BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

第四章(一話~五話)



 羽田は一塊の息を吐いて、遠い目と共に自らの呪縛を解いていった。

----私は、見事に嵌められた・・・いや、嵌ったんでしょうか。罠に気が付いた時は、もう二度と外交官として
  再起できないだろうと思いました。

  羽田は両の箸の先を揃え、それを所定の位置に戻した。

----女の名は朱麗華・・・もちろん偽名でしょう。私は、その女の蜜罠(ハニートラップ)に嵌り、日本国の外
  交官として、今もって訴追されても止む得ないような「情報」を流してしまったんです。
---- 。。。。。。

 野上は羽田に向けられている視線をどこにも動かすことが出来ないでいる。

----彼女・・・いやあの女はプロの工作員でした。当局の指示(ミッション)を完遂する為には、「女の武器」を
  いかんなく使い、標的(ターゲット)を誑し込み、骨の髄までしゃぶり尽くし、完全に意のままに操つれるま
  で男の肉体を侵していくんです。
----蜜罠は、古代からある古い手段(て)だが、その威力が色衰することはないだろうね・・・。この世から男の
  性欲(よくぼう)が無くなることはないだろうからね。

 野上は、猪口に透明の酒を注ぎながら錆びた声音で言った。

----結果的に私は、外交官の地位と家族を無くしました。全てと言ってもいいでしょうね・・・。
----当時の局長は当然知っていたんだろう?
----ええ、思い余って相談しました。そして、私を隠密裏に北京大使館から日本へ呼び戻し、暫く局内の閑職
  で「ほとぼり」が冷めるまでじっとしてろという指示でした。
----君を庇ったのか・・・それとも隠蔽したのか、微妙だな。
----本来なら、罪を問われるべき「失態」であり私も訴追されることを覚悟して帰国しました。そして、帰国した私
  を待っていた局長の一言は、衝撃的でした。

----何と・・・?
----『今後、この件は一切他言するな、蜜罠なんぞ外交の世界では日常茶飯事だ、忘れろ』・・・と。
----ふむぅ・・・茶飯事か。

 野上の吐いた息は、過去の「同僚」として色を同じくして羽田を包んで呉れた。

----いつでしたか、女性外務閣僚が外務省をして『伏魔殿』だと言ってましたよね・・・。
----あぁ・・・「あの女(ひと)」か。最低の大臣だったな、アレは・・・。

 野上は吐き捨てるように言った。

----あの方の仕事ぶりの評価は別として、そう言い充てたのは絶妙だと思いました。
----というか・・・『霞ヶ関』全体がそうだと言ってもいいがね。

 羽田は、伊万里の徳利の首を掴み野上に酌をしながら、少し表情を崩した。

----私は、今でも自分は訴追されるべきだと思っています。国を売った・・・いや売ろうとしたわけですから。
  末期(さいご)には、奴らは国家機密の「電信暗号」の解読表を要求して来ました。

 野上の表情に一瞬、元官僚としての緊張が走ったように見えた。

----流石に・・・それだけは出来なかったか。
----ええ。それまで、無意識、意識的に流していた「情報」は、中国の公安当局なら本気になればいつでも手に
  入れることができたものばかりです。私も、それぐらいの抵抗を試みていたといことでしょうか。
----それで、その末期の要求に対応することに、思い悩んだ末『局』に相談したってわけか。
----ええ。正直、死ぬことも考えましたがそれでは残った家族にもっと「悲劇」を残すことになると思い、踏みとどまり
  ました。
----それで・・・省を去ったってことか。
----閑職をこなしながら、のうのうと『伏魔殿』で生きていくことなんか出来ませんでした。それはある意味「蜜罠」
  より過酷でしたから・・・。

 羽田は自分の両の肩に圧し掛かる黒い塊の質量が、野上に全てを吐露することで少しは変化の兆しが見え
 るかもしれないと感じていた。

----家族、奥さんにも当然・・・
----ええ、当然話さずにやり過ごすことは不可能でしたから。
  家内は、子供を連れて実家に戻りました。ただ、私の申し出である「離婚」には応じてくれませんでしたが。

----対面、世間体かね?確か、奥さんの実家も外交官の家柄だったね。

 その時羽田は、野上が自分の全てを調査済みであることを自覚した。

----はい・・・。義父の言葉は骨身に染みました。殴り殺される方が余程マシだと思いました。

----まぁ、官僚というのは対面(メンツ)と崇高な自尊心だけで生きているようなもんだからね。

----「君は、一族の恥だ。孫の身体の中に流れている君の血をそっくり、入れ替えたい気分だよ」

  流石に、これは堪えましたね。

----しかし・・・キミほどの男を誑し込む女というのは余程のもんだろうね。

----入省して、研修や局内の勉強会でも当然ながら、「蜜罠対策」というのは何度も叩き込まれてました。
  今にして思えば、馬鹿としか言いようがないですね。
  ただ、姑息な言い訳かもしれませんが、アレは外交官が不能(インポ)か去勢でもしない限り、外交の裏舞台
  から無くなることはないだろうと思います。

