BANGKOK艶歌

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 『イサーンを出て』  (第一話~第五話)



             [序   章]

あれからもう何年が過ぎたろうか。

 女はマニキュアを塗る手を休め、テレビに映し出されている故郷
の映像に目をやった。
 昨夜、ウボン(ウボンラチャタニー)で起こった殺人事件は、些
細な痴話喧嘩から、女が男を刺し殺したという話である。
 些細なのかどうかは当人にしかワカラナイことなのに、些細な事
と報ずるキャスターが疎ましく思えた。
 ニュース映像の背景は見覚えの在るものであった。
 母親はそれを指差し、我が娘に何か言おうとしているのだが、擦
れた「イサーン訛り」ゆえに、意味が解せないでいた。
 意味も無く苛立ちを覚えた女はリモコンも使わず、テレビのスイ
ッチ、人差し指で憎らしそうに押し切った。

---ナニすんだよ。
---頭が痛いの。

 母と娘の短いやりとりであった。

           ******************

 女の名前はToi(トイ)。

十八の時、故郷のウボン(ウボンラチャタニー)を後にして、バン
コクに出てきた。
 Toiの田舎は、「イサーン地方」と呼ばれるタイ東北部の貧しい地
域の一県で、山河以外何も無いと言ってもよいところである。

「イサーン」はもともと、スコータイ王朝期に隣国と争っていたタイ
国が戦勝を期に、「捕虜」として連れてきたラオス人やビルマ人を、
その地に住まわせて、開拓させたのが始まりとされる。土地を与える
とは名ばかりであり、痩せた土地からの収穫などいくら努力しても、
たかがしれていた。そういう「場所」だから、人々は貧困に喘いでい
た。

 その脈絡は今も続き、働ける年になると男も女もこぞって、バンコ
クを目指した。トイには十歳離れた兄と七つ上の姉が居る。二人とも
ウボンで結婚をし、子をもうけ、家族を作って暮らしているのである
が、子沢山のうえに、親戚縁者の面倒まで見ていかねばならない。
 そんな二人を、トイは可哀相だとか思ったことはない。

 何故なら、それは「イサーン」の地ではありふれたことであったか
らだ。ただ、彼ら二人とも、その昔はバンコクを目指したことがあっ
たということは知っていた。

 トイが高校を首席で卒業し、バンコクの大学に進みたいと申し出た
時、当然のように、両の親は進学に反対した。
 娘が『ウボンの麒麟児』ともて囃されて悪い気はしていなかったの
は事実であるが、現実問題として、大学に行かすだけの経済力が無か
った。
 ウボン県下でも数本の指に入る秀才としてのプライドは、十八の娘
に大いなる反発心を持たせた。

---勝手にするわ、世話にはならない。

 家出同然の旅立ちの朝、まだ陽も昇らぬ時間に、一人バス亭に立つ
トイは、(泣くまい)と思えば思うほど、涙が出てきた。
 勝気で負けず嫌いの性格故に、男友達ばかりの高校時代であった。
 そんなであっても、やはり女一人の旅立ちは、不安と恐怖心で押し
潰されそうになった。覚えておこうと思う故郷の風景はいまだ闇に包
まれていて何も見えない。

 東の方角が瑠璃色に薄く染め始めた時、闇の向こうから砂利道を蹴
って走ってくる人影が見えた。

 母親だった。
 涙でくしゃくしゃになった顔に砂埃がへばりついて痛々しかった。
母と娘に言葉は無かった。
 ただ、母親は別れ際に、握り締めた体温が残る千バーツ紙幣を、娘
の手に握らせた。
 自分の家の家計にとって、その金額がどれほどのものかは、トイに
は痛いほどよく分っていたので、背を切る痛みに耐え切れず、バスに
飛び乗った。

 長距離バスの座席の堅さが、これからの自分の行く末を暗示してい
るようで早く眠りにつきたくなった。
 先ほど、母親から手渡された千バーツ紙幣を、Gパンのポケットの奥
に押し込んだ。それを合わせてもせいぜい二千バーツにもならない所
持金であったが、今の自分にとっては「命の絆」であった。

