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【エリザベス】『私(エリザベス)は結婚します・・・英国と』新年最初の記事は、映画レビューにしてみた。息子がamazonプライム会員なのを知っていたのだが、一度退会していて、それ以降、再入会したとは知らなかったのだ。だが知ったからには、今後は、息子のご機嫌をうかがいながら、さりげなさを装いつつ、映画を楽しませてもらおうと思う。このお正月、インドア派の息子なのに、なぜか外出が多かった。おかげでTSUTAYAのお世話になろうとしていた私は、雨に降られることもなく、居間でぬくぬくしながら『エリザベス』を見ることができた。舞台は16世紀のイングランド。旧教のカトリックと新教のプロテスタントの争いで、国は混迷を極めていた。イングランドの女王メアリーには世継ぎがおらず、異母妹であるエリザベスの存在に戦々恐々としていた。そのためメアリーは一計を企て、エリザベスをロンドン塔に幽閉してしまう。ところが運命はエリザベスに味方した。メアリーが病死したのである。25歳という若さでイングランド女王に即位したエリザベスであったが、弱体化したイングランドを守るため、重臣たちからスペインかフランスとの政略結婚を突きつけられた。しかし、エリザベスはロバート・ダドリー卿と恋愛関係にあり、他国との政略結婚を受け入れられないでいた。そんな折、新大陸よりウォルシンガムが帰還する。ウォルシンガムは、スコットランドとの戦いに敗北したイングランドを立て直すため、まず英国国教会をして教義を統一するところから始めるのだった。この作品のスゴいのは、金に糸目をつけないゴージャスな衣装、舞台セット、島国とは思えない広大なロケーション。それらを「はわわ〜」と感嘆の声を漏らしながら見るだけでも価値がある。とは言え、史実に添った宗教弾圧である火炙りのシーンや斬首刑が生々しいこともあり、R指定となっているので、未成年の鑑賞には大人同伴が必須である。(まぁタテマエ的に)それはさておき、エリザベスに扮したケイト・ブランシェット。この女優さん、顔立ちが古風(?)のせいか、歴史的な作品によく出演するし、見事にハマっている。しかも演技派なだけあって重厚感ハンパない。代表作に『ロード・オブ・ザ・リング』や『アビエイター』『アイム・ノット・ゼア』などがある。本作『エリザベス』では、ゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞している。(アカデミー賞主演女優賞についてはノミネートされるに止まった)いろいろな見方、考え方があるので、それぞれの捉え方で構わないと思うが、私が注目した点は次のとおり。それは、宗教戦争の壮絶な殺戮である。同じキリスト教であると一括りに思いがちだが、ハッキリ言ってカトリックとプロテスタントは違う。(その背景を語りたいところだが、紙面に限りがあるので、ここでは割愛)だからそれに絡む利権争いはエゲツない。弾圧に弾圧を重ね、相手の息の根を止めるまで、執拗に追い込む。粛清というやつである。こういう宗教弾圧は、もちろん日本にもあった。わかりやすいところで言えば、江戸幕府下のキリシタン弾圧など、凄まじい拷問や処刑などを繰り返した歴史がある。(高校の日本史では、サラリと触れただけだが)そうは言っても規模からして、16世紀ヨーロッパの新旧の宗教抗争には遠く及ばない。現代において、イスラエルとパレスチナの紛争は未だ終着点が見えない。民族紛争であり、宗教戦争であり、そして利権争いなのだ。『エリザベス』では、言っても、そこまで深いところを掘り下げているわけではない。だが、華やかな英国王室も、元をただせば権謀術数渦巻く恐怖と絶望の歴史に打ち立てられた象徴なのだ。本作は、それを映画という世界観で垣間見せてくれる、貴重な作品である。さて、今年は映画レビューも積極的に記事にしていきたいと思う。新しい作品に次々と触れることは叶わないけれど、過去に見た作品で印象に残ったもの、見たいと思っていたのにうっかり見逃してしまったものなどを皆さんに少しずつご紹介できればと思う。吟遊映人は、今年も亀のような歩みで、だけど眠れる獅子のように研ぎ澄まされた感性を求めて頑張ります!1998年(英)公開、1999年(日)公開【監督】シュカール・カプール【出演】ケイト・ブランシェット、ジョセフ・ファインズ※筆頭管理人より蛇足までケイト・ブランシェットのコチラもAmazonプライムで視聴できます(^_-)吟遊さんにもお伝えしたのですが、ひとつことに移るまで何かと時間を要する吟遊さんは、まだご覧いただいていないようです。誠に残念な限り(>_<)
2024.01.13
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【アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場】「言わせてもらえば、恥ずべき作戦ね。あなたは安全な場所にいながら命令を下したのよ」「私は爆弾直後の現場処理を経験した。それも5つの自爆テロ現場でのことだ。地面には遺体が散乱していた。今日、コーヒーとビスケットを手にモニターを見ていたことは怖ろしいことだ。だが彼らがやったであろうことはもっと怖ろしいものだ。・・・決して軍人に言ってはならない。彼らが戦争の代償を知らないなどと」近年、世界のあちらこちらでテロ事件が勃発している。私も含めて忘れかけているけれど、2015年にパリで130人も死者を出しているし、2016年にはバグダッドで220人もの犠牲者を出しているのだ。(Wikipedia参照)そのつど、世界の警察として君臨し続けて来たアメリカが標的を発見し、ミサイルを発射するのだが、そんなものはまるでモグラ叩きのようにキリがない。半ばお手上げ状態のオバマ前大統領は「アメリカは世界の警察ではない」と宣言してしまったほどだ。この発言の影響は大きかった。どれほどリベラルで平和主義な大統領だったか知らないが、その一言はかなり「ヤバい」ものだった。「しめしめ」と思ったであろう中国という軍事大国が、たい頭して来た。(甘く見てはならない。孫子の兵法を操る国である)世界のトップを気取っているアメリカをその座から引き摺り下ろそうと言うわけだ。前置きが長くなったが、第二次世界大戦やベトナム戦争のときと大きく戦争の形が変わった現在。人間同士が武器を手にしてドンパチやるアナログの時代は終わり、今やドローンと呼ばれる無人攻撃機からチョイチョイと手元のスイッチを操作し、ミサイル攻撃する、と言う手法。そのドローン攻撃を扱ったのが『アイ・イン・ザ・スカイ』である。(直訳すれば〝空にある目〟の意)ストーリーはこうだ。ソマリアを拠点とするイスラム過激派のアル・ジャバーブという凶悪なテロ組織を取り締まるため、イギリスとアメリカは合同チームを作った。アル・ジャバーブには英国籍の女性テロリストが入っていて、ケニアの首都ナイロビの隠れ家に潜んでいることを確認する。隠れ家の中のようすを偵察するため、昆虫型小型ドローンを飛ばし、内部映像の撮影に成功する。すると屋内では、狂信的なテロリストたちが爆弾を巻いたベストを着用し、このあとすぐにでもテロを決行しようとしている様子がうつしだされた。本来なら、イギリスの友好国であるケニアでは、事を大きくしないためにもテロリストらを逮捕・捕獲することで決着をつけたかったのだが、作戦変更。英国軍のキャサリン・パウエル大佐はテロリストのアジトへの攻撃を決定する。テロリストらが、多くの人々で賑わう市街地で自爆テロを決行すれば、その被害はぼう大なものになる。一方、テロリストらがアジトにいる間にミサイル攻撃をすれば被害はもっと少なくて済むから、と言う算段である。パウエル大佐からの司令により、ドローン・オペレーターがミサイルの発射準備に入ったところ、なんと標的の側の路上で、まだ幼い少女がパンを売り始めたのだ。慌てたドローン・オペレーターは発射を中止。パウエル大佐は予期せぬ民間人の巻き添え被害の分析を依頼すると共に、その数値を内閣府に報告。上の判断を仰ぐ。パウエル大佐の上司であるベンソン中将は、パンを売る少女を犠牲にしてもこの機を逃さずテロリストらを壊滅することを主張するが、政治家たちは難色を示す。議論は平行線となってしまい、だれも攻撃命令を下せない状況が続くのだった。私はこの作品を見て本当に驚いた。なんだかいろんな役割がそれぞれにあるのだが、みんな所在地がバラバラなのだ。まとめると次のようになる。アメリカ・ラスベガス空軍基地→①ドローンのリモコン操縦センター ②スパイ衛星のカメラ操作オペレーターハワイ→映像解析センターイギリス・ロンドン→英国軍将軍ほか政治家らの集う内閣司令室「コブラ」上記以外にケニアの地上部隊ももちろん存在する。このことから何がわかるかと言えば、もはや戦争は人間同士が血生臭い戦場で武器を持ってドンパチやるのではなく、もっと快適な場所でモニターを見ながら軍人以外の政治家や法律家が議論を交わし、AIの出した被害数値の確認をして、最後は人が判断を下す、と言う一見とてもスマートで合理的なものへと変貌を遂げた。でもそれが本当に正しいことなのかは分からない。AIの算出する被害確率が何百人単位の被害ではなく、わずか数人の被害ならばミサイル攻撃のボタンを押しても問題ないのかと問われれば、フツーの常識人なら「No」と答えるだろう。そもそも人の命の重さを人数で推し量ることなどできるわけがない。この作品のテーマはそこにある。「この攻撃ボタンを押したら標的であるテロリストら以外に65%の確率で幼い少女が巻き添えになって死ぬ。でも押さなければ、凶悪なテロリストたちが大勢の人々で賑わう街に出て自爆テロを行い、80人もの民間人が必ず死ぬ。さて、どちらを選ぶ?」と言うものである。ネタバレになってしまい恐縮だが、ラストは攻撃命令が出て、パンを売っていた幼い少女は死ぬ。攻撃ボタンを押したドローンのリモコン操縦者は涙を流さずにはいられない。罪のない、未来ある少女を巻き添えにしてしまったのだから。その罪悪感たるや、想像を絶する。さすがはイギリス映画だと感心したのは、このラストによりキレイゴトに終わらせなかったことだ。アメリカ(ハリウッド)なら、何らかの奇跡が起こって少女は助かる、と言う結末にしたかもしれないからだ。私は、あえてこの後味の悪いラストに仕上げたことで、視聴者を震撼させ、何かを思考させることに成功していると思う。2回3回と繰り返し見てみたくなる映画ではないけれど、メンタルにズッシリと来る感覚は分かって欲しい。みなさん、ぜひ一度ご覧下さい。【公開】2016年【監督】ギャヴィン・フッド【出演】ヘレン・ミレン、アーロン・ポール、アラン・リックマン
2020.01.18
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【硫黄島からの手紙】「諸君、いよいよ我々の真価が問われる時が来た。日本帝国軍の一員として、誇りを持って戦ってくれ。(中略)本土のため、祖国のため、我々は最後の一兵になろうともこの島で決死敢闘すべし。者ども、十人の敵を倒すまで死ぬことは禁ずる。生きて、再び祖国の地を踏めることはなきものと覚悟せよ。予は常に諸子の先頭にあり。天皇陛下、万歳!」今年で戦後71年が経過した。ずいぶん長い年月が巡ってしまった。大正13年生まれの父も出征し、終戦とともに疲労困憊と飢餓状態で帰国したとのことだったが、戦争のことは多くを語らなかった。テレビで戦時下の場面が出たり、戦争映画が放送されたりすると、スーッとどこかへいなくなってしまったし、ふだんの話題にものぼらなかった。父の中で、あの戦争にどんな思いが錯綜していたのかは、今となっては聞く術もない。 『硫黄島からの手紙』は日本側から見た硫黄島の戦いになっていて、他方の『父親たちの星条旗』はアメリカサイドから見た内容となっている二部作である。(ウィキペディア参照)どちらもクリント・イーストウッドがメガホンを取ったのだが、何に驚いたかと言えば、あの奇妙な違和感が全く感じられなかったことである。それは、だいたいハリウッドが描く日本というと、やたら富士山やゲイシャが登場し、おかしなイントネーションの日本語で興ざめするのがほとんどだからである。それなのに『硫黄島からの手紙』では、そういう不自然さがまるで感じられず、安心して視聴することができたのだ。 主人公は栗林忠道陸軍大将であり、戦地から栗林が家族に向けて送った手紙が原作となっている。栗林忠道は長野県長野市松代町出身で、陸軍士官学校卒。アメリカにおいては、太平洋戦争における日本軍人の優秀な指揮官として名前があげられる人物である。(日本においてはこの作品が公開されるまで、さほどの知名度はなかった。)名将・栗林は限りなく劣勢であるにもかかわらず、持久戦のかまえでアメリカ軍に多大な損害を与え続けた戦略家である。だが、『硫黄島からの手紙』を見る限り、栗林の神がかりな戦術などには触れておらず、淡々とした作品となっていた。 ストーリーはこうだ。2006年、硫黄島において軍事史研究家たちが地中から数百通もの手紙を発見した。それらはかつて、この島で散っていった兵士たちが、家族に宛てて書き残したものだった。1944年6月、小笠原方面最高指揮官・栗林忠道陸軍中将が硫黄島に降り立った。アメリカ留学の経験を持つ栗林は、島中にトンネルを張り巡らし、地下要塞を作り上げるという画期的な防衛戦略を立てた。ところがその斬新な戦略は、古参の将校たちの反発を招いてしまう。一方、元パン職人である陸軍一等兵の西郷は、上官による理不尽な体罰に嫌気がさしていた。だがそれも栗林の着任により方針が変更される。徐々に退却を強いられていく日本軍にあって、玉砕を求める部下を一蹴し、最後の最後まで戦い抜けと命令する。硫黄島での日々に絶望していた西郷は、栗林の出現により少しずつ意識を新たにしていくのだった。 作品は徹頭徹尾、淡々としている。見ていて気持ち悪くなるようなグロテスクなシーンもない代わりに、胸をすくような輝かしい戦闘場面もない。モノトーンに近い映像で、始終、陰気である。イーストウッド監督作品にはよくある演出なので、もちろんそれには意味がある。「反戦」を訴えるものではない、「史実」である。[こういうことが起きたのだ。それは紛れもない事実である。時間は巻き戻せない。肝に銘じよ。]というテーマとして、私個人は受け留めた。むやみやたらに「戦争反対!」と声高に叫ぶより、「天皇陛下、万歳!」と言って最後の突撃に向かうシーンの方が、よりインパクトがある。 主人公・栗林忠道に扮するのは渡辺謙。圧倒的な存在感と、安定した演技力にほぼ満点をあげたい。最後まで生き残る兵士・西郷役は、ジャニーズの二宮和也。映画の中といえども死んだりしたらファンが号泣するといけないので、生き残らせることにしたのだろうか?まさか、そんなことはあるまいが。(笑)日本側の視点でアメリカ人のクリント・イーストウッドが冷静で客観的にとらえた、見事な作品である。併せて『父親たちの星条旗』も見てみたい。 2006年公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】渡辺謙、二宮和也
