BANGKOK艶歌

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第八章(一話~五話)



 (第一話)


---今、ウチの会社で実行されようとしている「該当機種の輸出」を私達はサポートしている・・・。
  違いますか?

  エーは、羽田の腕に寄り添うようにして声を潜めた。

---君はそれが何を意味するのかを知っているのか?
---ウチが何の仕事をしているかぐらいは認識して入社しています。その程度の予備知識は既に勉強済みです。

 羽田は、確信を得るために聞いた。

---君の知っている全てというのは、そのことなのか?
---と、言うか・・・そのことが法に抵触するということです。そして、それを暗黙のうちに裏のルートで片付
  ようとしてるのが、ウチの会社であるということです。

---そうか・・・。

 羽田は不覚にも薄い安堵の色を浮かべた。すかさず、エーが疑念を抱いた。

---違った?・・・んですか。

 その疑念を振り落とす様に、居高な物言いで傍らの小娘を諌める。

---いや・・・、その通りだ。だから、君は、その仕事に間接的にではあるが、手を貸すことになる。
  嫌なら、今のうちに降りることだな。

---私を、「降ろす」と、その事が表沙汰になるとは思わないのですか?

 羽田は、エーの横顔を覗き込みながら薄笑いを浮かべて言った。

---それは、仕方の無いことだ。「内部リーク」されるようでは、ウチの会社も脇が甘いということだな。
---私が、洩らさないとでも?
---ああ。そう信じるしかないだろう。

 エーは、「白ワイン」をカウンター越しにオーダーした。

---羽田GM・・・。私は、この「仕事」を成功させるためにこの会社に来たんです。
---ん?・・・。

 エーの話をよく分析すると、既に「そういうこと」がウチの会社で行われることを知っていたような口ぶり
である。

---それこそ、よく意味がわからないな・・・。場合によっては、本当に「降りて」もらわねばならないことに
  なるよ?
---それは困ります。

 この娘はいったい何を言いたいのか、測りかねた。しかし、羽田が心配した「確信」を外していたことへの
安堵の色は、いつのまにか消えていて、得体の知れない胸騒ぎが押し寄せてきた。

---君が、この「仕事」をやり遂げなければならない理由が何かあるのかい?
---・・・・・・。

 エーは、ワインを一口喉に流し込むと、グラスに付いた口紅を親指で拭いながら、何かに行き詰った表情をし
ばらく作っていた。
 羽田の中の警戒心は一層増幅し、それが語気を荒くさせた。

---君が何故、そんな話を持ち出してきたのかも分からないね。場合によっては、この取引は中止せねばならない
  だろうね。
---えっ・・・?
---そりゃそうだろう、「リーク」される危険があることを知っていて、この仕事を完遂したなら、後々面倒なこ
  とにもなりかねない。その辺りを話せば、本社筋も、手を引けと言ってくるに違いないしね。

 その時点で、羽田の心内は決まっていた。

 (この商売・・・ヤルわけにはいかないな。どうもキナ臭い・・・)

 エーから「二の矢」が飛んで来た。

---7年前に・・・。同じことを、ウチの会社はやっていますね?イラン向けに・・・。

 エーは、煙幕の向こうから来た魔女のように低い重い声音を使った。

---何だって?
---調べは着いてます。それを「リーク」しますが・・・いいですね?

 「魔女」は静かに羽田を脅した。

 羽田は、「その真相」は知らなかったが、目の前の女の刺すような眼差しは「虚偽(ガセ)」を言っているとは
思わせない迫力があった。

---君は、一体・・・何者なんだ?

 エーは、眉間の皺を解いて、冷たい微笑を羽田に投げ掛けて来た。

---それは、もう少し先でお話します。いずれにせよ、この「仕事」を成功させれば、私は何も「リーク」すること
  は無いと約束いたします。ですから・・・

---・・・・・・。

---私を降ろさないで下さい。いや・・・「降ろせないはずです」と言うのが正しいのかもしれません。

 羽田は、背中に冷たい刃を突き立てられたようで、息を吐くことすら出来なかった。
 同時に、十数年前の忌まわしく薄汚い「黒い翳」がフラッシュバックとなって羽田に襲い掛かってきた。

(あの時と同じだ・・・)

