BANGKOK艶歌

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第二章 「過去」-4




 踏み出そうとした右足が動かない。
 女の気を察したエレベーターは、ドアを早々に閉じ逃げるように降りていった。

----晩飯だ・・・腹減ったんでね。
----連絡呉れたらいいじゃない、一人で食べても美味しくないでしょ?
----あぁ、そうだな。

 羽田は観念したように、部屋の中へその女と逆戻りした。

----どうだったの?お仕事。上手くいった?
----ん・・・何とかね。
----カァウ・トム作って上げるから、ここで二人食べましょ、ねっ。
----そうだな、そうしよう。

 羽田は台所に立つ女の背中を恨めしそうに見詰めた。

 女に名は、プゥイ。
 サトーン通りのクリニックに勤める女医である。

 父親が華僑の血を引いていたので、顔立ちはそれを連想させるものがあった。
マヒドン大学医学部を出て、街のクリニックで働いていた。父親も医者で、そういう家系
であったのだろうか。

 羽田はぼんやりと煙草を燻らせながら、2年前のことを思い出していた。

 その日は、ゆっくり昼食を摂る時間もなく、サトーン通りの屋台で、「蟹肉入り焼飯」を
水で流し込むようにして食べ、次の訪問先へと向かう途中のことであった。
 バンコクでは珍しく、朝から雨が降り続いていて、いっこうに止む気配がなかった。
 サトーン通りを抜けるまでに渋滞に捕まり、車内でイライラした時間を潰していたとき
猛烈な腹痛に見舞われた。
 さきほどの「蟹」が原因だと、瞬時に察した。僅かであったが、食べるとき鼻をついた腐
臭が気になっていたのだ。
 腹部を雑巾を絞るような激痛が一定の間隔でやってきて、額からは脂汗が吹き出た。

 運転手は道沿いのクリニックを指差し、取り敢えず、薬を調合してもらうこと勧めた。 
 その激痛に耐えれず、次の訪問先にキャンセルの電話を入れた後、急いでその小さな
病院へと駆け込んだ。

 そこに・・・プゥイが居た。

 まだ、医者と呼べるような歳と見えなかったので、てっきり看護婦と勘違いをした。

----先生、いますか?
----私ですけど。

 小馬鹿にされたのが悔しかったのか、まるで人の病状に無頓着を装っていた。
羽田は痛む腹を押さえて、薬を調合して欲しい旨を言ったつもりだが、まるで通じていなか
った。
 ついに、その場にしゃがみ込むようにして身悶えていると、ようやく事態を察したように奥
のベッドに連れて行かれ、大きな粒の薬を3錠渡され、それを飲み干した。
 そして、すぐにトイレに駆け込んだ。何度か、ベッドとトイレを往復しているうちに痛みは
和らいできて、ようやく落ち着いた。

----ありがとうございます。随分、良くなりました。
----そうですか。それは良かった・・・

 その時、その女医が零した知的な微笑は「患者」である羽田の心を捉えた。
 今にしてみれば、それが「魔の誘い」だったように思える。

 回想のフィルムをそこで押しとどめるように、羽田の携帯が鳴った。

----(しまった・・・電源を落としていない)

 もしも、その電話の相手がティックであったなら、タイ語を使わねばならない。
 強張る手でフリップを開け、ディスプレイに視線を落とす。

----(マズイ・・・)

 案の定、ティックであった。さっきの「言い訳」に電話をして来たに違いない。それなら話は
混み入ったことになる。
 頭の中では次の最良の策を探っているが、その間にもイライラするほど、着信音が部屋の
中を駆け巡っていた。

----どうしたの?

 プゥイの猜疑心に溢れた目が羽田を襲う。
 羽田は、着信音を追い払うように電源を落とした。
 意図的にOFFにしたことを後でティックは問い詰めるだろう。
 さすれば・・・

 「お返しさ。俺だって、君の電話での対応にムカッっとしてたんだよ」----という台詞を用意して
おく。
 しかし、目の前の女はそれで納得しなかった。

----出ればいいじゃない、それとも何か不都合でもあるの?

 また、「いつもの」棘のある口調でその女は羽田を責める。

----どうせ、どっかの飲み屋の女の誘いの電話さ、ウザったい・・・
 白々しい言い訳でも、その女には気に入ったらしく

----さぁ、出来たわよ。食べましょ!

 嬉しそうに羽田の前に食器を並べだした。

 プゥイが出来る料理は、カァウ・トムと味噌汁だけであった。
 味噌汁は、羽田がその作り方を教えた。
 今では、出汁の味すら分かるようになっていた。

 箸を並べる細い手は毒蛇のように羽田の首を絞めつけ、その手首の傷は、手錠の鎖のように
羽田を虜にして解放を許さない。
 羽田は、この女を愛してはいなかった。羽田が心を奪われたのはこの女の持つ「ブランド」だけ
であったのかもしれない。

 バンコクの夜の遊びに辟易としていた時期であった。
 金を伴わない関係と、自分のレベルに合った教育レベルを有する女が欲しかっただけなのだ。
 毎日のカラオケの仕事の話と、客の悪口しか語らない女達に、自らの仕事のことや、日本人の
価値感などを説いてみても、テレビに夢中になって聞く耳も持たないのが普通であり、それを求め
る意味の無さを嫌というほど思い知らされていたのだ。

 パッポン辺りで売っているCopyの「ヴィトン」ではなく、エンポリアムのショップでその本物をキャッシ
ュで買えるタイ人女。
 そのブランド力に負けたのだろう。確かに連れて歩いていても後ろ暗い気分になることもないし、
その女が使う堪能な英語は、どこの国に行っても通じた。
 もしも、連れ歩く女のTPOを選べるなら、間違いなくその一つに組み入れるだろう。
 しかし・・・羽田は思い知らされた。
 それを手に入れるための「代償」の重さを。

 羽田は、今夜この女とする乾いた味のSexの後に、終わりの無い巡礼の旅からの逃避に疲れ路
傍に打ち倒れる自分の姿を、また見ることになるのだろうと思った。

 しかし、一方では商売女相手のSexが出来なくなっている自分がいたので、脳幹を通って出さ
れる「指令」とは裏腹に、勃起する分身を咎められずにいた。
 そしてそれらの不条理との葛藤が、羽田の体内の血から赤い色を奪っていくのであった。

 おそらくこの女もまた抱かれながら知っていたに違いない。
 羽田が自分を求める時は、溜まったものを自分の中に吐き出す時だけであり、決して自分を愛し
て呉れているわけでないことを。

一流の国立大学を出て、物質的にも何の不充なく生活し、育ちの良さが至るところに見え隠れす
る女。昼間は、先生と呼ばれ表には出さなくとも、高い自尊心を纏っている。
 毎晩、見知らぬ初めての男に金の力で連れ出され、欲望のはけ口のとされる女達にはない余裕
の美しさがあった。
 しかし、最愛の男は自分を愛してくれない。
 人生で初めて知る挫折。

 それでも・・・女は男の愛撫に身悶え一縷の望みと共に歓喜の声をあげる。
 そして果て、男の背を見て密かに涙する。

 (いつかは振り向いてくれるはず・・・)

----どう、美味しい?
----あぁ、上手くなったな・・・

 カァウ・トムと具の無い味噌汁。
 禅僧が早朝の作務の後に食するものの方がまだマシであろう。
 そんな風に羽田は胸中で思いながら、潰れた飯粒を箸の先で摘んだ。

 味噌汁の湯気が、何かを曖昧に包み隠す風に揺らめいていた。


                                        (第四話  了)


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