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「窓の記憶」の連載が終了致しました。朱雀と百合枝が結ばれて、あの家に家族がそろう所まで・・の物語になりました。朱雀にも愛する妻と息子を与える事が出来て、ほっとしております。何せここの小説では、作者の気に入ったキャラほど、不幸になる傾向があるそうですから(笑)イラストは生まれたばかりの紫苑が成長した姿です。ちょうど今の柚木くらいの年齢でしょうか。本来はもっと大きな絵ですので、まとめサイト掲載時は原寸で載せる予定です。紫苑の今後も気がかりですが、その前に柚木の側から見た物語を書きたいと思います。柚木が村を飛び出して、再び真彦と共に歩みだすまでの物語の予定です。その中で、朱雀はひとつの決着をつける事になります。「窓の記憶」で語られた、近々に実現する『火消し』の帰還が、彼等を次の戦いへと導いて行きます。それでは・・しばし休息をいただきます。ご愛読ありがとうございました。重ね重ね、感謝致します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/08/05
一同は立ち上がり、朱雀を迎えた。幸彦が声を張り上げた。「風の家の朱雀の息子、その名は紫苑(しおん)・・夢がその名を与えた」人々はどよめいた。土地の加護だ、加護が甦ったと。夢が名を与える者は、特に土地に愛される者だけであるから。紫苑を中心に風が吹いた。「風の力だ!」村の長の高遠(たかとお)は思わず叫んだ。久しぶりに感じた風の力だった。人々も狂喜乱舞した。失われた力が戻って来るかもしれない、この子供がその鍵になるかもしれないと。祝福の歓声が朱雀と紫苑を包んだ。忍野が消えてすべての力を失って以来、五年余りの間、村人はその時が来る事を願い続けて来たのであった。高遠は、村には失われてしまった力を赤子に感じた事がうれしかった。紫苑を見てから、自らにも失ったはずの風の力が微弱ながら戻っている気もしていた。露の家の長の劉生も”結界”が甦るのを感じた。霧の家の長の霜月が傍らへやって来た。霜月は劉生にささやきかけた。「我らの罪は、許されるであろうか」「そうであって欲しい」赤子を抱く朱雀を取り囲み、喜びに沸き立つ村人達を見ながら、二人の老人は頷きあった。村人達の喜びの声は百合枝の元にも届いた。「母となりし者よ、我らを見る者よ」干瀬は言った。「お前はこの土地に受け入れられた。案ずるな、多くの力がお前を守る」斤量も言った。「百合枝殿、我らを感じる者には我らの力が及ぶのだ。我らは異界の者なれど、良き力とは何たるかを知る者なれば」百合枝は感謝の心で軽く頭を下げた。疲労が深くもはや話す事も出来なかった。百合枝の身体はそっと横たえられた。更紗がささやいた。「今は休むが良い。優しき心持つ母よ」風が佐原の山を、森を、田畑を、駆け抜けていった。風の声を聴く者達は、新しい未来が生まれたのを知った。「来年は豊作になるだろうな」囲炉裏の傍で縄を編む手を休め、坂の家の長の久瀬はつぶやいた。「風が喜んでいる」子供が駆け込んで来た。「父ちゃん、盾の家の新しい子が生まれたよ!紫苑さまと言うんだって!」久瀬は幼い息子に優しい眼を向けた。「ほう、とうとうお生まれになったか」「当主様が、夢がつけた名前だって!未来の村の守護者さまだって!」(村の守護者・・)久瀬の脳裏に白く長い髪がなびき、美しく懐かしい面影がよぎった。子供は久瀬の横に座り込み、久瀬を見上げた。「俺も大きくなったら、父ちゃんみたいに、守護者さまにお仕え出来るかな?」「ああ」久瀬は膝の上に子供を抱き上げた。「だったら、もっと飯を食えよ」「父ちゃんくらい、でかくなる様に?」「父ちゃんくらい、腕っ節が強くなるようにだ」家の奥から、味噌汁の煮える匂いが漂って来た。子供はするりと久瀬の膝をすべりおりた。「朝飯、出来たか、かあちゃんに聞いて来る!」子供は笑顔を残して、厨の方へ駆けて行った。その後姿を見ながら、久瀬は思っていた。我らの戦いはこの世界を守る為にある。だがそれは、あの子を守る為の戦いでもあるのだ。あの子が健やかに大きくなる日まで、俺の腕が強いままであって欲しい。佐原の村よ、我らにご加護を・・今生まれし約束の子と我らの子供達の未来の為に。それは、この村の大人達すべての願いでもあった。喜びの風は、遥かなる緑の窓の屋敷までも翔けて行った。慌て者の風は窓にぶつかり、激しい音を立てた。朔也は目を開けた。寝台を滑り降り、窓の側へ行った。風がどの方向から来たのか、見極めるかの様に、朔也は硝子窓の向こうを見た。「生まれたな、この家の新しい家族が」竹生がいつの間にか朔也の傍らに立っていた。朔也は明け始めた空の向こうに遥かな村を見ているかの如くに微笑んだ。「皆に愛される・・人にも、人でない者にも・・」「お前にも、私にもな」竹生は朔也の肩を抱き寄せた。風は次々に押し寄せ、屋敷中の窓は、喜びの歌を歌う様に、鳴り続けた。(終)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/08/05
奥座敷の重い扉は開かれていた。中に幸彦と真彦が立っていた。朱雀と三峰の姿を見ると、幸彦は微笑んだ。朱雀と三峰は二人の前にひざまずいた。「奥座敷の番人の仕業、許してやってくれ」佐原の家の家令の郷滋(ごうじ)もやって来た。幸彦は郷滋に言った。「他の者達は”前座敷”で待ってもらってくれ」前座敷とは奥座敷の一番手前側、当主が村人と謁見する間である。郷滋は頭を下げた。「承知致しました」「さあ、立って。奥へ行こう」幸彦と真彦に導かれ、二人は奥へ進んだ。女の悲鳴が聞こえた。朱雀の顔が険しくなった。三峰がささやいた。「心配はいらん」「ああ」朱雀は眉間の皺をゆるめた。金泥を施した襖の前で、幸彦は立ち止まった。「百合枝さんはこの奥にいる。心配ないよ、間宮(まみや)も一緒だから」間宮は佐原の家の厨(くりや)を預かる女である。良く気のつく陽気な老女だった。幸彦はすとんと腰を下ろし、胡坐をかいた。「僕らはここで待とう。二人共、楽にしていいよ」二人は素直に従い、畳に腰を下ろした。真彦は引き締まった表情をしていた。子供ながら不思議な威厳のある顔であった。「お父さん・・」幸彦は頷いた。「ああ、行っておいで」真彦は襖を細く開けると中へ滑り込んだ。朱雀の目にちらりと中の様子が見えた。うずたかく積まれた白い布団や白い布が見えた。「寒いと思ったら、雪だ」幸彦が言った。その部屋の窓の向こうは中庭だった。明け始めた明るさの中に白くちらつく雪が見えた。朱雀は言った。「幸彦様、真彦様まで徹夜をさせてしまい、誠に申し訳ありません」「いいんだよ、大事な子じゃないか。この村が土地の加護を失って以来、初めて村で産まれる子なんだ。皆の希望・・」幸彦の目に不思議な光が宿った。「ああ・・そうだ・・希望、希望の星を持つ子、その名に・・」(夢が来ている・・)朱雀も三峰も思った。鋭い赤子の産声が聞こえた。朱雀がぱっと立ち上がった。三峰も幸彦も立ち上がった。襖が左右に開かれた。こらえきれず朱雀は踏み込んだ。部屋は縦に長く、朱雀はどんどんと奥へ歩いていった。白い褥の手前で朱雀は立ち止まった。朱雀を見て間宮がうれしそうに言った。「男の子ですよ」白い褥の中央に百合枝が半身を起こし、白い布にくるまれた赤子を胸に抱いていた。その赤子を百合枝の腕の替わりに支えているのは異界の翼持つ者だった。左右に斤量と干瀬がいた。常人には見えないが、朱雀はその三人の異界の者を見る事が出来た。幸彦と三峰も朱雀の傍らに立った。真彦が赤子の顔を覗き込んでいた。「さあ、佐原の当主として、この子の名を・・」幸彦が真彦に促した。真彦の目にも光が宿っていた。真彦は細いがはっきりとした声で言った。「しおん・・紫苑・・その名に希望の星を持つ者・・未来・・我らの村の守護者たる者・・・」ふわりと風が百合枝の髪を舞い上げた。三峰がつぶやいた。「おお・・まさしくこれは、風の力」朱雀は見えない力に導かれる様に、百合枝に近寄って行った。朱雀が百合枝の傍らにひざまずくと百合枝は朱雀を見て微笑んだ。朱雀は何と言って良いのか分からなかった。「良くやった、ありがとう」それが朱雀の口から出た言葉だった。異界の者の手が朱雀に、たった今紫苑と言う呼び名をもらった息子を手渡した。白い布に包まれた命は余りにも軽く、朱雀は戸惑った。「貴方に似ていると皆が言うのよ。きっとハンサムになるわね」美しい赤子だった。まだ見えぬはずの目で、父親を見上げていた。干瀬が言った。「朱雀よ、紫苑は我らの御子だ。我らの守護を受ける身だ。大事に育てよ」斤量が言った。「朱雀殿、我らは紫苑の力になる。柚木と真彦、そして紫苑・・この村の未来の為の大切な子供達なれば」朱雀は三人の異界の者達に頭を下げた。「心して、奥座敷の番人よ。貴方がたの恩寵に感謝致します」風が吹いた。奥座敷の襖が次々とひとりでに左右に開かれ、前座敷まで一直線に開けた。さわさわと鳴る羽根の音と共に細く高い声が言った。「朱雀殿、お披露目を」朱雀は百合枝の顔を見た。羽根のある異界の女に支えられた百合枝の顔は、疲労の色は濃いが喜びに輝いていた。微笑を浮かべ、百合枝は頷いた。朱雀は息子を抱き、皆の待つ前座敷へと進んだ。後ろから幸彦と三峰が続いた。真彦は意識を失い、干瀬の腕に抱かれていた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/08/04
「朱雀、落ち着け」「そう言うな、三峰」医療の建物の片隅で、朱雀は初めての我が子の誕生を待っていた。父親の先輩である三峰は、余裕の表情で長椅子にゆったりと腰を下ろしていた。朱雀は目の前の扉の中の様子を伺いながら、その前を行ったり来たりしていた。普段の朱雀からは考えられない、そわそわとした態度である。朱雀と百合枝の子は、佐原の当主の預言を受けた子である。幸彦と真彦が同じ夢を見たのだ。未来の”村の守護者”になると。村中が赤子の誕生を待っていた。その子が土地の加護を再び取戻すきっかけになるのではないかと、誰もが期待していた。佐原の村で子供を産みたいと言い出したのは百合枝だった。朱雀は何も言わなかったが、それを周囲の皆が望んでいる事を、百合枝はそれとなく感じていた。予定日が近付き、朱雀は和樹に会社をまかせ、百合枝と共に佐原の村に帰った。幸彦と真彦も一緒だった。吉報と共に、久しぶりの当主の帰還に村は沸きかえった。三峰も二人の守護を兼ねて同行した。竹生が留守を守ると申し出た。”外”の守りを空っぽにするわけにはいかなかった。和樹を守る者も必要だった。竹生にはまだ余り動けぬ朔也を置き去りには出来ない事情もあった。柚木も朱雀のマンションに残った。朱雀達が村へ戻りたい気持ちは理解出来たが、柚木はまだ村への憎しみが捨てられなかった。進士も柚木の世話と留守番の為に残った。斤量(きんりょう)も佐原の村に戻って来た。奥座敷の番人が久しぶりに顔を揃えた。斤量と干瀬(ひせ)は真彦の部屋だった屋根裏の小部屋で、酒を酌み交わしていた。「朱雀も本物の父親になるのか」干瀬は心底うらやましそうな顔をした。その顔は忍野(おしの)の顔であった。「奥座敷で産めば良いのにな。さすれば、我等の御子になる」斤量が言うと、干瀬はにっこりと笑った。「それは良い考えじゃの」干瀬は天井を仰ぎ、叫んだ。「更紗、更紗」「気安く呼ぶな」細く高い声が答えた。「奥座敷の中央の部屋に、極上の絹の褥と金のたらい、それと沢山の湯を用意してくれんか。ワシの集めた水晶の玉、紫のも薔薇色のもやるから」細く高い声が疑い深げに聞いた。「ほんとにくれるか?」「ああ、やるとも。これからもっと良い宝を、ワシは手に入れるのだからな」斤量は呆れた。「おぬし、本当に連れて来るつもりか」「あれは未来の”村の守護者”だ。我等の御子になった方が良い」干瀬は立ち上がり、斤量を見た。「お前の”手”が必要だ」斤量は少し考え、頷いた。「良かろう」干瀬はうれしそうな顔をした。「人の言葉で何と言ったかな・・そうだ、”善は急げ”だ」細く高い声がからかう様に言った。「急いてはことをしそんじる、と言う言葉もあるぞ」干瀬が何か言い返す前に、笑い声とさわさわと鳴る羽根の音は遠ざかって行った。「百合枝が消えた?」扉から泡を食って転がり出て来た若い医師が、朱雀に百合枝の失踪を告げたのだ。「突然、消えてしまったのです」若い医師は泣きそうだった。三峰は天井を見上げた。そして微笑した。「さすがお前の子だな。産まれる前から守りたいと思う者達がいる」朱雀も気配に気がついた。「奥座敷か」朱雀は若い医師に言った。「奥座敷で私の子が産まれる」訳が分からず、若い医師はきょとんとした。「すまんが、先に行かせてもらうぞ」そして朱雀と三峰は頷きあい、風に乗り走った。「こらこら、廊下を走っちゃいかん」老医師がその背中に呼びかけた。その言葉が届く前に、二人はすでに医療の建物を出て、中庭を通過していた。「さて、我らも行くとするか」老医師は奥座敷に向かい、ゆっくりと歩いて行った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/08/03
薔薇の咲き乱れる夕暮れの庭に、華やかなさざめきが広がっていった。屋敷の庭で披露宴が行われていた。白いウエディングドレスの百合枝と礼服の朱雀を皆が取り囲んでいた。屋敷の家族、幸彦と真彦、そして盾達も招かれ、二人を祝福していた。ベランダから芝生にテーブルが出され、津代の心尽くしのご馳走が並んでいた。津代は百合枝の乳母だった女で、屋敷に百合枝が戻った時、料理番として戻って来たのだ。元々はマサトの手配で来た佐原の女だったから、屋敷の事情もすぐに飲み込めた。竹生も快く向い入れた。福々とした体格と田舎育ちの女の健康さと遠慮のなさで、男どもを叱咤しながら、津代は屋敷の家事を切り盛りしていた。進士と桐原は銀の盆を手に、人々に飲み物をサービスしていた。伴野は庭の照明や飾付に気を配っていた。千条も黒い礼服をまとい、百合枝の車椅子の側に控え、久しぶりに顔を合わせた元の同僚達と楽しげに言葉を交わしていた。三峰も今日は黒い礼服であった。すっきりとした長身に、白い髪が黒い絹の襟にかかる姿があまりに麗しいので、彼を見慣れているはずの人々まで、しばし三峰から目を離せなくなってしまうのであった。幸彦は琥珀色の液体の入ったグラスを手にしていた。「竹生は?」「兄はまだ寝ております。最近、目覚める時間が遅くなった様で」そう言いながら、白き守護者は幸彦に微笑んでみせた。「そうかい、今日の夜は長くなりそうだね」「我らの夜は元々長いのですが、今日は特にそうなりそうですね」「お前も楽しんでおくれ。ここにいる限り、僕達の事は心配しなくて良いから」この屋敷に特別な力が働いている事は、幸彦も三峰も知っていた。ここには敵は入り込めない。幸彦も真彦も安全なのだ。三峰は優雅に頭を下げた。「ありがとうございます、幸彦様」ひと通りの乾杯も挨拶も終り、宴はくだけた雰囲気になった。お腹も一杯になった柚木は、大人達の中にいるのも退屈になり、薔薇の間の小道を東屋の方へ歩いていった。東屋にからまる薔薇の蔓に咲きかけた蕾が、白く仄かに闇に浮かんで見えた。東屋の小さなランプに火が入れられていたが、柱の影に隠された光は表までほとんど届かなかった。それでも柚木には、薔薇の蕾を見上げて横顔を見せている少年が誰であるか、たちどころに解った。柚木は恐る々々呼びかけた。「真彦」少年は振り向いた。甘い薔薇の香りが漂う闇を透かし、柚木を認めた顔に微笑が花の様に広がった。その顔は柚木の覚えているよりも大人びて、幸彦の面影が濃くなっていた。「柚木」柚木はその微笑に向かい歩き始めた。柚木は真彦の傍らで立ち止まり、手を伸ばして咲きかけた薔薇を摘み、真彦に差し出した。真彦は笑顔でそれを受け取った。「背が高くなったね。僕は届かなかったのに」「僕の方が大きい方が良いだろう?僕はお前の盾だもの」柚木も真彦に笑顔を見せた。「お前はもっと強くなるのだね、柚木」「僕らはもっと強くなるんだ、皆の為に」「そうだね」「ああ」友情は甦り、二人は再び共に歩み始めようとしていた。少し離れた薔薇の木陰に、白く長い髪が揺れた。青き魔性の眼と夢見る瞳が柚木と真彦に祝福のまなざしを投げかけていたのを、二人は知らなかった。「時が・・未来に動き出しますね・・」「何もかも取り戻す時は、近いかも知れぬな・・お前がここを去る日が」竹生は腕の中の身体のぬくもりを慈しむ様に抱き締めた。「いいえ・・もう少し、もう少しだけ、私をこのままでいさせて下さい」白い手が竹生の背中に回された。「今の私は・・弱過ぎる」白く長い髪がさらさらと夜風に流れ、月は雲間に隠れた。「私は・・また壊れてしまう・・哀しみに押し潰されて・・」茂みの向こうから、陽気なざわめきがやって来た。竹生はそちらを見遣った。「そうだな・・この幸福に、我らもしばし酔うのも良かろう」竹生の眼は、遠い百合枝の笑顔すら見る事が出来た。「深い哀しみから、ようやく立ち直った魂の為にも」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/08/02
百合枝は退院した。鍬見(くわみ)が週三回往診に行く事を条件として。黒塗りの車が暮れなずむ屋敷の門前に停まった。白い毛布にくるまれた百合枝は千条の押す車椅子に乗せられ、門をくぐり玄関に入った。桐原は門から屋敷に入るまでの段差をなくす様に手直しをさせていた。玄関のホールで竹生と朔也が出迎えた。夕暮れとはいえ、竹生がここまで出て来て人を出迎えるなど珍しい事であった。桐原ですらその事に驚いていた。それだけ竹生は百合枝を特別視している表れであった。これからの百合枝の生活を何不自由なく支える事が、新たに自分に課せられた責務だと、竹生の姿を見ながら桐原は感じた。そして桐原自身も屋敷の女主人に相応しい百合枝を好ましく思っている事も、やる気を更にかき立てた。(このお屋敷も、華やかになりますな)幾ら竹生や朔也が並外れて美しいとはいえ、今までは男所帯であった事には変わりがなかった。「百合枝さん、逢えてうれしい」朔也は車椅子の前にひざまずくと、百合枝の腰に手を回して抱きしめた。「暖かい、優しい・・百合枝さん」百合枝は朔也に微笑みかけた。「朔也さん、私も貴方に逢えてうれしいわ」朔也は満面の笑みで百合枝を見上げた。「ずっと一緒?ここにいる?」「ええ、ここで暮らすの」朔也は再び百合枝を抱き締めた。「うれしい・・竹生さまがおいでにならない時・・貴方といたい」竹生が言った。「朔也は一人になるのを酷く恐れるのだ」百合枝は竹生を見て頷き、朔也に優しく言った。「そうね、一緒にいましょうね」「百合枝さん・・嗚呼・・私はうれしい」千条は複雑な思いで、子供の様に百合枝に甘える朔也を見ていた。千条は朔也が誰であるか知らされていた。教えられなくても千条には朔也の事が判ったであろう。千条は過去に朔也と共にいた時間があったのだから。朔也は立ち上がると千条を見た。そしてにっこりと千条に笑いかけた。「お前もおいで・・お前は強い・・優しい・・」竹生は千条に言った。「朔也はお前を気に入った様だ。どこかで覚えているのかも知れぬな、お前の事を」千条は胸が痛くなった。哀しみの中で壊れてしまった優しき人を見て。千条は朔也の前にひざまずいた。「朔也様、千条とお呼び下さい」「せんじょう・・」無垢な笑顔を見ていると、この人が何故あのような目に合わねばならなかったのかと怒りが込み上げて来た。千条は波立つ胸の内を抑えて立ち上がった。「百合枝様のお荷物を、お運びして参ります」会社での仕事を終えると、朱雀もやって来た。竹生に挨拶とあらためて今回の計らいに礼を言うと、朱雀は緑の窓のある百合枝の部屋へ向かった。千条は朱雀の姿を見ると、百合枝の枕元の椅子から立ち上がり、朱雀に一礼して出て行った。寝台に並んで積み上げた枕に背中を預け、朱雀の腕の中で百合枝が言った。「愛とは決して後悔しない事・・ってご存知?」「Love means never having to say you are sorry・・古い映画のラストシーンだ」「ええ、親の反対を押し切って結婚したのに、奥さんが死んでしまうの」「白血病だったかな」百合枝は頷いた。「病院に駆けつけたお父さんに彼が言うのよね、その言葉を」百合枝の髪を撫でながら、朱雀は言った。「ああ、そうだったね」「私は後悔してもいいと思うの」「ほう」「未来の事は誰も分からないでしょう?愛さないで後悔する位なら、愛してから後悔したい」朱雀は笑みを浮かべた。「キミは強いのだね」「そんな事はないわ。でも愛した事、それ自体は決して後悔しないわ・・貴方を」「私もだ」朱雀は百合枝を抱きしめた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/08/01