 一息入れようと、羽田は手酌で酒を注いだ。

 一口飲んだ酒は、悪酔した者が、消化せずに胃の中で彷徨っていた汚物をやっとのことで吐き出した後に飲
む一杯の水のように、胃の壁を通して身体の中を何かの目的があって循環されていくのが感じ取れた。

----どう?・・・羽田さん。
  もう・・・「時効」だと言う事で、下世話だが酒の肴に聞かせて呉れませんか、その女の「手口」を・・・。

 羽田の酌を制するように、自分の徳利を手繰り寄せて、胡坐を組み直した。

----「手口」というか、私の中では、彼女との「別れ」が未だに解せない謎として残っているんです。

----ほぉー、「別れ」ですか。

 羽田は、十数年前の記憶を手繰り寄せるためか、猪口に注ぐ酒を一滴も零すまいと気を研いだ。
 そして、猪口の中の酒面に朱麗華の妖艶な肢体が、雨後の霧の向こうに何かが見て取れるというように、ぼ
 んやりと浮かび上がって来た。


   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


----あっ、ゴメンナサイ。
----ああ・・・いや、大丈夫ですよ。

 女は、レースをあしらった小さなピンクのハンカチで、男の背広を汚したスープの痕を忙しく拭いはじめた。

----もう、いい大丈夫だから。
----でも・・・。

 女は今にも泣きそうな顔で、どうしていいのか分からず立ちすくむだけであった。
 男は、咎めてはいないという意味の微笑を女に残して、両手に持った皿に気を集中して自分の席に向かって
歩き出そうとした。
 昼時で混雑したバイキングレストランで、衆目は迷惑そうに男と女を脇目に見て避けて通って行く。

----あのっー! これで、クリーニングに出してください。お願いですから。

 女は、財布から何枚かの紙幣を取り出し自分の名刺を添えて、男に差し出した。
 男の両手が塞がっているのに気付いた女は、素早く男の背広の胸ポケットにそれを押し込んで、人混みの中に
消えて行った。

 男は、席に着くと胸ポケットの中身を取り出し、皺くちゃになった紙幣はテーブルに置き、名刺に視線を落とした。

    ***法律事務所
        (日系企業専門法律相談)

            弁護士   朱 麗華

 「日系企業」という文字を追っている時、あの女が確かに、中国語ではなく日本語を使っていたことを思い出した。

----(日本人相手の)弁護士か・・・

 男は、これといった関心を抱くことなく、それを財布の中に仕舞いこんだ。

 ただ、先ほどあの女が自分の体に近づいて来た時に、自分の鼻先をかすめた綺麗な黒髪の匂いが、路傍に咲く
花のような、微かな刺激を自分の脳の中に残していったように思えた。

----どうした・・・?羽田君
----いえ、何でもありません。

 男は、その女が残して行った物の意味を当然知る由もなく、遅くなった昼飯に箸を付けた。


                                                          (第一話 了)

(第二話)

----話の腰を折って悪いんだが・・・

 野上は話を咀嚼して確かめたい風であった。

----その手の「接近法」というのは、マニュアルでも教えられていたんじゃないのか。
----はい。おっしゃる通りです。よくあるパターンですからね・・・。
----それにコロっと嵌ったというのか。

 羽田は、一息吸い込んで野上に向き直った。

----私が、次に朱麗華に会ったのはそれから半年後のことです。
----・・・なるほど。それは・・・
----正直、殆どというくらい彼女のことは、記憶の中から消えていたわけです。
----だろうな。しかし・・・それが最初っからのシナリオだとすると・・・。

 何かを吸い込んで重くなった空気が、部屋の中を侵食していく。

----完璧ですよ・・・彼らの手口は。今では言い訳ではなく、感嘆すら覚えます。
----君は、大使館では何の仕事をしていたのかね。
----当時は進出して来た日系企業の「陳情窓口」というところでしょうか・・・平たく言えば何でも相談屋
  みたいなもんです。
----今でもそうかもしれんが、かの国、特に地方自治の法なんか、猫の目のように変わるからな。
----それが共産主義国・・・中国の姿ですね。
----で・・・?次に彼女に会ったキッカケというのは何だったのかね。
----ある時、某日系の中小企業の社長さんが窮しきって掛けてきた一本の電話です。
----ふむ・・・。

