BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

(二十六話~三十話)



---(何とかする)

 そうは言ったものの、トイに、アテは無かった。いや、有ると言え
ばそれは究極の選択であり、今もってその決断など出来るはずもない。
 そんな中で、唯一の希望は加瀬に相談してみることだけであった。

---どうだった?お父さんの具合は。
---取り敢えず検査入院が必要で、その結果次第なんですけど。
---そうか、心配だな。

 加瀬とのやり取りから、トイにその話題を持ち出す隙を与えてくれ
はしなかった。肥田であるなら、真っ先に金の話しに繋がっているだ
ろう。
 それが異常なことだとは知っていても、今のトイにとっては加瀬を
鈍感な男か、思いやりのない男に映った。
 しかし、いつまでもいい子ぶってもいられず、トイは切り出した。

---実は、お金が無くて、入院出来ずに居ます。
---そう。。。


 二人の会話に暗い影が落ちた。

---幾らぐらいかかるの?
---先生の話ですと15万バーツくらいです。

 金額を言う時、トーンが幾分下がった。

---そう。。。

 もちろん付け加えて言うことなど出来ないと分ってはいるが、肥田
なら出して呉れるということを、一つの情報として加瀬に流したかっ
た。
 出来れば、誰かがそのことを、そっと加瀬の耳に囁いてくれないだ
ろか---そんなことを傍らで思った。

---分った、考えさせてくれないか。
---ごめんなさい。いつも。。。
---いいんだ。気にするな。

 そうは言っても、やはり加瀬の心は重く塞がった。目の前の女の面
倒なら、それは納得できるが、その先に居る「親兄弟親戚」まで、は
っきり言って面倒見る気はない。
 よしんば、それを受け入れたとしても、加瀬の心の中には「してや
った」というトイへの恩着せの気持ちが、いつかきっと自らを空虚な
世界へと押し込むであろうことが、解っていた。

 加瀬は、社用車の運転手であるポンチャイが、トイと同じイサーン
の出身であることを思い出し、彼に問うた。

---もし、君のお母さんが、どうしても入院しなければ命が危ないとな
  ると、君はどうするかね?

---もちろん、入院させます。
---どんなにお金がかかっても?
---はい。今の自分が出来るだけのことをします。

 ポンチャイはシーサケット県の出身で、両の親は田舎で健在であった。
 その男はハンドルをしっかり握り締め、その話の締めくくりの意を強
くするかのように、もう一度ギュッっと握り返した。

---何故?と言うとオカシイかもしれないけど、どうして君たちタイ人は
 そんなにしてまで、親御さんを大事にするのかな。自分たちの生活を
 犠牲にしてまで。。。

---シャチョウハ、ドウシマスカ?

 降り出したスコールでフロントガラスに大粒の雨が落ちてきた。掻き消
されそうになるのに反抗するように、その男はバックミラーで主人の様子
を覗った。

---もちろん、私だって同じことをするだろう。では、それがもし君の奥
 さん の親なら、どうするかね?

 今の加瀬にとっては何とか自分贔屓の「答」を、タイ人から引き出した
くて、半ば意地になっている風であった。
 イサーン出身のその運転手は、間髪入れず応えた。

---同じです。私にとっても同じ親ですから。
---君の一年分のサラリーが一瞬に嫁の実家によって消費されるんだよ?

 意地の悪い男だと思いつつ、「反撃」せざるを得なかった。

---例え半分しか用意出来なくても、それはきっと分ってくれると思いま
  す。 親は。。。大切です。
 私達を生んで育てて呉れた恩は、絶大ですから。

 もはや無駄だと思った。というより、そこまではっきり言いきれるタイ
人の心根に感服さえした。

---それと。。。
---ん?
---親の喜ぶ顔は私たちにとっても、幸せですから。いずれ、それがまた
  自分の喜びになって帰ってくるはずですから。

---いずれ。。。戻って来る。。。か

 加瀬は赴任当初、タイに関する情報を得るために読んだ本の中にあった
仏教思想の一遍を思い出していた。

---(輪廻転生。。。)

 いつしかスコールは止んでいた。そして西の空の、雲の切れ間から漏れ
出した夕陽が、橙色のカーテンを引こうとしていた。
 目の前の男の根深く日焼けした顔が、黄金色に輝く仏塔のように慈悲の
光で満ちているように、加瀬には映った。



