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日本では、社会保険料を40年払い続けた場合、退職後65歳時では給付金は月額約13万円となっています。夫婦2人13万円で生活できるかな。ずっと一人の私でさえ13万円は厳しいのです。おまけに65歳まで0円。しかも今の通貨価値でです。いままでは、国にお任せしておけば、なんとか老後は大丈夫と思っていた人も、日本版401kの導入などで自分で老後を考えなければならない時代が来ました。すでに知られているように、国民年金の破綻はあと十数年後に確実にやってきます。いまのままでは、支出が多くなる一方、収入は減少傾向にあります。考えられる解決方法は? まず支給時期を70歳にします。支給額を半分の6万5千円にします。掛け金を2倍にし、強制徴収の方法を考え、徴収年齢を引き下げます。これから社会に出て掛け金を払うべき人達は、納得して自分達の将来を犠牲にして、私の為に給料の30%を払ってくれるのでしょうか。既に、払うんじゃないと私は妹などに進言しております。香港などでは、いまだに制度化された公的年金は存在しません。自己責任なのです。私のように、40歳以下ならば、私の払った保険料が5.5%で運用されたとしても、払った額すらももらえない。「国民年金」は、受け取り額の変更や満期も延びる可能がある、果ては破綻の危険もあるブラックボックスなのです。香港の人達にとってはそんな状況こそよっぽど不安に写ることでしょう。何しろ、自分で定期預金しておいたほうが、よっぽど受け取り額が多いのですから。オフショアの銀行は、6%の定期預金に「国民年金」といった名前をつけて、日本人向けに販売すれば売れるのかもしれませんね。とにかく自衛策として最大のものは暗くなるから考えない、ということです。バンコクの最低級ホテルの壁の落書きに、旅行者の間に有名な詩があります。「豊かな青春みじめ老後」
2003.04.30
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私がロンドンに行ったのはクリスマス、素晴らしいこと?に市内までの列車までお休み。どうやってヒースローから街に行けというのだ。私の印象は、歴史の授業ってつくづく西洋史観なんだなあということ。大英博物館、ソーホー、ハイドパーク、ピカデリー、オックスフォード、ビクトリア、トラファルガー、ウォータールー・・・・高校生の時から覚えていた名前が現実に目の前に現われた。私が、ロンドンに対するイメージはこうでした。1.街灯に照らされた石壁と石畳に映った1920年代の紳士の残像。2.闇に、ビッグベンに雷雨、黒い空に青い稲妻(いなずま、っていなづまじゃないのが不思議です。何でなんかな)3.傘に早変わりする杖をもってるくせに、茶目っ気のない正装の老人。4.植民地闘争の名残、密かにIRA5.珍しくからりと晴れた日に、ガレキの上にパンク大集合。私が体験した感じはこうでした。1.1920年代は英国にとっておもしろい時代だった。その香りは引きづられている。衰退しつつも大英帝国の富を100年かけてガムを伸ばすように使ってきた。そしていまやビッグバン後、ヨーロッパで最も活気のある街になってしまった。2.あてにならない天気、さすがに冬は濁った雲が街中を覆い尽くしていた。さすがに気まぐれに雪。樺太ぐらい緯度があるのに暖流のせいか、何か憂鬱な空の苦さ。でもビッグベンは吠えない。3.傘がない4.首が締まるほどのネクタイをしたダークスーツの老紳士が街を闊歩。5.商業パンク。それにしても移動式遊園地は寂しくて安っぽくてセピア色と冬の空が似合う。ヒースロー空港かつて・・ロンドン、ヒスロー空港から出国を待つ間、それは午前11時50分のことでした。私はお茶を飲んでいたのですが、12時になると、ベルが鳴った。あれは何でスカイ?と私が尋ねると、今からお昼なのでアルコールが頼めますとの返事。あれは本当だったのだろうか。アイリッシュが多いとはいえ・・・
2003.04.29
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瀟洒な体。濃厚でありながら、元気のない澱んだ風を顔と腕に直接浴びながら、ほとんど変化のない裸体の大地の風景を眺めながら、特に思いを漂わすこともなく、ただ時刻が確実に刻まれて通過していくのを惜しげもなく垂れ流していた頃の出来事。いや、出来事といった大層なものでもなく、ただ気分が落ちて行くように、身体が自動的にインド亜大陸を滑稽にも何かに引っかかりながら回転しつつ南下していくだけだった。インドに対して、幻想より現実で埋め尽くされていた。現実は暑いものだった。暑さに打ちのめされながら自分というものが運ばれていくことが、今となっては幻想と思う。羨むことでも恨むことでもなかった。薄れた記憶が想像と融合し、全く別の世界を構築しつつある。忠実に過去を辿ることは不可能だ。あるのは物語りだけだった。それは、それでよかった。そのとき、褐色の土と瓦礫を見ていた。インドはソイル(土)だ。何時間も何時間も列車は走りつづける程に、単調さは延長され堆積されていった。力いっぱい否定を続けようが、巡りめぐって肯定が出現する。単調さは催眠であり、肯定であった。風景はソイルのまま。何時間走ろうと、何時間前と同じ風景。もう肯定するしかない、というあきらめ。板張りの三等寝台車に、足を投げ出して、埃まみれになりながら、風景の単調さの合間に、車内で繰り広げられる、チャイを売る男や、ひたすら風景を眺めるサリーの女や、隣り合わせただけで、談義を止めそうにないおやっさん達にその話に加わろうと懸命の努力をする珍しく痩せたシク教徒の男を、何気なく眺めるが、その風景も単調さに加えられていってしまう。風景に反し、私の頭の中は混泥していく。整理できないのではなく、整理する気持ちがさらさら生まれてこないのだ。整理することにパワーを酷使させる必要などなかったのだが、気分は、この暑さと体の移動という惰性が妙な安定を導いていた。私は、それは、それでよかった。汽笛がやたらひつこくヒステリックに何度も鳴りだし、人々を苛立たせた。苛立ちの方向は皆バラバラのようであったが、パワーは増進されていった。が、人々は、尚、我慢している様であった。汽笛の終了はタイミングがよかった。負のパワーはいったん収斂された。その後、苛立ちは、徐々に遅くなっていく列車にあわせて発散されていった。ある瞬間、ピタリと急に静かに列車は見事に止まった。電車には真似のできない芸当である。不思議なのだ。見事なのだ。止まったと同時に静寂が訪れる。ふいに騒音からの安定を崩す。今までの爆音と、爆音による不快さを一瞬にしてかき消してしまう静寂であった。そして、新しいシーンが始まる。ここぞとばかりに物売りの声。扇風機の回るモーター音。靴を引き摺る音。お茶をゴクリと喉に通す音。本のページをめくる音。老婆が足の爪を爪切りで切り落とす音。スナック菓子をかみ砕く音。気怠るそうに煙草の煙を抜けた歯から吐き出す音。急に大声で喋っていた男達が日常の声にまで落とした変化。平常を平常と喚起するまでに多少の時間を要する乗客達。振動と共に風は体力を奪うが、今度、駅では、熱さが体力を奪い始めた。疲れがテカテカに光って、安心感と畏怖が交じり合って何となく歪んでいる気分になった。まあ、それは、それでよかった。発車の時刻を私は知らないが、勿論、その時刻にはあまり興味がなかった。盗難防止か無賃乗車防止のための窓の鉄格子から駅の営みを眺めていた。構内には痩せた牛が食べ物を求めて地べたに座って売っているバナナ売りに擦り寄り、鞭で叩かれる。当然、聖なる牛は脅えるが、何事もなかったような素振りを見せて方向を変え、次の摂取物を狙って力なく彷徨する。勿論、牛自身は、自分が聖なるものか、非なるものかについては全くの興味がない。一つの鍋と材料と使い捨ての炭焼きコップだけを用意し、駅の一角を陣取る御茶屋のおやじは、目敏く私の視線に気が付き、次の瞬間には五歳になるいかと思われる自分の息子に命令し、私のところまでチャイを持ってきた。おやじは、私のかすかなうなずきさえも見逃さなかったようだ。チャイを飲みながら、更に駅構内を見渡す。端から順に大量のムシロが並べられ、ときどきモゾモゾと動く。ただ、ひたすらに体力を使わぬように生き長らえている人々にとって、生きるということは、どういうことなのだろうか?あまりに当たり前のことなのだろうか?あまりに多くの饒舌さは彼らの前では虚無化する。目的や目標を持つ前に、ただただ生命を維持する。なかなかこれは強いことだぞ、と私は思った。平易に受け止めなければと思いつつ、自然が厳しければ厳しい程、環境が厳しければ厳しい程、言葉に出せば出す程失うので、私は抽象的世界に思考と情景を切り替えていってしまった。喋っている。何かが。振り替えれば物乞いだった。通路に立った哀れみの欠片もない物乞いであった。目が生きていた。一枚のボロを纏った瀟洒でダンディーな奴だった。武器まで持ち合わせていた。ボロからぬっとでた右手には手首から先はなかった。その切れ口を私に見せ付け、何か堂々と説明している。私は彼の真意が分かった。「これでも、私は人間だ。認めるか?」ポケットをまさぐり、コインを彼の肩から下げたズダ袋に放り込んだ。威厳ある顔のまま、軽く一礼し、裸足の足を引き摺って車内をゆっくり去っていった。列車がレールの上をゆっくり舐め出した頃、戻ってきた不快さとの共存と再度協定を結び、私の体は振動と風と熱気で滅多討ちにされながらも、私も、考えれば、人間だったのだな、と何気なく思う。動き始める最初の瞬間だけ、人生が終わるかのごとくガクっと揺れた後は、人の歩く速度より遅く列車は動き始める。人々が別れに手を振っている。その人々の間から、プラットホームの端に寝ている乞食が見えた。駅を去った列車は威勢のいい汽笛を更に鳴らして、加速していく。架線の力を借りて走る電車に比べると、走り方の力強さは個性的で気まぐれだ。窓の鉄格子の向こうに闇夜が息づいて、所々に光る裸電球が綺麗。もっと、綺麗に、と屈んで星を見ようとする。夜中、列車が止まり、ゆっくり眠そうな会話がクローズアップされる。寝ているのか起きているのか境界線があやふやな状態で、深淵なるマーハーバーラタを聞いているような感じがする。私はまだインドにいる。明日、朝、デリーに着けば手紙を書こうかと思ってる。「パキスタンに向かいます。今、自動的強制的に服とズボンでこのスリーパーシートを拭いて掃除しています。線路のきしみと、車内に浮遊する砂や塵を意識しなくなれば、おやすみの時間です。もう、俺のことは面倒なので忘れて下さい」きっと明日の朝、読み返して、恥かしくなって、この手紙は捨てるであろう。
2003.04.28
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フルシチョフが失脚する時に後継者に2通の手紙を渡したそうである。「どうしようもなくなったときに、1通目を開きなさいそこに解決策が書いてある。そしてさらに将来どうしようもなくなれば2通目を開きなさい、そこにさらに解決策が書いてある」と言って。そして後継者はどうしようもなくなった時に1通目を開いた。そこにはこう書いてあった。「すべてわたしのせいにしなさい」とそれでうまくいった。*(下に続く)昔、週刊プレイボーイと週刊平凡パンチが風靡した時代があったように聞いている。ここに、何故だか、昭和45年の平凡パンチがある。ここでは広告を披露万博博の時を刻むセイコーNHK初のビキニドラマ「砂の城」 主演松坂キッコいっそうグーになったFFフィーリング スバル1300テープが終わったときキミの目かはどう動く?タイムは電源切れボタンまで戻るよ。テープが終わるとプレイボタンがポンと上がって自動ストップと同時に電源が切れます・ナショナルリンス野郎があなたのまわりに何人いますか「牛乳ヘアリンス」200円シャンプーのあとリンスをするのはヤングマンの常識となりました。アップル味のマンリカ新発売 タケダ薬品190ミリリットル 45円私の名前をつけて下さい京浜-宮崎就航豪華賞品 三菱ギャランハードトップ三菱カラーテレビ高雄締切昭和45年7月31日梅肉エキスビタミンC入梅仁丹200円なんかグーじゃん!!初めての椰子を見た日、18歳だった。次の日、船にイルカがなついてきた。珊瑚が見える。御機嫌なビーチでの御機嫌な過ごし方を知らなかった頃、ビールを飲み、シュノーケルをし、体を焼いた。夜は浜辺に2件あるディスコを何度も往復。踊る阿呆に見る阿呆。そんなことを思い出しながら車に乗っていた。車は、まるでメリーゴーランドのようだった。運転しているの筈なのに、自動的に動いているようで、景色が変わり過ぎ、情報が一遍に入ってくる。よくも、こんなけ、情報をさばいて普段は運転してるのだなあ。頭の中は、必要のない情報は遮断して、うまく混乱しないようになっているのだなあ。ビクトリアルシークレットカタログを見ていたらフリースが売っていた。実はここだけの話で、トップシークレットなのだが、昨年の今頃に「フリース」という言葉を知った。それで、そのままフィンランドに行ったら、子供が「ママー、フリース」といっていた。私より30年も早く、言葉を知っていたとは、時代も早いものだ。言葉のるつぼご存知のとおり『マイ・フェア・レディ』では、言葉が重要な役割を果たす。下町育ちのイライザはコックニーなまりがひどい。それをヒギンズ教授が矯正していく。音声学者であるヒギンズ教授は、相手のしゃべり方を聞いただけでその人の出身地や略歴をあてていた。舞台となったコヴェント・ガーデンは、なにやら言葉のるつぼといった雰囲気。英ウェストミンスター大の調査によると、ロンドンは言葉の上では世界最大の国際都市であるという。子どもたちが話す言語を調べた結果。調査によると、ロンドンで子どもたちが使っている言語は307種類。全世界で使われる言葉の数は、3000から6000といわれるから、その1割弱がロンドンで使われていることになる。ロンドンっ子の3分の1は家庭で英語以外の言葉を使っているとも。この結果に英内務省は「文化と言語の豊かさを示す」と満足そうだったとか。『マイ・フェア・レディ』では言葉づかいが階級の壁になっていたけれど、国際化の現れであるなら確かにいいことなのだろう。日本にいて画期的に便利なのは日本語が通じるということである。日本にいる最大のメリットだ。