            *******************

---じゃ、行ってくるね。
---気を付けるんだよ。

 夕方七時を過ぎた頃、女は仕事に行くと言って、毎日家を出る。
 母親は、娘が何の仕事をしているのか詳しく知らない。ただ、聞か
されているのは、日本食レストランで、日本人相手の『仕事』をして
いるということだけであった。
 その店が終わる時間は深夜の一時であり、娘の帰りを待つことなく、
先にベッドに入る母親は、あくる朝方隣に眠る娘の寝顔を見つけた時、
娘の帰宅を知るのであった。

 いつも、娘に厳しく言われていた。

---電話してきても、忙しいから電話には出れないからね。

 母親は、もう一つだけ、娘の『仕事』について知っていることがあっ
た。
 それは、職場のオーナーの日本人が、娘に「良くしてくれる」という
ことであった。
 自分が田舎から娘に呼ばれて出てくる時、娘が、母親のために買い揃
えたテレビや、洗濯機、冷蔵庫などの電化製品が、その日本人の「好意」
で手に入れることが出来たということである。


(第二回)       [ 従姉妹 ]  


トンロー(スクンビッツSoi55)は、ニューペップリ通りに行き
当たるまでの沿道、もしくは横道(ソイ)を入った場所に多くの
日本人向けカラオケを抱え、それぞれ店の個性を生かして凌ぎを
削っている。

ラウンジ『K』もそのうちの一軒である。
『K』は老舗の部類に入り、浮き沈みの激しいこの「世界」では、
「勝ち組」に属する店であろう。
 それは、オーナーの店のコンセプトが、ホステスに体を売ること
を許さず同伴以外の、客との「接触」に対して、厳しい躾が要因な
のかもしれない。

 自然と、客層は、駐在員の男達が主となり、「金で女を買う」こ
とに飽きた男の嗜好に合わせたハイソな店のイメージが造り出され
ていた。
 店のこのコンセプトは、安心して働けるというイメージを女達に
抱かせ素人に近い「素性」の者を多く集めることが出来たし、容姿、
スタイルともにトップレベルの女達を、他店から移籍させていたの
である。
 しかし『K』に関して言えることは、オーナー(所謂、ママさん)
の彼女達を選ぶ「目」には舌を巻くものがある、ということである。
 あながち容姿、スタイルだけで選んでいる風ではなく、初対面で
は標準レベルと思えるような女でも、一瞬にしてその「商品価値」
見出し、入店させる。
 結果は見事で、選別された女が順調に「指名、同伴」を得ること
が出来るようになり、見事に店の「NO1、NO2」に変身していくので
あった。

トイには二つ歳上の従姉妹が居て、名前はJOY(ジョイ)という。
 ジョイは、トイよりも、早くからバンコクに出て来ており誰のツ
テを得たのか『K』で働いていた。

 トイがウボンから飛び出してきた頃は、高校の先輩達を頼り、ジ
ョイをアテにすることは無かった。
 それは、従姉妹であるという事情から、何かにつけ田舎に自分の
ことが知られることを嫌ったからかもしれない。

 最初の一年ぐらいは、田舎に居るほうがよっぽどマシであると言
うような「悲惨」な生活であった。
 四畳半ぐらいしかない部屋に五人が同居し、2500バーツそこ
そこの家賃を五人で負担するといった具合である。
 最初の頃、トイはその500バーツすらも払うことが出来ず、先
輩達の世話になっていた。タイ人相手の食堂でのアルバイトから売
ることの出来る金は、月に600バーツほどであり、時間が在ると
きは、近所の富豪タイ人宅で洗濯とアイロンかけの仕事もした。
 大学の学費は、その大半を「奨学制度」に頼ることは出来たが、
それでも細々と、月々に1000バーツは必要であったので食うこ
とににも事欠いた日々が一年ほど続いた。

 ただ不思議なくらい、そんな「悲惨」な生活であるにも拘わらず、
楽しくて仕方無かった。
 大学の同級生の大半は、親に経済力があり何の心配もせず、毎日
キャンパス通いしてきていた。
 トイはアパートから大学まで四回もバスを乗り換え、モータサイ
に乗る金を惜しんだ。友達の多くが授業を終えた後は、流行の『ス
ターバックス』でカフェラテなど飲みながら他愛も無い話を楽しん
でいるときでも、汗を流してアイロンかけをしていた。

