BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

(第六話~第十話)




---商売はうまくいっているのか。
---最近,やっと利益が出るようになったわ。
---そうか、それは良かったな。投資した甲斐があるってもんだ。

 ジョイは男の胸深くに顔を埋めて、上目使いに話をしている。
男のほうは、ジョイの肩に手をまわし、片手で煙草を吹かしながら
余裕の体であった。
 男の名前は肥田。白髪交じりの五十台半ばの紳士であるが、とき
おりその目が鋭く光る。
 欲しいものがあれば腕づくでも奪おうとする、そういう目である。

---そろそろ、答えをもらおうかな。
---ごめんなさい。まだ、母親が田舎に帰らないの。
---その言い訳は、もう聞き飽きたな。
---ほんと。でも、あと二、三ヶ月もすれば帰ると思うわ、そうした
  ら言う通りしますから。
---わかった。じゃぁこうしよう、あと二ヶ月待とう。もし約束が守
  れないなら、投資した30万バーツをそっくり返してもらおう。

 ジョイは、その困惑顔を男に見られないようさらに深く顔を埋める
のであった。
 男の名前は肥田幸三。『MN電装』の社長である。
しかし、今その時点でもジョイはその男の詳しい素性を知らない。
 ただ、チャトウチヤックに熱帯魚を扱う店を出すのに30万バーツ
を投資して呉れたどこかの日系企業の重役というだけしか知らなかっ
たのである。
 もちろんその話の裏には、コンドミニアムを買ってやるので、自分
の女に成れと言うオファーが隠されていた。

 ジョイは肥田を甘く見ていた。投資させておいてうまく逃げ延びる
つもりでいたのである。肥田には妻が有り、タイに連れてきている。
 いざとなれば、その線で肥田を脅すこともできると。

(オファーを受けるから、奥さんと別れて)

その切り札を持っているつもりであったのであるが、つい最近、肥田
は妻を日本に帰してしまったのである。
 つまりは、のっぴきならないことも考えられるのであった。

(わかった、女房とは別れる) 

 などと言われてしまっては逃げようがなくなるのである。あと二ヶ
 月のうちに何とか30万バーツを作るか、肥田に抱かれるか、二つに一
つの選択を迫られていた。
 いくら金銭的に不自由はしなくなるといっても、自分の父親と同じ
位の歳の男に、妾として囲われるようなことは出来なかったし、考え
も及ばなかった。

この世界で渡り歩いて行くなら、そういったオファーをうまく裁きな
がら男から金だけを取るという芸当をやってのけなければならないの
であるが、肥田は日本からたまにやって来て、金に物を言わせるよう
な男とは違って、小娘の企むことくらい百も承知といった具合で、老
獪にジョイを追い込んでいた。

---言う通りしていれば、一生不自由させない。
---わかってるわ、肥田さんの気持ち、すごく嬉しい。
---ああ、そうだ、今週の土曜日、ゴルフ帰りに業者の接待があるんだ。
  ここへ来るというようなことを言ってたから、ブッキング入れて
  おいてくれ。
---えっ、土曜日?

 ジョイは、佐藤の話を思い出していた。

(まさか。。。)

 肥田の申し入れは断れない。今までも強引に先客のブッキングをキャ
ンセルさせられていたのである。
 しかし佐藤のブッキングの方が先であり、今日も待たせているという
負い目から、二度も佐藤の方をキャンセルできない。
 しかし、そのことよりも、ジョイには悪い予感が走った。

(まさか、佐藤さんの接待相手、肥田さんじゃないでしょうね。。。)

 確かに肥田からは金銭的に援助されていたので、半ば拘束されている
ようなものであったが、心までは佐藤を裏切ることはしていなかったの
である。

(どうしよう。。。困った)

 佐藤は、壁一つ向こうのボックス席でジョイを待っていた。

 肥田はいつも十一時を過ぎて店に居ることはしないことを良く知って
いたので、もうそろそろ帰る時間であった。
 チェックを済ませ、丁寧に見送りを終えたジョイは急いで、佐藤の待
つ席へと向かった。
 トイがジョイの代わりに、指名されていたことは知っていたので、慌
てることも無かったのであるが、「土曜日の接待相手」のことを一刻も
早く知りたかったのである。

 トイは、佐藤に指名の礼を、ワイをしながら礼を言って席を外した。

---お待たせ。
---帰ったのか?先客
---うん。いつも十一時までしか飲まないお客さんだし。
---いつも、か。。。
---なに、妬いてくれるの?

