顕正会脱会のススメ!

顕正会脱会のススメ!

PR

Profile

龍神ひろし

龍神ひろし

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

Calendar

Comments

龍神ひろし@ 法華講以外は 書き込み禁止です。しつこく書き込みする…
龍神ひろし@ ANPさん初めまして 一人暮らしだからでしょう。前の部屋の二…
ANP@ Re:毎年この時期に思う無駄な事。(12/23) あっつぁブログなどに書き込みしている者…
国分ひろし@ しばらく コメント書き込み禁止設定にします。   …
国分ひろし@ Re:悪戯で書き込みする馬鹿どもへ お客様個人をどう傷つけたのでしょうか? …
2013.02.11
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
昨日の続きです。

『二箇相承』の行方は?

 重須日殿憤死の後間もなく、武田一門は甲州に押し寄せた織田・徳川連合軍に天目山で包囲され、天正十年三月十一日に滅亡しました。この戦乱の中に、甲府に運ばれた重須重宝も行方不明となり、存在さえ危(あや)ぶまれる事態となったのですが、重須も西山も、これの探索追跡に血眼(ちまなこ)で当たったことは想像に難くありません。
 そして重宝の一部は間もなく甲府で見つかったようで、家康の重臣本多作左衛門(さくざえもん)重次(鬼作左(おにさくざ)の異名がある)の差配するところとなりました。これの獲得をめぐって、重須と西山は必死の働き掛けを行ったことが、「日春甲府惣旦方宛(そうだんほうあて)書状」(天正十年十月十五日西山文書・蓮華第三号・以下「日春状」と略称)及び「本多作左衛門状」(天正十年十月二十八日・富要八巻一七四・以下「本作状」と略称)との二文書より知られます。
 「日春状」では、日春が首尾よく作左衛門に働きかけ、五百両もの高額な買い取り金を示して、十月七日に重宝を獲得したことを、甲府にいる有力な惣檀方(そうだんほう)(檀徒の中心者)に対して知らせた内容です。続く文面では、重須側でも、西山提示の額以上を出しても重宝を取り戻そうとしていたことに触れ、西山へ渡されることが決まった事に重須は無念がり、御会式の場では喧嘩口論も飛びだしたと聞いたことなどを伝えています。ところがこの度見つかった宝物には、「二箇相承」・「額」・「八通之遺状」の三点の重宝は含まれてなかったので、作左衛門よりはこの三点について、引き続き厳重な探索を続けるとの堅い約束を取り付けたとも述べています。そして西山としては、この三点を得るのが目的であるが、他の文書が出ればそれも一緒に受け取るようにとの作左衛門の意向ゆえに、三点を確実に獲得するためにも、他の文書も受け取るつもりであると述べています。
 この書状で日春が指摘した三点のうち、「二箇相承」は周知のごとくです。「額」とは重須に伝わる「本門寺根源額」のことで、大聖人が遺命された本門寺の戒壇が建立された暁(あかつき)に懸けるために、日興上人に授与された宗祖直筆の額ということですが、実物が今日に伝わらず、真偽を論ずる事さえ不可能です。そして「八通之遺状」については、西山の祖日代が日興上人より付嘱があったことを証する、日興上人直筆といわれる八通の文書のことですが、これも時代写しさえ今日に伝わっていません。以前にも触れたように、八通のほとんどは北山と対峙(たいじ)する西山が、日代の正統を証する目的で、この時代より相当以前に作り出した偽文書と見られています。
 ただ、これほど西山で大事にしてきた「八通之遺状」を、西山歴代を嗣いだ日春が、重須の重宝の中にあると考えていたこと自体、不可解なことです。
 この文書については、重須日殿が甲府の奉行所に申状案文にも「西山八通に置状」と書いているので、明らかに「西山に所蔵されてきた八通の遺状」(真偽はともかくとして)というのが、この一連の文書に対する当時の一般的な認識であったはずですが、日春が二箇の相承書など重須の重宝とともに、手に入れたいと書状に書いたことについて、これをどのように解釈すればよいのでしょう。日春は西山の貫主となったものの、自山にある宝物の内容さえ知らなかったのか、あるいは自山に八通之遺状の原本が無いので、日代が重須に残してきたと思い込み、それをこの機会に手に入れたいと考えたのでしょうか。何れにしても日春に垣間(かいま)見られる態度には、重須との闘争に脳裡を奪われる一方、重大な認識不足を露呈する、一山の貫主らしからぬ姿勢も見えてくるようです。