柚木と進士は夕餉の食卓にいた。平目のムニエルはこんがりと黄金色に焼けていた。別の器で温野菜もたっぷり添えてある。近頃の柚木の食欲が思わしくない為、進士は料理には更に心を配っていた。明日の夕方、百合枝の見舞いに行く事を、進士は柚木に告げた。「百合枝さん、良くなったんだね。良かった」柚木はうれしそうに言った。「柚木様もお見舞いに行きませんか?」箸を操る柚木の手が止まった。柚木はうつむいた。「百合枝さんは、僕に逢ってくれるだろうか」進士は柚木に優しく言った。「百合枝様に悪い事をしたと、思っておられるのですか」「うん」「だとしたら、百合枝様に直接逢って謝る方がよろしいでしょう」「でも」進士は百合枝が出て行った本当の理由は朱雀との間の事だと知っていた。柚木がこれ以上自分のせいだと悩むのも気の毒だと思った。「百合枝様のお心を知るのは怖いですか?」柚木は顔を上げた。彼も誇り高い”盾”の子だった。「解った、僕は逃げない。百合枝さんに逢って謝るよ」「その方がいいな」良く通る声が聞こえた。柚木が振り向くとキッチンの入り口に朱雀が立っていた。「朱雀おじさん」立ち上がろうとした柚木を朱雀は手で制した。朱雀は柚木の隣の席に着いた。進士に向かい、手真似でグラスをあおる仕草をすると、進士は微笑してうなずき立ち上がった。すぐに朱雀の前に香りの良い琥珀色の液体と氷の入ったグラスが置かれた。「ありがとう、食事の途中ですまない」「いえ、人数が多い方がテーブルも賑やかになってよろしゅうございます」「お前も続けてくれ」「いささか我が流儀には反しますが、朱雀様のお言葉なれば、遠慮なく」進士も再びナイフとフォークを取り上げた。朱雀は、百合枝の現在の容態と退院後は元の屋敷に住まう事を話した。それを聞くと柚木はしょんぼりとして言った。「百合枝さん、僕らの事、嫌いになったのかな」朱雀はグラスをゆっくりと傾けた。カラカラと氷のぶつかりあう音がした。「それはないな」「どうして解るの?」朱雀はグラスを置くと柚木の顔をまじまじと見た。それからいつもの面白がる様な顔をして言った。「百合枝は、私の妻になるのだからな」柚木は目を丸くして朱雀を見た。「竹生様のご意向と身の安全の為に、百合枝はあの屋敷に住むのだ」「朱雀おじさんも?」「仕事の都合もあるから、私はここと行ったり来たりになるだろうな」「朱雀おじさん」「何だね」「おめでとう」朱雀はにっこりと笑った。「ありがとう」男でも惚れ々々する綺麗な笑顔だった。「百合枝はお前に逢いたがっていた。明日は進士と一緒に行きなさい」「はい」柚木は元気の良く返事をした。そしてちょっと恥ずかしそうに進士に言った。「御飯のお替りもらっていい?急にお腹がすいて来ちゃった」「はい、沢山召し上がって下さい」立ち上がった進士に朱雀も言った。「私ももう一杯もらおう」「かしこまりました」朱雀は柚木に身を寄せ、ささやいた。「家族が増えるぞ、柚木」「百合枝さんは家族みたいなものだったよ、朱雀おじさん」「もっと小さな家族だ」柚木は気がついた。食べるのをやめて朱雀の顔を見て言った。「僕も面倒見るよ、絶対に見るよ」朱雀は子供にする様に、柚木の頭を大きな手でくしゃくしゃにした。「頼んだぞ、お前と同じ風の子だからな」久しぶりの乱暴な愛撫がうれしくて、柚木は顔中が笑顔になった。「おじさんの子なら、きっと強い風の子だね」「今度はお前が色々と教えてやってくれ」「まかせて。僕、竹生様に頼んでお屋敷に住まわせてもらおうかな」そうするには、柚木には乗り越えねばならない問題がある事を朱雀は知っていた。だが今はそれを口にはしなかった。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/31
百合枝は順調に回復していった。目はほとんど以前と変わらぬ視力を取り戻した。可動式のベッドを起こして、少しなら寄りかかっていられる様になった。朱雀は日が暮れると毎日の様にやって来た。朱雀が病室にいる時間は、鍬見は気を利かせて室内監視のモニターをOFFにした。彼も忠実な朱雀の部下であった。百合枝は半身を起こして窓の外を眺めていた。百合枝は入って来た朱雀に微笑みかけた。「今日は早いのね」「一刻も早くキミに逢いたくてね。空を飛んで来たのだよ」「あら、空を飛ぶのは嫌いではなかったの?」今では百合枝も風の力についての知識を得ていた。それと朱雀の好みも。朱雀は肩をすくめてた。「すまん、本当はこの近所で打ち合わせがあってね。幸運な事に」「そうだったのね、お疲れ様」朱雀は寝台に上り、優しく百合枝を抱き締めた。面会時間は限られている。短くともそれは二人の大切な時間であった。百合枝は安心しきって朱雀の胸に身を預けていた。深く豊かな声が百合枝の耳にささやきかけた。「愛してる」「私も」唇が重ねられた。激しく性急に。いきなりドアが開いた。「お父さん、大変だ」和樹は二人を見て慌てた。百合枝は恥じらい、朱雀の胸に顔を伏せた。「あ、ごめん」和樹は後ろを向いた。朱雀は取り繕った声で言った。「何だね、いきなり」「ああ、僕、外で待ってるから」和樹は出て行った。「どうしましょう」百合枝はうろたえていた。朱雀はいたずらっぽく笑った。「息子に打ち明ける手間がはぶけたよ」朱雀は廊下へ出た。和樹が一人立っていた。和樹は朱雀を見て少し微笑んだ。「お互いに大人だからね。その方面は寛大でいこうよ」朱雀は成長した義理の息子にまぶしげな目を当てた。「それは、ありがたいね」「お父さんだって、誰かを好きになっても当たり前だよ」「お前はどうなのだ?」「僕?僕だって、まあ、そのうちにね」和樹は照れた顔をした。和樹はすぐに顔を引き締め、一通の手紙を朱雀に差し出した。「幸彦さんがこれを」手紙を受け取り、目を通した朱雀はつぶやいた。「『火消し』が戻って来る・・」それは大きな戦いが近いと言う事である。「サギリさんも一緒なら、百合枝さんの事も解るはずだ」「そうだな」百合枝が『火消し』の仲間であるかどうかで、彼女の扱いも変わって来る。朱雀は手紙を和樹に返しながら言った。「悪いが、和樹」「何だい、お父さん」「百合枝は、私の一番大事な人なのだ」和樹はすぐに察した。朱雀は遠回しに百合枝との許婚の承諾を和樹に得ようとしているのだ。和樹は笑った。「僕は二番目でも三番目でもかまわないよ」「すまんな」「その分、幸せになってよ。僕の兄弟の事も楽しみにしているよ」朱雀はひるんだ顔をした。「誰に聞いた」和樹は片目をつぶってみせた。「情報戦略は僕の得意分野ですよ、社長」朱雀は苦笑した。「我が社の専務は優秀だな」和樹は朱雀を見て、にやりと笑った。「何を笑う」「お父さんは、百合枝さんの事に関しては、とても真面目で純情だよね」「私はいつでも真面目で純情なのだよ」和樹は朱雀がうろたえているのを微笑ましく思った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/29
男を見て胸がときめくなど、鹿沼の生涯にはなかった事であった。竹生の弟である三峰とは顔を合わせる機会はこれまでも何度となくあった。三峰も竹生に良く似た美しい男であったが、温厚な人柄が伝わって来る三峰には、鹿沼は尊敬の念を覚える事はあっても、この様な妖しく心乱れる想いを感じた事はなかった。(これが伝説の守護者・・竹生様・・)ちらりと千条の方を見ると、千条も竹生に熱を帯びたまなざしを向けていた。竹生は千条に問い掛けた。「盾を辞しても、戦いの心忘れぬ覚悟はあるか」千条は戸惑った。自分の身体は元通りには戻らぬのだ。おずおずと千条は言った。「戦えぬ身に・・なっても、でしょうか」ふっと竹生は笑った。鹿沼はその声を聞いた途端に膝から力が抜けそうになった。「多少不自由があろうと、異人どもに簡単に後れを取るお前ではあるまい?」千条はかすれた声で問うた。「竹生様・・私に何を・・お望みでしょうか」竹生の髪がふわりと宙に舞い上がった。風が部屋中の薄布を舞い上げ、二人の頬にも夜の冷気が吹き付けた。竹生の目が青く輝いた。「百合枝に仕えよ、あれの手足となれ。百合枝の身の回りすべて、お前にまかせる」千条はためらった。自分の力不足で百合枝を不具にしてしまった様なものなのだ。「百合枝様は・・私を・・不甲斐ない奴と・・思っておいででは・・」竹生は微かに首を左右に振った。さらさらと白く長い髪が揺れ、青く甘い香りが部屋中に馥郁と漂い広がった。「百合枝は、お前が助かった事を喜んでいる」千条は勢い良く起き上がった。鹿沼は驚いた。動ける身体ではないはずなのだ。千条は震えていた。それは痛みの為ではなく昂揚の震えだった。千条は震えながら、竹生を凝視した。腫れ上がった唇から押し出す言葉は不明瞭であったが、千条は必死に言った。「私に・・償いの機会を・・お与え下さるのですか」竹生は千条を見た。魔性の美が千条を捉えた。千条は更に震え、竹生から目を離せなくなった。竹生の薄赤い唇が開き、千条に問いかけた。「百合枝をお前の主人、お前の女神とせよ。誠心誠意仕え、そして守れ・・出来るか?」震えるままにもどかしい口を開き、千条は答えた。「それこそが私の願い・・私の望みです」竹生は頷いた。「また来る。早く治せ」竹生は去った。竹生がどうやって部屋を出たのか、二人には知る事は出来なかった。千条は寝台にどっと倒れ込んだ。鹿沼が手を貸し、その身体を元の様に横たえた。無理に動いた為に身体中に激痛が走っていた。それでも千条の心は明るかった。百合枝様のお側に仕える。それならば贖罪の機会はある。守るのだ、たとえこの身が”盾”ではなくなろうと。守るべきものがある限り、戦いの心は忘れまい。しばらくすると、ありふれた夜の静けさが病室に戻って来た。千条の乱れた息も整い、鹿沼の波立つ胸も収まった。鹿沼が言った。「再就職先が、早々に決まりそうだな」「ああ・・俺は・・運が良いな」「今度の相棒は、美人に弱くない奴にしてもらうかな」千条は痛む唇で無理ににやりと笑ってみせた。「美人が・・嫌いな奴は、いるか?」鹿沼もわざと肩をすくめてみせた。「いないだろうな。我らは全員、朱雀様を手本とする忠実なる部下だからな」二人の笑い声が夜の病室に響き渡った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/28
病院の奥まった一角を鹿沼(かぬま)は歩いていた。就寝時間を過ぎた病院は、灯は半ば消え、静まり返っていた。鹿沼が病室に入ると、背広姿の男が立ち上がり軽く頭を下げた。鹿沼は男に声を掛けた。「私がいる間に少し休憩を取れ、片緒(かたお)」片緒と呼ばれた小柄な青年は若い盾で、千条の組の者、すなはち千条の直属の部下であった。「ありがとうございます」片緒の笑顔にはまだ幼さが残っていた。村にいた頃から千条を慕っていた片緒は、千条が怪我をしてからずっと病院に寝泊りしていた。警備部の部長の磐境(いわさか)は、片緒の気持ちと病院にも護衛がいた方が良いだろうと考え、それを許した。千条の意識が戻った時、誰よりも喜んだのも片緒であった。「それでは」片緒は一礼して出て行った。察しの良い彼は、鹿沼が千条と二人きりで話したいのだと思い当たったのである。千条は包帯だらけの身を寝台に横たえていた。点滴の瓶からゆっくりと滴り落ちる雫が、腕の管に流れ込んでいるのが見えた。他にも何本もの管が千条に繋がっていた。目を除いて顔の上半分にも包帯が巻かれていた。千条は意識を取り戻すとすぐに、百合枝の安否と現在の自分の状態を尋ねた。鍬身(くわみ)は隠す方が酷であると判断し、すべてを正直に語った。千条は黙ってそれを聞いていた。手足の複雑骨折、特に左足は元に戻らない。顔にも傷が残る。そして千条は”盾”へは戻れない。身体的に戦闘に不都合がある者は盾でいられないのだ。鹿沼もすでにそれを知らされていた。鹿沼は千条の枕元の椅子に坐った。千条が目を開けた。鹿沼は言った。「百合枝様のご容態が好転した」千条の唇の端が少し上がった。唇は打撲で紫に膨れ上がっていた。百合枝の状態も隠さずに鍬見は千条に話してあった。「歩く事はお出来になれないが、視力は回復される見込みだそうだ」「そう・・か・・」千条は話しにくそうだったが、ゆっくりと言葉を発した。「お前も元気になれ」「俺は・・もう・・戦えない・・」盾の掟、盾の心、鹿沼はもちろんそれを知りすぎる程知っている。”戦ってこそ盾”だと。だが鹿沼はこの男にしては精一杯の優しさを込めて言った。「百合枝様も生きておられるのだ、お前も生きろ」千条は目を閉じて答えなかった。風が吹いた。いつの間にその影が病室に入り込んだのか、鍛え上げられた神経を持つ鹿沼ですら気がつく事が出来なかった。月光を背に窓辺にたたずむ美影は黒い外套をまとってた。長く白い髪がゆるやかになびき、部屋中のカーテンが揺れた。鹿沼は驚き、反射的に立ち上がった。千条はそろそろと首を動かし窓の方に顔を向けた。鹿沼は竹生をこれほど間近で見た事はなかった。それは千条も同じだった。竹生の白い顔は、無表情でありながらあらゆる表情を含んでいる様であった。二人は茫然とその美しい顔を見ていた。月夜を渡る風の如き声が聞こえた。「千条」「はい・・」名前を呼ばれただけで、千条は恍惚となり、すべての痛みと苦しみが消えていく心地がした。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/27
朱雀はそっと傷にさわらぬ様に百合枝を抱きしめた。「私はキミと離れたくない、キミを失いたくない」百合枝の耳に朱雀の唇が触れた。朱雀は熱い息と共に言った。「私はキミを愛している」再び朱雀は百合枝を抱き締めた。「たとえキミが私を嫌ったとしても、私はキミを守りたい。キミと私の子を守りたい」熱い言葉を、厚い胸に抱きしめられて百合枝は聞いた。百合枝の中に喜びが沸きあがった。「私も貴方を愛しているわ・・朱雀」夢はかなえられたのだ。孤独の中に忘れようとした夢が・・竹生がもう一度尋ねた。「私の血を受けるか、百合枝」百合枝はまだ不安を感じていた。「もし・・それでもどうにもならない時は・・」竹生は即座に答えた。「お前の望み通り、私がお前の人生を終わらせてやろう」竹生なら本当にそうするだろうと百合枝は思った。百合枝は決心した。「はい、竹生様」月夜を渡る涼風のように、竹生は優しく語りかけた。「私の屋敷で一緒に暮らそう。お前と朱雀の子の風が、庭の木々をゆらすだろう。お前の手足の代わりに、多くの手が差し伸べられる」すべてを失ったわけではないのだ。これから得るものもあるのだ。夢見る声が楽しげに言った。「私・・貴方の笑顔は暖かい・・見るとみんな幸せになれる・・」竹生は本気とも冗談ともつかぬ口調で言った。「あの家は我らの城、お前は城の姫君だ。我らはお前を守る」竹生は百合枝の上に身をかがめた。「お前の笑顔が、我ら”家族”の中心となるのだ」竹生の薔薇色の唇が、百合枝の額に押し当てられた。柔らかく甘美な感触が百合枝を恍惚とさせた。三峰がいたら「前代未聞」と言ったであろう。「あの家も、女あるじの帰還を望んでいる」「百合枝さん、貴方の・・子も・・」鍬見が病院に出勤すると、当直の医師が息せき切って廊下を走って来た。「鍬見(くわみ)様!」若い医師はかなり興奮している様だった。「どうした、騒がしいぞ」「奇跡とはこういう事を言うのでしょうか」「何が起きた」「百合枝様のご容態が・・」あまりに取り乱した若い医師の様子に、鍬見は眉をひそめた。「落ち着け」「申し訳ありません」若い医師は深呼吸をして息を整えた。鍬見が問いかけた。「百合枝様のご容態がどうなったと言うのだ」若い医師の顔がぱっと明るくなった。興奮した気持ちのままに、彼は早口で報告した。「百合枝様の目に回復の兆候が見られます。視力の戻る可能性が出て来ました。身体の傷も驚異的な速さで治りつつあります」今度は鍬見が驚く番だった。「何だと」「残念ながら歩行は困難でしょうが、感覚はあるそうです」「どういう・・」病院の長い廊下を風が吹き過ぎた。鍬見は青く甘い香りを幽かに感じた。(竹生様か・・?)(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/27
百合枝は面会謝絶になっていた。その処置には百合枝の精神状態があまりに不安定である事も考慮されていた。百合枝が人と逢う事を拒絶していたからもある。人の出入りは厳重に監視されていた。だがどんなに厳重な監視の目があっても意味がない者もいた。深夜の病棟を風が吹き過ぎて行った。「百合枝」目が見えずとも、その声が誰であるか解った。「竹生様・・」「お前は死んではならぬ」「私に・・生きている価値はありません・・」百合枝は頑なに言った。夜の安らぎを含んだ声が諭す様に言った。「腹の子はどうなる」百合枝には答えられなかった。一条の月光が射し込むかの様に、百合枝の心の底まで竹生の声が響いた。「私の血を受けよ。失われたものがどこまで戻るかは分からぬが、その命、生き長らえるであろう」竹生に不思議な力がある事は、百合枝もすでに知っていた。朔也が竹生の血のお陰で生死の境から助かった事も。だがもし生き延びても、何の意味があるだろう。「生きても、私には辛い事しか残っていない・・こんな身体で・・」百合枝は小声でつぶやいた。さらさらと白く長い髪が闇の中に流れ、青く甘い香りが百合枝の鼻腔に流れ込んで来た。それは心地よく、久方ぶりの安らぎを百合枝に与えた。柔らかい手が百合枝の頬に触れた。「暖かい・・」うっとりと夢見るような声が言った。「朔也・・さん?」「貴方に触れると・・私は楽に・・なる」朔也は百合枝の頬をそっと撫でた。「私は・・貴方と一緒にいたい」竹生が百合枝の耳元でささやいた。「朔也はお前の力が消えていないと言っている」「え・・」「千条も死んではおらぬ」千条が無事であったのを聞き、百合枝はうれしかった。自分の浅はかさがあの青年を死なせてしまったと思っていたからである。「柚木もお前にあやまりたいと言っている」「柚木くん・・が」「お前が死ねば、悲しむ者は何人もいるのだ」朔也の手が離れた。誰かが近づく気配を百合枝は感じた。「百合枝・・」深く豊かな声がした。百合枝は身体を硬くした。それが誰であるか、百合枝に分からぬはずはなかった。百合枝の人生を変えてしまった男、百合枝に夢を与え、夢を奪った男であった。朱雀はしばらく黙っていた。夜のしじまを幽かな風が吹いた。青く甘い香りを再び百合枝は感じた。似ていてもそれは竹生のものではなかった。もっと良く百合枝が知る香りであった。厚い胸に抱き締められ、幸福の中で深く吸い込んだ香りであった。「私は臆病者だった。本当の私の姿をキミに告げる事が出来なかった」朱雀の声は震えていた。「朱雀・・?」「私は”人ではない”のだ」百合枝はゆっくりと言った。「知っていたわ」朱雀は目を見張った。「最初に、貴方に助けられた時、あの異人の血を貴方が・・」「見たのか・・私が化け物だと知っていたのか」百合枝は頷いた。「でも、貴方は私を助けてくれた」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/26