---一つだけ教えて呉れ・・・。

 羽田は、硬直した腹膜に力を込めて搾り出すように尋ねた。

---何でしょうか?
---支店長は、このコトをご存知なのか。

 先ほどの「魔女」はいつのまにかどこかに消えていた。

---いいえ・・・。ただ、本社の上層部では把握しているはずです。

 それを聞いて、「聞かなければ良かった」と後悔した。どす黒い渦が自分達の預かり知らぬところで既に侵食を
完了しており、どう足掻いてもそこから逃げることは叶わないことを知らされたも同然であったのだ。

---ふっ・・・。

 羽田は、両の肩を始めに全ての筋肉から力が抜けていくのを感じた。

---君は・・・僕を嵌めにやって来たのか?

 虜にされた囚人が、身を痛める縄に顔を歪めながらありったけの罵声を浴びせたつもりであったが、それが思わ
ぬ反応を呼び再び、絶望の淵へと晒されるのであった。


---いいえ・・・私は、私の「任務(ミッション)」を遂行するだけです。
  真実(ほんとう)の「自由」を手に入れるために・・・。

---(ミッション?)・・・麗華!!。

 「十三段目の階段」まで追い詰められた囚人が断末魔の果てに叫んだ。

 「スナイパー」の冷たい目が鈍く光った。

---アナタ・・・誰(ダレ)?

 その女の明瞭な北京語は羽田を尋問していた。

                                                            (第一話  了)

(第二話)

羽田の視界からエーの姿がぼんやりと消えていく。
 十五年前・・・。

 暗い地下室の一角に置かれたスチール机の前で、油の切れた回転椅子に肩から押さえつけられる
ようにして座らされた。背当が錆の匂いを発して軋む。
 裸電球が微かに揺れて自分の翳も左右に振れている。そこに表情は無い。
 二人の屈強な中国人が、羽田を挟むようにして立っている。机の向こう側で、目だけが狐のように
狡猾で鋭い男が、それを中和しようとしているのか、柔和な笑みを浮かべて対峙して座っていた。

---羽田一等書記官・・・ですね?
---・・・・・・。

 味わったことのない恐怖心が、羽田から言葉を奪う。

---羽田一等書記官ですね?返事をしなさい。

 その男の冷たく重い尋問が地下室の厚い壁に反響して交叉する。

---そ、そうだが・・・、君達はいったい、誰なんだ?
---中国『当局』の者だとしか言えません。

 その瞬間、膝から下の感覚が麻痺し腰が砕けていく感覚と共に、激しい恐怖心が羽田の全身を支配
していた。
「キツネ目」の男は机の上で肘をついて両の手の指を絡め、時折どちらかの人差し指を立てる仕草を繰り
返している。

---回りくどい話は抜きにしましょう。朱麗華は我々の「同士」です・・・。
  頭のイイ羽田さんのことだ、もうお分かりでしょう?このことが何を意味するのか・・・。
---私に何をしろというのだ。
---簡単です。時々、我々の聞くことに答えて下さればいいのです・・・それだけで、貴方の身分は保証され
  ますし・・・、ご家族も安全です。

 男は「家族」と言う時、殊更に語気を強めた。
---くっ・・・・・・。

 それだけで、羽田は自分が「罠」に嵌ったことを悟るには充分であった。
 それからその男に骨の髄までしゃぶり尽くされ、意思判断を奪われた廃人一歩手前まで追い込まれること
になったのだ。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

---羽田さん、今日は鰤(ブリ)が美味いっすよ。照り焼きで・・・いかがっすか?

 マスターがカウンターの向こうで揉み手を隠して声を掛けてきた。
 無意識に頭上に視線をやり、それがあの裸電球ではなく、柔らかい光のダウンライトだと確認すると、羽田
は強張った頬で頷いた。

---ああ、それ二つ貰おうか・・・。

 エーの視線はまだ、羽田に向けられたままであった。

---羽田さん・・・何故、「朱麗華」の名を? アナタは誰なんですか?

---君も・・・「当局」の人間なのか?