2016.08.14
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【ドローン・オブ・ウォー~Good Kill~】「テロリストは我々を、我々は奴らを殺す。一瞬でも考えたことがあるか? もしも我々が殺しをやめれば奴らもやめるか? どちらが先だろうと悪循環だ。奴らは決してやめない。だから我々も(攻撃を)やめられないのだ」久しぶりに見ごたえのある作品と出合った。若者ぶって言うなら、「チョーヤバイ」という感想。戦争って、こんなもんだっけ?と、これまで描いて来た悲惨でむごたらしい戦争に対するイメージが一変してしまう。これは実に大変なことになった。 世間ではポケモンGo!が大流行していて、若い世代を中心にゲームの楽しさを謳歌している中、水を差すようで恐縮だが、このゲーム感覚というのがクセモノのような気がした。作品のタイトルにもなっているドローンとは、遠隔操作で精巧な動きを可能とする小型無人飛行機のことである。(皆さん周知のとおり。)最近話題になった例で言えば、首相官邸の屋上にドローンが落下した事件や、長野県善光寺の七年に一度の御開帳の際、たくさんの観光客や関係者で賑わう中、ドローンが落下したというトラブルがあった。本来は軽荷物の輸送とか、カメラを搭載して上空からの見事な絶景を撮影したりと、とても便利なツールの一つなのだ。ところがあろうことか、一方では戦場における兵器として使われているのだ。 『ドローン・オブ・ウォー』は、対テロ兵器であるドローンの操縦士が抱える苦悩を描いている。ストーリーは次のとおり。 アメリカ空軍のトミー・イーガン少佐は、ラスベガスの基地に設置されたコンテナで勤務していた。1万キロ余りも離れたアフガニスタン上空に、衛星中継で遠隔操作してドローンを飛ばし、自分自身は命の危機もなくタリバン兵の集う場所にミサイルを発射するのが任務だった。ドローンが空軍に導入される前は、イーガン自身が戦地に赴き、死と隣り合わせで戦闘機に乗っていた。ところが今は、モニターに映し出されるタリバン兵らを、まるでゲーム感覚で音もなく吹き飛ばしていた。現実感が欠落したまま基地と自宅を往復する毎日に、少しずつ違和感を抱き始めるイーガン。そんな中、CIAが主導する対アルカイダ極秘作戦が決行されることになった。CIAの命令は絶対的なもので、容赦がなかった。テロリストとその周辺の一般人を含め、次々とドローンからミサイル攻撃を仕掛けていった。多少の一般人の犠牲など厭わなかったのだ。イーガンのワン・クリックで、遥かかなたの異国で何十、何百もの死傷者が出る一方、勤務を終えるとあたたかなマイホームで2人の幼子のパパになるというギャップに、段々と耐えられなくなり、許せなくなっていくのだった。 ドローンを導入するということは、アメリカ兵に命の危機を覚えさせることなく「簡単に」テロリストたちを攻撃することができる。これは、画期的なことには違いない。半ばゲーム感覚でモニターに映し出される敵をロックオンしてミサイルを発射するだけなのだから。でも、常識的に考えると、背中にうすら寒いものを感じる。戦争って、もっと絶望的なものではなかったのか?こんなに簡単であっけないものなのか?もはや戦闘機のパイロットは不要になる時代に突入したかもしれない。 主人公イーガン少佐に扮したイーサン・ホークが熱演。戦場には行かないのに人を殺せるという現実感の乖離に苦しむ主人公を見事に演じている。代表作に『いまを生きる』などがある。現在は俳優業だけでなく、監督としてもキャリアを積んでいるようだ。 作品のラストは、何とも言えない複雑な気持ちになった。ドローンを操縦するイーガンのモニターに映し出されたのは、タリバン兵に何度となく乱暴される一般女性の痛ましい姿なのだが、任務とは関係がないためスルーしていた。だがイーガンはその女性が気の毒で仕方がない。自分がその場にいれば、タリバン兵から女性を救ってやることも可能なのに、今いるのは遥かかなたのラスベガスの基地である。ところがある日、イーガンは同僚らが傍にいないことを確認すると、違反を承知の上で、モニターに映し出された女性をおもちゃにするタリバン兵をロックオンし、ドローンから攻撃し、殺してしまう。この行為はスカッとする瞬間でもあるのだが、そんな自分が恐ろしくなるラストシーンでもあった。 さて皆さんは、現実のこととしてこの映画をきちんと受け留められるだろうか? 2014年(伊)、2015年(米)(日)公開 【監督】アンドリュー・ニコル【出演】イーサン・ホーク
2016.07.31
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【アメリカン・スナイパー】「人間には3種類ある。羊・狼・番犬だ。悪など存在しないと思う連中は、悪が訪れた時、己の身を守れない。奴らは羊だ。そして捕食者は弱者を暴力で餌食にする。それが狼だ。群れを守るため圧倒的な力を駆使する者、それが狼と戦う類まれな者である番犬だ」戦場を舞台にした作品というのは、気が向かないとなかなか見る気になれない。臨場感に溢れたものであればあるほど、アクションとして楽しめるわけでもなく、絶望的に打ちひしがれてしまう。この『アメリカン・スナイパー』にしても、とても完成度が高く、興行的にも成績が良かったのは知っていたけれど、進んでDVDを手に取るまでには至らなかった。それでも今回は思い切って見てみることにした。2時間越えの大作だがしっかりと腰を据え、イーストウッドの最新作を堪能することにしたのだ。 まず驚いたのはイーストウッド映画が作品を重ねるごとに完成度が高くなっていくことだ。今ふうに言うなら、「ヤバイ!」という感じ。粗削りではない、とても丁寧で繊細な作品に仕上げられているではないか!『真夜中のサバナ』『インビクタス』『J.エドガー』等々それぞれに素晴らしい映画ではあった。だが『アメリカン・スナイパー』は徹底したテーマを感じるのだ。そう、「反戦」である。もちろん、あらゆる場面に星条旗が掲げられていて、イーストウッドの愛国精神も感じられるのだが、この作品のテーマはもっと深くてじわじわと視聴者に揺さぶりをかけてくる。戦争への憎しみ、悲哀、そして絶望である。 ストーリーはこうだ。カウボーイにあこがれ、ロデオざんまいの日々を送っていたクリスは、恋人に浮気をされ、くさっていた。そんなある日、テレビでアメリカ大使館爆破事件を見て、祖国のために戦いたいという気持ちがみなぎる。そこで海兵隊に志願し、30歳という年齢ながら過酷な訓練をクリアし、狙撃兵となった。プライベートでは美人のタヤと結婚し、順風満帆な生活を送っていた。ところがアメリカ同時多発テロ事件が引き金となり、クリスはイラクへと派遣される。戦争が勃発したのだ。テキサス出身のクリスは、幼いころより父親に狩猟を教わり、銃の扱いには慣れていた。それが功を奏してか、狙撃兵として見事な腕前を披露し、いつしか“伝説の狙撃手”とまで称賛されるようになった。一方、アメリカでは妊婦となった妻のタヤが、クリスの帰りを不安と恐怖に震えながら待ち焦がれるのだった。クリスは、想像を絶するような極限状況の戦地で、少しずつ精神の均衡を崩していくのだった。 監督であるクリント・イーストウッドでさえ予期していなかったに違いないのは、モデルとなった実在の人物クリス・カイルが、元海兵隊員によって射殺されてしまうという大事件が起きたことだ。(ウィキペディア参照)味方のために160人以上もの敵を次々と射殺してヒーローとなったクリスが、皮肉にも同じ海兵隊員の男に殺されてしまったのだ。もちろん、この男はメンタルを病んでいて、決して正常な判断を下せる精神状態にはなかったようだが、戦争という闇が人間のすべてを打ち砕いてしまうという現実を突き付けたのである。この作品の製作時にはちゃんと生きていたクリスは、完成を見ることなく亡くなってしまったというわけだ。諸行無常というやつである。 私は、イーストウッドが年を重ね、世界情勢の留まることのない移り変わりから、戦争を憎む気持ちが倍増したのではないかと思う。そうでなければこれほどまでに絶望的なラストは、描かなかったであろう。「家族を守る」「国を守る」とはどういうことなのか?相手を抹殺し、恨みを買うことなのか?復讐の連鎖を繰り返すことなのか?そもそも愛国心とは何なのか?クリント・イーストウッドが投げかけた問いは、視聴者の魂を揺さぶらずにはいられない。老若男女問わず、必見の逸作である。 2014年(米)、2015年(日)公開 【監督】クリント・イーストウッド【出演】ブラッドリー・クーパー※ご参考クリント・イーストウッド監督の『真夜中のサバナ』はコチラ『インビクタス』はコチラ『J.エドガー』はコチラ
2016.02.07
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【フューリー】「こいつらは俺たち(連合軍)が来ると知っていたんだ。だから酒に酔い、夜明けに自殺したんだ」「なぜ(こんな惨状を)僕に見せるのですか?」「(人類の)理想は平和だが、歴史は残酷なものさ」戦争を扱った作品というのは、やっぱりそれなりに精神状態が安定していないと、見ていても疲れるだけだ。ドンパチ撃ち合うだけでなく、むごたらしい殺戮の場とか、累々と積まれた死体の山、飛び散る肉片など、一つ間違えたらB級ホラーに成り下がってしまう恐れもあるのだから。その点、『フューリー』は良かった。主演にブラッド・ピットを持って来たのも成功だ。地味な戦闘シーンの中にも、ブラピから放たれるスターとしてのオーラがまぶしい。こういうのを正に、「花がある」と言うのだろう。 これまで戦争映画というのはいくつも製作されて来たし、第二次世界大戦のナチス・ドイツへの批判めいたテーマは繰り返し取り上げられて来た。この『フューリー』においても、これまでの戦争映画とは大差はないと思われる。ただちょっとだけ違いを感じたのは、「反戦」というテーマをモロに出していないことだ。むしろ、相手を殺さなければ自分が殺されるという修羅場を、戦争の現実として正当化しているのだ。その行為が良いか悪いかは別として、対話による交渉などというものが意味を成さないことを示しているのだ。 ストーリーはこうだ。1945年4月、第二次世界大戦下が舞台。連合国側は、いよいよナチス占領下のドイツに侵攻しようとしていた。戦車部隊に所属するウォーダディー(米兵)は、長年の戦場での経験を活かし、リーダーとして活躍していた。ウォーダディーが「フューリー」と名付けた戦車では、副操縦手が戦死したことで、新たな兵士が配属された。それはまだ新米の、戦争経験ゼロの補充兵だった。その新米兵士・ノーマンを除けば、フューリー号に乗る他の兵士は、皆、北アフリカ戦線からの猛者で、ノーマンに対しがっかりせずにはいられなかった。そんな中、戦車隊が縦列で行軍中、道路脇の茂みに隠れる少年兵を見つけたノーマンだが、相手がまだ幼かったこともあり、発砲をためらってしまう。ところがその少年兵の攻撃を受け、フューリー号の前を走行する戦車が破壊されてしまうのだった。ウォーダディーはノーマンのミスい怒り、敵側の少年兵を撃たなかったことで、味方に死者が出てしまったことを批難する。ウォーダディーは手荒く、ノーマンの根性を叩き直すため、捕虜のドイツ兵を射殺するよう強要する。ノーマンは涙を流して拒絶するが、ウォーダディーは無理やりノーマンに銃を持たせ、引き金を引く。戦争の現実を、ノーマンはイヤというほど目の当たりにするのだった。 私が興味を持ったのは、ウォーダディーとノーマンが、制圧した小さな町で民家に入り、食事を摂る場面だ。2人の女性が隠れていたため、すぐにでも乱暴を働くのかと思いきや、そうではなかった。ウォーダディーは、「お湯が欲しい」と頼み、そのお湯で体を拭き、ひげを剃り、頭髪を整える。また、ノーマンは居間に置いてあったピアノを弾き始める。ようやく恐怖心から解放されたように、若い女性のエマがそのピアノの旋律に合わせて歌いだすのだ。 これはあくまでも想像だが、ウォーダディーと呼ばれるリーダーは、実は育ちが良く、インテリなのではなかろうか。ノーマンのように学生時代はタイピストとしての訓練を受けて来たという育ちの良さにはもちろん、ウォーダディーにもある種の品性を見出すことができるのだ。その証拠に、ウォーダディーを探して他の粗暴な仲間たちがワサワサと民家に押し入って来たとき、あまりの格差にがく然としてしまう。こういうドラマチックなシーンがあってこそのストーリー展開なので、ノーマンが兵士として成長してゆくプロセスがすんなり受け入れられる。お見事。 万人におすすめするほど私は戦争モノが好きというわけではないので、あえて言うなら、「ブラピのお好きな方、ぜひともご覧下さい」と、締めておこう。 2014年公開【監督】デヴィッド・エアー【出演】ブラッド・ピット、シャイア・ラブーフ、ローガン・ラーマン
2015.10.18
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【スターリングラード】「あんな放送、プロパガンダだよ。彼は生きてる。なぜか分かるか? 私が彼を殺してないから。」「(靴磨きの少年は困惑した表情)」「一つ秘密を。お前を信用して打ち明ける。誰にも言わないと誓うんだ。誓うか?」「(少年は頷く)」「いい場所を見つけた。駅の出口のすぐそばだ。貯水塔に潜んで明日奴を待ち伏せる。奴は必ず現れる。賭けてもいい。もう一つ誓え。“家にいる”と。いいな? 誓うか?」「(少年は頷く)」「スターリングラード」は、スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」の凄惨な戦闘描写と並んで、戦争映画として評価された作品である。前世紀末、なぜこれほどまでに戦争を描いた作品が次から次へと封切られたのか。一つ考えられるのは、「多文化主義」の見直しか?日本人にはそれほど馴染みのない感覚かもしれないが、アメリカなどは複数の人種が異なる文化を抱えて同じ空間を共有しなければならないという国家成立のプロセスを踏んで来た。そこには民族の違い、宗教の違い、言語の違い、様々な問題が入組んでいて、いつも戦いの火種を燻らせて、でもどうにか表面的な協調によって今に至るのだ。とにかくこれまでは、「A」という文化が「B」という文化を支配することで、変革を最高のものとする風潮があった。しかし、グローバリゼーションの進行により、「A」という文化と「B」という文化をそのまま並立させるという新しい動きが出て来たのだ。「スターリングラード」は、漠然と鑑賞してしまうとロシア対ナチス・ドイツと見て取れるのだが、その実、ユダヤ人対反ユダヤ人(ユダヤ主義対反ユダヤ主義)の構図が見えて来る。1942年、第二次世界大戦下、ナチス・ドイツの猛攻にさらされてきたスターリングラードは陥落寸前だった。青年将校ダニロフは、射撃の名手ヴァシリの存在を知り、ヴァシリの活躍をダニロフが発行する機関紙で大々的に報じていく。次々とドイツ人士官を狙撃し、ヴァシリは名スナイパーとして国民的英雄と崇められた。 おかげで弱気になっていたロシア軍兵士の士気はやや盛り返す。しかし、ナチス・ドイツもそれを放ってはおかず、本国ドイツから狙撃の名手であるケーニッヒ少佐を召喚する。そこから名スナイパー同士の緊迫した闘いが始まる。主役のヴァシリを演じたジュード・ロウは、その鋭い眼力で戦場の緊迫した状況を充分に語ってくれた。一つ一つの動作にそつがなく、観客の集中を捕らえて離さない魅力的な演技を披露してくれた。そしてそれ以上に、ドイツ軍切っての名スナイパー、ケーニッヒ少佐の役を演じたエド・ハリスの圧倒的な存在感には脱帽。一見、気難しい印象を与えがちな表情だが、戦死した愛息子の敵を討つため、ロシア軍に対する復讐に燃える父の姿をそこに見ることができる。主役を食ってしまいそうな勢いのあるエド・ハリスの演技に目を見張ってしまった。2001年公開【監督】ジャン=ジャック・アノー【出演】ジュード・ロウ、レイチェル・ワイズ、ジョセフ・ファインズ、エド・ハリス※なお、ジュード・ロウ主演の『サイド・エフェクト』は近日アップ予定です、こうご期待♪
