道を選ぶが良い。それが土地の望みだ」(私の・・土地の望み・・でも・・)その願いは忘れるべきなのだ。すべて忘れてしまえるなら。心地良さに気が遠くながら、忍野は思っていた。麻里子は奥座敷に舞矢に会いに行った。麻里子が来ると舞矢は機嫌が良くなり、表情が穏やかになった。人間商売をやめてしまった舞矢は、布団に半身を起こしたまま、じっとしている事が多かった。麻里子は昔そうだったように、舞矢に様々な事を語りかけた。老医師からも舞矢の精神の快復の為に、話し掛けるように言われていたが、言われなくても麻里子にとって舞矢は貴重な話し相手だった。かつて麻里子と舞矢が朱雀の会社の同僚だった頃、ランチを取りながら篠牟の事や色々な事を何でも話していた時の様に、今も麻里子は自分の心境を舞矢に話す事があった。舞矢は黙っている。けれども首を傾げてじっと麻里子の話を聞いていてくれるような気が、麻里子にはしていた。最も今も昔も麻里子が一方的にしゃべるのは変わりない事であった。「素直になればいい」「え?」舞矢はまるで正気であった時のように、はっきりともう一度言った。「素直になればいい」それきり口をつぐみ、焦点の合わない目で、舞矢はぼんやりとどこかを見詰めていた。麻里子は押し黙り、舞矢を見ながら、今の言葉を胸の内で繰り返していた。忍野の病も怪我も快復した。竹生は夜になると忍野を外に連れ出し、忍野と手合わせをした。竹生の剣は華麗で的確であった。”盾”始まって以来の最高の盾と言われた竹生の技を目の当たりする幸運を、忍野はうれしく思った。「お前の剣は、人を守る剣だ」竹生は忍野の剣を受け流しなから言った。「私の様に、敵を倒す剣とは違う」ふわりと竹生は宙に飛んだ。月を背に竹生は舞い上がった。白く長い髪が夜空に不可思議な模様の如く流れた。「お前が守り、私が倒す」竹生は独り言の様につぶやいた。「そう、お前が守るのだ」幸彦の体調も良くなり、起きている時間も長くなった。忍野は幸彦の護衛として”外”にいた事もあったが、今の様に幸彦と個人的に話す事はなかった。幸彦は活発な性格ではないが頭が良く、忍野は一緒にいる事が楽しかった。もし、もっと以前にこのような交流があったなら、舞矢の事が知れた時、幸彦の心を支えてやれたのではないか、忍野はそんな事を思ったりもした。立場を超えて、二人の間には友情が芽生え始めていた。竹生はそれを黙って見ていた。石牢の一番穏やかな時間、夜も深くなる頃だった。幸彦の居間となっている部屋で、三人は思い々々の恰好で時を過ごしていた。幸彦は石の壁にもたれ、畳の上に足を伸ばしていた。足首を交差させ、話をしながら、時々それを組替えていた。忍野はその傍らに胡座をかき、幸彦の話を聞いていた。「神内様が、そのような趣味をお持ちとは」「そうだろう、ああ見えて、神内さんは可愛い物が好きなのだ」竹生は横向きに寝そべり、肘を着いて頭を支え、二人の話を聞くともなく聞いているようだった。「そろそろ”外”へ戻ろうと思うのだ」不意に幸彦が言った。「いつまでも三峰に古本屋を任せっぱなしでは気の毒だし、神内さんにも申し訳がない」「お前はどうする、忍野」竹生が向こうから声をかけた。「お前は我等と共に来るか?」忍野はすぐには答えなかった。幸彦は優しく言った。「僕はお前が来てくれるとうれしい。でもお前が好きなようにしていいんだよ」夢の力を持つ者は、忍野本人よりも忍野の夢を知っていたのかもしれない。「僕はお前が好きだから、お前に幸せになって欲しいと思う」忍野は言った。「ご一緒させて下さい。私は”外”で暮らしたいと思います」幸彦は竹生を見た。竹生はじっと忍野に目を当てていた。「礼儀と筋は通さねばならん。村の長や露の家には挨拶に行っておけ」忍野は少しひるんだ。だが言った。「はい、そう致します」劉生は玄関先に立つ息子の姿を見た。忍野はまっすぐに立っていた。「私は幸彦様にお供して”外”で暮らします。お別れのご挨拶に参りました」劉生は込み上げる思いを押さえ、静かに頷いた。「そうか」忍野は深く一礼し、出て行こうとした。その背中に劉生は言った。「村を出ようとどこにいようと、お前は私の自慢の息子だ。露の家の長、この劉生の愛する息子である事に変りはない」忍野の足が止まった。忍野は大きく息をした。忍野は振り向かずに言った。「私も、貴方の息子である事を誇りに思います」忍野は歩き出した。劉生は、健康を取り戻し、しっかりとした足取りで歩いて行く息子の後ろ姿を見送った。幸彦が村を離れる事は、すぐに村中に広まった。忍野が同行する事も。村の長の高遠も臥雲長老も幸彦の回復を喜んだ。幸彦は臥雲長老の元を訪れた。「皆に心配をかけてしまった。すまないと思う」「いや、幸彦様がお元気におなりでしたら、それが一番の村への功徳です」「そう言ってもらえるのは、うれしい」「佐原の夢の力、それはこの村の宝ですからな」「ありがとう、僕は僕なりにこれからも償いをするつもりだ」夕刻を待ち、幸彦達は出立する事にした。幸彦が当主様だった頃の優しい性格に戻った事は村人達に知れ渡っていた。舞矢の兄である異人を救った事も、次代の当主の父親である事も、皆知っていた。幸彦はあえて隠す必要はないと臥雲長老に言ったのだった。臥雲も又同じ過ちを繰り返さぬ為に、佐原の当主と杵人に関する過去の出来事を村人に公開する事にしたのだ。盾の一人が黒塗りの車を佐原の屋敷の門前に停めた。見送りの人々は幸彦の思った以上に多かった。竹生は幸彦の傍らに寄りそう様に立っていた。その隣に忍野が控えめに佇んでいた。高遠が見送りの代表として幸彦に何かを言おうとした時、向こうから駆けて来る者があった。皆の目がそちらを向いた。それは麻里子であった。「あ、あの・・!」麻里子は駆けながら、何か言おうとした。麻里子は何かにつまづいた。前のめりにその身体は倒れそうになった。忍野が大地を蹴った。忍野は跳んだ。麻里子はいつかと同じように忍野の腕に抱きとめられた。人々はそれを見て、胸をなでおろした。麻里子が見上げると、忍野も麻里子を見ていた。互いに言葉が出なかった。「竹生、どうやらお前は楽が出来なくなったようだね」幸彦が竹生に言った。竹生はいつもの如く無表情で幸彦を見、そして忍野と麻里子を見た。「その代わり、私が楽をさせてもらいましょう」高遠が言った。「次の盾の長は、忍野、お前だ」「高遠様、私は・・」忍野が言いかけるのを制するように、高遠は言葉を続けた。「お前は誰よりも強い盾だ。今のお前になら守れるだろう、この村を」高遠は暖かいまなざしを麻里子に注いだ。「そして、その腕の中の人を」忍野は麻里子を見た。麻里子も忍野を見ていた。麻里子の瞳には忍野の欲していた光があった。三隅と須永が走り出て、忍野の前に膝をついた。「我等は忍野様に従います」久遠も走り出た。「私も従います」次々と盾が走り出て、忍野の前に膝をついた。「私も」「我も」忍野は自分の前に並んだ盾達を見回した。高遠は言った。「どうだ、それが”盾”の皆の望みなのだ」忍野の目頭が熱くなった。そして忍野は首を縦に振った。「はい」幸彦は微笑み、車に乗り込んだ。竹生も続いた。車は出発した。盾達は立ち上がると二人を取り囲んだ。そして新しい長の誕生に歓声を上げた。忍野は麻里子を抱いたまま、皆の祝福を受けた。村人達も喜ばしい思いで二人を見ていた。その様子を見ながら三峰が言った。「私もそろそろ出発しないとな」並んで立っていた寒露は三峰に言った。「三峰様は、このまま村におられるのかと思っていましたよ」「あのお二人に店をまかせたら、たちまちの内に潰しかねんからな」寒露は笑った。「確かに」寒露は車を目で追いながら、ふと思いついて言った。「竹生様は、本当はすべてご存知で、こうなるようになさったのでは」「竹生様の本当のお考えなど、私でも分からぬ」三峰は忍野の幸せそうな顔を見て言った。「”外”の言葉で何と言ったかな、終り良ければ、ではなくもっと新しい言葉で」二人の人でない者の耳は、遠ざかりゆく車の中で幸彦の言う言葉を聞いた。「”結果オーライ”かな、竹生」三峰は微笑した。「ああ、そうだ、それだ」寒露はいつもの面白がるような顔をした。佐原の春は、そこまで来ていた。「忍野恋歌(おしのこいうた)」(終)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆様の応援が励みになります☆クリックよろしくお願い致します。『金糸雀は二度鳴く』主な登場人物の説明はこちらです。『火消し』シリーズの世界の解説はこちらです。掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006/09/19
