Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月18日
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カテゴリ: 霊魂論



ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-6
6.ゲーテ、ニュートン、そして物理学者たち
 色彩の本質的な性質を観察することに対して、ゲーテはさしあたり芸術的な興味を持っていました。彼の先見的な天才が間もなく気づいたのは、絵画における色の使用は深い法則性に準拠しているということです。絵画理論の範囲内に留まっている限り、その法則性の特質を発見することはできませんが、画家たちもまた彼に満足のいく答えを提示することはできませんでした。画家たちはどのように色を混合し、用いているかについて、実践的な方法で知っていましたが、自分たちが行っていることを概念化することができませんでした。イタリアに赴いたゲーテが見たのは、所謂かの芸術における最も崇高な例だけではなく、最も壮大な「自然の色彩」でした。そして、彼の中に色彩の法則を理解したいという強い欲求が目覚めたのです。ゲーテは「色彩論の歴史」の中でその課題の歴史的な側面について詳しく説明しています。ここではその心理学的かつ実際的な側面に焦点を当てることにしましょう。ゲーテはイタリアから帰った直後に色の研究を開始しました。これは1790年と1791年に強化され、彼の死に至るまでの主要な関心事であり続けました。色の研究を始めたときのゲーテの世界観の状態を考察してみましょう。彼は既に有機的な実体の変容に関する彼の偉大な考えを発展させていました。顎間骨の発見によって、既にあらゆる自然存在の統一性が明らかになっていたのです。彼にとって個別のものはアイデアの特別な変化形として現われました。彼はイタリアからの手紙の中で、植物が植物であるのは「植物というアイデア」をそれ自身の内に担っているからであるという考えを表明していました。そのアイデアは、彼にとって、精神的な内容に満たされた具体的な統一体であり、それぞれの植物の中で活動していました。それは物理的な目をもってしては見ることができませんが、精神の目をもってすれば理解することができるものです。それを見る者は「それぞれの」植物の中にそれを見ます。それは植物界全体を、この観点をさらに洗練させれば、すべての自然を、精神により理解することができる統一体にするところのものなのです。とはいえ、私たちの感覚が提供するような多様性を単にアイデアから構築することは誰にもできません。先見的な精神はアイデアを知ることができますが、「個別の形態」にアプローチすることができるのは、私たちが観察し、考察しながら私たちの感覚を外なるものに向けるときだけです。私たちの感覚という現実の中で、何故、あるアイデアの変化形がひとつの形態を取り、別の形態を取らないのかという疑問に対する答えは、知的な考察によって見出すことはできません。つまり、現実の世界を「見る」必要があるのです。このゲーテに特有のものの見方は「経験主義的な理想主義」として最も良く記述することができるでしょう。それは次のように要約することができます。「感覚に生じる事物の多様性」を観察するとき、それらの事物が似通っている程度に応じて、それらの根底に「精神的な統一性」を見出すことができる。そして、それがそれらすべての類似性の源泉なのだと。こうして、ゲーテは、色彩知覚の多様性の背後にある精神的な統一性とは何かと問うに至りました。私は「それぞれの」色の中に何を知覚するのでしょうか。すぐに明らかになったのは、「光」がそれぞれの色に必要な基礎となっている、光がなければ色もないということです。しかし、色彩は光が変化したものです。ですから、今度は光を変化させ、それに特殊性を付与する要素を見つける必要がありました。彼には、この要素こそが光を欠く物質、あるいは活動的な闇、言い換えれば、光に対抗するものであるということが分かりました。ですから、彼にとっては、それぞれの色は闇によって変化させられた光だったのです。ゲーテが光について語るとき、それは具体的な太陽光あるいは通常の「白色光」のことを意味していたと考えるのは正しくありません。人々がこの考えから脱却できないこと、複雑な構成の太陽光をそのようなものとしての光の代表として見るということは、ゲーテの色彩論を理解する上で唯一の実際的な障害となっているものです。ゲーテが闇に対抗するものとして見るときの光とは、あらゆる色の知覚に共通した純粋に精神的な実体なのです。ゲーテはそのように明確に述べたことは決してありませんでしたが、ゲーテの色彩論全体は、それ以外にそれを理解する方法はないというような仕方で提示されています。彼が太陽光を用いてその理論を実験的に検証したのは、確かに太陽光は太陽という天体の複雑なプロセスの産物ではあるけれども、その各部分がその内部に保持されているところのひとつの統一体として私たちに自らを提示するという理由からです。色彩論のために太陽光を観察することによって得られるのは、単に現実を「近似する」ところのものだけです。それぞれの色の中には光と闇が目に見える現実として実際に含まれているということをゲーテの理論は示唆していると考えるべきではありません。私たちの目に映る現実は個別の色合いに過ぎません。色という感覚的な事実を二つの精神的な実体、光と光ではないものに分離することができるのは精神だけです。そこに含まれている外的な条件や物理的な過程は、今述べられたことによっていささかも影響されません。私に赤が現れるとき、エーテルの振動がそこにあるということに疑いはありません。とはいえ、既に示されたように、知覚の中に含まれる実際の物理的なできごとはその「本質的な特質」とは何の関係もありません。人は、すべての感覚は主観的であることが証明されている。私たちの脳内で起こっていることを除けば、感覚の背後には実際に波動プロセスが存在していると主張するかも知れません。しかし、これでは、単に物理的なプロセスの根底に横たわるものの理論を除いて、いかなる「知覚に関する物理的な理論」についても語ることはできません。この証明は、aにいる誰かがbにいる私に電報を打つとき、私がこの手に受け取る電報はbに発するものであると主張するのと同じです。電報の発信者はbにいて、aには存在しなかった紙の上に、aには存在しなかったインクを用いて書き、実際、aがどこなのか見当もつかない、言い換えれば、私の目の前にあるものはaに発したものでは全くないということが証明されるのです。しかし、それでも、bに発したこれらすべてのことがらは、電報の実際の「内容」、あるいは本質には全く関係がありません。つまり、私にとって重要なことがらがbを通って媒介されたというだけのことです。電報の意味を説明したいのであれば、私はbで起こったことを完全に無視しなければなりません。目(*眼)についても同じことが言えます。理論は、目で知覚可能なものを包含するとともに、この領域の「内部」で相互関係を探求するものでなければなりません。時空間中での物質的な過程は、知覚の「生起」にとっては非常に重要かも知れませんが、それらの本質的な特質には無関係なのです。このことは、今日、光・熱・電気といった様々な自然現象のすべてがエーテル中での同様な波動プロセスによって生じるのかどうかについてしばしば投げかけられる問いにも当てはまります。最近、ハインリッヒ・ヘルツ(1857-1894年)によって、空間中における電気的な効果は光の効果と同じ法則にしたがうということが証明されました。光を運ぶ波動は電気の根底にも横たわっているということがこれから推測されます。太陽光スペクトルの中にはただ「ひとつの」種類の振動が働いており、それらが接触する試薬が熱、光、あるいは化学的な作用に反応するかどうかによって、熱、光、あるいは化学的な効果を生じさせるということは既に認められていました。
参考画:heinrich rudolf hertz