2003.04.27
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アテネを夕方に出発した。その日、シエスタと称して存分に昼寝をしてしまっていた。 飛行機内では、一睡もすることなく、パキスタンのカラチに到着。 十二時間の待ち時間があったため、空港で一緒になった日本人八人を誘い、一日一人一ドルでタクシーを借切り、一台のタクシーに九人が乗り込み、「どこへでも行ってくれ」といい、存分に回る。前は運転手と女の子三人。後ろは野郎六人。建国者のモスクを経てアラビア海のほとりに。左前方に難破船。荒い波に観光用ラクダ。右前方に小さな島が点在。運転手がさりげなくチャイをご馳走してくれた。支払おうとするが、「ここは俺の庭だ。気にするな」といった。 そして空港に戻ると、皆はパキスタンで余ったお金を彼に渡す。彼はなかなか商売がいまいぞ。我々がそんまま去ることを察知していたので九ドルで請け負ったのだな。そしてプラスαを充分に見込んでいた。そのプラスαはおそらく倍以上であろう。滞在十ニ時間なのに、皆、両替しすぎていたのだ。 空港の滑走路から太陽を見上げ、渋く「さらば」といってみるが、その光景を微粒だに動かぬ兵士が何の感慨もなく見られた。 夕方、飛行機は出発、お喋りのうちに、夜中、バンコクに。空港で夜を明かすが、スリっぽい男がうろうろしているので、目をパチリと開け続ける。駆け引きは朝まで続く。そんなに鋭い物色するような目をしていると、スリ丸出しなのだ。 朝、交通機関が動き出し、街に向かい、ホテルにチェックインするやいなや、次のチケットの予約に、フィリピン大使館日本大使館と目まぐるしく回る。道に迷う。タクシーの兄ちゃんにパキスタンのK2という渋いパッケージの煙草を勧め、「急いでくれ」という。「行くぞ。こうなったら今から行くぞ」排気ガスを吸いながら思った。最後に、「駅に直行してくれ」といった。何がこうなったらかというのは愚問である。そこで、四十分後の列車の切符を買い、歩いてホテルに戻って、荷物をまとめる。その瞬間、五十七時間不眠の私は気を失った。 十五分後、奇跡的に目が覚める。もしかして、扉を開けっ放しにしていて、ホテルの廊下をうろつく娼婦や他の宿泊客の足音に目が覚めたのかも知れない。「危ないところだった」といい、駅に向かう。駅で荷物を半分忘れたことに気がつき、駅員を無条件に信じ、「ちょっと五分だけ」といって、荷物を持ってもらい、走る。そのとき発車十分前。宿で残りの荷物を取り、走る。そのとき発車五分前。汗が吹き出て、列車が既に、ゆっくり動きだしていた。私は顔面蒼白だった駅員から荷物を受け取り、走る。走って、最後尾に飛び乗る。汗をボトボト落としながら、混雑した車内を先頭まで歩いていく外人である私を、皆は不思議そうに見ていた。あってないような指定席に座り、風で汗を蒸発させ、焼き飯を食べる。そうそう、いつも、車内で販売している、ワゴンもお盆もなしに直接皿を持って歩き回る売り子からいつも買うのだった。スプーンは胸ポケットに差している。ふとしたタイ人の仕草で、タイにいて、タイを思い出す。タイの列車について。一、二等列車は三等の倍の値段だが、不快さは半分以下ということは、いつ も三等に乗っていれば分かる。二、車掌が銃を持っている。もしかして車掌ではないのかも知れない。鉄道 公安官を兼ねているのかも知れない。三、風に一晩中吹かれると、流石に冷える。四、バスと違って歩けるので、尻の皮の薄い私のような奴にはピッタリだ。五、車内は人口密度が高い。一人が忙しくすると、連鎖反応か共振か分から ないが、結構近くの人も忙しくする。ウォークマンの最大音でさえ、列 車のきしむ音には勝てない。そのため、夜中というのに、人々は大声で 話をしているのが笑える。しかし、列車が止まったときには、不必要に 静寂となり、ビニール袋をクシャクシャ丸める音や本のページをめくる 音さえ聞こえてくる。人々は機敏に声の音量を調節し、コソコソ喋って いるのが、笑える。が、ときどき、環境調節の鈍い人が、走っていると きと同じ大声で喋っているのが、更に笑える。それにしても、その音の 差を調節し、使い分ける鼓膜は、自己防衛とはいえ、偉い。六、列車の揺れは人間のバイオリズムを研究して作られておるのか。波長が 合えば、心地よさのため、眠ってしまう。あの排他的爆音と、エアコン デショナーカーのモーター音さえなければ。七、走行中も昇降口が開きっぱなしというのは、画期的に良い。自分の責任 は自分でとるという明確な意思の現れであるし、早く降りたい人や飛び 乗る人の危険度を省みない自由がある。第一、安全に閉じ込められるの が、基本的につまらない。責任擦り付け合いの保護第一主義ではひ弱に なる一方である。車内放送など、ない。降りる奴は降りるのだ。白線な どない。自分がどれほど危ないか分かっているのだ。八、列車の揺れや音や風にも負けず、或いはボロ負けしてか、座ったまま不 快そうにも寝てしまう人間とは、素晴らしき生理的欲求だる。その環境 への順応さは、悲しいかな、爆音の時に不快そうに眠りながらも、列車 が急停車して静寂が訪れると、変化に対応しきれず、起きてしまう。そ して、また列車が動き出し、不快度が増すにつれて、安堵も増し、眉間 に皺を寄せて辛そうに眠っていくのである。 そんな訳で、六十時間中十五分睡眠を除く不眠状態は、焼き飯を食べ終えた瞬間に途切れる。初めて題目のついた夢をみる。「流星になったポケット」それは地域には、その地域のやり方と伝統があるという国籍不明の長老のつぶやきと、太古からの宇宙的渦巻きの中心に収束されて、天文学的時間をかけ長老の談話と共にポケットに吸い込まれ、それが流星になっていくというメタファーを含んだ夢であった。 朝、列車を下り、バスに乗り換え、船に乗り換え、ジープに乗り換え、正月のビジネス街より十分静かなビーチに到着した。波は薄かった。海から一番近い一番安い一番狭い朝日を拝めるバンガローを与えてもらう。海水に濡れるまで十六歩。 草履を投げ出し、衣服を全部洗濯し、着る服がなくなってしまった。
2003.04.26
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かつて旅行していたら大抵その期間はアルコールが抜けて胃に優しいものでした。なんせ物価からしたらビールは高級品に近かったから。しかしフィリピンだけは、節約の旅行といってもビールを大量に消費してしまうのでした。1本2、30円でソフトドリンクやミネラルウォーターと変わらない、とすれば、もはや朝からどころか歯磨きまでビール漬け。以下転送(そういえば、私の卒業論文はフィリピン経済で教授から優秀賞をもらった。体験を元にした論文の締めくくりの文章はこうだった。「フィリピンはアジア最高のミュージシャンの国である」はっきりいって経済の結論になってない)フィリピンは、非常に豊かな数十の地主家族が、国土の半分以上の土地を所有している。フィリピン政府の調査によると、7800万人のフィリピン人のうち約40%が、1日100円(0.75ドル)以下の収入で生活をしている。国連の調査によると、1日1ドル以下の生活をしている人は、インドネシアで11%、タイでは1%しかいない。 一人当たりの国民総生産は、フィリピンが1020ドル、インドネシア1410ドル、タイは1960ドルである。つまりフィリピン人は、平均年収からみるとタイの約半分なのに、非常に貧乏な人の割合はタイの40倍ということになる。他の東南アジア諸国と比べても、それだけ貧富の格差が大きいということだ。 こうしたひどい貧富の格差は、19世紀にフィリピンを植民地支配していたスペインに利益をもたらすため、サトウキビ、タバコなどの商品作物を栽培する大農場が作られた時からのものだ。大農場を所有する人々が、スペイン政府の代理としてフィリピンを支配する構造になっていた。 この構造は20世紀に入ってアメリカの植民地になってからも変わらず、1946年に独立した後も、24議席からなる上院議員や、歴代大統領の多くは、この特権支配層と何らかのつながりを持った人々である。国を支配しているのが農村の地主層であるため、貧困は都会より農村で厳しい。フィリピン開発学研究所によると、都会では最貧層の割合は人口の25%だが、農村では54%もの人が最貧層の生活をしている。 また、宗主国であるスペインがキリスト教国だった関係で、カトリック教徒の地域より南部のイスラム教徒の地域の方が貧しい状態に置かれており、首都マニラでは最貧層は市民の11%だが、南部のミンダナオ島では島民の71%が最貧層で、4割の人が十分な食べ物がない状態だ。 南部の人々は、マニラのフィリピン政府のことを「アメリカの植民地政府」と呼んだりするが、これはでたらめな表現ではない。貧富の格差のひどさからみれば、スペインの植民地だった時代と今とではほとんど変わりがなく、スペイン時代の支配構造をアメリカがそのまま引き継ぎ、独立後もそのまま間接支配を続けたことが、その背景にあると考えられるからである。
2003.04.25
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プロローグ 自分のその歳の丁度半分の時のことを思った。普段は滅多に思い起こすこともないが、突然、脈絡もなく過去の一部を切り取って読み込んでいるかのように逐一思い出すことがある。多分、知らずのうちに生き方の一端を支えているに違いない。漫然とした中で高校生という時の「なぜなにキーワード」が浮かんでくる。我ながら、意味のない言葉をよく覚えていると思う。例を列挙。 台詞;道を開けろ/らりぱ/速攻ダーク/じゅずる/がった/ゾルゲルモル/きばっていけよ/ちょっとだけ泣いた/ノート会/ハクいナオンとぎんなんちぎってフィーバー/ボクシングゲーム/白衣の恐怖/しずかにしなさいよ/背中が泣いている/針金靴ソーティ/パンダ焼20円/水郷 氏名;がった/ピーナツ/亀/放火魔トミー/もさわり/かす/一匹羊/の鼠/せぬっち/スイマー/つるしがき/ピロチ/釣キチ/アアアアア/坊主/心斎橋ワタル/チャイクロとまあ、こうやって第三者には意味のない言語の羅列を、深く共有できてしまう所に、仲間意識を生み、大きくは意識しなくとも世代意識を生むものなのだろう。これって、他者とは違うけど仲間内では同じさ、という伝統的村社会的発想じゃないすか。 何だか、永らく「懐しさ」ということを忘れていた様な気がする。少しばかり後ろ向きの言葉の響きがあるが、考えてみれば、ひたすら前向きに生きていくことに脅迫されている社会の様な気もする。少し道草を喰う時には、各種の基礎部分を思い起こしてみて、少し考えるふりをするのも悪くはないかも知れない。葉巻をゆっくりくゆらせながら、地球儀をしなやかに回し、人さし指でピタリと止め「うーむ。エクアドル」とでもいってみるような気分で。 そんな言葉を共有する親友の物語はじまりはじまり~。 その日 午前3時に家に帰ってみると、暗い居間の机の上にボオっと見える白い紙を発見した。それはその男の勤務する広告代理店の社内メールか何か通達を流用したとしか思えないファックス用紙が、ついでのように1個人宅へ舞い込んだもののようであった。『5月14日に結婚式を挙行します』とワープロで記載された案内文の横に見覚えのある象形文字にまんべんなく近い文字が添えられていた。突然ですがちょっといってきます、と。それまでほろ酔い気分だった私は更に自然的酔いが加算され、酔い加減9割となった状態で「やられた」と唸った。実は唸る前に「なにぃ」と大声で青春漫画調に叫んだ。そのことは誰にもいわないで欲しい。2階で7割方眠っている嫁(現在NY在住。離婚済)を5割程起こしてしまった様だ。 急遽、2階応接間をポジティブシンキング部屋と名称を自分で勝手に変え、今後の傾向と対策を6通り程考える。