佐原の屋敷の裏手に石牢はある。崖を掘りぬいた中に術の力も届かない特殊な造りがなされている。罪人を入れるのは当たり前だが、貴人の幽閉場所に使われる事もあった為、最奥の牢は贅沢に手を掛けられ、風呂や洗面用の部屋、寝室など数室がひとつの牢になっていた。その部屋に、今は幸彦(ゆきひこ)と幸彦の守護者である竹生(たけお)が暮らしていた。幸彦は夢の力を代々受け継ぐ佐原の家の当主の直系であった。幼少より『火消し』と共に戦いの中にいた。子までなした恋人の舞矢(まいや)が実の母の妹という濃すぎる血であった事、その兄が宿敵の異人であった事が幸彦の精神を狂わせた。だが過酷な運命に立ち向かい、舞矢の兄の異人の『奴等』に奪われた心を取り戻した幸彦は、力を使い果たし眠りについた。竹生は安全に幸彦が眠れる場所として石牢を選んだ。そして幸彦を守りながら、この人でない者は、いつ終わるとも知れぬ時を過ごしていた。最奥の牢の、最も奥の部屋は漆黒の闇であった。滑らかに磨かれた石の床に極上の絹の褥が敷かれていた。神が丹念に創り上げた如き美を持つ身体が、そこに横たわっていた。枕からこぼれた艶やかな白く長い髪が、冷たい床に広がっていた。見た者は目をそらす事さえ忘れ果てる美を有した顔は、今は蒼褪めており、瞳は硬く閉ざされていた。白く薄く翻る外套を纏った者が、どこからともなく部屋に現れた。その顔は横たわる者に良く似た美貌で、肩にかかる純白の髪は、窓のない部屋の中で軽やかになびいていた。その者は褥の傍らにかがみこんだ。「随分と無茶をしましたね、兄さん。貴方らしくありませんね」「そうかな、三峰」「ええ、お顔の色が悪い」二人の目には闇は問題ではなかった。三峰は二人だけの時は竹生を兄さんと呼んだ。それ以外の時は、かつての人の時の習慣で竹生様と呼んだ。”盾”の規律は厳しい。盾になった時から親兄弟ではなく、そこにあるのは盾の上下関係と席次である。彼等は盾の長であった実の父親を”義豊様”と呼び、弟の三峰は兄の事を”竹生様”と呼んだ。長い『奴等』との戦いの中で、人でなくなる道を選び、この世の法則から解放された二人は、その時から再び兄弟としての睦まじさを取り戻したのであった。「あれの毒の血を抜き、その代わりにご自分の血を分け与えたのですね」「ああ」「狩に行こうにも動けぬほどに、何故それほどまでに、あれを」「さあな」「お寂しかったのですか。ずっとお一人で、眠れる幸彦様を見守る事が」「かも知れん」「しかしあれは、すぐに手放さねばならぬ小鳥ですよ」「ああ、分かっている。あれの傷が身も心も共に癒えるまで、我が手元に置こう」三峰は竹生に寄り添うように横になった。「私の血をお取り下さい」「良いのか、三峰」三峰は微笑んだ。闇の中に白い微笑が広がった。「その為に、存分に狩をして参りましたから」「すまぬな、弟よ」細く繊細な指が闇に泳いだ。弟の首を抱き寄せ、竹生は喉元にその顔を埋めた。啜るような音が微かにした。「ああ・・」三峰はため息と共に切なげな声を漏らし、顔をのけぞらせた。白い髪が闇に舞った。三峰の腕が竹生の背中に回された。絹の褥がさやさやと音を立て静寂に波紋の様に広がっていった。この世のものでない美がふたつ、重なり合ったまま闇に溶けて行った。忍野は目を覚ました。見慣れぬ天井が見えた。(ここは・・)自分は森の中で腹を斬った筈だった。そして・・「目が覚めたんだね」優しい笑顔が忍野を覗き込んでいた。「幸彦様・・お目覚めに?」「少しだけね。まだ、すぐに眠くなるのだ」ではここは石牢の中なのだと忍野は思った。幸彦は白い上下の寝巻を着て、横たわる忍野の側に腰を下ろしていた。両手で膝を抱え、興味深げに忍野を見ていた。この部屋の床には畳が敷かれていた。忍野は褥からそろそろと身を起こした。忍野は腹の傷に巻かれた包帯以外は、何も身に纏っていなかった。それに気がつき、忍野は慌てて手に触れた掛布を引き寄せ、身体を覆った。幸彦は面白そうに言った。「お前の服は汚れていたからね。更紗(さらさ)がすぐに代わりを用意するそうだ」更紗とは佐原の奥座敷に仕える者だが、幸彦の世話をする為にこちらへ来ているものであった。幸彦は忍野に身を寄せささやいた。「お前の、立派だね」忍野は真っ赤になった。幸彦と竹生の前でずっとこの姿でいたのだと思うと、忍野は恥かしくてたまらなかった。幸彦は笑った。「竹生が、良いものを拾ったとうれしそうだったよ。あんなに楽しそうな竹生を見るのは久しぶりだ」「竹生様は、どちらに」「今は奥で眠っている。奥の部屋はもっと暗いからね」「ああ、今は昼間ですね」「ここは窓がないから、分かりにくいけれどね」忍野は身体が軽いのに気が付いた。胸の痛みも消えている。何より腹の傷が癒えているのが不思議だった。「竹生がお前を助けたのだ。毒の血を吸い出し、佐原の土地の力を呼び集め、お前を癒したのだ」「佐原の・・」(土地の意志が、お前に生きよと言っている)忍野はそう言った竹生の言葉を思い出した。「竹生にしては無茶をしたようだ。疲れ切って、今は深く眠っている」「竹生様が」「本当に珍しいね、竹生が誰かに興味を持つなんて」忍野は幸彦が以前の幸彦に戻っていると思った。舞矢との秘密を知る前の。竹生が入って来た。忍野は座りなおそうとしたが、身体がうまく動かなかった。「まだ無理をするな」竹生は忍野を見下ろした。「しばらくは、大人しくしているが良い」忍野は言った。「何故、私をお助けになったのですか」竹生は、いつものあらゆる表情を含んで見える無表情で言った。「お前が捨てた命、私が拾った。だからお前は私の物だ」「私が竹生様の・・ですか」「捨てた命、幸彦様と私の為に使わんか」忍野は戸惑った。「どういう事でしょうか」「いずれ幸彦様は”外”の『火消し』の古本屋に戻られる。お前も一緒に来い」「幸彦様の護衛には、盾がおります」竹生は笑った。忍野は竹生が笑うのを初めて見た。「護衛ではない。私が幸彦様と共に生きるように、お前も幸彦様のお側にいるのだ」幸彦が言った。「竹生は夜しかいられないしね。お前は僕と歳も近いし、食事も出来るし、遊びにも買い物にも一緒に行かれるだろう、と竹生は思ったらしいよ。僕もお前ならいいな」竹生は言った。「お前がいてくれるなら昼間も安心だ。私も楽になる。お前は一度死を選んだ。どうだ、違う人生を生きてはみないか。”盾”ではなく、外の世界で我等と共に」村から離れる。”外”で暮らす。(それも良いかも知れない・・)忍野は思った。新しい暮らしになれば、変る事もあるだろう。この心も・・「急ぐ事はない。まずは身体を癒す事だ」「そうだね、三人暮らしの予行演習かな」幸彦はそう言って小さく欠伸をした。「ああ、もう眠気が・・」竹生はゆらりと傾いだ幸彦の身体を抱き上げた。「幸彦様にも、まだ時間が必要だ」石牢に忍野が無事でいる事は皆に知れ渡った。竹生の保護下にいる以上、他の者は手出しが出来なかった。忍野の身体が健康になるであろうという三峰の言葉は、吉報と受け取られた。しかし忍野を手元に取り戻せない劉生の嘆きは深かった。御岬はそれらの事をすべて、麻里子にも話していた。麻里子は忍野の無事を喜んだし、父親の劉生の嘆きも同じように哀しんだ。或る日の夕方、麻里子は屋敷の中で竹生に行き合った。このような場所に竹生が来るのは珍しかった。黒光りのする渡り廊下は寒々としていた。麻里子は厚手のソックスを履いていたが、足元から冷気が立ち上って来た。麻里子は思わず、竹生を呼び止めてしまった。