                       (第二十六回 了)



           第二十七話「呪縛」


 加瀬が結論を見出せないでいる頃、トイの田舎では一つの話が
一人歩きし出していた。

 トイが田舎に帰った際、バンコクという都会と日本人カラオケ
という『特殊』な世界が磨き上げたトイの美しさを見逃さないで
いた男が居た。
 トイの実家の近辺では富豪としてその名が通っている家の男で
トイもまた小さい頃、よく遊んでもらった記憶がある。
 今回、トイが帰省した際も、何故とは疑うこともなく、その男
はトイの家に出入りしていた。
 その男が、トイの母親に言い寄ってきた。

---トイちゃん、随分、綺麗になって帰ってきたね。

 母親はその言葉だけで、全てを解釈できた。その男は既に四十
前の年齢であり子供も3人設けている。しかし、例に漏れなく女癖
が悪く、本妻との間には諍いが絶えなかった。しかし、貧困の出
の女房は結局、今の生活を捨てられず我慢するだけであった。

 そういうことは「村」の誰もが承知している。しかし、金の力
には誰も逆らえず、その男の援助で生きている家も多かった。
 要するに、その男の申し出は、トイを妾に欲しいということで
ある。
 それを承知するなら、父親のことは一切面倒を看てやろうとい
うことで、それを本人のトイに申し出るのではなく、何ら力のな
い母親の方に突きつけてきたのだ。 
 過去にそうやって何人かの女をミヤノイとして我が物にしてき
たので、トイとて容易く手中に収められると考えていた。

 そのことを、母親が電話で言い難そうに伝えてきた。

---お前も知っているだろう?スックサン。あの人がね、お前の
  こと  綺麗になったねと言っているんだよ。

 トイもそれだけで直ぐに「理解」できた。

---そう。私には関係ないわ。気持ち悪いっ。

 首には二重にも金のネックレス。指に通された金の輝きは富の
象徴でもあり、一方では下賎な成金主義にも映った。
 そのゴツゴツとした手で、我が身を犯されると思うと、背筋が
寒くなった。

---私は、絶対ミヤノイだけは嫌っ。あの男のものになるなら死ぬ
  方がマシよ。ちゃんと断ってよね、お母さん。
---私だって、そんな。。。お前にそんな思いをさせてまで。。。

 そう言うのなら、わざわざ電話して来ることもないだろう、知ら
ぬ所で断ってくれ、と言いたかったが、年老いた母親にそれ以上の
ことは言い返せずにいた。
 おそらくトイも、昔ながらの慣習が根深く残るその地で未だ住ん
でいたなら、それを受けていたかもしれない。
 バンコクという都会で、高等教育を受け、そういった理不尽なこ
となど、違う世界のことだと考えるようになっていた。

 しかし、トイは母親にそのように強く出た手前もあって、何とし
ても金を工面せざるを得なくなった。
 加瀬が助けてくれるであろうと思いつつ傍らで肥田の姿を「保険」
として見ていた。

 眠れぬ夜、ベッドの中でトイは考えた。
 万が一、加瀬が融通してくれなかったら、どうなるか。

 スックサンと肥田を比較している自分が居た。その二人の男の手
が交互にトイの体の中に侵食してくる。ただ目を閉じ我慢している
自分が、客観的に哀れな目で見ていた。
 母親に、あの男の妾になることだけは絶対に嫌だと言ったが、他
の二人の男にしても、結論的には妾になるということであろう。
 そんなことを考えていると、結局自分は、あの旧態依然とした古
い世界から、一歩も逃げ出せずにいることに気が付き、虚脱感だけ
が支配する体を、自ら傷つけて、覚醒させいという衝動に駆られた。

 バンコクに行けば、いや、イサーンという貧困の地から脱出すれ
ば自分は違った道を歩けるのだと思っていた自分が恨めしく思えた。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 加瀬にとって十五万バーツという金額は大きかった。いや出して
やれないのではなく、五千や一万だといった、ある意味そこいらに
あるような話しではなく、それをする『意味』を考えてしまうので
あった。
 肥田のように簡単に条件として提示できるのが羨ましくも思えた。

---(十五万でヤルのか?)