2014.08.19
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【セントアンナの奇跡】「妙なんだ」「何が?」「ここではニガーじゃない。“俺”なんだ」「同感だな」「イタリア人は黒人差別を知らない。今、俺は自由だ。恥ずかしいよ、外国の方が自由だなんて。アメリカの未来に懸けてたのに」第二次世界大戦では、日本はドイツとイタリアとで三国軍事同盟を結んだ。そのイタリアのトスカーナを舞台に、ナチス・ドイツが殺戮を犯していたことは、皆さんご存じであろうか?吟遊映人は不勉強のため、まさか同盟国の間でそのような卑劣極まりない行為がくり広げられていたとは知らなかった。本作は史実に基づき、セントアンナ教会におけるナチス・ドイツの大虐殺をめぐるストーリー展開になっている。前線で生き残った4人の黒人兵士たちの中の、大柄だが気は優しいトレインが、イタリア人少年アンジェロを助けるところから様々なミラクルが巻き起こる。もちろん少年は神でもなければ天使でもないため、トレインが「かわいそうだ」と不憫に思う純粋な“情”から発せられた偶然の賜物であったに違いない。作中にもあるが、イタリアではアメリカのような黒人差別の意識が低く、トレインのことを“チョコレートの巨人”と言って懐く。つまり、白人少年にとってトレインは決して“ニガー”ではないのだ。そんなことからも分かるように、「セントアンナの奇跡」の根底には、戦争に対する反発や糾弾もさることながら、人種差別への痛烈な批判も込められていることも見逃せない。もうじき定年を控えたヘクターは、郵便局の窓口で細々と業務をこなしていた。ある日、一人のイタリア系白人の男が切手を買いに来たところ、ヘクターの顔色が変わる。ヘクターは躊躇することなく拳銃を取り出すと、その白人男性を射殺するのだった。捜査官は、ヘクターの前歴や精神状態を確認するが、特に異常はなく、ただ家宅捜査の際に見つかったのは、長年ゆくえ不明とされていたプリマヴェーラ像(石像の頭部)であった。印象的だったのは、トレインが肌身離さずプリマヴェーラ像を抱え、祈りを捧げるようにその顔を撫でていたこと。また、信心深いヘクターは、絶えず首から提げた十字架にキスをしていたことだ。人は窮地に立たされた時、すがるような思いで祈りを捧げる。我々が生きているのは、そうした祈りの連鎖が生み出した奇跡なのかもしれない。本作は、様々な視点から戦争という悲劇を描き出しているのだ。2008年(米)、2009年(日)公開【監督】スパイク・リー 【出演】ラズ・アロンソ、デレク・ルーク
2014.05.04
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【戦争のはらわた】「シュタイナー、彼は・・・シュトランスキーはお前を嫌っている」「分かってる、大丈夫さ」「ナチ党のタイプと関わるな・・・まったく、プロイセンの貴族軍人金持ちめ!」もうタイトルからしておどろおどろしく、見ようかどうしようか迷いに迷って、やっとの思いで視聴することにした。そんな思いまでして見る必要などないではないかとツッコまれてしまいそうだが、手元にある作品は、縁があって私のもとに舞い込んで来た(?)わけなので、ありがたく最後まで視聴させて頂くことにした。一言で言ってしまえば、戦争映画以外の何ものでもない。1949年のロシア戦線における、ドイツ軍とソ連軍の攻防を描いている。冒頭からいきなり「ちょうちょ~ちょうちょ~♪」のメロディーが流れて、一瞬困惑してしまった。これは日本の唱歌だと思っていたが、もとはドイツ民謡だったのかと改めて知った。しかも、あれだけ壮絶な戦闘シーンに、「ちょうちょ~ちょうちょ~♪」のメロディーが後ろで流れていると、かえって不気味だ。さらには、作中に登場する新任のシュトランスキー大尉という貴族の末裔とやらに、怒り心頭だ。(無論、作中のキャラクターに腹を立てているわけで、映画に対する中傷ではないのであしからず)このシュトランスキーという男、軍人の風上にも置けない人物で、とにかく名誉欲が強く、自己中心的なのだ。この人物の登場で私はラストまでイラっとしっぱなしだった。ストーリーはこうだ。第二次世界大戦の対ロシア戦において、ドイツ軍は敗色を濃くしていた。それでもシュタイナーの率いる小隊は、ソ連軍の猛攻撃に必死で対抗するのだった。ある日、フランスからシュトランスキー大尉が新任として着任した。プロイセン貴族の末裔であり、並外れて名誉欲が強く、鉄十字勲章に執着していた。そんなシュトランスキーと折り合いが悪いシュタイナーは、ソ連軍の少年兵についての扱いや、部下に対する管理をめぐってとことん対立してしまう。その後、ソ連軍の激しい攻勢にシュトランスキーは怖気づいて、指揮を執ることができず、次々と兵士たちを犬死させてしまった。また、そのせいでシュタイナーさえも重傷を負い、病院へと送られる。だがシュタイナーは、持ち前の正義感と、仲間を思う気持ちから完治を待たず、再び最前線に出向くのだった。このような戦争映画のほとんどが、反戦をテーマにしていることは言うまでもないが、『戦争のはらわた』はどうやら少し違っているようだ。私が見たところ、このシュトランスキーみたいな卑怯な男を糾弾する意図も感じられるのだ。こんな貴族の末裔とやらに、軍を率いられてなるものかという反骨精神と、敵はソ連軍ではなく味方の中にいるのだという血生臭い現実を突きつけている。敵を何人も殺して英雄扱いをされるキャラクターには、もう飽きた。そんな戦争映画はいつか廃れていくことだろう。だが『戦争のはらわた』は、本来の現実をイヤというほど見せつけて、視聴者の機嫌を取ることは一切ない。映画としては、それも一つの手法であろう。それこそが映画としての役割でもあるのだから。対象は男女問わず、と言いたいところだが、女性には少し退屈な戦闘シーンばかりが続くこともあるので、男性向けかもしれない。この世で一番見苦しい、卑怯な男の末路をこの作品から学んで欲しい。1977年公開【監督】サム・ペキンパー【出演】ジェームズ・コバーン、マクシミリアン・シェル
2013.06.16
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【ディア・ハンター】「山で死ねるならおれは本望だ。覚えてるか?」「何だ? 一発(のこと)か?」「二発は恥だ。」「それほどの事かな?」「シカは一発で仕留めてやらなきゃ。皆分かってない。ヴェトナムが心配か?」「(もちろんさ)シカの事を考えてるけど、やはりね。おれは木が好きなんだ。山の木はそれぞれが違う。そこがいい。バカみたい?」「本当の猟友だ。」 これまでいくつかの戦争映画は観たけれど、派手な殺戮シーンや死体の山などを見せることもせずに、淡々と戦争の恐怖を表現しているのは「ディア・ハンター」ぐらいかもしれない。物語の前半部では、結婚式の賑やかで明るい雰囲気。みんなでうたって踊って騒いで新郎新婦を祝福する「光」の部分が画面いっぱいに広がっているのだ。一方、中盤あたりから一転してベトナムの戦場シーンに切り替わるのだが、陰気で狂信的で救いのない暗い「影」の部分で覆われる。この場面転換は、観客に言いようもない衝撃を与え、鉛のように重い気持ちを押し付けてくる効果があるから不思議だ。舞台はペンシルヴァニア州の田舎町。製鉄所で働く仲良し5人組が主な登場人物となっている。休みの日ともなれば全員で鹿狩りに出かけ、わいわい飲んで騒いで、ごくごく平凡な男同士の仲間だった。しかし、そんな彼らのうちマイケル、ニック、スティーブンの3人は、ベトナムに徴兵されることになっていた。ベトナムの戦場では偶然にもマイケルたち3人は再会するものの、苦戦を強いられ、ベトナム軍の捕虜となってしまう。そこでは、残酷極まりないロシアンルーレットの賭けが行われていた。いつ発射されるともしれない緊迫感の中、リボルバーの引き金を引くことは、とても正気の沙汰ではなかった。一人冷静でいられたマイケルが機転を利かせ、ベトナム兵の隙をねらい、次々とベトナム兵を射殺。3人で死にもの狂いの逃亡が始まる。作品全体を混沌とした暗いムードが漂っていて、それがどんなに明るい状況下でも、影のようにまとわりついていたのが印象的である。さらに、ベトナム戦争をモチーフにしているせいか、アジア人蔑視が色濃く感じられた。 ここでは、ベトナム人が徹底的に悪役として登場している。「ディア・ハンター」は公開当時、高く評価された作品で、数々の賞を総なめにしている。役者陣の非の打ちどころのない演技力には脱帽だ。中でも、孤独と傷心の日々に暮れる、いたいけなヒロイン役を演じたメリル・ストリープの輝きは、ことさらオーラを放っていた。言わずもがな、反戦映画の金字塔である。余談であるが、デ・ニーロがハンティングの時に着用していたパーカー(画像参照)は、シェラデザインズのロクヨン(60/40)であり、いまだに高い人気を誇る定番である。おせっかいながら、購入をお考えの諸氏に!時代の波に押されショートデザインも追加されたようですが、ここは定番のオレンジカラー(デ・ニーロ着用)をお求めになることを、吟遊映人はおオススメ致します(^O^)1978年(米)、1979年(日)公開【監督】マイケル・チミノ【出演】ロバート・デ・ニーロ、メリル・ストリープ、クリストファー・ウォーケン
2013.02.04
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【ハート・ロッカー】「その動物のぬいぐるみが好きか? パパもママも、その着ているパジャマも大好きなんだよな。だが知ってるか? 年を取ると、好きだったものもそれほど特別じゃなくなる。このオモチャも・・・ただのブリキとぬいぐるみだと気づく。そして大好きだったものを忘れていく。パパの年になると、残るのは一つか二つ・・・パパは一つだけだ」「アバター」を観た時、これほどの作品がなぜアカデミー賞を取らなかったのか不思議でならなかった。だが、本作「ハート・ロッカー」を観ることで、その謎が解けた。「アバター」を抑えて、この「ハート・ロッカー」がアカデミー賞作品賞、監督賞、その他を総なめにした理由が、ここに燦然と輝いているのだ。監督はキャスリン・ビグローで、周知の通り、元夫はかのジェームズ・キャメロンである。あれだけ世間を騒がせた「アバター」のキャメロン監督も、この元妻には敵わなかったというわけだ。キャスリン・ビグロー監督は、コロンビア大学卒の才媛で、本作において女性監督初のアカデミー賞を受賞という快挙である。作品の傾向としては、社会風刺的であり、重厚なテーマを扱ったものが多いようだ。「ハート・ロッカー」では、孤独なヒロイズムを見事に表現したことで脚光を浴びたのではなかろうか。2004年の夏、イラク・バグダッド郊外。米軍爆弾処理班に、新しくジェームズ二等軍曹が就任した。補佐は、サンボーン軍曹であったが、前任者とまるでタイプの違うジェームズとは度々衝突する。同班のエルドリッジ技術兵も、戦場での並々ならぬ緊張感と恐怖感から、命知らずなジェームズに一抹の不安を覚える。そんな中、現場では理不尽な戦闘が繰り返され、爆弾処理班が出動要請に応えて行くのだった。「ハート・ロッカー」の臨場感は、3Dによるそれとはまるで異なるリアリティに溢れている。決してドラマ性に捉われることなく、映像による視覚的なものから伝わる深遠な響きは、戦場に舞う砂塵さえ見逃せない演出となっていた。誰のために、何のために戦っているかという反戦的テーマより、むしろ兵士たちの孤独なヒロイズムにスポットを当てた、これまでにない戦争映画であった。興味深いのは、作中、わずかに女性の出演するシーンがあるのだが、“母(女)は強し”を彷彿とさせるカットになっている。ジェームズが、少年ベッカムの住処だと思って侵入した屋敷で、そこの年輩の女性に思わぬ反撃を受けてタジタジとなるシーンや、本土に帰還後、買い物ではすっかり妻の尻に敷かれているシーンなどがそうである。スーパーの棚にシリアルが所狭しと並べられているのを前に、一体どのメーカーのどの種類を選べば良いのか途方に暮れるシーンがある。この時のジェームズ役のジェレミー・レナーの一瞬の表情を見逃してはならない。平和な日常に満たされない兵士の、屈折した横顔を垣間見ることが出来る。2009年(米)、2010年(日)公開【監督】キャスリン・ビグロー【出演】ジェレミー・レナー、アンソニー・マッキー
2013.01.28
