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【空母いぶき】「武力など使わなくとも、平和は維持できると信じてきた日本。それが幻想だと気付かされた最初の総理が俺か・・・。石渡、責任はどうやって取る?」「・・・」あけましておめでとうございます。皆さん、お健やかに、のんびりと、このお正月をお過ごしのことと思います。本年も吟遊映人を何とぞよろしくお願いいたします。さて、令和になって初めての記事はこちら、『空母いぶき』についてである。なぜこちらの作品を選んだかについては割愛する。だが、新年早々ただならぬ内容を扱ったこの作品を見たことで、正月ボケが一気に吹き飛ぶこととなった。と言うのも、『空母いぶき』は日本国憲法第九条に対する限りなく批判めいた、それでいてどこかで肯定するかのようなジレンマを絶えず感じさせる、主義主張としてはかなり不安定な作品だからだ。おそらくきっと、原作を掲載していた『ビッグコミック』誌上では、作者の主張がよりハッキリとしたものであることは間違いない。問題はそのオリジナルのマンガをどの程度脚色し、演出し、実写映画化したのか、と言うことである。残念ながら私はオリジナルの方を知らない。あくまでこの映画作品が私の中の〝オリジナル〟であるから、この作品について思うことを忌憚なく記事にしたい。まずはストーリーについて。12月23日、巷ではクリスマスを目前に華やいだ雰囲気に包まれていた。一方、日本の領海の南端に位置するハルマ群島の初島には、国籍不明の船団が上陸した。日本の領海・領土を侵したのは東亜連邦であった。日本国政府は海上警備行動を発令。海上自衛隊・第五護衛艦隊を派遣。センターは空母いぶき、周囲を守るのは護衛艦あしたか、いそかぜ、はつゆき、しらゆき、そして、はやしおの5隻。さらには潜水艦を含む部隊である。ある種のテロ集団である東亜連邦による先制攻撃のため、いぶきが損傷。いよいよ大掛かりなミサイルや魚雷の攻撃が始まる。内閣総理大臣の垂水は、次々と伝えられる戦況報告に緊張を隠せないでいた。日本国憲法第九条にがんじがらめとなり、強硬派の意見を抑えることがやっとのような状況にあった。東亜連邦は、国際法や外交上の常識がまともに通じる相手ではなく、悠長に対話による解決策など講じる余裕は全くなかった。事態は刻々と悪化していくのだった。ざっくり言ってしまえば近年の尖閣諸島問題をテーマにしている。無論、領海侵入したのは中国で、日本の実効支配打破を目的としたものであることは言うまでもない。当時のニュースでも話題になったことだが、日本の領土・領海である尖閣に、中国公船が平気の平左衛門で侵入することが常態化してしまったのである。日本政府も、それはもう慌てた。寝耳に水の状態になって初めて「ヤバいぞ」と、重い腰を上げたわけだ。なにしろ、重大な領海侵犯であるにも関わらず、政府としてはその成り行きを指を加えて見守ることしかできない。(その理由は今さら言うのも憚られる)一部のリベラリストは、「共同領有」とか「平和的な対話で」などとキレイごとを並べる。だがそれは不可能である。政治についてまるで疎い私でさえ、地政学的に尖閣諸島は死守しなければならない日本固有の領土であることは理解している。『空母いぶき』は、おそらくこの問題を婉曲的にテーマとして取り上げたかったのであろう。とは言え、近い将来こう言うことが起こるかもしれないと言うシミュレーションからは程遠く、正直リアリティに欠けていた。〝反戦〟と言うテーマを掲げるのだとしたらあまりにも稚拙で無謀な設定だし、〝憲法改正〟を訴えるものだとしたら主張がブレすぎて分かりづらい。まるで映画制作者の意図が読めず、不安定極まりない内容である。不幸中の幸いなのは、このような脚本であっても主役に扮した西島秀俊は冷静で落ち着いた演技を見せてくれたし、総理大臣役の佐藤浩市もびっくりするぐらい徹頭徹尾政治家らしい政治家を演じてくれた。それはもう見事な演技力である。さすが。プププと笑ってしまいそうになったのは、ラストの方で、コンビニで働くアルバイトの女の子が店長に向かって「メリークリスマス、サンタさん!」と言うシーン。これってもしかして『戦場のメリークリスマス』へのオマージュなのだろうか?閑話休題。百歩譲って、この作品をエンターテイメント作品として捉えたとき、怪獣を相手に必死で自国を守ろうとする自衛隊の姿を描いた『シン・ゴジラ』の方に、私は軍配を挙げてしまうだろう。比較の対照にしてしまい、申し訳ないが。そう言う意味で、皆さんにおすすめはしないけれど、西島秀俊ファンが最後の砦となる作品、とだけ付け加えておこう。【2019年5月公開】【監督】若松節朗【出演】西島秀俊、佐々木蔵之介、佐藤浩市
2020.01.04
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【イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密】「エニグマは世界一難解な問題です」「難解ではなく、不可能なんだよ。アメリカ、フランス、ソ連、誰もが解読不能と思っている」「それは何より。私が試して結果を出しましょう」我が家のDVDプレーヤーのやむを得ない事情から、しばらくTSUTAYAへ通うのを控えていた私。吟遊映人のブログ更新が滞ったところで誰も何とも思わないし、世の中は平穏無事。とはいえ、人は趣味という娯楽をそうたやすく放棄できるものではない。リモコンが使用不可となり、長年愛用して来たDVDプレーヤーに別れを告げようとしていた矢先、奇跡が起きた。なんと突然にリモコン操作が可能となったのだ!私はこの機を逃してはならないと、すかさず何か作品を見ることにした。 『イミテーション・ゲーム』である。ありがたいことに120分弱のこの作品を見ている間、リモコンは何の支障もなかった。このぶんなら2本目も見られるだろうと、次のDVDをセットしたとたん、リモコンは再び操作できなくなった。何事にも贅沢は禁物。今日はこの1本で満足しなさいという映画の神様の戒めなのである。 さて、この作品のストーリーはこうだ。1939年、イギリスがドイツに宣戦布告した。解読不能と言われるナチスの暗号機エニグマに挑むため、数学者のアラン・チューリングがその解読チームに採用された。チューリングはその天才さゆえか協調性に欠き、思ったことはすぐ言葉にしてしまうため、周囲から変人呼ばわりされ嫌われていた。そんな中、チームの人材不足の解消のため、新たに仲間を募集することになった。応募者のほとんどが男性で占める中、たった一人女性がいた。ケンブリッジ大学卒の才媛ジョーン・クラークであった。ジョーンは、チューリングの作った難解なクロスワードパズルを難なく解いてみせた。テストに合格したジョーンだったが、男性ばかりの職場で働くことに難色を示した両親の手前、いったんは採用を断ってしまう。ところがチューリングはジョーンの才能を惜しみ、彼女が通信傍受係の女性職員と同じ場所で働けるよう手配するのだった。ジョーンという存在のおかげでチューリングは仲間と少しずつ距離を縮めていくことに成功する。プロジェクトを成功させるためには同僚らの協力が不可欠であることを、ジョーンから諭されたからだ。とはいえ、チューリングは相変わらずの数学バカで、ただひたすら解読に励む毎日だった。ジョーンが25歳という年齢で独身ということもあり、親元に帰るか否かで悩んでいる中、ただ彼女を手放したくないばかりにチューリングはプロポーズする。ジョーンは快く受け入れてくれるのだが、チューリングは悩んでいた。ジョーンは素晴らしい友人だったが、恋愛の対象ではなかった。実はチューリングは同性愛者だったのである。 作品は実在の人物アラン・チューリングの伝記として捉えるべきなのだろうが、私はあえてヒューマン・ドラマとして楽しんでみた。というのも、この作品のテーマはエニグマを解読することなどではないからだ。同性愛という社会的マイノリティにスポットが当てられていることに注目したい。作中、チューリングの少年時代が回想されるのだが興味深い。頭脳明晰ながら、変わり者だったせいでクラスのイジメの対象となっていたチューリング。暴力を受けるなどの酷いことをされながらも、頭ではそれを冷静に受け止めている。 『暴力をする側は気分がいいから手を出すのである。いわば快感だ。だがひとたびその衝動が消えると空虚なものしか残らない。』 私はこのセリフをどこかの力士に聞かせてやりたいと思った。後輩の育成のため、礼儀を教えるための暴力などあり得ない!そんなものは単なるイジメなのだ。アラン・チューリングに扮したベネディクト・カンバーバッチは、こういう変わり者役にピッタリだ。『シャーロック』におけるシャーロック・ホームズも正にハマリ役(一風変わった天才名探偵)で、そのカリスマ性に誰もが惹きつけられてしまう。ヒロインのジョーン・クラーク役のキーラ・ナイトレイも、知的で美しく、申し分のない演技だった。 この年の瀬に『イミテーション・ゲーム』を堪能できたことは、私にとって本当にラッキーだった。願わくば、相撲協会がヘタな研修会を開くより、このような作品を鑑賞することで暴力撲滅への足掛かりとしてくれたらと思うのだ。(無論、LGBT権利の推進にも拍車がかかればと思う。) 2014年(英)、2015年(日)公開【監督】モルテン・ティルドウム【出演】ベネディクト・カンバーバッチ、キーラ・ナイトレイ
2017.12.25
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吉報が届きました\(^o^)/カズオイシグロ氏がノーベル文学賞を受賞されました。おめでとうございます!吟遊映人では2013年に「日の名残り」の記事にしています(^_-)-☆氏の受賞に敬意を表し、改めてご案内致します♪ご一読くださいね。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2017.10.06
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【アメリカン・ドリーマー】「あなたが成功したのは努力と幸運と魅力のおかげと思ってるの?! とんだアメリカン・ドリームね! でも成功は幸運のおかげじゃないわ! 私が汚い仕事を引き受けていたからよ!」オリジナル・タイトルは『A Most Violent Year』なので邦題とはだいぶ趣きが異なる。フツーに訳せば「最も危険な年」となるわけだが、ちょっと自信がなかったので英文学科の教授のサイトをのぞいてみたら、「最上級だが冠詞が“the”ではなくて“a”なので、“とても危険な年”という意」と訳されていた。さすがだなぁ。というわけで、「とても危険な年」について解説しよう。『アメリカン・ドリーマー』の舞台となるのは1981年のニューヨークである。当時、私は小学校低学年なので、ニューヨークといえば最近の明るく華やかで都会的なイメージしか思い浮かばない。だが実際は人種のるつぼと皮肉られた街であり、良くも悪くも移民たちの影響を多大に受けたのだ。治安はサイアクだし警察組織も汚職にまみれ、二進も三進もいかないような状況だった。その証拠に作中に登場する列車の壁という壁すべてにイタズラ描きがされていて、とても落ち着いて乗られるような状態ではない。さらには路上で事件、事故が起こって負傷者がいても、誰一人として近寄ることはなく、素通りなのだ。だが仕方ない。それもこれも自衛のためだからである。そんな最悪な治安状況下における主人公アベル・モラレスを追う物語だ。 ストーリーは次のとおり。1981年ニューヨークが舞台。移民のアベル・モラレスは、ギャングだった妻の父から譲り受けた小規模な石油会社を大きくしようと切磋琢磨していた。事業拡大のために必要な土地を全財産投げ打って購入しようと試みるものの、なかなか一筋縄ではいかない。同業者の反感を買い、次々と石油タンクローリーが何者かに強奪されたり、アベルの育てた新人営業マンが暴行を受けるなどの大惨事に見舞われた。だがアベルは企業理念として掲げているクリーンなビジネスをモットーに、自衛のための銃を持つことを良しとせず、マフィアとも黒い関係を持たないよう正当な銀行から融資を受けるべく必死に努力する。そこまで徹底した経営努力にもかかわらず、なぜか警察がアベルの会社に脱税の嫌疑をかけ、家宅捜査を行うのだった。 オリジナル・タイトルの「とても危険な年」の意味合いが終盤になってハッキリする。主人公アベルは、一見クリーンで高潔な経営者である。夜道、車を走らせていると鹿をはねてしまう場面がある。助手席に乗る妻アナは、まだ息のある鹿がかわいそうだから息の根を止めて欲しいと言う。アベルは車を降りて、渋々鹿に近づくが殺すことができない。それを見かねたアナは、さすがギャングの娘だけあり、躊躇なく銃で撃ち殺す。このときはまだアベルの人間としての弱さや優しさが見え隠れしていて、反ってアナの非情なまでの仕打ちが恐怖にさえ感じられる。ここからはネタバレになるけれど、クリーンにやって来たはずのアベルが銀行に融資を断られどうしようもなくなったとき、アナは夫婦の名義で作った預金口座があると言う。だがそれはアナが秘かに帳簿をごまかして脱税したお金だったのだ。それを知ってアベルは怒鳴り散らしてアナの不正行為を詰るが、結局、その脱税したお金を使って念願の土地の所有権を我が物にするのである。ラストはもっと残酷だ。アベルの会社で雇っていた移民の青年が自殺に及んだとき、たまたま銃弾がオイルタンクに当たってしまいタンクから石油が流れ落ちる。今までのアベルなら何を置いても自殺した青年に駆け寄って声をかけるはずだが、今や彼は変った。タンクから漏れる石油がもったいないので、まずはハンカチを丸めてそれを塞ぐのだ。このアベルの変わりようは見事なもので、「お金が第一である」と、セリフにはないのにその態度や表情から伝わって来るのだから不思議だ。結局、キレイゴト言ったってお金がなければどうしようもないのだと現実を突き付けられているようで、心がヒリヒリするようなくだりとなっている。 わずかなシーンだが『ナイト・クローラー』にも負けない、演出を抑えたカーチェイスもとても良かった。全体的に抑制の効いた演出で、派手なアクションがないだけに地味だが、すばらしい作品だった。 2015年公開【監督】J.C.チャンダー【出演】オスカー・アイザック、ジェシカ・チェステイン
2017.07.31
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【学校】「授業っていうのはクラス全員が汗かいて、みんなで一生懸命になって作るものなんだ。それがよくわかった。・・・いい授業だった。どうもありがとう。それじゃ授業終わります」同僚が息子さん(小学2年生)の不登校で悩んでいる。ゴールデンウィーク明けからずっと学校に行けてないとのこと。どうやら担任の先生が原因らしい。50代ベテランの女性教員だとういうが、かなりクセ(?)のある人物だと言う。何があったのかはプライバシーにかかわることなので割愛するが、しょせん先生と言えども人間であるということだ。つまり、相性の合う合わないは、人が2人以上存在すれば必ず発生する問題なので、もうこればっかりはどうすることもできない。50数年間その性格でやって来た人に対し、今さら性格を変えろと言ってみたところでおそらくムリな話だし、ならば子どもに我慢しろ、と叱って諭してみたら不登校になってしまったという図式である。柔軟性のあるはずの子どもでも、理不尽なことには納得できなくて当然だ。まだ子どもだから大それたこともできず、本人なりのせめてもの反抗が不登校という形で現れているのかもしれない。しかし、親としてはたいへんな心労であるし、苦悩である。 私はTSUTAYAで『学校』をレンタルしてみた。もう20年以上も前の作品なので、何度も繰り返し見ているが、何度見ても飽きない名作である。原作は『青春 夜間中学界隈』で、実際に夜間中学の教員として30年以上も携わって来た松崎運之助のノンフィクション作品なのだ。山田洋次監督もほぼ原作に沿ったシナリオを手掛けているらしい。(ウィキペディア参照) ストーリーはこうだ。都内某所に、様々な理由から義務教育を受けられなかった人のために、公立の夜間中学が開校されている。その夜間中学に、もう何年も勤務している黒井が、ある日、校長室に呼び出しを受けた。校長は黒井に、全日制公立中学への異動の話を持ち掛けたが、黒井はそれを断る。黒井はずっと夜間中学で教鞭を執っていきたいと答えた。黒井の受け持つクラスでは、卒業に向けて作文を書いていた。その間、黒井は生徒一人一人との出会いを思い巡らし、感傷に耽るのだった。ホームレス一歩手前の不良少女みどり。日中の労働で授業中は居眠りしたり生意気な口をきくが、根はやさしいカズ。中国人の父親と日本人の母親を持つ中国人の張。焼肉屋を経営する在日韓国人のオモニ。中一で不登校になり、普通の中学校には通えなくなってしまったえり子。脳性マヒで言葉の不自由な修。山形出身で苦労人のイノさん。黒井はそんな生徒たちの抱える背景を考えると、卒業させてあげられることの幸せを実感せずにはいられなかった。 山田洋次監督作品をいくつも見て来たけれど、そのどれも人間の悲哀がクローズアップされている。『男はつらいよ』シリーズも、コメディとして楽しまれているが、基本は人間の悲哀である。人間の持つ悲哀の裏側にこそ滑稽さがあり、十人十色の生き様が刻まれているのだ。『学校』においては、夜間中学に通う生徒の持つ苦悩や生い立ちから、一体幸福って何なんだろうと考えさせられることがテーマとなっている。一言で幸福についての定義を語ることはできないし、この作品においてもそれをムリに考えさせようとしているわけではない。ただ、基本的なところで学問を学べる幸せというものが、そこはかとなく伝わってくるのだ。私たちは義務教育だから仕方なく勉強してきたような心持ちだが、実際にはその教育を受けられることがどれほどありがたいことかを忘れてしまっている。『学校』を見ると、本当に日常のささいなことが幸せなのだと、改めて思い知らされる。 これは、何らかの理由で学校へ行きたくないと思っている子どもたちに推薦したくなるような作品だ。とはいえ、実際には私のようにすでに義務教育を終えた子を持つ親が、半分はリラックスした気持ちで、魂を休めるために見ているのかもしれない。 1993年公開【監督】山田洋次【出演】西田敏行、竹下景子、田中邦衛
2017.05.28
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【あん】「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちは・・・私たちには生きる意味があるのよ」花粉症に悩まされる季節になってようやく今年初めてとなる記事を書いた。私事ではあるが、昨年の10月から職場が変わり、日常の生活リズムが変わった。だからというわけでもないけれど、それなりに新しい顔ぶれに気を使い、新しい仕事を覚え、新しい居場所に必死にしがみついているような状況だ。帰るなり夕飯の仕度という気にもならず、こたつで丸くなってピーナッツをつまみながらインスタントコーヒーを飲む。そしてしばらくぼんやりする。やっと気持ちを自宅モードに切り替えると、ようやく台所に立つのだ。今月で今の職場に採用されてやっと半年となる。少しずつ、ほんの少しずつだが自分の時間をうまく作り出そうという気になって来た。手始めにTSUTAYAに行こうと思った。見たい作品はいくらでもあるが、今の私のメンタルにそっと寄り添うような作品となると、かなり絞り込まれる。今回は邦画にしてみようと思った。私が手に取ったのは、『あん』である。甘党の私にはふさわしいタイトルだと思った。 ストーリーはこうだ。桜並木に面した一角に、小さなどら焼き屋がある。雇われ店長の千太郎はワケありの過去を持つ身で、寂しくつまらなさそうな顔つきで、毎日どら焼きを作っていた。満開の桜には不釣り合いなほど陰気で、暗く、ちっぽけな店だった。そんな店に、徳江という風変わりな年寄りが現れる。時給は200円でいいから働かせて欲しいと言う。店先に貼られたバイト募集の貼り紙を見たらしかった。だが千太郎は、70代半ばだという徳江を軽くあしらい、どら焼き1個を持たせて帰らせてしまう。後日、再び現れる徳江は、千太郎に餡がそれほど美味しくなかったと言って、持参した手作りの餡を千太郎に食べるよう勧める。千太郎は、徳江からもらった餡をなめてみて驚く。それは、これまで食べて来た餡とは比べものにならないほどの美味しさだったからである。千太郎は徳江を雇うことにし、餡作りを任せることにした。すると、どら焼きの餡が美味しくなったと評判を呼び、開店前から客が行列をつくるほどになったのである。だがそれも長くは続かない。店のオーナー夫人が徳江のうわさを聞きつけ、千太郎に徳江を辞めさせるよう言いに来たのである。なんと徳江は、元ハンセン氏病患者で、今も隔離施設に入居しているのだという。 今も昔も差別というものは根強くあって、それをいけないことだとは知りながらも、人は目を背けて生きている。この作品は決して差別を激しく糾弾するものとは違う。45年も前に公開された松本清張の『砂の器』も、たしかハンセン氏病を扱った作品だったが、あれは完全に差別への批判だった。科学的根拠のない言われに対するいたずらな恐怖心や差別意識を徹底的に批判するものだった。その点、『あん』は生きる喜びに目を向けた内容となっている。桜を愛でる喜び、どら焼き作りに精を出す喜び。生きることはそれだけで素晴らしいのだと表現する。 どら焼き屋の店長に扮するのは永瀬正敏である。孤独で不器用に生きる千太郎をそつなく演じている。元ハンセン氏病患者で徳江に扮するのは樹木希林。浮き世離れした雰囲気と、人懐こさを見事に演じ切っていた。さすがさすがの演技にだれも文句はつけられまい。貧困家庭に育つ女子中学生ワカナ役には、樹木希林の孫である内田伽羅が扮している。撮影現場では身内でありながら、あえてお互いに距離を取って臨んだらしい。(ウィキペディア参照) 『あん』には、視聴者を泣かせようとして演出されたシーンはないのに、私は号泣した。私はこの俗世間に生きる喜びを見出したいと思った。あまりにも多くを望み過ぎていて、ささいなことに幸せを感じる瞬間を忘れていた自分に気付かされる。静謐で上品な日本映画に、心から拍手を送りたい。 2015年公開【監督】河瀬直美【出演】樹木希林、永瀬正敏、内田伽羅
