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昨年は善光寺において、七年に一度の御開帳であったことはすでにア・ラ・カルトでも話題にした。吟遊映人は過去二度ほど長野を訪れたことがあるが、実に奥ゆかしく歴史と伝統を感じさせる街並みであった。とりわけ長野駅から善光寺にかけての門前町は、ガイドブックにはない新しい発見の連続なのだ。神社仏閣巡りには少々飽きてしまったという方には、スタイリッシュなカフェや、キュートなセレクトショップ、老舗の和菓子店まで目移りしそうな魅力ある店舗がおすすめだ。いにしえの時を刻む一方で、現代を生きる、活気ある街並みに思わず財布の紐も弛むというものである。善光寺参りというと、ワンセットにもなっているのが高台にある往生寺と門前町の一角にある刈萱山西光寺である。後者の西光寺には、小林一茶の句碑を始め、本堂には刈萱親子の生涯が描かれた屏風絵などが展示されている。こちらへお参りの際は、ついでに周辺のお店にもぶらりとお立ち寄りいただきたい。きっと魅力溢れるお店に出会えるはずだ。ご縁があって善光寺をお参りすることができ、さらには文化財・史跡に恵まれた門前町をのんびりと散策することができた。この気ままな信州旅行は、吟遊映人にとって実に格調高く優雅なひと時であった。また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。 See you next time !(^^)
2010.01.07
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今年は信州善光寺において、七年に一度のご開帳が行なわれた。時代の流れとともに変貌を遂げてゆく人・物・風景。だが神仏だけは、千年の時を経てもそのスタンスを変えることなく、救いを求める人々の傍におられるのだ。巷に吹き荒れる不況の嵐、混沌とした政治。何が正しく何を信じて良いのか分からない世知辛いご時世の中、人々は誰もが幸せになりたいと願い、宗派を超えて参拝する。ご開帳期間中、本堂前に凛と建立された回向柱。この回向柱と本堂内に安置されている前立御本尊の御手は結ばれている。そのため、この回向柱に触れることで御本尊のありがたい功徳を得ることができると信じ、人々は我先にと群がる。「苦しい時の神頼み」と言うだけあって、我々はふだん神仏に対し余りにもおざなりにし過ぎはしまいか。本来、順調な時ほど今ある幸せを感謝しつつ神仏に手を合わせる心がけが必要なのではなかろうか。しかし、かく言うこの吟遊映人も、ややもすれば仏壇にお線香の1本さえあげるのを忘れることもあり、日々の継続がいかに難しいことであるかを改めて思い知らされる。我々はいにしえより神仏を尊び、神仏とともにあることを善しとして来た。時を越え、古い伝統と新しい現代が共存する中、信仰のかたちは変わらない。その信仰は、人々に希望という光を与えてくれる。決して生き易い世の中ではないが、その一筋の光を支えに前進して行こうではないか。 さて、今年も残りわずかとなった。一年を通し、様々な映画と出会い、向き合うことが出来た。一つの映画は数ある作品のうちの一つでしかない。だが、その一作が我々に夢や希望、感動を与えてくれる宝の山となるのだ。本年も吟遊映人のつたない記事を閲覧していただき、誠にありがとうございます。どうか皆様、良いお年をお迎え下さい。合掌「希望はいいものだよ。多分最高のものだ。いいものは決して滅びない」~『ショーシャンクの空に』より~また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.12.31
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桜を追って北上していたはずの友人は、いつのまにか山陰ののどかな田園風景を前に、思わずシャッターを切っていたようだ。そこがどこなのかははっきりと分からない。だが、今は少なくなった棚田に、古き良き日本の美しさに想いを馳せ、友人はすぐさまメールに画像を添付して来たのだ。その写真からは大地の匂いと、光に揺れる水面が、初夏の風に吹かれてキラキラと輝いているように感じられた。友人はその写真に陶淵明の詩を寄せていた。“田園詩人”と呼ばれる陶淵明を引用したところを見ると、華やかな都会の生活に疲れ果て、素朴な田舎暮らしに逃避したくなったのだろうか?いずれにしても、友人のあてのない気ままな旅は、まだまだ続きそうなのだ。また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.05.23