何を考えているかというと、親友に驚かされやられっぱなしという「どーでもして」状態では私はちょっとだけ我慢できなかったのである。姑息な仕返しをしなければということだけが頭の中を回らずに前頭葉辺りに頓挫しているのであった。実は初めから、仕返しには一つのことしか頭に浮かんでいなかったのである。下品に花束を投げることしか。 結局、一晩考えて、という筋書であったが、どんなに悩んでいても眠たいときは寝てしまうという昔からの私の大原則に従って、8分後にはレム状態へと陥っていた。 次の日 仕事で大阪と京都と滋賀と東大阪に行かなければならない強行軍である。 名神高速道路のパーキングエリアから旅行代理店に空席状況確認と価格確認の電話する。隣で電話するにいちゃんの声が大きくて下品だ。その時、「こんな国ィはヤダね」と落ち着きを無くし、一瞬にして行く決心を固めた。月曜にならなければ航空会社が休みなので正確には分からないとのこと。家で相談するも、「行ってきな。とだけいう私はパートナーでしょ」とのこと。それだけではない。背任行為の片棒をかついで頂く必要もあった。もう13年前に亡くなった配偶者の父の父を、もう一度急遽亡くなってもらうという計画は、実質の旅行日程と虚偽の申告日程を並べて書き出し、電話は一切取らないというところから始まった。神風は私には吹かないが、隙間風に乗るのはうまい。 4日目 睡眠時間1時間で時差調整を勝手に終え、通勤ラッシュにもまれる。背広姿に紛れると、ついつい罪悪感は優越感へとすり替えられていく。「やっぱり君はサラリーマンじゃなかったのね」という居間からの見送りの言葉がひどい流血のごとく流れていく。いつもはこの人達リーマンと同じなのに一歩離れるとみんなモアイの様に見えてしまうのは何故かしら。 時に、必然として我々はドラマが必要だ。一人、家族、集団、国家とそれぞれ物語を確立しなければ存続し得ない。少し、突飛な行動は私の存在証明であり、物語であった。自作自演の物語に自分自身が束縛され、それから抜け出すつもりがまた同じ物語を量産していく。ここ1年で3回ヨーロッパに行ったけど、帯各航空会社出発時間が昼前後と似通っていて、家を出る時間まで同じ様なもので、空港では本屋に2階に空いている東京三菱銀行と飛行機待ち時間にすることも同じでちょっとだけ寂しい。 往路は往々にして退屈きわまりない機内も隣人との話に雑誌撒き散らし読みにに熟睡が手伝ってくれて12時間を乗り切ってオランダ、スキポール空港へ。 2時間30分待ちなので、空港から列車で20分のアムステルダムまで1時間ほど散歩に出かけることにする。1年前と同じ方法で繰り出せば問題ない。空港地下にある駅はちょうどいい暗さだ。不自然に明るすぎる日本の地下鉄や地下道に慣れてしまっているので、少しばかり犯罪と退廃の匂いがする感じのところがよい。実際に犯罪がおきてもらっては困るのだが、人々の顔がなし崩し的に緩んでいるどこかの国とは違う。 そんな訳で、知ったかぶりして列車に乗り込む乗り、勝手に渋めに流れ行く景色を見ていると検札があり、悠然と切符を見せると、間違ってレジデンス(居住者)向けの切符を買っていたようで、容赦なく切符は没収。1ギルダー安く買っていたので、その追加をとればいいという甘い考えは通用しない。常に言い訳問答無用の没収。皮の鞄に私の黄色い切符がスッと収められ、2倍の料金をとられる。少し成熟社会にむっとした。あまり外国人という考えは薄く、改札はないので自分の責任で勝手に正規の切符を買って乗り込まなければならない。検札も半分もないのではないだろうか。車掌は怒る訳でもなくモラルを責める訳でもなく淡々と大型切符に文字を書き込み、プイィと私にそいつを手渡した。次が終点のアムステルダム駅なのにまだ緑が続く風景をぼんやり眺めるふりをして、早く周りの乗客の関心が他の所へ行くよう密かに願っていた。振り向くじゃねぇ。まるでバイクに乗っていて、無情にも追い越されて、振り向かれヘルメット越しに「ヘヘン」と鼻で笑われた時に感じる重苦しさと同じだ。 運河も凍る零度を大幅に超えた季節に行ったのとうって変わって、人が外に溢れ、何をやってんだか分からないぞぉ、といった道端突き立ち人口割合がやたら高く思われた。パリと同様に黒人が割と多い。30分無意味に歩き回った。いっちょ何かや何やらを仕入れてフランスへのお土産にしようかとも思ったが、カモフラージュして来ているので、日焼けとトラブルと羽目はずしは控えなければ、という優等生的自制心で、密かにヒソヒソ、存在感のない空気人間にならなければいけないなあなど思い直し、そんなこと考えていると時間もなくなり空港へ戻る。 この空港も世界有数の優秀空港なのはいいのだが、時間だなと思い、ゲートへ向かうのだが、これがやたらめったら遠く、2分程の迷いも含め約10分の月日が流れ、出発定刻3分後にやっと飛行機に乗ることができたという次第であった。隣のフランス人が「いい天気だね」といってワインを飲んだ。おかわりワインもした。リキュールも頼んで、氷で割って飲んだ。こちらもハイネケンビールを飲んだ。225・の細くノッポな缶で驚いた。アルプス越えはそう驚かなかった。9時頃まで明るかったのに一瞬の睡魔に襲われて5分が5秒で経過したと思われたとき、そでに外は暗くなっていた。1時間45分が経過し、海の上を飛んでいるのに気がついた。左一直線に明りが見えた。「見よ、あれがニースの灯だ」とはいわなかった。バルセロナと同じ光景だなあと思うと、そういえばまあ地中海に面して西へずうっといった所だし、ニースもバルセロナも神戸と提携都市だから、もしかしてニースとバルセロナも姉妹都市かも知れないなんて思っているうちに、海に沈むように着陸した。 実はニースも1年ぶりである。実はニースではタクシーに乗りたくなかった。何か、前に結構ぼられた様な気がしたからだ。しかしバスは終わっていた。学生時代のどうしても空港からタクシーに乗らなければならない時の法則は、空港から一般道までひらすら歩き、そこで流しのタクシーを拾うことであった。マニラ、バンコク、カルカッタ、ラホールなど。そうしようかとも思ったが、再度、水中の陣?でタクシーに挑む。 結果は前と同じ様なものだった。どうやらニースはタクシーが高いのに加えて、空港何やら料金が加算されていると、真相を突き止めたのは翌日のことであった。 前に来た時は昼間で、まだ見ぬサンフランシスコを映画やテレビの影響から思い起こしたが、今日は夜、マニラの海岸沿いのロハス通りかボルネオ島の川沿いの街クチンを彷彿させた。 ホテルにつくと11時前。夜も遅いので、1年前と同じホテルへ。「1年前にワイフと来たんだけど」とイタリア系のオーナーにいうと、しきりに「俺を覚えていてくれたのか。本当に俺だったか」といわれ、「そのとおり」と自信もないのに自信たっぷりの顔をもって答えると、「アッ、思い出した。元気かい」なんて嘯かれた様な気がする。まあいいけど。また訳の分からない散歩を30分程した後、眠る。気温は変わったが照明の光は変わらない。5日目(1997年5月14日水曜日) 「ここはどこ」状態で目覚めること朝の6時。旅先でときどき訳の分からない夢に惑わされて、実感のない目覚めをする。そういったときは、とにもかくにもすぐに散歩をする。何故自分がこんな所にいるのか分からない状態の浮遊感を味わえる。特に変な時間帯に、つまり夕刻に眠ってしまい、8時や9時に起きた時に起こった状態は楽しい。夜の雑踏を寝ぼけながらさまよい、土地の臭いを無防備に吸い込む。そんな日のそんな状況を私は覚えている。10年前のパキスタンはアフガニスタンに程近いペシャワール、シンガポール、アテネ、イランの古都イスファーンなど。 それにしても、こんなに早くまたニースに来るとは思わなかった。再訪した場所には知り合いがいた。だからまた行きたくなるのだった。観光はいつもどうでも良かった。反面、緊急なら24時間あれば、世界中どこへでも行けるという妙な自信が横たわっていた。1週間前の今日、「仕事が珍しく忙しく、来週休める日があるだろうか」という心配をしていたことを思いだし、勤め人だからできたことなんだなと、感謝した。独立した自由業は不自由業でもあると認識した。会社員は企業というオブラートで包んでもらっていて、企業というクッションを経て友達以外の他人と接している。よく企業なんていうのは、一人いなくなっても回るというが、その通りだと思う。有能な人が欠けると一時的に仕事が滞ったり、質の低下を及ぼしたりするだろうが、まあそのうち回るとは思う。中にはその人しかできないものや会社自体が傾く場合もあるだろうが、まあ、「私がいなければ」と思ってしまう様になれば、その私は終わりだろうな、と思う。植木等の無責任シリーズは傑作であると思うよ。 6時に(既に明るい)寝ぼけたまま、海岸通り(プロムナーデデサングレ)を歩く。ジョギングする人々や犬の散歩人間たちと擦れ違う。何を隠そう私も中学高校時代は陸上部だったのだが、今や結構ジョギングなど運動に対して懐疑的気分でいる。高校を卒業して半年後、私はフィリピンの避暑地というバギオにいた。第三国で運動をしている人を見て、何やら違和感を覚えたことがあった。エリートにみえたのだ。食うことでなかなか大変な人々が多い中、体力を無駄に消耗させる運動をしている人。それ以来、何故、運動するのか分からなくなっている。体を鍛えるために運動を、そして他人と協力してするのが苦手なので陸上をしていたのだが、もしかして過度の運動は体に悪いのではないかと思うようになった。知らず知らず、当時はランナーズハイという言葉も知らないで、結構、長距離を全速で走って苦しむことをどこかで愉しんでいる自分があった。快楽主義傾向の私がいうのも何だが、気持ちいいというのは割と危険なことではないだろうか。苦しみを紛らわすために脳から麻薬性物質ドーパミンを流すのだから。スポーツや体のプロポーションの維持を仕事としている人は大変と同時に何か気持ちよさそうだ。しかし本当は、体力がなくなって言い訳を作っているだけだった。人間は何万年という飢餓の時代を超えてきて元々体は飢餓様に出来ている。だから太るのだ。世界の何割もの人々が食い物に不自由しないなんて歴史上なかった。まあ訳の分からない言い訳をしているしている。砂浜を眺めると、子連れのビキニ姿の人が早朝から日向ぼっこ。「私はしたいことするの」と自己主張激しそう見えたがこんな人ならお友達になりたいなあと思って、ポケェと見ていた。少し汚れ目のマルチーズを連れたじいさんも意味もなく私の隣で足を止めて眺めていた。南欧の太陽とのコントラストはなかなかいいものだった。しかし、2月の光はもっと良かったんじゃなかったかなと思った。確か黄色っぽい光だった様な気がする。それは多分に寒い日本やオランダから急に10度以上の春っぽい暖かさを感じることができたからなのかも知れないが。往年の芸術家が光を求めてやってきたというのはあの時よく分かった。そして、今回分かったことは、凡人ではこの心地よさの誘惑に負けてしまうのではということ。「いい所だね」だけでは芸術家には困るのである。自分の心のうちとこの地に降り注ぐ光とのギャップか、光との相乗効果を爆発的に発揮しなければならないのである。精がでますねぇ、と私は思いながら、早朝から海岸で体を焼いている親子と、100mぐらい先で浜辺へ降りる階段を掃除している市職員達(か、その請負業者)を微笑みを以て眺めている。 9時からはお土産と称して家庭用品を急ぎ足で買う。前にも来たお気に入りの店で、今家で使用しているオリーブ柄のテーブルクロスの色違いを買って、その斜め前の店でカフェオレ用の黄色いカップをご飯用茶碗として使用するために購入。まだ、私は買物が苦手のままだ。モノを増やすことに抵抗がある。でも、ほんの時々だけど、モノは私を呼んでくれる。そういうことを少しだけ学習しだした様だ。(でも最近、海外にいっても最後の日にスーパー等でレトルトや生パスタやハーブやスパイスや茶等の食料品ばかり買っている様な気がする) 10時。ホテルで着替え、ホテルのオーナーに「この街一番の花屋を紹介しておくれ」とブコウスキー風に頼んで、教えてもらった花屋に寄り、市庁舎の前のカフェに陣取りビールを一杯頼むこと10時25分。花については、彼が前に蘭展を企画してもう蘭に飽き飽きしているだろうから、皮肉を込めて蘭を中心にしてブーケ調に作ってもらった。というよりフランス語と英語の適当なやり取りで、そうなってしまった訳で、店のオーナー(か店員)はもしかして私が結婚するのかと最後まで思っていたのではないかという疑惑を抱きつつ、「ちょっと待てよ、別に皮肉を込める意味なんて何もなかったではないか」と思い直し、ちょっとだけシュンとした。オーナーのおばさんらしき人が注文を取りに来た。再度、英語とフランス語で何となく意味の通じる会話を3つ程交した。花を褒めてくれたこと、今日はお日柄がいいこと、あんたところでこの椅子座って、ただ式を待っているだけなの、それとも私ところで何か注文する訳?ってこと。一つ向こうの親父はシリアスに新聞を読み、その向こうのばあさん二人組はイギリスかドイツあたりから観光に来ているようで慣れない動作で椅子に座って、密かに楽しそうにヒソヒソ話をしていた。