「竹生さん」竹生は麻里子が「竹生様」と呼ばなくても不快な顔はしなかった。他の者がそう呼んでも怒らないのかもしれないが、恐ろしくて麻里子以外は誰もそうは呼べなかった。麻里子は思い切って言った。「忍野さんを返して下さい」竹生はじっと麻里子を見た。人でない戦慄の美が麻里子の足を震えさせた。「何故だ」柔らかいが、夜の底冷えを感じさせる声が言った。「忍野を嫌っている者が、何を言う」麻里子は精一杯の気力を揮い起こし、竹生を睨みつけ、気丈に言った。「忍野さんを嫌ってなんかいません」「だがお前は忍野を避けていた。それで忍野は絶望した」青く光る瞳が、麻里子の心の底まで見透かすように、麻里子を見詰めていた。麻里子は竹生の視線に負けてなるものかと思った。「それは、忍野さんには女の友達も多くて、余所者の私が忍野さんに頼ってばかりだと、気を悪くするし・・それに、篠牟さんの事も気持ちの整理が・・」竹生の月の如き美貌に柔らかい光が灯った。ふふっと声を上げて笑った。そんな竹生を見たら村人が腰を抜かしそうな程、それは奇跡の如き事であった。「そうか」麻里子はその奇跡にも気付かず、一生懸命に言葉を続けた。「篠牟さんが死んだばかりなのに・・でも忍野さんを嫌ってません。誰よりも頼りたい人で・・でも、色々ありすぎて・・」竹生は頷いた。「お前の気持ちは分かった」竹生は身を翻すと、白く長い髪をなびかせ、屋敷の奥へ去って行った。麻里子は急に足が萎えて、その場にへなへなと座り込んでしまった。竹生の去った後には青く甘い香りが残った。その香りが麻里子の記憶を揺り動かした。それは篠牟や朱雀にも感じた事がある香りだった。(篠牟はキミが幸せになる事を望んでいた。私もそう望んでいる)篠牟の兄の朱雀の言葉を、麻里子は思い出した。「忍野恋歌(おしのこいうた)」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆様の応援が励みになります☆クリックよろしくお願い致します。『金糸雀は二度鳴く』主な登場人物の説明はこちらです。『火消し』シリーズの世界の解説はこちらです。掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006/09/18
詰所がざわめいた。探索に行った一方の隊が戻って来たのだ。忍野はまだ見つからなかった。久遠(くおん)が高遠に抜き身の刀を渡した。「禁忌の山の南の森で見つけました」一目で並の出来の刀でないと判る。高遠は眉をひそめた。赤黒い汚れが刀身を曇らせている。血痕である。霜月と劉生が立ち上がり、寄って来た。高遠の手にした刀を見て、劉生は唸った。「これは”琴祐(ことひろ)”ではないか」高遠はやはりそうであったかと思い、言った。「露の家の名刀、忍野の持ち物ですね」「そうだ」霜月は赤く染まった刀身を難しい顔で見て黙っていた。「何があったのだ」耳に覚えのある声がした。一同は詰所の入り口を見た。白く美しい影が立っていた。肩までの純白の髪がさらさらと揺れ、白い外套の裾が柔らかな風になびいていた。優しい顔をしているが、人でない者であった。夜の闇に月が照らすように、その白き影は人々の心に希望の光を投げかけた。高遠が会釈して言った。「三峰様、いつお帰りに」「今着いた所だ」三峰は普段は”外”の古本屋にいる。『火消し』の持ち物である店だが、今は『火消し』が不在の為、三峰が留守を守っているのだ。月に一度か二度、三峰は村へ戻って来る。そして妻の保名と一子の鵲と共に一夜を過ごすのであった。「実は・・」高遠は忍野の失踪の事を三峰に告げた。「何かお感じになりませんでしょうか、三峰様」三峰は暗い顔をした。「私にも気配が探れぬ。余程遠くへ行ったか、村の外へ出たか」高遠が言った。「あの身体では、そう遠くまでは」久遠が言った。「念の為に群青の家で確かめましたが、昨日から今日にかけて、誰も”外”へ出た気配はないそうです」佐原の村は”壁”と呼ばれる特殊な力で囲まれている。群青の家はそれを管理する家であった。三峰は首をひねった。「村の中にいるなら、私には分かるはずだ」高遠は探索隊に行った。「ご苦労、お前達は一休みしろ」盾達は一礼して出て行った。三隅と久遠は残っていた。「お前達も行け」三隅は言った。「私はここに居ります」久遠も言った。「ここで知らせを待ちます」高遠は二人の気持ちを察して、頷いた。三峰は高遠の手にある刀に目を止めた。「それは」「禁忌の山の南の森に落ちていたそうです。忍野はそこにはいなかったそうです」「少し見せて欲しい」「どうぞ」三峰は高遠の手の刀に手を伸ばした。劉生は三峰を食い入るように見ていた。何か手がかりを三峰様が得てくれるのではないかと。「血が・・」言いかけて、高遠ははっと息を呑んだ。三峰の瞳が青く輝き、刀を見詰めていた。それは魔性の目であった。(外見はお変わりないように見えても、この方は人でないのだ)灯りに透かすように刀身を眺めていた三峰は、刀に美しい顔を寄せた。刀は恥じらいに赤く染まったかに見えた。形の良い唇が薄く開き、薔薇の花弁の如き舌が覗いた。三峰の舌先が、つうっと刀身の赤い染みを舐め上げた。恍惚の表情が三峰の面に浮かんでいる。それを見ていた高遠と二人の老人は、背筋を駆け上がる冷たくも怪しい快感に震えた。薔薇色の舌が、血の味の名残を惜しむ様に唇を舐めた。三峰はちらりと流し目で高遠を見た。その妖艶なまなざしに、その手の趣味がない高遠でも、男の血が熱く燃え下半身に滾りを感じてしまった。老人達も茫然と三峰を見ていた。「確かに、人の血だ。まだ新しい」三峰の声に、高遠は我に返った。高遠は慌てて言った。「忍野の血でしょうか」「ああ、そのようだ」三峰は劉生を見た。そして静かに言った。「おそらく、腹を切ったな」劉生の顔色が蒼褪めた。霜月はよろめいた劉生をさりげなく支えながら言った。「ならば何故、そこに忍野がいない」「さあ、そこまでは」三峰は刀を高遠に返した。「せっかくの名刀だ。手入れをしてやらんとな」御岬は医療の建物の片隅の自室にいた。忍野の失踪は、医療の御役目の者が知らせてくれた。だが盲目の御岬は探しに行く手伝いは出来ない。寝台に横になったものの、御岬は眠れずにいた。(麻里子姉さんを逢いに行かせた事が、忍野様を返って追い詰めてしまったかもしれない。だとしたら僕のせいでもある)御岬は床下から湧き上がる異様な気配に気がついた。「土地の力が・・」御岬は、それが石牢に集中していくのを感じていた。(何かある、高遠様にお知らせしないと)御岬は起き上がり、手探りで上着を取ると羽織った。激痛と苦しみの中でさえ、その姿は忍野の目に美しく見えた。白き髪をなびかせた者は忍野を抱き寄せた。腹の刀傷に手を当てると、血が止まった。痛みも和らいでいく。「早まった事をするな」夜の安らぎを含んだ声が言った。「私は・・余計な者です。死なせて下さい」苦痛にあえぎながら、忍野は言った。白き美貌が微笑んだ。「剣も術も使え、その上これほど美しい・・まだ死ぬには早すぎるぞ」「私は・・もう・・戦う事も出来ず・・」「戦えるとも、毒など幾らでも抜いてやれる」「無理・・と・・」白く長い髪がなびき、忍野の視界を覆った。「土地の意志が、お前に生きよと言っている」「そんなはずは・・」忍野は気が遠くなった。「捨てた命、私が拾った。お前は私の物だ」意識を失った身体を抱いて、竹生は楽しげに走った。「さて、どれほどの血がいるであろうな」三峰は、逸る三隅と久遠をそれとなく牽制しながら、石牢の奥へ進んだ。劉生と霜月も続いた。御岬の知らせを受け、三峰は頷いた。「石牢か、あの奥なら我等の目も届かない」そしてもうひとつの探索隊の帰りを待つ高遠を残し、後の一同は石牢へ急ぎ、やって来たのであった。牢の番人も、かつての”村の守護者”であった三峰と二人の家の長を止める事はしなかった。最奥の牢の扉を開き、木の格子の前に進み、中を覗き込んだ。床に座り込んだ竹生が一同を見た。皆一瞬動きが止まった。能面の様にあらゆる表情を含んだ無表情の美貌が、皆を白く見ていた。