2017.03.05
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【セッション】「あなた、ショーン・ケイシーを知ってるかしら? 亡くなったの。先月、部屋で首を吊って」「そのことと僕と、何の関係が?」「彼は鬱病を患ってたの。フレッチャー先生の生徒になってからよ。彼の遺族は経済的に厳しいから裁判にはしないと言ってるわ」「・・・じゃあ、何を望んでいるんだい?」「二度と同じような生徒を出さないことよ」新年最初の映画はこれ、『セッション』である。昨年のうちに視聴する機会はいくらでもあったのに、いろいろとあって今に至る。お正月、家族で見る映画としてはどうだろう?たまたま私は一人で見た。居間のこたつに足を伸ばし、ミカンをパクつきながら。アカデミー賞で5部門にノミネートされ、3部門で受賞したということなので、それはもう大絶賛の作品であることはよく分かる。(ウィキペディア参照)とはいえ、軽いノリと初笑いの感覚で楽しもうと思ったら、この作品はエントリーミスである。青春映画というカテゴリにはムリしても入らず、ヒューマンドラマと言うならあまりに壮絶で激痛が走る。才能とは努力の積み重ねの上に成り立つものなのだという単純なテーマなら何も問題はない。もっとパラノイア的な狂信性を伴うものだから厄介なのだ。 『セッション』は、19歳の音楽学校の学生であるニーマンが、偉大なドラマーになるのを夢見て、日々血の滲むような練習に励むストーリーである。 あらすじはこうだ。19歳のアンドリュー・ニーマンは、名門シェイファー音楽院に入学し、偉大なドラマーになりたいと練習に励んだ。ある日、ニーマンが一人でドラムを叩いていると、伝説の鬼コーチであるフレッチャー教授が現われた。少しだけ期待を持ったニーマンだったが、フレッチャーはニーマンのドラムを数秒聴いただけですぐにその場を去ってしまう。その後、ニーマンの所属する初等クラスにフレッチャーが突然顔を出すと、メンバーの音をチェックするかと思いきや、ニーマンだけを引き抜き、フレッチャーのバンドに移籍するのを命じた。再びニーマンは期待感と優越感を抱きつつ、フレッチャーのバンドに参加するものの、そこは緊張と恐怖に支配された過酷な現場だった。さっそくスティックを握ることになったニーマンは、テンポが違うとフレッチャーにさんざん罵られたあげく、ビンタされ、椅子を投げつけられ、矯正された。ニーマンは悔しさから必死で練習を重ねた。手の肉が裂け、血が噴き出し、何枚もの絆創膏を貼り直しながら、ドラムを叩き続けた。やがて、ニーマンの努力が報われたかと思いきや、フレッチャーは有能な新人ドラマーをつれて来た。ニーマンに心休まるヒマなどなく、フレッチャーによってギリギリまで追い詰められていくのだった。 『セッション』を見ている間じゅう、肩に力が入り、手が汗だくになる思いがした。それだけ視聴者を夢中にさせる作品だという証拠だ。主人公は、鬼コーチによって有頂天にもどん底にも突き落とされる。個人的には、この鬼コーチの行為は虐待とかパワハラとかSMとも受け取れる。血の滲むような練習が必ず花を咲かせるのだというメッセージが込められているのなら、100倍救われた。だがこの作品は違う。才能が芸術として開花するのは、周囲を蹴落とし、自分だけの世界観を確立し、狂信的深みにどっぷりと浸かることなのだと。将来のことなど考えてはいけない。親兄弟はもちろん、他人のことなどこれっぽっちも考えるな。自分・自分・自分!なりふりかまわず、開き直れ!ラストのドラム・ソロからは、仏教でいうニルヴァーナを見たような気がした。 年頭に視聴するには多少ハードな作品だが、何かにギリギリまで打ち込みたいと思っている方ならば、骨の髄まで励まされること間違いなしだ。 本年も吟遊映人をよろしくお願い申し上げます。 2014年(米)、2015年(日)公開 【監督】デミアン・チャゼル 【出演】マイルズ・テラー、J・K・シモンズ
2016.01.02
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【大統領の執事の涙】「父さん、何しに来たの?」「デモに参加しようと思って」「仕事を失くすよ」「お前を失ってしまったからな、、、すまなかった、、、許してくれ」欧米製作の作品を見ていつも思うのは、キリスト教圏における神とその御子(イエス・キリスト)の関係を、作中の父と息子に投影させたものが多いということだ。『スター・ウォーズ』はその最右翼だし、今回視聴した『大統領の執事の涙』も、おおむね父と息子のドラマである。もちろん内容としては、ホワイトハウスで7人もの大統領に仕えた黒人執事の物語ではあるが、根底には正義に目を向ける真っ直ぐな息子に、やがて父が近付いていくというドラマである。父は家族を守るため、今ある現状を受け入れ、危険からはなるべく遠いところにあるよう心掛けている。妥協から得られるあきらめと忍耐力で、父は家族の楯となっている。一方、息子は白人の顔色をうかがいながら働く父に反発を覚え、大学にも通わなくなり、公民権運動に参加するまでになる。(さすがに過激派のブラック・パンサーでは、自分の目指すものと違っていたため脱会する。)対立する考えに、お互いが相容れない状態となって何年も経過していく。 ストーリーはこうだ。日常的に黒人差別が行われていた時代のアメリカ南部。セシルは農園で両親とともに奴隷として働いていたが、ある事件がきっかけで父は殺され、母は正気を失ってしまった。その後、セシルは農園を去り、生きるためにホテルのボーイとして働くようになる。そんな折、セシルのそつのない接客が気に入られ、ホワイトハウスの執事として抜擢される。それ以来、約30年に渡って7人の大統領に仕えた。一方、2人の息子にも恵まれたが、長男は反政府運動に身を投じ、二男はベトナム戦争へと出征するのだった。 この作品は、実在の黒人執事・ユージン・アレンがモデルとなっていて、彼の波瀾万丈の人生がつづられている。主人公のセシル役に扮したフォレスト・ウィテカーは、やっぱりスゴかった。「世の中をよくするため、白人に仕えている」というタテマエの基に現状を維持していくのだが、内心は複雑なものを抱えていて、それがまた見事に演技として反映されている。チョイ役だが、大統領役としてロビン・ウィリアムスやらジョン・キューザック、それにアラン・リックマンなどが出演していた。実物の大統領と似ているか否かは別として、ニクソン役のジョン・キューザックなんか、なかなかの演出だった。 公民権運動の歴史を知る上で、学生さんが見るのには最適なのではなかろうか。ただし、やや長時間の作品なので、ゆっくりと腰を据えて視聴できる時間にでもご覧下さい。 2013年(米)、2014年(日)公開【監督】リー・ダニエルズ【出演】フォレスト・ウィテカー、オプラ・ウィンフリー
2015.05.10
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【ウルフ・オブ・ウォールストリート】「株屋の第一のルールだが教えといてやろう。たとえ投資家のバフェットでも、株が上がるか下がるかグルグル回るか分からない。もちろん我々にもだ。つまり、“バッタもん”だ。分かるか?」「“バッタ”、、、まがい物」「そう、まがい物だ。幻だ。存在しないんだ。物質じゃない、元素表にも載らない。まったくの幻だ」原作はジョーダン・ベルフォートの回想録で、『ウォール街狂乱日記ー「狼」と呼ばれた私のヤバすぎる人生』である。メガホンを取ったのはマーティン・スコセッシ監督。この監督にバイオレンスを表現させたら、もう目を背けたくなるような徹底したリアリティーにこだわる演出だ。今回は、ウォール街が舞台なので、どんなものかと恐る恐る蓋を開けてみたら、、、やっぱり徹底したバイオレンス!それは本物の暴力ではなく、薬物とか、男女のだらしない交遊とか、金銭に対する執着など、ものすごい暴力的に描かれている。 レオナルド・ディカプリオ扮するジョーダン・ベルフォートというのが、ある意味天才的な話術を駆使したトレーダーなのだ。もちろん、映画で描かれているのはお金に対するやたらな執着心だが、同時にある種の宗教性すら垣間見えて来る。顧客に大金を投資させて、株屋がその手数料を頂く----。この図式に本来は何の問題もないはずだ。だが、冷静に作品を鑑賞していれば、視聴者は、この金儲け至上主義のからくりに段々嫌気がさしてくる。 お金をタンスの肥やしにしておくのはバカだ、運用してこそ価値があるのだから、どんどん投資して儲けよう。こうして顧客を煽って投資させる。お金を儲けることが至福の悦びであり、幸福であるかのような錯覚を抱かせる。投資=(イコール)布施みたいなものだ。つまり、金こそが崇拝の対象なのだ! ストーリーはこうだ。ウォール街の投資会社に勤務することになったジョーダン・ベルフォートは、わずかな期間で頭角を現す。投資にはリスクもつきものだったが、少しぐらいの損など痛手にはならない富裕層を相手に、次から次へと上手い投資の話を持ちかけた。その後、ジョーダンは独立し、証券会社を設立した。巧みな話術で社員らを鼓舞し、金儲けがいかに素晴らしいことかを洗脳していった。顧客に投資させることは、会社が成長し、社員一人一人が裕福に暮らせることを意味し、お互いのメリットであることを刷り込んでいった。どんどん金持ちに投資させ、絞り取れるだけ絞り取ってやろうと煽った。それは決して悪いことなどではない、人生を有意義にし、退屈で平凡な日々とおさらばするためなのだと、悪びれることもなく口にした。ジョーダンは、日々を“ハイ”に暮らすため半ば薬物依存状態となった。美人でセクシーな女性たちを周囲にはべらせ、これでもかというほど肉欲に溺れる日々だった。 ディカプリオの演技は本物だ。そのぶん、見ている側は感情移入してしまい、ディカプリオが憎らしくなって来る。この金の亡者に何とかして煮え湯を飲ませてやりたい、、、そんな気になる。 金儲けそのものにケチをつけたくはない。なぜなら、生活のためにお金を稼ぐのは必要不可欠のことだからだ。じゃあ何が気に入らないのか?きっと、お金は金持ちだけが儲かるしくみになっていて、それを動物的嗅覚で嗅ぎ分ける賢い連中の懐だけがザクザク音を立てていることに、嫉妬しているのかもしれない。とはいえ、すべての金儲けに言えることは、話術のセンスがあるかなしかだ。これをマスターすれば、たいていの営業は成功し、客からの信用も得られるはずだ。さらに、金儲けを罪悪とみなしてはダメだ。これは救済である。幸せになるための「布施」なのだと、信じ込むことである。それに尽きる。以上。 2013年(米)、2014年(日)公開【監督】マーティン・スコセッシ【出演】レオナルド・ディカプリオ、ジョナ・ヒル、マシュー・マコノヒー
2015.05.02
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【最強のふたり】「法務省に務める知人と話したんだが、、、凶悪犯とは言わないけれど、ドリスには前科がある。宝石強盗で半年服役していたよ。有能ならまだしも、仕事も雑だというじゃないか。注意してくれよ。ああいう輩は容赦ないんだ」「そこがいいんだよ。容赦ないところがね。私の今の状態を忘れて、フツーに電話を差し出すのさ。彼は私に同情していないんだよ。彼の素性や過去など、今の私にはどうでもいいことさ」現在、福祉に携わる仕事をしている人、あるいは今後そういう仕事に就くことを考えている人は必見だ。もちろん、見方によってはキレイゴトを描いているようにも感じられるかもしれない。だが、介護する側、される側の様々な問題に、一石を投じた作品に仕上げられている。フランス映画なのだが、本国はもちろん、日本においても大ヒット作となったらしい。(ウィキペディア参照)この手のヒューマンドラマは、どうかすると暗くて重いテーマになりがちである。そこはフランス映画、さすがだと思うのは、身障者とか貧しい移民の黒人青年を取り上げているのに、とてもユーモラスでそれでいて核心に迫る内容となっているからだ。 ストーリーはこうだ。パリ在住の大富豪フィリップは、脊髄損傷で車イス生活を送っていた。フィリップに付き添う介護士を雇用するため、面接を行ったところ、スラム出身の黒人青年ドリスに興味を持ち、採用した。フィリップは同情と憐れみのお仕着せの介護にうんざりしていた。ところがドリスは、陽気で明るく、しかもフィリップに対してホンネで付き合うのだった。とはいえ、出自の全く異なる二人は何もかもが対極にあった。クラシックやオペラを好むフィリップに対し、ソウルやダンスミュージックが好きなドリス。詩的な話題を好むフィリップに対し、明け透けな話が好きなドリス。いつも高級ブランドのスーツに身を包むフィリップに対し、ラフでカジュアルな服装のドリス。二人にとって、毎日が新鮮でアクティヴなものに変わっていった。そんなある日、就寝中にフィリップが発作を起こした。ドリスはフィリップを落ち着かせるために、眠いのを我慢し、街へつれ出し、何時間も付き合った。ドリスは介護士としてではなく、人間本来の優しさと思いやりがあったのだ。 いろんな見方があって当然だと思うが、私はこの作品をフランスが手掛けたということに意義があるような気がした。フランスの抱えている移民を始めとし、失業や差別という問題は、今や切実なものとなっている。「共存」とか「共生」という言葉が頻繁に使われるようになって久しいが、なかなかどうしてそうすんなりとはいくはずもない。原因がすべて貧困にあるとは言わないが、この作品を見ると、富む者の持つ教養や知性が貧しい青年に良い影響を与えているのがよく分かる。つまり、富む者と貧しい者とが歩み寄り、バランスを取ることが必要なのだ。それを単に「格差社会」と糾弾したところで何も生み出さないからだ。 ドリス役に扮したのはコメディアンのオマール・シー。ガハガハと屈託なく笑うシーンは、演技を超えた爽快ささえ感じさせてくれる。(オマール・シーはセザール賞で主演男優賞を受賞している。)おすすめの話題作だ。 2011年(仏)、2012年(日)公開【監督】エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ【出演】フランソワ・クリュゼ、オマール・シー
2015.02.28
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【草原の椅子】「みんな恐いんだよ。だけど圭輔、勇気を出せ。勇気を出して自分の足で歩くんだよ」「トーマは?」「俺は見てる。ここでお前をちゃんと見てる」この作品を見た時、「これってもしかして原作は浅田次郎かな?」と思った。実際は宮本輝なのだが、我ながらイイセンいってたのではなかろうか。久しぶりに邦画らしい邦画を見た気がした。やっぱり日本映画の目指すところは、こういうものでなければいけない。派手なアクションや次々と起こる殺人事件の謎解きは、ハリウッドにお任せしようではないか。メンタルの弱っている日本人には安心して鑑賞することのできる正統派の邦画をおすすめしたい。 主人公が至って平凡なサラリーマンという設定が取っつき易い。しかも妻と別れて大学生の娘と二人暮らしという、しがないビジネスマンの裏寂しさがひしひしと伝わって来る。マジメさが滲むのは、銀座のクラブやキャバクラで派手に飲むのではなく、ごく一般的な居酒屋でちびちびやっているシーンである。主人公の遠間に扮するのは佐藤浩市。この役者さんは年を経るごとに役の幅が広がっているような気がする。 ストーリーはこうだ。カメラメーカーに勤務する遠間は、仕事で疲れた体を癒すため、自宅で一杯やろうとしていた。ふいの電話に出てみると、取引先である“カメラのトガシ”社長であった。社長の富樫が「助けてほしい」と言う。愛人に別れ話を切り出したところ、逆上して灯油を全身にかけられてしまったとのこと。遠間は面倒なことに関わるのは避けたかったが、富樫の必死さに根負けし、車で迎えに出かけ、さらには自宅の風呂を貸してやるのだった。その後、富樫は関西人気質らしく、遠間の親切心が身に染みて「親友になってくれ!」と、頭を下げる。遠間はビジネス上の関係としか考えていなかったが、そういう泥臭い付き合いもいいかもしれないと、いつの間にか富樫と友情を深めていく。そんなある日、遠間の一人娘である弥生が、バイト先で知り合った上司の子どもを、しばらく預かることになった。子どもは男の子で4歳、名前を圭輔と言った。母親から度重なる虐待を受け、成長が遅れているのだった。遠間は子どもを預かることに反対したが、弥生の並々ならぬ気迫に圧倒され、渋々ながら協力することになった。 宮本輝のオリジナルの方を読んでいないため、この映画だけに関して感想を言わせてもらう。単純に捉えるのなら、身勝手な大人の無責任きわまりない育児放棄と虐待への批判である。無論、その一点だけではない。大人の友情、これが際立っている。何気ない親切心と、会話から生まれるほど良い親密さ。つかず離れずの節度ある交際というのは、だれもが目標とする友人との関係であろう。主人公・遠間と陶器店の女性店主・貴志子との関係は、ラストでちょっとムリが生じたようにも感じるが、それでも好感が持てる。大人になってからの恋愛は、このぐらいおっとりとしていて安定している方が、本物のように思えるからだ。 さらには、根っこのところで経済至上主義への痛烈な批判も感じられ、テーマは一つには絞れない。そんな中、パキスタン北西の地・フンザの、心が洗われるような風景は見ものである。“世界最後の桃源郷”と言われるだけあって、『草原の椅子』は、この風景のワンカットを見せるために作ったのではないかとさえ思うのだ。 2013年公開【監督】成島出【出演】佐藤浩市、西村雅彦、吉瀬美智子
2015.01.31