ニース市庁舎 ニース市庁舎そのうち私は、本当に市庁舎で結婚式なんか挙げられるのか不安になり動揺し、市庁舎に入った。そして各フロアで「結婚式はあるのですか」と尋ねた。「うーん私はあなたの英語が分からないわ」といわれた気もするし、「うーん、日本人がここで結婚式をするなんて聞いてないわ」といわれた気もする。しかし、本当は、何でこんな役場の事務所で結婚するとのかという不安の顔をされていたのであった。最上階に行けばそこは市長の部屋で、受付で「結婚式場はどこですか」とまだ馬鹿の一つ覚えで質問している私に秘書は、困惑していた。それっきり。とにかく私は急いでありとあらゆる可能性を考えようとした。「もしかしたら市庁舎の式場というのが遠く離れた別館にあるのではないだろうか」「だいたいこんなところで式を挙げているのをこの1時間見ていないぞ」「今夜はニース中のめぼしいホテルの宿泊客をフロントで聞き回ったり、街中を無意味に探し回らなければならない羽目に陥ったのでは」「なぜ誰も彼等の結婚式のことを知らないのだ。やはり市庁舎の持つ教会がどこかにあるのだ」「もしかして心斎橋ワタルはアメリカのテキサスにパリがあるように、メンフィスがあるように、アメリカ合州国のニースというところにいるのではないか」「もしかしてファックス自体が裏をかいて嘘だったのかも知れない」「もしかして彼自身の存在が幻想だったのかもしれない」と思って外に出ると、すぐ横に何か英語から類推して「結婚」をイメージさせる文字が石の壁に刻まれていた。中は誰もいなくてひんやりしていた。結婚予定リストの様なものが貼っていた。名前はない。ここに違いないと確信したが、もう10時55分である。あと5分のはずである。 ひとりのフランス人女性がこちらに向かってやってきて何やらフランス語で話しかけられた。困惑した顔をすると英語に切り替えてくれたのだが、どうやら彼女は私のキャサリーンハムネットの白い服を見て私が新郎と思った様である。私を中に招き入れ、ノートを見せて「ここにサインするのよ」といわれた。「あのぉ、ぼかぁ友達なんです」と馬鹿面さげていった。彼女は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑顔に戻り、「いいのよあなたもサインしたら。これ誰がサインしたってもいいの」と何やら言い訳のようなそうでもないような返事をした。「花束はこの机の上に置いたらいいわよ」といわれた。置いたちょうどそのとき何やらざわめきと共に予感が走った。「直接花は渡すよ」と彼女にいい、外に出ると、リムジンが止まり、何やら人が出てきた。事態は進展した。時は来た。「よし出番だ」と思いながら、歩いていくと、少し私は震えていた。先程から考えていたエスプリな言葉が全部吹きとんでいた。キザで下品に花束を投げるつもりだったのだが、正直、分かった。酷い自分が。たぶん、自分が自分に酔うためにここに来たことが。少し情けなくなりながらも、大義名分を作ってニースまでやってきました。 花でかわいらしく飾った車から高校時代の親友心斎橋ワタルが出てきた。その横では始めて見る新妻メルの花嫁姿を目撃した。はっきりいって私より緊張していた(当り前か)「気付けよー」と沈黙に耐えられない軽さにポワっと発声した。否応無しに彼に入ってくる莫大な情報量の中で、少し反応が遅れて日本語を拾い上げたようであった。彼は驚いたというより日常を取り戻した様で、少しほっとした感じの顔になった気がした。「こいつ遊びにきたな」と瞬時に見破られたようでもあった。ちょっとだけ彼の強ばった顔が緩んだ。 メルは、その前から、道を遮る日本人ぽい私に気が着いていたようである。あなた気がついてあげなさいよ、と心斎橋ワタルの横腹をつついた。それが、恐らく二人の初めての共同作業であったのであろう。 この時期、列車で2、30分というカンヌでは映画際が、モナコではサーキットが行われていて、にぎわう季節の様だ。その中間にあるニースはぽっかり空いているからなのか、私の情景なのか、この状態なのか、天気のせいなのか、台風の目の中の様に静かなのであった。それとも彼や私がクソ暑い上着を羽織っていたから、その暑苦しさが音を吸い取ったのかも知れない。静かだった。小さな中庭の小さな噴水の前で。 本人たちとご家族とに交じって最前列に立ち尽くす。錯綜とは。決断とは。 プロバンス色と勝手に名づけている濃く淡い黄色の市庁舎の壁に二人は並んだ。そして、中に入り儀式を行った。副市長が執り行ってくれた。宣誓に「ウイ」ってフランス語じゃなくて「アイ」っていってもよかったんだよ、と優しくいった。Hは黙字だが、彼は「はい」という言葉を知っているのだ。なんて直接的で肯定的な言葉なんだ、と思っていたら、例のおばさんが「ほら、トモダチ、あなたもノートにサインしなさい」だってさ。アイの賛歌だ。メルの両親、何故だか海外結婚式編集雑誌ライター及びカメラマン、そして電撃乱入の私とアジア人比率はまあまあ高かった。 その後は市中引き回しの刑である。市民も団体観光客もサッカーをする子供も通行人も犬もギャルリーラファイエットで買物をする人も店員も車を運転する人も文句なしに祝ってくれる。観光客は写真を撮る。そこに居合わせたということは、即ち、その人達もハッピーなのだ。参加者としての私も、また喜びを与えてもらったようで嬉しくなる。感情というものは溢れた分は他人に影響を及ぼす。 そういえば、私にしたってそうだった。ニューヨークの何だっけ茶屋町アプローズが見本にした所での結婚式やアテネの教会、散歩途中で居合わせて拍手した。インドのジョードプルではホテルのバルコニーから風景を眺めていると、結婚式の行列があって、思わず「来い来い」と手招きされて行列に加わった。それどころか専属選任カメラマンを急遽命じられたりする。でも日本では、通りすがりに見かけても、ちっとも空気を共有することがない。実は、私の家の斜め3件隣りは結婚式場で休日には、よく教会の扉から出てくる姿を見かけるのだ。申し訳ないけど何故こんなダサい所で式挙げる訳なの?という疑問が先にたち、憂鬱になってしまうのだ。ごめんなとおりがかりでも拍手できずに。狭い心で申し訳ない。 ホテル前に到着し、リムジン運転手がボンネットに貼っつけてあった花を、へばりついたガムを真顔で剥がす様に真剣に剥がし、振り向きざまに笑顔で手渡してくれた。もう二人の両手は花でいっぱいで私が代理人に急遽勝手になり、受け取った。 さて、式と刑はお開きとし、滞在先ホテルの屋上、プールサイドのレストラン、大型アンブレラの下、飲み物を頼む。心地よい太陽と飲み物とが加算され、リラックスした状態に入る。これに時間制限がなければ、幸福の馬鹿になってしまう。気の合う仲間と南国のビーチで過ごした頃、1日中テラスに座っているのだが1日は3時間ぐらいで終わってしまった。ここでも「さて行きましょう」といってくれないと、心地よさで目が死んでしまうよ。ホントどうやって芸術なんか生み出すのだろうか。ミロ、ブラック、シャガールに聞いておくれよ。 快楽は敵だよ。気のいい仲間に気のいい時間に気のいい気温に気のいい空間。堕ちる。 ワインを飲んでもいい昼下がり、軽い食事のつもりが多少、重めの昼食に突入。バス時間調整のためニース一高いホテル「ネグレスコ」へ。ここで一杯するのが、今回の課題の一つでもあったので、二人を若干強引に誘惑するという形になった。ドームの塔屋が見えているが、日差しはきつく、えらく遠い様に感じられる5分少々の光景であった。擦れ違う人々は、この二人が今先程式を挙げたことに全く気付く筈はなく、そしてホテルのカフェの初老のウエイターも慣れた手つきで何事もなかったようにビールを運んで来た。このホテルはエッフェル塔を作ったエッフェルが作り、王室御用達、サガンやヘミングウエイ、コクトーらの常宿でもあったらしい。ドーム中央には1トンを超えるニコライ2世が発注したシャンデリアがかまえる(ロシア革命で発注しぱなしになった)ネグレスコ バスで50分のサンポールドバンス村(鷹の巣村。シャガールが亡くなった村だ。)に向かった。ここから山に向かって10分程度の所に財団のマーグ美術館があって、雰囲気がよろしくて、「俺の好きな美術館敢えていうとベスト3に入るな」と捨て台詞を吐きたくなる様なのんびりできる美術館で、是非是非と二人にも勧めてやってきたのだが、入場制限時間を3分過ぎており、切符売り場の恰幅だけはいいおばちゃんに冷酷にも断わられた。「あしたきなさい」といわれるが、「はーい」と答えられるような時間だけはある学生旅行とは違うのだよこちらは、と言いがかりの一言でもいいたかったが、先程まで実は結構のんびりしていたので、自分たちのことを棚に挙げて要求だけするという訳にもいかないという良い子的精神が働き、柵の向こうの芝生にたたずむミロの赤いキリンみたいな創作物に見送られながら、来た道を、15度ぐらいうなだれて下って行く。ジャコメティがいる中庭で「いいでしょ」と自慢する予定も泡の彼方へ。 http://www.maeght.com/musee/index.htmlサンポールドバンス2 一体、我々は何のために高い金を出して遠くまでやって来ているのか。それが写真や文章でみる情報の確認作業なら、それでいい人ならそれでいいけれど、そんなことだけのために足を運んだとしたら、、、いや旅行論の話ではなかった。そんなことは考えたくもなかった。自分の生活から離れて、他人の生活を覗見する。そうでもない。旅は長引けば長引く程、生活になっていく。そして印象と感想は混泥の中に。ここに来れば、いつまでもカフェでのんびりしたい気になる。今まで気の合う知人とはビーチで腐って白痴化していくのが好きだったが、こういう小さな村でのんびりするのもいいと思う。ところで、日本でコカコーラは滅多に飲まないのだが、海外では結構飲みたくなるときがあるのも不思議だ。 早朝から繰り返して考えてみれば"ニースは好き"といえるのだが、こんなに早く再訪するとは思わなかった。というより、いつでも来る意思さえあれば行けると思ったからよっぽどのことがないと、もう行かないんではないかと密かに思っていた。それは会う人がいる訳でもなく、大げさな意味でなく出会いがある訳でもなかったからなのかも知れない。性格上か経験上か人的ハプニングのある地域でないと心の内なる揺さぶりが薄すぎるのかも知れない。トラベルイズトラブル、それが基本方針なのかも知れない。不安と祈りの中で、駅やバスターミナルで誰かが私を誘ってくれる受け身の連続。ホテルには帰らずに誰かの家に泊めてもらったり、気のあった旅行者のホテルや滞在先に泊まったり。知り合った人のひとことで急遽行き先を変えたり、沈没していったり。大都市では、行き先の確認もなく一番に来たバスや路面電車に乗ってみたり、タクシーやリキシャーには「君がお勧めする所まで」とか、幾許のお金を手渡し「さて、行ける所まで行っておくれ」とか。行方不明の状態を十分愉しむ。そんなことを言っていると時間もたち村の入り口に行く。何故か最終バスはいくら待っても来ず、最終バスはなくなったことを薄々感じ、得意のポケェ状態に陥る。すぐ近くで男性が女性の運転する車をヒッチした。うーん、これなら我々でも簡単にできそうだと思い、手を上げると運転手は申し訳なさそうに左方向を指差し左折してしまった。座席が空いていそうな車が通りすぎるのを待っているとタクシーが通った。その運転手いわく予約らしくて、携帯電話でもう一台呼んでくれた。新婚当日からヒッチハイクという事態に陥るところであった。実際、そうしても、それはそれで良かったと後で思ったが、思っただけだった。 思い出というものを若干馬鹿にしながらも、結果的に思い出は思い出として残っていく。曲がりくねった道を気分悪くなる程の高速で突き抜けて行タクシーと、通じないと分かっているのに執拗に語りかけてくるクレイジーなドライバーとの確執の中で、ヒッチして帰らなかったことを曖昧に後悔した。ニース市に入り、彼お薦めのレストランの前に止めてもらう。タクシードライバーの食う所安くてうまいところというのは、なかなか世界共通で、割と私も知らない街で食事をするのはタクシーか警察に聞く様にしているのだが、しかしこの界隈は、二人は昨日行ったらしいし、私も1年前に行ったのであった。おまけに腹の調子はというと、遅い昼食と先程のメリーゴーランド的運転のため、2時間後ということになった。新婦さんのほうは相当に疲れているようで、明日も早くに旅つので、そのままホテルで倒れ込む様な予感がした。もう1日でもあったらよかったのだけど、と私は勝手に思った。この2時間はやばいぜ、きっと起きることもないだろう、何も起こらないかも・・・そんな予感がした。 ホテルに戻るとオーナーが「どうして日本人同士なのにここで挙式できるのだ。どうしてここなのだ」としつこく質問され、そういう難解な問に論理的に回答できる筈もなく曖昧に答える。また何考えてんだかわかんない日本人と思われたのではないだろうか。 それから二時間。午後10時。私がうとうとするぐらいだったから、当然主人公の二人は曝眠中ではないか、と思い、おそるおそるホテルメリディアンに向かう。ノックをしたところで蹴り上げたところでドアの向こうは音沙汰なし。