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吟遊映人の住むこの辺りは、すでに葉桜が薫風にそよそよと吹かれている。そして、初夏の香りが嗅覚をくすぐる。先日、風流な友人がフォトカードを送ってくれた。山頭火の句を寄せた、桜の写真である。趣味が高じて、カメラを片手にふらりと旅に出ると、うつろいゆく季節や、路傍の標識、雲の流れなどを撮影している。この季節は桜前線とともに北上しているらしい。今回送られて来たのは、東北のどこか小さな町で撮影されたものらしい。実に見事な桜模様である。その中に印字された山頭火の句に、どれほどの意味が込められているのかは想像するばかりだが、一つだけ言えるのは、人間の苦悩は尽きないということだ。友人は自由人のように見えて、実は自分を一番持て余しているかのように見える。今ごろ北海道まで足を延ばして、あちらこちらと渡り歩き、甘美な桜の笑い声を聴いているのかもしれない。また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.05.01
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「いつ本物を見るんです? いつですか?」あなたのチラリズムは、どこまで耐えられるのか。2006年(米)、2007年(日)公開【監督】リドリー・スコット【出演】ラッセル・クロウまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.05.19
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『この太腿を許して。この世の楽園で喜びを見つけた・・・いたずらな太腿を』2006年(米)、2007年(日)公開【監督】リドリー・スコット【出演】ラッセル・クロウまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.05.18
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生きているということは、その美しさを堪能できること。生きているということは、誰かの命を支えていること。人も、虫も、花も、すべて分かち合っている。
2008.03.31
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ミツバチはその蜜を求め、菜の花はその蜜を求められ、二人は互いに潤っている。そよかぜが「うらやましい」と呟いて、二人にたおやかな愛を吹かせる。
2008.03.31
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東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ (菅原道真)この歌を詠んでからわずか二年後。左遷した大宰府にて、道真はその生涯を閉じたのである。彼は二度と都の地を踏むことはなかった。【全釈】(東から)春風が吹く季節になったら、その香りを九州の地まで風に乗せて運んでおくれ。梅の花よ、主人がいないからと言って、春を忘れたらいけないよ。
2008.03.01
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こんなに可憐で、いじらしく咲いているのに、どこか気高く近寄り難いのは、いったいなぜでしょうか?【オオイヌフグリ】・・・ゴマノハグサ科の1,2年草。道ばた、原野などに生える。名前は果実がイヌの陰のうに似ていることにちなんでいる。 花言葉は
2008.03.01
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屋根を覆った雪は、やがて重力の誘いに応じて軒下へもぐり、静かに成長してゆくのでしょうか?クールでシャープな好奇心のかたまりが、首を長くして待ち続けます。彼らが大地にこぼれ落ちる時、やがて春が訪れるのです。
2008.02.29
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旅先にて 冬の精が舞い降りたら、ここは一面の銀世界。 息も凍ってしまうほどの冷たさなのです。 凍結したダムの底を見ながら、可能な限り忠実に、今の心境をそのまま撮影しました。目を上げて歩くと、路肩に積もる雪の山。 感傷に浸るための旅行もそれどころではなく、背筋がこらえきれないほどの寒さに、いつのまにかわだかまりが消えているのでした。
2008.02.10
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雪をかぶった柿の実を見て、「おいしそう」と思うのは自分だけだろうか。例えば、どこまでも広がる雪原にゆであずきの缶詰と抹茶シロップを持参してお腹いっぱい「宇治金時」を食べてみたいなぁと思ってみたり。簡単に表現すると、新幹線の中で食べる冷凍みかんのような感覚で、フローズンな柿を楽しみたいのだ(笑)熟した柿の甘い香りに誘われて、モズが夢中になってその実をついばむところを横目で見ながら、人間サマはあたたかい食卓を囲み、鶏のから揚げなどを食べるのだ。
2008.01.26
