ココメのお気楽サロン

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のあ思索、「人生に意味はあるのか?」


ここめ。抜粋。
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あるとき、それは20歳を何年か過ぎた頃であるが、私は一つのことを決意した。それは、人生には意味などない、私には神様やあるいは社会や誰かから与えられた使命などない、ということを受け入れる、ということであった。さらに言えば、神様はいない、永遠の愛などない、という辛いこと、あってほしいものはないのである、という厳しい現実を受け止めて、それを前提して生きていくということであった。
 もし、神様がいるのなら、私は何の努力をすることもなく、すべてを神にゆだねてだらだらとふしだらに生きていればよい。もし、永遠の愛があるならば、そんなものはちっとも大切にする必要はない。なぜなら、永遠の愛は決してなくなることはないからである。しかし、神様はなく、永遠の愛もないから、私は真面目に、自らを律し、自らが判断しよりよいと思うことをしなくてはならないし、芽生えた愛は大切に育てなければならないと、思う。が、残念なことに、そう思うだけで、真面目な人生や愛を大切に育てることが私にはなかなか実現できない。
 さらに、もし、私の人生に予め与えられた意味や使命があるとすれば、それが、神と出会うことであれ、医者になって人の苦しみを救うことであれ、世界を平和にすることであれ、なんであっても、それが実現できないことがはっきりした時点で、私の生は意味を失い、私は生きている価値を失う。
 が、そのようなことはあってはならないし、断じてそうではないのである。

 私はもともと無意味に生まれ、無価値に存在している。

 しかし、それは私の人生が無意味で、私の存在に価値がないということでは、全くない。私は、無意味に生まれてきたが、たとえば、高校生の時、好きになったあの人をあれほど強く求め、長続きはしなかったにせよ、あれほど認めあい励まし合いながら生きた時間があったということだけで、私の人生には十分に意味があったと思う。もちろん、それだけではない。私はこれまで、自分の生には人生には意味があったと思える、数え切れないほどの出会いをし、経験をし、喜び楽しみ、悲しみ、時には苦しみ、生きてきたのである。その一つ一つが私の人生を意味あらしめているのである。

 もともと人間は無目的に、無意味に生まれてくる。もっといえば、親は目的意識を持って子供を作ったかもしれないが、生まれ来た側の私たちは何かのために生まれてきたのではなく、気がついたら生まれていた、生きていたのである。そんな命に意味があるはずがない。しかし、人生や命に意味などないが、生や人生に意味を発見することや創造することは立派にできるのである。

 価値も同じである。私の存在にもともと価値などない。私だけではなくほとんどの人間に生きている価値などなかろう。極論すれば、私たちは死ぬまでの時間を浪費しているに過ぎない。が、そのような浪費に価値あらしめることができるとしたら、それは自らが自らに価値を創造することをおいてほかにないのである。私はあなたに会えた、それだけで私の人生には価値があった。そのようにして、私の価値は生じてくるのである、と、私は思う。

 だから、それが神様であろうが、親であろうが、家族であろうが、教師であろうが、なんであろうが、誰かに人生の目的や、生きる使命や、生の意味などを与えてはいけないのである。

 家族を愛し養うことに生きる意味をみつけるのはよい。が、家族を愛し養うことが人生の目的であったり存在の意味であったりしてはならない。なぜなら、もしそうなら、家族を失った途端に、その人は存在の意味を失うからである。
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