 しかし、そんな生活でも充実し、希望に満ち溢れていると思って
いたのである。何とか4年間の大学生活を終えて、バンコクで会社勤
めをすることが出来るようになれば、見違えるような「生活」が待っ
ているんだと信じていたから。

 しかしここで、「運命」を司る神に、『イサーン』の片田舎から
出てきた娘は捕らえられた。

瞬き一つで、目の前の娘の歩む道を変えてみせた。

 数日前からの、経験の無い右わき腹の痛みを不審に思い、訪れた
病院の医者に急性盲腸炎だと告げられた時は、癌を告知されたのと
同じぐらいの衝撃がトイを襲った。
 もちろん、トイもその病気が手術を受け、一週間もベッドに寝て
いれば、治るものだとは知っていたのであるが、まず、頭の中を駆
け巡ったのは、そんな手術代を払えないであろう、ということであ
った。

 恐る恐る医者に尋ねてみた。

---幾ら、かかるんですか?
---30,000バーツぐらい、だね。

 無表情に答えるその男を恨めしく思った。

 その医者も、トイの身なりからして、本当にその金を工面できる
「客」ではないことくらい見て取れたので、関心を払うべくもなく、
事務的に応えたのであろう。

 かといって、手術を受けなければ、命に係わることだとも分って
いたので病院を出た後、どこをどう歩いて帰ってきたのかわからな
いくらい狼狽していた。

 同居人たちは、一様に心配はしてくれたが、誰もその「金の工面」
が出来るとは言ってくれなかった。
 憔悴しきったトイにとって残された方法は、田舎の両親に頼るし
か方法は見当たらなかった。
 しかし、トイはよく分っていた。いくら、家を飛び出した娘であっ
ても、両親はほんの少しばかりしかない土地を売ってまでも、金を
工面するであろうことを。
 痛むわき腹を押さえながら、それだけは出来ないと堅く自戒して
いた。

 不安と痛み、そして恐怖からほんの少しでも逃れたくなり、バン
コクでの唯一「身内」であるジョイに電話をした。
 事の始終を聞き終えたジョイは、従妹の頬を優しく撫でるように
言った。

---心配しないで。私が何とかするから。

 トイには信じられなかったが、絶望の淵で聞いた神の声のような
気がして、両の肩から重い荷を降ろすことができ、急に眠気がさし
てきたのを覚えている。
 一体、そんな大金をどのようにして工面してくるのかなどと、疑
いたくなかったのは、それが「一条の光」であって、すがり着きた
い一心であったからであろう。

 手術を受け、本来なら一週間は入院が必要なところを、切った痛
みを堪えて三日で退院したのは、少しでも病院への支払いを少なく
したかったからである。
そして退院したその日からジョイのアパートでの同居生活が始まっ
た。

 ジョイもトイと同じ大学に通っていたので、色んな意味で気心は
知れていた。
 ただ、不思議だったのは、ジョイも大学に通う傍らで仕事をして
いたが、それが毎日七時頃に出ていって、帰りは夜中の二時頃にな
ることであった。
 明くる日、大学の講義を受けねばならない時は、トイが体を揺り
動かして起こすことも、しばしばあった。

 今にしてみれば、理解できることなのであるが、あの時、簡単に
トイの手術代を「何とかする」と言わしめたのは、ジョイが『K』に
勤めていたからであったのだ。
 ジョイと同居するようになってから、食費や細かい買物は全て、
ジョイが面倒を見てくれた。
 しばらくは、ジョイが毎夜遅く帰ってくる「仕事」の意味がわか
らず

(随分、いいお給料の仕事なんだ)

というくらいしか思っていなかったのである。
そしてある日、化粧をしながら、ジョイがトイに誘いかけた。


---アンタもさ、カラオケの仕事してみない?
---カラオケ?
---トイは、英語、話せるでしょ。今、探してるの、そういう子。

 それが、トイがこの「世界」に入ったキッカケであった。

 その時は、まだ「垢抜け」しない田舎娘であったトイであるが、日
本人向けカラオケでは、日本語が出来るホステスに次いで、英語を使
いこなせる女は、店側にしても貴重な人材であったので、ジョイの紹
介ということもあり、すぐにでもOKということになった。

                      (第二回 了)