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「どっこも大変じゃね。うちも万歳、万歳・・・言うて、男の子二人とも送り出して・・・。」「母ちゃん、戦争は(もうすぐ)終わるし。兄ちゃんもすぐ帰って来るけん。」「西さんも克己も、待っちょるけんね。死んだらいけんよ。」自分も含めて現代を平和に生きる者にとって、戦争は映画の世界でしかないのかもしれない。父の年の離れた長兄は、海軍の軍人で、戦死している。遺骨も遺品も何一つない遺族にとって唯一の心のよりどころは、戸籍に残された戦没事項。その記事によって、すでにこの世の人ではないことを自分に言い聞かせ、けじめをつけるのだ。参考に、戦没者である伯父の戦没事項を記載しておく。『昭和拾九年七月拾八日午後参時マリヤナ島沖ニ於テ戦死○○縣隊区司令官○○○○報告』※県名と司令官の氏名は伏せさせていただく。ストーリーは回想シーンとして展開していく。鹿児島の枕崎漁港に、戦艦大和の沈没した場所へつれて行って欲しいと懇願する一人の女性が現れる。聞けばその女性は内田二等兵曹の養女であった。他の漁師たちが相手にもしない中で、ただ一人神尾だけがその女性の願いを聞き入れ、出港するのであった。昭和19年10月にレイテ沖海戦に出撃した戦艦大和は、米軍の猛攻を受け、わずか5日間のうちに武蔵を始めとする戦艦、駆逐艦、潜水艦等、味方の多数を失う。ここで大日本帝国海軍連合艦隊は事実上壊滅。翌年、大和の乗員たちは最後と成り得るであろう任務を果たすべく、沖縄水上特攻作戦を決行する。しかし、大和の燃料は片道のみ、味方の戦闘機支援もなく、米軍の戦闘機を艦砲射撃のみで迎撃するという無謀な作戦であった。勝敗は言うまでもなく、圧倒的な戦力の差の前に大和は成す術もなく、米軍機からの猛攻を受け、乗員3000名と共に東シナ海の藻屑と消えるのだ。作中、神尾の戦友、西のセリフに「三反百姓に現金収入はありませんから」という一言がある。これこそが当時の日本という国を赤裸々に物語っているだろう。西は、貧しい農村に残して来た母に、海軍から支給されたわずかな手当てを送金し続けている。それは、世界最大の戦艦を建造する国家でありながら、農村では極貧に喘ぎ、生活苦のために若者たちが軍人に志願したというのが事実である証拠なのだ。当時の日本が、ナチス・ドイツと何ら変わらぬ軍事国家であったことがわかるであろう。 「死」を美化してはならない。国防のための戦争なら許されるなどと、短絡的に戦争肯定論に傾倒してはならない。末端に横行するのは、新兵いじめ、リンチ、体罰、共食い(食糧不足による人肉食)などの暗澹とした心理の、ごみ溜めのような残酷の極み。真実の敵は仲間うちにあり、そこから崩れてゆくのだ。戦争によって荒んだ心理、植えつけられた精神主義は、人格を崩壊する。この作品では反戦主義が随所に盛り込まれ、東大文学部卒の佐藤監督の「死」を美化してはならないというテーマが、全面に打ち出されており、素晴らしい反戦映画に仕上がっている。我々が今一度過去を省みる時、北緯30度43分、東経128度4分※に、今もひっそりと眠る大和を思い出さねばならない。そして、自らの意志とは別に、国家の都合で命を落としていった若者たちの魂を決して、決して無駄にしてはならない。合掌。なお、昨年、惜しまれて泉下の人となられた辺見じゅん氏が原作を執っている。吟遊映人は、原作もお読みいただく事をおすすめしたい。※昭和20年4月7日、戦艦大和沈没の場所である。2005年公開【監督】佐藤純彌【出演】反町隆史、中村獅童また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.02.09
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「脈が弱い・・・なんてひどいことを・・・」「奴らのやり方よ。子どもを育てられないように、母親である女の乳房をえぐり取るの・・・本当にひどい奴ら!」「・・・ドク、モルヒネを・・・」こういう作品についてあれこれ言うのはとても勇気がいることなので、歯切れの悪い物言いを、先に詫びておくことにする。内容は、南アにおける民族紛争のもとでの米海軍の、勇気ある人命救出活動のドラマである。舞台となるのはナイジェリアで、作中ではフラニ族というのが徹底的な悪役となっている。そのフラニ族がキリスト教系のイボ族を大量虐殺し、嫌がらせ、見せしめ的な暴力、殺人、強かんを犯すというどうしようもない惨たらしい部族として描かれている。気になったのは、一方的に被害を受けたらしいイボ族なのだが、どうやらキリスト教系でアメリカ寄りなムードが漂っている。このようなストーリーが構築されたのは、おそらく世界に、限りなく似た事例があってのことで、そこで活躍する米海軍を礼賛し、激励の意味も込められているかもしれない。民族問題をテーマにした作品で気をつけなければいけないのは、我々には想像も及ばない宗教的価値観や、民族の優劣、文化の相違など、なかなか一筋縄ではいかない根の深いものがあるという実態である。それに気付かないで、作品が発するプロパガンダに踊らされてしまうと、非常に危険なのだ。民族問題を抱えるナイジェリアでは、フラニ族がイボ族を大量虐殺することによって、政権を掌握しようとしていた。反米で、しかも反キリスト教系のフラニ族との対立が激化する中、アメリカ海軍特殊部隊SEALのウォーターズ大尉率いるチームに命令が下る。それは、アメリカ国籍を持つ女性医師であるリーナ・ケンドリックスの救出であった。 ウォーターズは7人の部下を連れ、内戦下にあるナイジェリアの村に到着する。そこには傷ついた村人たちが収容される教会があった。ほとんどの患者が虫の息で横たわり、リーナは必死で治療に専念しているのだった。アントワーン・フークァ監督は黒人の監督で、代表作に『トレーニング・デイ』や『クロッシング』などがあり、社会派サスペンスを得意とする傾向があるようだ。主人公のウォーターズ大尉に扮したブルース・ウィリスも、『ダイ・ハード』シリーズで培ったタフ・ガイのイメージで、過酷な環境をものともせず潜り抜けていく軍人役を見事に演じていた。ラストは、アメリカ海兵隊の見事な連携プレーと、誇り高きアメリカ人と、そしてキリスト教の神を信じたくなる出来映えだ。・・・とはいえ、『ティアーズ・オブ・ザ・サン』は、おそらく賛否両論わかれそうな作品ではある。2003年公開【監督】アントワーン・フークァ【出演】ブルース・ウィリス、モニカ・ベルッチまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.12.25
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「ポール、タンザニア行きのバスが待ってる。早く逃げないと次の機会はないぞ。とにかく、幸運を(祈る)」「ありがとう」ルワンダで起きた、史上稀に見る狂気の沙汰は、遠い昔の話ではない。1994年のことだ。他国のことで、文化、宗教、主義、思想も異なる上、無責任な介入や仲裁は認められない。人道的な面から言っても、実に難しい問題ではある。本作「ホテル・ルワンダ」以外にも「ルワンダの涙」などで、ずい分と知られるようになったが、そう、いわゆる“ルワンダ紛争”である。知識の上っ面だけをなぞっただけでは、とうてい理解はできない。非常に根の深い民族問題なのだ。だが、事実として受け入れねばならないのは、わずか100日間程度の日数で、約80万人の大虐殺が行なわれたということだ。これを世界がどう受け止めるのか。突きつけられたテーマは、実に残酷で重い。しかし、我々と同じ生きた人間が、数分後には道端に石のように動かなくなっていることを想像してみて頂きたい。鉈で斬られた首のない胴体、どす黒く濁った血の塊、行く先々に無機質に横たわる無数の死体。一体、国連に何ができるというのだろう?1994年、アフリカ中部に位置するルワンダが舞台。4つ星ホテルとして品格のある、ホテル・ミル・コリンの支配人ポールは、仕事柄ゆえ、世界の著名人たちと懇意にしていた。そんな中、ツチ族とフツ族の民族対立“ルワンダ紛争”が勃発。フツ族過激派がツチ族を無差別に虐殺するという大惨事が起きる。尋常ではない大量虐殺のため、何百何千人もの避難民が流出。ポールは、隣人たちをホテル・ミル・コリンでかくまうことを決意。銃規制のある無力な国連軍とともに、事態の混乱が収まるのを待った。本作「ホテル・ルワンダ」は、ポール・ルセサバギナという実在の人物を主人公にしたストーリーである。ルワンダの首都であるキガリにある、“オテル・デ・ミル・コリン”という4つ星ホテルの副支配人ということも、事実に基づいている。当時、このホテルはベルギー航空社が母体となっており、その社長役としてジャン・レノがほんのわずかなカットで出演している。主人公ポール役を演じたのは、黒人俳優のドン・チードルで、この作品によりアカデミー賞にもノミネートされ、名実ともに認められた代表作なのだ。悲惨極まりない“ルワンダ紛争”を扱った作品であるが、この事実を忘れないためにも、我々は目を逸らすことなく見据えなければならない。2004年(米)、2006年(日)公開【監督】テリー・ジョージ【出演】ドン・チードル、ソフィー・オコネドーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.01.21
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「敵艦から発光信号! ・・・英文だ!」「“真夏のオリオンが・・・見える。オリオンよ、愛する人を・・・導け。帰り道を・・・見失わないように”」戦争をテーマにした映画は、視聴者によって好き嫌いがはっきりと二分されるジャンルかもしれない。どれほど格好良い航空機や戦艦が登場したところで、人が次々と殺されていくシーンなど、好んで見る視聴者は少ないからだ。本作はそういう点で、反戦に関する訴求力にはやや弱いかもしれないが、残酷なシーンもなく、安心して観ることのできる戦争映画なのだ。本作が日本海軍をモチーフにした作品であるので、参考程度に語っておきたいことがある。日本列島は四方を海に囲まれた島国であるため、敵戦力を本土に近付けないことを基本的な戦略として来た。それこそが日本海軍の本来の防衛のあり方なのである。また、英国海軍を倣った組織構成で、陸軍とは違い、いまだ海上自衛隊にも日本海軍の伝統が脈々と受け継がれているのだ。【参照:ウィキペディア】当時、陸軍が仮想敵国をロシアとする中、海軍はひたすらアメリカ合衆国を視野に入れ、有事に備えて来た経緯がある。そういったプロセスを踏まえて「真夏のオリオン」を鑑賞すると、さらに日本海軍の重厚さと紳士的な立ち居振る舞いに魅了されるに違いない。1945年、終戦直前の夏。沖縄南東海域では、本土決戦を阻止するべく日本海軍潜水艦イー77他3隻が防衛任務に就いていた。イー77の前を行くイー81の艦長は有沢と言い、イー77の艦長・倉本の親友であった。イー81は米海軍の侵攻を防ぐために猛攻するが、米軍の駆逐艦によって撃沈される。 最後の力を振り絞って有沢はモールス信号により親友の倉本に米軍攻撃のヒントを託す。 主人公の倉本役を、細身の玉木宏が実に紳士的で冷静なキャラクターとして熱演している。また、チョイ役ではあるが、烹炊長の秋山役をドランクドラゴンの鈴木が演じている。 ややもすれば飯炊き係は地味な役回りに思われがちだが、乗組員の命の糧を担っているという意味で、最も重要なポジションなのだ。我々は食べることを疎かにしてしまったら明日を生きることはできない。いつ、いかなる時も、明るさとユーモアを忘れず、食事を楽しみ、平和な世の中を守り抜こうではないか。終戦記念日にはぜひとも「真夏のオリオン」をご家族で楽しんで頂きたい。2009年公開【監督】篠原哲雄【出演】玉木宏、北川景子、益岡徹また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.08.13
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「もし今ネズミが入って来たら敵意ある行動を取るだろ?」「たぶん、そうです」「敵意を持たれるようなことをネズミがしたか?」「人を噛み、病気を蔓延させる」「ペストの原因だったのは昔の話だ。ネズミが広める病気はリスにも菌があるかもしれん。どうだね?」「確かに」「だがリスに対しては敵意は持たないだろ?(中略)ネズミには理由は分からないが嫌悪感を抱いている」タランティーノ監督は今でこそ商業映画監督としてその名を馳せているが、元々はビデオ・ショップの店員で、いわゆる“オタク”的な存在だったようだ。来る日も来る日もビデオソフトをレンタルして、好きな作品に溺れていく。そのうち映画を観る側から作る側へと興味が移り、自己流で映画を学び、脚本を書くなどしてその道を目指すようになったというわけだ。“好きこそ物の上手なれ”とは言ったものだ。正に、タランティーノ監督を体現したようなことわざである。本作は、そんなレンタル・ビデオ世代の申し子とも言える、タランティーノ監督の本領が存分に発揮された作品と言っても過言ではないだろう。ユダヤ人弾圧の衝撃的瞬間や、ナチス・ドイツに対する残酷極まりない報復のシーンまで、戦争の生み出す残虐性が驚くほどドライでリアルに表現されているのだ。1941年、第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下のフランスが舞台。知人宅の床下に隠れて難を逃れるはずだったユダヤ人のショシャナは、“ユダヤ・ハンター”なるあだ名を持つナチス親衛隊SSのランダ大佐に、自分以外の家族を皆殺しにされる。一方、アメリカの秘密特殊部隊“イングロリアス・バスターズ”と呼ばれるレイン中尉らは、アパッチ族に倣って、ナチス狩りを強行した後、その兵士たちの頭皮を剥ぐという行為を繰り返し、ヒトラーの脅威となっていた。本作でナチス親衛隊SSのランダ大佐役に扮したクリストフ・ヴァルツという役者さんには驚いた。実に憎々しげで、いかにも嫌われ役という雰囲気をかもし出していた。悪役でこれだけインパクトが強いと、ハリウッド・スターであるブラピがどれだけカッコ良く演じていても、完全に呑まれてしまい、影が薄くなってしまった。やっぱりなと納得したのは、このクリストフ・ヴァルツがアカデミー賞助演男優賞を受賞したことだ。さすがに審査員たちの目は節穴ではなかった。吟遊映人が役者の演技に惚れ込むということは最近ではご無沙汰であったが、このクリストフ・ヴァルツには5つ星を進呈したいほどである。実に見事な演技力であった。2009年公開【監督】クエンティン・タランティーノ【出演】ブラッド・ピット、メラニー・ロラン、クリストフ・ヴァルツまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.06.29
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「本日をもって貴様らは“蛆虫”を卒業する。本日から貴様らは海兵隊員である。兄弟の絆に結ばれる。貴様らのくたばるその日まで、どこにいようと海兵隊員は貴様らの兄弟だ。多くはベトナムへ向かう。ある者は二度と戻らない。だが肝に銘じておけ。海兵は死ぬ、死ぬために我々は存在する。だが海兵隊は永遠である。つまり、貴様らも永遠である!」これぞ正しく“ザ・反戦”という代物だ。無論、反戦映画は珍しくもないが、話は軍人を養成するところから「これが実態だ」とばかりに訴えかけて来る。本作は、ストーリーらしきものは希薄で、どちらかと言えばドキュメンタリータッチの訴求力を得意とした作品である。メガホンを取ったのは巨匠スタンリー・キューブリック監督で、代表作に「2001年宇宙の旅」や「時計じかけのオレンジ」などがある。「A.I.」は、キューブリック監督の遺作になるはずであったが、未完成で、その遺志を継いだスピルバーグ監督に受け継がれた作品なのだ。ベトナム戦争真っ只中。サウスカロライナ州のパリス・アイランド海兵隊訓練キャンプでは、海兵隊志願者に厳しい訓練を課していた。鬼教官ハートマン軍曹の下で、「貴様らは蛆虫以下の存在」だと徹底的な罵倒を浴びせられ、さらに、連帯責任による懲罰などは、心身ともに過酷を極めるものだった。そんな中、体格的な問題もさることながら、靴紐を結べないなどの生活能力に欠けるローレンスは、ハートマン軍曹の標的になる。また、仲間の訓練生にイジメを受けるなどして、精神的に病んでいくのだった。正直なところ、明るく陽気な作品とは程遠く、暗く陰鬱でまともに最後まで直視するのが苦しいほどである。だが、“戦争とは何ぞや”と、自問自答した時、この作品の真価が発揮するのではなかろうか。キューブリック監督が渾身の力を注いで製作した「フルメタル・ジャケット」は、祖国アメリカを痛烈に皮肉った反戦映画であった。1987年(米)、1988年(日)公開 【監督】スタンリー・キューブリック【出演】マシュー・モディーン、ヴィンセント・ドノフリオ、R・リー・アーメイまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。 See you next time !(^^)