鍬見は朱雀が今回の件で強い衝撃を受けているのは知っていた。しかし鍬見にも言いたい事があった。「朱雀様」「何だ」モニターを見ていた朱雀が振り向いた。「千条はまだ意識が戻りません。あいつは百合枝様の為に戦いました。今、百合枝様が亡くなられては、あいつの戦いが無駄になります」「千条は良くやった」その言葉の虚ろな響きが鍬見の怒りに火を点けた。千条と鍬見は同期の盾であった。先の大きな戦いも共に戦い、生き抜いて来た者達であった。「たとえ意識が戻っても、千条の左足は元に戻りません。あいつは盾には戻れないのです」朱雀の目の色が変わった。「貴方ならお解かりになるでしょう、戦えなくなった盾の気持ちを。ましてや己の力不足で、守るべき人を守れなかった者の気持ちを」朱雀の脳裏に、白く優しい手の幻影が甦った。守れなかった大切な人・・さゆら子様。朱雀は我を取り戻し、素直に鍬見に詫びた。「すまなかった。私はどうかしていた」鍬見は医師らしい穏やかな表情に戻った。「私こそ、ご無礼をお許し下さい」鍬見は軽く頭を下げた。そしてモニターに目を戻すと言った。「私は百合枝様をお救いしたい。医師として”盾”として、そして千条の為にも」朱雀はそっと目を伏せた。「百合枝はお前の妻になりたかったのであろう」「竹生様、私は人ではありません」「しかし、父親になった」「それは・・」「お前にその気がないのなら仕方あるまい。百合枝には絶望しか残されず、お前には罪悪感だけが残る。あの異人はその為に百合枝を返した。お前を傷つける為だけに。よくよく性悪な奴だな」竹生の部屋である。朱雀は竹生に呼ばれた。何の用事かとは問わなかった。竹生に質問は無意味である。竹生の安楽椅子の足元に朔也が座り込み、竹生の膝にもたれていた。竹生は朔也の絹糸の如き細く滑らかな黒髪を撫でていた。朔也の髪は伸び、顔を半ば隠していた。朱雀は竹生の前に立っていた。真っ直ぐに背筋を伸ばし両手を後ろに組んでいた。「ここは、今はどこよりも安全かも知れぬな」竹生は膝にもたれる朔也を愛しげに見た。「これがいるお蔭で」「やはりあの仕掛けは、佐原のものですか」「そうだ、これの存在に反応している」朔也は二人の話に関心がない様に大人しくしていたが、ふと夢見る瞳で竹生を見上げた。「竹生さま・・」「何だ」甘い声で竹生が答えた。竹生のこんな声を聞くのは朔也といる時だけであった。「あの子が呼んでる・・」「そうか、お前は誰にでも好かれるな」竹生には朔也の言葉の意味が分かるらしい。「竹生さま・・」朔也の声には何かをねだる響きがあった。竹生は朔也の顎に手をかけ、上を向かせた。「迎えにいくか」「はい・・」朔也はうれしそうに微笑んだ。そして再び竹生の膝にもたれかかると朱雀の方を見た。朔也は片手を朱雀に差し延べた。「貴方も一緒に・・」「私も?どういう事なのだ、朔也」朱雀は戸惑った。朔也は朱雀に微笑みかけながら言った。「暖かい・・それは貴方も呼んでいる。みんな・・ここに」朔也は竹生を見上げた。「竹生さまが・・守って下さる」朔也は再び朱雀を見た。「貴方も・・守ってくれる。私たちを・・一緒に」「私が誰を守ると言うのだ、朔也」朔也の無垢の瞳が真っ直ぐに朱雀を見据えた。朔也ははっきりと言った。「”家族”を」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/25
朱雀は他社とのプロジェクトの打ち合わせの席にいた。和樹も専務として同席していた。百合枝は依然として危険な状態からは脱しきっていない。朱雀はそれを考えない様にと自分に強いていた。「社長、顔色が悪いですな。どうかされましたか」相手先の重役が気遣わしげに朱雀に言った。朱雀は取り繕うように微笑んでみせた。「いや、そんな事は・・」和樹がたまりかねて口を挟んだ。「実は、家族が入院しておりまして」朱雀は小声で叱責した。「余計な事は言うな」重役は同情した顔をした。「それは大変な事で・・」「後は僕が引き継ぐから、お父さんは病院へ行ってよ」和樹は相手側に頭を下げた。「そういう訳ですので、申し訳ありませんが」「いやいや、専務でしたら、こちらは異存はございません」(早く行ってあげなよ)和樹は目顔で朱雀に言った。朦朧とした意識の中で、百合枝は自分の身の上に起きた事を段々と理解し始めていた。(この子と一緒に死んだ方が・・この子を抱いてやれもしない・・なのに、私はまだ生きているの?・・こんな身体になって・・)「・・死なせて、ねえ、死なせて下さい・・」うわごとが言葉になって口から零れ落ちた。百合枝の頬に温かい手が触れた。深く豊かな声が聞こえた。「何を言うのだ、キミは死んではいけない」それは百合枝が一番欲しい手のぬくもりだった。一番聞きたい声だった。「キミが不自由しないように、いくらでも介護をつけてやる。こうなったのも私の責任だ。一生キミの面倒をみる」百合枝の胸に痛みが広がっていった。罪悪感、義務感・・これは夢を夢のままにしておけなかった私の罪。愛されたいと思ってしまった私の・・「いえ・・生きていたくない・・」「それでは不服なのかね?」「いいえ」「だったら何故だ」「私には・・生きる理由も価値もない・・」「馬鹿を言うな、価値のない人間などいるものか」「います・・それは今の私よ」百合枝は叫んだ。「貴方が私を守る理由はなくなった・・私は力を失った!!」朱雀は黙っていた。百合枝の聞きたい言葉はたったひとつだと痛いほど分かっていた。「何も見えず、傷を癒す手もないの!もう私には何も・・だから死なせて!!」医師が走り込んで来た。「これ以上、患者を興奮させないで下さい!」百合枝のむせび泣く声を背中で聞きながら、朱雀は部屋を出て行った。隣室のモニターの前に鍬見が待機していた。モニターを見ながら傍らにやって来た朱雀に言った。「このままでは、母子共に危険です」朱雀はつぶやいた。「彼女は死を望んでいる・・仕方あるまい」鍬見はモニターから目を離し、目を丸くして朱雀を見詰めた。「本気でおっしゃっておられるのですか」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/24
百合枝の両目はつぶされていた。両腕は肩口から切り取られ、背骨が折られ両脚の機能も失われていた。朱雀は狭い廊下に面した大きなガラスの嵌った窓の前に立っていた。窓の向こうには百合枝が横たわっている部屋があった。百合枝の姿は何重もの覆いで隠され、多くの機械と無数の管がその身体に繋がれていた。全身を薄緑の術衣で覆った医師と看護師が数人忙しげにしている。ここは病院でも特殊な一角で部外者は立ち入り禁止である。朱雀の顔が蒼褪めているのは、全身の昼間の激痛の為だけではなかった。進士も珍しく朱雀と共にいた。朱雀の様子が気がかりであったのだ。柚木はマンションに待機していた。朱雀の配下の盾の中でも柚木と気安い須永とその部下が柚木に付いていた。かつて須永は柚木の義父忍野の部下であり、幼少の頃から柚木もなついていた。白衣を着た鍬見が堅い顔をして朱雀の傍らにやって来た。鍬見は黙って頭を下げた。「どうなのだ」朱雀が鍬見に聞いた。鍬見は”盾”だがこの病院の医師でもあった。「お命は取り留めました」鍬見は自身の動揺を抑える為に、淡々と話そうとしていた。「視力は失われ、歩行もおそらく一生無理かと」朱雀は黙って聞いていた。「意識が回復されるまでどの位かかるか、まだ正確には分かりかねます。それと・・」鍬見は言いにくそうに口ごもった。「どうした」朱雀はガラスの向こうを見詰めながら聞いた。鍬見はちらりと進士を見た。進士は悟った。(あの事か)進士は鍬見を促す様に頷いた。鍬見は思い切って言った。「百合枝様は、妊娠していらっしゃいます」朱雀が鍬見を睨みつけた。”盾”であり豪気なはずの鍬見も思わず怯む程の形相だった。「誰の子だ」進士は厳しい顔で言った。「朱雀様以外の、誰の子だと言うのですか」「まさか」進士は口止めされていたとはいえ、黙っていた事に責任を感じていた。「出て行かれたのも、おそらくその為かと。百合枝様は朱雀様の立場をお考えになり、身を引くおつもりだったのでしょう」「馬鹿な!」朱雀は再びガラスの向こうを見詰めた。(百合枝・・キミは・・)百合枝の夢の中に鞍人が何度も出て来た。(あの男は冷酷な男ですよ・・)鞍人は言うのだ、にやにやと笑いながら。(私の妹はあの男の恋人でした・・自分の主人の恋人だった妹をあの男が奪ったのです・・そして邪魔になったら、容赦なく斬り殺した・・貴方も同じ目に合いますよ・・今は貴方の能力が惜しいから、親切にしているだけ・・もし貴方が力を失ったら、貴方はお払い箱・・)百合枝は夢の中で呼びかけた。(ねえ、そうなの?・・そうなの?朱雀・・)(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/23
「三峰様、お休みの所を申し訳御座いません」白神(しらかみ)が頭を下げた。「いや、良いのだ」三峰の顔は昼間の激痛に蒼褪めてはいたが、その表情は穏やかであった。居並ぶ一同は、三峰の白き姿を見てその声を聞くと、清涼な風が胸を吹き過ぎた様な心地良さを覚えた。異様な緊張からたちまち解き放たれ、”盾”達は落ち着きを取り戻した。三峰が”人ではない”身になっても、その人望は損なわれる事はなく、特に苛酷な任務が多い”外”の盾達にとっては精神的支柱となっていたのである。古本屋のビルの”盾”の詰所である。表向きは朱雀の会社関連の事務所となっている。事務机と電話と幾らかの機器と戸棚があるだけのありふれた部屋である。三峰は中央の席に着いた。「状況を説明せよ」白神がその前に立ち、百合枝の失踪、鞍人の出現、千条の重傷、朱雀のマンションの警備システムの破壊、殺害された盾の事、このビルには異常がない事等を簡潔に述べ伝えた。三峰が尋ねた。「幸彦様と真彦様には?」「まだ何もお知らせしておりません」「良い判断だ。真彦様のお身体には不安はご負担になる。お前達もなるべく普段と変らぬ態度でいる様に心掛けよ。幸彦様には私からお伝えする」「はい」白神は頷いた。「朱雀には?」「磐境の方から連絡済みです。急ぎ出張先からお戻りになる最中だそうです」(朱雀の遠出の時を狙ったのか)三峰は赤い髪のタキシード姿の男の顔を苦々しく思い浮かべた。夕暮れから降り出した雨は、夜半からどしゃぶりとなった。その後も百合枝捜索の指揮と警備体制の再検討もあり、三峰は朝になり再び痛みがやって来ても、なかなか寝所へ行く事が出来なかった。ようやっと目処がついた時には、古本屋の開店の時刻となっていた。雨はまだ激しく降り続いていた。地下の寝所で眠りに入ろうとしていた三峰は異様な気配を感じた。(これは・・かなり強い)痛みに耐え、三峰は表に飛び出した。古本屋の店の前には敵の姿はすでになく、異様な気配は消えていた。店の前にずぶぬれの塊のようなものが転がっていた。幸彦と真彦は何も気がついておらず、仲良く開店の準備をしていた。一緒に店の中から入り口のシャッターを開け、真彦が雨の中に立っている三峰を見つけて声をかけた。「どうしたの?」そして三峰が素早く抱き上げた塊のようなものを見て、真彦は悲鳴をあげた。それは変わり果てた姿となった百合枝であった。「見るな!」幸彦は真彦を抱きしめ、自分の胸に真彦の顔を押し付けた。三峰は腕の中の百合枝に微かな生命を感じた。「まだ、生きておられます」三峰の”人でない”感覚は確かだった。三峰はただちに奥へ走りこんだ。廊下に居た当番の盾に”盾”の息のかかった病院に連絡する様に指示した。「僕らの部屋へ運んでくれ、あそこなら温かい」後を追って来た幸彦が言った。蒼白な顔の真彦の手をしっかりと握っている。「はい」三人は階段を二階へと上がった。がらんとした広い灰色の部屋で、建角(たけつぬ)は鞍人に怒りをぶつけていた。「何であの女を返した!俺が喰いたかったのに!」鞍人は上着の襟をいじっていた。新しいレースを縫いつけてみたのだ。「あっさり殺してしまうより、命だけは助けて返した方が面白い事に気がつきましてね」鞍人はにやりと笑った。「どっちにしても、あの女は力を失った。役立たずになった女を彼はどうしますかね」不機嫌なまま建角は吼えた。「俺なら、喰ってやる!」鞍人は眉を上げた。「優雅という言葉を知らない奴ですね、お前は」鞍人が片手を振った。建角は身を翻した。建角の後方の壁に衝撃で亀裂が走った。「言っただろう、俺は馬鹿じゃな・・」言い終わる前に、建角は背中から大きな力に押され、額から反対側の壁に激突した。鞍人の放った力はUターンして来たのである。「馬鹿以前ですね」鞍人は吐き捨てる様に言うと、鼻歌を歌いながら何処かへ歩いて行った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/22
場末の酒場に、黒衣の天使が舞い降りた。店にいた者達は全員茫然とした面持ちで、純白の長髪をなびかせて歩く美影を見詰めていた。天使は店のカウンターで泥酔してうつ伏している男に近づいた。その男もこの店にはふさわしくない品の良い身なりと贅沢な雰囲気を身につけていた。カウンターの花瓶の赤い薔薇を白く繊細な手が掴んだ。「安酒に安い娼婦、これほどお前に似合わぬものはないな」真珠が口から零れ落ちたような声が言った。男は顔を上げた。朱雀であった。「竹生様・・」「お前が苦しむほど、奴は喜ぶ。無駄に悩むのはやめよ」竹生は朱雀の肩を抱き、顔を覗き込んだ。青く輝く魔性の瞳に朱雀の姿が映りこんだ。「お前が望むままに愛すれば良い、守れば良い。他はどうでも良いではないか」「しかし、私はかつて愛する者を手にかけた。そして”人ではない”のです」竹生の瞳が更に青く輝いた。「それがどうしたというのだ?百合枝はお前を愛している」「本当の私を知ったら・・」竹生は微笑した。天上の微笑だった。「なんと、又そんな臆病な言葉をお前から聞くとはな」竹生の片手が朱雀の頭の後ろに回った。竹生は朱雀を引き寄せた。手にした薔薇も色褪せるほどの美貌が朱雀の目の前にあった。薄赤く柔らかい唇が朱雀の唇に重なった。朱雀は逆らわなかった。さらさらと長く白い髪が揺れて流れ、二人の横顔を隠した。「悩むのは、百合枝の答えを聞いてからにせよ」濡れた唇が言った。物憂い夜の響きを含んだ声で。出掛けの進士の助言も、朱雀の事を思えばこそと解っていた。朱雀は明日マンションに戻ったら、百合枝に愛を告げようと思った。そして自分に関するすべての事も。その時の百合枝の態度次第で今後の事を決めようと思った。たとえ百合枝が自分を嫌っても、百合枝の身の安全と生活については、一生面倒を見ていくつもりだった。自分が百合枝の前から姿を消しても、百合枝を守る方法は幾らでもあるだろう。朱雀は言った。「竹生様、今夜は私の奢りです。飲みましょう」竹生はカウンターの中に手を伸ばし、一本の琥珀色の瓶を掴みだした。店の者は誰も止めなかった。ただうっとりとした面持ちでそれを眺めていた。竹生はちらりと流し目でバーテンダーを見た。「氷を・・くれないか」若いバーテンダーは竹生と目を合わせた途端、体中の力が抜け、へなへなとカウンターの床に座り込んでしまった。「やれやれ」竹生はひらりと身軽にカウンターの中に飛び込むと、そこにあった二つのグラスに氷を入れ、琥珀色の酒を満たし、一つを朱雀の前に置いた。「最初の一杯は、私持ちで良いぞ」竹生はグラスを目の高さに持ち上げた。朱雀も同じ様にした。軽くグラスを触れ合わせ、二人は一気にグラスを空にした。竹生は軽くグラスを振った。カラカラと氷が硝子細工の鈴の様に透明な音を立てた。「ここから先は、遠慮なく馳走になるぞ」ようやく立ち上がったバーテンダーに、朱雀を指差しながら竹生は言った。「後の勘定は、あの男に付けておいてくれ」そしてバーテンダーの胸ポケットに紙幣を差し入れ、にっこりと微笑みかけた。バーテンダーは再び床に尻餅を付き、今度は目を回して動かなくなってしまった。竹生はいつもの無表情を取り戻し、つぶやいた。「どうやら、今夜はセルフサービスの様だな」竹生は酒瓶を取り上げると、自分と朱雀のグラスに注いだ。磐境から朱雀に緊急の連絡が入ったのは、それから半日も経たない雨の降り始めた午後であった。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/20
二人のいた場所に、何かが激しく当る音がした。アスファルトに無数の穴が穿たれ黒煙が上がっていた。二人は地面に転がったが、百合枝は千条の身体に守られ無傷だった。「おやおや、姫君にはナイトがいた様ですね」面白がっているような声がした。千条は素早く起き上がり、百合枝を助け起こした。百合枝は千条にしがみついたまま、恐々と声の方を眺めた。少し離れた場所に、赤い髪のタキシード姿の男が立っていた。男は穴だらけになった百合枝の帽子を手にしていた。百合枝の目には、男の全身から青い炎が陽炎の様に燃え立つのが見えた。(異人・・)百合枝はその男に見覚えがあった。千条が叫んだ。「鞍人(くらうど)!」赤い髪の男は、ますます面白そうな顔をした。「私を知っているとは。成程、お前は”盾”ですね」千条は鞍人から目を離さぬまま、百合枝にささやいた。「マンションまで走って下さい、止まらないで」百合枝の前に立ち、千条はかばうように両手を広げた。「今は勤務時間外だが、異人は見逃せないな」鞍人は楽しそうに笑った。「あの男の部下ですか?口だけは達者な様ですね」千条の大きく振った手から鋭い風の刃が飛んだ。鞍人は宙に飛び上がり、攻撃を避けた。「走って下さい!!」千条は叫びながら鞍人に向かい自身も走った。百合枝は駆け出した。鞍人も百合枝の方へ行こうとしたが、その腕を千条が掴んだ。千条は自分が鞍人に勝てるとは思っていなかった。(せめて、百合枝様が逃げる時間を・・)異人の気配を感じた時に、ベルトに仕込まれた緊急コールを作動させた。警備部の者達が直ちにやって来るはずだった。「それなりに出来る奴ですね」鞍人は笑った。口が耳まで裂けた。「私にとっては、雑魚ですがね」警備部の鹿沼達が駆けつけた時、アスファルトに広がる血の海の真ん中に千条がうつ伏せに倒れていた。鹿沼が助け起こすと千条はかろうじて息があった。「おい、何があった」千条はうっすらと目を開けた。唇が動いた。「百合枝・・さま・・が、鞍人・・に・・」それだけ言うと千条は意識を失った。百合枝のスーツケースが路上で発見された。百合枝はどこにも見当たらなかった。何故百合枝が一人で出たのか、何故千条がここにいたのか、鹿沼達には分からなかった。分かっているのは、百合枝を守る為に千条は鞍人と戦って重傷を負い、そして百合枝は連れ去られたという事だけであった。救急車の手配と場所の後始末を指示すると、鹿沼は進士に連絡を入れた。(何かがあったのだ、おそらく社長と百合枝様の間に)鹿沼もそう思った。夜半から激しく雨が降り始めた。百合枝の行方は知れなかった。朱雀のマンションの駐車場で、警備の当番だった三名の盾の遺体が見つかった。監視システムの一部が破壊されていた。百合枝がマンションを出た事に誰も気付けなかった理由が判った。警備部の部長の磐境(いわさか)は事態を重く見て、ただちにシステムの復旧と警備の強化を命じた。「今までの異人とは、やり方が違う」磐境は白神(しらかみ)にも連絡を入れ、古本屋のビルのシステムも点検させた。幸いそちらには異常は見つからなかった。鹿沼は千条の運ばれた病院にいた。”盾”の息がかかった病院だった。「機械を信用し過ぎたな」報告を受けた鹿沼は呻いた。目と耳は監視の基本であるはずだった。いつの間にか慣れが生じていた。誰もが異常なしと思っていた。そして百合枝の側にいたのは非番の千条だけだった。千条が百合枝に想いを寄せていたのを鹿沼は知っていた。(愛する者の勘という奴か?)一命は取り留めたものの、全身に包帯を巻かれ昏睡状態の千条を見下ろしながら、鹿沼はこの男らしからぬ事を思った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/19
千条は非番だった。どこかへ行こうと宿舎から出たものの、自然と足が朱雀のマンションの方へ向いた。千条は自分に苦笑した。百合枝を一目でも見たいと思っている自分に。黒いボートネックのシャツに柔らかいデニムの上着を羽織っただけの服装だが、長身で姿勢の良い千条は、どことなく優雅に見えた。生来気品のある男である。真っ直ぐな黒い長髪を今日は束ねずに流している。目の前に一人で歩いていく百合枝の姿を見つけた時、千条の胸は痛いほどに高鳴った。それと同時に、彼の訓練された感覚が奇妙だと感じた。今日の当番のはずの盾の姿が近所に見当たらない。密かに尾行していたとしても千条には判る。千条は足早に百合枝に近寄った。「百合枝様」声を掛けると百合枝は振り向いた。驚いた顔はすぐに笑顔に変わった。百合枝はブルーグレイのツーピースにつばの広い帽子をかぶっていた。手には水色のスーツケースを下げていた。「どちらかにご旅行ですか」百合枝は曖昧に頷いた。百合枝は背の高い千条を見上げた。「今日はスーツではないのね」「非番ですから」千条は百合枝のスーツケースに手をかけた。「お持ちしましょう」「今日はお休みなのでしょう?」「仕事であろうとなかろうと、女性に重い物を持たせておくわけにはいきません」百合枝は笑って荷物を千条に渡した。駅の方へ二人は並んで歩き出した。昼下がりの住宅街は静かで人通りはなく、天気の良い空の下を、百合枝と二人きりで肩を並べて歩くのが、千条はうれしかった。しかし誰も護衛に付いていないのはあまりにも妙だった。千条はさりげなく聞いた。「お一人でお出かけですか」百合枝は再び曖昧に頷いた。「お荷物が大変でしょう。車でお送り致します。すぐにご用意出来ますから」「いいのよ、千条・・いえ、千条さん」千条さん・・千条は足を止めた。百合枝も止まった。「何故、その様に私をお呼びになるのですか」百合枝は哀しい目をしていた。千条は胸をかき乱される思いがした。百合枝の唇が少し震えた。「朱雀の所から出て来たから。貴方にはもう私を守る義務はないのよ」「馬鹿な事を!危険です!」千条は思わず叫んだ。『奴等』の手先、異人達はここ数日頻繁に現れていた。千条は昨夜もこの近辺で異人と戦ったばかりであった。「どうか、お戻り下さい」百合枝は首を横に振った。(社長と何か揉め事でもあったのだろうか)その件に関しては、千条の立場では触れる訳にはいかなかった。千条はふと思いついて言った。「お屋敷に行かれますか?あそこなら安全です」百合枝は俯いた。「あそこは竹生様の家だわ。もう私の家じゃない」「竹生様なら、百合枝様を守って下さいます」百合枝は黙って千条を見た。(何と寂しいお顔をされておられるのだ・・)何も言えなくなり、千条も百合枝を見詰めた。百合枝はつぶやくように言った。「守られる価値なんて、私にはないのよ。みんなの迷惑になるだけ」「何をおっしゃいます!」千条はたまらなくなった。「価値ならあります!少なくとも私にとっては。お役目でも義務でもなく・・」千条はひりつくような悪寒を感じた。(これは・・まずい)千条はスーツケースを置くと、百合枝を抱き締めた。「千条さん?」百合枝は千条の腕の中で驚きの声をあげた。「私は、私自身として貴方を守りたい。だから・・!!」千条は百合枝を抱いて大きく跳んだ。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/18