第三回)      「 謎 」

『K』は、必要以上に媚びたネオンや電飾を嫌い,シンプルにハ
イソ路線を貫いている感があり、ブランド志向を擽る、あらゆる
仕掛けが店内にも施されていた。

 佐藤が、チーママに導かれ奥のラウンジルームに腰を降ろした
のは、十時を過ぎていた。
 流石に火曜日とあって、客の入りは鈍い。
 『K』は入ってすぐ右手が「VIPルーム」、そのまま先を進むと
右手に、「ホステスの控え室」があり、ここで100名近いホス
テス達が客のリクエストを待っている。

 佐藤も、初めてこの店を訪れた時は、その迫力に圧倒され、慣
れているとはいえ、一瞬たじろいだのを覚えている。
 ホステスのユニホームも、何種類か用意されており、日替わり
で飽きのこなように、工夫されていた。

 今日は、黒のミニドレスの日であるらしく、顔の幼い女であっ
ても妖艶な雰囲気を醸し出していた。

 予め、ジョイをブッキングしていた佐藤は、煙草に火を点け、
ピアノ演奏に合わせて歌う女性シンガーの、男っぽい地力のある
歌声に聞き入っていた。
 客の大半は駐在員であろうことは、ダウンライトのシルエット
越しに伺い知れた。皆、お気に入りの女と1対1の会話を楽しん
でいる。

 ジョイが席に着き、いきなり佐藤の胸深くに頭を預け、上目使
いに話しかけてきた。

---久しぶり、忙しかったの?
---いや、そうでもないけど。
---じゃ、もう飽きたんだジョイのこと
---いや、そうでもない。

 佐藤は、今日、社長から指示された接待ゴルフのことを思い起
こしていた。
 昼間、社長の加瀬からそのことを伝えられ、相手が『MN電装』
の社長であることを聞いて、気が重くなったのである。

『MN電装』といえば、トヨタやホンダの現法に電装部品を納める
日系企業であり、ここ数年で飛躍的に大きくなった会社である。

 その『MN電装』の社長をゴルフ接待した後、食事の後の二次会
の行き先を『K』にするから、万事、段取りを任すというものであ
った。
 社長の加瀬は、佐藤の知る限りでは、カラオケに出入りしてい
るなどといった話を聞いたことが無く、全ては自分が仕切らねば
ならないことが、「億劫」であったのだ。
 その事を、端折ってジョイに話した。

---何だ、そんなことか。
---嫌なんだよな、俺。役者不足っていうか。
---サトウさんの、会社の社長さん、連れておいでよ。
---ん?、そうか、一度下見だと言って加瀬さん引きずりこんで
  おくか。
---そうそう、それがいいわよ。

 しかし、佐藤はそのことを、どう加瀬に切り出すか、また悩ん
だ。加瀬は敏腕な経営者であり、タイ駐在も5年になり、佐藤よ
りも長くタイを知っているはずなので、当然、カラオケも出入り
していると思っていた。

 しかし、直属の上司の話だと、2年ぐらい前から、社用以外で
はプッツリと行かなくなったということだったのだ。

 あくる日、社で加瀬と会う時を見計らって、思い切って話を持
ちかけた。

---加瀬社長、来週土曜日の『MN電装』の接待のことなんですけど。
---ん。万事頼んだよ。『K』は、君のお得意の店らしいね。
---いや、私のような安月給で、そうそう足を運べる店じゃないん
  ですよ。
---すまんな、安月給で。

 加瀬は、目尻に皺を作って笑って応えた。

---どうでしょう、社長、今日でも一度ご一緒戴けませんか。
  下見ということで。なにせ、相手は『MN電装』の社長ですし。

  加瀬は、一瞬考える風であったものの、すぐに応答した。

---ん、分った、いいよ。行こう。但し、女の子は君が選んでおい
  てくれ、どうも苦手なんだ、アレ。

 意外であった。女の子を選ぶことが苦手であると、加瀬が白状し
たことではなく、二つ返事で了解してくれたことが、意外であった
のだ。

 二年近く出入りしてないというのは、普通に考えると何か「ワケ」
があると勘ぐるのが当然である。
 その「足」ですぐに、ジョイに連絡を入れ、今日のブッキングと
誰か友達のホステスを選んでおいて欲しい旨のことを頼んだ。

---うん、わかった。私の従姉妹も働いてるの、その子でいい?
---いいよ。

 正直、佐藤には、加瀬を相手するホステスは誰でも良かったので
ある。ただ、何か胸の痞えが降りたようで、気分が良かった。

---じゃ、待ってるね。
---うん。たぶん、九時ごろだな。
---リョーカイ。
 ジョイは、客が良く使う日本語を、時々チョイスして使ってみせた。

---あっ、その従姉妹の子って、可愛い?