 どうせ自分一人のものになど成らない女だと頭では分っていても、や
はり相手の男のことは気になる。

---ところで、土曜日ブッキングでいいんだよね?
---ああ、そうしてくれ。今度はキャンセル無しだからな。
---わかってるわよ。ねぇ、そのお客さんって大事な取引先の人なの?
---ああ、『MN電装』って言ってね、うちの上得意さんだ。
---社長さんが来られるの?
---そうだ。肥田さんって言う人だ。

 ジョイの表情が凍りついた。

 ブッキングがダブッた場合、当然先の客を優先し取るのが決まりのよ
うな世界であるが、そのどちらも選択することが出来ない窮地に追い込
まれたジョイは、その後佐藤と何を話しをしたのか、ろくすっぽ覚えて
いなかった。

 確かに佐藤は独身で日本人であり、「本気」になる相手としては申し
分がないのであるが、普段、四十や、五十代のステイタスのある男ばか
りを相手にしていると、三十三歳の佐藤が、物足りなく感じることもあ
った。
 天秤のように揺れる気持ちでありながら、心では佐藤を選んでいるの
はやはりジョイも、一人の女として、打算のない恋愛をしたいという夢
があったのであろう。

                    (第六話 了)

(第七話)      「横恋慕」

 ジョイは思い悩んだ末に、肥田、佐藤ともに「ドタキャン」
することにした。つまり、店を体調の悪いのを理由に休むという
手しかないと思ったのだ。
 土曜日の三時過ぎ、ゴルフが終わったのを見計らって、二人に
電話を入れた。

---ごめんなさい。どうしても頭が痛くて、今日はお店に行けない。

 同じ言い訳を使った。肥田は、少し不満げであったが、渋々納得
した。ところが、佐藤の方は、先般のキャンセルがあったので、な
かなか納得はしてくれなかった。ともあれ、強引に電話を切る形で
話を終わらせた。

 結局、ブッキングが通っているのは加瀬一人であって、肥田も佐
藤も新しいホステスをチョイスしたのであるが、肥田の顔には不満
が残っているようで、あまり口は滑らかでなかった。昼間のゴルフ
の調子も悪かったようで、加瀬も、佐藤も取り入る隙が無かった。

---加瀬社長、その子可愛いじゃない。
---私も、先週からなんですよ、この店。
---そうなのか、私はいつもの子がマイサバイみたいで、今日はブッ
  キングすっぽかされたよ。
---そうでしたか。でもたまには摘み喰いもいいんじゃなですか?
---ダメダメ。同じ店の女に手、出したらどうなるか、恐ろしくって
  考えたくもないよ。

 いくら、肥田がジョイに「貸し」があるといっても、同じ店での
浮気はタイ人女の気性が許すわけがないということは、駐在員であれ
ば誰でも知っていることであった。
 この日、ジョイは内心かなり、冷や冷やものであった。何故ならば
肥田か佐藤のどちらかが、「ジョイ」という名前を出した瞬間、各々
の関係が明らかになるからである。
 ただ、二人とも、あえて名前を出すようなことはすまいという読み
もあった。トイには言い含めてあるので、女の方からバレることはな
い。こういった場合、ホステス同士の「暗黙の了解」は恐ろしいほど
徹底されているものであり、残り二人の今日チョイスされたホステス
にしても「余計なこと」は一切口にしないというのが、仁義のように
なっている世界なのだ。

 トイは加瀬の腕をとるようにしてその横でじっとしている。ダウン
ライトの光に白い肌が浮かび上がり、薄く引いた口紅が艶っぽく光っ
ている。肥田は隣の女には関心も寄せず、加瀬と話をする合間、ずっ
とトイのことを観察していた。
 佐藤の目にも、肥田がトイに関心を示しているのがありありと、わ
かった。自分も先日、その女の隠れた魅力を発見したところであった
ので、「なるほど」といった風で、別段不思議でもなかった。
 ただ、佐藤は肥田の本命の相手がジョイであることを知らない。
 だから、肥田のそういった所作は、普通の「摘み食い」の体にしか
写らなかったのかもしれない。
 しかし、佐藤は昼間のジョイとの電話のやりとりでは、不満を露に
したが、今ここで横にジョイが座っていないことを特に残念に思うこ
ともなく、加瀬の横に座っている女の横顔を時折窺いながら、また例
の妄想を呼び起こしていたのである。

---加瀬社長。その子名前はなんて言うんです?
---トイですけど。

 日本人が隣同士で小声で話す内容は、女達にはほとんど聞こえない。

---その子なら、ウチのお気に入りと修羅場になってもいいな。
---ご冗談でしょ。この子は勘弁してください。
---ほぉー。クールな加瀬社長がひょっとして、嵌っちゃってるの?