予想通り二人は出てこなかったので、フロントから電話で呼び出す。心斎橋ワタル君のみ目を擦りながらやってくる。メルは遂に立ち上がることができなかったようだ。ベッドに沈。心斎橋ワタルは義理堅い奴だと思った。新婚当日にホテルに彼女一人というのも悪いなあ、と私も30%ぐらい思った。夜はこれからイエイエイエという訳にはいかなかった。少し古くさくなってしまったとしか思えない赤ワインを1本空けて、お開きとした。ピザかまどの近くに座ったのだが、それでも夜は半袖では肌寒かった。やっぱりメルをほったらかすのは悪いと酔っ払ったら40%ぐらい思った。6日目 目覚ましが鳴り、わざわざ5分先に再セットして眠り、また目覚ましがなり、を何回も繰り返す。まるで会社に行くごく日常的な光景ではないか。夜の旧市街を密かに散歩する予定も眠気に勝てず、朝のふらつきに決めていたのだが、やはり眠気には勝てず。彼等は早朝の便でギリシャはサントリーニ島の方へ行ってしまった様だ。私も最初は早朝便だったのだが、眠たいことを予期して4時間後の便に変更したのだった。彼等はタフだなあ、さすが元陸上部の人達なんて思うのであった。あっ、私も陸上部だった。何となく二人を見て、(パートナーのメルは初めて)自分のことを思い出して、何故くそしんどいだけと思われる陸上部にわざわざ入部したか確信した。皆と力を合わせるのが苦手か好まないのだ。勿論、当時はそうと考えていなかったかも知れないが、自分の結果は自分の責任でしかないということは分かっていた。心斎橋とは高校の陸上部の同輩だ。そういえば、昨年に結婚したこれまた高校陸上部の友人スイマー水郷の結婚式場でも大学時代に行ったニースの写真を見たことを思いだし、何か関係あるのだろうかとしばし夢に自問させられたが、出発の時間も迫ってきたようで、仕方なく起き出し、荷物をまとめて「いつもパッキングする日がいつかはやってくるんですね」と遺言をつぶやきながら、チェックアウトしてバス停に行く。20分に1本の様だ。遺言と私が勝手に決めているだけで、それはチベットの話なのだけど、私の友は南アフリカの隣の国(南アの中に囲まれた国)レソトで交通事故に遭って死んでしまった。急に、私は海岸通りに備えられた椅子に座って、昨日が愛でたいイベントであったのに、彼のことを考えていた。私は彼の事故現場まで半分ぐらいの所に来ている。外に出ると、どこかで、私はセンチメンタルを感じずにはおれない体質なのかも知れない。 呆然と空港行のバスを待っていると、自称チェコ人のパンを買う金をせびられた。理由を長々と話したが、その理由はやたら個人的で顔が情けなかった。 空港。私は思い出す。かつて私のパートナーはニューヨークで勉強をしていて、マックで宿題をしていると、幼い黒人の子供が一人でマクドナルドに入ってきて、黙って彼女の横に座り、「ねえ、おねえちゃん、僕のした宿題、先生に間違っているっていわれたんだけど、どこがおかしいの?」と尋ねられ、一緒に辞書を見た、という話を脈絡もなく思い出し、感動的な光景であると思うと同時に、何でこんなことで感激してしまうのかと思ってしまう。考えれば、お世話するよりお世話になっているほうが圧倒的に多いものでうから。そういえばアメリカ文化に抵抗するフランスといっても、ニースにだってマクドナルドはある。1年前、フランスのマクドナルドの味はどうなっておるのか、と銘打って入ってみた。結果は忘れたが、そのマクドナルドの入っているメリヂアンホテルに泊まっていたのが何を隠そう新婦新郎とその新婦の両親なのであった。二人はメリヂアンホテルはいまいちだと思っていたようだ。きっとサントリーニではいい思いをしているだろう。飛行機は、またアルプスを超えて行った。7日目 アムステルダムをフラフラ歩いていると、通りでたむろしている人が結構多い。人種も多彩だ。1日ロッテルダムかデンハーグに行こうかと考えていたが、おおよそ目的のない散歩を楽しむことにしたら、これが止まらない。歩いている間にも考え事以外に実に瞬間的に多様なことを考えている。次の角でどうするのか、ショーウインドを見る為にどう止まるのか。まあ、せっかくだからゆっくりさせてもらうよ。 まあ、今回のアムステルダムは、チンピラ出身風の宿屋の若旦那とチェックアウト時に握手して終わった。それにしても、世界有数の自由な国だ。 家に帰り、一通り今回の行動を報告すると、「結局、キミは邪魔しに行っただけなのね」といわれた。「勿論、そうに決まってるよ」と私はいった。それより、明日会社に行くのが少し怖かった。
2003.04.24
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おかあさん、おとうさんという言い方は文部省が作ったそうだ。類まれなる国であります。語源「おかたさま」→「おっかさん、おっかあ」→「おかあさん」「トトさん」→「とっつあん」→(品が悪いから)「おとうさん」私の友達にとっつあんがいるけど古風な言葉やったんや。本人はそう言われるのをあまり快く思ってないようですが。そうそう、よく考えたら英語でパパママはないんだよね。ダディにマミーだよね。どっからでてきたのかな。確かにフランス語ではママンだけど。そうそうフランスにいったら女性の後姿では年齢が分からないんだよね。(服装や姿勢では)格好いいよね。お気に入りの美術館 今まで行った美術館でとってもお気に入りをひとつあげるとすれば、マーグ美術館。南仏のニースからバスで30分ぐらい行ったサンポールドバンスという鷹の爪村があるのですが、ここから15分ぐらい山に入っていったところに、富豪の画商マーグさんの美術館があって、そんなに大きくないけど、庭にジャコメティやミロやカルダー、アガムがびよよーん、と無造作にあったりなんかして何かいい感じ。南仏の光がナンともいえない。ミロのセラミック作品の中庭で、先ほど飲んだワインのほとぼりを冷ますように、ジャコメティの彫刻の横で、南仏の太陽の元、勝手に昼寝、ってシュチュエーションいい感じ。それから面白かったのは、フィンランドのヘルシンキのキーアズマという現代美術館も面白い。絵画ではなく、ビデオアートや前衛アートの集まり。北欧では街の1日カード(ここではヘルシンキカード)というのがあって1日美術館等入り放題で便利。案外感動したのはアムステルダムのゴッホ美術館。黄色が目にボヨヨ-ンと飛び込んでくる。
2003.04.23
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朝、直射日光で目が覚める。日本から持って来たカロリーメイト飲料水を飲む。荷物に埋もれ、荷物を運んできた日々が蘇ってきた。こういうものはタイミングを逃すと、時期を逸してしまう。やる時がなくなってしまうのだ。そうして荷物と私の躰と共に四つの国境を越えて来た。外に出る。ズボンが破れる。ある店で直してもらい、冗談で一ルピーを渡す。親父は怒りだし、人々が集まった。人々が集まるのはインドも同じだが、ジョークと受け取ってくれないところが観光化されていないところか。信号が多く、何故か結構守っているのが不思議だ。排気ガスで充満しているが、緑地は多く、噴水も多く、外国製品も溢れている。噴水は、沙漠の民の、水への願望である象徴なのだろうか。 少女に「チノーチニー」とからかわれる。中国人と間違われた様だ。以前は「ノー、ノー、ジャパニ」と自己肯定していたが、この程度で生命の危機もあるまいし、何時の日からか何も言い返すことはなくなった。確かに本場中国は、一人一人はいい人達ではあったが、公共心のなさや道徳心の相違に辟易したが、それよりも、差別されたくないという気持ちがあったのだ。それは、差別する側に立っていたのかも知れない。「ジャパニ」と言い返したときの、後味の悪さよ。 パキスタンのバスは、あまりに派手である。偶像礼拝禁止は、文字の装飾を発展させた。ボディいっぱいに文字を書き込み、装飾をする。これに対抗できるのはフィリピンのジプニーぐらいなものだ。また、インドネシアのコルトに似た乗合バンもあり、それは日本の中古をそのまま使い、「竹内商店」や「京浜商会」とか書いているままだ。それも装飾の一環なのか。 昼、中央郵便局の前の文盲の人の為の代筆屋屋台から封筒を買う。駅まで歩いていってもバスでいってもかかる費用は同じ。歩けばカラマンシージュースやサトウキビジュースを飲んでしまうから。 友達になった機械屋の兄きの持つバイクの後ろに乗り、散歩から帰って来て、宿屋に戻る。宿屋の主はいう。「パキスタンで友達を作るな」何度となく、いろんな国でそういうことを何度となくいわれた。しかし、人を信じないということは、なかなか困難なことだ。だまされることもあるだろうが、それ以上のことはあると信じたいし、現実そうだ。勿論、向こうから執拗に寄って来るとか、少し様子がおかしいとかの多少の判断はできるとは面っている。思っているだけで錯覚しているだけかも知れない。 博物館で髭をはやしたガリガリに痩せあばら骨の浮き出たガンダーラ美術のブッダを見た。ひっそりと在った。神性を得るまでの仏陀(目覚めた人)になるまでのシャダルタなのか。苦悩する仏を嬉しく思った。 夜、宿。ふと目を開けるとアジアの象徴、天井にファンが虚しく回っている。百ルピーはモスク。五十ルピーは城壁の門。十ルピーは四角い石造りの家並の後ろに風化した山。五ルピーは線路があり城壁のトンネルの中へ入っていく。後ろは山。二ルピーはモスク。一ルピーは四角い石の建物。一ルピーは、政府発行。二ルピーは英語が入っていない。五ルピー以上は中央銀行発行。 世界第二の山、K2はそのまま煙草の銘柄になっており、パッケージとしては最高だ。ただ、シルエットなのか逆になってはいる。
2003.04.22
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確か中国で生まれ、朝鮮戦争でブレインウオッュとそのまま訳された洗脳というもの、他人にそれを操作されると怖いのですが、自己洗脳できると結構凄いものかも知れませんね。世の中の常識ってたいてい洗脳されたものかも知れません。昔、学生の頃、自己啓発セミナーに誘われたことがありました。あの合宿に行けば必ず洗脳されると思ったので止めましたが、何故そう思ったというと、既にその人達の目が危なかったのと、世の中を変える凄い人がいるのですといいつつ、ひつこくひつこく聞いても誰か教えてくれなかったからです。(そら、文鮮明とはいえんわな)まあそれはいいとして我々自身の洗脳社会を楽しむことができればと思いますな。なりたいもの、やりたいことを自分に自己洗脳してやっていけるように。この1年。離婚28.5万件のうち5年~10年が6.5万件、10年~15年が3.6万件、20年以上も4.3万件と長く暮らした後の離婚が急増。我慢して暮らしている夫婦が多いのか。子供が成長して、夫が退職して、我慢が限界になるのだろうか。死亡者は97万人死因はガンが30万人を超える。心疾患、脳血管疾患が3大死因。今後、食べ物や環境で、成人病が益々増えていくのだろう。ウイルス性の死因は昔に比べたら減るよな。でもやはり6位に自殺が来るのは悲しい。住みにくい世の中というのが分かる。特に今後は老人の経済的な原因も増えるのではないかと思う。特にわずかしか年金のもらえない我々の年代は。自殺者が3万人くらいというのは交通事故死因の3倍というのは驚きであるなあ。よくあること電車に乗っていたら人がいっぱい乗ってきて、つかまえていたつり革も斜めに。そこに押された人の頭がきて、そのまま電車は動く。手がだるくなってきたのでつり革を放そうとするが、放したら、その人の頭につり革がカツンと当たってしまう。申し訳ない。手がつりそうになるのを我慢する。
2003.04.21