竹生の膝の上には忍野が抱かれていた。忍野は裸で、その腹には包帯が巻かれていた。蒼白の顔の瞳は硬く閉ざされていた。横には黒い血のような物に満たされた桶が置かれていた。三峰は静かに言った。「竹生様、忍野は無事なようですね」竹生は忍野の顔を見下ろして言った。「当たり前だ。せっかく拾ったのだからな」楽しげな気配がその声には漂っていた。それを聞くと劉生はふらふらと木の格子に近寄り、膝をついて中へ手を差し入れた。「せがれをお返し下さい、竹生様」竹生は奇妙な事を言うといった顔で劉生を見た。「私が拾ったのだ。だから、私の物だ」劉生は牢に両手を差し入れ、懇願した。「忍野は露の家の大切な跡取です。どうかお返し下さい」竹生は愛しげに忍野の顔を撫でた。「ならば何故、これの心は孤独に傷ついている。己の命を捨て去るほどに」劉生は青い顔で答えなかった。「剣の腕もある、術も使える。気立ても良い、優しい男だ。そしてこれほどに美しいのに、誰も愛してやらぬとは」竹生は顔を上げた。「これは、私と共にいれば良いのだ」三峰は一同を促した。「忍野の事は竹生様におまかせしよう。無事だと分かったのだ、それで良いではないか」霜月に抱き抱えられるように、劉生はよろよろと石牢の廊下を歩いて行った。三峰が劉生に声を掛けた。「竹生様は、本気で忍野をお助けになったようだ」劉生は力のない声で問い返した。「と、申しますと」「佐原の土地の力を呼び集め、刀の傷を塞ぎ、毒の血を自ら吸い出されたのであろう」「では」三峰は人の時と変らぬ優しい顔で劉生を見た。「忍野の身体は元に戻る。竹生様が立ち上がれぬ程に、全身全霊を掛けて下さったのだから」忍野が健康を取り戻すだろうと知り、三隅は喜びが沸いて来た。劉生の目に涙が浮かんだ。「ありがたい、ありがたい事です」「良かったな、劉生殿」霜月もうれしげに言った。「しばらくはまだ、竹生様におまかせするしかない」三峰は言った。「劉生殿、あとで忍野の身の回りの物をここに届けさせるが良い」劉生はうれし涙を拭いながら言った。「はい、そう致します」詰所に戻る道すがら、三峰は言った。「久遠」「はい」「お前は、忍野をどう思っている」「私をお試しになるのですか。篠牟様亡き後、忍野様が誰よりも強い盾であるのは明白な事、白神も私も、忍野様の補佐をさせていただければと思っております」三峰は微笑んだ。「欲がないのだな」「我ら盾に、私欲などありません」久遠は怒ったように言った。「忍野恋歌(おしのこいうた)」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆様の応援が励みになります☆クリックよろしくお願い致します。『金糸雀は二度鳴く』主な登場人物の説明はこちらです。『火消し』シリーズの世界の解説はこちらです。掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006/09/16
夜空には半分に欠けた月があり、幾本もの灰色の帯の如く流れる雲が、月の面を隠しては過ぎて行った。風は強く冬枯れの野に吹きすさび、忍野の髪も寝巻きの裾も乱れ、黒塗りの拵えの刀で身を支えつつ歩く足の脛が白く闇に見え隠れした。寒風の中を単の寝巻きだけで凍えるのも物ともせず、忍野は歩いて行った。御岬は忍野を説得しようとした。”癒しの手”を持つ者は言った。「土地の力を借りれば、毒を浄化出来ます。今より楽になりますよ」今やほとんど起き上がれぬ程になった身を寝台に横たえ、忍野はそれでも頑固に言い放った。「御岬様のお力の使える量は限られております。私のような者に使わないで下さい」御岬は見えぬ目に哀しみを浮かべて言った。「貴方は、篠牟兄さんを助けた人だ」忍野はそれを聞くと暗い顔をした。「それは何の意味もありません。篠牟様はお亡くなりになりました。もはや戦えぬ私は生き延びる価値はない」「僕は貴方に価値がないなんて思っていませんよ。麻里子姉さんだって、貴方を頼りにしているではありませんか」麻里子の名を聞いて、忍野は胸が痛んだ。病の傷みと心の痛みと両方が忍野を苦しめた。「それは御岬様の思い違いです。麻里子様は私を・・」忍野は咳き込んだ。御岬は忍野の胸に手を当てた。温かいものがその手から忍野の胸に流れ込んだ。忍野は胸がすっと楽になった。咳が収まり痛みが消えた。「とにかく僕は、貴方の気が変る事を願っています」御岬は白い杖をたよりに、病室を出て行った。忍野はただ死を待つ為に、横たわっていた。どんな治療も受けようとはしなかった。老医師は「薬を飲まねば病室を追い出す」と半ば脅迫した。不承々々忍野は老医師の薬は受け入れた。医療の建物を出されたら、行く場所は実家しかない。忍野は家には帰りたくなかった。病室には三隅が付き添っていた。忍野が医療の建物に運び込まれたと聞いた須永は、すぐにやって来て三隅に言った。「お前は霧の家の出だ。風の家の私より医術や薬に詳しいだろう。お前が忍野様のお側に居てくれ。お前の分の盾のお勤めは、私が代わってやる」寡黙な須永からこんな申し出があるとは思わなかった。三隅は須永も自分と同じ位に忍野の事を心配しているのが分かった。「それはありがたい。しばらくそうさせてもらう。ご容態は毎日お前に報告しよう」二人の忍野の組の者は、互いに頷きあった。麻里子は忍野の病気の事は聞いていた。先日の事があったので、見舞いに行くのを迷っていたのだ。家にやって来た御岬が、忍野の病の原因や容態が重い事、自分の治療を受けようとしない事を語った。「麻里子姉さんからも言ってくれないか、僕の治療を受けるように」御岬は言った。「確かに力を使うと体力を消耗する。患者は大勢いる。でも僕は忍野様に少しでも元気になって欲しい」御岬はこれが麻里子が忍野を見舞うきっかけになればと思っていた。目は見えずとも聡い御岬は、麻里子と忍野の間に何かあった事に気付いていた。そして忍野の麻里子への深い想いにも以前から気がついていた。篠牟亡き後の麻里子の心細さをいたわる忍野の真摯な態度は、御岬にも不快ではなく、長兄の朱雀が”外”の社長業に戻った今、むしろ頼もしく思っていたのだった。「私の言う事なんか、聞いてくれると思えないけれど」麻里子は戸惑いながら言った。「まあ、一度は行ってあげてよ。僕ら、随分世話になったし」麻里子はためらいながら、返事をした。「そうね、そうするわ」三隅に案内されて、麻里子が部屋に入って来た。「見舞いに来ていただけるとは、思ってもいませんでした」忍野はさりげなく麻理子から目をそらし、天井を見た。そして目を閉じた。三隅はそっと部屋を出た。麻里子は目を閉じてしまった忍野の傍らに立ち、思い切って言った。「あの、篠牟さんを助けた時に、身体を・・」少しだけ期待して、それが破れた。忍野はやはりそうかと苦笑した。自分を心配してくれたのではなかったのだ。篠牟を助けたから、その礼を言う為に来たのだ。分かっていたのに期待した自分の甘さに忍野は嫌気がさした。目を開き、なるべく平静な顔を心がけながら、忍野は言った。その声は硬かった。「それが、私のお役目でしたから」忍野は麻理子が悲しい顔をするのを見た。良く笑う人だと篠牟様は言ったのに。忍野は力を振り絞り、半身を起こした。麻里子に少しでも元気な姿を見せたいと思った。つまらぬ見栄だと自嘲する思いと戦いながら、忍野はなるべくやさしく聞こえるようにと気を使いながら言った。「村の暮らしはいかがですか。そのうち、篠牟様の好きだった貴方の笑顔が、沢山見られるようになると良いと・・私は願っています」麻理子は少し、笑顔を見せた。その笑顔を守りたいと篠牟様はおっしゃったのに。私も守りたかったのに・・忍野は咳き込んだ。血を吐いた。「忍野さん!」忍野は身を引いて、麻里子が肩に置こうとした手を避けた。「さわらないで下さい、私は不浄です。貴方を汚したくない」忍野は咳き込みながら言った。咳と共に張り詰めていた気持ちが一気に崩れた。「ここへはもう来ないで下さい。いや、来る気もないでしょうが。すみません、私は往生際が悪くて、もうとっくに消えているはずなのに・・貴方の人生から。