 徳利が四本空になり、座敷机の隅に押しやられている。
 羽田は冷たくなった酒を一口に流し込んで続けた。

----上海で電子部品の工場を経営するその社長は、不当な法人税の取立てに腹をたて、何とかならない
  のかという相談であり、腕のいい弁護士を紹介してもらえないかという陳情でした。

----そんなことまで、相談に乗っていたというのか・・・。
----大使館の仕事ではないのかもしれませんが・・・、同胞が困っている姿を黙って見過ごせませんでした。
----ということは、その時に彼女をその経営者に引き合わせたのが「縁」の復活ということか?
----いえいえ、違います。先ほども言いましたように、彼女の名刺の所在も定かでないくらい、彼女のことは
  私の頭の中から消えていたのですから。
----じゃ・・・

 野上の目が「何故なんだ」と問い詰める。
 マジックの種を明かすように羽田は少し声音を下げて応えた。

----その相談のあった翌日、偶然に彼女と再会したのです。そう・・・偶然にです。

 野上は老練(ベテラン)刑事のように、小首を傾げ組む両の腕に力を込めた。

----待てよ・・・ひょっとすると、そのオヤジ・・・仲間(グル)だったのいうのか?

 羽田は、小さく笑みを作り、頭(かぶり)を大きく縦に振った。

 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 男は、市内の有名ホテルへと急いでいた。
 本国の局課長が出張ってきていた。その日は、彼を「接待」する役回りを上席から指示されており、綺麗
なオレンジ色の西陽とは裏腹に、重い雲を抱えてるようであった。

 約束の六時にはまだ二十分ほど「間」があったので、ロビーで珈琲を注文して待った。
 席のあちこちで、中国人と日本人の商談に華が咲いているように見えた。

----あの・・・失礼ですけど

 男が視線を持ち上げた先に、上下黒のスーツに身を包んだ二十台後半の女が立っていた。

----いつぞやは、大変失礼しました・・・。
----・・・?
----あっ、貴方のスーツにスープを零して汚してしまった・・・。
----ああーあの時の・・・。

 男は不用意にその女を思い出してしまったのかもしれない。整った顔立ちと育ちのよさそうな物腰は、どこ
 かで記憶に押しとどめるものがあったのだろうか。

----本当に、申し訳ありませんでした。
----いえいえ、もう忘れかけていましたよ。

 男はその女の大きな瞳が、何か物言いたげであったので、つい同席を勧めた。

----どうぞ・・・、待ち合わせですか?
----いえ・・・今、クライアントとの打ち合わせを終えてその部屋を出てきたところです。
----えっと・・・確か・・・。

 男は、細い記憶の糸を辿るが、女の名刺面の文字が思い出せないでいた。
 男の眉間の細かい皺で女は察した。

----あっ・・・ではもう一度。

 女は『エルメスのケリー』と見える、大きめのバッグの中から名刺入れを取り出し、その中の一枚を男に差し
 出した。

----(弁護士・・・) そうそう・・・失礼しました。

 そう応え、男も胸ポケットから黒皮のそれを取り出し、「無意識」に手渡した。

----羽田さん・・・、大使館の方でしたの。
----はい。まだ、ここでは慣れないことばかりで・・・。

 男の意識の中から、職業柄携える必要のある「警戒心」が消えていた。

----先ほどのクライアントも日系企業の方でしたわ。この国は、進出企業には色々難しいことが多いですから・・・

 女は、腕時計に目をやり、思い出したように立ち上がった。

----次のクライアントが待っていますので・・・私はこれで。
----ああ・・・わかりました。

 席を立ち踵を返す女の背に男は声を掛けた。

----・・・日系企業の「案件」を多く扱ってらっしゃるのですね?
----ええ・・・私の事務所はクライアントを日系に絞っていますので。
----そうですか・・・。
----・・・?
----大使館に相談に来る、日経企業に紹介しても宜しいでしょうか?

 女は少し驚いた目をして、一呼吸置いて応えた。

----ええ、是非とも。お役に立てるかどうかは分かりませんが、頑張ります。

 女はそう言い残し、今度は足早に出口に向かって消えて行った。
 男は、その見事な女のプロポーションを透視眼鏡越しに見ている自分に溜息一つ吐いて咎めた。

 その場に残ったのはパヒュームの欠片と、女の背を追う男の視線だけであった。

回転ドアの端から消えようとする女が、その男に残していった清らかな笑みは強い刺激となって、その後の
その男の判断能力を狂わせていくのであった。

                                                         (第二話 了)

(第三話)


----その後、問い合わせのあった中小企業の社長に、彼女を紹介した----そういうことだな?