 一匹の雄として、金を出したことの対価として、あの女を抱き、
意を遂げたとして、その直後の自分の中に湧き出る感情が怖かった。

---所詮、金で買った女。。。



                    (第二十七話 了)



          第二十八話「顔の無い男」



 こんな場合、タイ人男の行動力は素早い。欲しいと思った女を手に入
れるためには、とことん何でもやる。
 スックサンは、トイの父親を病院へと入院させ、さっさと検査の手続
きまでしてしまった。病院側もこの男が「後ろ盾」となると話が早かっ
た。
 つまり金の心配が無いと言うことである。母親の方は、スックサンの
意図が分っているだけに、気が気で無かった。黙認することは娘を差し
出すということであり、当然、母親としては出来る話ではなかったが、
これといったアテも無い今、その男のするがままになってしまった。

 そうしておいて初めてその男はトイに電話して寄越した。

---俺だけど、お父さんのことは心配しないでいいから。
---どういう意味?
---ちゃんと入院させて、検査も受けられるようにしたから。

 トイは言葉にならない怒りと恐怖で体が熱くなった。

---十五万バーツかかるそうだけど、心配要らないよ。トイさえ納得して
  くれたらね。。。

 言葉は柔らかいが明らかに脅しである。いったい何を納得しろと言うの
だ、馬鹿にするのも甚だしい。未だに古きイサーンの慣習を貪り、女を女
として扱わないこの男の獣じみた欲望に誰が屈するものか、逆に見下すよ
うに言い放った。

---そのお金は私が払います。
---ふふふ。。。出来るの?

 男の言葉の裏には(ソープにでも身売りするのか?)とでも言いたそ
うであった。
 電話を切ってからも、醜い者達への怒りは収まらず、尚且つ忌まわし
い、あの地には二度と戻りたくない思いであった。

 トイは冷たくなった自らの背中を暖めて欲しくて、加瀬に電話した。
いつもであれば、連絡をしてはいけない時間帯であったが、自制が出来
なかった。

---ゴメンナサイ、お仕事中。。。
---すまん、今、会議中だ、後で掛け直す。

 加瀬の事務的な受け答えが恨めしかった。

今、自分が最も欲しているものは、薄汚い獣の手を払い除けてくれる重
厚な盾であり、全ての忌まわしい物を切り裂いてしまう鋭い剣であった。
それらを身に纏う男に、自分は身を捧げるであろうと思った。
 例え、それが肥田であっても。

 遠い向こうから馬に跨り、右手に剣、左手には盾を持った男がやって
来る。
だんだんその影が大きくなってくるのであるが、顔は兜に包まれよく見
えない。

 黒い影の塊だけが見てとれたが、不思議と怖くなかった。

---(早く来て。。。)

 誰であるかということより、早く自分を救って欲しいという念の方が
強かったのである。
 その武者は剣の先でトイの体を掬い上げ背後の馬の背に跨がせ、鞭を
二つほど入れた。
 トイは振り落とされまいとその武者の背にしがみ付いた。そして、兜
の隙間から覗くその男の顔を確かめるべく雲隠れしている月明かりを待
った。
 雲が切れ、月夜が戻った。疾走する馬の鬣が綺麗に靡いている様が見
えた。 そして、そのまま視線を武者の横顔に移す。

 振り向く武者。

---!!

 そこで、トイは夢から醒めた。右手の拳で強く握り締められていたの
であろうか、白いシーツに火山口のような険しい皺目を硬く残していた。

---どうしたって言うんだい?

 数時間も眠っていたかと思うほど体が重かった。加瀬からの折り返し
の電話で目を醒ましたのではなく、覚醒した瞬間に携帯が鳴ったという
のが正解なのかもしれなかった。

---加瀬さん。。。
---ん?
---加瀬さんじゃなかった。。。アナタじゃ無かったのよっ!
---えっ?



                    (第二十八話 了)



          第二十九話「その時」

 一つの「誤算」が起きた。

 肥田に帰国辞令が出たというのだ。トイにとっては「保険」でも
あった肥田が居なくなることは、今の自分にとっては誤算であった。
 万一、加瀬が自分を見限った場合には、肥田を「選択」すること
を覚悟していただけに、塞ぐ心は一層暗闇に追い込まれていく。