今度こそ本当に・・だから安心して幸せになって下さい。ここには貴方を幸せに出来る者が、きっといます。みんな、私より良い奴ばかりです」麻里子は叫んだ。「何を言っているんですか、誰か忍野さんが!!忍野さんが!」忍野は麻理子の叫びを聞いて、ますます自分の認めたくない事を認めるように自分に強いた。(私は余計なのだ。どこにいても余計なのだ。私がいなくなっても、篠牟様の時のようには誰も哀しまない)「麻理子さん、お帰り下さい。もういいのです」飛び込んで来た三隅に、忍野は行った。「麻里子様を、お送りしろ」咳き込みながら、忍野はもう麻里子の方を見なかった。辛くて見られなかった。老医師のいつもの脅迫で、忍野は渋々注射と点滴を受けた。静かになった病室に、スチームからしゅうしゅうと漏れる音だけがしていた。三隅が寝台の傍らの椅子に腰掛けていた。忍野は三隅に言った。「お前はもう、私に着いていなくていいぞ」「何をおっしゃいます」「次の長は白神か久遠になるはずだ。お前も奴らのそばに行った方が良い」三隅は怒った声で言った。「私がそんな人間に見えますか。私は自分の出世の為に、貴方の側にいたのではありませんよ」忍野は少し笑い、言った。「それを分かっているから言うのだ。これからは自分の事を考えろ。私はもう、お前にはしてやれる事は何もないのだ」「盾の席次など良いです。貴方は私達を奥までお連れ下さった。異人と瘴気から篠牟様と私達を守る為に、術を無理にお使いになったせいで、こんな事になられた」「私はもう少し早く奥へ行くべきだった。私はいつも判断が悪い」「あの中で、寒露様の制止を振り切って、奥へ行く決意をされたのです。それが英断でなくて何でしょう。私と須永はそういう貴方だからこそ、お側にいるのです」見た目は平凡な若者だったが、彼も生粋の盾だった。その意志は強かった。「私はとにかく、貴方の側にいます」忍野は病室を抜け出した。こうして生きていた所で、周囲に負担をかけるだけだと思った。部下にも医療の御役目にある者達にも、そして麻里子にも。もう自分には何も残されていないのだ、この病んだ身体以外。ただひとつ手にしていたのは、露の家に伝わる名刀”琴祐(ことひろ)”、次代の長である忍野に露の家から託された刀であった。幾多の戦いを忍野はその刀と共に乗り越えて来た。最期の旅路もせめてこの刀がいて欲しいと思ったのだ。寒さより心の底の冷たさが、忍野を凍えさせた。覚悟は出来ていると思った。おぼつかぬ足取りで歩きながらも、忍野は顔を上げ、胸を張ろうとした。最期まで誇りを失いたくないと、病んだ身を励ましながら、忍野は歩いて行った。消灯後に見回りに来た者が、忍野の失踪に気がついた。知らせはすぐに盾の詰所にもたらされた。真夜中ながら高遠は迅速に動き、探索隊を組織した。(忍野様、どちらへ)他の盾の者達と忍野を探しながら、三隅は今日に限って早く自室に戻った事を悔いていた。(私は馬鹿だ。あんな事を忍野様が言い出した時に、何か変だと気がつくべきだった)知らせは露の家にももたらされた。劉生の顔は蒼白になった。霜月が慌しくやって来た。「取り合えず、詰所で待ちましょうぞ」霜月は励ます様に言って、劉生をうながした。詰所は灯が点され、ストーブが赤々と焚かれていた。何名もの盾が忙しげに行ったり来たりしていた。入って来た二人の家の長に、高遠は立ち上がり頭を下げた。「探索は二手に分けて行っております。寒露様が”外”の狩からお戻りになられたら、ご協力願おうと思っております」霜月は頷き、高遠に言った。「我等はここで待たせてもらうぞ」「はい」高遠は傷心を顕わにしている劉生を痛ましげに見た。かつての盾きっての猛者であり峻厳で知られた劉生が、一気に老け込んだかに見えた。年少の盾がストーブの側に椅子を運んだ。「こちらでお待ち下さい。今宵は冷えますので」霜月はまだ童顔の盾をねぎらった。「すまんな、お前も眠いだろうに」「いえ、忍野様は私に剣術を教えて下さいました。ご無事でいて欲しいです」霜月は優しい笑顔で応じた。「そうか」「いつもお優しい方で、年少組は忍野様が好きな奴ばかりです」子供の声は澄んでいて、偽りの響きはなかった。息子の良き評判を聞き、少しばかり劉生の目が優しくなった。そして自分の仕打ちを恨む忍野の哀しい声を思い出し気持ちが沈んだ。椅子を運んだ盾は一礼して去っていった。二人は腰を下ろした。高遠と連絡係を残し盾は出払い、詰所は静かになった。「忍野・・無事でいてくれ」劉生のつぶやきを霜月は聞いた。霜月は力付ける様に劉生の背中を大きな手でさすった。森の中で、血に染まった忍野の刀が発見された。忍野の姿はどこにもなかった。「忍野恋歌(おしのこいうた)」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆様の応援が励みになります☆クリックよろしくお願い致します。『金糸雀は二度鳴く』主な登場人物の説明はこちらです。『火消し』シリーズの世界の解説はこちらです。掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006/09/15
寮の大風呂で、忍野は篠牟の背中に斜めに平行に走る数本の傷を見てしまった。男にしては白い篠牟の肌に、薄赤い傷跡は妙に生々しく思えた。それが何の傷であるか、すぐに気がついた忍野は、不意に悩ましい心地になり、慌ててそれを振り払うように「お背中を流しましょう」と言って、白い石鹸の泡でそれを覆い隠してしまった。その時、東士夫婦は不在だった。家には麻里子と忍野しかいなかった。麻里子は腹も大きくなり、少しふっくらとして来たが、忍野には妊婦に対する嫌悪感はなく、むしろ生命を身の内で育む神秘な姿に、畏敬の念さえ覚えていた。忍野は台所のテーブルで、麻里子が紅茶を入れてくれるのを見ていた。「あら、お砂糖がないわ」麻里子は流しの上の棚に手を伸ばして、戸を開けようとした。麻里子の指先は、もう少しの所で、戸の取っ手に届かなかった。「私がやりましょう」身軽に忍野は立ち上がり、麻里子の隣から棚に手を伸ばした。長身の忍野には造作も無い事だった。「その黄色い入れ物が、お砂糖なの」忍野は黄色い容器を棚から取り出した。「ありがとう」麻里子は笑顔で言い、容器を受け取った。互いの指先が触れ合った。忍野の脳裏に、麻里子の指先が付けた篠牟の背中の傷が浮かんだ。篠牟の白い背中は美しく、その傷は愛の痛みと喜びそのものに、忍野には感じられたのだった。熱いものが忍野の中にこみ上げた。忍野は息苦しくなり、苦しさからの救いを求めるように、忍野は麻里子を抱き締めた。「忍野さん!」麻里子の小さな悲鳴のような声が聞こえた。短い息遣いが、ますます忍野を熱くした。忍野は麻里子の髪に顔を埋め、耳元で身体の熱さのままの、性急な声で言った。「麻里子様、貴方をお慕いしています」忍野の腕の中で、麻里子は息を飲み、身体を硬くした。「麻里子様・・」忍野の唇が麻里子の頬に触れた。麻里子の平手が、忍野の頬を打った。忍野は驚いて手を離した。麻里子は両手で忍野を突き飛ばした。麻里子の抱えていた黄色い容器が転がり落ち、白い砂糖が床に飛び散った。麻里子はきらきらとした強い目で、忍野を睨んでいた。忍野は茫然と床に転がった容器を見た。自分が信じられなかった。麻里子は凛とした口調で言った。「帰って下さい!すぐに帰って下さい!」忍野は何も言わず、深々と一礼すると、出て行った。数日前の厨での事だった。麻里子は皿の片付けをしていた。忍野と仲が良いと言う姿子(しなこ)という女が、麻里子に擦り寄り、嫌な口調でささやいた。「大きなお腹で、男に甘い声を出すんだから、大したものよね」麻里子の顔色がさっと変った。姿子はそ知らぬ顔で行ってしまった。麻里子は唇を噛み締め、皿の片付けを続けた。村へ来て初めて、深く傷ついた気持ちになった。その事があっただけに、麻里子の態度は頑なになっていた。忍野が侘びに来ても、逢おうともしなかった。忍野は麻里子の家を訪ねる事をやめた。