野上の口調に、軽率な先読みをする新米刑事のような力みが漂った。

----ええ、どこの国でもそうでしょうが、揉め事の裁定や仲裁は現地人同士でやるのが一番ですからね。
----で、驚くほど揉め事はすんなり解決した、って訳だ。
----その社長、感激して「菓子折」持って大使館に来たくらいですから。
----まぁーもともと「揉め事」なんか無い訳だから、すぐに解決するのは当たり前か・・・ふっ。

 野上は眦を上げて、息を吐いた。

----その事があった後は、彼らにとってはトントン拍子で計画が進んで行ったはずです。
----ふむ・・・。
----私は、中国で外交官として仕事をしていく自信が出来、仕事が面白くなっていくのを感じてました。
----そうですね・・・外交官にとって官民問わず「コネクション」を持つことは重要な仕事でしょうからね。
----そうです。外交の裏側では、いかに信用の置ける「コネクション」つまり情報源を得るか、ということです。
----よく「公費の無駄使い」とマスコミには叩かれるが、食事・酒・舞踏会・・・ありとあらゆる場で金と時間を
  使わなければ、なかなか良質な情報を掴む(キャッチ)出来ないものですからね。

 羽田は、野上に自らの秘密を吐露することになったことの理由の一つは、この『霞ヶ関』出身であることだ
ということを、噛み締めていた。
 民間人には分からぬ苦労話を、この男なら素地を均し一から十まで話さなければならないという面倒を
抜きにして語ることが出来た。

----短刀直入だが・・・結局、君はその女と寝たんだね?
----ええ。「偶然の再開」から・・・一年ぐらいしてからだったでしょうか。
----一年か・・・。それも・・・、戦略の匂いプンプンだな。ハッツハッツハハッ・・・・・

 野上は話が下賎な方向に行くのを、派手なジェスチャーを付けて笑い誤魔化す風であった。

----そっから先は、気が付いた時には、何としてもその女と寝たいという一心で突き進んでいた気がします。
----しかし・・・相手は、一枚も二枚も上手。いかに、普通の恋愛---いや、タブーな不倫に悩み抜いた末
  ついに感情に負けて身体を許すに至ったというシナリオでなければならない。
----恐れ入ります・・・。真に、ソレでした。あの女は、それを完璧に演じきり、見事に私を蜜罠に嵌めること
  に成功したわけです。一歩一歩・・・、一段ずつ階段を登るようなスピードで。
----羽田さん・・・。

 野上は、自分が先を急いで性急になるのを抑えるようにして言った。

----こんな話、当事者にとっては思い出したくも、ましてや人に語りたくないはずのもんだ。
  しかし、ね・・・面白い、面白すぎるよ。
  昔、紙芝居に夢中になって陽が暮れるのも忘れて、神社の境内でオヤジが帰るまでずっと、ヘバリ付いて
  いた時のようだ・・・。次、次は?・・・で、それで、どうなった?って具合にね・・・。

----私も時たま、「もう一度」とか思う時がありますよ・・・。その工程、経過はロイヤルゼリーにも等しい甘味な
  経験であり快感でしたから。

 卓上に、マンゴーの切り身が運ばれて来た。
 爪楊枝でその一切れを刺し口に運ぶと南国の日差しの「甘さ」が口の中に広がった。

 この甘味は、「健康的」だな----と、傍らでほくそ笑む羽田が居た。

----いや、すまんね・・・悪酔いしてしまったかな、酒にも話にも。

 野上は粗野にその果実に楊枝を突き刺した。

----シナリオを演じるには、舞台や舞台装置・・・小物が必要ですよね。
----(うんうん・・・)

 大き目の切り身を全て口の中に収めていた野上は、必然的に「無言」で頭(かぶり)だけを振った。

----こんな事がありました・・・。

  彼女は、在籍する法律事務所には週に二、三日出勤するだけで、大抵は、市内のマンションに部屋を借りて、
  そこで仕事をしていたんです。だんだん、親しくなるにつれ、私もそこに出入りする事が多くなりました。

----つまり、二人っきりになる舞台(シチューエーション)の設定ということか?
----いえ、彼女はそんな「軽い」女は演じません・・・。ちゃんと秘書が同室で仕事していて、とてもじゃないですけど
  「そんな」雰囲気になる、いや男と二人だけで話をするなどという機会を与えない、隙の無い女を演じていました。

----ほぉー・・・それで?

 野上は、『紙芝居』の先を急ぐような黒目を見せた。

----それが・・・回を重ねるごとに、徐々に、私と会う約束の時間を夕刻へとズラして行ったんですね。
  つまり、秘書は五時になると、さっさと書類を閉じて帰ります・・・。
  私たちの話が長引くことになると、途中で、秘書が困惑顔で彼女に遠慮がちに尋ねるんです。

----あのぉー・・・もう帰って(あがって)いいでしょうか?----  こんな風にかい?