 そうしている間にも遠い田舎の地では、薄汚い男の暗躍は止まない。
 父親に取り入って、「内堀」まで埋めようと言う腹である。
 病と高齢から、父親は気弱に成っていると見透かしてのことである
から、トイには余計に腹立たしく思えた。
 鏡に自分の顔を映し出してみた。目は釣り上がり、口元は付け入る
ことを許さない緊張で結ばれている。
 それを長く眺めているとリストカットでもしてしまいそうな自分が
怖くなり、拾ってきた子猫を抱き寄せ、その温もりに一抹の幸福を見
出そうとするのであった。

 そして、待っていたものがやって来た。加瀬からの連絡である。

---今夜、仕事休めるか?
---はい。そうします。
---アソークのウェスティンホテルのロビーで、8時に待ってる。
---分りました。行きます

 加瀬の声がいつもと違うためなのか、トイの方も事務的にそれを受
け入れた。電話を切ってから、解釈しなければならないことが分った。

---(ホテルのロビーで。。。)

 そうか、そうなのだ。加瀬は自分のことを抱こうとしているのかも
しれない。いや、それはこのタイで見てきた日本人の男であれば当然
の事であろう。それならば、そのように心して行かねばならない。今
自分が選択出来る唯一の道であるのならば、全てはそれを前提に考え
ねばならない。トイは自分に向かって問いかける。

---(あの人なら。。。納得できる そうよね?)

 もう一人の自分が問いただす。

---(それでいいの?所詮は妻子持ちの日本人なんて、いつ日本に逃げ
   帰るかわかったもんじゃないわよ?)

---(そうね。。。それは分ってる、でもね、これしか無いのよ)

 葛藤が続く。しかしそれを打ち切らせたのは、かの地で待ち構える
薄汚い男の手であった。何度想像しても「それ」は受け入れ難かった。
 トイは、自分がそこから出て来たことの意義を重ね合わせていた。

 その地の「特異性」から逃げ出してきた、いや自由を手に入れたく
て飛び出してきたのに、またそこに逆戻りすること、しかもそれが、
あそこだけに通じる理不尽な道理によって連れ戻されることに強い嫌
悪を覚え、それだけは絶対阻止しなければと思うのであった。

 窓から差し込む陽が黄金色に変わる頃、トイは身を繕うためにシャワ
ーを浴び、いつもよりは薄い化粧に取り掛かった。
 こんなシガラミもなく、あの男に抱かれたかった。

 それは、男と女のやり取りの中で自然と待ち構えるものであって、決
して何かに強要されるものではないと、トイは思うのであった。まして
や自分はあの男を一人の男として好意を持っている。加瀬がもし自分の
ことを女として好意を抱き、抱きたいと思うのなら、金を介して意を遂
げることに抵抗を覚えるはずである。

 しかし、世の中は上手く行かないことばかりで、決して自分が望む通
りになど成らないという経験が染み付いているトイには、「仕方ない」
の一言で納得しなければ成らなかった。

 タクシーがラッチャダー通りの渋滞の中を象の歩みのような動きで進
んでいる。それでも、一刻一刻、近づいていく「その時」に、トイの胸
の鼓動は人に漏れ聞かれるのではないかと思えるほど、高鳴っていた。
 次の信号はスクンビッツ通りのもの。そこを右折すれば、アソークで
ある。右手の車窓に『ウェスティン』の高層部の灯りが目に入ってきた。
 おそらく、あそこから出てくるのは明日の朝だろう。

 1階ロビーに加瀬の姿は無かった。時計は8時を5分ばかり過ぎてい
る。以前、ここでクリスマスのディナーを加瀬と共にしたことを思い出
し、加瀬が指定するロビーが7階であることを思い出した。

 エレベーターの中の一人の静寂が、開いた扉から飛び込んでくる外人
女性歌手の歌声で解き放たれた。
 足が少し竦んでいる。ロビーラウンジの中に加瀬の姿を追った。

 窓際の二人掛けの席に加瀬は居た。

---サワッディーカァー(こんばんわ)
---ああ、こんばんわ。

 緊張の糸が二人の表情を硬くしていた。席に身を沈めようとするトイ
の目に、テーブルの上に置かれたルームキーが目に入った。
 全て予想された通りであったが、自分の両の足から力が抜けていくの
をかろうじて手肘掛についた右手で支えた。





                     (第二十九話 了)



         第三十話「誤解。困惑」



---キン カァーオ ルーヤン?(ご飯は?)