寒露は医療の建物に忍野を運び込んだ。当直の盾は三隅だった。駆け寄った三隅は忍野の姿に驚いた。「忍野様は、どうされたのですか」「森で倒れていた」三隅はすぐに老医師を呼びに行った。忍野の肺はかなり広い範囲で毒に侵されていた。それ以外にも毒は体内を侵食していた。老医師は言った。「御岬様の治療があれば、毒の勢いは止められるでしょう」寒露は聞いた。「治るのか」「根気良く治療をすれば、命を取り留める事は可能です。しかし元通りの健康体とするのは難しい」治療室の隅に控えていた三隅は堪らなくなり、つい口を出してしまった。「忍野様は、もう戦えぬとおっしゃるのですか」「盾として戦う事は無理だ」それが老医師の診断だった。それを聞き三隅は暗い顔をした。寒露は複雑な顔をしたが、何も言わなかった。意識を取り戻した忍野にも老医師は隠す事なく残らず病状を告げた。忍野は黙って頷いたのみであった。灯の消えた病室で、一人、寝台に横たわった忍野は、分かっていた事とはいえ涙にくれた。「戦えずして何の盾、生き延びるは恥」翌日から忍野は入院扱いとなり、盾の職務から退いた。盾達は忍野の身体がそこまで損なわれていた事に驚くと同時に、それ程の危険を冒して篠牟を連れ帰った忍野への評価は高くなっていった。その事は忍野の耳にも届いたが、忍野の気持ちは暗いままだった。一時的に盾の長を務めている高遠は忍野を見舞った。高遠も忍野が元に戻らぬ事を知っていた。「後進の指導も、いつまでも霜月様のご好意に甘えてもいられぬ。お前なら良き教師となれるだろう。どうだ、動けるようになったら、やってはくれまいか」それを忍野が酷な事と感じるだろうと知りつつ、高遠はあえて言った。忍野は先輩として私淑していた高遠に、麻里子に対する心情をも含めて隠さずに話した。「私は篠牟様が守りたいとおしゃった笑顔を、その意志を継いで守りたいと思いました。しかし麻里子様は私をお嫌いになった。それでも影ながらお守り出来ればと良いと思っていました。なのに、この身体はそれすらかなわぬようになりました。今の私は、生き恥を晒しておめおめ生きているより、早く篠牟様のお側に行きたい、それだけなのです」高遠は忍野の傷心を笑いも嘲りもしなかった。高遠も派手な容貌の為にあらぬ噂を立てられる事が多かった。忍野が噂と異なり真面目な性格である事は、自分の事の様に理解する事が出来た。「今はお前も心が荒れていよう。まずはゆっくりと養生するがいい」高遠は微笑んだ。その暖かい笑みが忍野の胸に染みた。どこか篠牟様に似ていると感じたのは、篠牟様と同じ風の家の血のせいだろうかと、忍野は思っていた。二人の弟達が見舞いに来た。蔵野(くらの)と栗野(くりの)は双子だった。兄の蔵野が言った。「露の家では跡取の兄さんの事を、皆が心配していますよ」忍野は唇の端だけ上げて、苦笑いした。「父上は私の事など、心配はしないだろう」「そんな事はありませんよ、暗い顔をされています」弟の栗野がむきになって言った。忍野はそれは弟達の思い違いだと思った。しかしそれを口には出さなかった。弟達は早く良くなって欲しいと口々に言い、帰って行った。露の家の長である劉生(りゅうせい)は厳しい父だった。忍野は父に褒められた事は一度もなかった。盾の席次が上がっても特別なお役目を果たしても、父は忍野を無視するかの如く何も言わなかった。二人の弟には、父は笑顔を見せる事もあった。盾の見習いの試験に合格した時も、二人には「よくやった」と声をかけていたのを忍野は見ていた。篠牟の部下となった忍野は、盾の中では一目置かれる存在になっていたが、父はそれについても何も言わなかった。劉生が病室に来た。忍野は目を閉じていた。「御岬様の治療を断ったそうだな」「御岬様のお力を必要としている患者は、ここには大勢います。私などに使うより、もっと他の方に使うべきです」「お前は露の家に大事な身体だ」忍野は笑った。「今更、何をおっしゃるのです。病の私を慰めるおつもりですか」忍野は父を見た。「私が死ねば、貴方のお気に入りの弟達を跡継ぎに出来ますよ。こんな不肖の息子でなく。喜ばしい事ではありませんか」「何を言っている」「私はずっと家の中では余計者でした。貴方の期待はいつも私にはなかった。弟達のようにやさしい目で、私は見られた事がなかった。私は出来が悪く、貴方の気に入る息子ではなかった」「お前は・・」「努力はしたつもりです。盾でも席次は悪くなかった。篠牟様にも精一杯お仕えしました。剣の腕も同世代の者には負けた事はなかった」忍野は目を閉じた。「それでも、貴方のお気には召さなかったようだ」忍野は咳き込んだ。「貴方の思う通りになりましたよ。私はいなくなります。私はどこにいても余計な者です」忍野は叫んだ。「あの時、もっと早くたどり着けば、私が死んで篠牟様が助かれば、どんなに良かった事か。もう私は戦えない。戦えぬ盾など価値はありません。お帰り下さい、ここに来て下さった事に感謝致します。たとえ世間体や義理であっても」佐原の屋敷の庭で、霧の家の長の霜月は、露の家の長である劉生が力ない足取りで歩いて来るのに行き合った。医療の建物の方から歩いて来る。跡取の忍野の病の事は霜月も聞いていた。さぞ辛い事だろうと思っていた。それにしてもこんな様子の劉生を霜月は初めて見た。霜月は気になり声をかけた。「どうされた、劉生殿」「これは、霜月殿」劉生は霜月に訴えるように言った。「私は忍野に、あんな思いをさせていたのか」霜月は眉をひそめた。「何かあったのですかな」「跡取りだけに強くなって欲しいと、あえて甘い言葉はかけずに来た。それが忍野をあそこまで傷つけていたとは」「劉生殿」「息子の死を願う親など、いるものか。どの子も可愛い。ましてやあれは私の跡取だ」霜月はこの親子に何か確執があるのだろうと思った。霜月は励ますように言った。「今からでも遅くない、そう伝えておあげなさい」劉生は黙って霜月に頭を下げた。「忍野恋歌(おしのこいうた)」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆様の応援が励みになります☆クリックよろしくお願い致します。『金糸雀は二度鳴く』主な登場人物の説明はこちらです。『火消し』シリーズの世界の解説はこちらです。掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006/09/13
「本当は、結婚するまでは、こんな事はと思っていたのですが」篠牟は麻里子の手を取り、愛しげに唇を押し付けた。「貴方があまりに可愛かったので、我慢出来なくなって」篠牟の白いうなじから裸の肩の線が美しいと麻里子は思った。眼鏡をはずした素顔の篠牟は一層魅力的で、麻里子は幸せで胸が苦しい位になった。篠牟はシーツの上に横たわる麻里子を抱き締めた。簡素なホテルの一室だった。愛する人と結ばれる喜びを、二人は互いに初めて知った。それは行為を指すのではなく、想いを重ねるその瞬間の事なのだと、二人は堅く抱き合いながら感じていた。忍野はそれが何時の事であったか覚えていた。普段は護衛を連れて行くのに、その時に限って、篠牟は誰も同行させなかったのだ。悪鬼の襲撃があった後だけに、忍野は心配した。密かに誰かを付けようかと忍野は考えたが、篠牟に気づかぬように着いていける者など居はしない。忍野はふと気がついた。(そういう事か)忍野は心の中で篠牟を応援した。忍野は麻里子の家と最寄駅に部下を配置した。それが忍野に出来る最大の心配りであった。(あの方は遊びなど、最初からお考えになる方ではなかった)忍野は篠牟が羨ましかった。短い生涯の中で様々に傷つきながらも、深い愛を篠牟が得た事を。心から愛した人と結ばれる、その純粋な心のままに想い人をその腕に抱く、その幸福を篠牟が知っていた事を。美しく気の良い忍野は、女友達も一杯いた。でも彼女達は結婚相手には他の男を選ぶのだ。忍野は盾の家の中でも名家である露の家の跡取だった。格式のある家の長の妻ともなれば、大層窮屈な事も沢山ある。彼女達が忍野を結婚相手に選ばなかったのは、それが大きな理由であった。