 羽田は、声音こそ抑えているものの、素早く女の背後に回りこみ羽交い絞めにして首筋に刃を突き詰めん
ばかりの語気で問い詰めた。

---YESともNOとも・・・今は言えません。

 エーの鋭い眼光は、あの裸電球の下で見たものと同じであった。

---私を、嵌めるつもりか?
---それは・・・

 エーの頬が赤らみを取り戻し、表情を柔らかくして答える。

---それは、違います。私の任務(ミッション)はこの輸出案件を無事成功させるだけです。そういう意味では
  会社に手を貸すだけで、誰も嵌めることはありません。

---そうか・・・。俺は、きっと今ここでそれを断ることは出来ないんだろうな・・・。

 羽田は、「当局」の周到さを身を持って知らされていたので、縛られた縄目に抵抗(あがらう)ことは無意味
なことだと思い直した。

---はい。ソレが賢明だと。
---ふっ、二度まで・・・・・・。

 蛸唐草文様の見事な伊万里の皿に、脂の乗った鰤身が盛り付けられる様子を伺いながら、羽田は視線
をエーに向けることなく聞いた。

---君は、朱麗華とは「同士」なのか?さっき、その名に反応したが・・・。
---羽田さんこそ、何故その名を・・・。

 二人とも、その「名前」に興味が一致している。そして、互いに相手からの反応を待っていた。

---俺は、もう観念しているよ。だから、君の任務(ミッション)の遂行を邪魔することの無意味さも分かっている。
  だから、君から答えるのがスジじゃないのか?

---ああ、ズルイなぁ羽田さん・・・そんな風に開き直っちゃって・・・。

 エーは歳相応の「女の子」に戻って駄々をこねる風に頬を膨らませた。

---ふふふっ・・・これが大人というもんだよ。さぁー、答えてもらおうか・・・。

 エーは、残ったワインを一口で飲み干して微かに小首を傾げるようにして言い放った。

---朱麗華は・・・私の母です。

 羽田の思考回路はフリーズし、いくらキーを叩いても瞬き一つしなかった。


                                                          (第二話  了)


(第三話)

フリーズ(固まった)羽田をよそに、エーは、その先を語り始めた。

---朱麗華、つまり私の母も中国当局の人間でした。今は、アメリカに亡命したという形で一線からは退いて
  いますけどね。でも、亡命しても「当局」の監視からは逃れられません・・・。母は、私と弟を抱えて随分
  苦労しただろうと思います。当然、米国への恭順の意味で『CIA』などからも四六時中、監視されていたわ
  けですから。

 羽田は、自分の動揺を隠すべく事の核心を外そうとした。

---ちょっと待って・・・。そんな大事なシークレット(ひみつ)を一般人の私に話していいのかい?

 エーは、ほんの少し面相を崩したが直ぐに過去を追う目に戻った。

---さっきも言いましたが、私は今回の任務(ミッション)を成功させるためには何だってやります。成功報酬は当局
 からの「完全自由」を与えられるからなんです。もう、監視される生活はうんざりですから・・・。

---私を完全に巻き込まねば成功は無いから・・・か?
---「当局」は、何故か私たちの会社をターゲットにしていました。その理由(わけ)を問うと、七年前にも同じことをや
 っているから話が早いという答えでした。
---私は、そんな事実は知らない。おそらく支店長も知らないはずだが・・・。
---タイの店が支店に格上げされたのは七年前でしょう?その時に赴任されてきたのが野上支店長ですから、おそら
 くご存知ないことだろうと思います。『タイ営業所』時代のことで、数ヶ月のギャップがあったはずです・・・。
---ということは、俺が知らないのも当然か。

 羽田が野上に請われてこの地にやって来たのは六年前であった。
 過去の自分を追おうとするのを、素朴な疑問がそれを押し留めた。

---君は・・・君の国籍はどこにあるんだい?確か、お父さんはタイ人だと言ってたよね・・・。
---あれは、ウソです。私の父も中国人で「当局」の人間だったと聞いています。母がアメリカに亡命する前に離婚し
  たらしんですが。
--- ・・・・・・(この子が)

 羽田は十数年前に、朱麗華が「当局」の指示で自分を蜜罠(ハニートラップ)に掛けた理由(わけ)を、幼い子供
を当局に拘束されていると,涙ながらに打ち明けられたことを思い出していた。

---ただ、母方の祖母がタイ人であったことは間違いないです。華僑の祖父に見初められてタイで結婚し中国に移住
 して母を生んだということです。ですから・・・私の身体にタイ人の血が流れていることは間違いのないことです。

