中沢新一の対称性論理



中沢新一が「対称性人類学」(講談社選書メチエ、カイエソバージュV、2004年)で敷衍している、無意識が持つ対称性の論理という仮説についても(60ページほど読み終えただけで結論付けるのは、少々後ろめたいが)、眉唾物と感じる。

基本的なアイディアは、無意識のレベルでの人間の思考は科学的な思考とは全く異なったものであり、野生の思考(レヴィ・ストロース)や神話の思考に表現されているのを観察することが出来る、というものだ。無意識の主要な特徴は、まず、個体についての認識ではなく、個体が所属する「種」や「クラス」に関心を示す、ということ。次に、ものごとを分離・区別していく科学的思考に対して、無意識が注目するのは異なったものごとの間の相似性だ、という点。この「相似性」を、中沢は「対称性」と呼び、対称性に目を向ける無意識の思考性を「対称性の論理」としている。

中沢の「対称性」は、この本の中では十分定義されていない(おそらくカイエ・ソバージュの1巻から4巻のどこかに定義があるのだろう)。「神話的思考の中では、通常の論理では分離されていなければいけないはずのものが、異質なものどうしをつなぐ深層の共通回路をつうじて、ひとつに結びあわされてしまっている」(p.4)という一節から想像できるように、直感的・感覚的・あるいは無意識的な類推によって異質なものに共通性を見出す性向、とでも言おうか。数学や物理学で使う「対称性」の概念に倣った意味で使っているものと思われる。左右対称(線対称)とか点対称とかに使われている、対称という概念だ。右と左を入れ替える、ある角度回転させる、などの「変換」をほどこしても、元の形が維持されるとき、対称であるとされる。

無意識が対称性論理に拠っている、という中沢の考え方(あるいは彼が影響を受けたチリの精神科医、マッテ・ブランコの無意識論)自体は、フロイトの理論でもラカンの理論でも同じことで、なるほどねと思う程度である。ところが、中沢は、「対称性の考えによって、私は神話的思考の本質をあきらかにしようとすると同時に、<無意識>の働きに格別の価値を回復しようともしている。・・・<無意識>こそが現生人類としての私たちの<心>の本質をなす・・・私はこの対称性人類学という学問をもって、現代に支配的な思考に戦いを挑もうとしている」と書いている。

ここまで行くと、イデオロギーにとらわれた観念論のように思える。無意識という、意識とは違う論理を持つ実体のようなものを想定し、その復権を叫んでいるが、賛同できない。無意識とは、意識として成立するまでの神経回路と記憶装置のネットワーク(前意識ネットワークとここでは呼ぼう)のようなものじゃないだろうか。確かに、前意識ネットワークでは、二項論理とそれを横断するコネクションが重要な役割を果たすだろう。それは、神経が二項的な信号を使って機能しているからだろう。対称的な思考、あるいは相似性・類似性による類推も欠かせない。判断や記憶が成立するためには、それ以外の方法は想定しにくい。記憶、イメージ操作、言葉遊び、パターン認識、あるいは創造性など、対称的な思考が主役を担っている分野は多い。つまり、人間の意識を成立させている裏というか下というか背景というか、そこには前意識ネットワークの論理が働いているわけだ。具体的にどのように作動しているか、それは神経生理学が徐々に明らかにして行くだろう。(2016.4.9)

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