百合枝はキッチンへ入った。進士がいた。進士は百合枝の取り乱した様子を見たが、余計な事は言わず、百合枝にいつもの食卓の椅子を薦めた。百合枝は素直に腰を下ろした。「お茶はいかがですか」進士は言った。「ええ」熱い紅茶にはブランデーの良い香りがした。百合枝の心が少しだけ解れた。「進士さんも、これがお役目なの?」進士は百合枝の正面に腰を下ろした。「朱雀様に、何かお聞きになられたのですね」「私は狙われていると。貴方も私を守っていて下さったのね」進士は首を軽く左右に振った。「いえ、私などは。朱雀様に比べれば」「私は勘違いしていたわ。朱雀・・あの人の好意を。みんな、お役目だったのに」進士は朱雀が百合枝を愛している事を知っていた。だからこそ本当の自分を知られたくないと思っている事も。「皆に、迷惑をかけていただけの様ね」進士は穏やかな口調で言った。「迷惑などではございません」百合枝はうつむき、テーブルの下で両手を握り締めた。「私はここを出ます。あの人が戦わずにすむように」突然、口元を押さえて百合枝が立ち上がった。そして小走りに洗面所の方へ向かった。(百合枝様?)進士も立ち上がり、急いで百合枝の後を追った。百合枝は洗面台にかがみ込んでいた。ザーザーと水が流れる音がしていた。やって来た進士が百合枝の背中に声を掛けた。「いかがなされましたか」百合枝は苦しげに咳き込み、答えなかった。進士はタオルを取ると百合枝に手渡した。その時、進士は気がついた。「百合枝様、もしや・・」タオルで口元を覆ったまま百合枝が顔をあげた。怯えた目で進士を見た。「言わないで、朱雀には絶対に。お願い・・」「しかし」進士は立場上、朱雀には隠し事はしたくはなかった。「朱雀には、社会的な立場もあるでしょう?ますます迷惑をかけてしまう」進士は朱雀が何があっても百合枝を見捨てないのは分かっていた。「朱雀様は必ず責任をお取りになる方です」「だから・・だから言っては駄目。しばらくの間でいいの、自分で話したいの」進士は頷いた。二人の問題なのだ。「分かりました」朱雀が戦わずにすむように・・かつての朱雀の恋人・舞矢(まいや)もそう言って異人の許へ自ら赴いた。それが多くの悲劇の始まりだった。進士は繰り返してはならないと思った。「朱雀様は百合枝様にお役目以上の感情をお持ちです」百合枝は涙でうるんだ目で進士を見た。「進士さん」百合枝もそう思いたかった。百合枝は弱々しく微笑んだ。会社へ向う朱雀を進士は玄関へ見送りに出た。朱雀の事実上の出社は夜なのだ。「進士」「はい」「少し遠出になる。明後日には戻る」「承知致しました」朱雀は少し言いよどみ、そして言った。「百合枝は、ここを出て行くそうだ」「伺いました」「どうやら、私は嫌われていたようだ」朱雀は苦い笑いを浮かべた。「朱雀様」「何だね」進士は百合枝との約束を思い出した。婉曲に進士は言葉を選びながら言った。「百合枝様は悲しんでおられます。朱雀様にこれ以上戦わせないようにと、ここをお出になるおつもりです」「何だと?」「舞矢様の時と同じ事を繰り返してはなりません」朱雀は押し黙り、しばらく進士の顔を見ていた。やがて朱雀は小声で言った。「自分がバケモノだと、彼女に言えと?」「どう思われるかは百合枝様のお心次第です。ですが、それも勇気です」「勇気・・」「今度こそ守り抜かねばなりません。たとえ貴方ご自身が傷ついたとしても」朱雀は進士に背を向けた。「戻ったら、話してみよう」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/17
「ここを出て行く?」朱雀は不機嫌な顔をした。書斎の窓から、柔らかな夕陽が射し込んでいた。朱雀は起きたばかりであったが、もちろんそれを百合枝は知らない。いつも通りに一旦帰宅して、夜の服に着替えて出かける直前だと思っていた。朱雀は机の上で書きかけていた書類をブリーフケースに手荒にしまい、モンブランの万年筆のキャップを閉め、黒いビロードを張り詰めたペンケースに置いた。「学校の時のお友達が、事務員で私を雇ってくれるそうです」百合枝は話を続けた。「どこかに小さな部屋を借りようと思います。お給料と遺産の配当を合わせれば、私一人なら生きていけます」朱雀の会社の弁護士である新明(しんめい)の尽力で回収された御影氏の遺産は、正当に分配される様になっていた。苛立たしげに朱雀が言った。「キミは私のそばから離れたいのだね?」その逆だった。百合枝は朱雀の側に居たかった。だがこの様な中途半端な形で、朱雀の世話になるのが嫌だったのだ。朱雀は立ち上がると、荒々しく百合枝を壁に押し付けた。こんな乱暴をされた事は初めてだった。百合枝は怯えた。「私はキミに不自由な思いをさせていたかね?足りないものがあったかね?」「いいえ、そうでは・・」百合枝は朱雀の目が怖かった。「ここにいるのが、そんなに嫌なのかね?」百合枝は必死で口を開いた。「柚木君が私の授業を受けてくれなくて・・何もせずに、貴方のお世話になるのが申し訳なくて・・」和樹が訪ねて来た日以来、柚木の態度がおかしい事は、朱雀も気がついていた。しかし今は柚木の豹変の原因を追求するよりも、百合枝をここに留める事の方が最優先だと朱雀は思った。「何を言う、むしろここから出て行かれる方が、我らには負担になるのだ」「え?」百合枝は朱雀の言葉が解らなかった。(負担・・?)朱雀は百合枝を壁に押し付けたまま、顔を覗き込んだ。「キミを守る、それが我らの”お役目”だ」お役目・・朱雀の言葉が百合枝の心に突き刺さった。百合枝の顔が強張った。硬い声で百合枝は言った。「『奴等』との戦いの為に?」「そうだ、キミは我らにとって貴重な力を持つ人だ」(そして、キミは私にとって大切な人だ)心の中のつぶやきを、朱雀は口にする事が出来なかった。起きたばかりの乾いた喉が愛しい百合枝の血を欲していた。それが彼に自分が”人でない”事を教えていたからである。朱雀は必死で耐えていた。己の忌まわしい衝動に。百合枝は落胆した。淡い期待は壊れてしまった。朱雀の心は自分にはなかったのだ。この癒しの力ゆえに自分は大切にされたのだと、百合枝は一人合点してしまった。(思い上がっていたのだわ・・私は)涙があふれた。今度は朱雀が驚いた。朱雀の目の色が和らいだ。「ここにいれば安全なのだ。恐ろしい事は何もない。我等がキミを守る」肩に置かれた朱雀の手に優しさがこもった。「驚かせてすまなかった」百合枝はその手を払った。「私、ここを出ます」朱雀は傷ついた顔をした。「何故だ」百合枝は朱雀の方を見なかった。悲しくて見られなかった。「貴方のそばにはいられません」「私を頼りにしてくれていると思っていたよ」「ええ、だから、もうここには・・いられない・・」百合枝は出て行った。朱雀は追わなかった。「百合枝さん?」丁度帰宅した柚木は、泣きながら走って行く百合枝を見た。(何があったのだろう)百合枝を避けていた柚木だが、さすがに気になった。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/16
建角(たけつぬ)のアジトは朱雀達の襲撃で壊滅したが、鞍人(くらうど)は気にしていなかった。”壁”の向こう側の自分達の領域に逃げ帰った建角は、鞍人の機嫌を取る様に上目使いで見ながら言った。「もっとお前に怒られると思ったよ」鞍人はわざと優しい顔をして建角に言った。「どうせ、時間つぶしですからね。あの方達が遠い今は、あまり強いしもべは作れないし」異人は自分達を異人とは呼ばない。「あの方達のしもべ」と言う場合が多い。「まあ、そうだが」仲間となった人間も、直接に”あの方”達の洗礼を受けねば脆い存在でしかないのだ。”盾”達の目が建角に向いている間に、鞍人は自分の計画を着々と進行させていた。建角は鞍人の都合の良い様に動かされているのである。だが建角はそれに気がついていない。「次は何をしようかな、まだ喰い足りないんだよ」建角は黒い顔に間抜けな笑いを浮かべた。その顔を見ながら鞍人は胸の内でつぶやいた。(喰われているのは、お前の方ですよ)元々の建角は上品で礼儀正しい青年だった。それが心を奪われていくうちに、粗野になり呆けて来たのである。鞍人も何時かは自分もそうなると知っていた。そして遂には自我のない悪鬼なってしまう事も。(その時が来るまで、せいぜい楽しませてもらいますよ)鞍人はタキシードの白い襟飾りを気取った手付きで整えた。紺色のチュニックにデニムのサブリナパンツ、髪を白いヘアバンドでまとめ、百合枝は自分の居間で掃除機を操っていた。開け放した窓から、朝の気配がまだ残る心地良い風が吹き込んでいた。「珍しい姿を見てしまったな」良く通る声が背後からした。百合枝は掃除機を止めて振り返った。朱雀が立っていた。百合枝は朱雀の住居と繋がる扉に鍵をかける事をしなくなっていた。進士や柚木は一応ノックをするが、朱雀は不意に入って来る事もある。百合枝はそれを咎めなかったし、二人の間柄が近くなった様で、むしろうれしく思っていた。「どうなさったの?こんな時間に」普段なら朱雀は出社して不在の時間である。少なくとも百合枝はそう思っていた。朱雀はスーツ姿ではなかった。素肌に白いシャツを羽織り、生成りの木綿の柔らかいズボンを履いていた。「昨日、飲みすぎてね。午前中は休む事にしたのだよ」本当は『奴等』との戦いが長引き、少し前に帰宅したばかりであった。「和樹さんに叱られるわよ」百合枝は茶化す様に言ってから、朱雀の顔色が蒼褪めているのを見て心配そうに言った。「お顔の色が悪いわ」「少し、頭痛がするのだ」昼間の痛みが朱雀の全身を蝕んでいた。朱雀は痛みを堪えながら笑ってみせた。「キミの顔を見たら、少しは楽になるかと思ってね」百合枝は自分の頬に手を当てた。「私、お化粧もしていないのよ」朱雀は百合枝に微笑みかけた。「充分に魅力的だ。新鮮で、実にいい」朱雀は百合枝の手首を掴み、引き寄せた。束ねていた百合枝の髪が解け、風に揺れた。先日、和樹が朱雀を訪ねて来た時、柚木も交え三人で百合枝の事を話すうちに、和樹が「お母さんが恋しくなったんじゃないか」と柚木をからかった。柚木はさっと蒼褪めた。百合枝を慕う気持ちのどこかに和樹の言った事があったからである。義理の父親とはいえ、忍野は柚木にとって「大好きなお父さん」だった。たとえどんな事情があろうとも、結果的に父を追い詰め死なせてしまった母の麻里子を、柚木はまだ許す気にはなれなかった。それから柚木は、百合枝の作る物を一切口にしなくなり、百合枝を避ける様になった。百合枝は悪くないのだ。意地を張っているのは自分だと柚木は解っていた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/15
百合枝は卵焼きを作っていた。進士は今夜の夕食の用意を百合枝にまかせる事にしたのだ。百合枝の不安な気持ちを紛らわせようという思いもあった。柚木もキッチンの椅子のひとつに、背もたれを前に馬にでもまたがる様に座り、何かと口を挟んでいた。「僕は砂糖が多目がいいな」「あまり甘くても、卵の味が分からなくなるわよ」白い胸当てのあるエプロンを着けた百合枝は、楽しげに相手になっている。進士はやんわりと柚木の行儀に小言を言いながら、炊飯器やグリルの魚の焼き具合に気を配っていた。こんなに賑やかなキッチンは珍しかった。朱雀がやって来て、皿の上の卵焼きをひょいと一切れつまみ食いした。「うむ、美味いな」「あ、おじさんずるいよ。僕も!」柚木も急いで手を伸ばし、一切れを口に押し込んだ。朱雀と柚木は互いを牽制しあいながら、競争の様に皿の上の卵焼きに手を伸ばした。「ダメよ、二人とも」百合枝が片手で皿を隠す真似をした。朱雀は笑ってキッチンを出て行った。朱雀の顔からは、昨夜の苦悩の影は跡形もなく拭い去られていた。進士は少し安堵した。進士は料理には自信があったが、しかし思う所があった。(どんな山海の珍味も、女性が愛をもって作る料理にはかないませんな)食事の習慣をなくしたはずの朱雀ですら、あの様に手を出すのであるから。百合枝は試験勉強があるという柚木の為に、夜食用のお握りも作る事にした。梅干は苦手だと柚木が言うので、鮭とおかかのお握りを作った。「お握りは女性が作る方が良いですな。男ですとどうしても力が入りすぎて、硬くなってしまう様で」茶碗に取ったご飯を素早く濡らした手に移し、百合枝は握りながら首を傾げた。「そうなのかしらね」百合枝は進士に握ったばかりのお握りを差し出した。「お味見をよろしく、先生」進士はおもむろに一口頬張り、頷いた。「これは冷めてもおいしいでしょうな」「よかった」百合枝は微笑んだ。「僕も、僕も」柚木が羨ましそうに叫んだ。朱雀は書斎にいた。キッチンからは夕餉の膳を囲む三人の陽気な話し声が聴こえて来た。柚木の子供らしい声を聴くのは久しぶりだった。普段は伯父である朱雀にも礼儀正しい態度を崩さない子である。進士ですら今夜は口数が多い。今は穏やかな心持ちで、朱雀はその話し声を聴いていた。そして胃の腑の落ち着かなさに少し後悔していた。”人でない者”の身体は固形物を受け付けないのだ。(つまみ食いのバチがあたったかな)朱雀は一人苦笑した。朱雀はふと嫌な気配を感じた。マンションのすぐ側であった。それは瞬時に消えたが、かなりの強さだった。(念の為、警備を強化させておくか)朱雀は卓上の電話を取ると、警備部の番号を押した。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/11
夕食の後、スコーンの焼き方について百合枝と進士は話がはずんだ。百合枝が立ち上がったのは、いつもよりも遅い時間になっていた。百合枝が自室へ戻る為に居間を通り抜けようとした時、朱雀が向こうから入って来た。朱雀は蒼褪めた顔をしてちらりと百合枝を見ただけで、何も言わずに自分の寝室の方へ行ってしまった。こんな事は初めてだった。しばらく朱雀と二人になる時間を持っていなかった事も百合枝を更に不安にした。洒脱で陽気に見える朱雀だが、身近にいる様になり、百合枝は朱雀の中に厳然としたストイックな部分があるのを知った。むしろそちらの方が本当の朱雀ではないかと、百合は思う様になっていた。そして最近の朱雀は疲労を滲ませている時が多い。(きっと仕事が忙しいのだわ)百合枝を襲った『奴等』の件も関係あるのではないかと、百合枝は薄々感じていた。時折、朱雀が夜更けに百合枝の寝室を訪れる事がある。礼儀を失さない様に抑えてはいるのだろうが、いつもよりもせわしない口調と妙に光る目に昂ぶりがある。それは最初に唇を重ねた、鞍人と呼ばれた異人との戦いの後の朱雀を思わせた。そして朱雀は百合枝を性急に求め、何かに追われる様に慌しく去って行くのだ。次の日、顔を合わせた時には、昨夜の荒々しさを忘れたかの様に、魅力的な笑顔と甘いささやきで百合枝を丁重に扱ってくれる。そんな朱雀の二つの顔の間の距離がどんどんと広がって行くような不安を百合枝は感じてもいた。それでも百合枝は朱雀を愛していた。その気持ちは日を追う毎に強くなっていった。それと同時に百合枝の不安も色濃くなっていった。(朱雀は、私をどう思っているのだろう)百合枝への賞賛を口にする事はあっても、朱雀は百合枝への気持ちを言葉にすることはなかった。自分への愛があるかどうか、朱雀に問うだけの勇気も百合枝にはなかった。次の朝、柚木が朝食を済ませ学校へ出かけ、進士と二人になると、百合枝は昨夜の朱雀の様子が不可解だった事を口にした。進士は一瞬目を伏せ、顔を上げると控え目に言った。「朱雀様は大変良く気がつく方で、周囲への心配りも細やかでいらっしゃいます。ですが、ご自身の事に関しては、どうも疎い所がおありで」百合枝は良く解らなかったが、進士は朱雀の状態を承知しているらしい。進士が心得ているなら大丈夫だろうと百合枝は思った。「かなり疲れている様だったけれど」「はい、この所ずっとお忙しくていらっしゃいます」進士はあたりさわりのない答えをしながら、百合枝の様子を見ていた。百合枝は朱雀の事を純粋に心配している。それが進士にも伝わって来た。「無理はしないでと、伝えて下さるかしら」「必ず、お伝え致します」進士は頭を下げた。百合枝が自室に引き上げると、進士は朱雀の寝室へ向かった。進士はそっと扉をノックしてから中へ入った。ブラインドとカーテンを締め切った暗い室内に朱雀は横たわっていた。「お加減はいかがでございますか、朱雀様」寝返りで寝台が軋む音と苦しげな吐息が聞こえた。「進士・・時々私は忘れてしまう様だ。自分が化け物だと言う事を」「私には朱雀様はいつでも朱雀様でございます」「お前以外にとっては、そうではないだろうな」進士はそれには答えなかった。「和樹様が今夜お越しになるとの事ですが、お断りいたしましょうか」「いや、大丈夫だ」「それと、百合枝様が朱雀様のお身体を心配されて、無理はなさらぬ様にと」朱雀の人でない鋭敏な感覚が、百合枝の気配を感じ取った。今は自室にいる。百合枝の気配を感じただけで、朱雀は安らぐ己を感じた。進士は頭を下げ出て行こうとした。「進士」朱雀が呼び止めた。枕から首だけを起こし、朱雀は言った。「心配をかけて、すまなかった」「いえ」進士は朱雀を暖かい目で見た。「和樹様のお好きなスコッチをご用意しておきます」「ああ、頼む」進士はもう一度頭を下げ、出て行った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/07/10
絨毯の上にはらばいになり、朔也は暖炉の火を見詰めていた。竹生が横にいる。「炎を見ていると何かを思い出せそうなのに、思い出すのが怖い気もするのです」竹生は白樺の枝をパキリと折ると暖炉に投げ入れた。「無理に思い出さずとも良い」朔也は起き上がると竹生に寄りかかった。「思い出したら、私は竹生様に捨てられてしまうのですか?」「何故、そんな事を聞く」「私は良くない人間らしい。だから辛い目にあって壊れてしまった。誰もが私を嫌っていた・・まるで嫌なものを見る目をして私を見ている人々・・その記憶がおぼろげに・・」朔也は両手で顔を覆った。「ああ・・私は捨てられてしまう。どんなに愛しても、どんなに尽くしても、きっと・・」竹生は片手で朔也を抱き寄せた。安心させるように優しい声で言った。「私は人ではない。だから私を人と同じに考えるな」朔也は両手を少し下げ、目を覗かせた。「竹生様・・私は貴方と同じものになりたい」「ああ、お前が心からそう望む時が来たらな」「こころから・・」「そうだ」朔也はつぶやいた。「私の心は・・どこ?」「朱雀様、ご無理はなさらないで下さい!」千条が叫んだ。朱雀は休みなく異人と斬りあっている。異人のアジトである町外れの家を突き止め、朱雀達は急襲したのだ。千条の隣にやって来た鍬見(くわみ)がささやいた。「どうされたのだ、朱雀様は」「わからん」朱雀自身が悪鬼と化したかの如く、朱雀は異人を見つけ出しては斬って行く。屋根の上で朱雀は叉一人異人を倒し、周囲を見渡たそうとして眩暈を感じた。ぐらりと傾いだ身体が屋根から落下していくのを見て、千条と鍬見が声をそろえて叫んだ。「朱雀様!!」朱雀の身体が宙で止まった。白い髪をなびかせ、その腕に朱雀を抱きとめたのは三峰であった。「どうしたと言うのだ、朱雀」風に乗り空を翔けながら、三峰はいつもの穏やかな物言いで朱雀をたしなめた。「ちゃんと”食事”を取っていないのか。幾ら我等でも、それでは身体がもたぬぞ」三峰は優雅に着地し、朱雀を立たせた。朱雀はよろめきながらも自分の足で立った。「食事か・・あれを食事と言うならな」このように荒んだ朱雀を見る事は、つきあいの深い三峰でもあまりなかった。三峰はささやいた。「あまり部下を心配させるな」「ああ、すまん」心配して駆け寄って来た千条と鍬見を見て、朱雀は正気を取戻した様であった。「どうも具合が悪い。先に引き上げさせてもらう」「はい、後は我等にお任せを」千条は言った。鍬見も頷いた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/30