 朱麗華が、タイ人女性特有の長い手足と、引き締まった腰を持っていたのは、その「血」のせいだと納得できた。

---タイに来てタイ人のIDを取れたのは・・・、そうか、「当局」の手回しか・・・。
---ええ、タイ政府は中国とは友好政策を取っていますからね。

 羽田は、暗い闇の向こうで蠢く大きな力の存在をまたしても思い知らされた。

---君は、本当にこの任務(ミッション)を遂行できたら、「当局」から完全な自由が与えられると信じているのか?
---・・・・・・。

 エーは視線を宙に彷徨わせていたが、キリッと背骨に力を込めて言った。

---もちろん、最初っから信じていません・・・。
 でも、「当局」がそうせざるを得ない物を私たち親子が持っています。それを盾にすれば刺違(さしちがえ)るぐらいの
 ことは出来ると思っています・・・。

---随分、危険を冒すんだな。
---私達には「時間」が無いんです・・・。
---ん?

 エーは、向う付の中で箸を遊ばせながら、深刻な視線をそこに落とした。
 その言葉の意味とエーの眼差しの弱さに、羽田は得も知れぬ不安に襲われた。

---母が・・・。
---お母さんがどうかしたっていうのか?
---いえ・・・、これ以上は羽田さんには関わりの無いことですから、もう・・・。

 羽田は、心の中で叫んでいた。
 (関わりがあったんだ!、そして、今もあるんだよ!)

 そして傍らで、この子が自分と母親との関係を全く知らないと言うことが、反って大きな疑惑を膨らませることになって
いた。

---私には、今は任務(これ)を成し遂げることしか母にしてあげることが無いんです・・・。
 あんなに反対されても、これしか・・・、これしか無かったんです。

---・・・反対?
---母は、私のタイ行きを血相を変えて反対しました。ずっと私を自由の中で育てて呉れた母が、あんなに怖い顔で
 反対したのは意外でした・・・。

 『パンドラの箱』は、開けられるのを嫌がっている。

---お母さんも、この事の危険を知っていたからじゃないのか?
---いえ・・・、「当局」は母に知らせていませんし、私に直(じか)に忍び寄って来たわけですから。
---じゃ、何故(なんで)・・・?。

 羽田は、語気が荒くなり高鳴る心臓の鼓動を抑えられずいる自分に、狼狽した。

---(まさか・・・) 

 羽田の心臓は鷲掴みにされ、悲鳴を上げた。

 (まさか・・・麗華は、俺がタイに居ることを知っているのか?・・・。)


---何か・・・、それが母の「秘密」に関係ある気がしてならないんです。

 エーはそう言って今度は腰を四十五度廻して羽田を虜にせんとする視線を向けて来た。

---だから・・・だから、羽田GMが母の名を口にしたことが意外というか、何 か知ってらっしゃるのではないかって・・・。

 羽田は目の前の娘に追い詰められ、遂に逃げ場を無くした。

 羽田は、判断を迫られていた。
 (本当のことを言うべきか・・・それとも、まだ隠し通すべきなのか。)

 猪口の冷めた酒を舐める唇が震えた。

                                                              (第三話 了)


(第四話)

---さっ、今度は羽田GMの番ですよ。

 追い討ちをかけるように、エーが促す。
 猪口を持つ手をゆっくり下ろし、エーに向き直った。

---朱 麗華、それは・・・。

 その時、羽田の携帯が急を告げるかのように、激しく振動した。

---ちょっと、ごめん。

 羽田は、エーに背を向けるようにしてフリップを開いた。相手はティックであった。

---羽田さん?・・・お願いっ・・・すぐ、来てっ
---いったい、どうしたんだ?

 ティックの悶絶しそうな声音に「異変」を感じた。

---お腹が痛くて・・・動けないの。何だか、普通じゃない痛みだし・・・

 冗談や何かではないと解る様な「限界」の痛みを自らの腹に押し重ねて、反射的に脇の背広を抱えていた。

---わかった、すぐに行くから。

 羽田は閉じた携帯電話を見詰めながら、意を固めてエーに言った。

---すまん、知り合いが急病ですぐに行かなくてはならなくなった。この続きはまた今度・・・きっと。
運転手に家まで送らせるから。

 エーは少し青ざめた羽田の顔色から、事の次第を察し、それを受け入れてくれた。

---分かりました、すぐに行って上げてください。私はタクシーで帰りますから。
  家は「サトーン」で、すぐ近くですから心配はご無用ですので。
---本当にすまん・・・。

 慌しく暖簾の向こうに消えた羽田の背を追いながら、エーは今まで感じたことの無いものが胸のうちに広がって行
くのを無視出来ないでいた。

---(誰なんだろう・・・女の人?)