 自分の悪戯心に閉口しながらも、ちょっと聞いてみたくなった。

---ん、すっごく可愛いよ。でもリクエスト少なくて困ってるの。
---何で?すっごく可愛いのに、リクエスト少ないなんて。
---いや、ホントだって。まぁー、見ればわかるから。

 それ以上、問いただすことを止めたのは、「見てみたい」という男
のどうしようもない好奇心からであった。

---(その子より、その子を前にした加瀬さんの顔が、見物だな)

 無闇に緩む口元を急いで戻し、デスクに戻った。


 佐藤は、連日の『K』入りであったので、少し照れを隠すようにし
て足早に奥のラウンジに向かった。
 加瀬も、後ろからゆったりとした足取りで、店の雰囲気を確かめる
ようにして佐藤の後を付いて席に腰を降ろした。

---なかなか、いい雰囲気の店だな。
---はい。この界隈では、タニヤの一流店と肩を並べるのは此処ぐら
  い  だと思います。
---佐藤君はカラオケ事情に詳しいからな。
---加瀬社長も、以前は行かれたんでしょ?タニヤとかに。

 加瀬が意味の無い笑みを浮かべて、その問いに答えようとしたとき
ジョイが、従姉妹と思われる、ホステスを伴って、ボックスにやって
きた。

佐藤の席からは、ダウンライトの逆光でジョイの従姉妹の顔はよく見
えない。
 やがて、加瀬が座る横に、ワイをしながら、その女が着いた。

 佐藤は、一瞥しただけで、ジョイが昼間の電話で言っていたことが
何となく「わかった」気がした。

---(なるほど、そういうことか)


 (すっごく可愛いんだけど、リクエストが少ない)

 そんな矛盾した話があるものかと思っていた佐藤であるが、確かに
 驚くほど、可愛かった。ただ、

---(俺も、ちょっと、パスだな)
 そんな、思いをオトコにさせる雰囲気があった。

 加瀬の「反応」を早く見たかった。

---サワッツ ディー カァー

 加瀬は、店の雰囲気を確かめる視線を、その女の顔に向けた。

---サワッディー クラップ 。クン チューアライ 

--- Toi(トイ)。。。デス
--- トイか、僕は加瀬だ。
--- カセ さん?

 この時、加瀬の目にその娘がどう映ったのか、佐藤は早く知りたく
て、ジョイのことも忘れて、二人の様子を凝視していた。

                       (第三回 了)
(第四回)     「作り笑顔」

 加瀬は実に、優雅に酒を飲む男であった。もちろん、女の相手も同じ
ようなことであり、ナイスミドルとはこういう中年男をいうのだなと、
佐藤は思った。
 横に付いた女も、その遊びなれた所作に乗せられて、艶っぽく輝いて
見えてくるのだから不思議である。
 自分が先ほど、「その女」を見た時、「なるほど」と理解出来たこと
が、何か大きなミスでも犯したのではないかと疑いたくなった。
 であるから、そのミスジャッジの真偽を確かめたくなり、加瀬に直接
その女の第一印象を聞くことにした。

---社長、その子の第一印象はいかがですか?

 小声で日本語であるから、彼女達には分らないであろうと佐藤は計算
 したつもりである。

---可愛いじゃない。流石に『 K 』に在籍するだけのことはある。
---それだけ、ですか?
---ああ、それだけだ。君は他に何か感じたのか。

 佐藤は、それ以上突き詰めることを止めた。というのも、加瀬にその
ように、はっきり言われてしまうと、本当に自分がミスジャッジしてい
たのかと思うようになってしまったからである。
 しかし、そのことを。ジョイが見事に打ち破ってくれた。

---加瀬さんって、凄いですね。
---えっ、何が?
---私、初めて見ました。トイがこの店で楽しそうに仕事しているのを。
---そうなの?美人だし、愛想もいいし。ブッキング多くて大変でしょ。

