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毎日の酷使に耐えかねたか、我が家の洗濯機が壊れた。壊れたと言っても、脱水機の部分だけで、洗いは普通にできる。思い起こせばこの洗濯機は、引越ししたとき、引越し先のマンションの洗濯機置き場が全自動専用だったため、まだ使える二槽式をあきらめて買ったものだった。もう15年くらいになるから、修理するより買ったほうが安いなんていわれるんだろうな。直して使いたいのだけれど。明日にならないとどうなるかわからない。
2005年11月23日
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とても好きだった映画に「キャメロット」がある。アーサー王の話だが、アーサーの役をリチャードハリスがやっていて、これがもう最高!王妃グェナヴィアは、ヴァネッサレッドグレーヴ、騎士ランスロットはフランコネロが演じていた。皆若くて凄くきれいだった。何年か前、貸しビデオ2巻組で見直したらやっぱりよかった。リチャードハリスと言えば、ハリーポッターでダンブルドア校長の役はけっこうお似合いだった。亡くなったのは本当に残念だ。映画であんなにどきどきできることはいまでは殆どなくなってしまった。
2005年11月21日
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高橋尚子さんやりましたね!アテネの選考に落ちた時の小出さんと一緒の会見が忘れられません。悔しいとか小出さんの判断ミスを責める言葉とか一切言わない.健気でみていられませんでした。あれはやはり、小出さんの強引なやり方が通用しなくなっていた状況を、見誤ったのが原因だと思います。松野明美さんと有森裕子さんでもめた時も、小出さんはルール無視をしたのを、陸連は許し有森さんを選出して、随分批判もあったのにメダルが取れると世論はひっくり返って賛辞一色になってしまった。松野さんは気の毒でした。結果オーライでは選手が納得できませんよ。陸連もふらふらしないで選考は公平に、経験を重視するならそう始めから言えばいいし、とにかくこれまでのようなのはいけません。高橋さん。おめでとう!
2005年11月21日
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昨日、宅急便で柿が届いた。いつも食べる種無し柿の2倍位もありそうな、大粒の富有柿。懸賞の賞品です。 ありがたくいただきます。
2005年11月20日
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小学校3年くらいだったかに、ベンハーの最初のロードショーがあり、かぞくみんなで、帯広まで見に行った。内容が皆理解できたわけではない。しかし、キリストの処刑の後、強い雨が降り血が川のように地面を流れていくシーンがあった。それが頭を離れなかった。その夜は、人が死ぬと言うことを考えると怖くて怖くて、いつまでも寝付くことができなかった。死ということを実感したのはこの時が最初だった。
2005年11月18日
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音楽は大好きだけれど、歌う事も、演奏する事もできない。歌える人や演奏できる人は、とても羨ましい。そう思う一方で、できなくていいなと言う思いもある。もし自分も歌ったり演奏したりするならば鑑賞の妨げになりそうに思う。自分の技量と引き比べたら何にも批判できなくなりそうだ。そうなったらどんなにつまらないだろう。思い切り言いたい事の言える今のポジションを手放すなんて考えられない。
2005年11月17日
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初めて北海道から出て転校した先は、東京のベッドタウンのI市だった。ここは転入する住民が多く、私の入った中学も4割が転校生と言う話だった。当然転校生なんて珍しくもなく、私はクラスメートからは無関心に放っておかれた。田舎では転校生はみんなにあれこれ質問攻めに会い、あっという間になじんでしまうのがそれまでの常だった。このときは、私はなかなかクラスになじめないでいた。掃除当番でゴミ箱の片付けをするとき、私が「このごみ何処になげればいいの?」ときくと「なげる?」と聞き返されて笑われた。なげるが方言だとは思ってもいなかったので、笑われたのはショックだった。友達の反応を見なければ方言の判定ができない。私は随分臆病になってしまった。ただ、自分で考えるより人は私に注目していないと言うことがわかってきたので、徐々に自分を出せるようになった。思い出すと泣きたくなるほど懐かしい。
2005年11月16日
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子供の頃は、よく転校した。北海道時代は田舎と言うか、僻地ばかりを移動していた。中2のときはじめて少し大きい町に転校して、生まれて初めて期末テストというものを経験した。それまでは、複式学級ばかりで先生は子供たちをみなファーストネームで呼ぶような隅々まで目が届く学校だったので、改めてテストしなくても成績付けに困りはしないと言うことだったのだと思う。初めての期末テストはおもしろかった。これがうわさに聞く期末テストかと、有名人に会ったような変な嬉しさがあった。このときのような楽しいテストは残念ながらその後は訪れなかった。この後すぐまた転校した私は北海道の田舎と都会のレベルの違いに愕然としたのだった。 つづく