    ------------------------------------------------

 ティックのコンドーに着くまでの30分足らずの時間が、憎らしいほど長く感じられた。行く手を阻むバイタクの男の
顔が意地悪く笑っているようで、恨めしかった。

 部屋の鍵は開いたなりで、声を掛けることなく上がりこんだ。リビングに明かりは無く、寝室のドアから漏れる薄い
明かりを見つけ、羽田はドアノブを引いた。
 キングサイズのベッドの端で痛みに対抗しているのか背を九の字に丸めたティックが横たわっている。
 白いシーツが多くの皺を作っているのを見て、ティックの痛みを感じとった。

---ティック?・・・

 ティックはその声に身体を反転させ、右手を宙の斜めに差し出し、細い指を微かであるが、意思を持って動かし
ている。
 ティックの頬にかかる黒髪がばらけ、血の気の無い白い顔が灯りに晒された。そして次の瞬間、羽田は下半身の
力を失うような衝撃を受けた。
 ティックの口元には半ば固まった黒い血がへばりついていて、それは首筋まで垂れ込んでいた。向こ側のシーツに
は大量の黒い血が白いシーツを犯すように染みこんでいた。

---ティック!!

 足が動かず、声だけを発した。
 ようやく、生気を取り戻した足は力なく震えている。

---苦しい・・・。痛い・・・・・・・。 
---病院だ!! なっ、ティック!! すぐ連れて行ってやるっ!!
---タ・ス・ケ・・・・テ

 ティックの命の灯火が消える不安を感じた羽田は、善後考えず両の手の中で抱き起こし、そのまま抱えて外に出た。

 意識を無くしているティックの黒髪は、頭(こうべ)と共に真っ直ぐ床に向かって垂れ落ちた。
 その後、どうやって病院に辿り着いたのか記憶には無かった。

---ご主人ですか?

 神経質そうな銀縁の眼鏡をしたタイ人医師は、角張った日本語で羽田に問いかけた。
『サミティベート病院』の医師の殆どは、外国語---とりわけ英語や日本語、仏語を使いこなす。

---ええ・・・。どうなんですか?
---胃壁に出来たポリーブが、何かのきっかけで破裂して吐血した状態です。
---ポリーブ?・・・

 医師はボールペンを指で廻しながら羽田の性急な問いかけにも、苛立つほど悠長に答えた。

---ダイジョウブです、悪性の物ではありません。デモ・・・
---何でしょうか・・・?
---カンジャさんは、かなり精神的なストレスを抱えていたようですね・・・胃壁がボロボロの状態ですよ。

 (精神的・・・ストレス?)

---しばらく入院して頂きます。絶対安静ですね・・・次、吐血したら、危ないですよ。
---わかりました。よろしくお願いします。

 ティックが抱えていた強いストレスの原因が気になった。


 病室には似つかわしくないカリモクの木の椅子に浅く腰掛け、ティックの横顔を覗き込んだ。
 点滴が効いてきたのだろうか、薄い桃色を取り戻したティックの頬を羽田は指の背で撫でた。

---羽田さん・・・。

 薄く開いた目でティックは羽田の姿を探した。

---ここに居る。大丈夫だから・・・
---私・・・死ぬの?
---莫迦な。死なないけど、しばらく絶対安静だよ。次、血吐いたら大変なことになるって・・・先生が。

 羽田は、ティックに問い質したい気持ちを抑えた。

---何も心配要らないから・・・俺がずっと傍に居るから・・・
--- ・・・・・・。

 ティックは頭(かぶり)を左右に振った。

---プゥイさんに悪いわ。あの人は・・・病院で一人だったんでしょ?
  私もきっと同じことしただろうって・・・そう思うから。あの人が・・・回復するまで自分も一人で頑張らなく
  ちゃいけないって・・・そう思って・・・。

 プゥイは絶え絶えに言葉を吐いた。
 ティックを追い込んでいたものは、プゥイの自殺であったのだ。

 ふいに目頭が熱くなり溜まった涙でティックの顔が滲んだ。
 羽田はたまらなくこの女が愛しくなり、前髪の数本を指の背でかき上げてやった。


                                                           (第四話  了)