2010.04.22
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「要はヒトラーを失脚させ、敵と休戦交渉に入る。ベルリン到達前のほうが有利だ」「ヒトラーだけでなくヒムラーも殺す。二人とも手に余る狂人だ」「今日の失敗はヒムラーと無関係。政治家が介入するからです。ハッキリしてる。それが原因です。決行の勇気がないのです」本作の主人公シュタウフェンベルク大佐役に扮するのは、トム・クルーズである。トム・クルーズと言えば、アメリカン・ニューシネマスターの次世代に当たる役者層だ。 今どきの若手俳優とは一線を画し、スター然としているのがかえって華やかさと存在感をかもし出す。彼のスゴイところは演技の幅を広げることを厭わず、どんなジャンルの役回りにも体当たりで挑戦を続けて行く姿勢である。80年代の「レインマン」では、名優ダスティン・ホフマンを相手に熱演し、その才能を開花させた。90年代の「ミッション・インポッシブル」シリーズでは、プロデュース業から映画製作まで担当し、映画人としての幅を広げた。しかし、トム・クルーズの立ち位置に共通して見られるのは、いついかなる時も自己を客観的に見つめることのできる冷静さと、誇り高い役者魂である。それは、本作「ワルキューレ」においても垣間見ることが出来るのだ。第二次世界大戦下のドイツ。シュタウフェンベルク大佐は、かねてよりアドルフ・ヒトラー率いるナチスのユダヤ人弾圧や国家政策に嫌悪感を抱いていた。そんな中、北アフリカ戦線で思わぬ重傷を負い、ドイツに帰還。その後、ケガの回復に伴いベルリンの予備軍司令部勤務となる。反ヒトラー活動を推進するオルブリヒト将軍のもとで、国内予備軍参謀長に任命される。 そして、「ワルキューレ作戦」を発動させる。目的はヒトラー暗殺と、ドイツ国家の名誉の回復であった。「ワルキューレ」の見どころは、トム・クルーズが軍人として半ば強引にクーデターを推し進めていく行動力・・・いわば潔さであろう。ヒトラーやその親衛隊を恐れて怖気づく者がいる一方で、変革を求め、己の理想から一歩も引かない強い信念。そういう高潔なキャラクター像を作り上げ、トム・クルーズが全力で演じている。昨年は日本でも政権交代が行なわれ、今年はその真価が問われる年でもある。この「ワルキューレ」を鑑賞して、政治家の方々には行動を起こすことの勇気と決断力をぜひとも学んでいただきたいと思った。重厚感に溢れた、実に見事な作品なのである。2008年(米)、2009年(日)公開【監督】ブライアン・シンガー【出演】トム・クルーズまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。 See you next time !(^^)
2010.01.20
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「御機嫌よう。」「お別れですね。」「なに、隣りに行くような気持ちですよ。」~戦後処刑された戦犯は908名、病死、自決等を含めると、1068名をかぞえる。昭和33年5月31日、大西大佐を最後に、東海軍の部下は全て釈放。~これほどカチッとした反戦映画も珍しい。あるいは監督の主義・思想によるものなのだろうか?例えば冒頭はいきなりピカソの「ゲルニカ」が映し出される。この絵は、言わずと知れた反戦のシンボルで、スペインの小さな町ゲルニカがナチスによる空爆を受けたところをモチーフとした作品だ。さらに、この「ゲルニカ」を制作したピカソは、共産党員として絵画を通し戦争を糾弾した偉大なる芸術家なのだ。この「ゲルニカ」が冒頭を飾った時点で、作品の最も重要なテーマが何であるかを訴えることに成功している。映画としてすばらしい導入の仕方である。1945年、横浜地方裁判所では、B・C級戦犯の裁判が行われた。東海軍司令官だった岡田資中将は、一貫して「太平洋戦争における米軍の市街地無差別爆撃は、大量殺人である」と主張。そのため空襲の際、パラシュートで降下した搭乗員を捕虜として扱わず、略式手続により彼らを処刑したと。そのことで岡田は、「全ての責任は自分にある」と主張し、19人の部下たちは命令に従ったに過ぎないと言い切るのだった。藤田まことはやっぱり最高の役者だ。「必殺仕事人」シリーズもさることながら、「はぐれ刑事純情派」など、本当にいい味をかもし出す演技派俳優なのだ。「明日への遺言」は全体を通して非常に地味で淡々としたものだが、藤田まことの素朴で、しかし内に秘めた強さがキラリと光る作品に仕上がっていた。すばらしい演技力に脱帽のひと言なのだ。2008年公開【監督】小泉尭史【出演】藤田まこと、富司純子また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)吟遊映人ア・ラ・カルトはコチラまで。
2008.12.29
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「申し上げても(よろしいでしょうか)?」「何なりと言いたまえ。私に遠慮するな。」「このまま大尉を見殺しにする気ですか?」「状況は複雑だ(どうすることもできない)。」とにかく逃げる。走って、隠れて、撃たれて、また走って・・・。この息を呑むような逃走劇は、アクション映画にも勝るとも劣らない。何がこれほどの迫力を効果的に表現しているのだろうか。一つにはやはり、カメラワークの充実ではなかろうか。さながら、自分が現場にいて体感している気分なのだ。さらに、ガンアクションの大家、ジーン・ハックマンもその圧倒的な存在感を持って作品を重厚なものに演出している。“老兵”と言われようともこの人物の影響力は絶大なもので、若さや勢いだけでは表現できないいぶし銀を加味してくれるのだ。1992年、和平協定の結ばれたボスニアにおいて、米海軍バーネット大尉は訓練ばかりの軍務に嫌気がさし、レイガート司令官と衝突してしまう。そんな折、クリスマス休暇のはずのバーネットにボスニア上空の撮影任務を命じられる。 ボスニア上空を飛行中、レーダーに怪しげな兵器が映り、最新鋭のカメラに収める。しかし突然、地対空ミサイル攻撃を受け、墜落。パラシュートで脱出を試みたが、そこは敵地セルビア人武装勢力のど真ん中であった。 この作品をジャンル分けする際、【戦争・史実】に区分したものの、内容としてはあまり反戦主義的なイデオロギーもなく、あるいはむやみやたらな残酷極まりないシーンもなく、【アクション】モノとして区分するべきか否か迷った。だが、作品ラストのテロップを見て、どうやら実際に起きた史実を脚色してのストーリーっぽく感じたので、あえて【戦争・史実】に区分してみた。「エネミー・ライン」は、忌わしいボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける民族紛争の何たるかを語るものとしてではなく、とにかく危機迫る逃走シーンを堪能していただきたい。観ているこちら側までヘトヘトに疲労するほどの、手に汗握る逃走劇なのだ。2001年(米)、2002年(日)公開【監督】ジョン・ムーア【出演】オーウェン・ウィルソン、ジーン・ハックマンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.11.27
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「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以って時局を収拾せんと欲しここに忠良なる爾臣民に告ぐ。」この作品は文字通り、日本国家の存亡を左右する一大事決定の長い一日を映画化したものである。モノクロ映画ということもあって、刹那的な歴史観だけでなく重厚感があり、昨今の利潤追求の戦争映画とは一線を画す。ここで私があえて戦争の何たるかを語るよりも、この作品を鑑賞することで各人の感想をそれぞれにお持ちになられた方が適切のような気がする。オールスター出演の、稀に見る大作なのだ。作品は、太平洋戦争終結を決定した昭和20年8月14日正午から、玉音放送を通じポツダム宣言受諾を知らせる8月15日正午までの、大日本帝国最後の一日を描いている。この映画では、わずか24時間のうちに起きた不穏な動き、例えば宮城事件(※)など由々しきクーデターのあらましを、そうそうたる役者陣の迫真の演技によって表現されている。※宮城事件とは、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となっておこしたクーデター未遂事件である。(「ウィキペディア」より参照)「日本のいちばん長い日」を手掛けた脚本家・橋本忍は、黒澤組の一人であったが、後に離脱。1974年に公開された「砂の器」では、原作者である松本清張より絶賛され、数々の映画賞を総なめにした伝説のシナリオライターなのだ。この橋本忍にペンをとらせ、岡本喜八にメガホンをとらせ、そして三船に主役を演じさせたら、その作品が悪かろうはずがないではないか!とにかくモノクロであることに抵抗を持たず、まずは一度観ていただきたい。改めて平和への感謝の念が、胸を熱くするのだ。1967年公開【監督】岡本喜八【出演】三船敏郎、笠智衆また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.11.23
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「それにしても私たちはなぜ、何のためにあんなに思い込んでいたんでしょうかね。」 「そや、愛おしさでございもす。人の世がどんな風に変わろうと、愛おしかもんのためになぁ誰もが夢を懸け、命も懸けられるもんでしょう。」年の瀬が近づいて、人々が享楽に耽る様子がそこかしこで見受けられる季節になった。 平和な時代の象徴でもある。有り難いことだ。その昔、日本という国が、現在の北朝鮮のような軍事国家であったなどとは今の若者たちには信じられないことであろう。貧弱な資源に喘ぐ日本国家は、西欧諸国に対抗するため領土拡大を目指し、大東亜共栄圏を掲げて開戦に踏み切った。健康な青年男子には召集令状が下り、婦女子は軍需工場に借り出された。天皇陛下を生き神様だと信じ、崇め奉ったのである。若き特攻兵たちは、皆が口を揃え「天皇陛下万歳!」と唱え、海の藻屑となって消えたのである。1945年太平洋戦争末期、鹿児島県知覧町(現・南九州市)にあった陸軍最大の特攻基地で、厳しい飛行訓練を受けていた若き特攻兵たちの青春を描く。富屋食堂で若い兵士たちの空腹を満たすため、精一杯の食事をふるまう鳥濱トメの視点から、戦時下の様子を語る。飽食とブランド品と高級車に溺れる現代人が、いくら当時に敬意を表して同情したり立派なご託を並べたところで説得力に欠ける。ならば今を生きる我々にできることは何であろうか?それは感謝の気持ちに他ならない。全ての事象、物事、人々に対する感謝の気持ち。そして、戦争イコール殺戮を断固として回避しなければならない。広島・長崎に投下された原爆による世界唯一の被爆国である日本は、同じ過ちを二度と繰り返さないよう、子々孫々に至るまで肝に銘じ、死守して勝ち得た平和を守り続けていかねばならない。2007年公開【監督】新城卓【脚本】石原慎太郎【出演】岸恵子、徳重聡また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.11.17
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「俺は・・・もうだめだ。」「助かるさ、俺を見ろ。」「レイフ、寒い・・・とても寒い。」「大丈夫だ。」「レイフ、頼みがある。俺の墓碑(に)・・・お前(の名前)は書くなよ。」「バカ言うな! お前は死なないよ! 死んじゃいけない。お前は父親になるんだ。言わない約束だが本当だ。お前は父親になる。死ぬな!」“戦友”という言葉には何か強靭な響きがある。どんな美辞麗句を並べても、その崇高な絆を表現することなどできない。やはり、戦時下のような生死を分ける戦場において、チームプレイは重要な主戦力の要素である。作中におけるレイフとダニーは、同じ女性を愛してしまい、いったんはその友情も壊れかけた。だが二人の絆はもっと頑丈で固いものだった。この若くて純粋な二人のハートをかみしめてもらいたい。その熱き友情を目の当たりにした時、思わずどうにもならない運命的せつなさに、目頭が熱くなるのだ。1941年12月7日朝、東條英機、山本五十六ら(※注)をはじめとする軍部の中枢が、真珠湾攻撃の命令を下す。大日本帝国海軍の空母機動部隊は、真珠湾に停泊中のアメリカ海軍艦艇を目指し、奇襲攻撃を仕掛ける。情報が錯綜する中、アメリカ側は戦闘態勢の遅れが命取りとなり、多数の死傷者を出す大惨事となる。※注)山本五十六は真珠湾攻撃の際、ハワイ北西沖に停泊中の空母にいたわけではなく、実際には広島県呉沖の連合艦隊、戦艦長門に乗船していたとされる。この作品についての意見は、国内外ともに賛否両論あるようだが、もともと映画というメディアは大衆向けの娯楽なので、歴史的事実を知るというよりは、その映画の中でくり広げられるドラマを楽しむべきではなかろうか。例えば、ゼロ戦とP-40の凄まじい戦闘シーンを体感するのも楽しいだろうし、恋人たちの熱い会話を記憶してみるのも良いだろう。「パールハーバー」は、日本への圧倒的な大義名分を掲げているのかもわからないが、いわゆる反戦としての社会的なメッセージを全面に打ち出しているとも思えない。したがって、作品が発するドラマチックな展開から、“友情”とか“ロマンス”を垣間見るのも充分刺激的な楽しみ方なのではなかろうか。この作品は、これからの戦争映画としての“踏み絵”に代わるものかもしれない。2001年公開【監督】マイケル・ベイ【出演】ベン・アフレック、ジョシュ・ハートネットまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.09.10