2005年11月16日
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ニュース番組をよく見る。最近気になることがある。高校生が同じ学校の女子生徒を刺し殺した事件があったが、とても報道とは呼べないような作り方の番組が多いように思う。表に出てくる事実は少ない。そもそもどこから出ている発表なのかもあまりはっきりしない。そういう中で、あるストーリーを想定して、それに沿って憶測に憶測を積み重ねるような、無責任と思える報じ方が目に付く。 本当ではないかもしれない事も、1日に何回もくり返し聞かされれば耳に残る。取調べ中の事件が、そんなに簡単に説明がつくのはおかしい事ではないか?ワイドショーが全て悪いとは言わないけれど、ニュース番組がワイドショーのまねをするのはいただけない。
2005年11月15日
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息子は高校生。どんな音楽を聴くかといえば、いまどきのJポップと言うのが多いようだ。ドラゴンアッシュとか宇多田ヒカルは私も好きだけど、よくわからないのもおおい。勧めてみて反応のよかったものは、1、Rストーンズのジャンピングジャックフラッシュ。2、キングクリムゾンの21世紀の精神異常者。3、井上陽水、色々。4、エマーソンレイク&パーマーのタルカス。等等。サイモン&ガーファンクルはどうか聞いてみたら、知らないと言うので、コンドルは飛んで行くは?というと、あー、与作ね。といわれてしまった。これ割りと有名な話ですね。どちらにしてもあまり好きと言う対象、にはなっていないようです。息子の今1番のお気に入りは、エルレガーデンとか言うバンドであるらしい。
2005年11月14日
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中学生のとき叔母に付き合い「卒業」を見に行った。秋の黄葉(紅葉よりもこう言いたい色調だったと思う)の中、キャサリンロスがさ迷い歩くバックに流れていたスカボローフェアがすごくよかった。パセリ、セージ、ローズマリーアンドタイムがみんなスパイスだったときづいたのは大分後になってから。
2005年11月13日
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小学1年のときだったと思うが、うさぎを飼ったことがある。近所のともだち3人で「ウサギやさん?」に頼んであった。楽しみに学校から帰ってくると、2人の友達は私より早く帰ってきていて早いもの順で自分のウサギを決めていた。2人のウサギは、白くて目の赤い絵に描いたようなウサギだった。私に残っていたのは、黒い目の茶色のうさぎだった。私も本当は白いウサギがほしかった。ずるいと思ったけれど、取り替えてと言うこともできず、茶色いウサギを飼うことになった。 自分のウサギだから自分で世話しなければならない。えさは、はこべやタンポポの葉。小屋の金網越しに押し込んでやると鼻をひくひくしながらいつぱい食べた。私のウサギが、3匹の中で1番大きくなった。一度小屋から逃げ出したことがある。いつもえさのはこべを取る原っぱを、どんどん逃げていったのを、走って追いかけて、やっと捕まえたけれど、後ろ足で思い切り蹴られて、腕が大きなミミズバレになった。白いウサギが羨ましいとはもう思わなかった。ピーターラビットのことはまだ知らない頃の話。
2005年11月11日
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多分4歳位の頃住んでいた家の記憶がある。木造平屋の狭い家には、ポンプがあった。ハンドルをガチャガチャ押してバケツに1杯水を汲み置いておく。出口にはさらしでこしらえた砂を漉すための袋をくくりつけてある。冬はマイナス20℃以下になるので、水下げが欠かせないが、水を出すときのための呼び水を汲んでおくのは絶対忘れてはいけない。電気はなかった。照明はランプ。毎日磨かないとガラスがすすで真っ黒になる。磨くのは私の仕事だった。手が細い子供のほうがランプのなかにはいるので都合が良かった。暖房は薪ストーブ。炊事にも使ったから1年中焚いていた事になる。
2005年11月10日
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漫画といえば、OLをしていた時、部内で「ベルサイユのバラ」を回し読みしたのが懐かしい。60人程もいる大きな部だったが、半分くらいの人達が読んだのではないだろうか。何より特筆すべきは所有者で、1課長のNさんだった。1課、2課、総務課と3つの課から成る業務部には、地方の支店長から戻った平課長が7~8人と、課長はたくさんいる中の1課長はトップだった。どうしてああいうことになったか、いきさつは良く覚えていないのだけれど、とにかく全10巻このとき読むことができてよかった。オスカルという架空の人物の発明が成功のポイントだと思う。これとよく似た感想を、最近持った。「ヒカルの碁」の藤原佐為。これはオスカルだと思った。この漫画についてはたくさん思いがあるけれどそれはまたいつか。
2005年11月09日