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【エデンの東】「『カインは立ってアベルを殺し、カインは去って、エデンの東ノドの地に住めり』・・・お前も去れ」「・・・そうだな。言うとおりだ。僕はよそへ行くべきなんだ」この作品は言わずと知れたジェームズ・ディーンの出世作でもあり、初主演の映画である。『エデンの東』におけるジェームズ・ディーンは、間違いなくスターとしての圧倒的な存在感をかもし出している。あの上目遣いの、物欲しげな視線と言ったらどうだ?! 愛情に飢え、それゆえに反抗的な態度を取り続ける若者の、歪んだ心理を臆面もなく表現しているではないか。青春の苦悩を、演技を超えた演技で、視聴者の心を鷲?みにするのだから、もう何も言えない。だが、その神がかりな演技にも理由があった。ジェームズ・ディーン自身に、不幸な生い立ちがあったことはご存知だろうか?なんと母親を9歳の時に病気で亡くしており、無償の愛を注いでくれたただ一人の存在を失ってしまったのだ。というのも、父親はジェームズ・ディーンの誕生を喜ばず、その存在をずっと黙殺して来たという経緯があった。だからジェームズ・ディーンは、母親の死とともに、自分の存在価値も見失っていたに違いないのだ。ウィキペディアなどによれば、苦学の末、カリフォルニア州立大学(UCLA)の演技科で学ぶものの、中退。収入がないことからバイトに精を出すが、そこで知り合いになるのが某人物。この人物は同性愛者と見られていて、ジェームズ・ディーンをことさら可愛がる。ジェームズ・ディーンにそういう趣味・嗜好があったかどうかは定かではないが、皮肉にも、この人物のおかげで住居をあてがわれ、CMや映画などの仕事を次々と紹介してもらうこととなるのだ。余談が長くなってしまったが、そういう複雑なプロセスを経て『エデンの東』に望んだジェームズ・ディーンなので、彼の演技に欠点など見つけられるはずがないではないか。ストーリーはこうだ。舞台は1917年のカリフォルニア州の小都市サリナス。広大な農場を経営するアダムは、双子の息子たちと暮らしていた。双子の兄・アーロンは、父親譲りの潔癖なまでの真面目な青年、弟・キャルの方はどこか斜に構えた、反抗的な性格だった。キャルは幼いころより、父親から愛されていないのではないかという悩みを持ち続けていた。というのも、父は兄のアーロンばかりを可愛がり、自分にばかり辛く当たることが多々あったからだ。そんな中、キャルはもっと自分のことを知りたいと思った。物心ついた時には母親は死んだと聞かされていたが、実はモンタリー郊外でいかがわしいバーのオーナーであることを知ってしまった。母は水商売の女だったのだ。こうしてキャルは、「自分が不良なのは母親譲りの血統なのだ」と信じ込むことになる。 一方、アダムはレタスを冷凍して東部へ輸送する計画に全力を尽くしていた。財産のほとんどを氷を買うことに投資し、その氷で冷やしたレタスを貨物列車に乗せ、東部へと輸送することにしたのだ。ところが東部の市場への輸送途中、トラブルに巻き込まれ、氷が全て溶けてしまい、レタスは売り物にできなくなってしまった。キャルは、財産のほとんどを失ってしまった父親をどうにかして助けてやりたいと、先物投資の目利きであるウィルと共同して豆に投資をすることにする。出資金は、自分を捨てて憎いはずの母親に頼み込み、用立てするのだった。ストーリーそのものは、青春期における若者の苦悩とか、親子の確執をテーマにしたものだが、ネタ元はやはり聖書である。「カインとアベル」の章を読めば、道徳的で倫理的にいろどられた内容をイヤでも納得することになるだろう。『エデンの東』を見てつくづく思ったのは、何事にもほどほどが良いということかもしれない。あれだけ真面目で平和主義者の兄・アーロンは、余りの潔癖さゆえに、実母が水商売女であることを受け入れられず、半狂乱に陥ってしまう。対する不良の弟・キャルは、愛情には飢えつつも、適度な要領の良さを発揮して、上手く人間関係に立ち回っている。結局、兄の恋人のアブラでさえ、キャルの烈しい性質を恐れながらも惹かれてゆくのだから。ジェームズ・ディーンの異彩を放っている『エデンの東』は、正に、若者たちにとっての青春の象徴なのだ。アメリカ映画史上、必見の逸作である。1955年公開【監督】エリア・カザン【出演】ジェームズ・ディーン、ジュリー・ハリス、レイモンド・マッセイ
2014.09.08
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【ツリー・オブ・ライフ】「“主は与え、主は奪う”それが神よ。神は私たちを苦しめ、嘆かせ・・・そして癒す」 (中略)「あいつに謝る機会がなかった。ある晩、あいつは理由もなく自分の顔を殴った。“楽譜のめくり方が悪い”と僕が叱ったからなんだ。みじめな思いをさせた。自分が情けないよ」この作品の感想を書くのに、一体どんな言葉で綴ったら良いのか迷っている。いかなる賛辞の言葉も、お決まりの美辞麗句になってしまいそうで、私の語彙の少なさと表現力の貧しさを呪う。何がすばらしいかと言えば、創世記のプロセスがヒトの一生と見事にリンクしていて、生命の尊さや自我の目覚め、身近な人の死に直面し、その繰り返しによって我々が命を紡いでいくことを表現していることだ。神とは、唯一絶対的な存在であるがゆえ、我々は逆らえない。たとえどんな横暴で理不尽な行為を突きつけられたとしても、神の前には無力なのだ。 永遠から永遠に渡って存在し続ける神にとって、ヒトは点の集まりに過ぎず、宇宙空間を無数に浮遊する星くずにも等しい。子ども時代のジャックが、横暴な父親に押し付けの愛情を注がれ、毎日塞いだ気持ちを引き摺っていたり、無償の優しさを与える母には反抗的な態度を取ってみたり、窓ガラスを割り、女性用の下着を盗んだりと、生きていく上で必要な抑圧と解放を体験していく。こういう子ども時代のドラマは、きっと誰もが記憶の片隅に押し込めていて普段は忘れている体験だ。だから、作品からかもし出される切なくなるような青い風景や、降り注ぐ太陽の陽射し、芝生を潤す水まきの光景は、鮮やかな記憶となってよみがえる。映像からそよ風の香りさえ伝わって来るのだから不思議だ。1950年代半ば、テキサス州の田舎町が舞台。オブライエン夫妻と3人の息子たちが暮らしていた。父親は厳格で、金こそが全てだと考えていた。自分はしがないサラリーマンだが、3人の息子たちには実業家として社会的成功と富を手に入れてもらいたいと願っていた。だがある日、オブライエンは長年務めた会社を辞めなくてはならない状況に陥る。長男のジャックは、アメリカン・ドリームを果たせなかった父親の大いなる喪失と挫折を、目の当たりにするのだった。言うまでもなく、ミスター・オブライエン役のブラピの演技は冴え渡っていた。信じて疑わない仕事第一主義の男が、人生の挫折に打ちのめされるシーンなどすばらしかった。また、少年ジャック役のハンター・マクラケンも、多感な思春期をリアルに表現。お見事。物語は、大人になったジャックが少年時代を回想しつつ、孤独感と喪失感に苛まれているシーンが繰り返される。ラストでは、憎しみさえ抱いていた父親への感情も、やがて変化を遂げ、“慈悲”の境地に至る。そして、時間という止まることのない流れが、解決への糸口であることに気付き始める。 この作品を単なる家族の絆の物語だなどと言うつもりはない。だが、ヒトという無数の点がやがて一本の線となり、壮大な絆を紡いでいく叙事詩なのではと思った。『ツリー・オブ・ライフ』は、2011年にカンヌ国際映画祭においてパルム・ドール賞を受賞している。映画が芸術の域に達したことへの証でもある。当然の結果だろう。ブラボー!!『愛することだけが幸せへの道よ。愛がなければ、人生は瞬く間に過ぎる。』2011年公開【監督】テレンス・マリック【出演】ブラッド・ピット、ショーン・ペン
2014.09.04
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【クレイジー・ハート】「君がいるとこの部屋が汚く見える。こんな汚い部屋だと思わなかった。・・・顔を赤らめる女なんて今は少ない」「私の皮膚は薄くて血管が透けるの」「生まれはどこだ?」「オクラホマよ」本作の主人公は、過去に頂点を極めたカントリー・シンガーという設定である。“カントリー”というジャンルは、日本人にはちょっと馴染みの薄い、というか感覚として捉えにくい領域かもしれない。吟遊映人が想像するに、あえて日本に置き換えてみたところ、おそらく“フォークソング”辺りが妥当な位置付けではなかろうか。いずれにしてもアメリカにおける“カントリー”という音楽カテゴリは、コアなファンから今も絶大な支持を受けているジャンルなのだ。そんなカントリーシンガー(57歳)が、かつての人気を失い、年を経て酒なしでは生きていられないほどのどん底生活を味わう心境をドラマにしている。カントリーシンガーのバッド・ブレイクは、かつての人気も下火となり、地方で細々とライブ巡業して暮らしていた。ある時、バッドはサンタフェの場末のバーでライブをすることになった。バックバンドのキーボード奏者の姪が、タウン誌の記者とのことで、バッドにインタビューをさせてもらえないかと頼まれる。バッドは気安く引き受けたところ、記者であるジーンの女性的な魅力に惹かれ、一夜を共にするのだった。アメリカに限らず日本でもそうだが、とかく芸能界で生きていくアーティストには、酒と女とドラッグが必要不可欠みたいな神話がまかり通っている。本作の主人公バッドも、過去に4回の結婚と離婚を繰り返し、元妻の下で暮らす一人息子の養育さえ放棄し、酒に溺れ、ドサ回り先の土地で女を買い、その日暮らしを余儀なくされていた。自分が手塩にかけてカントリーを伝授した弟子のトミーは、今や大成功を収め、恩師であるはずのバッドの方がトミーの前座を務めなければならないほどだった。せっかく掴みかけたシングル・マザーのジーンとの生活も、バッドのアル中が災いし、上手くは行かず、彼は何を置いても変わらなければならない状況に置かれた。不思議なもので、人間というのはどんな過酷な環境にあっても、本人がその気にさえなれば変わることができるのだと本作は教えてくれる。華やかな芸能界で頂点を極めたとしても、それは永遠には続かない。過去の栄光にすがり付いて生きていくことは、余りにも虚しい。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり、それが人生、これが人生なのだと教えてくれる作品であった。2009年(米)、2010年(日)公開【監督】スコット・クーパー【出演】ジェフ・ブリッジス、マギー・ジレンホール
2014.08.28
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【舟を編む】「馬締君、君は大学院で言語学を専攻していたらしいね」「はい」「それなら、“右”という言葉を説明できるかい?」「えっと、、、西、を向いた時、北にあたる方、、、が右。あ、他にも保守的思想を右という、、、」『舟を編む』は、ウィキペディアによると「女性ファッション雑誌CLASSY.に連載され、2011年9月16日に単行本」化された作品とのこと。著者は三浦しをんで、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのある売れっ子作家である。この『舟を編む』では本屋大賞を受賞し、ベストセラーとなり、さらには2013年に映画化もされ、米アカデミー賞の日本代表として出品された。(この年の話題作に、『そして父になる』もあったが、結果として『舟を編む』が選出された。)そんな『舟を編む』は、内容が内容だけにとても地味な作品であることは否めない。小説を読んでいないため、原作にある深い味わいというものがどれほど映像から伝わって来るのか比較もできないが、少なくともほのぼの感は十分に味わえる。ただし、主役である松田龍平がインタビューに答えたように、「はじめに台本を読んだときは、ちょっと漫画的」だと思ったようで、私も映画を見た時、全く同じ感想を抱いてしまった。1995年の辞書編集部というものの状況がこうだったとして、そこに在籍する社員のキャラクター像が、絵に描いたようなマンガチックな面々で、見る側としては若干の戸惑いは隠せない。とはいえ、そこは役者魂を見せてもらいました!一人一人が気を使った演技で、極端に不自然なリアクションや無駄なセリフを省いた努力が見られ、静謐な日本映画の典型とも言える作品に仕上げられていた。 ストーリーは次のとおり。1995年、玄武書房の辞書編集部では、ベテランの荒木が定年退職を間近に控えていた。地味で単調な作業の繰り返しである辞書編集部に、すぐにも荒木の後継者を迎えなくてはならない状況となった。白羽の矢があたったのは、営業部に在籍する馬締光也で、名前のとおりマジメだけが取り柄のパッとしない人物だった。しかし、大学では言語学を専攻しており、荒木が「右について説明できるか」と質問したところ、その問いに答えられるだけのセンスを持ち合わせていた。こうして馬締は辞書編集部に異動となった。そこでは、新しく刊行する辞書である“大渡海”の編纂メンバーの一員として、辞書の奥深い言葉の世界に、日夜没頭していくのだった。 主人公・馬締光也に扮するのは松田龍平だが、さすがに人物像をよくよく研究し、表情一つ、セリフの一言にしても、丁寧に演じていた。また、この作品中、唯一のムード・メーカーである西岡役のオダギリジョーもとても良かった。チャラ系で明るく社交的、馬締とは対照的なキャラクターでありながら、この人物の役割は非常に効果的だと思った。さらには、国語学者であり“大渡海”の監修を務める松本先生役の加藤剛。もう何とも言えないベテランの演技を見せてもらった。俗語や流行語なども取り入れて、他の辞書にはない新しく進歩的な中型国語辞典を作るのだ、という意気込みが視聴者の胸にビンビン響いて来るような言い回しだった。お見事。 これだけ電子化が進む世の中で、あえて紙の辞書を作るという、いわばアナログな世界観がどれだけの人たちに感銘を与えるものなのか分からない。だが、古き良き昭和への感傷的な意味も含めて、たまにはこういうほのぼのとした映画も鑑賞してみたいものだ。~ご参考 「右」~三省堂 新明解国語辞典2013年公開【監督】石井裕也【出演】松田龍平、宮崎あおい
2014.06.30
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【ヒッチコック】「規定違反だよ。女性の体にナイフが刺さるなんて、、、」「ご心配なく。私の映画に出る殺人鬼は、思慮分別があるので」私の最も尊敬する、サスペンスの巨匠ヒッチコック監督の自伝的な作品という予告を見て、少なからず期待に胸を膨らませていた。ヒッチコック作品は、ずいぶん初期の頃のものも見ているし、自叙伝や作品解説などをせっせと買い集めては読んでいた。とにかく大好きなのだ。 今回の映画『ヒッチコック』は、あの名作『サイコ』の製作における舞台裏を描いたものだというので、それこそドキドキワクワクと、TSUTAYAの店頭に並ぶのを待っていたしだいである。(封切られた時、近所のシネコンでは上映されなかったので、あきらめた。)そういう並々ならぬ思い入れを持ってこの作品を見たことが、果たして良かったのか悪かったのか、、、結論から言ってしまうと、見終わった後、がく然としたのは事実である。しかし、私自身も重要なポイントを忘れていたので、今はもう、一つの作品として受け入れることができる。なので、これからこの『ヒッチコック』を視聴される多くのヒッチファンのために、いらぬお節介だがご忠告申し上げたい。 この映画の主役はヒッチコックだが、『ヒッチコック』という作品のメガホンを取ったのはヒッチコックではなく、別人であるということ。さらには、『ヒッチコック』の原作となった同名著書の翻訳を読んでおられる方は、この映画を別モノと見なした方が良いのでは?ということだ。 とりあえず、あらすじを紹介しておこう。1959年、ヒッチコックは『サイコ』のモデルとなった、大量殺人者エド・ゲインの事件を描いた本を、夢中で読んでいた。次回作はこれで行こうと決意したヒッチコックだったが、資金繰りに難航。配給会社であるパラマウント社が、猟奇的で奇抜な『サイコ』には出資できないとのこと。だがヒッチコックはどうしても『サイコ』を撮りたいと思い、自宅を手放すことで資金を調達し、撮影に挑む。そんな中、妻・アルマは、ずっとヒッチコックを支え続けて来たのだが、ヒッチコックの独断と異常なまでの嫉妬深さに辟易し、魔が差してしまう。ヒッチコックは、自分の最大の理解者であると信じていた妻の心変わりにショックを受け、体調を崩してしまうのだった。 ヒッチコックに扮したアンソニー・ホプキンスは、特殊メイクで限りなくヒッチコックの体型を再現していたし、雰囲気も抜群。この人の演技に申し分はない。一方、妻・アルマに扮したヘレン・ミレン、こちらはどうだろう?オスカー女優のヘレン・ミレンの演技には何の問題もないが、イメージがちょっと、、、いや、かなり違う。私がヒッチの自叙伝に登場するアルマをイメージするに、例えばキャシー・ベイツなどが頭に浮かぶのだ。代表作に『ミザリー』などがある女優さんなのだが、ものすごく庶民的な外見とは対照的に、個性的で圧倒的な存在感を誇る人物だ。(つまり、ヘレン・ミレンは上品すぎるというわけだ。) とはいえ、キャスティングのことはまだ我慢できる。作品のピーク、つまり盛り上がりであるはずの、映倫の検閲と闘う場面が、あまりにもあっさり過ぎるではないか!『サイコ』の影には、この映倫の問題を解決することで成立したという経緯があり、その部分こそが山場でなければならないのに、あまりにも稀薄すぎる。まったく悔しくて仕方がない。 さらには、演出上のこととはいえ、ヒッチコックが妄想の中で大量殺人犯であるエド・ゲインと会話する意味がよく理解できなかった。このストーリー展開に、なぜエド・ゲインの幻が登場するのだろうか? 私は、天国の淀川長治に、この作品のご意見・ご感想を伺いたい。かつてヒッチコックと親交のあった淀川長治ならば、どのような論評を下したことだろう?私は、ヒッチコックがなぜ「サスペンスの巨匠」と言われるかを、この作品にもっともっと盛り込むべきだったと思う。映画に対する情熱と先駆的な挑戦。これにしぼったテーマなら、熟年夫婦の危機的な三流メロドラマに陥ることは、なかったと思われるからだ。 2012年(米)、2013年(日)公開【監督】サーシャ・ガヴァシ【出演】アンソニー・ホプキンス、ヘレン・ミレン~吟遊映人『映画/ヒッチコック作品』~ヒッチコックの『サイコ』 コチラヒッチコックの『白い恐怖』 コチラヒッチコックの『レベッカ』 コチラヒッチコックの『裏窓』 コチラヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ』 コチラヒッチコックの『北北西に進路を取れ』コチラヒッチコックの『バルカン超特急』 コチラヒッチコックの『汚名』 コチラ
2014.06.08
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【ハーモニーベイの夜明け】「彼は出て来ないよ。この檻から出られるのに。塀一つ向こうには自由があるのに、自由が匂うのに、出ようとはしない。あきらめているんだ。自由とは夢見るだけのものだとね」「あなたもそうなんですか? あきらめてるんですか? あそこを出られるかもしれない。私ならあなたが正常だと証明できる。自由は夢じゃない。実現できる」動物の生態学者というのは、とかく変わり者が多いのかもしれない。人里離れた密林にテントを張って、何日も何週間も人と隔絶されたところでひたすらに動物の生態を調査するのだから。普通なら人とのコミュニケーションが途絶えた時点で発狂してしまいそうだが、人類学者ともなれば、かえってその分動物と密接な関係を結ぶことができて、有意義でさえあるのだろう。昔からこういう設定のお話は多くある。もちろん対象はゴリラとは限らないが、オオカミだったりライオンだったり、そういう自然界の動物の群れに属して共生する特別な人も実際にいるので、話題には事欠かない。『ハーモニーベイの夜明け』は、人が動物との共生によって何を学んだかというテーマには着地しない。というのも、主人公イーサン・パウエルが収容されたハーモニーベイ刑務所内における様々な問題点さえも、告発しようとする意図が見え隠れするからだ。そう考えると、単純なストーリー展開のように思える作中には、製作者サイドの複雑な思惑がてんこもりに載せられているわけだ。舞台はルワンダの密林。人類学者であるイーサン・パウエルは、ゴリラの生態を日々記録していた。最初は警戒していたゴリラの群れだったが、イーサンは根気強くその距離を縮めていった。ゴリラの群れとすっかり打ち解けたころ、イーサンを捜索する森林警備隊がゴリラに発砲。それを目の当たりにしたイーサンは激怒し、数人を撲殺してしまう。その後、イーサンは精神異常とされ、重犯罪刑務所であるハーモニーベイに服役することとなる。そして貝のように押し黙ってしまったイーサンを精神鑑定することになったのが、若くて有能な精神科医であるテオ・コールダーであった。主人公イーサン・パウエルに扮するのはこの人、アンソニー・ホプキンスだ。さすがの貫禄と存在感で、視聴者を飽きさせない。『羊たちの沈黙』におけるレクター博士の持ち合わせていたような超人的な性質を、ここでも存分に発揮し、限りなく野性味を感じさせる人物を演じている。また、テオ・コールダーに扮するキューバ・グッディングJr.も、出世への野心を抱く若き精神科医というキャラを地味ながらも好演。アンソニー・ホプキンスと互角に渡り合う演技にひとまず納得だ。ただ、一つ難を言えば、やっぱり最後のオチだろう。最後の最後に来てあれれ?という展開になるのだ。にわかに雲行きが怪しくなるのは、うん、あのシーンだ。それはきっと視聴者のほとんどが感じるのではなかろうか。「あれ? 『ショーシャンクの空に』のラストに似てるなぁ・・・」とはいえ、その部分を差っぴいても充分に見ごたえはある映画だ。1999年(米)、2000年(日)公開【監督】ジョン・タートルトーブ【出演】アンソニー・ホプキンス、ドナルド・サザーランド、キューバ・グッデイングJr.
