BANGKOK艶歌

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エピローグ




 早春の東山には春霞が掛かっている。

  羽田は、ティックを連れ日本に戻り、京都東山に平屋だが一軒屋を借りた。
  それは、山裾に沿って、慈照寺を起点に南は南禅寺までのびる小路を昔
  から愛していたからだろうか。

  四季折々の姿を見せてくれるそこは、故「西田幾多郎」も愛したという。

  今朝も、日課である飼い犬の『十兵衛』の散歩も兼ねてゆらりゆらりと歩
  を進め、途中いつも立ち寄るOpenカフェへと向かっている。

  「十兵衛」は、此処に来たばかりの頃、ティックが拾ってきた雄犬である。
  生まれて数ヶ月経っていることは見てとれたが、朝露に濡れ左目に袈裟懸
  けのような傷を負っていた。
   ティックは丁寧に傷の手当をしてやったが、その傷跡は消えなかった。

  ---可哀想に・・・ずっと残るのかしら。

  ---いいさ、雄犬だから勇ましくていいかもしれない・・・、おっそうだ!名前
    は『十兵衛』にしよう。

  ---ジューベーっ? 変な名前。何か意味あるの?

  ---昔、日本に柳生十兵衛って、剣士が居てね、その人は隻眼だったんだ 
    けど滅法強かった・・・で、「ジューベー」だ。

  ---変なの・・・。

 羽田は、すっかり傷は癒えたが微かに残る傷跡を見ながら思い出していた。
 そして、今朝方ティックの言ったこともまた気に掛かっていた。

  ---ねぇー、私も観光案内とか通訳の仕事とか出来るようになったからお金の
   心配はないんだけど・・・、アナタ本当にこれでいいの?

  ---どういうこと?

  ---アナタ、まだこんなとこで燻ってるには早すぎるわよ。なんか、ギラギラしたも  
    のが消えちゃったみたいで・・・。

  ---そんな男にはもう興味無くなったってことか?

  ---そうじゃないの・・・。私は今のままで十分幸せだし、出来れば此処でこの
   ままずっとアナタと過ごしていたいって想ってるわ、ホントよ?

  ---じゃ、いいじゃないか。俺は、此処が好きだし。今の生活に不満はない。

  そうは言ったものの、ティックが言い当てていたのも事実である。

  何かが足りない----そんな思いが時折顔を覗かせていた。

  ---(ふっ・・・また運命やシガラミやなんやらに振り回されたいってか?)


  花鳥風月に囲まれ、間の抜けた柴犬の十兵衛の顔を見て一日が始まる
  のも悪くはないぞ---ゆっくり左右に首を振ってみせる羽田であった。


 小路の向こうから一人の男が歩いて来る。
 ウィークデーにスーツ姿で此処を往来する者は殆どといってなかったから、紺
 の背広に身を包んだその男の姿は反って新鮮であった。

 手に開げた手帳っを持って、どこか探しながら歩いている様子だった。
 その男の濃い髭剃痕が青々しく見えるまでの距離に近づいて来て、羽田と犬
 の前を通り過ぎようとした時、男は羽田を一瞥してほんの少しであるが歩みを
 緩めたが、また何かを求めるように北の方角に視線を戻して歩き去った。

  ワン!・ワンワンワーーン!!

  十兵衛が吼えた。

 拙いその犬吼えは、誰に向けられたものなのか、飼い主の羽田ですらこの犬が
 まともに吼えたのを聞いたことが無かったので、面食らってその男の背中を追った。


--- ジューベー!! 


 散歩に来た方角から、ティックがエプロンをしたまま、手を振りながらやって来る
 のが見えた。

---なんだ・・・ティックを見て吼えたのか・・・。

---朝御飯できたわよー!! 早く帰っておいでぇ!

 ティックは右手を腰に、左手は口角にあてがっているのが見てとれる。
 その横を、さっきの男が通りすぎていった。不釣合いな光景だった。



 沈丁花らしき花の香りが、穏やかな風にのって羽田の鼻をかすめていく。


---十兵衛っ!! ご飯だってよ。帰るぞー・・・!!


 十兵衛は腹を空かしていたのか、クンクンと鼻を鳴らし綱を引っ張って走り出した。




                         -----------------------------------------Fin

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