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「昨日、12月7日1941年。歴史の汚点となるこの日、アメリカ合衆国は日本帝国海軍による計画的な攻撃を受けたのである。この侵攻が周到に準備されたことは明白であり、日本政府はその間巧妙かつ意図的に合衆国を欺き、和平を望んでいるかのような態度を見せ続けた。ハワイ諸島への昨日の攻撃は現地の我が軍に多大なる損害を与えた。攻撃によって命を失ったアメリカ人は3000を超えている。この計画的侵略行為の痛手を癒すのは容易ではない。だがアメリカ国民は正義を盾に究極の勝利を得るだろう。卑劣にして不当な日本の攻撃に対し、私は宣戦の布告を議会に要請する。」本来なら、終戦記念日あたりにこの記事をアップしたいと思っていた。だが、なにぶんジャパンバッシングの強い作品であったため、あえて時期を遅らせてみた。夏の暑さが多少なりとも軽減された9月ならば、作品を冷静に客観的に、しかも楽しんで観られるのではないかと思ったからだ。作品の前半は甘いロマンスが盛り込まれ、同じ女性を愛する二人の男たちの熱いバトルがストーリーに色を添えてくれる。主人公レイフ役をベン・アフレックが好演。この役者は大味なところが個性でもあるので、まさにレイフ役は適任であった。一方、ダニー役のジョシュ・ハートネット。当管理人はストーリーの流れからしてこの役どころが一番おいしいと思った。「ラッキーナンバー7」においても、彼は与えられた役を全うしていたが、本作でもなかなかどうしてジョシュ・ハートネット以外にこの役は考えられないほどにはまり役だった。竹馬の友であるレイフとダニーは、アメリカ陸軍航空隊の戦闘機パイロットである。大胆でカリスマ的指導力のあるレイフは、一方で、読み書きができず(※注)、親友のダニーや看護師のイヴリンに助けられ、パイロット資格に合格した。レイフは、気丈で美しいイヴリンに一目惚れ。二人は恋に落ちる。しかしその後、レイフは英国空軍に志願していたため、ダニーやイヴリンを残し、ヨーロッパ戦線に参加する。※注)作品の筋書きではレイフは読み書きができない設定になっているものの、ヨーロッパ戦線参加後にイヴリンから届いた手紙をすらすらと読んでいるシーンが出て来る。さらにその後、レイフからイブリンに手紙の返事が届くシーンもある。戦争映画はややもすれば暗く、陰鬱な内容に陥りがちだが、この作品は戦時下における兵士たちの勇敢な姿や友情にスポットが当てられ、小気味良いテンポでストーリーが展開されていく。さらに、ラブ・ロマンスがいっそう味のある作品に転化してしてくれた。戦闘機が大空を自在に舞う姿や、空母から離陸する勇壮なシーンは、観る側に感動さえ与える。本作は、戦時下における人間ドラマを飽きさせることなく、ハートに訴えてくるような内容に仕上げられているのだ。2001年公開【監督】マイケル・ベイ【出演】ベン・アフレック、ジョシュ・ハートネットまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.09.08
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「休日だ。日曜は入浴(ができる)。」「罪人なのに。」「(いや)真の罪人は資本家だ。ファシズムを育てた。飢える者を増やした。」「私は違う。」「君は彼にパンを与えた。連帯だ。」「スープもだ。(笑)」【ベルンハルト作戦】・・・第二次世界大戦中の1943年から敗戦まで、イギリス経済のかく乱を狙って実施されたドイツのポンド紙幣贋造の秘密作戦のこと。(ウィキペディア参照)この作品はユダヤ人印刷工であったブルガーの証言に基づいて、フィクションを交えながら制作された映画である。とにかく国家が贋札作りを奨励するというこの時代、悪夢としか言いようがない。だが、造らされているユダヤ人たちは、背けば銃殺が待っている。否が応でも造るしかないではないか。様々な戦争映画で収容所内の絶望的光景があらわにされているが、同じ収容所でも、紙幣贋造工場のあったこの区画だけは別格の扱いを受けていたようだ。しかしそれもつかの間の楽園。この作戦が完了したら、全員お払い箱の運命を辿るのである。第二次世界大戦下、ナチス・ドイツがイギリスの経済かく乱を計って画策した紙幣贋造事件をモチーフにしている。ユダヤ人強制収容所内で極秘裏に大量の紙幣を偽造。そこには、各地の収容所から移送されて来た選りすぐりの印刷技術を持ったユダヤ系の者たちが集められいた。主人公のソロヴィッチは世界的な贋作師で、完璧なまでの贋札(ポンド紙幣)を造り上げるのだった。久しぶりに良作に出会えた気がした。生き延びるために罪を犯す。良心の呵責。人間としての苦悩。全てが凝縮されていて、グッと作品に引き込まれた。お金とは一体何なのか?明日を生きるためのパンを得るための引換券ではないのか?ギャンブルで散財するのも、快楽を共にした女性に渡す謝礼にしても、何もかもがお金。 なくてはならない大切な代物であり、だがそれそのものには意味がなく、単なる紙切れ。 我々はその紙切れに始終縛られ、思い悩み、支えられていかねばならない。作品のラスト、浜辺で着飾った二人がダンスを踊るシーンは、思わず胸が熱くなった。 そこに、人間にとって一番大切なものは何かを見た気がした。2007年(独)、2008年(日)公開【監督】シュテファン・ルツォヴィツキー【出演】カール・マルコヴィックスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.08.15
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「君に会えないと仕事できない。」「何(の仕事)をしてるの? 仕事を断って。祖国はここよ。」「僕の祖国は君だけだ。・・・何だよ?」「(あははは・・・)クサい台詞ね。」「真剣なのに。」「分かってる。」「見せる」ことに重点を置いた商業的センスは、スピルバーグ監督天性のものと言って差し支えないだろう。彼の手掛けた作品の主人公の誰もが孤立感を抱き、戦争や差別の現実を目の当たりにする。だが一方で、主人公は現実逃避しながらも聖なるものを求め、「妄想や願望の実体化」を量るのだ。このことはスピルバーグ監督のユダヤ系という出自が、大きく影響していることは否めない。彼はエンターテイナーとしての資質を見極めることで、これまで対照的な作品を世に送り出して来た。「ミュンヘン」は実にすばらしい映画だった。「プライベート・ライアン」同様に、リアルで凄惨なシーンに目を覆いたくなる気持ちも隠せないが、スピルバーグ監督の表現したいのはそんな表向きの恐怖などではない。もっと混沌としていて、複雑で、どうしようもない絶望なのだ。1972年、ミュンヘンオリンピックの開催中、「黒い九月」と名乗るテロリスト8名がオリンピック村を襲撃。イスラエルの選手たち11名を殺害。これに激怒したイスラエル政府は、テロ首謀者へ報復することを決断する。その任務のリーダーに選ばれたのはイスラエル秘密情報機関“モサド”の一員であるアヴナーであった。彼の任務はテロ首謀者11名の暗殺。だがこの任務遂行のためには、家族も祖国も捨てなければならない。苦悩の末、出した結果は“正義”を全うすることだった。アヴナーは“正義”の名のもとに11名のパレスチナ人を暗殺することを引き受ける。非常にストレートなテロリズム批判である。暗殺者が暗殺者を呼び、テロは繰り返される、と言うテーマ。電話にプラスチック爆弾を仕掛けたところ、予想外にも標的である男の娘が受話器を上げてしまうところなど、正にヒッチコックばりのスリリングなワンシーンに仕上げられていた。また、何人もの人間を容赦なく殺害していく回想シーンと、アヴナーが心のよりどころとしている妻の中へ激しく放出するシーンとがオーバーラップするカットはお見事。心のバランスを崩した夫を、それでも「愛してるわ」と内包する彼女こそが、正にアヴナーの「祖国」なのだ。スピルバーグ作品において、最高傑作とも言えるべき上質な社会派映画なのだ。2005年(米)、2006年(日)公開【監督】スティーヴン・スピルバーグ【出演】エリック・バナ、ダニエル・クレイグまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.13
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『どうか分かってほしい。僕には大事なことなんだ。必要とし合える仲間があそこ(戦場)にはいる。手柄は求めない。ただ、行かないとジョーダンたちを裏切ることになる気がする。それは死よりつらい。心配かけるけど、見守っててほしい。向こう(イラク)で僕なりの最善を尽くして、きっと戻ってくる。祈ってて。』ベトナム戦争で壮絶な修羅場を潜り抜けて来た兵士たちが、帰還後、ごくごく普通の社会生活に馴染めないとか、不眠と悪夢から薬を常用するとか、喪失感、孤独感を抱くなど様々な問題を抱えている事例は知っているつもりだ。だがなにぶんベトナム戦争ともなると、30年以上も昔の話になるので若い世代には実感が湧かないというのも事実だ。しかし、イラク問題となると話は別だ。現在進行形で起こっている深刻な問題なのだ。作中では、米軍兵士たちの本音とも言うのか、帰還の連絡を受けて大はしゃぎするシーンが出て来る。この場面だけでも「好きで海外まで来ているわけではない」様子がわかる。本当は戦いたくなんかない、でも戦わなければならない。世界のアメリカ合衆国としての威厳と誇りを持って人道的介入をしてみたところ、現地のテロリストから攻撃されて多大な犠牲を払うことになってしまった無念さ。このあたりを視聴者がどう捉えるかで、“反戦映画”とも“好戦映画”とも受け取れる。 イラクで人道的任務に携わっていたアメリカ兵たちは、帰還が近いことを知らされる。 そんな中、医師の派遣と医薬品の輸送という最後の任務に着く。現地に向かって輸送途中、米軍部隊の前を走る民間人の車が急に停車し、狭い道幅で立ち往生。不穏な空気が流れる。すると突然武装勢力が発砲。アメリカ兵たちも一斉に応戦する。激しい戦闘がくり広げられる中、トミー、ジョーダン、ジャマールたちは敵を追跡。民家に隠れている敵の武装集団を仕留めるため、やみ雲に射撃する中、ジャマールは誤って民間人の女性を射殺してしまう。また、逃走する敵を追跡中、深追いし過ぎたジョーダンは狙撃され絶命。側にいた親友のトミーは、半狂乱になりながら救出のヘリを要請。一方、バネッサは一刻も早く退却しなければと、狭い路地から大通りに出ようとハンドルを操作。だが路上に仕掛けられた爆弾によって、助手席の兵士は即死。バネッサ自身も片手を失うという重傷を負ってしまう。この作品を観て考えさせられたのは、何と言ってもトミーが再びイラクという戦場に戻ることを決意する場面だ。あれだけ悲惨な光景を目の当たりにしながらも、あえて安穏としたアメリカでの生活を好しとせず、家族のあたたかな支援すら振り切り、過酷な戦場に再び身を置くのだ。一体何がそうさせるのか、考察してみる価値はありそうだ。2006年公開【監督】アーウィン・ウィンクラー【出演】サミュエル・L・ジャクソン、ブライアン・プレスリーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.05.10
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「よく俺のジイさんがインディアン狩りの話をしてた。動物を仕留めた話でもしてるみたいに。コマンチ族の耳が3ドルで売れたとか・・・(だが今はそのインディアンと組んで戦っている)。まったくな、考えてみろよ。50年もすれば俺たちは日本人どもと一緒に座り、サケを飲み、くだらん話をしてるさ・・・同盟を結んでるかもな。」「お前は考えすぎだ。」「そう言われたのは初めてだ。」この作品を手掛けたジョン・ウー監督(中国国籍)は、日本に対してかなり批判的な態度を取っている。アンチ・ジャポニズムとしてのスタンスで撮影に挑んだのだと認識した上でこの映画を鑑賞しないと、あまりに日本人が悪く描かれているため、後味の悪さだけが残ってしまうのも事実である。あくまでこの作品は米軍がヒーローであり、日本軍は憎き悪役なのだ。第二次世界大戦下、ジョー・エンダーズ軍曹はソロモン島の激戦で部下たち全員を戦死させてしまった。自分自身も耳の鼓膜が破れ、三半規管に障害を持ち、平衡感覚が異常を来すまでの重傷を負った。だがジョーは自分だけが生き残ってしまったという罪悪感から、再び戦場に戻ることを志願する。復帰後、ジョーに与えられた任務はインディアンの通信兵の護衛というものだった。ジョーたちはサイパン島に向けて出発。サイパン島は当時日本軍の占領下にあったが、米軍としては首都東京を攻撃するのにどうしても奪取したい島だった。前半では日本軍が優勢で、米軍が窮地に陥っていたが、後半はヤージーやホワイトホースらのインディアン通信兵らがインディアン語で無線機を使用。傍受する日本軍は解読できずに、みすみす敵の援護隊に居留地を襲撃させてしまうはめになる。作品のラストに、「暗号は決して解読されることはなかった」というテロップが出る。 それもそのはず、当時優秀な暗号解読を誇る日本軍であったが、いかんせん文字のないインディアンの話す言葉に対してはさすがに解読は困難を極めたのだ。もしも“インディアン語”というものが米国の第二外国語として認識されていたら、果たして暗号解読は容易だったかもしれない。ストーリーの最終章は、「プライベート・ライアン」にも似て主人公の勇敢な戦死によって幕が閉じられる。生々しい戦場の壮絶な殺し合いは、臨場感にあふれている。そう、リアルな殺戮シーンが次から次へと襲って来るのだ。だが、テーマは“インディアン通信兵の活躍”なのだ。その点をお見逃しなく。【ウインドトーカーズ】・・・風と話す民の意。アメリカ先住民ナバホ族をさす。2002年公開【監督】ジョン・ウー【出演】ニコラス・ケイジまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.05.06