 作左衛門のこの申し出に対して、喜んだ日春は請書(うけしょ)を用意しました。その案(下書)が残されています(「日春請文の案」富要八巻一七四)が、この内容には、この時見つかった重宝の数が「日蓮御自筆物数合わせて六拾六」とあり、そのうちに御本尊が八幅含まれていたということです。また作左衛門が気前よくすべてを寄進しようと申し出たことについて、これを深謝する意も述べられています。
*宗祖御自筆の書六十六点とは、実際は宗祖御真筆だけではなく、宝物全体を合わせて六十六点あったということであろう。

 このような経過をたどって、一度は日春の思い通りに事は運び、重宝六十六点は天正十年十月七日、西山に確かに寄進されたのです。ところが、肝心の作左衛門の主君徳川家康は、これより数ヶ月さかのぼる同年二月、甲州攻めの途上、重須近くの小野沢村に宿営、重須日出は挨拶に出向き、家康の庇護(ひご)を受けるほどの良好な関係を結んでいました。
 重須では十代日殿憤死後、前貫主であった老僧日出が、やむなく再び貫主に就いていました。その日出が家康の宿営を訪れた時の様子が、重須に伝えられています(日出記)。
 家康は日出に対して、法名と年齢を尋ねました。そして、日出という旭日を意味する法名と、米寿(べいじゅ)に達するという年齢を聞き、征討軍出立に際してこれは吉兆(きっちょう)であると、日出に会ったことを喜びました。さらに大久保新十郎忠隣(ただちか)を遣わし、武運長久の祈祷を願い、これに応えて日出は、宗祖漫荼羅本尊(建治二年二月)を授けたのです。
 その後、家康一行は武田を滅ぼして帰る道すがら、五月十日に再び当地を訪れ、日出に会って漫荼羅を返還。漫荼羅御本尊の法威(ほうい)により無事帰還できたことを謝した上で、褒美(ほうび)として朱印状の交付と、本門寺堀後に称される用水路の開削(かいさく)を約束しました。
 日出が授けた宗祖漫荼羅御本尊については、戦場で家康に向けられた銃弾が、替わりに漫荼羅の花押部分に当たり、家康の一命が助けられたということから、「鉄砲漫荼羅」の呼び名で本門寺の寺宝とされてきました。本門寺堀については、命を受けた井出甚之助正次によってただちに工が起こされ、間もなく完成を見たようです(富要八巻一五九)。
 このような重須側の動きは、本多作左衛門が贔屓(ひいき)にした西山側の働きかけを凌(しの)ぐものでした。すなわち重須日出が家康と昵懇(じっこん)になったことで、甲府に運ばれたまま行方不明になった重宝の探索と返還について、日出が家康に懇願(こんがん)したことは間違いありません。
 重須の寺伝によれば、ひとたび西山に納められた重宝は、それよりわずか数ヶ月後の天正十一(一五八三)年二月二十六日、家康の命によって取り上げられ、本多弥八郎の手で重須に返還されています。その時の重宝目録として、
 宗祖御真筆漫荼羅大小十一幅、日興上人御真筆漫荼羅大小三十九幅、日興上人御真筆聖教、日興上人御真筆日澄師への遺状一通、日代筆五人立義抄一巻、日源筆安国論二巻、大聖人御珠数一連、日興上人御真筆開目抄要文三巻、日興上人御真筆内外要文二巻」(富要九巻二一)
 以上のように記録されています。ここにはほぼ六十点以上を数えることができ、日春が用意した請書(先出)の六十六点と数の上ではほぼ合致するようです。もちろん二箇の相承書はこの中に見られません。同書に続いて、

と、重宝が西山より重須に返されてきた事を、喜びを交えて記しています。しかし文中「東照神宮」とは家康没後の呼び名で、史料としては後世に成ったものということが判りますが、重宝の内容と、それらが重須におさめられた経緯はほぼうかがえます。ここにある本田弥八郎とは本多正信(まさのぶ)のことで、家康の側近ですが作左衛門重次とは別人です。
 同書には続いて、
「平岡岡右衛門殿より御帰(かえ)し成され候覚」(富要九巻二二)
として、宗祖御真筆の法華経や『貞観政要(じょうがんせいよう)』など数点が挙げられていますが、これらは先に列挙した重宝とは別に発見されたものだったようで、それが重須に納められた記録と思われます。
 先に挙げた「妙本寺古記」には、甲州商人岡田宇賀右衛門が戦火の中、御大事箱を駿河に持ち出したことが記されていましたが、「平岡岡右衛門」と「妙本寺古記」の「岡田宇賀右衛門」とはやや似た名前でもあり、どちらかの史料の誤記による違いで、実際は同一人物と思われます。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013.02.11 14:59:06


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: