Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月17日
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カテゴリ: 霊魂論



ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-6
5.ゲーテの空間概念
 物理学におけるゲーテの仕事を十分に理解するためには、彼の「空間」に関する概念を展開させる必要があります。この概念を理解するための必要条件はこれまでの節の中に内在する確信、すなわち、第一に、私たちの経験の中で別々のできごととして現われる現象は相互に内的に関連しているという確信です。実際、それらは全世界を包含する統一の絆によって結びつけられているのです。それらすべの中には「ひとつの」原理が生きています。第二に、私たちが別々の事物にアプローチし、それらの関連性を決定することでそれらを結びつけようとするときにはいつでも私たちが創造するところの概念的な統一性は、それらの事物にとって外的なものではなく、自然存在そのものの正に中心から導き出されるものであるという確信です。ひとつのプロセスとしての人間の認識は事物の外側で生じるのではありません。それは純粋に主観的で恣意的なものではありません。むしろ、自然法則として私たちの精神の中に生じるもの、私たちの魂の中に生きるようになるものこそ、正に宇宙の鼓動なのです。私たちの現在の目的のために、私たちの精神が経験の対象物の間に打ち立てるあらゆる関連の中でも最も外的なものを検証してみましょう。経験によって精神的な活動が喚起される最も単純な例を見てみることにします。現象世界における二つの単純な要素を想像してみましょう。ものごとをできるだけ簡単にするために、二つの光の点を想像します。心に大きな問題を突きつけるひどく複雑な現象をこれらの光の点がそれぞれ示しているかも知れない、という事実は完全に無視してください。それらの感覚的な特徴は無視して、二つの別々の、つまり私たちの感覚が私たちに告げる限りにおいて、別々の要素という単純な事実についてだけ考えてください。そこには二つの要素があり、それぞれが私たちの感覚に影響を及ぼしていますが、それだけの意味しかありません。このことはまた、これらの要素の内のひとつの存在がもうひとつの存在を排除しない、つまり、それらの両方が「ひとつの」知覚器官によって知覚され得るとも言えるでしょう。もし、これらの要素の内のひとつの存在が何らかの仕方でもうひとつの存在に依存していると仮定するならば、私たちは非常に異なった問題に直面することになるでしょう。もし、Bの存在が、それはAの存在を排除するけれども、それにもかかわらずその存在はそれに依存しているというようなものであったとしたら、それらは「時間」の意味で結ばれていることが示唆されます。と申しますのも、もし、Bの存在がAに依存し、そして、Bの存在がAを排除するとしたら、AはBに先立つものでなければなりません。しかし、それは別の問題です。そのような関係を私たちの目的のために想像することはありません。私たちはこれらがお互いを排除せず、共存すると仮定します。それらの内的な本性によって要求されるあらゆる関係を無視することによって、二つの別々の実体としてのそれらの関係だけが残ります。私は一方から他方へと行くことができ、そして、二つの間には間違いなくその種の関連が存在しています。もし、私がひとつの事物から別の事物へと移行することができ、それぞれがその過程で全く変化しないままに留まるとしたら、それらの間には「空間」という意味での結びつきだけがあるはずです。その他のいかなる関係もそれらの質的な違いを含むものとなるでしょう。しかし、空間は、それらが「分離している」という事実を除いて、あらゆることに中立です。もし、私が、Aは上にあり、Bは下にあると言うならば、AあるいはBが何であるかということは問題になりません。それらについての私の唯一の考えは、それらは私の感覚に提示される二つの別々の世界要素であるということです。経験にアプローチするときの私たちの心は、あらゆる分離が克服され、全体の力が個別のものの中で明らかになるのを欲します。私たちは、世界を空間的に見るとき、この分離そのものを克服することだけを求めます。私たちは「最も普遍的な結びつき」を確立するように努力します。この空間的な関連が確立するものとは、AとBはそれぞれがそれら自身の世界なのではなく、それらは何か共通のものを持っているということです。これが空間的な並置が意味しているものです。もし、それぞれがそれ自身のためだけに存在していたとしたら、空間的な並置は存在しなかったでしょう。いかなる種類の関係も事物の間で形成されることはなかったでしょう。さて、このように別々の実体の間に外的な関係を打ち立てるということが私たちをどこに導くかを見てみましょう。そのような関係にある二つの要素について考える方法が「ひとつ」だけあります。AをBの「隣に」あるものとして考えることができるのです。感覚的な世界におけるさらに二つの要素―CとD―についても同じことができます。こうして、AとBの他に、CとDの間にも具体的な関係が確定します。今、個別の要素A、B、C、そしてDについては忘れ、二つのペアの間の関係だけを考えることができます。AとBを関連づけたのと同じようにしてこれらの個別の実体を関連づけることができるということは明らかです。ここでは単に具体的な関連が述べられているだけです。私はこれらの組みをa、bと呼ぶことができます。これをさらに次の段階に進めると、aとbの間の結びつきを見ることができます。けれども今、私はすべての個別性を見失ってしまいました。