 今度は、羽田が頭を(かぶり)を振る。

----彼女も、一瞬逡巡するふりをして、仕方なく秘書を帰すことになる。いや・・・声音はお堅い女のそれですけどね。
  そういう舞台を何度か経験させておいて・・・今度は、小粋な小物の登場です。

----小物ですか・・・ふむ。

 両の腕を組むそれは老練(ベテラン)の刑事のはずであった野上であるが、今のそれはテレビのクイズ番組に登場す
 るどこかの大学教授のようなものに変わっているのが可笑しかった。

----「その日」も秘書が帰ってしまい、二人っきりになると、彼女は外で食事をしながら続きをやろうと私を部屋から追い
  出す風にそう提案して来たんです。

  そして・・・別室でシャワーと着替えをするから、ちょっとココで待っていて欲しいと・・・。

----「シャワー」に「着替え」ですか・・・雄(オトコ)を妄想の世界に引きずり込む寸法か?

----もし、煙草を吸いたくなったらベランダで吸って下さい・・・。そんな言葉を残して別室に消えて行く・・・。

 羽田は、名探偵が「事件」の解決をトンマな刑事の前で立証してやる時のように、一つ一つ押えるような声音で
続ける。


----彼女は、私がヘビースモーカーで、ものの一時間も煙草を我慢することが出来ないのを知っている。
  で・・・私は、彼女が別室に消え、施錠の音を聞き届けると、上着のポケットに手を伸ばしながらソコに小急ぎに
  向かう。

----ソコに・・・何かあるのか・・・。なんだ?

----手洗いしたものでしょう・・・、清純な、いや艶かしい彼女の下着が、ひっそりとベランダの端に干してある。

 野上は和室の天井を見上げ目を瞑り、顎の無精ひげを撫でながら

----ああ・・・凄いね・・・ソレ。

----そうですよね?・・・目を逸らしたくとも、男を「誘惑」の底に突き落としますよね。
----生身の男には酷な「小物」と「舞台」設定だな。
----で・・・舞台はもう一つ「駒」を進めるんです。きっと奈落で黒子(くろこ)が舞台回しをしているんでしょう・・・。

 羽田はわざとソコで言葉を切り、「客」を焦らせる。

---- ・・・・・・・。

----彼女(やくしゃ)は別の部屋で周到にタイミングを見計らって登場を待っている・・・。


                                                         (第三話 了)


(第四話)

 羽田は仲居にチェックビン(勘定)を頼むと、少し上気した顔をで野上に尋ねた。

----小川支店長の相手をご覧になりたいと思いませんか・・・。
----あぁ、それもいい趣向だが、「紙芝居」の続きが気になって聞き終わらないうちには寝付けそうにないんだがな。
----では、続きはソコで・・・どうでしょう?
----わかった、そうしよう。確かに、小川君の悪戯の相手を見てみたいとも思う。欲が多いか・・・ふふふっ。

 野上の目じりの皺には角度が付き、少し見開いた目は悪戯っぽく笑っていた。
 車中でティックに電話を入れてみたが、繋がらなかった。客に付いているのならそれでもいいと思った。
 今少しの時間は、『紙芝居』の続きをやらねばならなかった。自分が、何故あの場所で全てを野上に話してし
まわなかったのかを知っている。
 一呼吸の幕間を作ったのは、そっから先の話は、永遠に封印しておきたい部分であったからだろう。
 ただ、舞台を「タニヤ」に移すことは羽田なりに意味を持たせたつもりでいた。

 (まぁ、「客」が俺でも、その先をぜがひでも知りたいだろうがな・・・)

 クロントイのスラムの闇をバックにウインドウガラスに映る自分の表情を眺めながら思った。
 そして、ピントを戻し、向こう側の「闇」と自らの過去の二枚のネガを重ねた。

 やはり、ティックは客に付いてた。チーママにティックの客が帰ったら、こちらに呼んで欲しいと伝え、先日面識の
あった井川の「彼女」をチョイスしVIPルームに向かった。
 ほどなくして、野上も背丈のあるスレンダー美人を連れて入って来た。しかし、その女の頭先は、ちょうど野上の
角ばった顎の下に位置しており、「釣り合い」はピタリと取れている。

----いやぁ・・・こういう所は久しぶりで気恥ずかしいな。

 羽田は、野上の私生活を知るわけでもないので、曖昧に笑ってそれをやり過ごした。
 そして、ホステスが手渡そうとする歌詞リストを手の平で制して、少し話があるので歌はその後でということを
告げた。
 各々の女が酒を作り終えると、両の手を膝の上に置いて、所在無げに座っている。