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展望の名所として名高い、長野県は小川村。ここからは2000メートル級の山々が連なる北アルプスの絶景が広がるのです。このパノラマに魅せられて、思わず神の領域に踏み入れてしまいたくなったら、ご注意。 冬の雪山に命の保証はありません。でもその代わりにできることはいくらだってあるのです。こうして記念に一枚撮影してみたり、思い出に日記を綴ってみたり、スケッチしてみたり、それでも足りなければ何度でもそこへと足を運び、遠目から眺望を楽しめば良いのです。語りかけてくる北アルプス連峰のささやきに耳を傾けて下さい。絶景の中に身を置くことで、自然の息吹を肌で感じるのです。(旅先の一枚)
2008.01.20
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その時、信玄は政虎の夜討ちを悟り、武田重代の日の丸の旗、武田菱の旗、将軍の旗とを嫡子義信の陣所に立てさせ、敵の目を欺くために本陣には馬じるしの纏と四如の旗一本だけを立てたのだ。「策士、策に溺れる」信玄は敵に裏をかかれたことを知り、その顔は蒼白に変わっていった。【異様なもの音がはるかな前方から聞えて来た。それは風の草原を過ぎる音とも、遠い川瀬のひびきとも、聞けば、聞かれたが、信玄のものなれた耳には、たしかに人馬の押して来る音と聞えた。しかも、相当大軍の・・・。きびしく胸がしまった。】(「天と地と」より海音寺潮五郎・著)白馬にまたがった僧形の武人が、ただ一騎で本陣めがけて真一文字に疾駆して来た。それは正しく、敵の総大将上杉政虎であった。政虎は、ただ信玄のみをめがけて斬りつける。あまりの急なことに信玄は床机にかけたまま、軍配うちわで受けるほかない。川中島の戦いは「中世的戦術」を駆使した、いわば、頭脳戦である。この戦いは、甲陽軍鑑によって広く武士階級に知れ渡り、また後に、頼山陽の「鞭声粛々」でも有名になった名だたる戦いなのだ。武田信玄、上杉謙信、両雄の仰いだであろう信濃の空と同じ光景を目の当たりにした時、川中島決戦場跡に馬のいななきと兵士たちの諸声があがるのを聞いたような気がした。(旅先の一枚)
2008.01.17
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紀元前11世紀ごろに活躍した周の名軍師。渭水のほとりで釣りをしていたところを周の文王が「これぞ我が太公が待ち望んでいた人物」と称し、召抱えられたという話に由来する。(新明解国語辞典より引用)散歩の途中で、太公望に出会いました。寂然と釣り糸を垂れる姿に、思わず歩みを止めました。山紫水明の別天地で、湖に小舟を浮かべて遊びたい。その道の才能があるなら、詩画をたしなみ、一人悦に入るのもまた一興。ついつい風流人にあこがれるせいか、想いはいつしか臥龍の隠者。身にあまる富など欲しくはない。質素なくらしの中で、滔々と流れる川の音を聞き、紫に煙る山を愛で、鴨や白鷺の集う水辺に釣り糸を垂れてみたい。清貧として厭味のない生き様を目指したい。ファインダー越しのアングルの中で、太公望の姿は燦然と輝いているのでした。
2008.01.13
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「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。そして、あとでさみしくなって、「ごめんね」っていうと、「ごめんね」っていう。こだまでしょうか。いいえ、だれでも。(「こだまでしょうか」より金子みすゞ・詩)雪を載せた電線に、仲良く並ぶすずめたち。あの2羽は、どんなに凍てつくような寒さの中でも、静かに寄り添っているのです。インテリなカラスに悪口を言われても、エレガントな白鷺にじまん話をされても、どこ吹く風。梅の花の香りがほのかに漂うころ、仲良くおしゃべりに興じながら、薄く高い空を散歩するのです。その2羽の後ろを、だれも追うことはできません。楽しげに語らう2羽の間に、鮮やかな虹がかかるのを想像してしまいました。
2008.01.11
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川べりをサイクリングしました。冷たい風に鼻の頭を赤くしながら、雪よりも白い息を吐いてペダルをこぐのです。ふと、川面に戯れる白鷺の親子を発見。何か、胸の奥が苦しくなりました。白鷺親子と自分との間に介在する絶望的な隔たり。そういう完璧な隔たりを前にしては、癒しも優しさも一場の感情に過ぎないのです。真昼の陽光も、川の繊細なせせらぎも、穏やかな無垢の光景も、ただ一心に忘れてしまいたい。羨望からは何も生まれないことは知っているつもりです。でも、戦慄するほどの色濃い美しさは孤独を呼び、空虚な気持ちにさせられます。朝の雲のような白さが「あたりの空気を四角く切り抜いて」いるのを感じた刹那、思わずシャッターを切っていたのです。
2008.01.09
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