 加瀬は緊張を解そうと、トイが来たらその言葉で始めることに
していたが、トイの応えはアテが外れたものだった。

---あんまり、食欲ないんで。。。

 そう言われると、次の行動に詰まってしまう。

---何か飲むかい?

 やっとのことでトイはオレンジジュースに口を着けた。しかし
加瀬にしてみれば、本当は何ら「悪びれる」ことは無いのであって
本来なら、女の方から媚られてもおかしくない状況なのだ。

 しかし、そういう雰囲気が反って加瀬には「真実」らしく思え
何ら不快感は覚えなかった。ここで妙に媚を売られ、腕を取られて
上の階の部屋に消えようとする女であれば、こんな所には初めっか
ら来ていないし、何ら悩むこともないのである。

 加瀬は、次の言葉に窮していた。何を発しても、全て気取られる
だろうと思ってしまい、全身がピクピクと触覚のようになっている
自分に閉口した。

---ごめんなさい。お忙しいのに。
---いや、いいんだ。大事なことだ。

 トイの方から口火を切ってくれたことが有り難かった。

---何を言っても無駄かもしれませんが、加瀬さんには本当はこんな
 ことで煩わせたくないんです。
---わかってる。だから、そのことはもういいんだ。
---私の手術の時、そして今回。。。

 トイは言葉を詰まらせ下を向いた。細い両の肩が震えている。それ
を見詰める加瀬の視線の中に、トイのしなやかな肩甲骨が、悩ましい
美しさを発し、同時に自分を誘っているように見えた。

 その時、加瀬は一人の男としてはっきりと、目の前の女を手に入れ
たいと思った。自らの下半身の疼きが、冷静さを保とうとしている顔
を嘲るように、緊迫していくのだった。

 そして加瀬は意を決して口を開く。

---上の部屋でゆっくり話そう。

 はっきりと見据えて言った積りであるが、視線は波を打っていた。
そして、その言葉に対して目の前の女がどんな反応をするのかに怯え
ている。

 全く馬鹿な話である。この地では日本人の男とカラオケの女という
構図は、いたって簡単なものであり、普通ならさっさと女に腕を組ま
せてエレベーターのボタンを押していることだろう。

 それがどうだ、触れば直に壊れる物を何とか我が手中にしたいが為
に全身の神経を刃物のように尖らせ、毛穴の全てが全開しそうな位に
緊張している自分が居るのだ。

 加瀬は前夜、今、目の前で繰り広げられている情景を何度かシュミ
レーションして、その対応も考え抜いてきた。しかし、全ては無駄な
徒労だった知る。

 トイが顔をゆっくり上げ、加瀬をしっかり見据えて言った。

---部屋で、ですか?
---うん・・・

 トイの方は、(シマッタ。。。)と思った。その言葉の意味に抵抗
の意は無いのであるが、何故だかそう言ってしまったという感じであ
る。だが加瀬は、その言葉の意味を単純に受け取ってしまった。

---(想定していなかったのか。。。)

 そして、急に自分を繕わねばと狼狽し余裕が消え失せた。

---いや、俺もいろいろ考えたんだ。肥田さんのこともあるし。あの
  人にだけは絶対。。。

 妙な空気が支配する。誰が介入しようが解けて消えそうにないよう
な重く淀んだ色をしていた。

 それを連れてきた責任を感じ、かつ自分の言葉の意味を誤解される
ことが怖くて、トイは言葉を探った。しかし、出てこない。

---(行きましょうか)

 そんなこと恥ずかしくて言えない。自分から誘っているようで女と
しての恥じらいがそれを拒む。そして、心の奥深くで潜む濁ったもの
に気が付く。

---(今、この機会を逃したら。。。)

 そして片や加瀬の方も奥底から湧き出る声に身を縛られていた。

---(所詮、お前もそうなんだ。金でその女を手に入れようと思ったん
  だろ! 違うか!あぁー今、女はどう思っているかな?)

 一面硝子張りの向こうには、その時刻にやって来ることになってい
るBTSトレインが、『アソーク』駅に滑り込んで来るのが見えた。

 加瀬は、視線の焦点を硝子面に戻し、そっとトイの表情を覗った。
 そこには困惑の色を隠し切れない女が座っている。

---(もう、どうでもいい。。。)

 そう思った次の瞬間、トイが柔和な表情を添えて、加瀬に語りかけ
た。

---加瀬さん。。。行きましょうか。




                       (第三十話 了)













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