----さぁ・・・続き、続き。

 野上は揉み手で羽田を催促する。
 少し汗をかき始めたグラスを片手に、羽田は語り始めた。

----結局・・・私は、完全に彼女の虜になってしまいました。会うのは、いつも彼女のマンション・・・つまり事務所
  です。私が、仕事にかこつけて夕刻、事務所に来るのを彼女が待つというパターンでした。

----このシナリオを聞かされている者の最大の関心事は・・・すまんね、不謹慎は言い方で。

  野上も一呼吸置くように、グラスの中身を煽った。

----彼女が、いつ・・・どんな形で、身元を明かしたか・・・ですね?いや・・・いつバラしたか。
----そう!・・・そこだよ。出来れば、その時の彼女の顔を拝みたいくらいだ。
----私たちの「関係」はそれから半年をほど続きました。平穏に・・・甘い蜜を腹いっぱいに・・・です。
  私は、その半年間である決意をするまでに至ってました。

----ふむ・・・。
----女房、子供を捨ててもいい・・・と。

 二人のホステスは、目で話をするように時間をやり過ごしている。
 高い、飲み代払って・・・ただ、仕事の話か何かわからないようなことを、ココまで来てする日本人は稀有を通り
越して、滑稽に写っていることだろう。

----実際、その頃は二人の子供が居ましたが女房とは「夫婦の関係」は在りませんでしたからね。彼女は自分の
  家の「血」さえ残せたらいい・・・外交官夫人のポジションさえ守れたら良かったのです。

----青臭い言い方だが・・・その女を「愛して」しまったってことか。
----実際・・・彼女と身体の関係を持つその瞬間まで、私の中の外交官としての倫理は激しく抵抗をしていまいた
  が、甘味な蜜の味を一度知ってしまったら、そんなものはどっかに吹っ飛んでいました。

   (このまま・・・この関係さえ続けばいい)

  そんな、自堕落な意識レベルまで、私の身体は侵されてました。

----朱 麗華 ・・・彼女はどうだったんだろうな。いくら任務(ミッション)とはいえ、心に鍵を掛け、体だけを許すこ
  とに何の倫理観も働かなかったんだろうか・・・。
  まぁー、それが工作員の仕事だと言えばそうなんだが・・・。

----「タニヤ」の女の子も・・・そうですよ?野上支店長。同じことです・・・。女なら操を売りたくないのはどこの国で
  も同じはずです。 
----いや、タニヤ(ここ)の女の子は、「金」のためだろう? 弁護士の身分で金には何の不充もないはず・・・。

----そこなんですよ・・・。業(ごう)、いや闇の深さだけで甲乙着けるなら、ここ(タニヤ)の女の子も朱麗華も同じと
  言えば同じなんです。女としての倫理を打ち殺し、「目的」のために股を開き男を受け入れる。

  ただ・・・敢えてどっちが悲しいのか問えるなら、麗華(かのじょ)のそれは、犯罪的に悲しいもの・・・でしょうか。

----しかし、彼女はいったい何の為に任務(ミッション)の遂行に倫理を捨てるんだろうね。
  目的達成の為の「目的」いや・・・目的でなくてもいいのか。例えば、何かに縛られて・・・。

  野上のホステスが、トイレに立つことを野上の耳元で許しを乞うている。腕組みをし、眉間に深い皺を寄せな
  がら、それに曖昧に頷いているのが可笑しかった。

  羽田は乾いた声音で、野上の「疑問」に答えた。

----麗華(かのじょ)には五歳になる娘が居たんです。
----うっ、まさか・・・!
----党本部がどこかに拉致軟禁していたということです。

 研ぎ澄まされた鋭利な空気が二人の男の間から、部屋中に広がっていく。
 それでも羽田の横に行儀よく座っている女が姿勢を崩すことなく居るのは、この店の教育の良さなのか。

----娘の命と引き換えに工作員に成ったというのか・・・。
----はい・・・。そして、決して「NO」と言えない「立場」へと当局に追い込まれたんです。

  だから、彼女の心は死んでいたはずです。
  それなのに、あんな迫真の演技が出来るのかと・・・。

----タニヤ(ここ)の子なら、逃げることは出来る。「金」さえ目的としないなら・・・。

----私が、未だに彼女に未練たらしく「想い」があるのは、あれが「迫真の演技」だったことが信じられないか
  らなんです。

----そう・・・かっ。

  野上は言葉を失っている風であったが、その「窮地」をティックが救った。

----お待たせしました羽田さん。彼女も同席でいいですか?

 ティックは、井川の彼女に「コーラ」を稼がせてやるつもりで、甘えた声で羽田に寄り添い尋ねた。

----ああ、もちろんだ。彼女には済まないことをしてしまったんだ・・・ずっとコッチの話ばかりしてたから、きっと
  暇を持て余していたに違いないからね。
----へぇー、何か込み入った話ですか?