 このようなことはすべて言うまでもないことです。もし、ここで問題になっている実体が媒介されている間、空間中で何が起こっているかを調べるならば、私たちは「同じ型の」動きを見出すことになるでしょう。単に動き「だけ」が可能な媒体中では、刺激に対するいかなる反応も動きを通したものになるに違いありません。それによって遂行されるいかなる媒介も動きの形でなされることでしょう。そして、もし、私がこの動きの形態を調べるとしたら、私は伝えられるものの特質ではなく、それが伝達されるその仕方だけを経験することになるでしょう。熱や光が動きであると主張するのは馬鹿げています。動きとは単に動く可能性のある物質が光に出会ったときの反応に過ぎません。ゲーテ自身、生存中に波動理論が誕生するのを見ていますが、その中には色彩の性質に関する彼自身の確信と合致しないものは何も見られませんでした。ゲーテは光と闇を感覚知覚可能な現実として考えていたのだという見方を私たちは捨てなければなりません。そうではなく、それらを「単なる」原則として、つまり、精神的な実体として考えるならば、私たちは全く新しい光の下に彼の色彩論を見ることになるでしょう。もし、ニュートンのように、光を単にすべての色の混合物として見るならば、私たちは具体的な実体としてのいかなる「光」の概念も見失ってしまいます。それは現実に対して何の対応物も持たない空虚な一般化物へと蒸発してしまいます。そのような抽象的な概念はゲーテには縁遠いものでした。彼によれば、あらゆる概念は「具体的な」内容を持っていなければなりません。しかし、彼にとって、「具体的な」というのは物理的なものに限定されてはいませんでした。実際、現代の物理学はいかなる光のための概念も有していません。特定の光あるいは色彩が一定の組み合わせにおいて「白」という感覚を引き起こすことをそれは認めます。しかし、この白を光と同じものと考えることはできません。事実、白は「混合色」でもあるのです。通常の物理学にとって闇がそうであるように、ゲーテの意味での光は見知らぬものです。ゲーテの色彩論の基本的な概念については「何も」知らない物理学者たちの概念によって触れられていない領域の中でそれは展開されます。ゲーテは彼らが終わるところから始めるのです。ですから、彼の理論を評価することは彼らにはできません。ゲーテのニュートンや現代物理学に対する関係についていつも言われることは、それらは全く異なるものであるという事実を完全に見落としている非常に表面的な問題の把握に基づいています。私たちは、もし、人が感覚の本性についての私たちの議論を正確に理解するならば、ここで示されたゲーテの色彩論の観点もまた共有するであろうということを確信しています。けれども、もし、私たちの基本的な理論を認めないのであれば、人は物理的な光学の観点を主張し、ゲーテの色彩論を完全に拒否しなければならなくなるでしょう。
    (第16章 6.ゲーテ、ニュートン、そして物理学者たち 了/第16章 完。 )





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最終更新日  2024年06月18日 06時10分11秒
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