 加瀬は曖昧な笑を口の端に作り、グラスの向こうに視線を投げやっ
て、その不埒な横槍をやりすごしていた。
 飲み屋の女の取った、取られたなど縁のなかった加瀬であるが
肥田の冗談とも思えぬ横槍に、苛ついている自分に舌打ちしていた。

 加瀬は数回会っただけのその女を、他のどの男にも渡したくないと
思っていた。



                    (第七話 了)

(第八話) 「理由」


---加瀬さんは何故、トイを選んでくれたのですか?

 ラッチャダーにある『ソンブーン』で同伴の食事をする二人。トイ
は全く日本食が駄目であった。イサーンの出であるが故、日本食独特
の「薄味」には馴染めないようであり、例え食してもテーブルの上に
ある香辛料を手当たり次第ふり掛けて自分の「味」にしつらえてしま
うのであった。

---どうしても聞きたい?
---はい、聞きたいです。

 トイは加瀬のために「蟹のカレー卵炒め」を起用に裁いて皿に盛り
分けてくれていた。

---気の強い女が好きでね。それと。。。
---それと?
---似てるんだ。昔、学生の頃好きだった子に。
---へぇー、そうなんですか。

 トイはそれ以上尋ねる風でもなく、美味そうに料理を口に運びなが
ら、普段では出入りできそうにもない店の雰囲気を確かめていた。
 その横顔は、思わず息を呑むような激しいプレイバックを加瀬の脳
裏に誘発しさせていた。

 数十年も前に散った青臭い色恋沙汰を、目の前の異国の女にダブら
せ、胸を熱くしている自分が、馬鹿らしくも思えるのであるが、とか
く男というものは、「女々しい」という形容でミスマッチでありなが
ら、実に未練たらしい者であるようだ。
 未だにその女を忘れられず、年端も行かぬ娘にそれを追い求めてい
るのである。

---その彼女って、どんな人だったんですか?
---君のように鼻柱の強そうな顔で、何かにつけ私に挑んでくるような
  女だったな。
---トイはまだ、加瀬さんに何も挑んでないですよ?

 悪戯っぽく光るその黒い目もやはり、「同じ」であった。

 いつかトイとラッチャーダーで食事した後、『RCA』で、ゴーカート
を楽しみ、勝負したことがあった。フルフェイスのヘルメットを被り、
八の字のコースを周回しタイムを競うものであったが、圧倒的な差で
負かされた。
 たかが、ゲームであったが、加瀬はそれに挑む彼女の「目」に改めて
惚れてしまったのだ。
 100バーツを賭けての勝負に、その女は他の客との激しいクラッシ
ュにもめげずどんどん、周回を重ね、ゴールフラッグを潜り右手の拳を
天に向けて突き出すその姿に、何とも言えない身震いするような、恋心
を抱いたのであった。

---絶対、トイには勝てないって。練習してまたトライしてねっ。

 加瀬を負かした嬉しさに、満面の笑顔を作り、口元から覗く白い歯が
健康的な色気となって、加瀬の男を誘惑していた。
 実際、加瀬自身も、その女を抱き我が物にしたいという欲望に駆られ
ていた。
 もはや、商売女には興味すら湧くことなく、ただの人間としか見れな
いでいた加瀬にとって、小躍りしたい心の弾みを、悔しそうな「顔」を
トイに向けることで隠していた。

 ただ、その時トイが時折、眉間に皺を寄せ下腹のどこかを探る仕草を
何度か見たのであったが、そのことが以後、加瀬からその女を引き離す
黒い翳であることは、まだ二人とも知らないでいた。

                     (第八話 了)

