実家に忘れてきました。何を?勇気を。これは冒頭に置かれた主人公・渡辺拓海のセリフですが、お母さんが「実家に帰らせていただきます」とよく口にしていたことに絡めて、勇気を忘れてきた、という表現がいかにも意表をついていて面白いです。その組み合わせの妙に加えて、お母さんのセリフ自体がストーリーの後半に繋がっていくというのも巧みです。ちなみに、このセリフは「勇気はあるか」という質問に対する答えなのですが、「モダンタイムス」で伊坂氏の言いたいことのひとつが、勇気をもたないと危ない、という点なので、その主張を大上段に構えずにこういう形で忍ばせておくのも、時代に合ったスタイルだと思います。
人はな、他人が何を正しいと考えているのか、それをもとに判断をする、ってことだ。登場人物の一人、井坂好太郎のセリフです。本書のあとがきで、「井坂好太郎」について触れています、「これは、単純に、小説家の名前を考えることが億劫になり、自分の筆名を変形させたに過ぎません」と。おそらく伊坂氏特有の照れでしょう。もちろん戯画化されているものの、作家自身の考え方をある程度反映させていると思われます。引用した主張は、社会学では古くからある「社会的正しさ」という概念に近いと思いますが、人間の行動の原理のひとつです。人々が検索結果をもとに自分の社会的行動を決める社会では、情報を巧みに操作することによって人々の行動をコントロールできる、という恐ろしいテーゼを、女好きでいい加減そうな井坂好太郎という人物に言わせているところが、井坂氏の照れであり方法だと思います。
二十一世紀のはじめ、平和憲法を大事にし、軍隊をもたずにいた時代、彼は突如として現われ、「自分たちの国に、自分たちの足で立て」と訴えた。「彼」というのは、安倍晋三氏ではなく、小説の中の犬養舜二という元首相です。犬養の力もあり、憲法改正は実現し、この未来小説では徴兵制も存在しています。この作品が書かれたのは2007年から2008年にかけて、文庫版でいくらかの改訂があったのが2011年10月です。いずれも、安倍晋三氏が首相に就任した2012年以前で、伊坂氏は安倍氏の登場と憲法改正の方向性を予言していた、ということですか。
ただね、携帯電話だと片方しか聞こえない。こっちで喋ってる人の声しか聞こえなくて、電話の相手の発言は分からない。会話の全貌が分からない。そうすると、自分が蚊帳の外に置かれている気分になるわけ。疎外感よ。それがね、人を苛立たせるの。主人公・渡辺拓海の妻・佳代子の発言です。電車の中や喫茶店・レストランでの携帯使用については、以前から不思議でした。普通に会話している人たちは電車にもレストランにもいくらでもいるのに、なぜ携帯の会話はいけないんだろう、と。確かに「佳代子」の説はよく耳にしますが、自分の経験に照らし合わせると、必ずしもそうじゃないとも思えます。というのは、日本の電車に乗った時には僕も苛立つのですが、アメリカの電車で大声で話している若者などの存在は、無視できるのです。まあこれは、その若者たちに立ち向かう勇気もない、という別の事情もありますが。つまり、苛立つも苛立たないも自分の居場所、ということになります。結局は、ルールが存在するかどうか、です。人は、その行為の内容よりも、行為に対するルールや規範の有無に反応するのです。ルールがあれば、そのルールに反する行為には苛立つ。なぜ苛立つか、それは自分が従っているのになぜあなたは従わないのか、という不公平感、更には嫉妬心からでしょう。
ルールには二種類あるのよ・・・大事なルールとそうじゃないルール・・・(大事ではないルールに、その必要もないのに従うことは)誰かの決めたルールを無条件に受け入れるだけ、ってことよ。再び、佳代子の主張。結局これなんですよ、携帯の会話についても、それがルールだから人は苛立つ。ルール遵守型社会(日本はその最たるものですが)では、大事なルールとそうじゃないルールの区別があいまいになっています。そこで、佳代子の言うように、多くの人は大事ではないルールにもちゃんと従い、それを破るものには苛立つ、のです。