 ジョイが、目を丸くして佐藤の顔を覗き込んだ。

---スゴイ。
---ん、俺もそう思う。

 トイは、『イサーン』の出身にしては珍しく色白であり、目鼻立ちも
しっかりしていて、確かに美形であった。
 しかし佐藤をはじめ、誰しもその女の第一印象を問えば、「顔がキツ
過ぎて、怒っているんじゃないか」と思えるのである。
 カラオケラウンジで、最初に男がすることは、女を選ぶことからであ
る。この時、数十人の女を目の前にして、平静で居られる男はよほど遊
び慣れた男か、よほど鈍感なのかどちらかであろう。そのような状況で
男が女を選ばねばならない時、先ずは自分の好みの顔、スタイルの持ち
主を探しだそうと、素早く一通り「目」を通さねばならない。
 だから、それを助けるために、女の方も精一杯の愛想と笑顔で、男の
視線に応えねばならない。
 そんな時に、トイのあの厳しい目と、芯の強そうな口のラインは、見
る男を一歩引かせるのである。
 佐藤も例外なく、「そう」感じたのである。
 しかし、今その女は、純真無垢な笑顔で加瀬に接し、健康的な色気を
その唇から発していたのである。

---ねぇー、彼氏居るの?
---居ないです。
---ほんとに?
---ほんとです。

 カラオケのホステスには馬鹿げた問い掛けであることは承知していた
が、加瀬には、その女のことが気になった。

---じゃぁ、バージン?
---違います。
---いつ?
---17歳の時です。

 トイは、真っ直ぐに加瀬の視線を受け止め、何もかも正直に答えてい
た。

---美人だから、お客さん、いっぱい居るでしょ。
---ダメなんです。一年半になりますけど、一回も「同伴」してもらった
  ことないんです。
---ええー、ほんと?
---はい、本当です。
---じゃぁ、今度、ご飯食べに行く?
---はいっ。

 加瀬は、佐藤に気づかれないように、トイの携帯電話の番号を聞き出し
ていた。

---ねぇ、あの二人、ひょっとしたら、ひょっとするかもよ。
---加瀬社長が?
---いや、加瀬さんのことは、よく知らないけど、トイの方よ。今日のあ
  の子  女の私が嫉妬するほどすっごく綺麗だもん。
---ふぅーん。加瀬さんが本気になるかな。あの人、理由(わけ)ありら
  しいから。

 佐藤は、そう言う端から、もう一度加瀬の方に目をやってみた。
濃紺のスーツにストライプのシャツ。小紋のネクタイはそれらに合う色合
いのものを選んでいる。
 日頃、特に気にはしなかったが、男の目からも、嫉妬するほど色っぽい
「男」であった。
 ふと、先ほどのジョイが言った「嫉妬」という感情を、自分も同じよう
に同性に抱いていることを知り、苦笑いを琥珀色のグラスで隠した。

---トイ。。。あのね、いいこと教えてあげようか。
---はい。
---いつもね、今みたいに「可愛い笑顔」で仕事していなさい。
---私、「怒ってる」ように見えます?ジョイにいつも言われるんです。
---俺は、その手の顔が好きだから気にしないんだけど、他のお客さんは、
  そう思うだろうな。
---出来ないんです、作り笑顔が。

 佐藤の目に、加瀬が遊び慣れた男に映っていたのだが、実は加瀬のトイ
への第一印象が、そうさせたのだと後になって分るのであった。



                        (第四回 了)

 (第五回)  「嫉妬」

加瀬は、『K』で、初めてトイと言葉を交わしたとき、瞬時にその女の頭
の良さを感じ取っていた。五年前にタイにやってきて凡そ誰しも通る道で
「夜の世界」を経験してきたが、結局最後は飽きて
しまうのが常であった。

 最初はいいのである。
SEXの相手としてのタイ女性は、その抜群のスタイルの良さに、日本
人女性には無いものを見出すことができた。
 しかし、何度か肌を合わせ、馴れ合いの状態になると、加瀬が女
から得るものは何も無くなるのであった。
 その繰り返しが、加瀬を夜の世界で働く女から興味を無くさせた
原因であった。

女は男の性欲のはけ口であって、それをいかに長く持続させるだけ
の魅力があるか、という見方で女を選ぶ男も居ることは事実である。
 しかし、加瀬にとって相手が女であっても、それを崇高な対象とし
て見ることが出来なければ、もはや性欲すら湧かないのである。