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漫画と言えば、永島慎二が好きだった。若者たちと言う作品があり、ぽえむと言う喫茶店が登場するが、これは本当に存在する店だ。阿佐ヶ谷に始まり、随分あちこちに支店もあるはずだ。漫画の中で、お客が、「マスター、コーヒーまだー」と催促すると、「うちはおきゃくさまが見えてから豆を挽いて1杯づつ淹れているんです。やかんでまとめて淹れるようなコーヒーが飲みたかったらよそへ行ってください。」とマスターが答える場面がある。本当にそういう店だった。この作品には色々な若者が出てくるが、井上あーという詩人が登場する。私はこの人物が1番好きだった。詩人だけど、紙の上には書かない。書いた瞬間に詩は嘘になってしまう。口から出るただ1回の叫びが真実だ。確かそんな風に言ったと思う。ひとつだけ気に入らなかったのは、井上あーが、高校の担任だった、K先生にそっくりだったこと。この先生が私は嫌いだった。びっくりするほど似た顔なのに、 人間は対極にあるタイプだった。慎み深くナイーブな井上に対して、K先生は上昇志向で現実的でしたたかだった。夏休みを利用して大学院」に通い、大学教授へと転身していった。こう書いてみれば、別に非難されるような行いではない。立派といつても良いくらいだ。でも好き嫌いでいえば、嫌い。
2005年11月08日
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今日非通知の電話が入った。珍しいことでもないが、非通知には名乗らないで出る事にしている。迷惑な営業物が殆ど、時々はお客さんの注文なので一応は丁寧に、少し警戒しつつ話す。今日のはそのどちらでもなかった。若い女性の声で、明らかに営業トーク。怪しい、気をつけねば、と構えていたら、なんとそれは、もうとうに忘れていたプレゼント当選の知らせだった。柿がひとケース当りましたとさ。生ものなので受取日の希望確認だと言う。ほんとに当るんだ!これで運を使い果たしたのでなければいいのだけれど。先ずはよい知らせでよかった。
2005年11月06日
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11月5日は夫の誕生日。特に予定は無いけれど、好物を作って軽くお祝いしたい。何にするかは考え中です。 取引先から鮪のさくをいただいたので、手巻き寿司にしようと思い、スーパーでいなだとホタテと鯵の刺身を買ってきた。ひき割納豆もあるので、あとは厚焼卵を焼けばOk.すばやくできるという所が、毎日の料理で1番肝心なこと。身体の為には8時前にたべたいところだけれど。
2005年11月05日
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レッドツェッペリンに勝るとも劣らない出来だった、イエスのコンサートは、珍しく一人ではなく弟と一緒だった。4歳違いの弟は、かなり近いとはいえ3大ギタリストではジェフベックが一番好きだったり、クラプトンが嫌いだったり趣味に食い違いはあったけれど、イエスに関しては大丈夫だった。このときのイエスは、「危機」を発表したあとで、残念なことにドラマーがビルブラッフォードから、アランホワイトに変わっていた。しかし、それ以外はベストメンバーで、スティーブハウも、リックウエイクマンも、もちろんジョンアンダーソンも最上の出来だった。こういう場面に出会えるのは実はそう多くない。はずれも数多いのだ。足を運んで見なければわからないのが悩みでも、楽しみでもある。当たりの場面に出会えたときは、生きていて良かったと思える。大げさなようだけど、それがライヴだ。
2005年11月03日
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奇術同志会の部長は、なぜか応援団長を兼務していた。どちらかと言うと自由で自律的な校風だった学校にあって、応援団は浮いた存在だった。なんとなく哀愁を漂わせていた部長を思い出すと、気の毒なような気がする。メンバーにはモデルのアルバイトをしている先輩もいた。モデルといつても学習系の雑誌に写真が載るくらいの、わりと地味めなものではあったけど、学内では有名だった。思い出してみると結構面白いところだった。奇術をもう少しまじめにマスターしておけばよかった、とちょっと後悔している。
2005年11月02日
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美術部に入る前少しだけ奇術同志会に入っていたことがある。部とは呼べない少人数のサークルだった。カードや、小さい道具を使う簡単な奇術を教わった。内容はもう忘れてしまった。今でもひとつだけ覚えているのは、種を右手で仕込んでいるときは決してそちらを見ない。反対に左手に視線を向けるということだ。簡単なことだけど、効果ははっきりある。
2005年11月01日
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別な年の夏は、上高地にキャンプだった。8月と言うのにバスで目的地に向かううち、どんどん寒くなっていき、これは大変とあせった。何しろキャンプだからテント泊、毛布だけで風邪をひかなかったのは日頃の行いのおかげ?今回はまじめに写生旅行と言う事で、各自何枚かかきあげた。大正池を描いた油絵は文化祭の展示用。今ではどこへやつたか判らないのが残念。せっかく重い絵の具やキャンバス、担いでいったのに。 こういう観光地では、結構絵を書いている人はいる。とても写実的な、キレイな絵を描いている人を、「売り絵画家」と呼ぶことを教わった。多少、軽蔑をこめて。写実的なのが悪いのではなく創造的でないのが救いようが無い、ということ。ナマイキな高校生だった。