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シンガポールの安宿では酒盛り決起大会が挙行されるのだ。団体旅行はつらいものがある。何せ団体で行動しなければならない。メンバーは私、疑似隊長兼似非記録係。元水泳部員だけのためだけに選出された副隊長兼会計、K。荷物をできるだけ持たせるためだけの装備兼渉外(バナナを買ったり切符を手配したりの折衝係)、H。医療兼食料兼奴隷のO。このナントも頼りない四人は、ボルネオ島で川下りをする為、日本でミーティングと称して何度も何度も酒を飲み、飲むだけで終わる日も多く、それでもバンコクからシンガポールまで荷物と共にやってきた。団体旅行はつらいものがある。最年少O(19歳独身学生)の全財産が六十ドルであることが判明。これからの日程を考慮しても、彼の完全破産は明白となり、残り三人は否応無しに民法上の破産管財人となり、彼を奴隷以下で取り扱うことを前提とし、彼の残財産の管理及び大いなる慈悲による我々の自費を無利子無担保で緊急融資するはめに陥った。我々の経済はネップ型経済計画案が提案され、集団農場型他力更生型人生案を採択することとなった。 ペレストロイカ或いはドイモイまで、まだ四十年を待たねばならないのであった。要約すれば、我々の予算は二十五%削減され、税金の無駄使いの愉快はおろか、心のユトリのための曖昧な出費や、疲労回復のための快楽でさえ禁止されたのである。かいつまんでいうと皆、平等に貧乏になったのである。だから皆多分気づかないだろう、という作戦にでたわけである。今までは年齢別身分制度を廃し、じゃんけんに寄る民主主義的荷物運搬分担制を、Oに常時三十五キロボート運搬苦力に変更しようかという提案まであったのだが、何とか三人の愛とピースフルな性格によって撤回されたのであった。落胆の中、副隊長兼会計のKが、いつもの口癖を発した。「こうなったら、今夜は徹底的に飲みましょう」彼の連呼する「こうなったら」はいつもどうなったのかさっぱり分からないのであるが、今回だけは一応の理解を示すことにした。が、しかし、その場合益々金がなくなる、ということについては一切考慮されていなかった。が、しかし、今回、彼の口癖が初めて開花したといっても良いであろう。自虐的ペーストもたっぷりだし。 早速、我々は奇抜な建物の密集するメーンストリート、オーチャードロードを闊歩し、デパートの食料品売場に突入し、この旅最後と予測されるアルコール注入に哀愁を抱きながら、慎重に銘柄を選ぶ。度数と値段だけを集中的に検証していったのである。それにしても、アルコールは、シンガポールでは結構高い。何度ものけぞりそうになったが、体制を立て直すまでもなく、厭世的気分が打ち勝った。僅かしかない金を削っても、酒や煙草などの嗜好品を衣食住以上に求める人間が何と多いことなのか、と嘆きながら、我々もその一翼を担っていることに気づかず、安宿のテラスにて酔狂。 酔って品を落とすことは基本的に恥かしいかとではあるが、この超管理都市国家に対して密かな悪ふざけをしてみたい誘惑にかられて仕方なかった。既に張本人の奴隷以下のOは一人泥酔して寝てしまっているので、テラスに捨てたまま、夜中の街をぶらついた。アラブ人街とインド人街を通り、唾を吐けば罰金と書いてある前で唾を吐き、煙草のポイ捨て罰金との警告板に煙草の灰を擦りつけ、我々は立派な不良外人となった。Hはガムポイ捨て禁止の前で、体内過剰摂取物をコンクリートの大地に返していた。私も負けじと、彼らを待たせ、公園に行き、体内不要廃棄物を地上に点滴した。「俺も結構思想犯だろ」と二人にいったが、「多分、ウンコに思想はないですよ」と冷静にいわれる。「まあ、この国で反体制的発言をしただけで何年もぶち込まれている一般人がたくさんいるからね」と理由になってもいないいい訳をし、少し肩を落とした。 シンガポール対岸のマレーシアの町ジョホールバルよりボルネオ島クチンに飛ぶ。 爆発的にボートは速度を増す。デッキでまっすぐ立てない。Kと私の嘔吐物は、ほぼ水面と平行に口から漏れていく。車掌が改札に来て、このボートではないことが判明。そういえば、百メートル程向こうにも何か船が停泊していた様な気がする。我々は無駄な交渉したが、やはり無駄であった。予算は少ないので、頑張って船着き場まで満員バスに乗ってきたというのに、こうなったら、髪をなびかすいい男になるしかない。海を渡りラヤン河を上り、四時間半。シブ着。 シブからミリまでの違法乗合いタクシーが一台呼び込みをしているのを発見し、早速、荷物を乗せるが、その前に間違えた切符の払い戻しを受けるために、港を東奔西走し、汗びっしょりの末に発見した事務所は、休日で敢え無く休み。我々四人はにわかダフ屋及び怪しい不良外人と成り下がって、かたっぱしから「ねえ、安く切符買わない?」と、声をかけまくる。旅行者、できれば、ねぎかも日本人旅行者は、こういう時に限ってまったくいない。結局、誰も我々の相手をしてくれず。乗合いをこれ以上待たす訳にもいかず、「おい、引き上げるぜ」と惨敗宣言し、後ろ髪を引かれながらシブを後にした。 十一時間。ボルネオの道は急速に整備されつつあるようだ。この道も数年前までは存在していなかった筈で、少し古いガイドブックには船か飛行機しか、この区間の移動手段はないと書かれてあったのに、こうやって未舗装の道を頭をぶつけながら進んできた。乱伐された木と砂埃の中、一時間に対向車と擦れ違うこと数回。パンク一回。まだ通行許可されていないのか、検問で、近くの村から来たと証言させられたこと三回。食事三回。ただでさえ暑いジャングルの中で鮨詰め状態を十一時間、新興中都市ミリ。夜十一時。ミリはブルネイの恩恵を受けているのか、サラワクの中では物価が高く、あまり愉快な町ではなく、美容院と称した女郎屋がやたらめったら見受けられる。我々は一人荷物見張番として、三人は方々にホテル探しに散る。しかし、夜中人海戦術操作も空しく、どこも満員。やけくそで、からかうつもりで、女郎屋を指差し、奴隷Oに指令を与える。「おい、あそこ空いているか聞いてこい」すると、彼は何も知らないようで、へこへこ女郎屋に消えていった。三分後「みなさーん。部屋空いてますよー」と誠、間抜けで眠たそうな無思想の声でいった。「あたりまえじゃ」と私は即座に呆れたが、まあ、マネージャーと交渉する価値はありそうだなと思い直し、中へ入っていく。出稼ぎに来ているフィリピン女性十数人。ココナツオイルと安っぽい香水の匂いが充満している。マネージャーとの執拗で笑顔の交渉の結果、我々は赤の絨毯、蛍光色の照明、ポツンとダブルベッド、ヌードポスター、重々しく毒々しい数々の行為を営んだ後の因縁の臭い、安物特有の石鹸の臭いという部屋を与えられた。我々は天使ばりのため息をし、正直三パーセント程ぐいいっとそそられたのは事実だが、三十パーセントは私たちどうなるのというワクワク感、二十七パーセントは愉快な体験満足モード、四十パーセントは純粋に眠い気分であった。あれほど、女性は結構ですといっていたのに、夜中ドンドンと扉が壊れるのではと思う程のノック。我々はしかとを決め込むが、交渉の最後に「ちなみに、参考までにいくらなのだい」と興味本位で尋ねてみたのが悪かったのかもしれない。朝、うかがわしいライトの中で目覚め、堕ちたなァと呟く。度重なる移動の連続と一晩連続冷房と毒々しい部屋の空気にやられてしまった様だ。大衆銀行という銀行で両替して、優雅にもテラスのある食堂で食事をうだうだしていると、バスに乗り遅れたことを知り、ブルネイ国との国境近くにある町クアラバラムまでの三十キロをタクシーで行くことにした。そこでは信じられない光景を目にした。運転手がシートベルトをしたのである。途中運転手は自分の家に寄り、何か短い時間で用事を終え、再度出発したが、すっとまたシートベルトをした。(当時は日本でも任意だった。)クアラバラム。川幅約二百メートル。泥の河バラム河。左後方には、南シナ海が広がり、泥が海にまで、広がっている。木が伐採されるまでは澄んだ河だったという。根がないので、もう地表が雨に耐え切れず、土砂を流し続けているのだ。本来の海の色は遥か彼方にあり、水平線が空の色と交じりあやふやな状況を帯びている。高速艇は、途中川沿いの村に寄り寄り、人や郵便物を降ろし、波飛沫を二メートル程上げながら突っ走る。川沿いには大きな穴が空いて、使い物にならない大木や丸太が何万と積み上げられ放置されている。二時間半、マルディ着。ホテル数件。食堂十五軒。よろずや十数件のこじんまりした村。車も飛行場もある。訳の分からないうちに車に乗ると百メートル程でホテル到着。蚊帳や缶詰やイバン族の子供たちへのお土産のお菓子を買い出しをしておく。韓国人が多いのか朝鮮人と良く間違えられる。何時間もジャングルの中の河を逆上して、また村が悠然と出没するのに不思議さを感じる。オイルマネーにものをいわせた砂漠のオアシス、中国内陸部不毛地帯の後に突然百万人都市、人と水と栄華ブクブク。私は連日じゃんけんに勝ち続け、悪い気持ちの微塵を見せ付けるように行った。「これから、更に鬱蒼としたジャングルに入っていく。我々の予算は限られてはいる。これが最後だぞ。分かったな。これが最後なんだぞ」といって酒盛りを始めた。翌日、内陸通行許可書を警察と役場に受取りに行く。マルディを出発、高速艇三時間。高速艇の先頭にて。私の真後ろは運転席。考えるに、私は邪魔だ。まあ、いい。運転手の兄ちゃんは舵を取りながら気さくに鼻歌。私はウォークマンを耳にあて、手に一眼レフを持ち、ジャングルの中、文明の利器。本来、必要のないもの。そして、あれば快楽になるもの。燕一羽。船を先導するかのように平行して飛び、私を扇動する。兄ちゃん、口笛に切り替え。まだ、気持ちいいのか。河はぐにゃぐにゃに曲がっている。しかし、速度は一向に緩めない。細長いボートと擦れ違う時だけ、その時だけスピードを緩め、波を抑える。エンジン音が多少収まる。鳥が水面すれすれに飛ぶのが見えるのだが、そんな生き物を蹴散らしてしまうほどのエンジン爆音は他の微量多数ある音を掻き消して、でたらめに伐採された木々の間に埋もれていく。姿は見えない。鼓動は緩やかだ。俗的性的な気分は全くない。水は流れているか。国という概念、国境というイメージはない。川幅百メートル。彷彿させてくれるものはない。何故、欲しいものばかり考えて、いらないものは考えられないのか。切捨て。切符切りのおじさんがやってきて、平然と私のノートを覗き込む。少し渋い顔をしているのだが、親切そうな村のおじさんという感じだ。フフフ、秘密の暗号であろうよ、切符切り屋さん。私はピアノ音をボリューム大にして、耳に注入しているというのに、エンジン音はその合間を狙って耳に滑り込んでくる。別のおじさんも無関心そうに景色を見ている。多少の湿気がある。進み行く単調さが、純化させてくれる。雲がある。風の涼しさと太陽の暑さが混在している。極彩色の鳥が河の獲物目掛けて攻撃を仕掛け、収穫物をくわえて森に消えた。一時間半、切符切りのおじさんとの無言の連帯。川幅は五十メートルに。相変わらず民家はない。影がかなり濃厚、いや、すべてが濃厚に変化している。雲の速度が速く、濃度さは変化する。ファナティックな情熱などない。浮いている木が淀みにはまり込み同じ所を回っている。単調さを描きたい。単調さを。マルディから三時間ロングラマ。インド的な薄い水色のコテジに泊まる。ボルネオに入ってからホテルはすべてエアコン付きである。安宿がほとんどないことが原因だが、夜は涼しいので必要ないのだが、ついつい使用してしまう。環境問題のメッカで、環境問題より貧乏性が優先してしまった。悲しいかな、と叫び、ジャングルに軽装で突っ込んでいくと、動いても離れないボルネオ蚊にボッコボコにやられてしまう。即、退散。驚異、発見、習慣。ロングラマを出発、高速艇四時間。高速艇の説明。全長十五メートル程、その三分の一はエンジン室で占められている。屋根は大きな荷物置場となっているが、嬉しがりが風を浴びるスペースとしても機能している。トイレは穴がポコンと空いていて自動水洗直放流。船室の窓はスモークシートが張られ、半地下になっているため窓からの景色は水面上五十センチ程からのものになる。エアコンが効き、なぜかプロレスのビデオが放映されている。最終的に客は我々四人となり、乗務員のほうが人数が多くなる。終点の村ロングナア。これより先に定期便はない。ホテルはなく雑貨屋が二軒。村民人口は二、三百人というところか。取り敢えず、我々は最大の作り笑顔をして、ぶらぶら歩く。学校の先生に宿泊のことを尋ねたら、無表情に首長の所へ行くよう指示される。長い軒先で彼を待つ。誰も、好奇心を持って話し掛けてくる人はいない。企業や役人又は環境団体の外国人には慣れきっているのだろうか。ロングとは平屋が百メートル程度連なった首長を中心としたイバン族の生活形態である。耳にピアスとして重いリングを通し、耳たぶが十から二十センチあり、おかっぱ頭をした人々。多くの子供たちが遊ぶ声。部屋は一家族五部屋ぐらいか。蚊や蝿は多いが、ゴミの処理はしっかりされているので、清潔である。もともと首狩族だったという我々の偏見のせいか、彼らは我々を歓迎しているのか警戒しているのかというのではなく、観察されている様な気がしてならない。部外者に慣れてはいるし、親切ではある。多分、スコールが我々の気を多少滅入らせたのかも知れない。大人の人は大人しく、子供の人は相変わらず騒がしいほどに騒いでいた。土の臭いが少々暗かった。そして、「やられている人々(抑圧・搾取されている人々)」という雰囲気が流れていた。森を部外者に取られていく人々。我々の国は、その代表。日本人に対する目がそこにあった。煙草を吸う人をほとんど見掛けない。夜、ヘッドランプをつけて川辺に行く。昔、迷惑と信念のパラドックスがあるのを考えていたのか、こんな森の奥まで来た西洋人がいた。宣教師。教会と学校だけは、夜の九時、まだ電気が灯っていた。子供達はまだ起きていた。シャボン玉が流行っていた。いよいよゴムボートの旅が始まる。
2003.04.20