朱雀は、盾に伝わる戒めの言葉を口にした。「私達は自分の為には生きられない」目の前の竹生の唇の両端が上がり、笑みの形を作った。「百合枝を幸福にするは、我らすべての為だ。お前の為だけでない」朱雀は眩暈をこらえながら必死で反論した。「それは、詭弁です」「理由など、どうとでもなる。大切なのは百合枝の心だ」薄赤い唇がゆっくりと動いた。「百合枝を哀しませたら、私が許さぬ」朱雀の瞳に青く輝く竹生の目が映り込んだ。「しかし・・私は盾です。いつ倒れるやも知れぬ身です。深入りすれば、返って百合枝を不幸にしてしまう」竹生はゆっくりと身体を起こした。朱雀も起きようとしたが竹生が制した。「朔也が起きてしまう」自分の二の腕に顔を寄せて眠る朔也を見て、朱雀は身体を戻した。竹生が片手を揚げると、床まで届くカーテンが風にひるがえりながら左右に開いた。窓の外に月は半ば欠けながらも真珠色に明るく輝いていた。「お前は母の事を覚えているか」いきなり奇妙な事を聞くと思いながら、朱雀は素直に答えた。「覚えております」「美耶子様は美しい方であったな」朱雀は驚いた。「竹生様が、我が母の事を覚えておいでとは・・」竹生は微かに笑った。「お前も風評通りに、私が女には興味がないと思っていたか?」朱雀は黙っていた。へたな事は言えないと思ったからである。「下らぬ女には、興味が沸かぬだけだ」竹生は月を見上げた。「我が母、綾乃様と美耶子様は大層仲が良く、我が家に良く遊びに来られていた。お前が生まれる前の事だ」「それは、知りませんでした」「お二方とも美しく、盾の家の妻として優しくも強い方々であった」何故その様な話をするのかと怪しみながらも、朱雀は大人しく聞いていた。「自分の為に生きられぬと言いながら、妻と子を持つ盾もいる」朱雀は言った。「それは盾の家を存続させる為、大切な事でもありましょう」竹生は振り向いた。月明かりの下で、白く長い髪がさらさらと流れ、仄かに光を帯びたその顔は美しく、朱雀と言えどもときめきを覚えずにはいられなかった。「義務だけの為に、我らの父達は妻を持ったとでも言うのか?」「いえ・・」「父はな、幼き私に言った・・”私が倒れたら、母を頼む”と。母は私に言った・・”いつ倒れるとも分からぬからこそ、こうして家族一緒にいられる今を大切にしたい”と。言葉は違えど、同じ想いがそこにあると、子供心に私は感じた」朱雀は眩暈がおさまるのと同時に、いつもの快活さも戻って来ていた。「竹生様が、ご家族の話をするのを初めて聞きました」「盾の長である時には、こんな話はすべきでないと思っていた」「今は?」「三峰とお前になら・・それと」竹生は朔也の寝顔に視線を落とした。「これになら、話しても良いと思っている」朔也は何かをつぶやき、身じろぎしたが、目を覚まさなかった。竹生は愛おしげに朔也を見ていた。「人は戦いの中だけではなく、病でも死ぬ。田畑を耕す坂の家の者でも、思わぬ事故で死ぬ時もある。同じではないか?」「しかし、私はバケモノです」風が吹いた。竹生の長い髪が風になびいた。白糸の様にその髪は優美に流れ、宙に不思議な模様を描いた。「私は戦いしか知らぬ、お前は人を喜ばせ、人を魅了する方法を幾らでも知っているはずだ。なのに・・私よりも女心が分からぬのか?」「お役目に、私情は禁物です」「お前が情に溺れ、あやまちを犯そうとしたなら、私が止めてやる」「今のこの気持ちは、私情ではないと?」「お前と百合枝が共にいる機会が増えれば、守りやすくもなるであろう?そうそう、和樹様が教えて下さった・・そういう考え方を”ポジティヴ・シンキング”と言うらしいぞ」朱雀は苦笑した。「和樹が余計な事をお教えして申し訳ございません」竹生は朱雀の裸の肩に触れた。「苦しみを抱え込むな、もう自由にしてやれ。お前が抱え込むのをやめれば、苦しみの方が自ずから去って行くであろう」竹生はからかうような目で、朱雀を見た。「同じ苦しむなら、百合枝に振られてからにしろ」朱雀の頬が朱に染まった。「竹生様・・それは」「その時には、三峰と一緒に一晩中つきあってやる、朝まで飲み明かそうぞ」(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/26
朱雀は目を覚ました。(ここは・・)暗闇の中に朱雀は横たわっていた。上半身は裸であった。目尻を伝う涙に朱雀は気がついた。拭おうとして右腕に重みを感じた。そちらを向くとさらさらとした黒髪の頭があった。朱雀の裸の腕にすがりつく様に腕を絡ませ、横向きに朔也が眠っていた。象牙色の寝巻を来た朔也は、あどけない寝顔をしていた。「目が覚めたか、朱雀」竹生が肘をついた右手で頭を支え、朱雀を覗き込んでいた。竹生の寝台で朱雀を真中に三人は川の字になっていた。竹生は左手を伸ばし、朱雀の涙を指先で拭った。「お前がうなされていたので、朔也が心配して、ずっとお前の側を離れなかったのだ」竹生は顎で朔也を示した。「これは優しい奴だからな。自分も熱が下がらぬというのに」朱雀は左手で顔を覆った。軽い目眩を感じていた。「私は・・」「覚えておらぬのか」「はい」「急に倒れてな、せっかくの酒をこぼして、お前の服と絨毯に飲ませてしまったぞ」「それは申し訳ない事を。絨毯はすぐ替わりをお届け致します」竹生は口元に笑みを浮かべた。「長い・・夢を見ていたであろう」朱雀の脳裏に夢の断片が思い出された。優しい笑顔、『奴等』との戦い、葬儀、時計とオルゴールから流れたあの旋律・・「黎二郎は昔のお前だな。そして百合枝にそっくりなお前の妻」「何故、それを・・」「幸彦様だ。幸彦様が我等にも見せて下さったのだ。私と三峰と朔也にも」「夢の力をお使いになられたのですね」「お前が特別な夢の中にいる事に、あの方はすぐにお気付きになった」「特別な夢・・」「幸彦様はお前に礼を言って欲しいと。久しぶりにお父さんの姿を見る事が出来たからと」黎二郎と共にいたあのマサトという少年は、その後に幸彦の父親となるのである。朱雀の目眩はまだ収まらなかった。「私は・・当惑しています」「だろうな」黎二郎が前世の自分で、百合枝が艶子の生まれ変わりなら、百合枝も『火消し』の仲間である。もし百合枝が『火消し』の仲間であり、共に戦う事になれば、朱雀は己のすべてを打ち明けねばならない。自分が人の生き血を啜るバケモノである事も。朱雀はそれを百合枝に知られたくないと思った。「何を恐れているのだ」「私は・・いえ、何も」朱雀は眩暈をこらえ、左手で顔をこすった。竹生の声が夜の底から優しげにささやいた。「私に隠し事など、する必要はないであろう?」朱雀は背筋を登って来る官能に呻いた。竹生の声は相手を支配する。朱雀は小声で語り始めた。「私は・・如何なる時も、自分のお役目をやりとげる事が出来ました。たとえ自分の誇りも何もかも犠牲にしてでも」「お前は有能な”外のお役目”の者だからな」「なのに・・百合枝にだけは、この心が抑えきれないのです。これは私情ではない、お役目なのだと、いくら自分に言い聞かせても。私は・・」竹生は低く笑った。入念に神の作った細い指先が、震える朱雀の唇をなぞった。「男でも女でも、お前に抱かれれば、誰もが夢中になると言うのに」「そう、訓練されて来ました」「そのお前が、まるで少年の様に、恋心を恐れているとはな」顔を覆っていた朱雀の手を、竹生の手が掴んだ。朱雀が目を開くと白い美貌が目の前にあった。朱唇が薄く開き、薔薇色の舌先が覗いた。人でない朱雀の目にはそれらがはっきりと見えた。「素直になれば、良いではないか」竹生は言った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/25
気がつくと黎二郎はあの部屋に戻って来ていた。『火消し』とその仲間達が戦いに赴く為の部屋、時のはざまにある部屋に。黎二郎はソファに横たわっていた。”戦いの領域”から帰還したものの、黎二郎の血は『奴等』を倒す為に費やされ、もはや彼を生かす量を残してはいなかった。黎二郎は死を待っていた。誰もが去った部屋に黎二郎は一人が残されていた。戻れない事を艶子に済まないと思っていた。だが彼女は許してくれるだろうと思った。”お役目”なのだ。私達の逃れられぬ宿命なのだ。そうは思っても彼女と離れて一人死んでゆくのは辛かった。黎二郎は薄れていく意識の中で、艶子の顔を思い浮かべていた。誰かが黎二郎に触れた。最期の力を振り絞って黎二郎は目を開けた。目の前に艶子の笑顔があった。何故来たと言いたかったが声が出なかった。艶子は白く長いドレスをまとっていた。天使の様に優しく慈悲深く、そして美しかった。艶子は黎二郎の手を取った。暖かい命が黎二郎の中に流れ込んで来た。それが彼女の力だった。だがそれは黎二郎を癒すと同時に彼女の命を削っていく。黎二郎は拒みたかったが、動く事は出来なかった。「愛しているわ・・貴方を」艶子の頬に一筋の涙がつうっと流れた。艶子は目を閉じ、黎二郎の上に崩れる様に重なった。「カヅキもカナも消えたわ。マサトも長い眠りに着いた・・」どこからともなく女の声がした。「貴方の望む所へ、送ってあげるわ」『道標』のサギリの声だった。黎二郎は心の中で願った。(艶子の部屋へ)「分かったわ」(私達は帰って来た。二人の居場所へ、二人の帰るべき家へ)艶子を寝台に寝かせると、呼び鈴を押して前園を呼び、かかりつけの医者に連絡する様に指示した。前園は直ちに平吉を叩き起こすと、馬車で医師を迎えにやらせた。「奥様の容態が急変した」と屋敷の者達に知らせた。その間に黎二郎は血まみれの服を脱ぎ、寝巻と濃紺のガウンを羽織った。艶子の部屋へ戻ると女中頭の喜代がいた。「子供達を起こさない様に、騒ぎ立てるなと皆に言ってくれ」喜代は頭を下げて出て行った。再び二人きりになると、黎二郎は寝台に身を伏せ、艶子を抱きしめた。細い身体は温かくいつもの香りがした。仄かな花の香り、水薬の甘苦い香り、そして艶子自身の柔らかな肌の香り。「キミを愛している、今も昔も、これからも・・」黎二郎は意識のない妻にささやいた。医師が到着し、慌しい気配が室内から屋敷中に広がった。未明に艶子の心臓は止まり、医師は臨終を告げ、去っていった。それから通夜、葬儀と時間は瞬く間に過ぎていった。そして今、黎二郎は一人自室でうなだれ、哀しみに沈んでいた。部屋の扉が開く気配がした。黎二郎が顔をあげると、幼い息子が白い寝巻姿で扉の後ろに半ば隠れる様にして立っていた。黎二郎は優しく声を掛けた。「どうした」今年三つになる子は、不安げに大きく目を見開いていた。「お母様がお部屋にいない。どこに行ったの?」黎二郎は立ち上がると息子の側へ行った。そして息子の前にかがみ込むと、子供の小さな肩をそっと大きな手で包む様にした。「お母様は遠くへ行かれたのだ」「いつ、お帰りになるの?」子供の真っ直ぐな声が黎二郎の胸を打った。黎二郎は息子を抱き締めた。「今夜はお父様と一緒に寝よう」そして子供を抱き上げると、自分の寝台へ連れて行き寝かせた。布団の中から父を見上げ、子供は再び問いかけた。「明日、お帰りになる?」黎二郎は頷いてみせた。「そうだな」黎二郎は子供に初めて嘘をついた。今宵のこの子の安らかな眠りの為なら、自分は嘘つきになってもかまわないと、黎二郎は思った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/24
黒い枠で縁取られた艶子の笑顔は慈愛に満ちており、見る人々は自然と敬虔な気持ちになった。門から屋敷の横手を抜け、訪れた人々は庭に回った。ベランダに面した仏蘭西窓をすべて開け放ち、その奥に祭壇が作られていた。喪主席の黎二郎の背中には、隠し切れない落胆と哀しみがあった。黎二郎と艶子の夫婦仲が睦まじい事はつとに有名であった。人々は痛ましげにその背中を見た。長らくの病身であったとは言え、穏やかで誰にでも慕われた艶子の死は周囲に深い哀しみをもたらした。驕る事なく気さくな性格だった艶子は、使用人達にも好かれていた。執事の前園始め誰もが、悲しみを押し隠し静かに葬儀の手伝いに勤しんでいた。先代からこの家に仕えて来た前園は、黎二郎の艶子への愛の深さを良く知っていた。そして黎二郎の”お役目”について、屋敷の中で唯一すべてを知らされている人間であった。それだけに黎二郎の辛い心中を思いやり、黎二郎の負担を減らすべく、葬儀の最中何くれとなく心を砕いていた。黎二郎の隣にはまだ年端も行かぬ娘と息子がいた。姉は幼いながらも弟を気遣う素振りを見せ、母を亡くした事に気丈に耐えていた。弟は母の死を理解していない様子だった。黎二郎はかばう様に二人の子供の肩を抱いたり、手を握ってやったりしていた。子煩悩でも知られた黎二郎であった。黎二郎の会社は業績も良く成長していたから、弔問客も多かった。黎二郎は務めて冷静な態度で受け答えをしていた。柩の周囲には沢山の花が飾られていた。贈り物の豪華な花々も多かったが、庭から摘み取られた可憐な花もあった。艶子の側に仕えていた者達が艶子の好きだった花を飾ったのだ。それが艶子の人柄を偲ばせた。読経の中、焼香が始まり、人々は祭壇の前にやって来ては去っていった。葬儀の途中から子供達は女中にまかせ、子供部屋へ引き上げさせていた。この様な場所に子供達を長く置きたくなかったのだ。そしてさすがの黎二郎も疲労の色が濃く、口を聞くのも億劫になっていた。執事の前園は黎二郎の喪服の下の傷が癒えていない事を知っていた。前園はさりげなくささやいた。「後は私どもが、旦那様はお休みを」「ありがとう、だがそうも行くまい」それでも前園の勧めるままに黎二郎は椅子に腰を下ろし、前園の気遣いに感謝した。艶子の棺はやがて運び去られた。艶子は小さな箱になった。夜も更ける頃には屋敷も静かになった。黎二郎も自室へ引きあげた。安楽椅子へどっかりと崩れる様に黎二郎は腰を下ろした。張り詰めていた気がゆるむと、哀しみが押し寄せて来た。(私は戻って来たのに、キミがいない・・)黎二郎は両手で顔を覆った。黎二郎の血は『奴等』には毒になる。それが黎二郎の武器なのだ。それは黎二郎に命を削る戦い方を強いる事になる。だから艶子の”癒しの力”が黎二郎には不可欠だった。”癒しの力”は艶子の命を削る。病身の艶子には負担になり過ぎる。芳しくない艶子の容態を見て、黎二郎は艶子を今回の戦いに同伴しなかった。(深手を負うなよ)とマサトが言ったのはこの事だった。(『奴等』との戦いは、あれが最後と龍彦様も預言された。『火消し』の仲間も次々に倒れ、残ったのはマサト様とカヅキ様、そして私だけだった・・)『奴等』を倒す為に黎二郎の血も多く流された。だが無駄死はするつもりはなかった。最後の一匹を黎二郎の剣が切り裂いた。彼の血を浴び『奴等』は生き絶えた。戦いは終わった。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/22
迎えの馬車が来た。二頭立ての古びた馬車だった。黎二郎(れいじろう)が乗り込むと一人の少年が中にいた。黎二郎は少年の向かい側に腰を下ろした。少年は青いベルベッドの上着とズボンを身に付け、白いブラウスに同じ青のリボンタイを小生意気に結んでいた。「青い色がお好きですな、マサト様」黎二郎が言った。その声にはどこか相手を敬う響きがあった。「ああ、青い色を身につけると運が良くなるらしいぞ」マサトと呼ばれた少年は、幼い外見に似つかわしくない大人の様な口を聞いた。「艶子はどうした」「具合が良くないので、置いて来ました」マサトは愛らしい唇を尖らせた。「お前の負担が大きくなるぞ。お前の傷をカナでも治せない事はないだろうが」「カナ様はカヅキ様の銀の身体を癒すのがお役目、私の為に、その貴重な御力を使ってはなりません」「まあ、せいぜい深手を負わぬ様にしてくれ」「はい」ガラガラと馬車の進む道の行く手に霧が出て来た。すっかりと夜になった道はどこへ続くのか、窓の外を見てもたまにぼんやりと灯が見えるだけで、皆目見当もつかないが、馬車の中の二人はそれを気にしている気配はなかった。マサトは上着のポケットから小さな紙の箱を出した。中からキャラメルを取り出すと包み紙を剥いて口に放り込んだ。もごもごと口を動かし、舌に広がる優しい甘味ににんまりとした。そういう仕草や表情は少年のそれであった。「龍彦が夢を見た」キャラメルを舐めながらマサトが言った。「佐原の当主様は、まだこちらにご滞在でしたか」「ああ、今動かすと返って危ない。龍彦のような人間は『奴等』の大好物だからな」「喰われて『奴等』の力が増すと、やっかいですな」「その失敗は三百年前で懲りてる。あの時は油断した」マサトは悪戯っぽく微笑した。「あの時のお前はとても真面目な奴で、俺が冗談を言うたびに怒っていたな」黎二郎はネクタイを直しながら言った。「今の私も、大層真面目な男だと思いますが」マサトは今度は声をあげて笑った。「人間は柔らかい方がいい。これからのお前はずっとその調子でいてくれ」黎二郎もにっこりと笑った。「さあ、覚えているかどうか」「覚えているだろうよ、記憶はなくしてもお前の魂が」マサトは黎二郎を聡い光がきらめく目で見据えた。「お前が忘れても、俺が思い出させてやるよ。また出会えたなら」黎二郎も静かにその目を見返した。親愛の情をこめて。「ええ、お願い致します。覚え書きを書いておいても、きっとその置き場所すら忘れてしまうでしょうから」馬車が停まった。御者が扉を開けた。「さあ、今夜で終りにしよう」マサトは身軽に馬車の外へ飛び降りた。黎二郎もそれに続いた。(終りにするのだ。そしてお前の許へ必ず帰る・・艶子)黎二郎は妻の顔を思い浮かべた。高まる緊張を押し殺し、黎二郎はマサトの小さな背中を追い、夜道を歩いて行った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/20
下男の平吉がうやうやしく鉄製の門を開けた。小さな薄紅色の花を咲かせた蔓薔薇のアーチをくぐり、御影黎二郎(みかげれいじろう)は、いつもの様に、緑色に縁取られた窓を見上げた。窓硝子に照り返す夕陽に、英国製の背広の似合う長身の黎二郎は、まぶしげに目を細めた。(大分、日が延びたな)馬車の音に気づいた妻の艶子が、窓を開け、顔を覗かせた。小さく手を振っている。黎二郎も片手を軽く上げた。玄関に出迎えた執事の前園や女中達の前を抜け、黎二郎は二階への階段を上がった。廊下の突き当たりの扉を開けると、部屋の奥の窓際に艶子が立っていた。「お帰りなさいませ、貴方」薄青い袖のない肩を覆うだけの、足首までの寝巻の上に、白く長い部屋着を纏い、長い髪を片側にひとつにゆるく三つ編みにしている。編んだ髪の先には青いリボンが結ばれていた。「起きていて、大丈夫なのかね」「今日は、大分気分が良いの」艶子は微笑み、黎二郎の広く厚い胸に抱き寄せられるままに素直に従った。外国暮らしを経験した黎二郎は、向こうの習慣を身に付けていた。唇が重なった。仄かな花の香りはいつものコロン、水薬の甘苦い香り、そして艶子自身の柔らかな肌の香りがした。大切なものを扱うように、黎二郎は艶子の華奢な身体を抱きしめた。「お前に無理ばかりさせてすまない」「そんな事はおっしゃらないで。貴方こそ大切な”お役目”が・・」咳き込んだ艶子の背中を、黎二郎の大きな手がゆっくりとさすった。情の篭った手だった。「それとこれとは、話が別だ」「でも、今夜は大きな戦いだと・・」黎二郎は逞しい腕に艶子を抱き上げた。「さあ、お前は寝ていなさい」樫の木の寝台は特別誂えで、神話の女神の彫刻が施され、大人二人でも悠々眠れる幅があった。傍らには読書の好きな艶子の為に本を置く小卓があり、瀟洒なランプが置かれていた。艶子を寝台に降ろすと、黎二郎は布団を具合良く掛けてやった。「ゆっくりとお休み」艶子は黎二郎の端正な顔を見上げた。「貴方」「何だね」「そこの箱を開けてみて下さいな」細い指の示したテーブルの上に、赤いリボンを結んだボール紙の箱があった。黎二郎は開けてみた。出て来たのは銀の懐中時計だった。時計を手に黎二郎は艶子の側に戻った。艶子の枕元に腰を下ろし、黎二郎は艶子の手に時計を握らせた。「ここをこうするの」蓋が開き、音楽が流れ出した。艶子は黎二郎の手に再び時計を返した。黎二郎は時計を見た。内側に男女の浮彫があり、音楽に合わせて踊っている様に見える。「これは?」「この前いただいたオルゴールのお返しよ」「オルゴールと同じ曲だね」「ええ、つがいの金糸雀は離れても同じ歌を歌うのだそうね。私達、歌は歌えないけれど、離れていてもせめて同じ歌を聴けるように」黎二郎は時計の蓋を閉じ、上着の内側の隠しに仕舞い込んだ。「ありがとう」艶子は深いまなざしで黎二郎を見た。「あの部屋は時が淀むけれど、お帰りになる事をお忘れにならないでね」「ああ、門限に遅れない様に、時間になったら音楽が鳴る様に、時計に仕掛けておくかね」黎二郎は笑った。良く通る明るい笑い声だった。艶子も笑った。けれども妻である艶子には解っていた。今夜の戦いへの不安を隠した笑いである事が。「貴方・・」艶子の差し出した手を、黎二郎は握った。「いつだって、私の帰る場所は、キミのいるこの家だ」艶子も手を握り返した。「ええ、何度生まれ変わっても、私はここで待っているわ、貴方を」「ああ、では行って来る」黎二郎は艶子の上に身をかがめた。時計の中の男女の様に、二人の影もしばし寄り添い、ひとつなって、揺れた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/19