----いやっ・・・まぁーどっちにしろ、君の前では出来ない話だよ。聞かれたくない・・・ハナシだ。

 ティックは、羽田の話のフリをやり過ごすように、グラスの酒を作り直している。

----羽田さん・・・、その娘(こ)が?
----ええ、この子です。
----なるほど・・・納得だ。しかし、羽田さんに気があるように見えるんだが?

 野上は、斜めの視線を作って羽田に差し向けた。

----あっ・・・羽田さん。また続きはいずれ聞かせてもらう事にして、最後に一つ聞かせて欲しいんだが・・・。

 野上は、羽田の了解の意思を待つまでも無く続けた。

----結局、その朱麗華(ひと)はどうなったのかね?

 野上がティックに気取られまいと、「そのひと」と尋ねたことに、(余計な・・・)---と、薄い笑みを作った。


----亡命先のアメリカで死んだと・・・、省を辞めてから聞かされました。
----死んだ・・・か。
----しかし・・・私はまだ、生きていると思っています。
----そう思いたい、ということでかい?

 野上は、「無粋(いらぬ)」一言だったと自戒したが、羽田の意外な応えがそれを打ち消した。

----生きているはずです。

 その裏に何かあるのではという、強い好奇心を覚える野上であった。

----羽田さんの愛した女性(ひと)のこと?

---- 。。。。。。

 ティックはいつもするように余裕の微笑で尋ねたのだが、羽田が無言でそれに答えなかったことに、胸の奥に
 強い痛みを感じた。

                                                      (第四話  了)


 (第五話)

 ティックの腕時計の針が午前0時を指している。

 羽田は、野上に気遣いチェック(勘定)をすべきか、タイミングを伺っていた。
 しかし、当の野上は酔いも手伝ってか、相手のホステスと楽しそうに話し込んでいるのを見て、今しばらく
このままココで時間をやり過ごすことにした。

----なぁー、ティック・・・。
----はい?
----君に、愛しい娘が一人居たとしよう。彼女の歳は五才・・・で、彼女がある者に誘拐拉致された。
  その者が言うには、言うことを聞かなければ娘の命はない---さて、どうする?

----何?・・・いきなり。

 しかし、ティックは頭の良い女であった。その問いが、先ほど、羽田が連れと話し込んでいた事に繋がりが
あると察し、怪訝な表情を好奇心のソレに代えて応えた。

----どんなことをしてでも娘は守るわ、当たり前じゃない・・・。
----見知らぬ男に股を開いてでもか?
---- ・・・・・・。

 一瞬の間が支配したが、それを押し退けるようにティックは言ってのけた。

---- ええ。
----そうだろうな・・・。母親の愛は絶大だもんな。
----父親は何してるのよ? 命張って娘を助けに行かないわけ?
----ああ・・・この場合、父親は居ない設定だ。
----ズルイ、「居る」設定にしなさいよ・・・羽田さんならどうする?
----ふむ・・・是が非でも取り戻す。と・・・言いたいとこだが、きっと母親のそれには叶わないんじゃないかと思う。
  悲しいかな、男には武器がない。取り揃えたとしても、それは数の論理の前には無力だ。
  すなわち、「返り討ち」「無駄死に」ってことが目に見えている。

----それを分かっていても行くのが父親の愛でしょ?
----そうだ・・・その通りだよ。でもね、娘は助からない。もし母親の登場が許されるなら、そっちの方が救出率は
  高いだろうね。

----自分の奥さんに、他の男に股を開かせるつもりなの?アナタ・・・

 思わぬ方向に話が進み、羽田は罪人扱い、いや非道な男に仕立て上げられてしまった。

----ちょっと待ってよ。「例えば」の話だって・・・例えばの。
----なんか、ムカツク・・・。
----話を元に戻すけど、その股を開いた男を愛してしまったら、どうする?
----そんなこと・・・
----ある分けない?
---- ・・・・・・  その女性(ひと)、羽田さんを愛してたってこと?

 いきなり、話をリアルに押し戻された羽田は言葉に窮した。

----その彼女・・・何の目的で羽田さんに近づいたの?
----ある「情報」を探るため・・・かな。
----そう・・・、それで、彼女はソレを首尾よく手に入れて娘さんを取り戻せたの?
----ああ、 そうらしい。 いや、つまり彼女の正体を知ったその日から私の目の前から消えたからね。人伝の
  話では、娘を連れてアメリカに逃げたってことだよ。

 ティックは背筋を伸ばし真正面に羽田に向き合ってそれを聞いている。
 ある感情に囚われて、本当は聞きたくもない話なのだろうが妙に気がざわめいていた。
 ざわめく感情から目を逸らし羽田の話の先を待っていた。

----羽田さん・・・そろそろ、行きましょうか?