2005年10月31日
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美術部にも合宿はある。夏休みに九十九里でキャンプの年があった。日の出前の砂浜を散歩したとき、地引網にかかったエイを見た。1メートル位もある大きいもので、窪んだ眼が怖かった。あれはあの後どうなったんだろう。砂浜に拳くらいの大きさのクラゲが沢山打ち上げられていた。友達のオショーはこれを何故か「おばけのつくだに」と呼んでいた。言い得て妙とはこのことか、、、いまも、クラゲを見るたびそのフレーズを思い出す。
2005年10月30日
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夫と初めて会ったのはオイルショックのさなか1974年1月4日だった。この日は会社の初出勤だけど、有休をとって新宿厚生年金ホールへキースジャレットのコンサート。基本的にコンサートは1人で行くものと決めていた。この日はカルテットの演奏でとてもすばらしかった。急遽追加公演が決まり、15日にソロコンサートがあるという。もちろんチケットを買い、満足して駅に向かうと、3日の演奏を聴いて、ソロのチケットを買いに来たと言う夫(になるひとと言うべきか)が感想をきいてきた。新宿駅までの道々各々の感想を言い合いそのまま別れた。15日のソロコンサートは芝の郵便貯金ホール。予想されたことだけれど、再会したわたしたちは、趣味の友達になったのである。コンサートに一人で行くのは、楽しみを邪魔されたくないからだ。同好の士ならそんな心配は要らない。というわけで、1番趣味の合う同士なので、これを私は趣味の夫婦と呼んでいる。-----Original Message-----From: [mai] Sent: Friday, October 28, 2005 10:59 AMSubject: 28日の日記
2005年10月28日
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高校受験の友は深夜放送だった。1番良く聴いたのはオールナイトニッポン。今仁のテッちゃんがお気に入り、亀ちゃんは新譜情報が楽しみ、糸居五郎はダンディでかっこよかった。学校から帰るとすぐ寝て、12時ころに起きだしてラジオを聴きながら朝まで勉強するのが日課だった。リクエストが読まれるのも楽しかった。昔はのんびりしてたね。オールナイトニッポンも1時~5時の4時間を一人のパーソナリティーが生放送して、リクエストもはがきだけ。1日一人に1万円プレゼントというのもあって、私は2回当選したことがある。当時の1万円は中学生には大金だった。何しろお小遣いが月2千円でしたからね。1枚LPを買うと1月文無しですよ。物価の推移からすれば、CDは高くないね。いまはレンタルもあるし、音楽は消耗品になってしまった。1枚を選ぶ切実さはなくなってしまった。
2005年10月28日
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高校に入学して、スポーツの苦手な私は美術部に入った。先輩に「明日はパンを持ってきてね」と言われたので、放課後の活動でおなかがすくんだろうなと思い、家にあったクロワッサンを持っていった。それを見て皆が大笑いしたのでぽかんとしていると、パンは、木炭デッサンの消しゴム替わりに使うためで、食パンのことだと教えられた。何にも知らないのは私だけだったようだ。クロワッサンは美味しく皆で食べたけどね。
2005年10月26日
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レッドツェッペリンが大好きだった。来日した時は、武道館に見に行った。当時レコード会社に勤めていた叔母にチケットを頼んでいたのに、ツェッペリンの人気を知らずにのんびり構えていたら、良い席はなくなりB席しか取れなかったのは悔しかった。席はステージ斜め後ろの2階席で、お世辞にも良いとは言えないけれど近いことは近かった。おかげで、メンバーの表情はよく見えて、ジミーぺイジとロバートプラントがアドリブに奔っているときしっかり背骨を通しているのがジョンポールジョーンズだったと知った。演奏はすばらしかった。私の行ったロックコンサートの中では1、2を争う。もうひとつは、新宿厚生年金のイエス。この話はまた今度。
2005年10月25日
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37年ぶりにコンサートをしたクリームのうわさは知っていた。こういう場合ほとんど、聴くに堪えない、懐メロ大会と言うのがお決まりだから、敢えて聴いてみたいとはおもっていなかった。いまじゃクラプトンの名前を知らない洋楽ファンは珍しいほどメジャーになっているけれど、私にとって最高のクラプトンはクリーム時代。その後の色々な活動は余生みたいなもんだと思っていた。 でも、聴いちゃったんですよ。凄い!やっぱりあのメンバーで、あの緊張感。ひさびさにゾクゾクしました。はやくDVDがみたい!
2005年10月24日
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