(第九話) 「男達の欲望」

『アジアのデトロイト』を標榜し、外資導入に積極的なタイ政府の政策
により1998年に起こった「アジア通貨危機」をこの国は見事に乗り切った。
 既に車の生産台数も100万台を突破する勢いにあり、トヨタ、ホンダ、
ISUZUをはじめとして世界各国の完成車メーカーが、投資拡大を進めている。
 加瀬の会社も自動車用電装部品などを生産し、業績は右肩上がりであった。

 2003年をスタートとするトヨタの『IMV』計画に乗り、日本の自動
車部品メーカーもこぞってタイへの投資を決断した。アジアにおいて中国と
対比すれば市場としては比較にならないタイであるが、絶対的な国民からの
敬愛と信頼をもって国王が統治されているこの国は、中国には無い「安心感」
があり、アジアの「生産基地」としての位置付けは今後とも大きな変化無く
発展するであろう。
 各社とも「増産体制」を敷く中、加瀬の工場でも、月ごとに、日本からの
応援者を受け入れている。

---佐藤君、今日、着くんだろ?
---はい、空港着が午後の三時半だと聞いています。
---いつものホテルだな?
---ええ、今回の面々は「品管」の人間ですので、一ヶ月の滞在になります。
---わかった、今晩はいつものコースでアテンドしてやってくれ。
---承知しました。

 短期でのタイへの出張応援は、行く事を好まない者は居ない、というのが日
本の親会社の総務部長が話をしていた。

 タイを経験した者たちの昼時の「話」は、若いも老いも関係なく興味を引き
かつ「それ」を経験してみたいという願望へと変わるのである。

 とりわけ、「ひな壇」には誰しも、驚きと感動を覚えて帰ってくるようであ
った。 数十人の若きタイ女性の視線を一斉に浴び、そこから好みの女を選び、
数時間後にはベッドを共にし、男の欲望を果たすことができる、そういったシ
チュエーションは、完璧な意味では日本には無い。

 佐藤は、応援者のアテンドを繰り返すうちに、自分なりに一つの「解釈」を
得ていた。

 それは、金を使って女を買うということは日本であっても、ごく普通に出来
ることなのであるが、要はその対価の違いがまず大きな要因であろう。
 また、タイ人女性の抜群のスタイルの良さと、男の心を悩ませるあの優しい
微笑みもまた、その一因かもしれない。

 しかし、佐藤が最終的に「解釈」として納得できる要因は他にあった。
 それは、「異国の地での自由な身」ということだ。本国で妻帯者である男達
にとって年間に何度、「風俗」と呼ばれる場所へ出入りするだろうか。
 金の問題もあるが、むしろ感覚的に「風俗なんて」といった抵抗感に似た感
覚が先立ってしまって、男としての欲望を抑えているのが現実ではないのか。
 例え、「風俗」なんぞに世話になることなく、女房以外の女を抱くことが出
来る者にとっても、そこには「隠す、隠れて」といった闇の部分での行動を余
儀なくされる。

 男盛りの誰しも、若い女の体は欲しいはず。それが、遠く何千キロと離れた
異国の地にやって来た途端に「弾けて」しまうのである。
「旅の恥はかき捨てですよ」とか「みんなやってる事ですよ」といった言葉に
「たが」が外れ、後は無邪気に「驚き」と「感動」を、いとも簡単に受け入れ
るだけなのだ。

 佐藤自身も赴任当初は「そう」であったので、そのことを非難したり見下げ
て物を言うつもりも毛頭無い。むしろ、「微笑ましく」思えるのであって、タ
イという国が男にとってどれほど「天国」だと身をもって理解させて、日本へ
帰らせたい、と思うのであった。

 ドムゥアン空港で、「客人」を出迎え、スクンビッツ19の『ウエスティン
ホテル』へと向かった。親会社での役職により「管理職」以上は、そのホテル
に投宿を許される。

車に同乗する出張者達は、車窓の向こうに初めて見るタイを好奇な目で眺めて
いる。
 数時間後、皆が話す「ひな壇」というものを早く体験したいという「影なる
欲望」を押し殺して、明日からのスケジュールを確認する管理職の面々に、佐
藤は、「あっち」の方向に顔をそむけて、笑を堪えていた。

                        (第9話 了)