2014.06.01
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【わが母の記】「雨がやんだ。校庭には沢山の水たまりが出来ている。太平洋 地中海 日本海 喜望峰 遊動円木の陰。だけどぼくの一番好きなのは、地球のどこにもない小さな新しい海峡。おかあさんと渡る海峡。だけどぼくの一番好きなのは、地球のどこにもない小さな海峡。おかあさんと渡る海峡、、、」この映画を心行くまで堪能するには、やはり何と言っても井上靖の『しろばんば』を一読しておいた方が良さそうな気がする。『しろばんば』というのは、井上靖自身の幼少年時代を描いた自伝小説で、その中に登場する“おぬいばあちゃ”という存在が、映画『わが母の記』にも名前だけ度々登場する。この“おぬいばあちゃ”という存在が、井上靖にとって、あるいは井上靖の実母にとって、どのような位置関係にあり、どのような感情を注いで来た人物であるのかを読み解いておくと、『わが母の記』は一段と深みを増しておもしろく感じられる。(当ブログの【読書案内】にも『しろばんば』の感想と簡単なあらすじを寄せているので、興味のある方は参考にご覧下さい。※コチラから) 井上靖の実母が暮らした伊豆湯ヶ島は、自然美にあふれ、山の匂いと、川のせせらぎと、みなぎるお日様の陽射しの下、ゆっくりと時が刻まれている。清らかで混じりけがなく、誰かの不実の行為を詰るものではなく、淡々としていて、それなのに、押し寄せるような感情の波に視聴者は一気に呑み込まれていくに違いない。 作品のストーリーはこうだ。舞台は、静岡県伊豆湯ヶ島。作家の伊上洪作は、病床の父を見舞うため、東京から湯ヶ島の郷里へやって来た。1959年のことだ。父の病状が落ち着いているため、いったん東京の自宅へ帰ることにした洪作だが、帰り際、実母の奇妙な行動に唖然とする。東京の本宅では、家族総出で検印作業に精を出していた。その晩、湯ヶ島の実家から父の訃報が伝えられる。洪作は、妻と3人の娘をつれ帰郷。湯ヶ島で葬儀一切を済ませたものの、実家で母の面倒をみている妹の志賀子から、母のひどい物忘れや言動に手をやいているという愚痴を聞かされる。洪作は幼少年時代、自分は母から捨てられたのだという苦い記憶があるため、なかなか素直になれずにいるのだが、加齢による認知症の母を前に、少しずつ気持ちに変化が現れるのだった。 この作品の見どころは、改めて言うまでもないが、やはり何と言っても洪作の母・八重に扮した樹木希林の演技であろう。コメディ・ドラマでは度々老け役を演じて来た樹木なので、違和感はまるでなく、むしろハマリ役として圧倒的な存在感を誇っていた。2000年代に入ってからの出演作に、『東京タワー~オカンとボクと時々オトン~』があるが、この時も見事な母親役で恐れ入った。樹木希林は文学座出身で、その個性的なキャラは芸能界でも有名だ。常に偽善を憎み、見せかけの憐れみや優しさ、歯の浮くようなおべっかを軽蔑している。ウィキペディアによれば、樹木希林は熱心な法華経徒であり、希心会の信徒でもあるとのこと。年を経て、ますます演技に狂信的なリアリティーを増したように思えるのは、私だけだろうか?一方、ほんのチョイ役で三国連太郎が病床の父に扮して登場するのだが、これまたスゴイ。セリフはなく、ただ、主役の役所広司の手を握り、雰囲気で何かを感じさせるだけの役どころだが、さすがの貫録。残念ながら、三国はこれが正真正銘の遺作となってしまった。 邦画のあるべき姿が全て凝縮された『わが母の記』は、間違いなく2012年の大ヒット作品だ。 2012年公開 【監督】原田眞人 【出演】役所広司、樹木希林、宮崎あおい読書案内『しろばんば/井上靖』はコチラから
2014.05.25
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【正義のゆくえ~I.C.E.特別捜査官~】「大丈夫? ボーッとしてる。座るかい?」「平気よ。入国管理課でヒドい目に(あったの)」「(君は)ニュージーランド(から来たのかい)?」「(いいえ)オーストラリアよ」以前からアメリカへの入国は非常に厳しいことで有名だった。自由を求め、仕事を求め、藁をもすがる思いで様々な人種が集まって来るからだ。だが、9.11テロ以降、それは一段と強化されるものとなった。まず短期の観光と言えども、パスポート以外にエスタの申請が必要になったことが挙げられる。無論、手数料もかかる。面倒と手間を惜しむ者はアメリカには来るな、という意図さえ感じられる。逆に、外国から日本への入国というのは案外簡単なようだ。良いか悪いか別として、ウェルカムでフレンドリーな日本の玄関口は、外国人にとっては実に大衆的で敷居が低く設置されている。本作「正義のゆくえ」は、アメリカにおける永住権を獲得するまでの移民にスポットを当てたものである。また一方で、強制退去に至るまでの経緯も兼ねている。ストーリーは大まかに分けて4つの構成から成り立ち、オムニバス形式とは若干違ったストーリー展開となっている。ロサンゼルス市内I.C.E.捜査官マックスらは、不法就労者を一斉逮捕する。そんな中、メキシコからの不法就労者である20代の女性ミレヤもその対象者であった。 だがミレヤには幼い息子ホアンがいると言う。子どもと離れ離れになってしまうことを憂いたミレヤは、マックスに子どもの預け先を書いたメモを渡し、自らは強制退去させられてしまう。一方、オーストラリア出身で女優志望のクレアは、観光ビザで入国したものの、どうしてもグリーンカードの許可が欲しい。ビザの延長手続が取れず途方に暮れていると、移民判定官のコールと出会うのだった。 印象的だったのは、イスラム教徒の少女タズリマのくだりだ。タズリマはバングラデシュ出身の高校生なのだが、授業中、9.11テロに関する考察を発表し、内容がテロリストを擁護するものだったため、危険分子とされてしまうのだ。それによりタズリマは、母親といっしょに退去命令が下ってしまう。言論の自由が認められている中でのそのような措置が、果たして正義なのか、あるいは同胞たちの正義を信じたタズリマの信念が受け入れられるべきものなのか、限りなくグレーゾーンで判断に難しい。主人公マックス役に扮したのはハリソン・フォードである。年を経て、ますます魅力的な役者さんとなった。代表作に「スター・フォーズ」シリーズや「インディ・ジョーンズ」シリーズがあるが、どれも興行的に大成功を収めている。吟遊映人がとりわけ支持しているのは、「刑事ジョン・ブック目撃者」で、アーミッシュの文化に戸惑いながらも、母子家庭で力強く生きる未亡人に惹かれて行く刑事役が、実に男らしくドラマチックに仕上げられていた。本作「正義のゆくえ」は、ハリソン・フォードが渾身の演技で、正義感と人情味の狭間で揺れる人間の良心を描いたものなのだ。2009年公開【監督】ウェイン・クラマー【出演】ハリソン・フォード
2014.03.27
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【画家と庭師とカンパーニュ】「よく考えてみたが、鯉は死神と同じだよ。どこかにいる。姿は見えなくてもいると分かる。・・・死神もそうだ。無言で巨大な口を開けて待ってる。気づいた時には口の中。・・・あの世行き。おさらばだ」映画とは美しく、感覚的で、それでいて知性をもたらすものでなければいけない。我々が日々働くことに、どんな意味、意義があるのか考えたことがあるだろうか?そして、人間の働くことの真剣さを実感したことがあるだろうか?職業選択の自由があるとは言いつつも、選り好みしていては食べていけないし、あるいは熱望しても能力や体力の限界もあって制限されるかもしれない。そんな中、与えられた仕事を地道に全うし、家族を養い、残りの人生を大好きな仕事に思う存分打ち込むと言うライフスタイルは、実に素晴らしい生き様ではある。ウォルト・ディズニーの言葉に、「自分が本当に愛する事の出来る仕事をやりなさい」とあるが、我々は人生をかけてそれを見つけて行こうではないか。主人公の画家は片田舎のカンパーニュに帰郷。荒れ放題の庭を何とかしようと庭師を雇う。初めは気付かなかったが、庭師は小学校時代の幼なじみであった。パリで芸術家として成功した主人公とは違い、庭師は国鉄の職員として労働に勤しんで来た。退職後は念願の庭師となり、菜園を作る楽しみを生業としていたのだ。本作「画家と庭師とカンパーニュ」はフランス映画であるが、実に格調高く、風光明媚に溢れた作品である。そこには文学の香りが漂い、淡々とした人間ドラマの中にえもいわれぬ知性の泉が滾々と溢れている。幸せとは何か、仕事に対する姿勢、自分の存在意義、お金では到底手に入れることのできないものを余すことなく教えてくれる。この作品のエンディング・タイトルが流れ始めた時、吟遊映人は不覚にも涙が込み上げて来た。それは、哀しみと言うより、胸の奥が締め付けられるような切なさと、感動と、そして愛情を感じたからに他ならない。吟遊映人が映画をこよなく愛する理由。それがこの作品にはぎっしりと詰っている。まさに一押しの映画なのだ。フランス映画バンザイ!2006年(仏)、2008年(日)公開【監督】ジャン・ベッケル【出演】ダニエル・オートゥイユ、ジャン=ピエール・ダルッサン
2014.03.25
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【RAILWAYS】「なぁ、もの作りは誰のためだ?」「フフフ・・・何だよ突然に・・・そりゃあ消費者のためであり、ひいては会社のためになる」「会社は誰のためにある?」「はぐらかさないでくれ」都会の喧騒を離れ、のどかな田園風景に場面が一変すると、誰もが皆ホッとしたのではなかろうか。時間がのんびり、ゆっくりと過ぎていく。自分はこういう空間を待ち望んでいたのだと、本作に登場する田舎の街並みに釘付けになるのだ。本作は、東京の大手企業に勤務する男が、諸事情から田舎に帰って49歳で電車の運転士になるという話だ。映像を観てもらえば感じることだが、昭和の名残りがプンプンと漂う、ノスタルジーに溢れた作品である。「ALWAYS三丁目の夕日」にどことなく似ていると感じた視聴者もおられるだろう。無論、吟遊映人も同様のことを感じた。ムリもない。「ALWAYS三丁目の夕日」に携わった制作者が、本作でも総合プロデューサーとして君臨しているのだから。一流企業である京陽電器の経営企画室長・筒井肇は、上司から工場の閉鎖を速やかに勧めるリストラ担当を任される。工場長の川平は、筒井の同期でもあり、不本意ながらも工場閉鎖には協力的であった。 そんな折、島根に住む一人暮らしの母親が倒れたという知らせを受け、筒井は娘の倖をつれて帰郷する。精密検査の結果、母親に悪性の腫瘍が見つかる。時を同じくして、同期の川平が交通事故で亡くなったという連絡を受け、肇は初めて人生というものについて考えるようになった。鉄道ファンにとっては、こういうローカルな列車が表舞台に登場する映画を、長いこと待ち望んでいたのではなかろうか。本作でクローズアップされる一畑電車(通称バタデン)というのは、もともと出雲市内にある一畑寺へ参詣する人々の足となるために開通されたようだ。信心深いわけではないが、一畑寺の本尊が薬師如来ということもあり、物事を見極める視力、眼力に、何やらご利益がありそうな路線ではないか。ときに一畑寺は臨済宗妙心寺派、機会があればぜひともバタデンに乗って一畑寺を訪れてみたいと思う。「RAILWAYS」は、平和で牧歌的なムードの漂う、ほのぼのとした作品だ。出演している中井貴一も肩肘張らず、伸び伸びとした演技を披露している。病床の母親役に扮する奈良岡朋子も、この手の役柄はハマリ役で、さすがの貫禄を見せ付けてくれる。最後まで安心して鑑賞することのできる作品だった。2010年公開【監督】錦織良成【出演】中井貴一、高島礼子、奈良岡朋子
2014.03.04
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【路上のソリスト 】「スティーヴ、今彼にあるのは友達だけだ。その友情を裏切るのは唯一のものを壊すことだろ」「(僕が)唯一(の友達)なんてゴメンだ」花見時期になると、妙に目につくのが公園や駅周辺の地下道に生活するホームレスの人々。 「同情するなら金をくれ!」(←少し古いか・汗)と言われそうなので、あまり多くは語らないが、ダンボールや新聞紙に身を包み日常を過ごすというのは、一体どんな心持ちなのだろうか・・・?本作「路上のソリスト」は、実際にあった話に基づいて製作された映画だが、これを観ると路上生活者についての見識が変わる。一般的にはホームレスと言うと、収入がなく、住む所もなく、惨めな生活・・・と思いがちであるが、どうやら十把一からげにそうとも言い切れないようだ。粗末な生活状況という側面だけを見て不幸だと決め付けるのは、早計なのかもしれない。 本当の幸せは他人によって判断されるものではなく、当事者がどう思うかなのであるから。ロサンゼルス・タイムズのコラムニストであるロペスは、ベートーヴェンの銅像のある公園でバイオリンを弾くホームレスの男に声をかけた。男はナサニエルと言い、ジュリアード音楽院の学生であったと言う。真偽を確かめるためにロペスはジュリアードに問い合わせをしたところ、確かにナサニエルは在学していた経歴があった。優秀なジュリアードの逸材が、志し半ばで退学し、なぜ路上生活者になったのか興味を抱き、ロペスは取材を続けるのだった。監督はイギリス人で、しかも吟遊映人と同世代のジョー・ライトである。代表作に「つぐない」があるが、本作「路上のソリスト」も叙情的で、ストーリーに誇大な脚色を混ぜることなく上品な仕上がりとなっている。また、出演者の顔ぶれも役柄と見事にマッチしており、申し分ない。ロペス役を演じたロバート・ダウニー・Jrは、売れっ子コラムニストでありながら、私生活では自分を持て余す男と言うキャラを見事に表現していた。2009年公開【監督】ジョー・ライト【出演】ジェイミー・フォックス、ロバート・ダウニー・Jr
2014.03.02
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【スペース・カウボーイ】「泣き言はよせ」「おれの身にもなれ」「40年間、お前はおれのせいにしてきた。だが今宇宙へ行くのをやめたら、それはお前のせいだ。すべてな」「お前ならどうする?」「お前を残していく」「だろうな」「夢にまでみた宇宙なんだぞ!」2,3年前だったか、“老人力”という言葉が流行した。今を生きる若者たちには足りない、しぶとさとか粘り強さみたいなものを持ち合わせた世代を賛辞したものだと思う。貧しかった戦後の日本を生き抜いて来られた強靭な精神力は、ちょっと想像の付かない、底知れぬパワーを感じる。『スペース・カウボーイ』においても、すでにリタイアして久しいアメリカ空軍の技術者たちが、NASAから招聘されるところからストーリーは展開していく。お国は違っても、やはり“老人力”が見直されているのは間違いない。いくら優秀な若手エンジニアでも、経験が浅く、コンピュータに依存しすぎる余り、ハード面が疎かになってしまい、実用的でないのだ。対して老人チームは、場数を踏んで来たことからの自信と、融通の利く状況判断能力に優れている。もちろん、体力の衰えは致し方ない。年を取るということは、そういうことなのだから。 大切なのは自分を信じるということ。アナログ世代は、コンピュータに依存しずぎる若手エンジニアを危惧するのだった。1958年に宇宙飛行士としての夢が頓挫した、元アメリカ空軍のフランクは、定年後、NASAから招聘される。それは、旧ソ連時代に製造されたロシアの通信衛星アイコンが故障したため、その修理を依頼するものだった。アイコンは旧式のシステムが使用されているため、いくらソフトに強い優秀な若手でも、手も足も出ない有り様。結局、当時の設計者であり、ハードな技術も心得ているフランクが、仲間であるホーク、ジュリー、タンクを伴い、宇宙へ飛び立つことになる。ところが事前の健康診断で、相棒のホークにすい臓癌が見つかるのだった。クリント・イーストウッド作品の優れているのは、CGを駆使した迫力重視型のスタイルに陥らないところだと思う。もちろんイーストウッドも多少はCGを導入しているだろう。だがそれだけに依存せず、役者の演技力とかストーリー展開の優れた脚本に専ら力を注いでいる。こういうアナログ的な香りが漂う映画は、ハリウッドでは少なくなったのではなかろうか?涙腺を刺激するのは、何と言ってもホークが決断するシーンだ。それは、通信衛星と言われていたものが、実は核ミサイル6発を搭載したミサイル衛星で、それがアメリカ本土を直撃する軌道にあることが分かり、ホークがその身を犠牲にして月に向かって突っ込んでいく場面だ。内容的には斬新でも何でもないのだが、自らの命を賭して任務を全うするという生き様に、人は皆、感動せずにはいられない。老人たちにも若い時はあった。逆を言えば、今若くても必ず皆が年を取る。老人になるのだ。老いて社会的弱者の立場になった時、老人力を発揮できる余生を全うできたら、素晴らしいだろう。『スペース・カウボーイ』は、クリント・イーストウッドが自らと同世代に送る応援歌かもしれない。2000年公開 【監督】クリント・イーストウッド【出演】クリント・イーストウッド、トミー・リー・ジョーンズ
2014.02.27
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【評決】「あれは医者が殺したんだ・・・医者の過失だ。麻酔のミスで患者はおう吐物を詰まらせ窒息した」「担当医の名をご存じですか?」「マークスとタウラーだろ?」「有名医です」「君は彼らの弁護士かね?」私の古い友人が司法試験に合格し、もっか司法修習生として頑張っている。近い将来、弁護士として一人立ちをし、生活していかなくてはならないのだが、この『評決』を見ると、弁護士という聖職もピンキリであることが分かる。日本なら弁護士という肩書きだけで、大手を振って歩けそうだが、場所が変わると(たとえばアメリカとか)、新聞の訃報欄を片っ端からチェックして、葬儀場に出向いては、「相談にのります」と言って名刺を渡して歩くのも、いかがなものかと思う。そのぐらいにしなければ、弁護士として食べてはいけないということなのだろうか。この『評決』では、そんな落ちぶれた弁護士が病院で起きた医療事故について争うのだが、とてもデリケートな部分に触れていて、公開時はかなり反響があったようだ。まず、医療事故が起きたのがカトリック教会の病院であること。公正であるはずの判事も病院側の弁護士に偏っているし、有名ベテラン医師が自分の医療ミスを隠蔽するため、カルテの改ざんまでしてしまうのだ。こんなこと現実にはあってはならないことだが、映画化されたことにより、教会関係者や医療現場ではかなりのイメージ・ダウンにつながったであろう。フランクはもともと優秀な弁護士だったが、ワケあって落ちぶれていた。昼間から酒を飲み、仕事探しのため新聞の訃報欄をチェックしては、葬儀場に出向いていた。そんな中、ビジネス・パートナーであるミッキーが、仕事を見つけて来た。それは出産のため聖キャサリン病院に入院した妊婦が、麻酔時のミスにより植物状態となってしまったという医療事故だった。フランクは状況を把握するため、また示談金をつり上げるために、廃人同様となった患者の姿をポラロイドカメラで撮影した。だがそこで目の当たりにした患者の哀れな姿を前に、フランクの弁護士としての使命が蘇るのだった。主人公フランク役に扮したのは、ハリウッド・スターであるポール・ニューマンだ。代表作に『スティング』や『ハスラー』などがある。オハイオ大学を出た後は、イェール大学の大学院に進学するなどインテリ俳優でもある。 『評決』においては、ポール・ニューマンの迫真の演技が光っている。例えばアル中という設定のフランクを、だらしないだけの男に終わらせず、苦悩を抱え、過去を持つ弁護士として好演。一度は失いかけた法律家としての情熱を、再び取り戻していく様子がジワジワと引き出されている。またラストもすごく良い。電話の呼び鈴が幾度となくコールされる中、その相手がローラであることも知っていながら、フランクは受話器を取ろうとしない。男の意地にも見えるし、贖罪にも見える。80年代の作品はやっぱりいい! 万人におすすめしたい作品だ。1982年(米)、1983年(日)公開 【監督】シドニー・ルメット【出演】ポール・ニューマン