 出来る男ほど、自分を「驚かせてくれる」人間でないと、真剣に相
手に出来ないという、こだわりのような「条件」を持っているもので
ある。
単にSEXの相手だけであるのなら、その日の気の赴くままに、女を買い
に行けば良いのであって、 敢えて、時間と金をかけて女の気を引き
ずっと手元に置いておこうなどということは、全く考えられなくなっ
ていた。

 トイの性格は、その顔付からもある程度推測できた。「キツイ」と
感じるその顔付には、女にしておくのはもったいないと思えるほどの、
負けん気の強さと、何事にも挑戦してみないと気が済まないという器
の大きさを感じとれたのである。

 つまり、加瀬はこの女に完全に「一目惚れ」してしまったのである。

 久しぶりに、胸の高鳴りを覚えた。それは、この女を抱いて、自分
の物にしてしまいたいと言う、男としての征服欲というものではなく
て、この女は必ず、自分をあらゆる方面から「ドキドキ」させてくれ
るのではないかという期待感のようなものであった。

 子供の頃、ショーウィンドウに飾られた、おもちゃに釘付けになっ
てその場を離れることが出来ず、親が無理やり引き釣ってでも諦めさ
せざるを得なかったような、そんな「感覚」なのである。

 加瀬は、あれから日を置くことなく『MN電装』の接待の日まで,数度
その女をブッキングし、自分の「直感」を確かめていた。
 もちろん、そのことを佐藤はジョイの口から逐次、聞いていて知って
いた。
 ただ、佐藤はその「報告」を聞くたびに、自分も選ばなかった女が、
実は物凄い価値のある女であって、それを見抜けなかった男としての自
分の器の小ささというものを、暴かれていくような気がして、正直、面
白くなかった。
 そして、その不機嫌に駄目を押すように、ジョイからの電話が佐藤を
打ちのめした。


---ゴメンね、すっかり忘れてたの。今日ね、、ずっと前からブッキング
  入ってたのよ。
---こっちだって、先週に言ってたはずだぜ?断れないのかよ。
---分ってオネガイ。私たち、一度受けたブッキングをキャンセルするっ
  てことがどんなことか。。。オネガイ。
---ああ、わかったよ、じゃそのお客が帰ったら、着いてくれるな?
---うん。もちろんよ。

 こんな時。日本人の男はえてして「いいかっこ」するものである。
 実際は事がいかないことへの苛立ちと、つまらない嫉妬心で、自分の
身の置き所がわからなくなるくらい、バランスを失っているくせに、
「大人」の男を演じたがる。

 その日、佐藤はジョイが空くあまで、トイを指名した。加瀬が密かに
入れ込んでいる女をもっと真近で観察したかったのかもしれない。

 水割りのウイスキーをこしらえているトイの横顔に見入った。
 ジョイには無い透き通るような白い肌と、何かを見据えて離さない眼
差し、凛と背筋を伸ばしたその姿は、なるほど「いい女」に思えてきた。
佐藤の場合は、その頑なに拒みそうな、女の性を我が物にしたいという
欲望も入り混じっていた。
 頭の奥底で、トイをベッドに組み伏し、加瀬の悔しそうな顔を思い浮
かべながら、全てを奪い取ってしまうという妄想が湧き上がってきた。

---すみません、私なんか指名してもらって。
---いや、まんざら知らない仲でもないじゃないか。

 笑みを浮かべたその口元が艶かしく、先ほどの「妄想」がプレイバッ
クしてきたが、遮るように、グラスの酒を煽った。
 しかし、その視線の先には見事な脚線美の足が、ミニのドレスから露
わになっていて、佐藤の男を熱くさせた。

---加瀬社長、君によく会いに来るんでしょ?
---そんなことないですよ、私なんか相手にしてもらえないです。

加瀬がしばしばトイをブッキングしていることはジョイから聞いて知っ
ていたので、トイの「嘘」が、加瀬を庇うものだとわかり余計に嫉妬心
に火を点けた。

(そうか、この気遣いが加瀬さんを惹きつけるんだな)

 そんな納得をしながらも、心の奥底で芽生え出した黒いものに気付か
ぬフリをしていた。


                     (第五回 了)






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