  (第10回)  「駄目な男」



加瀬がトイを見初めてから数ヶ月が過ぎようとしていた。
何度か同伴を繰り返すうちに、トイの知らざる部分をいくつか発見
することができた。

---今日、ブッキングできるかい。
---ご免なさい、今日はブッキング入ってるいるの。
---そう。わかった、マイペンライ。

 そのように、大人の男を演じる加瀬であったが、心中はブッキン
グの男がどんな男なのか、妬ましく思え、それが高じてトイに対し
て、冷たく当たるのであった。

---メトン、ノーイチャーイ ナ。
---マイペンライ。じゃ、また今度。
---今日、どうするんですか?
---さぁー。タニヤでも行くかな。

 加瀬はタニヤが好きではなかったが、つい、大人気ないことを言
ってしまったと後悔する先に、トイの語気がほんの少し荒くなった
のに気付いた。

---私は、仕事です。指名してくれるお客さんを選べません。
  けど、仕事ですから。加瀬さんとは違います。

---どう違うって言うんだ。
---加瀬さんが、タニヤで他の女の人の肩を抱いていると想像しただ
  けで、悲しくなります。加瀬さんがどこに行こうと、それは勝
  手です。ただ。。。

---ただ。。。何?
---私は、選べないんです。分かってください。
---分かってるよ。そんなことくらい。
---それなら、嘘でもいいですから、「今日は、家に帰ってゆっくり
  するよ」  って言ってください。タニヤに行ってもいいですか
  ら、私には言わないで行って欲しいんです。

 その類の甘い台詞は、少しカラオケの仕事に慣れてきた女なら平気
で口にすることだと、頭の中で、別の加瀬が囁いていたが、何故か胸
が痛んだ。
 しかし、それでもまだ苛めたりないのか、子供が駄々をこねるよう
に、トイに甘えたくなるのであった。

---いや、いいんだ。君が馴染みのお客さんが増えることはいいことじ
  ゃない  か。サラリーも沢山、手に出来るしね。
---。。。

 言った尻から、自分が情けなくなる加瀬であったが、自分もまたト
イが他の男に肩を抱かれ、口説かれることを想像しただけで、熱いも
のが沸いてくるのであった。

 それから、しばらくトイから電話もメールも来なくなった。加瀬自
身も自分がちっぽけな男だと情けなくなり、謝って、またトイの笑顔
が見たくなるのであったが、それを簡単に出来ないで意固地になって
いた。

 四十を過ぎた男なら「余裕」でそれくらいのことは目を瞑ることが
出来るのかもしれない。
 しかし、加瀬はトイが指名客が無く、また同伴数が足りなくなって
「根」を上げて来るだろうと思っていたのだ。

 二週間が過ぎても連絡が無かった。
 ついに、加瀬はどうしようもない自虐の念に駆られ、ますます自分
を深みに落とし込んでいった。

---(今日、ブッキング大丈夫かな。)

  (そう言って、電話してやればいいことじゃないか、何故そんな
   に大人げ   ないんだ、お前は。)

 しかし、そうすることで自分があの娘に「負ける」と言う思いがし
たのでどうしても出来なかった。


 そして一月ほど過ぎたある日、ジョイから加瀬に電話が入った。

---あの、ジョイです。わかりますか。
---ああぁ、トイの従姉妹の。そうでしょ?
---ええ。実は、トイが大変なことになって。。。
---えっ?

 電話の向こうでジョイが早口でタイ語で何かを言おうとしている。
 いつもであれば、何とか意味を解せるだけのタイ語の能力を身に付け
ていた加瀬であるがその時は、気ばかりが焦り、ジョイが何を言おうと
しているのか、殆ど解せず、とにかく、電話してあげてというジョイの
言葉だけが残った。

---ハロー。どうしたって言うんだ。
---何が。。。ですか?
---ジョイから電話があったよ。
---そう。。。ですか

 その時点でもまだ、トイは加瀬に対して理由を言おうとせず、ついに
加瀬がキレて叱るように問いただした。

---黙ってたんじゃ、わからない。どうしたんだ。ちゃんと私に言いなさ
い。  それとも、そんなに私が頼りないか。そんなに、俺が嫌いか。

 電話の向こうから、トイの泣き声が聞こえてきた。我慢していたものが
関を切って溢れ出すような激しいトイの嗚咽が、加瀬の胸を突き刺した。


                        (第10回 了)




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