2013.11.17
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【25年目の弦楽四重奏】新聞で公開を知り、近来稀に見るときめきを覚えた。そして興奮した(笑)ベートーヴェンの弦楽四重奏(しかも後期!)をテーマにした映画が封切られるというのだ。メインは14番というのが申し分ない。これをときめかずにいられようか!加えて大フーガが出てくれたら、もう無上の喜びであり興奮の極みなのだ\(^o^)/そして弦楽四重奏といったら外せないのが吉田秀和先生だ。先生がご存命であったら、コメントの一つもいただいて映画のハクをつけたかったところであろう。吉田秀和先生は弦楽四重奏をこう説く。『音楽のもっとも精神的な形をとったものである。あるいは精神が音楽の形をとった、精神と叡智の窮極の姿である。』なるほど。そして続ける。『もっともよく均衡のとれた形でもって、あいまいなところが少しもないまでに、ぎりぎりのところまで彫琢され、構成され、しかも、それをつくりあげるひとつひとつの要素が、みんな、よく「歌う」ことを許されている。』何度読んでも、こうやって何度書き写しても、名文というほか言葉が浮かばない。内容もしかり、たとえばここであげたベートーヴェンの弦楽四重奏14番を聴いていだければ、その明解なることを、即ご理解いただけよう。四つの楽器が、無駄なく的確にバランスを保ち、おのおのが抑制されることなく弾かれていることは、まさに楽器が『歌う』がごとし。名文の通りである。そして弦楽四重奏の定義がストンと落ちたなら、『精神と叡智の窮極の姿』が見えてくるはずだ。さて肝心の映画。主人公を演じるのはオスカー俳優のフィリップ・シーモア・ホフマンだそうだ。最初は、え?!という気がした。フィリップ・シーモア・ホフマンといえば、レッド・ドラゴンのゴシップ記者の役がどうにも印象深い。いや、ケチをつけるのではなく、あまりにハマリ役に思え、何か出来上がってしまったものを感じるのだ。ただそこはオスカー俳優だ。きっと個性的な演技を見せてくれるであろう。それに演奏指導をしたのが岩田ななえさんとくれば、いやがおうでも期待は膨らむ。ちなみに岩田ななえさんはサイトウ記念オーケストラの常連である。この夏も松本で音色を聴かせてくれるはずだ。その岩田さんが、演奏指導をふり返ってこう語る。『楽譜すら読めないといっていたフィリップですが、イメージの理解は素晴らしかった。』英雄 英雄を語る、まさにそんな感じではないか!フィリップ・シーモア・ホフマンの演技を期待して、封切を一日千秋の思いで待つとしよう(^o^)今宵は、ベートーヴェン 弦楽四重奏曲 14番 嬰ハ短調 作品131 をじっくり聴き直してみよう。なお、この曲は7楽章からなるのだが、ベートーヴェンが『7楽章を休みなく演奏するように』と楽譜に書き込みを残しているので、聴く方もそれに徹しなければならないのだ。(そんなに長い曲ではありません、心配ご無用ですよぉ~)さあ『精神と叡智の窮極の姿』をのぞいてみよう♪2012年公開【監督】ヤーロン・ジルバーマン【音楽】アンジェロ・バダラメンティ【出演】フィリップ・シーモア・ホフマン、クリストファー・ウォーケン【演奏指導】岩田ななえ
2013.06.28
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【遥かなる山の呼び声】「橋の下に首をつってぶら下がってる父さんを下ろして、リヤカーに乗せて、菰をかぶせて、兄さんと二人で引っ張って帰るんだけど、町の人がいっぱい見に来てな・・・おじさん悲しくて泣き出しそうになるんだけど、兄さんが小さな声で『泣くな、みっともないから泣くな』、そう言うんだ。だからおじさん必死になって我慢して、歯をくいしばって、涙こらえて歩いたんだ」「ほんとに泣かなかったの?」「ああ、泣かなかった。男が生きていくには・・・我慢しなくちゃならないことがいっぱいあるんだ」この映画の魅力の一つとして、牧場を切り盛りする母と小学生の男児の健気な姿を描いているところだ。今で言う“シングル・マザー”だが、いやもう倍賞千恵子と吉岡秀隆のコンビネーションが絶妙なのだ。まるで本物の親子だ。夫を病気で亡くし、女手一つで息子を育て上げねばという気負いや、他人様に舐められてたまるかという意地のようなものが、演技の一つ一つに感じられる。一方、小学生の息子も、北海道の大自然を背景にすくすくと育っていて、母を助けてあげたいという健気な姿勢がやんわりと伝わって来るのだ。また、注目したいのは、罪を犯して警察に追われている主人公が、母子と知り合い、少しずつ閉ざされた心を開いていくプロセスだ。人は誰しも、一生懸命暮らしている姿に、心を動かされない者はいないのだ。『遥かなる山の呼び声』のストーリーはこうだ。北海道東部にある酪農の町が舞台。風見民子は夫に先立たれ、まだ小学生の武志を育てながら牧場を切り盛りしている。ある春の嵐の晩、見知らぬ男が民子の家を訪れた。どうやら道に迷って難儀しているらしく、雨風しのぎに軒下でも貸して欲しいと言う。 民子は警戒しながらも、納屋を提供し、晩御飯を出してやるのだった。その晩遅く、牛のお産があり、男はまめまめしく手伝う。翌朝、男は礼を言って立ち去るが、夏になると再び男が現れ、働かせて欲しいと頭を下げる。民子は貧乏で、大して賃金を支払える立場ではなかったが、男手が不足しているため、思い切って雇うことにした。こうして田島耕作と名乗る男を納屋に寝泊りさせ、どうにかこうにか牧場を切り盛りしていくのだった。この作品に出演している役者さんの顔ぶれと言ったらスゴイ。チョイ役だが、渥美清とか武田鉄矢、それにムツゴロウさん(畑正憲)まで登場する。邦画の良さは、ハリウッド物にはない、滲むような味わいがある。それは、気骨のある役者の演技だったり、あからさまではない心に残るセリフだったり、ゆっくりと流れる時間だったり、いろいろだ。こういう作品をたくさん鑑賞して、改めて自分が日本人であることに感謝するのも良いし、しみじみ感慨に耽るのも良いだろう。きっと豊饒なひとときを過ごせるに違いない。1980年公開【監督】山田洋次【出演】高倉健、倍賞千恵子
2013.03.24
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【幸福の黄色いハンカチ】「渡辺さん、いろいろとありがとうございました」「まぁ、あれだな。辛いこともあるんだろうけど、辛抱してやれや。一生懸命辛抱してやってりゃ、きっといいことあるよ」「はい。渡辺さんもお元気で」何度見ても飽きない映画がある。いつも同じ場面で涙が出て来てしまう。役者の演技だと分かっていても、ついもらい泣きだ。どうしてこんなに好きなのか、理屈では答えられない映画、それがこの『幸福の黄色いハンカチ』だ。主演の高倉健、それに倍賞千恵子というゴールデン・コンビネーションも然ることながら、三枚目に徹する武田鉄也の、必死で一生懸命な演技にも心を動かされる。もともとミュージシャンである武田鉄也にとっては、これが映画初出演とのことだが、山田洋次監督のシゴキもあって好演。桃井かおりを相手にピッタリ息の合った演技を見せてくれた。今年、山田洋次監督の新作『東京家族』が公開された際、その記念番組に武田鉄也が出演。当時を思い出して語っている。それによると、あれだけ自然体な会話なのに、アドリブが一つもないのだとか。全て脚本に忠実なセリフを言っているらしい。さらに、武田鉄也演じる花田欽也が黄色いハンカチを見つけて感動の涙を流すシーンの、山田監督の演出はこうだ。「川崎で肉体労働をしている兄ちゃんが風俗に行って、遊んだ女の感想を友達と話して別れる。下宿への帰り道、街頭もない真っ暗な道をとぼとぼ歩きながらつぶやく。『あんなのは愛じゃねぇよ。俺はこんな人間だけど、いつか本当の愛をさ』と涙がこぼれる。実は真面目な愛を探していた。それがあの旗(ハンカチ)さ」【シネマトゥデイ映画ニュースより】さすがは映画界の巨匠、山田洋次の演出だ。こんな演出、ちょっと頭の中でこしらえたぐらいじゃ発想できない代物だ。思うに、人は皆、純愛を求めているのだ。だが時代の風潮なのか、軽いノリが良しとされ、真面目で一途なのはダサイこととして疎まれて来た。あるいは若さゆえの照れもあるかもしれない。そんな中、純愛はすでに古典的な感情として扱われている。作中にあるように、罪を犯して刑に服した夫を、今も昔も変わらぬ愛情で待ち続ける妻というのは、一見キレイゴトにも思えてしまう。だが、不器用で不完全な人間にとって、純愛こそが何ものにも代えがたい心の糧であり、支えなのだ。『幸福の黄色いハンカチ』は、男女問わず、年齢問わず、純粋な愛を注ぐに相応しい相手を見つけ、一度しかない人生を大切に生きよと教えてくれているような気がしてならない。心をこめて人を愛することは、自分もまた誰かに愛されることなのだと気づかせてくれる。『幸福の黄色いハンカチ』は、1970年代を代表する邦画の傑作だ。1977年公開 【監督】山田洋次【出演】高倉健、倍賞千恵子、桃井かおり、武田鉄也
2013.03.10
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【鉄道員(ぽっぽや)】「乙さんよ、もう夢でしか会えんなぁ。ハハハ・・・俺とおめぇとでこのポンコツに引導わたしてやるべ。・・・出発進行!」浅田次郎原作の「鉄道員」は、直木賞受賞作であり、日本中の鉄道ファンを湧かせた大ベストセラー小説でもある。それにしてもこのストーリーの巧みな展開と言ったらどうだ!人の心の琴線に触れるようなデリケートな風合い。言葉では到底表現できない、行間から滲むような感情の流出。不器用な人間を包み込むような冬の北海道の大自然。この見事な調和が、物語をさらに重厚な作品へと押し上げていると言っても過言ではない。吟遊映人は日頃、職人になりたいと思っている。亡くなった父がそうであったように、自分もまた人生をかけてこの道を歩んで行きたいと望んでいる。本作「鉄道員」の佐藤乙松の口癖でもあるが、「おら、ポッポやだから・・・」と言う一言が胸に染みる。この言葉は決して自分を卑下するものではなく、むしろそこに魂を込めた誇りさえ感じるのだ。 主人公の佐藤乙松は、北海道内のローカル線幌舞駅の駅長である。蒸気機関車の見習いを経て、鉄道員一筋に生きて来た。歴史ある幌舞線も、合理化によって廃止が決められ、乙松の今後の身の振り方も迫られていた。乙松は、たった一人の愛娘を赤ん坊の時に亡くしており、その後妻も病気で亡くし、孤独な定年を迎えようとしていた。この作品に余計な解説など不要だと思った。四の五の言わずにぜひとも観ていただきたい。そして、できれば寒い冬の夜にじっくりと堪能してもらいたい。「おら、ポッポやだから身内のことで泣くわけにはいかんでしょ」乙松が歯を食い縛って、それでも心で号泣する哀しい姿に、思わず目頭が熱くなる。しんしんと降り続く雪の白さと、「プォーッ」と言う白銀に響く警笛がたまらなく郷愁を誘う。こんな世知辛い世の中だからこそ「鉄道員」を観て、主人公・佐藤乙松の骨のある生き様に学んでいきたいと思った。※浅田次郎原作『壬生義士伝』はコチラ(^^)v1999年公開【監督】降旗康男【撮影】木村大作【出演】高倉健、大竹しのぶ、小林稔侍
2013.01.24
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【沈まぬ太陽】『前略 阪口様 あなたの長い長い旅路の終わりに、どうか一度アフリカを訪ねてくださいませんか。何一つ遮るもののない悠久の大地では、厳かな大自然の営みが繰り広げられています。それをぜひあなたにも見て頂きたいのです。地平線へ黄金の矢を放つアフリカの太陽は、荘厳な光に満ちています。それが私には不毛の日々を生きざるを得なかった人間の心を慈しみ、明日を約束する沈まぬ太陽に思えるのです』本作が、史上最悪の死者520名を出した日航ジャンボ墜落事故をモデルにした作品であることは、周知の通りだ。だが、配給の角川サイドによると、あくまでもフィクションとのことであるので、まずはそれを念頭に置き、鑑賞してみることにした。原作は山崎豊子の同名小説であるが、この著者も実に息の長い女流作家である。作品の傾向としては、ロシア文学にしばし見受けられる人間の精神、メンタルな部分を精密に描くことで定評がある。また作品中、恩地のセリフにもあるが、“キレイゴト、正論をそのまま鵜呑みにしてはならない”という立場を取っている。(若干、ラディカルな雰囲気が漂う)東大法学部出身で左翼思想に傾倒する恩地は、国民航空の労組の委員長として組合員たちから絶対的な信頼を持たれている。だが、それが裏目に出て、会社側から左遷人事を言い渡され、カラチ、テヘラン、ナイロビと次々に辺境へと追いやられる。一方、労組で副委員長として恩地とともに闘った行天は、時流の波に乗り労組から足を洗い、常務取締役となって会社側に鞍替えする。そんな中、御巣鷹山で国航ジャンボ墜落事故が発生。急遽、恩地は遺族係に回されることになった。吟遊映人の個人的な好みで恐縮だが、作中、内閣総理大臣役として加藤剛が出演している。作品全体の割合からすれば、ほんのチョイ役に過ぎないが、この役者さんが「沈まぬ太陽」という社会派作品を選んで出演したことに、充分過ぎるほど納得がいく。約40年ほど前に、松本清張作品である「砂の器」に出演したが、この時もそのポーカーフェイスを活かし、アクのない淡々とした言い回しには脱帽、見事な演技であった。さらに、国民航空の会長役として石坂浩二も出演。今さらながら、重厚にして品格のある演技に惚れ惚れしてしまった。このように、主役を演じた渡辺謙というハリウッド俳優を抜きにしても、素晴らしい役者陣が脇を固めた社会派作品であり、上映中、10分間の休憩を入れるほどの長編となっている。まだ本作を鑑賞していない方々は、ぜひとも秋の夜長にじっくりと腰を据えてご覧いただきたい大作なのだ。【追記】 蛇足ながら、本作のラストは決してハッピーエンドとはなっていない。(無論、精神的なものではなく、社会的な側面から捉えた場合として)だがそれにより反って、真実に目を向け決して目を逸らすなと言い放つ著者と製作者サイドの意図するものが垣間見える。本来あるべき人間の姿とは何か、社会のあり方とは何かを問うている。2009年公開【原作】山崎豊子【監督】若松節朗【出演】渡辺謙、三浦友和、石坂浩二
2012.08.02
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1987年7月17日、石原裕次郎氏が亡くなった。享年52歳、生きていれば78歳になる大兄である。映画会社の規制が厳しい中で三船敏郎氏と共演された「黒部の太陽」が大成功をおさめたのは周知の事実である。せんない事とは思いつつ・・生きていられたら、どんな歳を積まれたか。今宵は軽妙なリズムに酔いながら大兄に思いをはせてみよう、合掌。「おいらはドラマー♪」 故人老いず生者老いゆ恨みかな 菊池寛
2012.07.17
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「今の世の中は大げさな涙とパフォーマンスの時代。私はそれが苦手なの。感情は自分の中で抑える。私は愚かにも信じてたの。“人々はそういう女王を求めているのだ”と。“務めが第一、自分は二の次”そう育てられ・・・そう信じてきた。」「(あなたは)お若くして即位なさった。」「そう。(まだ)子供でした。でも世界は変わった。新しい時代に・・・合わせねば。」 今年はエリザベス女王、即位60周年の年に当たる。25歳という若さで、しかも女性というお立場で想像を絶するような重責を担ったのだから、長年のご苦労たるやいかばかりか、計り知れない。1997年8月、パリでダイアナが交通事故死。チャールズ皇太子と離婚成立後の王室にとって、すでに民間人となっていたダイアナとは、本来関係のないことであった。バッキンガム宮殿の正門前に、ところ狭しと並べられた花束の数々。その花に添えられたカードには、どれも王室への辛辣なまでの言葉が並べられていた。 そんな中、エリザベス女王が公人としてコメントする必要はないはずだが、国民のダイアナ人気に押されて、弔意を発表する。つくづく感じたのは、大衆を敵にすることの怖さである。女王は、伝統と格式を重んじるあまり、世論を受け入れようとはしなかった。その結果、当時の意識調査では国民の4人に1人が王制廃止を支持する動きまで・・・。 おそるべきは、煽り立てるマスコミの過熱報道とそれに踊らされる民衆。主演のヘレン・ミレンは素晴らしかった。エリザベス女王ががに股歩きをすることは、ヘレン・ミレンの演技で初めて知ることができた。また、流暢で品格のあるイギリス英語も堪能できた。いまだ健在の人物たちを、ここまでオープンに作品として描くことができたのは、やはりイギリスというお国柄なのか、それだけに開かれた王室であるということなのか。いずれにしても実在の登場人物に酷似したキャスティング、演技力、宮殿内のバロック様式の美術、どれも目を見張るものがあった。エリザベス女王のお父上であられるジョージ6世をモデルにした『英国王のスピーチ』も、実にすばらしかった。 吃音症に苦悩するヨーク公(ジョージ6世)が、人生の友(師)との出会いにより、内在する優れた資質を開花させるまでを描いたものだ。 やんごとなき血筋の、帝王学を施された者にのみ与えられる、威厳と優雅にして気品のある態度に驚かされる。 『クィーン』とともに、併せてご覧いただきたい。英国王のスピーチはコチラまで(^^) 2006年(英)、2007年(日)公開【監督】スティーヴン・フリアーズ【出演】ヘレン・ミレンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.06.07
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「(私の)金を返せ。」(←銃を突きつけながら。)「何の金だ?」「(メチャクチャの)店を弁償しろ!」「お家にいるんだ!」(←玄関先に立つ5歳の娘に向かって)「私の金だ! ないなら(お前の)車をよこせ!」「俺の(車)じゃない! ・・・落ち着けよ。(ここに)50ドルある。」「すべてを失ったんだぞ!」(←今にも引き金を引きそうな勢い。)「パパにはないの。パパは(妖精からもらったケガをしない)透明マントを着ていない!」(←玄関から飛び出し、父親のところまで駆け出して抱きつく。)~銃声があたりに響き渡る~「大丈夫よ。私が(パパを)守ってあげる。」映画を観て泣くのは初めてではない。だが、悲惨な戦争映画でも哀しいラブストーリーでもないこの作品に、思わず涙がこぼれた。人間の崇高な精神を言葉に表現するのは難しいけれど、ひとえに“愛”であろう。愛は汚れがなく、打算がなく、純粋だ。それを映像にして表現されてしまったら、もう他のどんな大作も野暮に見えてしまう。 クリスマスを控えたロサンゼルス郊外で、一人の若い黒人男性が銃に撃たれて草むらの中で発見された。物語は事故当時から丸一日遡ったところから描かれている。多民族国家であるアメリカの社会問題を、様々な人種が抱えている苦悩として、それぞれの視点から浮き彫りにする。思うことはいろいろあるが、ポイントは二つ。一つは、明らかに人種差別問題。もう一つは、偽善は罪であるという点だ。注目したいのは、勤続17年の人種差別主義者の白人警官に同行していたアイリッシュ系の若い白人警官。彼は、同僚の辛辣な黒人に対する差別に嫌気がさしてチームを解消し、一人でのパトロールを希望。一見、彼は公平で正義感が強そうに思える。だが、そんなものは時と場合によっていとも簡単に音を立てて崩れてしまうものなのだ。その証拠に、彼の早急で安易な判断が一人の若者を撃ち殺してしまい、しかも臆病風に吹かれて道端に放置するという警官としてあるまじき行為に及ぶのだ。このことからも、いかに正義などというものが上っ面で儚いものであるかがわかる。人間に内在する良心が、偽善の上に成り立っているのだとしたら、これほど残酷でいたたまれない現実はない。「クラッシュ」は、それでもなお、我々が人間として生きていかねばならない切なさ、痛みを表現しているかに思えた。※本作は、第78回アカデミー賞作品賞を受賞している。2005年(米)、2006年(日)公開【監督】ポール・ハギス【出演】サンドラ・ブロック、ドン・チードル、マット・ディロン
2012.05.25
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「野球界は古臭いんです。求めるものを間違えてる。けど、それを言うと僕は村八分にされてしまいます。だからあなたにも言わなかった」「・・・出身は?」「メリーランドです」「学校は?」「イェール大学です」「専攻は?」「経済学・・・経済専攻です」長身でルックスの良さが先行してなのか、以前のブラピのイメージはチャラチャラしている印象が強かった。『オーシャンズ』シリーズなどを観ても、そういうキャラを演じることが多いので、ムリもないが。ところが『マネーボール』のブラピはすごく良かった。役どころとしても申し分ないキャラで、いつもの軽いノリなど微塵も感じられなかった。 GMとして仕事のデキる男と、愛娘を誰よりも大切に想う父親を、見事に演じ分けていたように思える。一方、チョイ役ながらチームの監督役で、フィリップ・シーモア・ホフマンが出演。この役者さんをこの役柄で起用したのは残念な気がする。もともとフィリップ・シーモア・ホフマンは、見かけだけでは判断のつかないような、複雑な精神性を胸に秘めたキャラを得意とする役者さんだからだ。そのため、たったワンカットのシーンでも視聴者にリアルなインパクトを与える。(参考:『マグノリア』『ブギーナイツ』など)だが、この作品でのチームの監督という役では、そのキャラも余り生かせなかった気がする。オークランド・アスレチックスのゼネラルマネージャーであるビリー・ビーンは、2002年のシーズンに向けてスター選手を引っ張れるように、補強資金をオーナーに求めた。だが余裕のないチームのため、低予算でチームを改革するしか方法がなかった。クリーブランド・インディアンズのオフィスでトレード交渉をした際、ビリーの目に留まったのはスタッフの一人であるピーター・ブランドだった。ピーターはイェール大学で経済学を専攻していた人物で、野球を客観的に分析し、選手の評価や戦略を考えていた。ビリーはすぐにピーターの理論に興味を持ち、インディアンズのスタッフから引き抜くことに決めた。この作品の見どころは、やはりビリー役に扮するブラピと、その同僚ピーター役のジョナ・ヒルが電話で選手のトレード交渉をするシーンだ。ピーターの平凡さを武器にした演技は、お見事としか言いようがない。ポッチャリ体型で、やや引っ込み思案の、気立ての良い白人男性というキャラは、ブラピを引き立てることにとても効果的だった。全体を通して、胸の空くような熱いスポーツドラマとはお世辞でも言えないが、野球そのものより、それを背後で動かすスタッフの巧みなかけ引きや直感に支えられたルポルタージュ的作風がおもしろい。最後の終わり方も、とても好感が持てた。2011年公開【監督】ベネット・ミラー【出演】ブラッド・ピット、ジョナ・ヒルまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.05.13
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『主よ、仕事を全うさせて下さったことを感謝します。迷うことなく導いて下さったことを感謝します。不屈の決意を与えて下さったことを、ご加護と啓治を与えて下さったことを、すべて主のお陰です。暴力をお許し下さい』ハリウッド映画を語る上で、切っても切り離せないのは、やはりこれ、宗教観であろう。 つまり、キリスト教なしでは考えられない人間と主との関係。唯一絶対の神の存在と、我々を導くための教えが示されている聖書の価値。この崇高にして壮大なストーリー展開は、キリスト者をうならせるか、あるいは目を細めて結末を見守ることであろう。日本人には大人気の「スター・ウォーズ」だって、もとをただせばキリスト教の教えが根底に流れているのだから、この宗教観はすでに娯楽の世界にまで浸透しているということだ。本作を知る上でも、単なる地味なヒューマン・ストーリーだと捉えてしまうと、そのおもしろさは半減してしまう。現代(近未来)の「西遊記」と言ってしまうと少し短絡的だが、様々な艱難辛苦を乗り越えて西へ西へと向かって行くウォーカー(旅人)の姿は、まるで天竺へ向かう三蔵法師たち一行のようなおもむきさえ感じられるのだ。近未来、地球の文明は崩壊する。ウォーカー(旅人)は、広大なアメリカ大陸をただひたすら西へ向かって歩いて行く。 飢えを凌ぐため、捕まえたネコの肉を食べ、水筒の水をなめるようにして少しずつ喉を潤すのだった。リュックサックには最後の一冊である聖書が入っている。ウォーカーが水を求めて立ち寄った街は、カーネギーという独裁者が本一冊のために血まなこになって探し続けていた。それはウォーカーの持っている残された最後の一冊である聖書だった。カーネギーは、手下の者たちにウォーカーを射殺し、本を奪うよう画策するのだった。 オリジナルのタイトルを邦訳すると、「イーライの本」と訳せるが、これは主人公であるウォーカー(旅人)の名前がイーライであると分かると、やっと納得できるものであった。そんなわけで、邦題の「ザ・ウォーカー」は実にシンプルでインパクトがあり、日本人には受け入れ易いタイトルだと思った。イーライ役のデンゼル・ワシントンは、さすがの俳優さんだ。近年の作品では「マイ・ボディガード」や「サブウェイ123激突」などがあるが、この役者さんは自分とつりあいの取れる役柄を十二分に心得ているのだと思う。つまり、立ち位置を知っていると言い換えることもできる。デンゼル・ワシントンの亡き父親は、キリスト教会の牧師であったことからも、本人も敬虔なクリスチャンである。そんなデンゼル・ワシントンがウォーカーの役に扮したのは、正に“天の声”を聞いたからに他ならない。素晴らしく意味のある、ヒューマン・ドラマであった。2010年公開【監督】アルバート・ヒューズ、アレン・ヒューズ【出演】デンゼル・ワシントン、ゲイリー・オールドマンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.05.10
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「俺は去年、25万ドル近く稼いだ。しかも画面に数字を打ち込むだけだし。刺激を求める連中は、情報に飛びついてしたり顔でカネを注ぎ込むんだ。あいつら投資をしてなけりゃ競馬にでもハマる連中さ。勝者がいれば敗者もいるってこと」「そう簡単な話じゃないだろ」「まぁね」金融業界が破綻を来していく過程を(わずか一日のことだが)、役者の演技力に支えられて見ごたえのあるヒューマン・ドラマに帰結した作品だ。内容は淡々としているため、パニック的な要素は薄い気がする。役者の顔ぶれを見ると、英国人俳優が多く、かつ舌が良くて身のこなしにキレがある。 こういう淡々とした映画には、英国人俳優の華のある芝居がとても効果的だ。おそらく主役と思われるケヴィン・スペイシーは特に注目で、緩急の切り替えが見事だ。 自分が職場で管理職の立場にありながら、愛犬が余命幾ばくもないことを気にかけ、思わず部下にグチをこぼすところや、ラストで愛犬を葬ろうと狂ったように穴を掘るシーンなど、なんとも言えない孤独、寂寥感に包まれている。こういう芝居のできる役者さんは、ハリウッド・スターを見渡してもそうたくさんはいないような気がする。ニューヨークのウォール街が舞台。某投資銀行のリスク管理部門の責任者エリック・デールは、突然のリストラを命じられる。部署が部署なだけに、やりかけの仕事もそのままで、ケータイの通話も全てストップされてしまうのだった。身の回りの荷物だけを手に取り、オフィスから退去しようとエレベーターに乗りかけた際エリックは、見送りに来た部下のピーター・サリヴァンにUSBメモリを手渡した。早速メモリの中身を調べることにしたピーターは、データを分析するのに成功。だが驚くべきことに、会社は今日明日にも大損失を出すのは避けられないという結論を導き出してしまう。上司のサム・ロジャースは、すぐに緊急役員会の必要性を進めるのだった。世の中、理不尽さを感じてしまうのは、やっぱり経済の中心を担っている銀行マンや証券マンの、並外れた高額収入を知ってしまった時だ。一方でつましい生活をしている一般市民の、汗水流して働いたお金が、こんな具合で回っているのかと、愕然とする。それもこれも、今ある自分が選んだ職種、選んだ人生、全ては自己責任という結論につながるのか。この作品は、日本では劇場未公開だが、資本主義の実態を淡々と描いていて、富裕層がどこまでも金持ちでいられるカラクリを暴いている。必見作だ。2011年(米)公開 ※日本では劇場未公開【監督】J.C.チャンダー【出演】ケヴィン・スペイシー、ポール・ベタニー、デミ・ムーアまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.04.29
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「なんでクローディアはあなたと話さないの? ・・・言って」「娘は私が性的イタズラをしたと思っているんだ。私にひどいことをされたと思い込んでる」「・・・手を出したの?」「・・・分からん」この作品を手がけたポール・トーマス・アンダーソン監督は、やっぱり天才だ。映画的センスにあふれ、観る者をグッと惹きつけて離さない、豊かな表現力を感じる。 『マグノリア』の全体からかもし出される、暗く、陰鬱な、人々のどうしようもない悲痛な嘆き。自分で自分を持て余すワケありの者たちに、一筋の光を当てている。この見事な感情の流出は、最後の最後になって、キリストの復活にも似た奇跡を起こす。 注目していただきたいのは、やはり父と子の関係だろう。どのパターンも最悪な関係で、修復など不可能に思える。だが必要なのは、修復などではなく、癒しと救いなのだということが分かる。忌わしい過去に囚われ続ける、弱く哀しい人々が、まやかしの名声やドラッグの力を借りて、生きている姿。この描写の素晴らしさと言ったらどうだ!とにかく、観る者を圧倒させる。舞台はロサンゼルスの郊外、ヴァレー。資産家で、若い妻リンダを持つアールは、すでに末期症状だった。ある時、アールは、献身的な介護士のフィルに息子探しを依頼する。アールと先妻との間に儲けた息子だが、妻子を捨てた過去を持っていたのだ。その息子は現在、フランク・T・J・マッキーと名乗り、モテない男を奮起させ、性コウイのノウハウを教えるカリスマとして人気を集めていた。一方、人気番組の司会者であるジミー・ゲイターも、ガンを宣告され、余命いくばくもない立場にあった。親子関係の悪い娘クローディアと話し合おうとして、アパートを訪ねたところ、すげなく追い返される。クローディアには、過去、父親との間に忌わしい体験があった。そんな彼女はドラッグに溺れることで、過去や今の自分から逃避するのだった。そんな彼女と出会うのが、生真面目な警察官ジム。さらに、テレビのクイズ番組で天才少年として人気を集めていたスタンリー。スタンリーは本番前にトイレに行けず、ついには本番中に漏らしてしまうというトラブルが発生。それが原因でクイズに答えることができず、控え室で待機していた父親が激怒する。様々な苦悩を抱える男女が織り成す人生模様。この作品に出演している俳優陣の力の入れようたるや、並々ならぬものを感じる。トム・クルーズもその一人なのだが、これまでのキャリアと比較しても、実に思い切ったキャラクターに挑んでいる。しかも、その役を熱演していて、驚くほど自分をさらけ出している。すごい。さらに、フィリップ・シーモア・ホフマンやウィリアム・H・メイシーの、いかにも現実味のあるキャラクターづくりは、この作品をしっかりと地に足の着いた内容に完成させている。濃厚で、灰汁が強く、一度観たら忘れられないようなインパクトがあるが、同時に、ポール・トーマス・アンダーソン監督の芸術的手腕に脱帽してしまうのだ。1999年公開【監督】ポール・トーマス・アンダーソン【出演】トム・クルーズ、ジュリアン・ムーア、ウィリアム・H・メイシーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.01.29
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「こうなるに至った僕の人生を、君がそれを理解できると言うのかい? 理解できるもんか! 自分自身わからないことだらけなのに・・・君に説明するなんて。第一、なぜ僕のことを話さねばならないんだ?」「あなたを助けたいのよ」「僕を助ける?」この作品のタイトルを見ると、ちょっと誤解しそうなものを感じる(笑)だが、れっきとしたカンヌ国際映画祭パルムドール賞を受賞した作品だ。そのことで、ソダーバーグ監督は華々しく脚光を浴びることになった。これが逆に仇になったのか、その後の作品は興行的にも失敗が続き、スランプに陥る。 世間で言う“一発屋”で終わってしまうかに思われたところ、『オーシャンズ』シリーズで見事に復活を果たしたのだ。監督デビュー作としては、『セックスと嘘とビデオテープ』が娯楽映画から外れたところにあるのは否めない。地味だし淡々としていて、何か実験的な試みさえ感じさせる。だがそのぶん、初々しくて作品全体を取り巻くエネルギーの若さに、かえって感心させられる。大手法律事務所に勤務する弁護士の夫を持つアンは、メンタル面に問題があるため、精神科医に悩みを打ち明けるのを日課としていた。一方、夫のジョンは、美人で貞淑な妻がある身でありながら、アンの妹であるシンシアと不倫関係にあった。ある日、ジョンの学生時代の友人グレアムが訪ねて来る。グレアムは車一台と少しの手荷物だけで旅をしているような、身軽な男だった。グレアムのどこか芸術家肌な雰囲気に、徐々にアンは惹かれていくが、ある時グレアムの持ち物にたくさんのビデオテープを見つける。それはなんと、グレアムが知り合った女性たちの、性に関するインタビューだった。内容そのものに深い意味があるのかと言えば、とくにそういうわけでもなさそうだ。メッセージ色というのも顕著ではなく、内面に問題を抱えた男女がいかにして殻を破るのか、そのプロセスを描いているに過ぎない。おもしろいのは、主人公を取り巻くキャラクターらがみんなそれぞれに何かしら問題を抱えていて、秘密を持っている。そのストレスの発散の仕方をストーリーにしているようだ。作品の受け取り方は様々だが、ソダーバーグ作品の原点がここにあるわけで、これを観なければソダーバーグ監督を語れない、とでも言っておこうか(笑)1989年公開【監督】スティーブン・ソダーバーグ【出演】アンディ・マクダウェル、ジェームズ・スペイダー、ピーター・ギャラガーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.12.13
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「ネットで私のことを“クソ女”って・・・」「そのことで説明したいんだ」「女を動物と比較?」「それはやめたよ」「ブログに書いてあったわ。自分の考えがそんなにすごいと思ってるわけ? ネットの記事は消せない。私のことを“クソ女”と書いた上、親がドイツ系だとかブラのサイズとか、女子のランク付けまで・・・(中略)もう嫌がらせはやめて」さすがはデヴィッド・フィンチャー監督だ。この作品を見終わった時、思わずうなってしまった。気に入らないところを探しても、とうてい見つかるまい。それほど完成度の高い作品なのだ。この監督の代表作と言えば、『セブン』や『ゾディアック』などがあり、どれも甲乙つけがたい。それぞれに共通しているのは、全て犯罪をテーマにしているところだろうか。今回の『ソーシャル・ネットワーク』は、誰もがお分かりのように、テンポの軽妙なところだ。セリフが早口というのも演出だとは思うが、このテンポこそ現代的で待ったなしの慌しさを際立たせている。さらに、視覚的な効果もねらっているのだろうが、コンピューターの画面や堅苦しいセリフの掛け合いが続いた後、にわかにボート部の練習風景が視聴者の心を癒す。画面の右から左へとボートが横切っていく光景は、格調高く、優雅で、ストーリー上の気分転換としても成功している。ハーバード大学2年生のマークは、ボストン大学の彼女と口論になり、ふられてしまう。 カッとなったマークは、すぐさま学生寮に戻るなりコンピュータをハッキングして女子大生の写真や個人情報を集め、女子の格付けサイトを立ち上げてしまう。だがその行為は4時間後に大学側から阻止されてしまった。その後、マークの並外れたプログラミング能力に目をつけたボート部所属のセレブなウィンクルヴォス兄弟に買われ、ハーバード大学専用サイトである“ハーバードコネクション”の制作を依頼されるのだった。この制作に協力することになったマークは、名案が浮かび、親友のエドゥアルドをCFOとして融資を受け、“ザ・フェイスブック”を立ち上げることになった。今や未開の土地の者でもその名は知っているという“フェイスブック”の創設者、マーク・ザッカーバーグを中心とする成功物語、ではない。犯罪物語だ。興味深いのは、マークの親友として登場するエドゥアルドの人物像の描き方だ。この人物の、好感の持てるキャラのおかげで、視聴者の同情とか共鳴を一気に彼へ向けることに成功している。場面展開といい、キャラクター設定といい、正に計算しつくされた映画なのだ。2010年(米)、2011年(日)公開【監督】デヴィッド・フィンチャー 【出演】ジェシー・アイゼンバーグ、アンドリュー・ガーフィールドまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.11.01
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「クスリ、初めてなの? 嘘でしょ? リラックスできるし。抑制する気持ちが消える。幸福感も味わえる」「効く時間は?」「2~3時間よ」いわゆる芸術という表現世界は、過酷で厳しい。努力や忍耐だけではなく、天性のセンスも必要とされるからだ。この作品では、プリマを目指す若きバレリーナが完璧性を求めるがゆえに、自己を破壊してゆくプロセスを描いている。人間は、もともと完璧な動物ではないという理屈を知っていながら、どこまでも完璧であろうとする。そこで必然的に無理が生じ、やがて自己は破壊され、その代償として滅びの美学が誕生するのだ。『白鳥の湖』では“ブラック・スワン”と“ホワイト・スワン”が登場するのだが、主人公ニナは、純粋で清らかで傷つきやすいホワイト・スワンは完璧に表現できるものの、官能的で毒々しいブラック・スワンを踊るには無理があった。演出家の厳しい注文と批判を受け入れながらも、それに応えていこうとする止まらない完璧性への追求。この辺りは、芸術という特殊な環境に身を置く者たちの、執念とか異常性さえ感じられる。ほとんどホラーの世界だ。ニナは、ニューヨークの一流バレエ団に所属するバレリーナ。次回公演の『白鳥の湖』のプリマを獲得するため、日夜練習を詰んでいる。演出家のトマスは、それまでプリマを演じて来たベスを降ろし、新人を起用することにした。チャンスのめぐって来たニナは、必死でオーディションを受けるが、ブラック・スワンを表現するには余りに官能性が足りないという批判を受ける。半ばプリマをあきらめていたところ、なんとニナは合格。しかし、スワン・クィーン役を演じるという大きなプレッシャーに、少しずつニナの神経は蝕まれていくのだった。メガホンを取ったのは、ダーレン・アロノフスキー監督だ。代表作に『レスラー』などがあり、共通しているのは、主人公が自らを追い詰めながらも完璧に近付いていこうとする執念だ。『レスラー』では、ミッキー・ロークが迫真の演技で視聴者を魅了するが、『ブラック・スワン』でも、ナタリー・ポートマンが驚愕するほどのダイエットに挑み、ほとんど間違いなくバレリーナとしての体型を完成させた。言うまでもなく、この作品でアカデミー賞主演女優賞を受賞し、これまでの子役スターとしての固定イメージを見事に払拭した。『ブラック・スワン』は、痛みを伴う映画で、恐怖というよりは芸術への畏怖を感じさせる作品だった。お見事。2010年(米)、2011年(日)公開【監督】ダーレン・アロノフスキー【出演】ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセルまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.10.09
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「分からんのか、奴はお前を利用しているんだ」「いや、パパは息子が自分より出世してそれを妬いているんだ!」「お前は財布の大きさで人間を測るのか?」「パパはデカい勝負をする勇気がなかったろ?!」「・・・おれはどうやら間違った父親だったようだ」先日「ウォール・ストリート」を観たら、やっぱり80年代に話題を呼んだ「ウォール街」もおさらいしておこうかという気になった。本作でも、やはり父と息子の関係がクローズ・アップされている。オリバー・ストーン監督の十八番であろう。しかも、チャーリー・シーン(息子)とマーティン・シーン(父)は、実の親子でもあり、演技が生々しい。もっと突っ込んだことを言わせてもらうと、役柄上ブルースター・エアラインの飛行機整備工であり、組合活動にも熱心な父親役マーティン・シーンは、実生活でもリベラル派である。この起用は、オリバー・ストーン監督の目の付け所の高さを表している。素朴で、しかし威厳のある父親が、チャラ男の息子に向かって「金は厄介だ。生きていく分だけあればいい」と言い放つセリフはシビレる。全体的な完成度の高さは、断然「ウォール街」に軍配があがるのは否めない。N.Y.のスタイナム社に勤務するバド・フォックスは、証券マンとして日々電話でのセールスに明け暮れていた。年収は約5万ドルもの所得がありながら、マンハッタンという土地柄のせいで、高い家賃、車のローン、大学の奨学金返済に追われ、度々父親から借金するのだった。そんなある時、ゲッコー&カンパニーの代表取締役であるゴードン・ゲッコーと、わずか5分の面会にこぎつける。ゲッコーは凄腕の投資家で、どんな手段を使ってでも利益を得ようとする金の亡者であった。しかしながら、第1級の美術品収集家でもあり、物事を的確に評価し、冷静に判断する知識、能力は、ずば抜けていたのだ。本作でマイケル・ダグラスは、アカデミー賞主演男優賞を受賞している。はて、それほどの演技だったか? ある意味、勢いだけのような・・・。無論、当時の人気の凄さに水を差すつもりは毛頭ない。だがどうだろう、吟遊映人の個人的感想を言わせてもらうと、マイケル・ダグラスの魅力は2010年の「ウォール・ストリート」によるゴードン・ゲッコー役において開花したのではなかろうか。私生活の上でも、様々な艱難辛苦を乗り越え、最後に愛する娘のために一肌脱ぐところなど(「ウォール・ストリート」2010年)、正にマイケル・ダグラスのこれまでのキャリアと映画でのキャラクターがリンクしているではないか。最近のチャーリー・シーンが見る影もなく老け込んでしまったのに比べ、良い意味で枯れたマイケル・ダグラスの昨今は実におくゆかしい。本作はやはり、向学のために観るべき一作品かもしれない。1987年(米)、1988年(日)公開【監督】オリバー・ストーン【出演】マイケル・ダグラス、チャーリー・シーンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.06.30
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『“狂気”の定義とは? 違う結果を求めつつ、同じことを繰り返すこと。誰もが犯す過ちだが、同時には犯さない。それが救いと言える。我々がもし集団で同時に狂気に走ったらどうなる? ゴードンの言った、世の中全体を巻き込む“癌”だ』本作は言わずと知れた1987年の「ウォール街」の続編である。だが、「ウォール街」を観ておられない方々でも、本作「ウォール・ストリート」は違和感なく鑑賞することが出来る。その辺は、さすが社会派オリバー・ストーン監督の手掛けた作品のことだけはある。さすがだなと思ったのは、幼い子どもが何気なく楽しむシャボン玉(バブル)のシーンで始まり、シャボン玉(バブル)で終わる演出。いやはやお見事。さらには「ウォール街」の主役チャーリー・シーンが、バド・フォックスのその後としてチョイ出演。嬉しいオマケではないか。アメリカというお国柄でもなかろうが、キリスト教で言う父(神)と子(イエス)の関係が重視される。そのため、ありとあらゆる作品のテーマに親子、それもとりわけ父と息子を扱ったものが多いのも確かだ。本作においても、主人公ゴードン(父)とジェイコブ(婿)の関係がクローズ・アップされている。ニューヨークのゼイベル社で証券マンとして働くジェイコブは、ウィニーという知的でキュートな女性と交際していた。だがウィニーの父というのは、かつてインサイダー取引の罪で投獄さていた人物だった。 そのゴードンが8年の服役を終え出所。ジェイコブは興味本意でゴードンの講演会に出向く。そんな中、ゼイベル社の株が暴落。ジェイコブにとっては人生の師であり社長でもあるルウが、失意の中、地下鉄の電車に轢かれ自殺。ジェイコブは、ゼイベル社の風評を流した業界の黒幕とも言えるブレトンに対し、復讐を誓うのだった。オリバー・ストーン監督お得意とも言える痛烈な皮肉と因果応報というテーマは、いつの時代でも納得せずにはいられない。一部の、金を持て余した投資家たちによって、世界経済が右にも左にも転ぶのだとしたら、我々一般庶民はただ指をくわえて見ているしかないのだ。だが、幸か不幸か金は一つ所にとどまらない。いつも生き生きと、自在に動いているのを好むらしい。昨日の金持ちは今日のホームレス。世の中何があるか分からない。生きることは、ある意味ギャンブルなのかもしれない。さて、「ウォール・ストリート」は父と娘の物語でもある。父の生き方を否定し、過去を許すことの出来ない娘ウィニー役に扮するのは、英国人女優キャリー・マリガンだが、見事な演技力だ。正直なところ、ジェイコブ役のシャイア・ラブーフを完全に食ってしまったようなところも見受けられ、後半は父と娘の物語へと移行していた。今後の活躍が楽しみな、若手俳優なのだ。主役のマイケル・ダグラスは、良い意味で枯れた。これこそ正に“いぶし銀”という味わいかもしれない。「ウォール街」の時より、数段の深みと厚みを増した演技に完成されていた。興味のある方は、1987年の「ウォール街」も併せてご覧になると、より一層本作を楽しむことが出来るかもしれない。2010年(米)、2011年(日)公開【監督】オリバー・ストーン【出演】マイケル・ダグラス、シャイア・ラブーフまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.06.22
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「健康が第一。私もさ、復帰した大川さんが作った福祉会館で頑張ってるんだからさ」 「フフフ・・・」「何?」「みんなそうやって繋がってるんだなぁって思って」「弘平だってそうよ。ちゃーんと繋がってる」本作「孤高のメス」は、サラリーマン向けのマンガである『ビジネスジャンプ』誌で連載されていた作品を元に、実写化されたものである。主に、1980年代後半という設定でストーリーが展開されてゆくが、内容が内容だけにさほどの時代性は感じられない。むしろ、今も昔も医療現場の裏事情や、脳死をめぐる問題など、なかなか一筋縄ではいかないことが伝わって来る。患者第一主義を貫き、どんな圧力にも負けない孤高の医師と、その医師を取り巻くスタッフ、そして病院にかかわる市民たちの熱いヒューマンドラマに仕上げられている。母一人、子一人の世帯で地道に生きて来た弘平は、今や新米医師として立派な社会人となっていた。ところが看護師として働く母・浪子が急逝したことで、弘平は葬儀のために田舎に帰る。 遺品の整理をしていたところ、母が看護師として働く傍ら、日々の記録を書き綴って来た古い日記帳と、病院内のスタッフの写った記念写真が見つかった。弘平は、自分がまだ保育園に預けられていた幼いころ、母がさざなみ市民病院に勤めていたころの足跡を、日記帳のページをめくって思いをめぐらせるのだった。本作の主人公である当麻という外科医師に扮するのは堤真一だ。キャラクター設定としては、ピッツバーグ大学で肝臓移植を手掛けた優秀な執刀医ということになっている。堤真一の代表作として「ALWAYS三丁目の夕日」などがあるが、本人が役者としてその気になったのは35歳のころだそうで、それまでは何事にも意義を見出せない、自分さがしの時期が続いていたようだ。学歴も高校をやっと卒業しただけの、輝かしいものとは程遠く、以前の堤なら、よもや自分がエリート医師の役など演じるとは思ってもみなかったであろう。そう考えると、人生とはなんと数奇な運命を及ぼすものであろうか。一方、夏川結衣は元モデル出身の女優さんだが、NHKテレビドラマでは常連と言っても過言ではない、正統派の役者さんである。役柄としては、薄幸で病身なキャラクターが多いような気がするのだが、気のせいだろうか?本作の見どころとしては、やはり脳死による臓器提供により、人命が救助されるまでのプロセスであろう。だが、ここはあくまで冷静になりたい。脳死=(イコール)肉体の死、と受け入れるか否かは残された親族の倫理観に任されている。脳死の肉体は、それでも心臓が動き続けているのだから。2010年公開【監督】成島出【出演】堤真一、夏川結衣、柄本明また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.06.14
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「シェルパが言ってたよ。ここは女神のヒザに当たる場所だって。別名“女神の前掛け”」 「女神のヒザ枕で眠るのが夢だったよ」「純粋な信仰だぞ」ただひたすら山登りするシーンを追うのは退屈だと思われる方々、ぜひともそれを改め、過去の登山映画を振り返って観ていただきたい。山を題材にした映画は、これまでにもいくつかある。パニック・スリラー映画としてみても楽しいだろうし、勿論、ヒューマン・ドラマとして堪能することも出来るだろう。本作「エベレスト」は、そのタイトル通り、世界最高峰の山を目指して命懸けの登山に挑む、男たちのドラマである。1982年に登頂を果たした、カナダのパット・モローの手記をもとにした映画なだけに、とてもリアリティに溢れた作品に仕上げられていた。驚いたのは、8100mのサウスコル地点の光景だ。そこはまるで、焼却場代わりのゴミ捨て場となっているではないか。山頂を目指すクライマーたちの中継地点でもあるせいか、食べ散らかした食品が雪の上に転がっていて、そこにはカラスが群がっているのだ。(これほどの高山にもカラスはいるのかと、それも驚きだが)富士山にも同じ光景があり、世界遺産としての登録が見合わされたしまった一因でもある。カナダの若きクライマーたちは、気心の知れた仲間とともに、エベレストの登頂を目指していた。ところがある日、訓練登山中にジョンが滑落死する。思いがけない訃報に、失意に暮れるローリーたちだったが、1982年の夏、念願のエベレストへ出発する。世界最高峰の8848mの山は、若きクライマーたちの夢でありあこがれでもあったが、その反面、悲劇と隣り合わせの登頂であった。近年、日本映画においても「剱岳」は実にすばらしい映画だった。「エベレスト」では、その過酷な状況から死者を出しながらの登頂であった。世界最高峰に登りつめるという名誉と栄光と、そして男のプライドが光り輝く作品と言えよう。対する「剱岳」は、当時の国土地理院が正確な地図を完成させるための登頂であり、役人としてのプライドを守り抜いた作品である。どちらも優れた登山映画であるが、吟遊映人が愛して止まないのは「剱岳」の方である。 派手な滑落シーンもなければ、男の友情を垣間見せる美談もない。ただ黙々と雪山を登りつめていく、真面目で一本気な男たちの横顔に、大和民族の崇高な気質を見出すことが出来るのだ。「エベレスト」では、若きカナダ人クライマーの意気込みや明るさ、雄大なヒマラヤ山脈の雪景色を堪能しようではないか。この作品により登山映画に興味を持たれた方は、併せて「剱岳」もオススメしたい。2007年(加)公開【監督】グレアム・キャンベル【出演】エリック・ジョンソン、ジョン・パイパー=ファーガソンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.03.05
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「昔の曲はいい」「80年代が最高よ」「そう、ガンズ・アンド・ローゼズ」「モトリー・クルー、デフ・レパード」「でもニルヴァーナの登場で・・・」「楽しさがぶち壊しよ」「ああ、90年代は大嫌いだ」昔、デパートの屋上などでヒーローモノのショーが催されたものだ。正義の味方が悪い奴らをやっつけて、それを見ている子どもたちが大喜びするという、お約束のあれだ。着ぐるみを被って奮闘している彼らは、もちろん普通の人間で、ショーが終われば正義も悪もない。意外に仲良しだったりして、「この後、一杯どうだい?」なんて会話が飛び交っているに違いない。本作「レスラー」も、プロレスラーたちの内幕をドキュメンタリータッチで描いたヒューマン・ドラマである。リングの上ではいかにも憎々しげに振る舞う悪役レスラーも、一たびリングから降りて楽屋に戻ると、ヒーロー役レスラーと抱擁し、「お疲れさま」と言い合って互いをねぎらうのだ。レスラーにとってリングは完全に舞台であり、観客を興奮させ、夢中にさせるためのエンターテインメントなのだ。そういう大イベントが、レスラー一人一人の体を張ったショーであることに気付いてしまった時、我々はその勇姿に悲哀さえ覚えるであろう。本作「レスラー」は、他に拠り所がなく、ただレスリングをするしか能のない男の生き様を淡々と追うもので、ヴェネツィア国際映画祭において金獅子賞を受賞している。80年代、プロレス界では大人気を博したランディも、すでに50歳を越えていた。現在は、生活のためにスーパーで働きながらレスラーも続けていた。一人身のランディの楽しみは、風俗店に出かけ、馴染みのストリッパーであるキャシディと一杯飲むことだった。そんな折、試合直後、ランディは突然の吐き気をもよおし、意識を失う。ランディは心筋梗塞で、心臓のバイパス手術を受け、医師からはレスラーを引退するようにとドクター・ストップをかけられるのだった。80年代と言えば、日本は空前のバブル期で、それはおそらくアメリカでも似たような現象だったに違いない。ランディ役に扮したミッキー・ロークも、実際に80年代はそのセクシーな容姿と出で立ちが世間で持て囃され、セックス・シンボルとしてハリウッドに君臨していたのだから。それがいつ頃からだろう、ミッキー・ロークの人気は、まるで潮が引いていくように話題にも上らなくなってしまった。本作で久しぶりにミッキー・ロークを目の当たりにした時、正直、昔の彼の洗練されたカッコ良さからは遠くかけ離れ、別人かと思ってしまった。だが、彼の歩んで来たこの20年の月日と、主人公ランディとがオーバーラップし、作品は見事なまでの出来栄えとなって完成された。ミッキー・ロークが役者人生全てをかけ、渾身の演技で望んだ役柄だからこそ、そこには嘘がなく、真実が見えた。さらに、ブルース・スプリングスティーンの主題歌が流れて来た時、不器用な男の生き様が孤高に感じられる瞬間だった。我々は一様に年を取る生きものであることを忘れてはならない。この作品は、我々人間の越えられない本質をえぐるように表現した、最高のヒューマン・ドラマであった。2008年(米)、2009年(日)公開【監督】ダーレン・アロノフスキー【出演】ミッキー・ローク、マリサ・トメイまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.12.17