その部屋はまるで過去の亡霊の様だった。古びて折り目正しい。古い重厚な家具が並んでいる。いにしえの貴族の応接間に似つかわしい豪奢な造りの物ばかりだった。『火消し』とその仲間、『奴等』を滅ぼす役目を担う者達は、ここから何度も『奴等』との戦いに赴いた。この場所は時を刻んでおらず、外の雑踏に流れる時間とは異なる流れの中で生きている。『道標』に導かれた者のみ、この部屋にたどり着けるのであった。彼等は奥の扉から戦いへ赴いた。『道標』と癒しの手を持つ者達は、この部屋で戦士達の帰還を待つ。戦いが終われば彼等は戻って来る。だが戻らぬ時もあった。帰り来る者が、彼等の帰りを待ち続ける者が、誰一人いなくなっても部屋は待ち続けた。同じ魂と宿命を違う身体に宿し、再び彼等が戻って来る日まで。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/18
竹生は、この男らしくなくうなだれている、朱雀に言った。「お前は、百合枝をどう思う?」朱雀は顔を上げた。「百合枝を安全に保護する、それが私のなすべきです」「すべてはお役目の為か」竹生は自分で酒を注ぎ足すと、灯りの方にグラスを掲げ、切子細工の煌きを愛でるかの如く、それを眺めながら言った。「抱きたくない女を抱くのも、抱かれたくない男に尽くすのも、お役目の内か」朱雀の顔が険しくなった。「何がおっしゃりたいのですか、竹生様」切れ長の目に特徴のある美貌が、再び朱雀を見た。「お前は、百合枝を愛しているのか?」朱雀は息を呑み、ひるんだ表情を見せた。普段であるなら、軽い言葉ではぐらかすのが、朱雀であるはずだった。だが朱雀は知っていた。そんな小手先の誤魔化しは、竹生には通用しないと。朱雀は素直に答えた。「私には、人を愛する資格なぞありません。私は”人でない者”・・化け物です」自分を見ている竹生の事に気がつき、朱雀は頭を下げた。「失礼致しました」「いや、気にするな。私も化け物だ」朱雀は再びうつむいた。「私の愛は”壁”の向こうに置いて来ました。あの十五年前の日に」朱雀は軽く首を左右に振った。「止しましょう、この話は」しばらく、二人は静かに酒を酌み交わしていた。夜は深さを増し、”人でない”二人の神経は、琥珀色の美酒に酔う事もなく冴え渡っていった。「赤い髪のイサク・・」立てかけられた絵を見ながら、竹生が言った。「それが、朱雀、お前の『火消し』の仲間としての名だな」朱雀は頷いた。「はい」『火消し』とその仲間は転生を繰り返す。だが『火消し』の仲間であっても前世を覚えている者は少ない。朱雀もずっと記憶がなかった。今もかろうじて自分の名前と『奴等』との戦い方を思い出したに過ぎない。竹生は小卓の上の本に手を伸ばした。パラパラと頁をめくり、やがて低い声で竹生は朗読を始めた。「・・戦いは熾烈を極め、我が血の多くを失う。今日も妻に負担をかける。妻は無言なり。ただ微笑みて我が手を握り、暖かき命が我が身に・・」朱雀の脳裏に再びあの旋律が流れた。記憶の闇の底から浮かび上がる幾つかの面影、声、カーテンの手触り、水薬の匂い・・目眩を感じ、朱雀は思わず叫んだ。「竹生様!」竹生は読むのをやめた。口元に笑みを浮かべ、むずかる子供をあやす様な調子で、竹生は言った。「大きな声を出すな、朔也が起きてしまう」竹生は本を閉じ、朱雀の方へ放り投げた。無造作に見えたが、竹生の風が本を支え、本はゆるやかに朱雀の膝に着地した。「朔也はすぐに気がついたのだ」「何に・・ですか?」朱雀は目眩をこらえながら聞いた。本は赤い皮で装丁されていた。中を見たいが見るのを躊躇する気持ちもあり、朱雀は本を手にしたまま、竹生の話の続きを待っていた。竹生は立ち上がった。片手を振り上げ、何かを示す様な仕草をした。「お前も感じているはずだ、この屋敷に張り巡らされた力を」次第に強まる眩暈と闘いながら、朱雀はつぶやいた。「結界・・」「そうだ」竹生はふわりと天井近くまで飛び上がった。白く長い髪が宙に舞い、不可思議な模様のように乱れ波打ち、闇に流れた。「この屋敷は、我らが来る以前から、『奴等』との戦いの備えがなされていた」風が吹いた。部屋中のカーテンがはためき、朱雀の赤い髪も風に乱れた。「再びここは、戦う者達の家となるのだ」白くたなびく髪の間に見え隠れする、竹生の月の如き美貌を見ながら、朱雀は何も言わなかった。否、言えなかった。朱雀の中に一気に湧き上がって来た様々な感情に、朱雀は押しつぶされそうになっていた。「竹生様!」朱雀は助けを求めるかの如く、再びその名を叫んだ。竹生は朱雀の傍らに舞い降りた。竹生の白き美貌が朱雀の目の前にあった。夜の物憂さを含んだ声がささやいた。「大声を出すな・・と、言ったはずだ」青き魔性の瞳が朱雀の瞳を覗き込んでいた。唇が触れ合う程に間近に。「たけ・・お・・さま・・」朱雀の意識は、その青く輝く瞳の中に溶けるように、失われて行った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/17
朱雀は片手で眉間のあたりを押さえた。その旋律に、朱雀は聴き覚えがあった。オルゴールを落さない様に、もう片方の手で持ちなおし、朱雀は眉間から手を口元へ移動させた。朱雀はオルゴールの中を見た。蓋の裏には鏡が嵌め込まれている。内側に張られた赤いビロードは今も色褪せず、滑らかな手触りもそのままだった。半分に仕切られた左側は機械が入っており、蓋がされている。右側は物入れになっている。そこに一枚の名刺程の大きさの物があった。上質の厚紙で縁にレースを模した窪みと透かし模様がある。菫色のインクで文字が書かれていた。朱雀は取り出して目を通した。愛する妻 艶子へ Isaacきらきらと旋律は流れ続けていた。朱雀はカードを戻し、オルゴールの蓋を閉じた。ゆっくりとオルゴールをテーブルの上に置いた。その顔は蒼褪めていた。竹生は何も言わず、じっと朱雀を見ていた。青い煌きを宿した瞳は、朱雀が答えを出すのを待っていた。朱雀は上着の内側の隠しに手を入れた。取り出したのは銀色の古めかしい懐中時計だった。朱雀は何も言わず、懐中時計の蓋を開けた。たった今オルゴールから溢れ出していたのと同じ旋律が、懐中時計からも流れ出した。竹生の目にわずかに更なる光が瞬いた。「百合枝に貰ったのです。祖父の持ち物で、元々は曽祖父の物だったと」竹生は朱雀から目を離さず、グラスを口元に運んだ。白い喉が動いた。夜の闇が悩ましげに流れた。「話してもらおうか」「はい」朱雀は時計の蓋を閉じ、再び上着の奥に仕舞い込んだ。あの時、百合枝はこの懐中時計を差し出して言った・・「これを貴方に差し上げたいの」時代のついた懐中時計は、朱雀の手に不思議と馴染んだ。おそらくは名のある職人の作であろう、丁重な造りであった。「貴方には随分良くしていただいたから」百合枝は祖父の形見の品だと言った。「そんな大切な物を、私が貰う訳にはいかないな」そう言いながら、朱雀は時計の蓋を開けた。蓋の裏に川辺に寄りそう恋人達が描かれていた。朱雀は無意識に竜頭のあたりをいじった。すると音楽が流れ、恋人達が踊り始めた。「あら」百合枝は声を上げた。「何だね」「この時計は蓋を開けるのにもコツがあるの。なのに・・」百合枝は朱雀を見上げて微笑んだ。「やっぱりこれは、貴方に持っていて欲しいわ」そうして、この時計は朱雀の物になったのだ。「他には、百合枝は何か言っていたか?」竹生が聞いた。「いえ、何も」朱雀は答えた。そして酒の瓶を取り上げると、竹生のグラスを満たした。竹生は目で礼を言い、グラスを口元に運んだ。朱雀は自分のグラスにも酒を注いだ。朱雀は一気にあおった。まろやかに喉を焼きながら、酒は朱雀の胃の腑へ落ちて行った。オルゴールの旋律が、朱雀の脳裏に流れている。朱雀は何かを思い出そうとして、思い出せない歯がゆさの中にいた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/16
朱雀は百合枝との会話を思い出した。(あの家の正面の緑の窓・・あの窓から誰かが手を振っていた。不思議なんだ、どういう訳か、私にはその記憶がある)(その人は白いブラウスを着て、青いリボンを髪に結んでいた?)百合枝は確かにそう言った・・朱雀は目眩を感じ、片手で額のあたりを押さえた。「どうした」竹生が声を掛けた。「いえ」朱雀は額から手を放し、息を整え、胸を張った。「この絵のご婦人は、どなたですか」竹生は額縁の下部を指差した。金色のプレートに文字が刻まれていた。「御影艶子(つやこ)、黎二郎氏の奥方だ」「百合枝の曾祖母ですね。成程、百合枝に似ているわけだ」「ああ、血のなせる技だろうな」竹生はゆっくりと歩き、朱雀の隣に並んで立った。そして二枚の絵を画商から買い取る収集家のような目付きで見比べた。「だが何故、この男はお前に似ているのだ?」朱雀は絵の中の赤い髪の男と目が合ったような気がした。「それは私が聞きたい」「うむ」風が吹いた。竹生はふわりと宙に浮き、安楽椅子の上に優雅に舞い降りた。再び寛いだ様子になると竹生が言った。「隠し部屋の事は聞いたか?」「はい」「そこで面白い物を色々見つけた」「面白い物?」「お前も座るが良い」朱雀も元のソファに戻った。竹生が軽く手を叩いた。桐原が入って来た。琥珀色の液体に満たされた切子細工の瓶とグラスを二つ載せた盆を捧げ持っていた。桐原は二人の間のテーブルに盆を置くと、瓶を取り上げ、グラスに酒を注いだ。「やりながら、話そう」二人は軽くグラスを掲げ、目だけで乾杯をした。酒の芳香には樽と異国の土の香気が混じり、朱雀の鼻腔をくすぐった。「竹生様が、モルトもお好きとは思いませんでした」「これが私に許された快楽のすべてだ」それは何時か朱雀が口にした言葉だった。朱雀は苦笑した。「冗談までお好きになられましたか?」竹生はふっと笑った。朱雀はその声に酒の香気が一段と強まったような気がした。桐原は箱と本らしき物を竹生の傍らの小卓に置き、部屋を出て行った。竹生はグラスをテーブルに置くと、小卓の上の箱を取り上げた。文庫本程の大きさの、濃茶色の長方形の木の箱だった。磨かれた表面に細かい彫刻が施されている。竹生は箱の下に手をやった。きりきりとゼンマイを巻く音がした。「開けてみろ」朱雀もグラスを置き、テーブルの上に身を乗り出す様にして、差し出された箱を受け取った。「オルゴールですね」朱雀は蓋を開けた。金色の柔らかい音が流れ出した。きらきらと音はゆるやかな旋律を形作った。朱雀の耳にそれが届いた時、朱雀は再び目眩を感じた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/14
竹生の居間である。この屋敷で一番良い部屋だと、百合枝は言った。寝室と書斎との三間続きで、磨かれた木の柱も天井の造りも、贅を凝らしているのが素人目にも解る。手直ししたばかりの室内は、堆積していた歳月の汚れがすっかり取り除かれ、往時の輝きを取り戻していた。しかし昔のままに見えて、いたる所に桐原の工夫が施されていた。金糸の縫い取りのカーテンは、昼間を就寝時間とする竹生の為に極めて遮光製の高い物であるし、床の敷物の下には温調の仕組みもされていた。暖炉は本物の薪が燃やせる様になっていた。年代物の家具や調度品は、元からあった物と桐原が買い揃えた物が混じっていたが、違和感なくしっくりと部屋に収まっていた。だが何よりも、この部屋のあるじが極上の美術品であり、彼を中心にすれば、どんな場所でも最上の豪奢を醸し出す場所となってしまうのであった。竹生は黒い絹のゆったりとしたシャツに黒いスラックス、部屋履きも黒の繻子織りである。長く白い髪は、竹生が身じろぎする度にさらさらと流れ、花のかんばせは、夜の部屋で仄かに光を放つかに見えた。竹生の寛いでいる安楽椅子は、金茶色のふっくらとしたクッションと柔らかい詰め物をした肘掛が付き、同じ生地のオットマンが添えられている。普段はそれには朔也が座り込み、竹生の膝にもたれているのである。だが今はすんなりとした竹生の足が伸びやかに載せられていた。(竹生様という存在は、どんな格好をされても、損なわれる事はないのだ)朱雀ですらそう思い、ソファに身体を預けながら、目の前の竹生の美を満喫した。二人の目には灯りは不要だが、今は部屋の隅の背の高いスタンドに暖色の光が燈っていた。珍しく竹生は一人でいた。「朔也は、どうしたのですか」「熱があるのだ」朔也は昨日から熱が高く、鍬見(くわみ)に付き添われて自室で臥せっていた。鍬見は”盾”だが医療の心得がある。”外”の世界の医師の免許も所持していた。「明日にでも、百合枝を寄越してもらいたい。朔也が心細がっている」百合枝が触れると朔也の具合が良くなる。だが百合枝の体力も消耗するので、竹生も強くは言わなかった。「先週も来させてしまったからな」他人には無頓着な竹生が、百合枝にだけは気遣いをみせる。それが朱雀に複雑な思いを感じさせる。竹生は百合枝に特別な感情を抱いている。それが男女の恋愛とはほど遠いと朱雀には解っていたが、竹生にとって百合枝が特別である事には変わりはないのだ。「戻ったら、百合枝の都合を聞いておきましょう」「頼む」竹生は朱雀をじっと見詰めた。魔性の青い瞳に底知れぬ光が宿り、観る者を釘付けにする。美しいという言葉すら余計に思える、その美。見慣れたはずの朱雀でさえも、いつも新たな感動を覚えずにはいられない。「お前に見せたい物がある」竹生はそう言って席を立った。朱雀は夢から醒めた。竹生の呪縛が解け、徐々に普段の感覚が戻って来る。部屋の隅に裏返しに立てかけてあった額縁を、竹生は運んで来た。軽そうに見えるが、常人であれば二人掛りでないと持ち運べない代物であった。竹生は窓際にそれを表をこちらに向けて立てかけた。黎二郎の肖像であった。「百合枝が言っていたのは、これですね」「もう一枚ある」竹生は黎ニ郎の絵の隣に、同じ大きさの絵を並べた。洋装の婦人の肖像画であった。同じ頃、同じ画家に描かれた絵であろうか。筆致も似ている。婦人は絹らしい白いブラウスを着ていた。大きく膨らんだ青いスカートにはゆるやかな襞が寄り、衣擦れの音が聴こえてきそうである。片方に寄せて編んだ長い髪にもスカートと同じ青いリボンが結ばれていた。その婦人の面差しは、百合枝に似ていた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/13
「こんな部屋があったなんて」祖父の寝室だった部屋と続く書斎の本棚に仕掛けがあった。桐原が操作すると本棚がくるりと回り、人が一人通れる程の隙間が出来た。先に入った桐原の声がした。「お気をつけてお入り下さい」百合枝はおっかなびっくり中へと進んだ。中にはかろうじて周囲が見える程度の灯が点いていた。窓はないが、それなりに広い部屋である。目が慣れて来ると様々な物があるのが分かって来た。美術品、用途の分からない機械の様な物、壁にも絵画や図面らしき物があった。「これは」「おそらく百合枝様のご家族が収集されたのではないかと」「おじいさまかしら」朔也も足を引きずりながら壁に手を着きそろそろと入って来た。朔也は一枚の絵の前にたたずんだ。「私・・知ってる・・」朔也は絵を指差しながらつぶやいた。「知ってる・・」百合枝も朔也の隣へ行き、絵を見上げた。大きな油絵だった。一人の男性の姿が描かれていた。百合枝の見覚えのある室内に男は立っていた。それは先程通って来た祖父の部屋だった場所である。すらりとして背が高く、服装も雰囲気も西洋の匂いのする人物である。ジレのついたスーツを着こなし、手に革らしき手袋を持っている。赤味がかった豊かな髪のかかる知性にあふれる額、彫りの深い端正な顔立ちも、この国よりも海の向こうの香りがする。口元にアイロニーを含んだ笑いを浮かべ、こちらを見ているその面差しは・・「朱雀・・」思わず百合枝は小さく叫んだ。朔也はうれしそうに頷いた。桐原は前に進み、絵の下部を指で示した。額縁に小さな金色のプレートが貼り付けてあった。黒ずんでいたがかろうじて読み取れた。「ここに文字があります。『明治二十三年 御影黎弐郎』と」「ひいおじいさまの名前だわ、でもどうして・・」桐原が先を続けた。「はい、朱雀様に瓜二つですな」朔也は絵の中の人物を見上げながら歌う様につぶやいていた。「赤い・・熱い血・・持つ・・赤い髪の・・・イサク」「この部屋の中の物は、こちらでお調べして処分してもよろしいでしょうか」「ええ、この屋敷すべてを竹生様に差し上げたのですもの」百合枝はちらりと黎二郎の肖像を見た。「でも、出来ればこの絵は」桐原は軽く頷いた。「この絵は丁重に扱え、手放すなと、竹生様から言い付かっております」「それならば、後はおまかせします」「はい」百合枝は朔也の方を振り向いて言った。「すっかり埃だらけになってしまったわ。朔也さん、綺麗に手を洗ってお食事にしましょうね」朔也は百合枝を見てゆっくりと微笑んだ。庭に咲き始めた白い薔薇よりも無垢な微笑を。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/12
緑の窓の屋敷の整備も進み、竹生(たけお)と朔也(さくや)はそちらに移り住んだ。朔也はいまだ眠る時間が長く、記憶は戻らなかった。竹生は庭にも手を入れさせた。竹生と共に屋敷へやって来た桐原も広い庭を喜んだ。竹生の父の部下だった桐原は”盾”を引退してからずっと竹生の身の回りの世話をして来た。それだけに竹生の好みは熟知していた。そして同じく引退した盾であり元の同僚だった伴野(ばんの)を呼び寄せ、庭をまかせる事にした。二人は語り合い、屋敷に似合った古い欧州の庭を手本にする事にした。東屋も噴水も修復し、竹生の好む薔薇を何種類も植えさせた。故郷の村に咲く草花も上手に配置した。初めて屋敷に連れて来られた時、門前に停められた車から降りた朔也は緑の窓を見上げてつぶやいた。「私の・・青い火花・・似てる」竹生にはその意味する所が理解出来た。「そうだ、ここならお前も安心だ」「はい・・竹生さま」朔也は満足げに竹生を見上げ、甘えるように寄りかかった。その肩を大事な物を扱うかの如くに抱き、竹生は門をくぐった。百合枝の言葉を借りれば、進士はアンソニー・パーキンスに、桐原はダーク・ボガートに似ているそうである。少し古風で伝統の匂いのする男達であった。竹生が行方不明であった時は、桐原は佐原の村で失意の日々を送っていた。竹生が三峰の所にいると知らされると、彼は村での生活をすべて清算し竹生の許へ行った。竹生は戦い以外何も知らない人間であった。人でなくなってからもそうであった。竹生は桐原を当然の様に側に置いた。同じ兄弟であっても三峰は世間的な智恵に長けていた。「私は盾の長にはなれるが、村の長にはなれぬな。お前はどちらにもなれる」竹生は三峰に言う事があった。そう言われると三峰は苦笑した。進士と桐原は立場が似ているだけにライバル心もあるが、互いに長所を認め合い高めあうだけの度量もあった。桐原は進士の小柄投げのような特技はないが、盾としては優秀な方であり、その年代にしては珍しく機械類にも強く、どんな武器でも扱えた。車の運転のみならず飛行機も操縦する事が出来た。料理の腕前は進士が上で、桐原は朔也の為に教えを乞う事もあった。二人は互いのあるじへの忠誠心の深さも感じあい、同業としての苦労も分かり合える良き関係でもあった。「百合枝・・さん・・」千条の車から降り、桐原の出迎えを受けて百合枝が玄関の奥へ進もうとした時、何処からか現れた朔也が百合枝に抱きついた。朔也は百合枝を抱きしめ、頬を寄せてうれしそうにつぶやいた。「ああ・・暖かい・・」「朔也さん、私も逢えてうれしいわ」百合枝は優しく朔也に言い、朔也を抱きしめた。桐原が言った。「朔也様、百合枝様の御用が済むまでお待ち下さい」「そうしたら・・一緒にいてくれる?」朔也は必死な目で百合枝の顔を覗き込んだ。こんな美しい青年にこんな目で見られたら、普通の女性なら愛しくてたまらなくなるだろう。朱雀がいなければ百合枝もそう思ったかもしれない。桐原は朔也に百合枝が必要な事を知っていた。この所の朔也はずっと体調が悪く熱が下がらずにいたのだ。「朔也様と昼食をご一緒にいかがでしょうか、百合枝様」「ええ、喜んで」百合枝は朔也に言った。「少し待っていて下さる?」「一緒に・・いく」百合枝が桐原の方を見ると「かまいません」と言う様に頷いたので、百合枝は朔也の腕を取り桐原の後に続いた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/11