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「私たちは発艦することができても着艦することはできません。ですから、出撃したら二度と帰って来ません。敵艦に体当たりします!」「何・・・?」「せっかく整備して下さった大事なゼロ戦を壊してしまいますけど、許して下さい!」 「貴様ら、わざわざそれを言いに来たのか・・・?」「(若き特攻隊員3名そろって)はいっ!」戦争コードの映画は、あまりの残酷、無惨なシーンに驚愕して後味の悪さだけが残るものと、悲哀さのあまり、涙無くしては見られないものとの2パターンがあるように思える。第二次世界大戦において敗戦国である日本が制作した映画は、それだけに哀切極まりない、死にゆく者たちの慟哭が聞えて来るような錯覚に陥ってしまうのだ。1940年、日独伊三国軍事同盟が締結。翌年、同盟国であるドイツのソ連に対する宣戦布告に後押しされる形で、日本軍もベトナムへ進出。これによりアメリカの対日制裁措置を受け、アメリカからの資源の輸入が完全にストップ。日米交渉も虚しく決裂に終わり、いよいよ太平洋戦争へと突入する。連合艦隊司令長官である山本五十六の作戦により、真珠湾攻撃を実行。それにより、真珠湾停泊中のアメリカ太平洋艦隊は大打撃を受ける。日本軍の快進撃も長くは続かず、1942年、アメリカ空軍の日本本土初空襲を受ける。 この攻撃を受け、山本はアメリカ太平洋艦隊の残存部隊を全滅させる必要性を説き、ミッドウェー攻略を打ち立てる。だが、ミッドウェー海戦において、事前に日本軍の作戦情報が完全にアメリカ軍に傍受されており、日本軍の完敗に終わる。「連合艦隊」は、そうそうたるスタッフ、キャストによる優れた戦争映画に仕上がっている。デジタル化の進んだ現代においては、当時の特撮技術の甘さが気になる視聴者もあるかもしれないが、研ぎ澄まされた高度な演出と無駄のない脚本、そして卓越した演技力が見事に調和し、非常に完成度の高い作品となっている。注目すべきは連合艦隊参謀長の宇垣纏(うがき まとめ)である。宇垣はインテリでプライドの高い、賛否両論のある人物だが、対アメリカ戦になることを当初から懸念し、一貫して三国軍事同盟に異を唱えて来た。しかし、一たび太平洋戦争に突入すると、その手腕を発揮。ミッドウェー海戦における敗北時には、パニックに陥っていた参加部隊を見事に統率し撤退させるという指揮を執った。それまで宇垣を無能呼ばわりしていた山本五十六は、一転して彼に篤い信頼を寄せるというエピソードがある。(しかし、このエピソードは作中にはない。)映画「連合艦隊」では、宇垣を高橋幸治が好演。冷酷非情でインテリジェンスなムードを漂わせ、ひときわ存在感があった。作中、日本海軍の誇る戦艦が次々と撃沈されてゆくシーンがあり、BGMに「海行かば」が静かに流れる。それはまるで、戦没者への鎮魂歌のように聴こえるのだ。海行かば水漬く屍かばね山行かば草生す屍かばね大君の辺にこそ死なめかへり見はせじ※日本民族の意識、精神の理解に苦しんだアメリカ軍は、この歌を持って分析、解読を労し、対日作戦を立てたとされる。1981公開【監督】松林宗恵【出演】小林桂樹、丹波哲郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.08
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『G・ハウプトマンは45年に言いました。“涙を忘れた者も”、“ドレスデンの破滅に泣いた。”その60年後に付け加えます。“自信を失った者も”、“再建後の教会の姿に自信を取り戻す。”この聖母教会は、世界の人々を結びつけます。民族間の理解を目指す人々を、そしてヨーロッパや世界での戦争を望まない人々を結ぶのです。皆に平和あれ。』ドイツは第二次世界大戦において、日本と同様の敗戦国である。しかし、日本のような島国とは違い、多くの国々が一つの大陸を共有し隣接し合っている都合上、そこにはたくさんの難問がひしめいていた。特に、民族問題においては切実で、独裁主義ヒトラーは一貫して「ゲルマン民族の優越」を唱えて来た。そのため、徹底したユダヤ人迫害を断行したのである。この作品は、第二次世界大戦末、1945年ドレスデン空襲を取り上げたものである。 英国軍による猛攻な空爆で、一夜にして廃墟と化すザクセン州ドレスデンの街を舞台に描かれている。ヒロインのアンナは、病院の院長である父を持ち、自身は看護師として負傷兵の手当てに奔走していた。ある時、病院の地下に身を隠していた兵士ロバートに遭遇。負傷している彼を脱走兵と勘違いし、手当てを施しかくまってやる。だがロバートは、敵国である英国空軍の兵士であった。アンナには婚約者がいたが、いつのまにかロバートに惹かれてゆき、二人は恋に落ちてしまうのだ。作中、負傷兵たちがズラリと眠っている病室で、アンナとロバートが孤独を癒すように肌を寄せ合い同じベッドで交わるのだが、このシーンなどは「スターリングラード」を彷彿とさせる。また、街が一瞬のうちに廃墟と化し、茫漠とした風景が広がるシーンなどは「戦場のピアニスト」を思い起こさせた。さらに、空爆を受けて足がちぎれ、無残な姿で横たわるシーンは「プライベート・ライアン」を連想してしまった。脚本に関しては、アンナの婚約者が彼女の父親と結託して何か良からぬことを企んでいると知った時、アンナがにわかに豹変してしまう心理描写に疑問が残る。アンナの苦悩、葛藤などの心の動きがもう少し丁寧に表現されていたら、ドイツ映画らしい緻密で正統派の作品になったかもしれない。いずれにしても、歴史と芸術の街ドレスデンが、一夜にして焼け野原になってしまったシーンを見るだけでも、いかに戦争が無意味で愚かなことであるか充分に理解できる。2006年(独)、2007年(日)公開※ただしドイツでは劇場公開されておらず、テレビ放映された。【監督】ローランド・ズゾ・リヒター 【出演】フェリシタス・ヴォール、ジョン・ライトまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.05
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日露戦争において度重なる失策の際、「戦下手」と罵倒された乃木希典。しかし戦後は、戦死、負傷した部下やその遺族に宛てて見舞金を送るなど、義理と人情の人物であった。また、乃木がドイツ留学により体得した紳士的な雰囲気は、諸外国の面々が抱く日本人観を大きく覆すものとなり、世界中から賞賛された。(水師営の会見)そんな清廉で武士道的精神にあふれた人物であったが為、1912年9月、明治天皇の大葬後、彼の妻とともに自決している。あくまでも高潔で忠義に生きる人、乃木希典。享年62歳であった。映画「二百三高地」で乃木希典演じる仲代達矢は圧巻のひとこと。迫真の演技は観る者の涙を誘う。それは役者と鑑賞者の魂の共鳴であり、まさに芸術の昇華であろう。
2008.03.05
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「自分は悔いることは毛頭ありません。最前線の兵には、体面も規約もありません 。あるのは生きるか死ぬか・・・それだけです。兵たちは・・・死んでいく兵たちには、国家も軍司令官も命令も軍規も、そんなものは一切無縁です! 灼熱地獄の底で鬼となって焼かれてゆく苦痛があるだけなのです! その苦痛を・・・部下たちの苦痛を・・・乃木しきの軍人精神で救えるのですか!?」第二次世界大戦を省みた反戦映画は数多く、残酷な殺戮シーンをクローズアップすることで、戦争の悲惨さを打ち出す作品群は周知の通りだ。「二百三高地」は、そのまた昔、19世紀末(明治37年)の日露戦争が舞台となっている。当時ロシアの南下政策は朝鮮にまで及ぼうとしていた。一方、朝鮮半島の支配を目指す日本にとっても、指をくわえて黙ってなどいられない。 だが、軍事力はロシアの強大さの前では赤子同然。その足元にも及ばないことは、誰の目から見ても明白であった。しかし、領土拡大を目論む明治政府にとって、朝鮮半島は是が非でもロシアに奪われるわけにはいかなかった。閣僚会議では、主戦派が反対派を押し切る形で議決。ここで日露戦争が勃発した。この作品では、“英雄”と謳われた乃木希典(のぎ まれすけ)が、痛々しいほどに凡庸で内省的に描かれている。作家司馬遼太郎も、乃木については厳しい批評を向けた一人であり、「乃木の才能は人格的なものであって軍事的才能ではない」とする、軍人としての能力を否定していた。失策を続けていた乃木に対し、満州軍参謀長であった児玉源太郎は、途中、乃木に代わって陣頭指揮を取り、二百三高地を軸とした旅順攻略の作戦を練り直し、成功。その結果、旅順を陥落したのである。映画「二百三高地」では、“英雄”、“大将”などという賞賛が、いかに虚しく、無意味なものであるかを教えてくれる。そして、これほどまでに多大なる犠牲を払ったにもかかわらず、得たものが何であるかを考えさせられる作品は、まずない。反戦映画としては、テーマが明確に打ち出された素晴らしい作品に仕上げられている。1980年公開【監督】舛田利雄【出演】仲代達矢、丹波哲郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.04
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「対地攻撃機P51です。」「天使が来てくれた。」「何です?」「ジェームズ・・・ムダにするな。しっかり生きろ。」スピルバーグ監督と言えば、ハリウッド界における大物だ。誰もがその作品群に隠された本当の物語を引き出そうと、必死になって研究を推し進める対象なのだ。そこで必ず浮上するのが「引き裂かれた家族」をテーマにしているとの考察。なるほどと思った。確かに、80年代に大ヒットを記録した「E.T.」を例にあげると、宇宙人が家族からはぐれて地球人の子供に紛れ込み、友情を育む物語だった。それにしてもスピルバーグ監督のヒット作の多いこと。70年代には「ジョーズ」「未知との遭遇」、80年代には「インディ・ジョーンズ」シリーズ、90年代には「ジュラシック・パーク」など、次々と伝説的な数字を打ち出した。夢と希望に満ち溢れ、過去や未来を自在に行き交う作品が多数を占める中で、この「プライベート・ライアン」は物語から逸脱し、戦争の現実を真正面から糾弾している作品だ。この作品は、1944年第二次世界大戦下、史上最大の作戦と言われたノルマンディー上陸作戦における、あるエピソードが題材にされている。ジェームズ・ライアン二等兵の3人の兄たちは、皆戦死。軍上層部は、残された母親のために、息子たち全員の戦死を防がねばならないという理由でライアンの救出を命じる。命令を受けたミラー大尉は、何人もの部下たちの命と引き換えに、行方の知れないライアンの救出に挑む。冒頭部のリアルな戦闘描写は凄まじかった。腕や足がちぎれ、内臓がはじけ飛ぶ様は、正に地獄絵巻だ。砂浜には無数の兵士たちの亡骸が転がっていて、海水は流れ出た血に淀んでいた。この凄惨な状況を目の当たりにした時、人は人でいられない。「プライベート・ライアン」は、兵士たちの勇気ある生きざまや、家族愛、友情を熱く語る従来の反戦映画とは異なり、ストレートに「戦争」イコール「死」を示した、戦争コードの体感映画なのだ。1998年公開【監督】スティーヴン・スピルバーグ【出演】トム・ハンクスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.02.07
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「(潜望鏡をのぞきながら)撃沈です。大尉、あなたが指揮する艦なら、いつでもお供します。」「ありがとう。(ふりかえって)タンク、大丈夫か?」「(泣きながら)トリガーが・・・。」「成し遂げたんだな。」「大尉も立派に。」祖父は軍人で、第二次世界大戦中は通信班に属していた。時折モールス信号のマネゴトをして、誰にもわからない独り言をつぶやいていた。お風呂に入って必ず歌うのは、“同期の桜”あるいは“海ゆかば”。悲惨な戦争体験をしているぶん、かえって多くを語ろうとはしなかった。その祖父が生きていたら、昨今の戦争映画を観てどんな感想を述べるだろうか。ぜひとも胸の内を聞いてみたいと思った。「U-571」は、1942年第二次世界大戦中の北大西洋が舞台となっている。アメリカ海軍が“トロイの木馬”作戦により、ドイツ潜水艦Uボート571号を乗っ取るところからストーリーは展開する。目的は、ドイツの最高機密である暗号機“エニグマ”を奪取すること。しかし、敵の攻撃を受け作戦が大幅に変更。暗号機を奪取したらすぐに帰艦の予定だったが、味方の潜水艦は撃沈。U-571にそのまま留まり、敵と対峙することに。アンドリュー・タイラー大尉率いる生き残った部下たちは、ドイツ語表示で扱い慣れないU-571を駆使して敵を翻弄させる。この作品の見どころは、何と言っても潜水艦内という、いわば密室状態における人間の極限状態だろう。四方を海に囲まれ、しかも船体が破壊すればたちまち浸水してしまうという緊迫感は、通常の生活をしていたらまず味わえない環境だからだ。そして若きタイラー大尉が、一人また一人と仲間を失いながらも、生き残った部下たちを率いて成長を遂げていく姿はなんとも清々しい。空間の変化には乏しいが、緊張感の味わえる完成度の高い一作と言える。2000年公開 【監督】ジョナサン・モストゥ 【出演】マシュー・マコノヒー、ハーヴェイ・カイテルまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.02.06
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「何をしている? 何者だね? 言葉はわかるか? 何をしている?」「(缶詰を指して)その缶・・・その缶を開けようと。」「ここに住んでるのか? ここで働いてるのか?」「いいえ。」「職業は?」「私は・・・ピアニストでした。」「ピアニスト・・・」現代、ハリウッドは主にユダヤ人による産業。そんなユダヤ人の悪夢であるホロコーストを扱った作品はいくつかある。そのうち記憶に残っているもので言えば、小学校で学習した「アンネの日記」あたりだろうか。当時はその残酷極まりない行為の本質などわかるはずもなく、単純に「かわいそう」と感じる自分がいるに過ぎなかった。「戦場のピアニスト」が真実を語っていると思わせる点を考えてみた。それは、ユダヤ人にとっての敵がナチス・ドイツに限られていないということだ。恐ろしいのは、「敵は内にある」という点。同胞であるはずのユダヤ人警察官による虐殺行為が横行していたのだ。逆にラストでは、敵であるはずのドイツ軍将校によって主人公は命拾いする。つまり、戦争の酷さというのは、そういうことなのかもしれない。この作品は、2002年にカンヌ映画祭において、パルムドール賞を受賞するほどに一定の評価を受けたホロコースト映画である。1939年、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻するところから物語は展開する。シュピルマンは、ワルシャワのラジオ局でショパンを演奏中に爆撃を受ける。街はドイツ軍によって完全に占拠され、ユダヤ人に対してゲットーへの移住命令が出された。ピアニストと言えどもシュピルマンもユダヤ系ポーランド人で、例外ではなかった。シュピルマンは、その運命のもとにピアニストという職を追われてしまう。ドイツ軍に侵略され、辺り一面焼け野原の中、シュピルマンが足を引き摺りながら歩くシーンは、その見事な美術効果である背景とコラボして絶対的な喪失感をかもし出していた。さらに、廃墟の一角でドイツ軍将校に見つかってしまい、絶望の淵に追いやられてしまったかに見えたのだが、芸術的才能が彼を救ったのである。命じられるままに弾いた曲は、ショパンの夜想曲第20番嬰ハ短調。かろうじて焼失を免れたピアノを前に、月明かりだけを頼って鍵盤を弾く姿は奇跡の天使。無言の表情の中に、想像を絶するほどの虚無と絶望がひしめいていた。2002年公開 【監督】ロマン・ポランスキー 【出演】エイドリアン・ブロディまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.02.03