私がaを見るとき、お互いに関連したAとBを見ることはもはやありません。それはbについても同じです。いずれの場合にも、関係が確立された、という単純な事実だけが見出されます。aとbを区別することを可能にしたのは、それらがA、B、C、そしてDのことである、ということでした。もし、私がこの個別性の痕跡を捨て去り、aとbだけを関連づけるならば―つまり、特殊なものが関連づけられているということではなく、それらは関連性である、という事実だけがあるならば―私は全く一般的な方法で私が出発点とした空間的な関連性へと再び至りました。そこから先に行くことはできません。私は私が求めていたもの、「空間」についての内的な認識を達成したのです。「ここには三次元性の秘密が横たわっています。」最初の次元において、私は感覚的な世界の二つの具体的な要素を関連づけます。第2の次元において、私はそのような空間的な関連性の間に関連性を確立します。それは関連性の間の関連性です。具体的な現象は除かれ、残っているのは具体的な関連性だけです。今、私はこれらを空間的な関連性へともたらしますが、それはこれらの関連性の具体的な性質を完全に無視することを意味しています。私は私が別のものの中に見出したひとつの関連性と「正確に同じ」ものをこうして見出すのです。同じ実体間の関連性を確立した今、関連づける可能性が止みますが、それはすべての差異が消滅したためです。私は今、探求のための視点としてそこからはじめたもの―それは完全に外的な関連性です―へと、ただし、今回は感覚的な像としてのそれへと戻って来ました。私は上で述べた3回のプロセスを実行することにより、空間的な視点を取ることから空間そのものへと、つまり、私の出発点へと至ったのです。「空間が3次元でなければならないのはこの理由によります。」ここで私が空間に関して提示したことは私たちの一般的な観察方法の本当にひとつの特殊な例に過ぎません。私たちは共通の視点から具体的な対象物を観察します。こうして私たちは特殊なものの概念を得、次いで、これらの概念そのものを同じ視点から観察することによって、概念についての概念を得ます。つまり、もし、私たちがそれらを再び結びつけるならば、それらはひとつの理想的な統一体、それ自身との関連でのみ見られるような統一体へと融合するのです。次のような例を取り上げてみましょう。私は二人の人物A、Bと知り合いになります。私は友情という観点から彼らを観察します。この場合、私はこれら二人の友情について、ひとつの非常に明確な概念aを持つでしょう。次に、私は別の二人C、Dを同じ観点から眺めます。私は彼らの友情について、ひとつの異なる概念bを持つでしょう。さて、私はさらに進んで、友情に関するこれら二つの概念を並べて置きます。私が私の具体的な観察から抽象化を行うとき、私に残されるのは「友情という一般的な概念そのもの」です。けれども、この概念はまた、EとFの友情や、さらに、GとHの友情を同じ観点から観察することによっても達成されます。これらの場合にも、他の無数の場合と同様、一般的な友情の概念に至ることができます。これらすべての概念は本質的に同一であり、それらを同じ観点から眺めるとき、ひとつの統一性が見出されたことに気がつきます。ですから、「空間」とは、ものごとを眺めるひとつの方法であり、私たちの心が別々のものを統合する方法なのです。最初の次元は二つの感覚的な知覚(カントの言う感覚)の間の結びつきを確立します。第2の次元は二つの具体的な心象をお互いに関連づけ、そして、「抽象化」の領域へと入っていきます。第3の次元は二つの抽象的なものの間の理想的な統一を確立するだけです。ですから、空間の三つの次元が同じ重要性を有していると考えるのは正しくありません。最初の次元の性質は知覚された要素に依存します。けれども、きわめて特殊で最初のものとは異なる意味が他の二つにはあります。カントはここで間違いを犯しました。つまり、空間をそれ自体が概念的に規定され得るひとつの実体としてではなく、ひとつの統一体として考えたのです。ここまで私たちはひとつの関係性としての空間について語って来ました。今、問わなければならないのは、そこにあるのは並置という関係だけなのか、それとも、それぞれの事物には絶対的な位置というものがあるのかということです。私たちのこれまでの考察では、これらの問題には全く触れられて来ませんでした。「絶対的な位置」とか特別な「そこ」といったようなものがあるのかどうかを見てみることにしましょう。私は「そこ」によって実際に何を言おうとしているのでしょうか。私は問題の対象物の直近にある特定の対象物のことを言っているに過ぎません。「そこ」とは、指名された対象物の近くに、という意味です。このように、絶対的な位置は「空間的な関係性」にまで遡ることができますが、これによって私たちの探求が結論づけられます。今、私たちの調査によれば、空間とは何なのかと直接問いかけてみましょう。それは、あらゆる事物が、それらの本質的な性質とは無関係に、完全に外的な仕方で、それらの分離状態を克服し、それによって、たとえ外的なものとはいえ、ひとつの統一へともたらされるように、それらに生来備わっている必然性なのです。ですから、空間とは世界を統一体として理解するためのひとつの方法なのです。「空間とはアイデアであり」、カントが信じていたような感覚器官による知覚ではありません。
参考画:絵の中の時空間



    (第16章 5.ゲーテの空間概念 了)

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最終更新日  2024年06月17日 19時16分14秒
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