(第五話)

羽田は、エーの言動を野上に報告せずには居られなかった。

週末、社員が退社するのを待って、役員室に野上を尋ねた。当然のことであるが此処の窓からは沈む夕陽を
望むことは出来ない。
 羽田は、その日を精一杯燃やし続けた太陽を西の空に見送るのが好きであった。
 野上は所用の電話を終えるとソファーに深く腰掛け、柔和な笑みを羽田に寄越しながら尋ねた。

---どうですか、例の件・・・うまくいってますか。
---そのことなんですが・・・。

 羽田は、日本茶を一口に飲み干して続けた。

---あのエーって子・・・ちょっと危ないのですが・・・。

 羽田は手短に事の次第を報告した。
 野上は眉間の皺を深くし大きく息を吐いた。

---そうでしたか・・・。
---過去にも本当にあったのでしょうか?私は自分の耳を疑いましたよ。
--- ・・・・・・。

 野上は両の腕を深く組んだまま目を閉じ動かなかった。羽田は、野上の動揺をそこに見取っていた。
 静寂の時を窓外から僅かに侵入して来る車のクラクションやバイクの排気音だけが遮っている。
 野上は太い眉を動かすのと同時に、口を開いた。

---そのことですが・・・全て事実ですよ。彼女の事も、私だけは知っていました。
---・・・?

 羽田は、野上が何を言わんとするのか理解出来ずにいた。それを見越して更に野上は続ける。

---今回の件は、本社は知りません。私の一存ですよ。

---どうして・・・?

 羽田は自分だけが知らなかったという事に絶句し微かな怯えを感じた。

---何でそんなことするんだ・・・ですか?。私も、「宮使え」の身だってことです。実績が欲しかっただけです。
  私も、来年は役員定年ですからね、これを土産に本社役員の座を買おうとしたんですよ・・・。

---しかし・・・、支店長はそこまで為さらずとも。
---悠々自適だろう?・・・ってことですか。

 羽田は目で頷いて見せた。野上は再び苦悩の色を濃くしてどこかに沈み込んでいった。

---恐縮ですが・・・私には納得出来ません。それに支店長がそれに手を染められるのも見過ごせません。
 どうか・・・考え直して頂けませんか。

---それは出来ない。

 野上のきっぱりとした口調に羽田は驚きを隠せずにいた。

---君は・・・私に協力できないとでも言うのかね。

 視線を上げて捉えた野上の顔には狐が宿っているのではないかと疑った。

---支店長のご指示に逆らうつもりはありません。今の私があるのは支店長のお陰です・・・それは重々承知
  しております。
---私も君とは争いたくないんだ・・・解ってくれ。
---しかし・・・。私には分かりません、「宮使えの身」という理由だけでは、どうしても納得出来ないのです。

 野上はゆっくり腰を上げると書棚の奥から大事そうに葉巻の箱を取り出し、そこから一本を摘まみだして火を
点けた。羽田は野上が葉巻をやるのを見るのは初めてであった。

---これはね、私が通産官僚だった頃、イギリスで手に入れたもんだ。絶品だよ・・・。

 色の濃い煙が薄暗くなった部屋の天井に立ち昇っていく。
 野上はそれを口端に咥えなおして、再びソファーに身を投げるように座った。

---私は・・・この任務(ミッション)から逃れられないんだ・・・。

 羽田の耳には「任務(ミッション)」という言葉だけが強く響いた。

---それでも・・・断念してください、支店長。

 羽田は、野上の視線を真っ直ぐ捉え、声音を抑え最後通牒のつもりで諭した。

---君なら・・・分かるはずだ。きっと・・・
---・・・わかりません。

 野上の表情は憔悴しきっていて、これ以上責めるのには忍びないものがあった。羽田は、野上が考え直さな
いのであるなら仕方ないと思った。自分がこの男に受けた恩を返すという理由で自らを納得させようとした時、
野上は頭を深く垂らして床に零すように言った。

---蜜罠(ハニートラップ)でも・・・かね。
---えっ・・・?

 (誰が・・・誰に?、何の為に?) 羽田は作った拳に強く力を込めた。

                                                           (第五話 了)


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