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「ニュルンベルク裁判で恐ろしい話は聞きました。600万人のユダヤ人や、人種の違う人々が無残に殺されたと・・・。これらの事実は大変ショックでした。でも私はそれを自分と結びつけられず、安心していたのです。“自分に非はない”“私は何も知らなかった”そう考えていました。でもある日、犠牲者の銘板を見たのです。ソフィー・シヨル。彼女の人生が記されていました。私と同じ年に生まれ、私が総統秘書になった年に処刑されたと。その時、私は気付きました。若かったというのは言い訳にならない。目を見開いていれば気付けたのだと。」同盟国である日本軍が、真珠湾攻撃を果たした直後の演説で、ヒトラーは次のように日本を大絶賛している。「我々は戦争に負けるはずがない。我々にはこれまで一度として負けたことのない味方(大日本帝国)が出来たからだ。」と。しかし、その後ドイツは降伏し、日本も同様の運命を辿った。ヒトラーは一貫して「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げた。ユダヤ人に対する人種差別を強化し、結果としてそれはユダヤ人迫害につながった。この問題はここではあまり触れない。民族主義は、並行して宗教問題にも深く関わっているからだ。この作品は、1945年4月のベルリン陥落直前の総統地下壕が舞台となっている。ヒトラーの女性秘書を務めたユンゲの証言をもとに、生々しく表現したドキュメンタリータッチの映画なのだ。このころのヒトラーはパーキンソン病を患い、思考能力が低下。(認知症が見られたとも言われる)そのため正常な判断力を欠いていたとされる。そのあたりの状況をかなり考慮した人物像に仕上がっていて、卓越した役者魂を見せつけられたような気がした。敗戦が色濃くなり、ヒトラーが最期を悟って側近たちの一人一人に別れのあいさつに至るシーンは、熱いものが込み上げて来た。観客はヒトラーが憎き独裁者であることも忘れてしまいそうなほど、各人に優しい視線を投げ掛けるのだ。愛犬を毒殺し、妻のエヴァと自決する件は実際に映像には流れず、発射された銃の音だけが地下壕に響き渡る。その後の側近たちの淡々粛々とした処置は、実に忠誠的で、ただただ鈍い心の痛みを感じないではいられなかった。2004年公開【監督】オリヴァー・ヒルシュビーゲル【出演】ブルーノ・ガンツ また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.02.01
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「宮川さんていう軍曹さんがおってね、一度目の出撃の時に機体の故障で引き返されたのをえらい気にしなすってね。ようやく二度目の出撃が決まった前の晩にうちに見えてね、お給仕する私に“今度こそどんなことがあっても敵艦を撃沈して帰って来る”って言われる。私は不思議に思って“どげんして帰って来ると?”って聞いたら、“ホタルになって帰って来る。だからホタルが来たら僕だと思って追っ払わないで、よく帰って来たと迎えて下さい”って言うの。」映画評論家である故・淀川長治氏の言葉なのだが、「映画界の動向は情報イコール資本の流動性に抗えないので、観客自身が批評家の目をもつ必要がある。」とおっしゃっている。つまり我々は、数多製作されている映画の山から優れた作品を見出すセンスを鍛えねばならない。「傑作」と呼ばれた作品の影には、泡と消えた「駄作」が無数に存在するのも事実である。しかし、そういうB級、C級の中にも必ずメッセージが隠されている。思ったほど楽しめなかった作品を、あとから反芻して、どんな点がつまらなかったのか、どのように改善すればもっとおもしろくなるのか、など自分なりに分析、追究してみるのも逆に楽しいかもしれない。「ホタル」は、悲惨な戦争を二度とくり返してはならないというメッセージ色の強い映画に仕上がっている。反戦映画には必ず賛否両論が付きまとい、人の数だけ感想もまちまちだ。この作品は鹿児島の南端の漁村が舞台になっている。山岡は漁船「とも丸」に乗り、沖合いで漁をして生業を立てていたが、妻が身体を患ったことで漁を辞め、養殖を始める。激動の「昭和」が終わり、「平成」の世が始まったある日、藤枝が冬山で亡くなったという知らせに山岡は愕然とする。山岡と藤枝は、共に特攻隊の生き残りだったのだ。全体を通して視覚効果にあふれ、日本の美しい自然が平和な日常の「今」として反映されている。その美しい構図からは、すでに半世紀も前に起こった戦争の傷跡などどこにも見られない。この静寂さと自然美を後世まで残すことが、我々の大切な使命なのだと訴えかけてくるような、じっくりと計算され練られた美しいアングルに魅了された。2001年公開【監督】降旗康男 【撮影】木村大作【出演】高倉健、田中裕子また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.28
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「いずれ元の仕事に戻れば、戦争が夢に思えますよ。」「だが昔には戻れん。何事も永続しないという苦い真実を知った。」「と言うと?」「悲惨と破壊に終わりはない。頭を切り落としても、また生える蛇だ。殺す事はできない。敵は我々自身の中にあるのだ。」「今」の映画と「昔」の映画の違いは一体なんだろう?表現技術の高い「今」は、なるほどリアリティがあってスリリングでしかも迫力がある。 では「昔」はどうか?チャチでヤワでウソっぽいのか?否、決してそんなことはない。優れた作品ならば、「今」も「昔」も変わりなく、画面の細部にまでメッセージが刻み込まれているのだ。「今」の映画をいろんな要素を踏まえて“派手”というカテゴリに入れたなら、「昔」の映画はやはり“地味”と言えるかもしれない。もちろん、扱っているテーマや撮影されている環境、あるいは役者の人気度によってもそんな簡単に2種類のカテゴリに分けるのは問題ありだ。だが、映像製作の革新によって、現実と虚構の区別すらつきにくいほどに表現技術の向上した「今」を、決して「昔」の映画は乗り越えられない。「眼下の敵」に派手なアクションやスピード感はない。では何がこれほどまでに緊迫感や連帯感、共鳴といったものを覚えるのだろうか。この作品は第二次世界大戦中の南大西洋が舞台となっている。アメリカ駆逐艦ヘインズ号と、ドイツ海軍の潜水艦であるUボートとの激しい攻防戦を描いている。両軍、二人の艦長は共に戦争で妻や子供を失うという辛い体験をしていて、どちらかというと戦争には懐疑的な態度を示す。その両雄の魚雷攻撃をめぐる駆引きの鮮やかさ、知恵のしぼり合い、見事な作戦の遂行と言ったらほぼ互角。そこに敵も味方もありはしない。そしてさらに、敵同士ながら互いに対する敬意の表し方は、シーマンシップに則っており、感動すら覚える。「眼下の敵」は言わずと知れた反戦映画である。我々はこの作品から随所に盛り込まれている哀しい歴史的事実を、学び取らねばならないのだ。1957年公開【監督】ディック・パウエル【出演】ロバート・ミッチャム、クルト・ユルゲンスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.27
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「僕はとても恵まれた子供時代を送った。それで恩返しをしたいと思った。何かを変えたいとね。時々自分を励ますんだ。“偉いぞジョー”“よくやったぞ”“国際協力隊のスターだ”と。現実はこれだ。」「去年ボスニアで同じ気持ちに。」「本当?」「最高の仕事をしたけれど、毎日泣いてた。それがここでは・・・涙が出ないの。」「感覚が麻痺したのかも。」「いいえ違う。もっとひどい。ボスニアの白人女性の死体を見ると連想したの。これが母だったらと。ここの死体はただの死んだアフリカ人。結局、私たちは自分勝手な人間なのよ。」最近は専らドキュメンタリータッチの作品ばかりを鑑賞しているせいか、本来の意味とか意義を忘れつつある。娯楽として楽しむはずの映画は、今や「社会性」や「政治性」を汲み取らねばならないので、鑑賞後の疲労感、絶望感は筆舌に尽くしがたい。頭痛と悪寒に悩まされ、「ならば自分はどうしたら良いのか?」という答えのない苦悩に頭をもたげねばならないのだ。作品との距離を取りつつ、「当時そこにあった現実」なのだと、歴史の一コマとしてのみ捉えることが果たして良いのか、それは疑問だ。この作品はルワンダ紛争におけるフツ族と少数民族であるツチ族との長年に渡る部族闘争を舞台にしている。国連治安維持軍の監視の下、学校だけは非戦闘区域であることを宣言。大量虐殺から逃れて来た何千もの難民の避難所となる。しかし一歩学校の外に出ると、過激派民兵が大量の虐殺を繰り広げていた。そして国連軍が、もうこれ以上難民を保護できないと学校から撤退していくところから、悲劇はさらに大きく残酷なものとなる。フツ族によるツチ族の大量虐殺事件(ジェノサイド事件)は、非常に根の深い問題で、容易には理解できるものではない。ただ一つ言えることは、白人による植民地支配が始まったあたりから、溝はどんどん深くなっていったということだ。演技力がどうであるとか、内容がどうだとか御託を並べる前に、この作品をどう捉えるかは各人に任せたい。2007年公開【監督】マイケル・ケイトン=ジョーンズ【出演】ジョン・ハート(クリストファー神父)、ヒュー・ダンシー(ジョー)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.19
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「私、イディ・アミン・ダダは君たちに約束する。私の政権は言葉だけではなく、行動する! 新しい学校を建設する! 道路も! そして新しい住宅も! このように私は将軍の制服を着ている。でもこの心の中は違う。ここにいるのは君らと同じ普通の男だ。君らのことは何でも知っている。私は君らだ。」1971年、ウガンダでは軍事クーデターによりオボテ政権が倒れ、アミンが新しい大統領に就任した。時を同じくして、スコットランドより青年医師ニコラスがウガンダの小さな村の診療所に派遣されて来た。移動中のアミン大統領がささいなケガを負ったところ、通りかかったニコラスが治療を施し、それがきっかけでアミンの主治医となるところから物語は佳境に入っていく。一見、アミンは庶民的でチャーミングな人柄をにじませつつも、その実、疑心暗鬼に駆られた冷酷非情な独裁者であった。その証拠に、抵抗勢力の反撃に怯えるアミンは、大規模な粛清を進めるのだった。この作品は、ひとえに、向こう見ずで冒険心に駆られる若者たちの軽率な行動に警鐘を鳴らすものではなかろうか。作中の青年医師ニコラスも、「自分さがし」と称し、その国の情勢もろくに知らぬままほんの好奇心からウガンダにやって来たことで、最後は生命まで脅かされることになるのだ。近年、治安の悪化する中近東地域に「ボランティア」あるいは「観光」という名目で渡航する若者たちが増加している。彼らの若さゆえの無鉄砲さは目に余るものがある。我々はいつだって「痛み」を伴わなければ本当に大切なことに気付かないのだから、人間とはなんと愚かで業の深い生きものなのだろう。ニコラスがエンテベ空港の売店で拷問にかけられ、その後、同僚医師の手引きによって助けられ、飛行機に乗り込むまでの緊迫感は息継ぎさえ許さない、鬼気迫るものがある。最初から最後まで少しの歪みも感じられない、完成度の高い作品だ。2007年公開【監督】ケヴィン・マクドナルド【出演】フォレスト・ウィテカー(アミン)、ジェームズ・マカヴォイ(ニコラス)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.18
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「ハエがたかってる栄養失調の黒人の赤ん坊、母親の死体、切断された手足、見慣れた光景よ。泣く人もいる、寄付する人もいるかもね。でも何も止められない」映画というメディアを通して、政治的あるいは社会的テーマを正しく把握するというのは、かなり高度な作業である。単なる反戦メッセージとして十把一絡げで捉えてしまうのは非常に軽薄で、物事の根底にはもっと深刻な問題が重い鉛の如く隠されているのである。したがって、作品が発する社会的メッセージを正しく受け止めるには、かなりの勉強量が必要になって来るのだ。例えば「ブラッド・ダイヤモンド」などは、アフリカのシエラレオネ共和国における内戦を舞台にしているのだが、政府軍と反政府勢力であるRUFのダイヤモンド鉱山の支配権をめぐる闘争が扱われている。そのアフリカ地域紛争で武器調達の資金源として不法取引されるのが、いわゆる「ブラッド・ダイヤモンド」なのだ。しかし、この内戦についても、多文化主義、民族問題、宗教問題など歴史的文脈を捉えていなければ、そう易々と理解出来るものではないのだ。そんな中であえて、大衆に発信しようと試みた製作者サイドの意図は何かを想像した時、次の二点が挙げられるのではなかろうか。一つは「紛争ダイヤモンド」、過酷な労働条件の中で採掘されるダイヤの行方。もう一つは「少年兵」の存在。(近代日本も例外ではなく、戊辰戦争の白虎隊、二本松少年隊などの少年兵が確実に存在した)我々は、望むと望まざるとにかかわらず、この作品から強いシンパシーを感じ取らねばならないのだ。ちなみに本作品で主演のレオナルド・ディカプリオは、ゴールデン・グローブ賞を受賞している。2007年公開【監督】エドワード・ズウィック【出演】レオナルド・ディカプリオ(アーチャー)、ジェニファー・コネリー(マディー)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.14
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