地下の駐車場から千条の車が表へ走り出た。目立たない黒塗りのセダンである。後ろに鹿沼と部下達の車がさりげなく続いた。後部座席の百合枝を千条はバックミラーでそれとなく見ていた。百合枝は千条に話し掛けた。「貴方も朱雀の会社の方なの?」「はい、警備部の者です」「きっと貴方もお強いのね、千条さん」「千条とお呼び下さい、百合枝様」「でも・・」「そう呼んでいただいた方が、我らは気が楽なのです」「そうなの?」「はい」「呼び捨てるのは、言い辛いわ」千条はバックミラーに向かって微笑みかけた。「そのうち慣れます」「じゃあ、千条」「はい」「貴方のお仕事について、お尋ねして良いかしら」「お答え出来る事なら」「私が外出する時の送り迎えも、貴方達の仕事なの?」「それと滞在先では、すぐに駆けつけられる距離におります」「私は見張られているという事?」「良くない言い方をすれば、そうです」「では、私は守られているとでも言えば良いのかしら」「そうおっしゃって下さった方が、私どもは助かります」百合枝は微笑んでバックミラーの中の千条を見た。千条は自分の頬にも笑みが浮かぶのを感じていた。千条は無線のスイッチを切った。「私に限って言えば、百合枝様にお呼びいただければ、いつでも参上致します」「あら、どういう事?」「買い物の荷物持ちでも、お話し相手が必要な時でも、何でも」「それはお仕事の内に入っているの?」「残業手当はつきませんが、百合枝様のお役に立ちたいと願っております」百合枝は再び微笑んだ。「ありがとう。貴方も”盾”なの?」千条は迷った。”盾”について通常は口外してはならず、百合枝が『奴等』との戦いについてどの程度の知識があるのか、知らされていなかったからである。千条は言った。「今は百合枝様をお守りする”盾”です」百合枝はそれ以上深くは聞かなかった。「そう、では今度、重いものを買う時にはお願いするわね」「はい、お供させて頂きます。必ずお呼び下さい」千条はスイッチを元に戻した。百合枝が屋敷に滞在する間、警備部の車は屋敷の側に待機していた。千条の車の助手席のドアが開いた。乗り込んだ鹿沼が厳しい顔で言った。「警告したはずだぞ」「ああ、そうだな」「お前は甘すぎる」「守りたいと思うのが、何故いけない」「我らは本来、当主様をお守りする為にいるのだ」「分かっているさ」「なら、いい」千条は屋敷の玄関を見ていた。玄関の横手には、植えられたばかりの白いオールドローズが、まだ春浅い風に揺れていた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/09
朱雀のマンションでの生活に、百合枝は徐々に馴染んで行った。多忙な朱雀はほとんど家にいない(昼間は寝室で全身の痛みに耐えているのだが、百合枝はそれを知らない)。居る時は百合枝の所に顔を見せる。もしくは朱雀の住居で一緒に時を過ごす。約束通り、朝夕は百合枝と柚木(ゆずき)と進士(しんじ)の三人で食卓を囲んだ。柚木も百合枝に大分慣れ、色々と自分から進んで話す様になった。柚木が学校でいない昼間、進士との昼食を百合枝が作る事もあった。百合枝と料理の交換教授をする楽しみが増えた事を、進士は喜んだ。百合枝は週に三回、柚木に英語と仏蘭西語を教えた。柚木は頭が良く上達も早かった。百合枝は柚木が絵を描いているのを知った。百合枝が柚木の部屋にあったスケッチブックに目を止めると、柚木は恥ずかしそうにそれを見せたのだ。それはおよそ子供が描く絵とはかけ離れた絵だった。力強い線と繊細な色使いの中に、絶望と不安が暗く滲み出していた。(この子の心には、これほどに深く激しい何かがあるのだわ)「朱雀おじさんには言わないで」「どうして、こんなに上手なのに」柚木は決まりが悪そうな顔をした。「僕の将来に、絵は必要じゃないんだ。僕は”盾”になるのだから」「たとえそうでも、絵を描いても良いのではないの?」柚木は引き締まった顔をした。「僕には他にやる事が沢山あるんだ」百合枝はスケッチブックをめくっていった。「心を豊かにする事、多くを知る事は、どんな時にでも役に立つわ」「でも・・僕らは自分の為には生きられない」百合枝はふと柚木を哀れに思った。(こんな子供が、こんな事を言わねばならないなんて)百合枝はスケッチブックを閉じると柚木に言った。「今度どこかへ絵を観に行きましょうよ。それも勉強よ、言葉を覚えるならその国の文化を知っていた方が良いから」柚木の顔がぱっと明るくなった。「うん」百合枝は柚木の子供らしい顔を初めて見た気がした。桐原から、荷物の処分の件で百合枝に相談があると連絡があった。昼間であった。朱雀はいなかった。「お屋敷まで、誰かに送らせましょう」進士(しんじ)はどこかへ消えた。戻って来た時には、長身の男を二人連れていた。一人は眉の濃い目鼻立ちのはっきりした男で、黒々と濡れたような長髪を後ろに束ねていた。もう一人は長髪の男に比べればやや背は低いが、広くがっちりした肩幅と精悍な顔した男だった。進士が百合枝に二人を紹介した。「朱雀様ご不在の時は、この二人が百合枝様をお守り致します」長髪の方は千条(せんじょう)、もう一人は鹿沼(かぬま)と名乗り、百合枝に頭を下げた。百合枝を間近で見て、千条は淡いときめきを覚えた。遠くから護衛の為に見守る事はあっても、百合枝と直接に顔を合わせたのは、初めてであった。派手な美人ではないが、品があり優雅である。どことなく怯えてみえるのは、まだ自分の置かれた立場を理解しておらず、不安なせいもあるのだろうと千条は思った。「私の車でお送り致しましょう」千条は他人に分からぬ様に鹿沼の背をつついて、合図を送った。鹿沼はちらりと千条を見た。「よろしくお願い致しますね」百合枝は千条に微笑んだ。千条は白い一輪の花がそこにあるような心地がした。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/08
朱雀は居間に移り、ソファに横になった。百合枝が怯えるのは当たり前だ。いきなり命を狙われ、多くの事を知らされ、それで平静でいられるわけがない。身も心もかなり疲れているはずだ。朱雀自身も疲れを感じていた。朱雀は再びつぶやいた。「私達は自分の為には生きられない」それは”盾”が当主の為に生涯を捧げる誓いの言葉でもある。(さゆら子さま・・)その生涯をかけて守るべき人を、朱雀は人生の最初で失ってしまった。その時から朱雀は空虚な人生から目をそむける為に、奇抜な行動や風変わりな言動を隠れ蓑に生きて来た。数年後には大きな戦いが来る。『奴等』が向こうの世界から到達する時がやって来る。この世の戦争とは別の戦い、世の中のあらゆる争いとは別の闘争。朱雀は『火消し』と共に『奴等』と戦わねばならない。そして百合枝は『奴等』に打ち勝つ為に必要な人材なのだ。天井を見上げる朱雀の顔は、厳しく決意に満ちていた。(何があっても、彼女を守らねばならぬ)「こちらにいらしたのね」ソファに横たわったまま、朱雀は声の方を見た。薔薇色のガウンを纏った百合枝が立っていた。朱雀は悩む心を咄嗟に隠し”朱雀の顔”をして言った。「似合うね、我ながらセンスの良さに感心するよ」百合枝は笑った。荒れ果てた庭で聞いたよりも明るい笑いだと朱雀は思った。朱雀は起き上がった。「さて、良い子は寝る時間だ」朱雀は百合枝の背を押すようにして寝室へ連れて行った。寝室から出て行こうとして、朱雀は扉の前で振り向いた。百合枝は再び表情を堅くしていた。朱雀は微笑んでみせた。「明日は幾らでも寝坊したまえ。ゆっくりお休み」胸の前で手を握り合わせ、百合枝は寝台の側に立ち尽くしていた。それは無意識の罠であったのかも知れない。突然、窓が大きな音を立てた。百合枝は朱雀に駆け寄り、しがみついた。それがただの強風である事が朱雀には判っていた。朱雀は百合枝を軽く抱き、優しい声で言った。「どうやら、天気が下り坂の様だ」百合枝は震えていた。「怖いかね」朱雀の腕の中で百合枝は頷いた。朱雀はおどけて言った。「子守唄が必要かね、それともキミが寝付くまで添い寝でもするかね」百合枝は朱雀の腕の中で甘えるように身をよじっただけで答えなかった。それはどちらが先に望んだのか、すでに二人には解らなかった。解っているのは今は二人共望んでいるという事だった。掛布が嵐の海の様に波打ち乱れた上で、二人は抱き合っていた。「ねえ、灯を消して・・」朱雀は枕元のスタンドに手を伸ばした。朱雀の目が闇の中でも良く見える事を、朱雀は百合枝には言わなかった。夜が朱雀と百合枝を包み込んだ。二人は夜の底まで深く沈み込んで行った。ある事に気がついた時、もはや朱雀は止める事の出来ない状況に陥っていた。そのまま、情熱のままに激しく愛の行為を遂げてしまった。朱雀の背中に細い指が爪を立てた。愛欲の嵐が過ぎ去り、汗に濡れ、互いの荒い息を聞きながら、二人はぴったりと重なり合っていた。やがて大きく息を吐き、朱雀が身体をずらした。朱雀は、苦痛に眉を寄せ目を閉じ耐えている百合枝の顔を見た。苦痛ばかりでなかった事は、わずかに緩んだ口元に漂う気配が示していた。白い太股やシーツに、赤く百合枝の証が残されていた。朱雀は百合枝を抱きしめ、かすれた声でささやいた。「キミは・・」百合枝は朱雀の厚い胸に顔を隠した。朱雀は言いかけた言葉を飲み込み、百合枝の豊かな黒髪に顔を埋めた。朱雀は百合枝を再び抱きしめた。優しく髪を撫で、額にこめかみにくちづけを繰り返した。愛の証を朱雀の舌が丁寧に舐め取った。それは朱雀の命になった。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/06
朱雀は書斎の椅子の背に持たれかかり、大きく伸びをした。「さて、今日はどこに寝るかな。竹生様に寝室をお貸ししてしまった」朱雀の寝室の方から竹生の悦ばしげな様子が伝わって来る。朱雀の”人でない”感覚はそれを感じ取っていた。(あの方も、長く孤独であったのか・・)朱雀は竹生の心中を思いやった。「私達は自分の為には生きられない」朱雀は”盾”に伝わる戒めの言葉をつぶやいた。佐原の家の当主であった幸彦の「最強の盾」として、人としての幸せも、人である事すら捨てざるを得なかった竹生。長き戦いの果てに、つかの間の平穏を望んで何が悪かろう。軽く扉を叩く音がした。「入れ」進士が入って来て頭を下げた。「百合枝様が不安がっておられる様です」「そうか」「温かいお茶をご所望されましたが、本当に必要なものはこちらにあるかと」朱雀は片方の眉を上げ、進士のいつも平静な顔をじろりと見た。朱雀の住居に続く扉を叩く音がした。百合枝が扉を開けると、ポットと茶器の載った銀の盆を片手で頭上に高く差し上げ、朱雀が立っていた。わざとらしく慇懃に良く通る声が言った。「ルームサービスをお持ち致しました」百合枝は驚いた。朱雀が来るとは思っていなかったのである。朱雀は淡いグリーンのパジャマの上に濃紺のナイトガウンを着ていた。素足にスリッパを履いている。百合枝はワンピースのままであった。入り口に立ち尽くす百合枝に、朱雀は笑顔で優しく尋ねた。「中に入れてもらえるかね?」百合枝は部屋の中へ退いた。中へ進んだ朱雀は居間のテーブルの上に盆を置いた。キッチンから百合枝の声がした。「こちらへ持って来て下さらない?」「いいとも」そこは小さなテーブルと椅子のあるこじんまりした空間だった。紫がかった青で野生の苺を描いた白いテーブルクロスの上に朱雀は盆を置いた。百合枝は両腕で自分の身体を抱き、すがる様な目で朱雀を見た。朱雀は何も言わずその目を暖かい目で見返した。「ここは広すぎるわ」「キミの屋敷の方が広いだろう」「私の部屋はそんなに広くないわ。それに」「それに?」「ずっと暮らして来た家だもの」朱雀はポットを手にした。「座りたまえ、カモミールのお茶だ。夜にはこれがいい」薄手の白いティーカップに朱雀はお茶を注ぎ、席に着いた百合枝の前に置いた。「蜂蜜を少しどうかね?進士が最近気に入っているプロヴァンスの物だそうだ」百合枝が頷いたので、朱雀は硝子の入れ物から銀のスプーンですくい、百合枝のカップに入れてやった。百合枝が言った。「貴方もいかが?」「では、いただこうか」朱雀は百合枝の正面に腰を下ろした。百合枝がポットに手をかけると、朱雀がその手を押さえた。「今日のキミは、我が家のお客様だ」朱雀は自分でカップを満たした。百合枝がつぶやいた。「風が・・」「風?」「窓が激しく鳴って、外に人影が見えた気がしたの。私、怖くなって・・」朱雀は片手を伸ばし、百合枝の手を握った。小さな手は冷たかった。そして朱雀の手は温かかった。百合枝は怯えた顔を少し和らげた。「大丈夫だ、ここは安全だ」おそらく狩に出かけた三峰だろうと朱雀は思った。「これを飲んだら、ゆっくり風呂でも使いたまえ」「ええ」朱雀は百合枝の手を放した。「風呂に湯を入れて来よう」コックをひねると、クリーム色のバスタブに勢い良く湯がほとばしった。朱雀はバスルームの隣のクローゼットからノースリーブのネグリジェと対になったガウンを取り出した。薄い薔薇色の絹にレースを使った豪奢な物であった。それを手に百合枝の所に戻った。「せっかく用意したのだ、着て欲しいものだな」「素敵だわ」百合枝はそれを受け取り、胸に抱きしめた。再び元の椅子に腰を下ろした朱雀に、百合枝はためらいがちに聞いた。「もう少し、居て下さる?」「キミが落ち着いて、ベッドに入るまで、居るから安心していい」百合枝は笑顔になり、立ち上がるとバスルームの方へ歩いて行った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/05
『奴等』が何処から来たのか、何時からいるのかわからない。同時に『奴等』の侵入を阻む”壁”を守る者、『奴等』と戦う者達が存在した。人の心に忍び込む『奴等』・・心を奪われた者は悪鬼と化す。多くの血が流される。かけがえのない命が失われていく。『奴等』の進入を阻止する”壁”はいたる所に張り巡らされているが、余りにも薄い。ひとたび破られると『奴等』は容赦なくやって来る。『火消し』は『奴等』の災難を人知れず消す者。『火消し』の神内の手にある青い石の剣は『奴等』を切り裂く度に短くなる。その剣が消えた時、神内は役目から解放される。『火消し』とその仲間は、死んでも又生まれ変わる。自分の役目が終わるまで。”異人”とは『奴等』に心を奪われ、操られた者。或いは自ら『奴等』に心を渡した者。人でありながら『奴等』の加護により超常的な能力を持つ。心を奪われた度合い、個人の素質や能力により、その力には格差がある。佐原の家の当主は”夢の力”を持つ。『奴等』の居所を知り、『奴等』に蝕まれた心を癒す能力。それ故に当主は『奴等』に狙われる。当主を『奴等』の手から守るのが”盾”である。佐原の村で当主の身辺を守る者、そして村の”外”の世界で『奴等』が村へ侵入するのを阻む者、”盾”の役割は二つに分かれている。”外”の盾は、現在は三峰の指揮下で幸彦と真彦父子を守護する者と、朱雀の指揮下で行動する者がいる。いずれも佐原の「盾の家」と呼ばれる家の出身の男達である事には変わりはない。村と”外”の盾の人員は定期的に入れ替えられる。朱雀の配下の警備部の者は、朱雀の会社に所属する都合上”外”への滞在期間が長く、村に家族や身寄りの少ない者達が選ばれる事が多い。”壁”と結界に守られている村と違い、警備部の盾達は実戦が多い。それだけ命を落とす可能性も大きくなる。その為に高給や様々な特権が与えられる。だから志願する者もいる。千条は志願した盾であった。待機していた千条の車に、朱雀から連絡が入った。朱雀の携帯電話には警備部の無線に繋がる特殊な仕掛けがある。朱雀は百合枝を自らの下に保護する事を告げた。「私の不在の時は、お前か鹿沼の組が彼女の護衛に付け」「承知致しました」千条は答えた。「護衛の責任者は千条、お前とする。竹生様にも気に入られた方だ、心して当たれよ」「はい」無線を切った後、千条は大げさな身振りで肩をすくめ、運転席の鹿沼を見た。「竹生様が女性に興味を?えらい事だな」「社長のいつもの冗談かも知れんぞ」「いくら社長でも、竹生様を冗談のネタには出来ないだろう」「まあ、そうだな」「という事は、大変なお役目についてしまったという事だな」鹿沼は車のエンジンを掛けた。「どんなお役目でも、お役目はお役目だ」千条は片手で後ろの部下の車に合図を送った。「美人だと張り合いがあるな」「お前は惚れっぽいからな。社長と、もしかしたら竹生様がライバルかも知れんぞ」千条は苦笑いした。長い黒髪を後ろに束ねた千条も人並以上に良い男ではあるが、朱雀の水際立った男ぶりや竹生の美貌には及ぶべくもない。「最初から勝ち目はないな」「そういう事だ」警備部の車は、朱雀のマンションの前から去って行った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/03
朱雀達が”異人”に襲撃された事は、すでに警備部に連絡が届いていた。朱雀の車には特殊なセキュリティが幾つか施されている。異人と戦う為に車を降りた時、朱雀は警備部への緊急連絡のボタンを操作したのだ。知らせを受け取った警備部の部長の磐境(いわさか)はただちに千条のチームを現場に向かわせた。千条達が到着した時には、すでに朱雀の車はなく、異人達の屍も消失した後だった。『奴等』は証拠を残す事を極端に嫌う。異人の死体はどういう仕掛けかこの世界から消え去ってしまうのだ。千条は車の無線から磐境に報告を入れた。磐境の声が無線機のスピーカーから聞こえた。「社長はご無事だ。ご自宅に戻られた」「了解です。我等もただちに戻ります」「お前達はご自宅の側で待機を」「社長のですか?」「今夜、竹生様とお会いなるそうだ。道中の護衛を頼む」「竹生様が余所者と?それは珍しいですね」千条の言葉に、磐境の叱責が聞こえた。「口を慎め、余計な事は言うな」千条は(しまった)と思った。警備部に所属していても、部内の役割をすべて知っている者はごく一部なのだ。それは佐原の村で訓練を受けた”盾”と呼ばれる者達だった。それ以外の者は、会社の建物の管理や警備、会社の要人の警護等が仕事だと思っている。社長自らが未知なる敵と戦う者であると想像もしていない。磐境のそばに誰かいないとも限らないのだ。社長に同行者がいる事も、知っているのは磐境と”盾”だけなのである。「申し訳ありません、では速やかに移動致します」”盾”では組と呼ばれる三人一組の編成をあえて”チーム”と呼ぶのは、”盾”である者達の意識の切り替えの意味もある。盾の者は”外”の者とチームになる事はないが、表面上は”外”の者達と変わらぬ行動を取る様に厳命されている。それとは別に”外”の者でも”盾”の協力者となる者もいる。磐境の先任の部長はそうであった。朱雀だけでなく「外のお役目」に着く者達は、外での活動を円滑にする為に、外の協力者との親密な関係を保つ事も重要な事のひとつであった。無線を切ると、運転席の鹿沼(かぬま)が車を出発させた。鹿沼がハンドルを操りながら言った。「不思議な力を持つ方らしいな」「癒しの力らしい」千条が答えた。千条は百合枝について磐境から内密に情報を与えられていた。他の仕事へ回っていた鹿沼は、まだ百合枝についての詳細を聞いていなかったのだ。「カナ様がお亡くなりになったのだ。もし本当であれば、心強い事だな」「”異人”が絡んでいるという事は、おそらく間違いないだろう」千条はシートを倒した。「おい、勤務中だぞ」鹿沼がたしなめた。千条は笑って相手にしなかった。鹿沼と千条は同期の”盾”だった。鹿沼はどちらかというと論理的な思考の人間で、感情的になりやすい千条のブレーキ役でもあった。二人とも”盾”らしく長身で端正な顔立ちの男達であった。背は千条の方が少し高く、肩幅や胸の厚みは鹿沼の方があった。「昨夜も残業だったのだ。少し位、見逃してくれ」「仕方ないヤツだな。お前より朱雀様の方がお疲れなはずだ。本来の責務もこなしながら、一日も休みなく、あの方を守っておられる」千条は目の上にハンカチを載せた。「社長は特別だ」「お前は本当に注意力が足りんな。社長も疲れておられるのだ」鹿沼の返事には真面目な響きがあった。千条はハンカチをずりあげ、鹿沼を見た。「何故解る」鹿沼は前を見たまま言った。「敵の殲滅を急ぎすぎる。以前はもっと余裕がおありだった」千条は椅子を元に戻し、起き上がった。「俺はたるんでいるな、確かに」鹿沼は口元に微かに笑みを浮かべた。「着くまで寝ていろ。少しでも英気を養って、社長の負担を減らせるようにな」千条はため息をつくと、椅子を再び倒した。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/06/01