だが忍野は自分のせいだと思っていた。所詮自分はそれだけの人間なのだと。忍野は自嘲した。(麻里子様にふさわしいなどと思ってはいない。けれどもお守りしたいのだ、慣れない土地で懸命に生きているあの人を)「お顔の色が悪いですよ。どうかされましたか」隣の席で仕事をしていた三隅が小声で言った。「いや、少し頭が痛いだけだ」忍野は答えた。夕暮れの執務室には、忍野と三隅の他に、高遠の部下である滋野(しげの)がやはり机に向かっていた。石炭ストーブの上で薬缶がしゅんしゅんと音を立てていた。「お風邪を召されたのではないですか、今年の冬は冷えますから」「明日は非番だから、ゆっくりさせてもらう」「はい、須永と私に万事お任せ下さい」「ああ、頼んだ」篠牟付の盾だった三隅と須永は、今は忍野の組になっていた。盾は一人で行動する事はない。三人でひとつの”組”を作る。それぞれの組には長がいる。忍野の組は忍野が長で、三隅と須永は「忍野の組の者」と呼ばれる。最後の戦いで忍野は二人の組の者を失った。戦いの後、三隅と須永は懇願して忍野の組となったのだ。それは当時の盾の長、篠牟を命がけで救おうとした忍野に、尊敬の念を抱いたからに他ならなかった。仕えてみて二人は、忍野が女性との華やかな噂の多い評判とはまったく違う、真面目で職務に熱心な盾である事が分かった。剣術の訓練も欠かさない。敵についても良く勉強している。若い盾の練習にも付き合う。(そうでなければ、篠牟様が忍野様をずっとお側に置くはずはない)三隅は思い、忍野の下で働く事に満足を感じた。執務室から盾の詰所へ向かう廊下の途中で、忍野は向こうから歩いて来る麻里子の姿を見た。麻里子の働く厨(くりや)も同じ屋敷内にあったから、こうして行き合う事もたまにあった。麻里子も忍野に気付いたようだが、見たくない物を見たような目をして、顔をそむけ、足早に行ってしまった。忍野は顔には出さずにいたが、酷く傷ついた気がした。寮の食堂で食事を済ませ、自室に戻り、忍野は私服に着替えた。盾はすべて寮に入る。寮の基本は二人部屋だが、忍野位の地位になれば個室が与えられる。布団と箪笥と机で一杯になるような部屋でも、個室はひとつの特権であった。夜に黒く染まる窓硝子は、スチームの暖気で曇り始めていた。(今夜も冷えそうだ)忍野はスキーでも出来そうな厚手の上着を取ると羽織った。頭痛が治まってきたので、気分転換に散歩でもしようと思ったのだ。凍てついた道を忍野はあてどなく歩いた。申し訳程度の街燈が、所々にぽつんぽつんと立っていた。人気のない侘しい道であったが、忍野は恐怖は感じなかった。同じ盾でなければ忍野に危害を加える事は不可能だし、そのような事をする盾はいなかった。歩きながら、忍野はいつしか麻里子の事を考えていた。敬遠されているとは知っていた。自分が急ぎすぎたのだと分かっていた。麻里子は篠牟達兄弟、朱雀と篠牟と御岬(みさき)が育った家に住むようになった。身重である麻里子が慣れない村の暮らしで不自由がないようにと、篠牟の兄である朱雀に仕える進士(しんじ)は、弟の東士(とうじ)とその妻の早乃(はやの)に麻里子の世話を頼んだ。夫婦は先の戦いで一人息子を失い二人暮らしだった。夫婦は麻里子の住む家の管理をしながら、麻里子になにくれとなく世話を焼いた。麻里子は佐原の屋敷の厨(くりや)で働く事になり、その家から屋敷に通った。家には良く篠牟の弟の御岬や部下だった者達が立ち寄った。明るい性格の麻里子は彼等を陽気にもてなした。特に忍野は頻繁に訪れていた。麻里子も忍野を色々と頼りにしているようだった。だが或る時期から、ふっつりと忍野は姿を見せなくなった。「最近、忍野さんは来ませんね」何気なく言った早乃の言葉に、麻里子は曖昧に頷いた。忍野は胸に痛みを感じ、道を反れ、森の中へ入っていった。しばらく行くと杉の大木があった。忍野は大木の根元に腰を降ろし、幹にもたれかかった。それは心の傷の痛みでない事は分かっていた。忍野は咳き込み、背中を丸め、両手で口を押さえた。指の間から鮮血があふれ、手の甲を伝った。あの篠牟を助けた時の無理な術と濃い瘴気が、忍野の身体を蝕んでいた。だが忍野はそれを誰にも言わなかった。生きる希望が消えた時、治療する気は失せていた。(あんな目で見られる位なら、いっそ消えてしまえばいいのだ、この身など)忍野はそう思い、何もかもどうでも良くなり、一人で笑い声を上げた。笑いながら目には涙が浮かんでいた。忍野は泣いているのか笑っているのか、自分でも分からなくなった。緊急時だけに、今は一時的に村の長である高遠様が、盾の長の代理を務めている。自分はその補佐をしているが、次の長は白神(しらかみ)か久遠(くおん)だろう。自分は閑職に回される。用の無い身になるのだ。そう思うと忍野は逆に心が晴れ晴れとして来た。責任がなくなれば、いつでも死ねる。生きている必要はないのだ。この身に毒が回りきれば、篠牟様の後を追って逝けるのだ。向こうの世界でも篠牟様にお仕え出来るといい。忍野はそう思い、思った自分を笑った。いつのまにか、こんなにも愛していたのだ。あの人の事を・・麻里子様。篠牟様の思い出を、共に抱いて生きて行けたら、どんなに素晴らしかっただろう。私は一人で死んでいくのだ。誰かに愛される事も知らずに。露の家には弟達がいる。不肖の息子の自分と違って、出来が良い奴ばかりだ。今は席次は低いが、将来有望と言われている盾なのだ。忍野はまた咳き込んだ。服が汚れてしまった。どこかで始末してから戻らねばならない。それも面倒になった。(このままで、いいのかもしれない)ここはほとんど人が通らない。明日は非番だし今夜自分が戻らなくても、朝帰り位にしか思われない。この静かな夜の森の影で、そのまま消えてゆけるなら。忍野は又、血を吐いた。”夜の主”、人でない者達は血を糧とすると言う。自分は今、命を吐いているのだ。こうして命をすり減らして行くのだ。何と分かりやすい事だろう。自分にふさわしいと思った。ありふれた事ばかりだ。浅はかで何の深みもない人生。篠牟様にお仕えした時だけが充実した時間だった。それは永遠に失われてしまった。望みはすべて消えてしまった。そうだ・・望みはすべて消えてしまった・・”村の守護者”である寒露は、”外”での夜の狩から戻って来た。『奴等』は消えても異人は残っている。それを狩るのが彼の役目であり、その血を糧として彼は生き延びているのだ。寒露は肌を切り裂くような冷気の中を軽々と走った。速さは寒露の宝だった。その足には、あの竹生ですら着いて行く事は出来なかった。寒露は立ち止まった。(血の匂いがする)寒露の鋭敏な嗅覚は、それが人の血の匂いだと嗅ぎ分けた。その血の匂いのする方へ、寒露は再び走り始めた。闇を見通す目は、それが誰であるか識別出来た。大木の根元に、仰向けに倒れているのは、忍野であった。衣服の前面が真っ赤に染まっていた。口の周りと両の掌に乾いた血がこびりついていた。その血の匂いが寒露を呼び寄せたのだ。忍野の意識はないが、まだ死んではいない事も、寒露には分かった。寒露は忍野の吐いた血の中に『奴等』の瘴気の匂いを感じ取った。(そういう事か)篠牟を助ける時に無理な術を使い、身体をそこねたのだろうと、寒露は思い当たった。そして忍野はそれを隠していたのだろうと。彼も誇り高い盾であった。身体の事を誰にも知られたくなかったのであろう。寒露は忍野を抱き起こした。忍野が薄っすらと目を開いた。「今、屋敷へ連れて行ってやる」寒露が言うと、忍野は言った。「このまま・・死なせてください・・」「馬鹿を言うな」寒露は激しく言った。「お前を死なせたら、俺はあの世で、篠牟に何と言えば良いのだ」走り出した寒露の腕の中で、忍野は目を閉じた。篠牟様・・皆、篠牟様だ・・私だってそうだけれど・・亡くなられても・・こうして皆、篠牟様を思っている・・私は・・いてもいなくても・・いいのだ・・「忍野恋歌(おしのこいうた)」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆様の応援が励みになります☆クリックよろしくお願い致します。『金糸雀は二度鳴く』主な登場人物の説明はこちらです。『火消し』シリーズの世界の解説はこちらです。掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006/09/12