 野上が小さな目で羽田を促した。
 ティックと話し込んでいたのが一時間近くになっているのに驚いた。

----あっ、はい。気遣ずに申し訳ありません。

 ティックにチェックを頼むと、キャシャーへ目で合図(さしず)した。
 羽田の腕に寄り添っていたティックが耳元で囁いた。

 (プラザ前で待ってて・・・)

 羽田は、「タニヤプラザ」前で野上を見送ると、煙草を一本摘み出して、それが燃え尽きるまでの時間をそこ
で待つことにした。既に午前1時を過ぎている。

 (ふっ・・・俺も酔狂だな。来るのか?ほんとに・・・)

 そう疑いながらも、運転手に赤い札(100バーツ)を二枚を渡して先に帰らせていた。

----お待たせ、羽田さん。
----おっ・・・(本当に来たのか)
----あら、嘘だとでも思ったの?
----いや・・・こうして待ってたのは、期待してたんだろうね。

 羽田は、ティックの腰に軽く手を廻してプラザ地下の駐車場へと誘った。

----君のコンドーに送ればいいね?
----えっ?・・・羽田さんのコンドーに連れてってくれるんじゃないの?

 ティックが本心でそう言っているとしても、コンドーに来られるのは拙かった。

----ああ・・・俺、昨日から「生理」なんだ。ごめんな・・・

 そう言ってやり過ごしたつもりであたったが、次のテッィクの反応は意外だった。

----じゃぁ、私の部屋で飲み直しましょ・・・いいでしょ?
----ああ・・・いいけど。

 この場合、普通の女なら、何故ダメなのかと問われ、そこで気が萎えてしまうものなのだが、ティックはその
類の詮索をやらない。

 片や羽田の脳裏を「蜜罠」の二文字が駆け抜けて行ったのが、自分でも可笑しくって、顔を車の窓に背
け鼻から小さく息を吐いた。
 深夜だというのにシーロム界隈から人影は絶えない。
 一組、二組と男女がタクシーに乗り込んで、バンコクの夜影に消えていくだけであった。

 ティックのコンドーの駐車場に車を止め、エレベーターに向かいながら、羽田はおどけて尋ねる。

----怖いパパさんが出て来て殴られるのは嫌だからね。
----殴り合って、奪い取ってくれないの?
----生憎、俺は非力でね。それに・・・「生理中」だし。
----バァー!!(馬鹿っ)・・・

 ティックは呆れ顔で歩幅を広げて先に歩き出した。

 スコールがやって来るのだろうか、埃っぽく湿った空気がどこからともなくやって来て、羽田の頬にへばりついて
離れようとしないでいた。

 羽田は夜空を見上げ雲の流れを追いながら、この先の『時間(とき)』の行方を推し量っていた。


 初めて見るティックの部屋には少し驚いた。
 造りはワンベッドルーム仕様であったが、余計な物が見当たらない。というか、とても女の部屋とは思えない
ほどに合理的な佇まいをしていた。
 ただ一つ、羽田の目を引いたのは、大きなカリモクの本棚であった。
日本語関係の本がそのうちの数段を占め、きちんと肩を並べて整理されている。その横に、舞妓姿の日本人
形が飾られている。たぶん、日本人客からの土産か何かだろう、空港の土産売り場でよく見る物であった。

 ソファーに腰掛け、煙草を吸っていいかと尋ねると、にべも無くテラスを指差された。
 テラスと部屋をを仕切るガラス張りの引き戸を開けると、さっきの「空気」が待ち構えていた。
 手摺に肘を乗せ、だらしなく煙草に火を点ける。
 スクンビッツ通りの車の排気音だろうか、闇夜の向こうから途切れることなく聞こえてきた。

 軽い睡魔に襲われた瞼を閉じ、深く紫煙を吸い込んだ。
 すると体の中からその日の疲れが一気に湧き出てきて羽田の体は何かの塊のように重く変化した。
 しかし次の瞬間、その鈍感になった意識を覚醒するには十分な刺激が羽田を襲った。

 (何て、ことだ・・・・)

 羽田は、テラスの片隅に干された洗濯物の夜影に視線を虜にされたまま動けずにいた。

 「あの時」、朱麗華は部屋から慌てて飛び出てきて、恥ずかしそうにその洗濯物を体で隠すようにしてテラス
の隅で頬を赤らめていた。
 その彼女の顔がフラッシュバックで蘇って来たのと同時に、罪人を見るような目で羽田の視線を咎めている
ティックの顔と重なった。

----あっ・・・いや、すまん。

 ティックの方も我に帰ったのか、慌てて下を向いた。

----ごめんなさい・・・。

 搾り出すような小さな声・・・それも「同じ」だった。

                                                       (第五話 了)



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