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小学校の修学旅行は、伊勢であった。江戸時代の伊勢参りというのは、凄い面白いもので、平均して5メートル間隔で伊勢まで人が連なる程大繁盛だったらしい。そんなことも知らず、私が覚えていることといえば、禁止されているのに土産物屋でナイフを買った子が、誰か買わないかと走り回っていたこと、風呂に入らずに、電線マン踊りをやっていたこと、位か。1泊2日、何で伊勢だったのだろう。今日の新聞のベタ記事にフィリピンのミンダナオ島の端にバシラン島というのがあって、そこで銃撃戦があったという。私は、何気なしにその島に行き、島の印象はないのだが、帰りの船に子供達がバンカを寄せて、乗客に向かってコインを投げろ、という叫んでいるのを見た。乗船客が笑いながらコインを投げると、子供達は海に飛び込み、コインを取りにいく。その子供達の目が忘れられない。詳しく記したものがあるのでまた紹介したいが、何故か、そのバシラン島と伊勢の夫婦岩がだぶってしまったのであった。ナンの関連性もないのに。ウエストサイドストーリー今度、ミュージカル「ウエストサイドストーリー」を見に行くのでチケットを取ったのですが、その前に映画でも予習しておこうと十数年振りに観た。楽しい踊りであり、カメラワークがいいなあと思った。思わずビデオに向かって拍手するところであった。紫外線と赤外線を感知できる、現在知られている唯一の生物は金魚らしい現在、飛行機で死ぬ人の総数よりロバに蹴られて死ぬ人の総数は多いらしい日本じゃロバを見たことのない人がいっぱいいるだろう。
2003.04.19
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旅の終わりの日の朝は、いつも静かだ。ちょっとした旅愁の予感のようなものが、身体を取り巻き、風景を落ち着かせてしまう錯覚に陥る。空中にはニG程の重力がかかり、人々がスローモーションに見える。肌に触れる空気の流れを繊細に感じることができる。街は、私を、惜しんでくれる。 インド、ニューデリーの最後の朝、道端にあるポンプ場で葉を磨く男。オレンジ売りの屋台の開店準備に忙しい女。リキシャーに乗った制服を着た中産階級の子供達と、やせ細った体から汗を流しながらペダルを漕ぐリキシャーマン。 アメリカ、ニューヨークの最後の朝、通勤ビジネスマンに混じって信号を無視して歩く私。タクシードライバーのデニーロのみたいに襟をたてて、巡洋艦の停泊するハドソン川沿いを歩く私。何となくデリカテッセンで薔薇を一輪買う私。 そして今回はイタリア、ミラノ。窓を開けると通勤途中の人々の路面電車の昇降風景が見渡せる。荷物をまとめ、そして街に出る。ドォーモ(大聖堂)前広場を通る。足早の人々を見ると、私は生活に関係ない世界から訪ねてきたただの傍観者なのだなと思う。五百年もかけて造られたドォーモを見ると日本の急成長の弊害のことを思った。地下鉄に乗り、バスに乗り、空港へ。私の身体は乗り物のスケジュールによって自動的に動かされている。「帰ろう」と思った時、予定のなかった気楽な旅が終わる。あてのない旅、流浪の旅、移住、そうでもない限り、帰るべき場所がある旅である限り、出発のために一歩家を出た瞬間から帰宅を目指していた。旅を終える為の旅を。 日本と親密に係ってきた国オランダへ。関西国際空港で、何故か「アムステルダムで降りられますよね」とカウンターで確認されたことを思い出す。オランダ航空は日本発だったので日本人が多かったが、空港からでる日本人は見かけなかった。アムステルダム中央駅までスキポール空港から四駅二十分。プラットホームは空港の地下、切符を買うのを忘れていたと、もう一度地上に戻り切符を購入。ドイツでもそうであったが、改札がないので何時の間にかプラットフォームへ。いや、インドもインドネシアもパキスタンもタイも改札がないところなんかいっぱいあった。 斜め前の一人の元ヒッピー風おねえさんが煙草を吸ったのを確認して、私も吸う。煙草は日本より高いが喫煙率は高そうだ。一人が吸うとつられて皆が吸うの法則により、やがてこの車両も煙につつまれてしまう。車掌の検問はなかったが、自由の国でありそれゆえの責任の国であり、後日、私は間違った切符(レジデンス用)を買ってしまっており、問答無用に三倍徴収された。勿論、細かい金がなかったのであとから清算しようと思ったというのは理由にならず不正乗車である。 アムステルダム中央駅。運河の風が吹き荒れる。東京駅のモデルとなった駅。八重洲もオランダから江戸に住みつきサムライになった人の名前。 街は派手だ。パリやロンドンの重厚感やシックとは違い、アートアートしているが、ポップである。海面下の湿地帯とよく降る雨の水はけのために切妻屋根を中心とした概ね五、六階建に統一された独特の建物は、色使いが派手。黄色に白に茶色、そしてその色と色の境界線がはっきりしていて漫画のようだ。チベットの色使いに通じるものを感じる。油絵でなくポスターカラーで塗りたくったような感じ。建物のほとんどは十七世紀からのものであるが、このキッチュな色はらりっている様だ。そういえば空港の床にテレビがはめ込まれていてニュースをやっているのを見て、結構イッテルなと思った。 十七世紀、世界最初の株式会社、東インド会社を設立し、宗教中心の中世の中、商業至上主義を選択したこの小国は、その経済発展ゆえに、大国イギリス、フランス、スペインに苛められまくった。国土の狭さと人口の少なさで、まともな軍隊を持たなかった(軍事よりも商売!)ゆえに致命的な連敗続きの国。レンブラント、ゴッホ、フェルメール。カルバンのプロテスタント気質が似合う風土。小国主義。個人の自由が尊重される国。野垂れ死にの自由。スクォッティング(空家占領の自由)。ジャンキーになってしまった人々のために代替薬メサドンと感染症防止の新しい注射器を満載したトラックが定期的に回る国。高い税金。同性の結婚の認知。精神的安楽死までも認める国。公営売春。自転車。 一日歩けば感じる「自由と寛容」エラスムス。スピノザ。 小雨が降っている中を、駅前地図掲示板を眺めていると、おじさんが寄って来て、「R」を瞬時に三度程言う程の巻き舌で目指すホテルの行き方を説明してくれた。その国が好きになるかは、その国で知合ったり出会ったりした数少ない事例から、その国の好き嫌いを評価してしまう傾向にある。私も外国人と話すときは日本代表という心構えを持つようにしている。別にナショナリストではないが。そううえば、今まで各国で出会ったオランダ人は、珍しく人種差別的な態度や発言はなくフレンドリーであった。それに何故だか煙草の紙を巻くのが上手だった。 ピルグリムファーザーズは信仰の自由を求めてアムステルダムに十年住んで、この街で思考、生活様式を確立させていった。彼らは、ニューヨーク(元ニューアムステルダム)やハーバード大学を造っていく礎を築いていったのだから、第一印象何となくニューヨークに似ているというのは、そのあたりからきているのであろう。 ホテルまでは運河を越え、越え、結局大いに迷ったが、面白そうな街と直感した。迷子になる自由が旅行にはある。誰からも干渉されず、行方不明の状態、ただの無責任な傍観者。 カイゼル運河沿いのホテルにチェックインする。ホテルの好き嫌いは、価格立地設備広さ景色そして対応、それだけでは判断できない部分がある。雰囲気というしかないか。臭いである。かび臭いのは論外であるがビジネスホテルのように無味乾燥もいただけない。今までどんな客が泊まってきたかということもあるだろう。調度品もさながら、部屋に一歩入ればなかなかいい感じであった。 このカイゼル通りは不法占領が流行った地域で、オランダでは不在を続けていれば不法占拠されてもやむなしという変な常識がつい最近まであって、そんな場所で芸術活動を行ったりしたらしい。世界中のフーテン旅行者が集まりそうな話だ。窓から凍った運河を見ながらそう思っている。 ヨーロッパの趨勢として、個人使用における害のほとんどないマリファナ程度なら黙認状態になりつつあるが、アムステルダム市内でけでも四百件近くの自由に吸える喫茶店が解禁されており、あちこちに点在する。店の名前はコーヒーショップと表示されており、ハードドラッグは違法なので当然置いていないが、アルコールも置いていない。三分歩けばコーヒーショップという感じだ。実際統計的には解禁以降は喫煙人口は減っている。勿論、ハードドラッグでいってしまいフラフラになっている人はいるが、思った程でもない。よくあるだんだんより強く効くものを求める論理があってだからいくらソフトでもマリファナ駄目というのもあまりあてにならないことが分かる。別のものだからだ。一定数はいるだろうが、いわばビールを飲みつづけたら、更に強いウイスキーやテキーラやウォッカににそのうちうつっていくというものでもないのと同じかと思われる。 それにししてもジャズの店、ロック、レゲエ、瞑想、ゲームセンター、ビリヤードいろいろ資本主義の荒波に揉まれながらも経営している。喫茶メニューも「シンセミア・タイ・モロッコ・ハワイアン・アフガン・ネパール…」など堂々と記載されていて笑える。合法とは不思議なものだ。 また二つの種子会社が、交配に交配を重ねて、よりいいものを作ろうと切磋琢磨しているのも微笑ましい。花屋にも寄ったがちゃんと種子も売っており、栽培方法もこと細かく図解入りであった。ガラス越しの向こうでは客がプカ~っとやっているのに、通行人は全く気にせず通り過ぎていくというのが笑える。客は若者中心ではあるが、渋いダークコートにネクタイ姿の初老の紳士もいたりする。コホンと気取って咳き払いなぞしつつ、おスマシサンしてても意識はガンガンきていると思うと愉快である。何か会社帰りに赤提灯寄っていくような感覚なのだろうか。「じゃあ今日は軽く一服決めに寄りますか」とか「キミィ、私の勧めたグラスをもうこれ以上吸えないというのかねえ~」とか「イッキイッキ」とかいった光景が繰り広げられているのかも知れない。思索的ではないことは確かだ。 何故か早起きしてしまった。ホテルの豪華な十七世紀に建てられた部屋で朝食。さすがに電気水道ガスが完備されているが、日本では設備を追加するのも大変だ。スクラップアンドビルドの時代は終わりつつある。八時にようやく明るくなり始め、とりあえず乗り方不明のままにトラム(路面電車)に乗ってみる。そして終点で「どうやって切符買うのさ」と運転手に聞いたら、「最初に買ってもらわないと困るなあ。もう今回はいいから」といわれ無料で乗車した、は、いいが、ここはどこだ。ただというのは、考えてみればインドネシアのボロブドゥール寺院以来だ。大きなお金しかなく。おつりを面倒と思った切符係りが笑いながら「行け」と合図してくれたなあと思いながら、早速トラム回数券を購入。しかし、これもずっと反対側から使っていてたようで、何度目かの乗車の時に初めて検問が来て、事実が判明し、その回数券は没収、新たに購入させられてしまったのである。 そうやって彷徨しているうちに夕方になってしまう。 運河は凍っている。空は憂鬱が覆っている。雨は、やがて、何パーセントかは雪になって、耳を中心に顔に容赦なく吹き掛けてくる。それでも私は散歩を敢行する。傘も買った。一番安い赤い傘は子供用の傘で、正に安物買いの銭失い状態となり、両肩と下半身を濡らしながら、目的地にたどり着いた時には衣服の重量が二倍になっていた。ホテルから僅か三分というのにだ。 アンネフランクの家。ミーハーに遊びに行く場所ではないので、朝焼けの中見に行きたいと思っていた。迫害されるユダヤ人に対してオランダ人は同情的だったという。アンネ自身も日記の中で、オランダ人の連帯に感謝の意を書き綴っている。 その家は、とてもさりげなくあった。見落とすところであった。湿った空気の薄暗い朝、同じような切妻屋根で同じ色、形の家が続く中、そのうちの一つの家だけに小さなライトが照らされていた。照らされた先には「ANNE・FRANK」と小さな黄色い看板があった。 「さりげなさ」という言葉が好きだな、と思った。そして私は通り過ぎ、アムステルダムにひときわ高く聳え立つ西教会の前も通り過ぎ、朝の静かな散歩を終える。服の重量は三倍となっていた。 アムステルダムは都市機能として、ちょうどいい大きさだと思う。美術館博物館以外なら大抵見るべきところには歩いていける。自転車も異常に多いが(自転車専用レーンが至る所にある)、小さくこじんまりした街がいいというだけでなく、歩きやすい街、散歩のしやすい街である。 またトラム(路面電車)に乗る。トラムの乗り方は前回で学習した。ドンと座っている車掌のところまで歩いていって切符を売ってもらうか、回数券をタイムカードのような機械にガチャンと差し込むかだ。しかし、何故かそのどちらもしていないような人々が多いように見えるのは気のせいか。定期券でもあるのだろうか。 ハイネケンビール博物館。ここでは創立者の経営理念から製造過程、歴史を順番に見せられるのだが、いやそれどころかハイネケン社が飼っている馬やサブリミナルビデオ(だと思う)まで見せられるのだが、見学者の百パーセントの人々は、早く先に進みたがっている。辿り着いた先は飲み放題バーつまみつき。百三十円の入場料でさえ、ユニセフに寄贈されるという。グラス(この場合コップ)を開けると、無表情の親父が勝手に取り替えてくれる。ストップというまで永遠にだ。ジョッキを持った親父が、空になるのを鋭く見張って降り、目敏く酔っ払いを探している。さすがは世界第二位のビール会社。ビール帝国ドイツとベルギーに挟まれながらもよくやっている。 ベロベロに酔ったまま、国立博物館まで歩いていく。寒い中運河を見つめる犬を発見しては「オイ、コラ、スピノザ犬!」とか叫び、まずまず上機嫌。