17喝 18過去生 19無邪気 20幻想



ゆっくり瞑想で行うことを禅師は、一喝する。弟子が質問をする。と禅師は飛び上がる。喝を入れる。打(ぶ)つ。部屋から放り出す。飛び乗る。こうしたやり方は、過去にはなかった。馬祖の天賦の才によるものだ。彼のとても創造的な発明。そして、たくさんの人が悟った。

その光景は、ときにとっても滑稽だ。彼は、男を窓から放り投げた。それも二階の窓から。その男は、何を瞑想するのかを尋ねに来たのだった。馬祖はその男を放り投げただけでなく、後を追って飛び降り、馬乗りになって、「分かったか!」と言った。

かわいそうに、その男は「はい」と答えた。「いいえ」と言おうものなら「打(ぶ)たれる」か何かされるに違いない。あんまりだった。男は骨折しているというのに、馬祖は、馬乗りになり、「分かったか!」と言う。

実際、男は理解した。あまりに突然で、青天の霹靂であるがゆえに。思いもよらないことであったがゆえに。

18 過去生

子供が意識を持てるようになるのは、過去生で十分に瞑想をしてきた場合だけだ。死の暗闇と戦う瞑想的なエネルギーを十分に創造してきたときだけだ。人は、死の闇の中で無意識にさまよう。そしてある日突然新しい子宮を見つける。過去の古い体のことは、完全に忘れる。ある途切れができる。この暗闇、この無意識がその断絶を創り出す。

東洋は、この障壁をうまく通り抜けようと必死に働きかけてきた。1万年にわたるこの働きかけは、無駄にはなっていない。すべての人が、過去生に入ることが出来る。何生にもわたる過去生を貫くことが出来る。しかしそのためには、もっと深く瞑想に入っていかなければならない。理由は、二つ。まず、深く入っていかなければ別の生の扉を見つけることが出来ない。二つ目は、もし見つけたら、途方もなく多量の想念が、洪水のように頭に流れ込んで来る。だから瞑想には深く入っていかねばならない。

一つの生を送るのでさえ、十分に大変なこと。

19 無邪気

禅曰く、学んできたことを捨てたら、無邪気になれる。その中には、自分の名前や自分の性格など他人から授かったすべてを含む。もし、そのすべてを捨てたら、あなたの質は全く変わる。無邪気になれる。

これは、仮面を、性格を十字架にかける行為だ。あなたの無邪気が復活する。再び子供になり、生まれ変わるのだ。

20 幻想

夢と現実の区別はこれしかない。現実は疑えるが、夢は疑えない。

私にとって、疑うことが出来るというのは、人類に与えられた天からの最高の贈り物。宗教は、絶えず敵対してきた。というのも宗教は、疑いを根絶してきたのだから。それには分けがある。宗教は、自分達が振りまく夢や幻想に疑いを挟ませないように躍起になってきたから。

なぜ仏のような偉人達は、全存在は夢のようにはかなく移ろい行くものだと言い続けてきたのだろう。自分を見つめること以外は、気づくこと以外は、夢と同じもので出来ているのだと言い続けてきたのだろう?そこにある木々は実は存在していない、と言っているのではない。そこの柱が、実は存在していない、と言っているのではない。「幻想」という言葉ゆえに誤解しないように。「幻想」と訳されてきたが、幻想はぴったりの言葉ではない。幻想は存在しないもの。現実は存在するもの。その中間にマーヤがある。それは、存在しているように見えるが実は存在していないもの。日々のことについては、マーヤは現実と言える。究極的な意味においては、悟りの高みから見れば、それは非現実、幻想だと分かる。

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