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冬よ、僕に、来い、僕に、来い、僕は冬の力、冬は僕の餌食だしみ透れ、つきぬけ火事を出せ、雪で埋めろ刃物のやうな冬が来た。高村光太郎「冬が来た」より
2011.11.22
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『若者よ、年寄りを侮蔑してもよい。しかし、必然的に自分もまた年寄りとなり、近ごろの若い者は、などと言いだす存在であることも忘れるな。若者よ、自信をもち、そして同時に絶望せよ』半自叙伝的なエッセイは、形を変えれば私小説にもなり得る。なぜ私小説がおもしろいのか突き詰めていくと、やはり内容のリアリティーにあると思われる。だが、私小説で最も陥り易いのは、あまりにも個人的すぎて日記や手記と言ったカテゴリに埋没してしまうという点だ。そんな中、北杜夫氏は、ほぼ実際に体験したであろう記憶の断片を、見事な切り口とユーモアをもってエッセイという形に完成させたのだ。あからさまな実体験を描くというものではなく、もっと知的で上品で、万人から受け入れられ易い作風なので、読後感が実に爽やかだ。どくとるマンボウシリーズはいくつかある中で、勧められるままに〈青春記〉を読んでみた。内容は、著者の旧制松本高校時代の、ユーモアをふんだんに盛り込んだ体験談となっていて、古き良き昭和の香りが漂う作風となっている。敗戦直後のどさくさに紛れた様子から、厳格な父親である斉藤茂吉との一風変わった父子関係に至るまで、読者を飽きさせることなく、独特な感性を披露してくれる。平成を生きる若者たちにとって、この著書がどれほど評価されるものなのかは、正直なところ分からない。というのも、時代背景はもちろん、教育のあり方や人間関係の構築のあり方もかなり違うので、共鳴には難いからだ。表面的なところだけを切り取って読んでしまうと、北杜夫氏がおもしろおかしく青春を謳歌している様子だけがクローズ・アップされる。そうすると、「自分とは違う世界の人だ」と捉えてしまう読者もいるに違いない。だが、よくよく読んでみると、この著書がある種のセラピーであることに気付く。精神科医でありながら、自身もまた神経症を患っていた北杜夫氏が、とりもなおさず自分(人間)を大切にしようではないか、と語っているのだ。蛇足ながら、北杜夫氏が小説家として本領を発揮しているのは、『楡家の人びと』であろう。この作品で、毎日出版文化賞を受賞している。北杜夫さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。合掌
2011.11.09
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ページをめくるのがもどかしいほどに、話の展開が気になって仕方がない。作者のそういうストーリー・テラーとしての力を感じさせる小説だ。舞台は長野県堀金村。事の発端は山の散策も兼ねてきのこ狩りに出掛けた主婦が、忽然として消息を絶ったことから始まる。その後も神隠しの仕業のように、行方不明者が続出。調査の結果、どうやら本州の山には棲息するはずのないヒグマが、何らかの事情で棲息していることが判明。ヒグマは肉食動物のため、人間を襲い、人肉を食い散らかす傍若無人な振る舞いを繰り返すのだった。この小説は、山や自然を畏怖する気持ちを忘れてはならないという明確なテーマによって構成されている。定石ながら、小説という表現形式において、これだけ理知的に委ねられた描写力は、見事なものだ。自然との共生・共存は、誰もが声高に訴える環境問題ではあるが、この小説では、まるで映画や音楽のように感性に働きかけてくるものがある。ノンフィクションとは違い、ややオーバーなドラマ性に傾く嫌いもあるが、ホラーの要素をふんだんに含んでいる小説なので、演出や脚色によって、身の毛もよだつ大掛かりな恐怖映画に生まれ変わる可能性を感じた。作者の早逝が惜しまれる、エンターテインメント小説だ。2010年12月25日発売【著者】北林 一光【出版社】角川書店(角川文庫)
2011.10.17
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