博物館は入口でいきなりレンブラントの夜警が迎えてくれる。プロテスタントのオランダはカトリック世界からの絵の注文がなくなり、初めて市井の人々の絵を描写し始めた時代であった。しかし、市井の人々も絵に慣れていない為、夜警で描かれた人々が、やれ自分は小さく描かれている、やれ真中辺りの奴だけが光を浴びて目立っている、差別だ平等に描けと不平不満が出て、それ以降注文がなくなったという。 国立美術館の裏はゴッホ美術館。本物に触れるということがいかに重要か分かった。実際、私は別段ゴッホがスゲエけど心に響くほど出羽なかったし、むしろ耳を切るような人が隣に引越して来たらたまらんなと思っていた。どうも有名すぎて投機対象になって何だかなあと思っていた。 しかし、正に、この黄色、ボヨヨンである。炎である。来て、見て、解った。 その後、アールデコ調のアメリカンホテルに行き、カフェに寄った後、インドネシア料理を食べる。宗主国だったがゆえにインドネシア料理は数多い。味は、その店特有だったのか、不味かった。 その後、セックス美術館に行った。(デンマークのコペンハーゲンにもあった)皆、結合部分のアップ等を見てはゲラゲラ笑っていた。私の真似してゲラゲラ笑った。しかし一人の若い女性が真剣な眼差しで写真を見ていた。私も、見習って、神妙に見ることにした。私もそうだったが、この美術館は駅前のメインストリート沿いにあり、通りすがりの人々が多いのだ。 その後、思わず世界中にある「マダムタッソー蝋人形館」に行った。蝋人形館で外が見える窓があり、街中が作り物に見えた。 その後、世界唯一のヘンプス博物館へ。オランダ人気質と言うかやたらめったら学術的なのであるう。いわくいかに体に悪くないかの主張。いわくいかに麻には他にこんな使い道があるかの主張。いわく環境に優しくて安上がりであるとの主張。いわく酒や煙草、交通事故で死亡する人々はこんなけいるのに、これで死ぬ人は皆無という主張。いわくこれがハードドラッグに移行していくという訳ではないという主張。そして、種子会社の宣伝パンフレットを貰って帰る。そのパンフは三十種類に及ぶ品種商品と、育成キットの紹介、それぞれの価格が明示されており、はっきり言って見ていて楽しい) はっきりいって噂通り、オランダでは美人が少ないように見えた。服装や寒さで防寒具で身を包んでいるというのもあるかも知れないが、ケチケチの国合理主義第一の国という感じで、シックやエレガントという言葉から遠く離れているような気がしていた。(オランダはダッチシェア(割り勘)とかゴーダッチとかロクな慣用句がないが、確かにケチの国である。コーヒーを頼むと何故かクッキーが一つだけついてくる) しかしながら、飾り窓は大変楽しい。光加減が綺麗で怪しく、ガラス一枚でこちらはマイナスの気温の中、振るえながら歩いているというのに、向こうは下着または水着だったりする。実際は分からないが、セクシーな白人黒人黄色人種多種多様あらゆる人材が揃っており、まずまず飾り窓エリアというのは集中してはいるが、文房具屋や飯屋や本屋の横にあったりして、通りを歩いてウインドショッピングをしていると急に出現し、突然ウインクされて照れてしまうのである。天井の高い建物の中に、細かく部屋が区分けされ、椅子が一台だけおかれて、セクシーポーズで手を振ってくれる。やがて慣れてくると、こちらも意味なく手を振る。 女性連れの観光客も多く見学しているのだが、中には真剣な男どももいて、暖かさを求めてなのかドアを開いて直接交渉している姿も見受けられる。その男の真摯な眼差しが笑える。カーテンが閉まっていれば取り込み中、中にはメモが貼られていて、「次は九時に開けるからまた来てね」等と書かれている。 悲壮感はなく隠微で猥雑な世界ではなく、あくまで俗悪な中にも健康がある。そう言えば、昼間歩いていた時に、開店前に念入りに梯子によじ登ってガラスを磨いていた娼婦達を目撃。商品はアタシなのよ、を主張しているのであった。さしずめ百貨店のショーウインドウに動くディスプレイという感じか。なにせ、公営売春、ピカピカに準公務員なのだから。登録制で、ちゃんと性病検査が義務付けられている。 オランダという国はあまり国家というものを意識していないように感じられる。それとも自信があるのだろうか、コスモポリタンなのか。確かに英語を母語にしsない国で一番英語の通じる国である(ビジネスは英語でするらしい)し、世界中から寛容でホモから何から集めている為、人口構成が若い国である。それにしてもソドムの世界である。 まあ、そういう硬い思いはこの際どうでもいい。いつものクラッシクカフェに行く。視聴覚には絶えず莫大な情報量が注がれてきて、普段は、その情報を無意識に取捨選択している。しかしたまにはその情報量をまともに受けようとしたり、その情報を言語に書き落とそうとしたりして、狂いそうに忙しくなる。やがて気づくことを諦め、言葉が意識を追いかけることを諦める。反対に、一点のことに集中してしまい、世の中を見誤る結果になっていく。通り行く人と、店内に流れる音楽がマッチしたと感じてしまったとき、時間の流れを肌で感じてしまったとき、大いなる勘違いの気づきの一歩を踏んでいてしまっている。 ウエイトレス。注文を取りに来るまでの長時間に、一遍の不可解な物語を創作してしまう。 お土産は、デルフト焼き、と推測される。オランダのアムステルダムスキポール国際空港からセントラルステーションまで4駅20分という近さだ。前に行った時、自動販売機で切符を買ったのだが、オランダ語でよく分からず、前回より安いなあと思っていたのだが、その4駅の間に運悪く検札に来た。(改札はない)そして車掌は行った。君は居住者?私は行った、いいえ、旅行者。ふーん、じゃあ、間違いね、はい3倍の料金ね。乗り越しという概念もミスという概念もないのか、不正乗車ということで無条件で3倍取られた。大人の国やなあ。しかしバス(トラム)は私はどう切符を買っていいか分からず、取り敢えず乗った。そして検問がまたたまたま来た。(実はそれまでもそうやって切符を買っていいんか知らずに、検問も来ずにずっと無賃乗車していた悪者です)切符持ってないの?そりゃ困るね、最初に買ってもらわないと。もういいや、次回からね。なかなか話の分かる車掌もいるのであった。
2003.04.18
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昔々、覚えてないかなあ、米国在住のタイ人がミスユニバースに輝いた年のことを。1988年ぐらいだったんじゃないかな。あのとき、ちょうど2週間ほど、タイのビーチにいて、そんでもって西洋人なんかと暇を持て余していて、テレビに齧り付いていて、「どんな美人なのだあ」と盛り上がってて、そして、生中継でミスユニバースがタイに来て、飛行機から降りた瞬間、我々のテーブルはずっこけた。美の基準って難しいものですねえ。温度差普段いつも怒っている人がたまにやさしくするといい人に見えたりする。普段優しい人がたまに怒ると本性みたりという感じがする。ある人はその人を落ち着いた人といい、ある人はその人のことを暗い人だという。受ける側の気持ちも大きいなあ。沙漠の55度から北極圏のマイナス35度まで体験して、その差90度。人間てすごいなあ。そうそう、耳も凄い。蚊の羽音から飛行機の着陸まで何億倍の差に耐えるから凄い。
2003.04.17
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健康を考えて煙草を辞めた訳ではない。健康のことを考えたら煙草は元々吸わなかったんだろうな。18歳、フィリピンのルソン島の南端の退屈な港町バタンガス。そこのある店先でおばあちゃんが顔を皺クチャにしてマリファナを吸っていた。大量の煙が出て、なんだか気持ち良さそうだった。その後、その汚い港から船は出て、18歳では後の人生に悪影響?を及ぼす旅がはじまったのであった。イルカとの並走、漫画に出てくるような椰子の木一本だけの無人島、怖いくらい透き通った海、さんご礁、ビーチに流れる時間、過ごし方、皆毒でした、18歳には毒でした。あれから倍の時間が過ぎ、私はふざけたままだ。*今日車の当て逃げされて壊れたボディ代金が12万円と出た。20万円は覚悟しといてとディラーに言われていたので8万円得した気分(どこが得してん、12万円の損やんけ)*中古でジェーンバーキンのCDを先日買った。CDの音はレコードと違って、内側から曲が進んでいくらしい。*台湾って日本が侵略占領した地域じゃなく日清戦争より割譲された地だったんですなあ。台湾に行ったらセブンイレブンの兄ちゃんまでが日本語を喋ってきた。元より、私を日本人と見破った訳ですね。そや、日清戦争ゆうたって戦場は朝鮮、朝鮮人にとってはたまらないことだよね、どっちの国が勝とうが負けようが関係ない。激怒ですわ。私的なこと、3,4
2003.04.15
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バスを降り、荷物を持ったまま、アヤソフィア大聖堂の前の公園まで行き、ベンチに座っていた。先程、ボラポラス海峡の橋を渡り、極東から、ついにヨーロッパに入ったことを実感しようとしていた。靴磨きのおじさんが寄ってきた。「さあ、靴を磨こう」「ん?俺はこのとおり草履だよ」「いいからいいから。無料サービスだよ」「そうなの。でも、磨くところなんかないよ」「いいからいいから」「あら、そう。金は払わないよ」おじさんは、器用にゴム製の鼻緒部分だけを、ちょいちょいと磨いた。アヤソフィアの尖塔とドームに目をやった。「さあ、金を払いなさい」無視して、その歴史を実感しようとしていた。おじさんは怒り出した。今後来る日本人のために、と何か教条的になり、「最初いらないといいましたね」とだけいい、これ以上は勘弁と、公園を後にした。 目当てのホテルはいっぱいだったので、地中海の方へ下っていく。まあ、このあたりに宿をとることにしようと思う。小学生ぐらいの女の子が部屋を案内してくれる。西に来る程、子供の労働が見当たらなくなってくるのを感じていた。禁酒の国をいくつか抜け、久々に缶ビールを飲んだ。イランからトルコの国境の話であるが、国境は荒涼とした丘の上にあり、向こうにノアの箱舟のアララット山がそびえていて、丘の上に建物があり、その建物の半分がイラン半分がトルコである。イラン側にはホメニイ師の肖像画、そしてトルコ側にはケマルパシャの肖像。トルコ建国の父である。二十世紀最も優れた政治家の一人である。私はアタチュルク(トルコの父)と呼ばれるこの頑固おやじのことをよく知らなかった。彼は、かつてのチャーチル連合軍を破り、帝政廃止を実行し、政教分離し女性にベールを止めさせ、アラビア語からローマ字に書き言葉を替えて識字率を上げた。国の力は何といっても教育だと知っていたのである。彼は、今でも人気抜群の英雄である。トルコ東部の街エルズルム信号のない横断歩道で車が通り過ぎるのを待っていたら車が止まった。運転手がどうぞどうぞといっている。アジアを陸路で来た限り、それは初めての体験であった。アジアでは歩行者より車のほうが偉い。感激のあまり日記につけたくらいだ。ヨーロッパの香りがするって。イスタンブールのひつこい絨毯屋で聞いた。「アラジンのような空飛ぶ絨毯は売ってないのかい?」主はいいましたよ「ある」って。そして小さな絨毯を放り投げた。「ほらな」私はこの街が気に入った。突然ハゲの美学のことを考えていた。西洋人は、弁護士や議会、それからモーツアルト等をみれば分かるが音楽家、カツラをかぶっていた。考えれば、ああいう名誉職の方々にはハゲが多かったのかも知れない。日本は、ザン切り頭をたたいてみれば文明開化の音がするなんていって明治維新にばっさばっさとチョンマゲを切っていった。(切られていったのか)あのマゲっちゅうの、てっぺんを剃ってツルツルにするわけですな、ほっとったら浪人ですな、きっちりそってピカピカが侍ですな。そして、剃らなくてもいい人々もいっぱいいたはずだ。それはハゲの人々。もしかしたら日本はハゲに寛容なだけでなく飽くなき誇りを持ってきた歴史があったのかも知れない。それを西洋文明にパラダイムシフトさせられたっちゅう訳なのかも知れない。そうか、きっとそうだ。もし間違っていても、専門家でないのできっと許してもらえるだろう。イスタンブールのバスターミナルでホゲホゲしていた。近くに城壁があった。そこの前にハゲが通りがかった。「ハゲと城」と私の頭の中にキャッチフレーズが思い浮かび、急いで一眼レフを取り出し、気づかれない様に先回りし、シャッターに収めた。そして帰国後整理したアルバムの中でこの写真の横にちゃんと「ハゲと城」と説明書きを入れてある。めでたし。私的なこと、3,41.4月1日に嘘をつきまくるのを忘れていた。2.20年ぶりぐらいに鼻血が突然出てきて止まらなくなた。3.今日夕方車運転中に眠くなって脇に止めて寝たら3時間寝てしまった。4.体重計を測ったら半年で10キロ太った。この20年間ほ同じ体重だったというのに。
2003.04.02
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