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「コンサートの最後に両親が見つかっても(それでも出演していただけませんか)?」 「何ですって?」「つまり・・・音楽は人を成長させる。答えをくれる。音楽をプレイする前は怖がる。真実を怖がる」「よく分からないわ」ロシア政府のユダヤ人排斥政策による凄惨な事件も、フランス映画にかかれば適度な笑いと皮肉混じりのジョークで、これほどまでにハッピーな作品となるのだ。冒頭の部分からしてうならされた。主人公がいきなり作業着姿の清掃員として登場するのだから。だがその人物の背景と言ったら、ボリショイ交響楽団の元指揮者でマエストロであったとは!映画をおもしろくする掴みの場面は、のっけからこの激しいギャップにより、視聴者の興味をグッと惹き付ける。何でそんな偉大な巨匠が、掃除のオジさんなんてやっているのか?一体、彼(主人公)に何があったのか?この物語は、もしかして陰惨で不幸な歴史を語り出そうとしているのだろうか?様々な思惑が、視聴者の内面を揺るがすに違いない。フランス人というのは、何かしら物事をおもしろがる国民性を持っているようだ。それはもしかしたら、半分は相手を小バカにしているような感も拭えないが、四六時中、深刻面をしていたくはないのだろう。相手の身振り手振り、言葉使いなどを自国のそれと比較し、素直におもしろがるのだ。屈託なく。お腹を抱えて笑ってしまったのは、ボリショイの元楽団員らがパリのホテルに着いた時、列を作ることなく一斉に受付で部屋のキーを奪い合うシーン。あるいは、ギャランティーの前金をよこせと主催者側に詰め寄る、それはまるで赤の広場における労働党大会さながらのシュプレヒコール。そして、空港で闇のビザを次々と発行する手際の良さ。一見、コメディタッチに描かれたこのユニークなシーンの集大成が、明るく陽気な結末へと盛り上げることに成功しているのだ。ロシア・ボリショイにある劇場の清掃員として働くアンドレイは、楽団の元指揮者でありマエストロであった。今やアル中で右手の震えすらある落ちぶれた身となっていた。そんなある日、アンドレイが清掃中に、1枚のファックスが届く。それはなんと、パリのシャトレ劇場からの出演依頼であった。アンドレイは、30年前の中断された公演を復活させるべく、昔の仲間に呼びかけ、ボリショイ交響楽団に成り済まし、パリ公演をもくろむのだった。主人公が30年ぶりにタクトを振ったのは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲であった。魂が天高く舞い上がるがごとく、ソリストのアンヌ=マリーがヴァイオリンを奏でた時、楽団は見事に融合する。この崇高にして華麗なる旋律がシャトレ劇場を包み込む時、映画は核心に迫っていく。 この、定石ながら見事な構成、そして脚本は、フランス映画ならではの上質なものを感じさせる。我々が映画に求めて止まない何かが、この作品には凝縮されている。素晴らしい、とにかくその一言。“ブラボー!”と、映像に熱く声援をおくってしまうのは、吟遊映人だけではないだろう。今年一番のおすすめ映画なのだ。ご参考 作中で使用されている名曲の数々2009年(仏)、2010年(日)公開【監督】ラデュ・ミヘイレアニュ【出演】アレクセイ・グシュコブ、メラニー・ロラン、フランソワ・ベルレアンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.11.16
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「女には、幸福も不幸も無いものです」「そうなの? そう言われると、そんな気もしてくるけれど。それじゃ、男の人はどうなの?」「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と戦ってばかりいるのです」昨年は太宰治の生誕100周年だったそうな。デカダン派と呼ばれる作家は何人もいるけれど、やっぱり筆頭はこの太宰治であろう。 この根強い人気は凄いの一言。作品は確かに優れたものばかりだが、それにしたって亡くなってもう何十年も経っているのだから、やはりあの憂いを含んだ女性好みのルックスも影響しているのかもしれない。さて、本作「ヴィヨンの妻」だが、この作品は昨年度キネマ旬報ベスト5(邦画部門)の2位にランクインされている。ちなみに「ヴィヨンの妻」を抑えて1位にランクインしたのは、「ディア・ドクター」である。以下、参考に記載しておこう。【’09キネマ旬報ベスト5】・・・邦画部門1位 ディア・ドクター2位 ヴィヨンの妻3位 剱岳4位 愛のむきだし5位 沈まぬ太陽吟遊映人は、ベスト5のうち3作品はすでに鑑賞済みだが、「ディア・ドクター」と「愛のむきだし」は観たことがなく、詳細は語れない。しかし、「ヴィヨンの妻」も含め、「剱岳」や「沈まぬ太陽」がベスト5にランクインしていることで、まだまだ日本の映画も捨てたものではなく、また、観る側のレベルもかなり高度な知的水準にあることを誇りに思う。ある晩、小説家の大谷譲治は物凄い勢いで帰宅した。妻の佐知は驚いて様子をうかがうと、尋常ではなく、そのうち深夜にもかかわらず、玄関の方で女が「ごめんください!」と大声を出し始める。女は、中野駅から程近い小料理屋「椿屋」の女将であった。それから女将の亭主も加わって、「あれを返してください!」とわめき出す。よくよく事情を聞いてみると、なんと大谷は5千円という大金を盗んで、警察沙汰にされる直前だった。太宰作品にもいろいろあるが、映画化するに当たってこの「ヴィヨンの妻」を選考したというのは、実に興味深い。原作を読んだことのある方ならすでにご存知の通り、短編で、地味で、虚脱感に溢れており、ラストには希望の光もなく、偽善を打ち消している。そんな戦後の混沌とした、絶望の上にかろうじて酒と薬と女の力を借りて成立した文学に、文壇は酷評を浴びせる。だがどうだろう。太宰治を支持したのは、プロの評論家ではなく、一般の市民であったのだ。この太宰の作品こそ真実の文学として、庶民に浸透していったのである。そんなことからも、我々は映画に限らず小説なども含めて、上質で格調高い作品を識別できるセンスをこれからも磨き続けていこうではないか。「ヴィヨンの妻」は、既成と道徳観念を打ち破る、戦後最高峰の小説を見事に映画化した作品なのだ。2009年公開【監督】根岸吉太郎【出演】松たか子、浅野忠信また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.10.25
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「両親を訴え、(私の)体を守りたいの。白血病の姉への臓器提供を強いるの」「腎臓の提供を?」「(姉は)何ヶ月も腎不全なの」「ドナーの同意が必要だ」「でも私は親の保護下の未成年者よ」小説に様々なジャンル、例えば恋愛小説だったり歴史小説だったりあるいは推理小説があるように、映画にも同様のジャンルがある。しかしそんなことを言ったら「今さら何を」とヒンシュクをかってしまうかもしれない。 映画の世界は小説よりもっと具体的、かつ視覚的分野なので、泣かせるところは多いに泣かせ、一般的には愛と感動のドラマに仕立てなければならない。そこでは、間違いなく即効性が求められているため、監督と脚本家と役者陣のプレッシャーたるや、並々ならぬものがあるだろう。とりわけ人の生死をテーマにしたジャンル、簡単に言ってしまえば病気で人が死ぬことを扱った作品というのは、古今東西、吐いて捨てるほどあることは確かだ。結核菌の特効薬が普及してからは、サナトリウムを舞台にした作品というのはほとんどなくなり、最近の傾向ではケータイ小説でも話題になったが、白血病で若い子が亡くなるという悲劇的ドラマが主流であろう。だが、そこから一歩踏み込んだところで、臓器提供・臓器移植について扱った作品というのは、まだまだこれから開拓の余地があるに違いない。本作「私の中のあなた」も、大筋では人の死を扱った作品であるが、単なるお涙ちょうだいドラマとは一線を画している。“全ての臓器提供・臓器移植=(イコール)善”という図式が正しいか否かを問いかけているのだ。ケイトは白血病に苦しむ少女。その妹・アナは、姉を救済するため、いわば臓器を提供するドナーとしてこの世に生を受けた。母親であるサラは、なんとかケイトを助けたいがゆえに、遺伝子操作によって出産したのであった。そのためアナは、姉のために臍帯血・輸血・骨髄移植などの提供を余儀なくされて来た。 ところがアナが11歳の時、腎臓移植を強いられることで、ついに両親を相手に訴訟を起こすのだった。病気の娘に盲目の愛情を注ぐ母親役に扮するのは、キャメロン・ディアスである。この女優さんの迫真の演技は、鬼気迫るものを感じた。ただ病気の娘を助けたいがためだけに家族を犠牲にし、自分を盾にして闘う姿は、まるで女戦士のようであった。家族の中に一人でも病気を抱えている者がいると、それが深刻な病気であればあるほど、まるで連鎖反応のように問題が重なっていく。例えば本作では、アナは健康な体であるにもかかわらず、姉のためにそのドナーとして幼いころから注射や手術をして身体にメスを入れている。アナの兄・ジェシーも、何らかの影響で失語症を抱えるはめになり、家族とは離れ、施設に入所していた。一方、当事者であるケイトは、もう病気と闘うのを辞めて早く死にたいと思っている。 そんな様々な思惑が絡み合い、物語はより重厚なテーマへと深みを増していく。つい先日のことだが、日本で初めて家族の意思のみで臓器提供が施された。脳死状態となった方が生前、そのように希望されていたとのこと。リアルタイムで話題となっていることも踏まえて、本作「私の中のあなた」をあれこれ検討しながら観るのも有意義なことではなかろうか。2009年公開【監督】ニック・カサヴェテス【出演】キャメロン・ディアス、アビゲイル・ブレスリン、ソフィア・ヴァジリーヴァまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.08.17
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「当時まだ未来は・・・南アの未来はまだ闇の中だった。だが世界中の人々が歌う声に耳を傾けているうちに、私は南ア人の誇りを感じた。国に尽くそうという意欲が芽生えた。持てる以上の力を引き出されたのだ」「(その曲は)何という曲ですか?」「“神よアフリカに祝福を”だよ。とても士気を高める曲だ」本作を手掛けたのはクリント・イーストウッド監督である。往年のスターと言えども、ハリウッドでは既に長老格に当たる。このクリント・イーストウッドという人は、60年代にイタリアの巨匠セルジオ・レオーネ監督との出会いにより、その才能を開花するのである。いわゆる“マカロニ・ウェスタン”と呼ばれるイタリアで制作された西部劇で、代表作に「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」などがある。それらのレオーネ作品の大ヒットにより、本国より先にヨーロッパで一躍脚光を浴びることになったのだ。その後、70年代になって本国アメリカにおいて、言わずと知れた「ダーティーハリー」シリーズで大ブレイクするわけだ。余談はさておき、そのイーストウッド監督の素晴らしいところは、人が多角的に自己分析を遂げたプロセスをスクリーン中に垣間見せる点であろう。それは格調高く、哲学的でさえある。華やかさと娯楽性を主とした昨今のハリウッド映画では、なかなかお目にかかれない代物である。本作「インビクタス」は、1993年にノーベル平和賞を受賞した人物でもあるネルソン・マンデラを主人公とする物語である。マンデラについては、「マンデラの名もなき看守」などの優れた作品が過去に公開されており、世界史の教科書には載っていない人物伝を学習することが出来る。本作「インビクタス」と併せてご覧いただければ、さらにマンデラ像を掘り下げていくことが可能であろう。1994年、南アフリカ共和国では、黒人初の大統領が誕生した。ネルソン・マンデラである。マンデラは南ア代表のラグビーチームであるスプリングボクスを見て、あまりに弱小だったため、チームの主将であるフランソワ・ピナールをお茶に招く。ラグビーはもともと上流階級の、とりわけ白人のスポーツとされて来たことから、黒人の間では非常に不人気な存在であった。そこでマンデラは、このラグビーチームが「白人と黒人の和解と団結の象徴になる」ように、ピナールを鼓舞、そして激励するのだった。ネルソン・マンデラに扮するのはハリウッドの重鎮、モーガン・フリーマンである。この役者さんの知的で紳士的で、しかも内なる情熱が沸々と湧き上がるような演技は見事であった。本作を鑑賞した吟遊映人の友人は、マッド・デイモンのこれまでとは違った重厚な演技に脱帽したと、べた褒めであった。無論、吟遊映人も同感である。ラグビーチームの主将たる貫禄を見せるための肉体改造も、並々ならぬ努力と、鍛え抜かれた役者魂の結晶であろう。1995年のラグビーワールドカップ決勝戦は、南アが世界に向けて発信した自国の誇りであったに違いない。その証拠に、ニュージーランド代表のオールブラックスは強豪チームであったが、見事な連携プレーで南アのスプリングボクスが勝利したのだ。ノーサイドの笛が鳴った時、スタジアム中の、いや南ア中の観衆が一体となり、狂喜乱舞して自国を祝福する。この模様は、ぜひともDVDにてご堪能いただきたい。情熱的で活気ある南アの風に吹かれることだろう。2009年(米)、2010年(日)公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】モーガン・フリーマン、マッド・デイモン
2010.08.01
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「ではなぜミシシッピ大を選んだのですか?」「僕の家族がみんな行ってる大学だから」本作は、最強にして最高のアメフト選手である、マイケル・オアーの実話を基にして制作された映画である。吟遊映人があれこれ感想を述べるのも口幅ったいことだが、鮮やかな感動の波に洗われるような、稀に見るヒューマン・サクセス・ストーリーであった。オリジナル・タイトルである「ザ・ブラインド・サイド」とは、盲点とも死角とも訳せるが、ここではアメフトをプレイするにあたってマイケル・オアーの守備位置のことを表しているのではなかろうか。レフトタックルは、一見、地味な役回りではあるが、実は重要なポジションなのだと示唆しているのかもしれない。マイケル・オアーその人は、今でこそその世界で飛ぶ鳥を落とす勢いのある人物だが、過去は壮絶な体験の繰り返しであった。驚いたのは、彼には出生証明書がないのである。これはつまり、日本でいうところの戸籍事項に、自分の名前がないのと同じことなのだから。彼がどんな思いで運転免許証が欲しいと言ったのか、計り知れないものがある。現に日本でも公的に認められている身分証明と言えば、一般的なもので、運転免許証、パスポート、そして顔写真付き住基カード等なのだ。そんな中、マイケル・オアーは周囲の多大な理解と援助とそして愛情に包まれて、失われた人権と笑顔を取り戻していくのだ。生後すぐに生き別れた父と、薬物中毒の母を持つマイケル・オアーは、知人の計らいで私立のクリスチャン・ハイスクールに入学した。だが、学力は最低レベルで箸にも棒にもかからなかった。真冬の街を半袖姿でとぼとぼと歩いているところを見かけたリー・アンは、自宅へと連れ帰り、ベッド代わりにソファーを提供する。それがきっかけとなり、リー・アンはマイケルの援助を始める。マイケルはそのおかげで少しずつ成績が上がり、アメリカンフットボールチームへと入部するのだった。本作の主人公リー・アンに扮したサンドラ・ブロックは、当然の如くアカデミー賞主演女優賞を受賞している。上流家庭にありがちな鼻持ちならない厭らしさもなく、キビキビとした真っ直ぐな女性を見事に演じている。また、チョイ役には違いないが、家庭教師のスー先生役としてオスカー女優のキャシー・ベイツが出演。スパイスの効いた、しっかりとした脇役としての味付けに成功している。「しあわせの隠れ場所」では、家族の愛情と強い絆がいかに大切か、いかに人間には不可欠なものであるかをテーマとしている。相手を理解し、認めることの難しさはもちろんだが、それなくしては友好は生まれない。 我々はこの作品を観て改めて、多くの人々に支えられているちっぽけな自分の存在に気付くことであろう。2009年(米)、2010年(日)公開【監督】ジョン・リー・ハンコック【出演】サンドラ・ブロック、クィントン・アーロン、キャシー・ベイツまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.07.30
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「もう戻れない。ここまで来た以上、生きるしかない。金を稼いで身分も確かにしたい。一生日陰はイヤだ」「つまり・・・手を染める?」「どう思う?」「俺は気が小さいから天津甘栗の屋台を持つのが一番の夢なんだ」「夢にも金がいる」1980年代、時代は空前のカンフーブーム。ジャッキー・チェンが大ブレイクしたのはこの頃だ。代表作に「ドランクモンキー酔拳」などがあるが、学校ではクラスの男子が必ずマネをして見せたものだ。そのぐらいジャッキー・チェンのカンフーアクションは、世間に影響力があった。ジャッキー・チェンの体を張ったスタントは見事なもので、失敗を許さないからどのシーンにも緊張感が漲っていた。それでいて人懐っこいあの笑顔は、決して作り物ではなく、観客を楽しませるプロフェッショナル、いわば根っからのエンターテイナーとしての品格を持ち合わせていた。それが2000年代に入ると、そんなジャッキー・チェンにも陰りが見えて来た。年齢的なものもあるかもしれないが、流行り廃りの激しい現代では、カンフーアクションはすでに過去の遺産であったのだ。本作「新宿インシデント」は、そんなジャッキー・チェンから見事にカンフーアクションを拭い去った、現代ヒューマンストーリーである。中国からの密入国者である鉄頭は、新宿・歌舞伎町まで流れて来る。新宿には鉄頭のような中国人密入国者が一つの借家で鮨詰め状態となって暮らしていた。 ある晩、鉄頭が風俗店の厨房で働いていると、一足早く日本へ旅立っていた恋人の秀秀を見かける。しかし秀秀は、三和会という暴力団組織の幹部の妻であった。鉄頭は恋人の裏切りを知り、失意のうちに違法な行為を繰り返していくのだった。作品の主題にもなっている中国人密入国者の問題は、実に根が深い。食べていくため、生きるために祖国を離れて金を稼ぐ者たちと、そんな密入国者を利用して3Kと呼ばれる労働を提供する側の利害が一致しているというのも、何とも皮肉な話ではある。ジャッキー・チェンが、カンフーアクションを一切封印して臨んだこの作品は、これまでの笑いあり涙ありのジャッキー・スタイルを一掃した社会派ヒューマンドラマである。いわば本作は、ジャッキーファンにとって、踏み絵となる作品かもしれない。2009年公開【監督】イー・トンシン【出演】ジャッキー・チェン、竹中直人また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.07.02
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