秋がやって来た。佐原の村が金色になった。町で育った麻里子には、何もかもが珍しかった。畦道の両側には豊かな稲の穂波が風になびき、どこまでも広がっている。その向こうに山々の端が見える。空は青く高い。視界に占める空の余りの大きさに、村に来た当初は目眩すら覚えたものだった。麻里子の知る空は、灰色のビルの合間に水色に湿って見える、ほんの限られた広さでしかなかったから。半年前の麻里子なら、このような田舎の村に住む事など、考えてみもしなかっただろう。末席でも社長秘書、それも誰もが憧れる大会社の、有能でハンサムで魅力的な社長の秘書だった。スーツを着て、都心の大きなビルに通うのが誇らしかった。この半年、様々な事があった。一人の青年と巡り合い、麻里子の人生は大きく変わってしまった。篠牟(しのむ)は社長の弟で、麻里子の知らない世界で戦う人だった。襲い掛かる化物、斬り合う刀と剣、”盾”と呼ばれる大勢の戦士達。人知れず、彼等はこの世界を守って来た存在だった。恐ろしい悪鬼を、眉一つ動かさず一刀両断出来る人なのに、篠牟の眼鏡の奥の瞳は、いつも優しかった。(篠牟さん・・)胸の中で呼んでみる。甘い痛みが胸に走る。失ってしまった笑顔が、脳裏に浮かんでは消える。その笑顔をゆっくりと味わうように、麻里子は畦道をぽつりぽつりと歩いた。しばらく行くと小さな森を通る。秋の色に染まった木々が立ち並ぶ間の道を歩いて行く。赤や黄色に染まった木の葉が降り頻る。麻里子の髪にも、両手で胸の前に抱えた茶色の紙袋にも、落ち葉が舞い降りた。紙袋にはどっさりと柿の実が入っていた。佐原の屋敷の厨(くりや)の手伝いの帰り際に、厨のまとめ役である間宮がくれたのだ。間宮は、料理自慢の気の良い女丈夫で、村全体のお母さんのような女性だった。太い腕に抱えて来た袋を麻里子に渡して言った。「今年の柿は、格別出来が良いみたいだよ」間宮は笑顔で言い添えた。「丈夫な赤ちゃんを、産んでおくれよ」歩きながら、麻里子はそっと片手を腹に当てた。腹の膨らみは、まだそれほど目立たない。中にいるのは、篠牟の忘れ形見の子供なのだ。春には産まれる予定であった。「春は、村が一番綺麗な時期です。桃の花の林があるのです。いつか貴方に見せてあげたい」篠牟はそう言った。一緒に行く事は出来なくなってしまった。けれども春になれば、この子と一緒にその花を見られるだろう。不意に足元がすべった。降り積もった木の葉に足を取られたらしい。(あっ!)落とした袋から柿が転がった。(赤ちゃんが・・!)ぐらりと傾いだ身体を、しなやかな腕が抱き止めた。麻里子は転ばずに済んだ。「大丈夫ですか」聞き覚えのある優しい声がした。思わずしがみついた腕は硬く、鍛えられた筋肉の感触があった。篠牟の腕もそうだったと、どこかで麻里子は思っていた。顔を上げると、切れ長の目に特徴のある美貌が見下ろしていた。真っ直ぐな黒髪が、さらさらと秋風に揺れた。「忍野(おしの)さん」忍野は、丁重に支えながら麻里子を立たせた。「すみません、ぼんやりしていたみたいで」「慣れない仕事で、お疲れなのではありませんか?」忍野は心配そうに言った。忍野は”盾”で篠牟の部下だった青年だった。篠牟の側にずっと仕えていたという。いつも黒い詰襟に似た制服を着ていたが、今日は白いシャツに生成りの木綿のスボンで、芥子色の薄いセーターを肩に掛けていた。モデルやタレントと言っても通りそうな、すらりとした美青年である。「今日は、制服ではないんですね」「今日は非番なんです。お役目は休みなので」盾については、麻里子は良く分からない。村人でも多くは知らないと言う。村の中でも特殊な存在らしい。麻里子の知る限り、盾の人達は、皆礼儀正しくて、揃って背が高くて美形だった。盾の長(おさ)であった篠牟への敬意は、そのまま麻里子にも向けられた。皆、麻里子を丁寧に扱ってくれた。「あっ」麻里子は道に転がった柿の実の事を思い出した。「せっかく、間宮様にもらった柿が」麻里子はかがんで拾おうとした。忍野がそっと腕を掴んで制した。「私が拾いましょう。お身体に障ってはいけませんから」青年は身軽に柿を拾っては、ひょいひょいと抱えた袋に入れていった。その動作も何かの舞踊の様に綺麗だった。幾つかの実が、道の横にある池にまで転がり落ちていた。青い水の上に、夕陽色の実が浮かんで揺れていた。「ああ、どうしましょう、せっかくもらったのに」麻里子は声を上げた。「ご心配なく、取れますから」忍野は笑顔で麻里子に言った。「え、手は届きませんよ。泳ぐわけにもいかないだろうし」麻里子は驚いて言った。忍野は笑顔のままだった。忍野はまるで散歩でもするような足取りで池に入って行った。腰のあたりまで水に浸かった。「忍野さん!やめて下さい!」忍野は柿の実を全部拾い上げると、戻って来た。「無茶しないで下さい!」麻里子は慌てて忍野の服に触れた。濡れていない。麻里子は目をぱちくりして、忍野を見上げた。「”結界”という術なのです。露の家の出の私は、少しだけ術を使えるのです」「結界?」「ええ、術で私の身体の周囲に見えない壁を作るのです。水程度なら簡単に避けられます」麻里子はしょんぼりした。「まだまだ、分からない事だらけだわ」忍野は言った。「本当は、術の事は村でも秘密なのです」忍野は麻里子の顔を覗き込んで言った。「私が術を使った事は、内緒にしておいて下さいね。バレたら食事抜きにされてしまう」あまりにも生真面目な顔で忍野が言うので、麻里子は吹き出してしまった。「罰が、食事抜きなんですか」忍野は真面目な顔のまま頷いた。「私達は全員、寮で暮らしていますから、食事抜きは辛いです。村には手軽に食べ物を買える店もありませんから。一番身に堪える罰則です」忍野は情けない顔をして見せた。「忍野さん、罰を受ける時があるんですか」「そうですね、たまに門限に遅れたり」麻里子は元気良く言った。「じゃあ、今度ご飯抜きになったら、うちまで来て下さい。柿を拾ってくれたお礼に、ご飯をご馳走しますよ」忍野は笑った。「ありがとうございます。その時には喜んで」「でも、なるべく罰を受けるような事は、しないで下さいね」麻里子は弟を叱る姉の様に言った。忍野はわざと真面目な口調で言った。「はい、なるべくしない様に致します」それを聞いて麻里子はにっこりと笑った。その笑顔を見て、忍野は思った。(嗚呼、これが、篠牟様の守りたいとおっしゃった笑顔なのか)忍野は篠牟の事を思い出すと同時に、微かな痛みを胸の奥に感じた。「すみません、じゃあ・・」袋を受け取ろうと伸ばした麻里子の手を、忍野は優しく片手で遮った。「お宅までお持ちしましょう」「忍野さん、用事があるのではないですか」「また転びそうになったら、大変です」「でも」「この村で、麻里子様にお怪我でもされたら、私達は篠牟様に申し訳が立ちません」麻里子は、盾の者達が篠牟の名を口にする時は、とても誠実な気持ちである事を最近理解して来ていた。そういう時に無下に断ると、返って彼等を傷つける事も。「分かりました、お願いします」二人は並んで、秋に色づく道を、かつて篠牟達の育った家に向かい歩き始めた。「忍野恋歌(おしのこいうた)」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆様の応援が励みになります☆クリックよろしくお願い致します。『金糸雀は二度鳴く』主な登場人物の説明はこちらです。『火消し』シリーズの世界の解説はこちらです。掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006/09/11
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