「今日はここに泊まりたまえ。キミも疲れただろう、色々あり過ぎた」「そうね、貴方も」百合枝は戦いの後の朱雀の顔を思い出した。そして竹生の前での緊張した姿も。朱雀は控え目に言い足した。「キミが、ここを気に入ってくれるとうれしいが」笑顔で朱雀を見上げた。「ええ、とても」朱雀も笑顔を返した。「それは良かった」しかし百合枝の顔はすぐに不安に翳った。「まだ良く分からない事が多くて」朱雀は慰める様に百合枝の肩を大きな手で軽くさすった。「それも説明する。その時間も必要だ」百合枝は知りたい事が沢山あった。朱雀の事も含めて。「明日もゆっくりしていってくれるのだろう?私が戻るまで」百合枝は小さく頷いた。朱雀は居間の壁に取り付けられたインターフォンを顎で示した。「あれで呼べば進士が出る。用事は何でも言いつけたまえ」「ええ、ありがとう」百合枝はここで暮らしても良いと思い始めていた。朱雀もそう感じていた。「あの・・」「何だね」「竹生様に、私の部屋以外はすぐに屋敷に手を加えても良いと、伝えて下さらない?」朱雀は竹生にそれが聴こえただろうと思った。竹生の耳は人の何倍も良いのだ。朱雀も常人を遥かに超えた五感を持つが、竹生のそれは、朱雀よりも三峰よりも数段上なのだ。だが朱雀は言った。「分かった、お伝えしよう」朱雀は自分の書斎に戻り、マンションの下で待機している千条に連絡を入れた。朱雀の携帯電話には、警備部の者達と直接通じる特殊な仕掛けがあるのだ。朱雀は百合枝の身柄を保護する旨を彼等に伝えた。「私の不在の時は、お前か鹿沼の組が彼女の護衛に付け」千条が答えた。「承知致しました」「護衛の責任者は千条、お前とする。竹生様にも気に入られた方だ、心して当たれよ」「はい」朱雀は通信を切った。”壁”の向こうで楽しげに踊る者がいた。灰色の不可思議な物質で作られた部屋の壁に、鼻歌を歌いながら踊るタキシード姿の影が映っていた。「愛は芽生え、愛の花が咲く。愛は育ってから、それを壊す方が楽しい」赤い髪の異人は上機嫌で歌った。「私達は待てばいい、やがて来る愛の夜明けを・・」床に座り込んだ黒い男がうんざりした様に言った。「いつまで待てば良いのだ?俺は気が短いんだ。もう充分待っただろう?」赤い髪の異人・鞍人(くらうど)は黒い男を見た。その顔は不機嫌に変わっていた。「やる事は他にもあるだろう。お前は馬鹿なのか?建角(たけつぬ)」建角は白い歯を剥き出して凄んだ。「馬鹿だと!口に気をつけろ、鞍人」鞍人は動じなかった。「”あの方”達がおいでになるまで、掃除はいくらでも必要だ。忌々しい”人でない者”も狩をしているが、私達も狩をしよう」建角は馬鹿にされた事もたちまち忘れ、笑顔になって身を乗り出した。「面白そうだな」鞍人は再び上機嫌の顔になった。「美味そうな奴を見つけたら、喰えばいい」「いいのか、騒ぎになっても」「都会なら、そうそうは見つからないさ。こっそりとやるのだ」「だったら何で、今までそうしなかった」「”あの方”達は騒ぎを起こすのはお嫌いだ。だが今はいない」「俺は面倒は嫌いだぞ」鞍人はにんまりと笑った。「だから、こっそりとだ」「見つかったら、罰を受けないか?」鞍人は建角に言い聞かせる様に、ゆっくりと繰り返した。「だから、こっそりとだ」建角もにんまりと笑った。「美味そうなのが見つかるといいな」鞍人は答えず、壁に映る影をパートナーに見立て、再び楽しげに歌い踊り始めた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/05/30
朱雀と百合枝は、朱雀の住まいの玄関からマンションの廊下へ出た。暖色の灯に照らされた廊下の右側に扉が並び、突き当たりにエレベータが見える。出てすぐの扉を指し、朱雀は言った。「ここが柚木の部屋だ」朱雀は柚木の部屋の隣の扉に触れた。特殊なロックがあるらしい。何かを操作すると扉が開いた。「ここがキミの為に用意した部屋だ」中へ入ると灯が点いた。クリーム色の廊下があった。突き当たりの濃茶の木製の扉を開けるとリビングだった。淡いモーヴ色の絨毯が敷かれ、金茶色のソファと同じ生地の肘掛け椅子とオットマンがあり、テーブルには細かい花模様のクロスがかけられていた。床まで届いたカーテンも花模様で、それらは英国の田舎を思わせる、派手ではないが愛らしい草花であった。朱雀は百合枝に室内を案内した。「キッチンはここ、ここがバスルーム、こちらが寝室だ」ベッドにも同じような花模様のカバーが掛けられていた。テーブルも箪笥もどっしりとした古い欧州の風格を漂わせたものであった。「急いで用意させたのだが、気に入ってくれたかね」「素敵だわ・・私の趣味がどうして解ったのかしら」「あの家を参考に選んでみたのだ」朱雀を見上げて、百合枝は微笑んだ。「私、着替えだけ持って来れば、良いみたいね」「少しなら、それも用意してある。サイズはたぶん大丈夫なはずだ」朱雀はにやりと笑い百合枝を見た。百合枝は朱雀を軽く睨む真似をした。百合枝は部屋を見渡した。寝室だけでも百合枝の部屋以上の広さがある。「広すぎるわ。柚木君の家庭教師には分不相応です」「言ったはずだ。私はキミを使用人にするつもりはないと」「でも・・何故こんなに親切にして下さるの?」朱雀は百合枝の肩に手を置き、顔を覗き込んだ。「キミは狙われている。先程も襲われたのを忘れてはいないだろう」「ええ」「私もずっとはキミのそばにはいられない。ここなら安全だ」「私の、この力のせい?」「そうだ、しばらく外出は昼間だけにしたまえ。『奴等』はあまり昼には出て来ない。私のいない時は、私の部下にキミを守らせる」百合枝は笑った。「急に重要人物になった気分だわ」朱雀は笑わなかった。「キミは我らにとって大切な人なのだ。そして『奴等』にとっては邪魔な人間なのだ」二人は寝室を出て、リビングに戻った。朱雀は玄関に通ずるのとは別の扉を開けた。そこにはフローリングの廊下があった。「ここから私の住まいに繋がっている。外に出なくても行き来が出来る。柚木の部屋とも」「じゃあ、表に出なくても良かったのね」「キミに部屋の位置を教えたかったのでね」朱雀は百合枝の耳元でささやいた。「普段は鍵を閉めておきたまえ。私がキミの寝室に忍び込まないように」百合枝がささやき返した。「貴方にいらして欲しい時は?」「私は合鍵を持っている」百合枝は朱雀の厚い胸を軽く叩いた。朱雀は笑った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/05/29
寝台の枕元に座った竹生の横に立ち、三峰は朔也を見下ろした。「良かったですね」「元の通りには、戻らぬかも知れぬな」「それでも、兄さんは良いのでしょう?」「これが、我と共に生きてさえくれれば」「我らと同じものになって?」「分からぬ・・それは、これが自分の意志を取り戻し、決める事が出来る様になってからだ」「もし、ずっと人形の如きままであったら・・」三峰が言いかけた時、朔也が目を開いて言った。「私は・・竹生様の人形・・なのでしょうか」竹生は朔也の頬を指先で触れた。「ああ、今はそうかも知れぬ」「人形は飽きられると捨てられる・・ですね」竹生はふっと笑った。「お前は、妙な事だけ覚えているのだな」「そうですか・・私は人形・・」朔也は再び目を閉じた。「三峰」「はい」「百合枝は、我らの母に似ている」三峰は合点がいった。女に無関心な兄でも母親は特別であったのだ。「そうですね、目のあたりが少し。優しい物言いや仕草も」「私の目を癒す時、百合枝が微笑んだ。あの笑顔が母に似ていた」竹生は何かを思う顔をしていた。三峰はそれを美しいと思った。見慣れたはずであるのに、三峰は兄を見るたびに、心に揺れる想いを感ずるのである。弟の自分ですらそうであるのだから、竹生と出会った者達が、我を忘れて見入るのも無理はないと思うのであった。「お前は妻と子を持ち、家族の幸福という物を知っているであろう。父と母を失ってから、私はいつも一人であった。”盾”ゆえに、弟のお前とも、肉親の絆は断ち切られていた」三峰は黙って聞いていた。兄がこんな話をするのは初めてであった。「私はいつもお役目の為に生きて来た。今、幸彦様の守護者の立場をお前に譲り、”盾”の責務からも解放された。そして・・私は”人でない者”、長き時が先にある」竹生は安らかな寝息を立てている朔也を見た。普段は誰にも見せた事のない寂寥を滲ませた竹生の横顔が、三峰の胸を切なくした。「私はこれに巡り合った。真っ直ぐな心と優しさと脆さを持ち、そして誰よりも強い盾だった。誰もが恐れる私にさえ、これはひたすらに誠意を尽くそうとした」三峰は朔也の過去を知っていた。苦い思い出がそこにあった。「つまらぬ私の意地が、これをこんなにしてしまった。もしこれが目覚めたら、今度は心穏やかに暮らしてみたいと思ったのだ」「それで、あの家を」竹生は三峰に微笑んだ。「もう良いであろう?私も家族を持っても。真似事でも良いのだ、呪われた我らは血の匂いからは逃れられぬ。だが一時でもそれを忘れる場所を、持っても良いであろう?」三峰は竹生の孤独を感じた。三峰は兄を抱き締めた。「ええ、良いですとも。朔也の身体もじきに良くなるでしょう。あの家に越したら、私も訪ねて行っても良いですよね」「当たり前だ、お前は私のたった一人の弟ではないか」竹生も三峰を抱き締めた。その様な行為さえ、この兄弟は、人である時はした事がなかった。「私は狩に行って参ります」竹生が身体を離すと、三峰は天を仰いだ。天井の上に広がる夜空の気配を”人でない”三峰の鋭敏な感覚は感じる事が出来た。「今宵は月も冴えている。貴方の分まで狩をして来ましょう」「ああ、すまなぬな、弟よ」三峰は寝台の横にある窓のカーテンを左右に開いた。窓を開けると冷えた夜気が流れ込んで来た。「では、行って参ります」三峰は軽く床を蹴ると、ふわりと窓枠に飛び乗った。そして竹生と目を合わせ微笑むと、蒼く月の輝く空を風と共に翔けて行った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/05/27
竹生は他人に興味を持つ事はほとんどない。わずかに実弟の三峰と同じ風の家の一族である朱雀にだけには親しみを見せる事があった。幸彦の”盾”の長であった時も、幸彦以外の人間には一切無関心であった。美しい竹生に熱いまなざしを送る者も多かったが、竹生はそれらにも無頓着であった。特に竹生は女には興味がなかった。女の名前を覚える事さえなかった。しかし百合枝を抱き締め、その名を呼んだ。「前代未聞」と三峰が言うのも無理はなかった。「朔也の身体も、まだお前の手が必要の様だ。百合枝」「百合枝・・さん?」百合枝を抱きしめたまま、朔也がつぶやいた。「お前は不服か?」竹生の言葉に朔也は微かに首を振った。「優しい・・暖かい・・」「朔也も百合枝を気に入っているのだな」竹生は朱雀を見た。「お前も一緒に住めばいい」朱雀は苦笑した。「おたわむれも程々に、竹生様」竹生はそれには答えなかった。三峰の優しい声がした。「夜も更けてしまいましたね。竹生様も百合枝様も、今夜はこちらへお泊りになった方がよろしいでしょう」三峰は寝台の側に立つ朱雀の隣まで進んだ。「いいだろう、朱雀」朱雀は頷いた。「竹生様、今宵はこの部屋をお使い下さい。必要なものがあれば、遠慮なくおっしゃって下さい」竹生は朔也から目を離さずに言った。「ああ、世話になる。さっそくだが、これの着替えを用意して欲しい」「承知致しました」朱雀は部屋の片隅の箪笥を開け、オフホワイトの厚手のパジャマを取り出した。「今はこれをお使い下さい。明日には他の物を用意させます」朱雀はそれを竹生の脇のテーブルに置いた。竹生は朔也の腕にそっと触れた。「そろそろ百合枝を離してやれ」朔也の腕から力が抜け、だらんと身体の両側に垂れた。百合枝は起き上がった。朔也はすがりつくような目で百合枝を見た。「貴方は・・私を怖い目で見ない?憎しみの目で見ない?」百合枝は戸惑った。何か朔也の過去に係わる事であろうか。「ええ、そんな事はないわ」百合枝は朔也に微笑んだ。朔也は安心した様に目を閉じた。朱雀が三峰にささやいた。「朔也の事は、柚木にはまだ・・」「ああ、知らせぬ方が良いな」三峰は頷いた。朱雀は百合枝を助け起こしながら言った。「キミも黙っていてくれ、百合枝。事情は後で説明する」この朔也という青年は柚木とも関係があるらしい。彼等の故郷の村には秘密が多そうだと、百合枝は思った。「キミの為に用意した部屋へ行こう」朱雀は百合枝を促した。「それでは、失礼致します」竹生に頭を下げ、二人は出て行った。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/05/26
どの位の時が経ったであろうか。不意に青年が大きく呼吸をした。びくりと身体が波打ち、閉じた睫毛の先が震えた。青年はゆっくりと目を開いた。竹生がその顔を覗き込んだ。青年の唇からかすれた声がした。「ここ・・は・・?」「朱雀の家だ」青年の顔を覗き込んだまま、竹生が答えた。その声にはあふれる喜びと優しさがあった。「す・・ざく・・?誰・・?」青年の顔が歪んだ。「わたし・・は、誰?・・思い出せない」戸惑いと恐怖が青年を支配している様だった。青年はぎこちなく身体を動かし、起き上がろうとした。百合枝が、その身体の上に崩れるように突っ伏した。「百合枝!」朱雀は意識を失った百合枝を素早く抱き上げると、部屋の隅のソファに運び、そっと横たえた。青年は怯えた目で百合枝を見ていた。竹生は寝台の枕元に腰を下ろしたまま、青年の手を握り、黒く細い絹糸の如き髪を撫でた。青年は、愛しげに自分を見ている、月の輝きと安らぎを湛えた美貌を見上げた。その顔は、混乱した心にも感動を与える程に美しかった。恍惚のまなざしで、青年は竹生を見ていた。「私が判るか?」青年の顎が小さく頷いた。「たけお・・さま」神の美貌に天上の微笑が広がった。「それだけ判れば良い」青年は再びつぶやいた。「私は・・誰?」竹生は、青く深く澄んだ光を湛えた目で、青年を見ながら言った。「お前は、朔也だ」「さ・・く・・や?」「ああ、そうだ」朱雀と三峰は顔を見合わせた。この者の名は・・「朔也・・」青年は口の中で繰り返し、その顔に安堵の笑みが浮かんだ。「はい・・竹生様・・」竹生は青年を抱きしめた。「今はそれだけ解れば良い、良いのだ・・朔也」百合枝はすぐに意識を取り戻した。朱雀が百合枝にささやいた。「大丈夫かね」百合枝は弱く微笑んだ。「ええ・・少し、気が遠くなっただけ」百合枝が起き上がると、竹生の声がした。「朱雀、百合枝を連れて来い」朱雀は百合枝を抱き上げると、寝台まで運んだ。竹生の指示で、百合枝は竹生の隣に腰を下ろした。朱雀はその傍らに立った。竹生は百合枝に言った。「朔也は、左半身が良く動かぬというのだ。分かるか?」百合枝は朔也の身体を見た。(まだ毒が残っているのかも知れない・・でも)百合枝はまだ自分の力を良く理解していないのである。(どうしたらいいの?)不意に朔也の手が伸び、百合枝を引き寄せた。百合枝は朔也の上に倒れこんだ。竹生は動かなかった。だから朱雀も動けなかった。朔也は百合枝の背に右手を回した。ぎこちなく左手も動かし、両腕で百合枝を抱き締める格好となった。「ああ・・」朔也はため息を漏らした。裸の青年の胸に頬を押し付け、百合枝は驚きながらもじっとしていた。「貴方に触れると・・痛みが・・楽になる・・」重なり合う二人をじっと見ながら竹生が言った。「百合枝、お前の家を買うのは私だ」「竹生様が?」百合枝も朱雀達と同じく、思わず”竹生様”と呼んでしまった。竹生は満足げに頷いた。「明日からでも、手直しをさせたい」竹生は朔也を愛しげに見た。「早くこれを、ゆっくりと養生させてやりたいのだ」百合枝は遠慮がちに言った。「でも、私・・まだ住む所も決まっていなくて」竹生は微笑んだ。「お前の部屋に、そのまま住んでいても良いぞ。私はお前が気に入った」百合枝は驚いた。それ以上に、朱雀と三峰は驚いていた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/05/25
やがて竹生の手が百合枝の手首を掴んだ。掴んだまま自分の目から百合枝の手を下ろした。竹生の顔が皆に見えた。竹生は目を閉じていた。長い睫毛が頬に影を落としていた。竹生はゆっくりと目を開いた。その白き顔に薄く笑みが広がった。「良く見える、見えるぞ」「では、御目がお治りに」三峰の声にも喜びがあった。竹生の目の事は三峰しか知らぬ事であった。竹生の目は『奴等』の毒に侵され、視力を失いかけていたのであった。竹生はその事を他者には隠していたのである。竹生は百合枝を抱きしめた。さらさらと流れる白く長い髪が百合枝の周囲を覆った。白い髪の帳(とばり)の中で、青く甘い香りが百合枝を包み込んだ。それは朱雀の香りに似ていたが、更に甘く魅惑的であった。百合枝の耳元で竹生がささやいた。「女よ、名は何と言う」「御影百合枝・・です」百合枝は恍惚の中で答えた。竹生の声には柔らかな闇にまどろむ様な心地良い響きがあった。「百合枝・・礼を言う。お前になら、私の大切な”あれ”を見せても良い」三峰が朱雀の耳元でささやいた。「竹生様が女性を・・前代未聞だな」朱雀は肩をすくめた。竹生の女嫌いは有名だった。正確には女が嫌いなのではない、興味を示した事がないのだ。竹生に名前を覚えられた女はいない。そして抱きしめられた女もいない。竹生を良く知る弟の三峰にとっては、百合枝の力よりも驚異的な出来事であった。竹生は朱雀に寝台の側に椅子を運ばせ、百合枝に顎で示した。「こちらへ来い」百合枝は大人しく従い、椅子に腰を下ろした。竹生は寝台の枕元に腰を掛け、慎重な手付きで布を解き始めた。それは丁重に幾重にも包まれていた。姿を現したのは、これも美しい青年だった。目を堅く閉じている。真っ直ぐな黒い髪、端正な顔立ち、滑らかな肌は蜂蜜色をしている。竹生は更に布を剥いだ。喉から胸元があらわになると、胸が少し上下しているのが分かった。(生きている・・)百合枝は安堵した。余りにも青年の表情が穏やかなので、遺体ではないかと怯えていたであった。裸の上半身がすっかり皆の目の前に明らかになった。竹生は青年を見ていた。そのまなざしは優しく、きらめく魔性の青い瞳も和み、微かにうるんで見えた。竹生は青年から目を離さずに言った。「百合枝・・何か見えるか?」顔だけではなく、身体も美しい青年だった。均整の取れた身体は細身ではあるが、鍛えられた筋肉がほど良く付き、引き締まっている。だがその腹には横に走る無残な傷痕があった。そしてその傷にまとわりつく緑の炎が百合枝には見えた。炎は青年の身体のいたる場所にちろちろと蛇の舌の如くうごめいていた。百合枝はつぶやいた。「毒・・」竹生はうなずいた。「そうだ、『奴等』の毒だ。これは多くを助ける為に、己を犠牲にしたのだ」百合枝は竹生が何を望んでいるのかを感じた。竹生はこの青年を百合枝が癒せるかどうかを知りたいのだ。百合枝はまだ自分に何が出来るのか分かっていなかった。けれども心のどこかで百合枝に語りかけるものがあった。百合枝は両手を青年の腹の傷に当てた。ぞっとする冷たいものが、恐ろしい勢いで百合枝の手から体内に流れ込んで来た。百合枝は眩暈がした。百合枝の身体が揺らいだのを見て、素早く朱雀が駆け寄り、百合枝の身体を支えた。「大丈夫かね、無理はしなくていい」「ええ」百合枝は朱雀に軽く微笑んでみせた。百合枝を支える朱雀の手のぬくもりが、百合枝を勇気付けた。百合枝はもう一度、今度はそろそろと手をかざしてみた。少しずつ緑の毒が流れ込んで来る。これ位なら耐えられると百合枝は思った。三人の見守る中、百合枝は青年の身体に手を当てたまま、目を閉じ俯いた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/05/23
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