きよの世界(アメリカ大学院留学編)

きよの世界(アメリカ大学院留学編)

第三話


第三話
第七章と内なる人

(追加)この文章、本当は2月23日に書き終える予定だったんだけど、途中で何書くか困っちゃったから、ちょっと内容が古いけど、我慢してください。
   はい、どうもこんにちは、今日もまた素敵なきよの時間がやってきました。今日も一緒に聖書を勉強しましょう。まずは、聖書をお手元にご用意ください。
   ところでなんだけど、今週の水曜日2月25日にメルギブソンの映画が出るよ。The Passion of the Christてやつね。すごく映像とかでえぐいシーンとかあるみたいだけど、興味のある人には俺は勝手にお勧めする。まだ見たこと無いけどね。
   そういや、最近みんなは元気にやってる?人生の調子はどんな感じよ?俺はとにかく絶好調。あえて理由は述べないけれどとにかく毎日が充実しているよ。みんなも充実した毎日が送れることをお祈りしてます。みんなと言っても、あまりにランダムすぎて全員分のこと考えるのは無理だろうけど。なんかお祈りして欲しいことがあったらメールでもしてけろ。
   あ~、そういえば、今日の弘子さんの作ってくれて晩飯はすげ~うまかったな。めちゃくちゃ柔らかいチキンにカボチャに、豆?(緑の物体)かな。日本食をそこまで口にしない俺には本当にあの食事は輝いて見えた。あのご飯だけでもバイスタの価値あり!だね。いや、だからって食い物が目的で行っているわけじゃないからね。お間違いのないように(冷や汗が・・・)。あ~、まじで感謝です。ありがとうございますの10乗くらい。暗唱聖句はちょっと難しかった。最近ちょっとだらけてるからやばい。そろそろ10ドルの出番なのか・・・。
   それじゃ、今日の聖書箇所に入ろうか。今日はローマ人への手紙、第七章、新解約聖書では274ページにあたるね。なんだかいきなり最初からパウロさん飛ばすね~、今回は。夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれているけれど、死ねば、夫に関する律法から解放されるんだとさ。これはまあ律法の権限の具体例なわけだけど、しかしまあ、夫が死ねば・・・だなんてね~。男としてはちょっとね(あ、ちなみに俺のこと女と誤解している人いるけれどそれは大きな間違えね。そりゃまあ、ドリュー・バリモアみたいにかわいくて、ジュリア・ロバーツのように美しい顔立ちをしてはいるけれどね。ん?なんかみんな顔色悪いけどどうしたんだ?)。まあくだらん冗談は置いておいて、パウロのいいたいことは律法が俺達をめちゃくちゃに縛ることはないぞ、てことだな。別に夫は死んでしまったら妻にとってもう価値のある存在ではなくなってしまう、などというグサリと包丁が刺さりそうな意見を言っているわけではないんで、あしからず。六節を見てください。「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」古い文字てのは律法のこと。新しい御霊てのはよくわからんけどイエス様が死んだという恵みのことかなんかだな。今ひとつ詳しく説明できない。すんません。まあ、たぶん律法てのはいろいろなルールでかなり厳しくて、あれしなきゃだめ、とかあれはしちゃだめとかいうのがたくさんあって、でもそれはもう大事じゃない。ルールを守るということよりも、自分が罪人であることを認めて、全部を神様に任せようとか、そういう気持ちのほうが大切だってことだろうね。いつも言ってることだけど、だからこそ人生楽になるんだぞ。ルールを守ることにこだわると人生つまらなくなることが多いよ。余裕のある人はこの六節は覚えてみよう。本当にキリスト教の概念においてかなり大事な部分だと思う。七節でまた出てきたけど、「絶対にそんなことはありません」ね。このパウロの決め台詞。最近ちょっと飽きてきたからできれば他の言い方して欲しいぞ。「むさぼってはならない、と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」ていうこの意味わかるかな?こういうことてよく普段の生活でもあるでしょ?だめと言われなければ、な~んも気にしなかったことが、言われた途端ものすごく気になりだして罪悪感もったり、だめと言われたがために逆にそれをやりたくなる感情とかさ。やっぱり律法があるがために罪がもっと強調されるんだと思う。ルール作りはほどほどにね。でもだからといって単純に律法は悪いことかというとそうではないらしい。十二節に「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」とあるし。ここからパウロは話をすごく深いところにもってきた。死をもたらすものは律法ではなく罪なんだと。あくまで律法があるからこそ罪が明らかにされるのであって、律法自体が悪いことではないのさ。そこは勘違いしないように。じゃないと、じゃあ律法なんてなきゃいいじゃん、みたいな事になりかねないからね。
   15節、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」こういうことってよくあるよね。自分が嫌なことは他人にせず、自分にして欲しいことを他人するようにしましょう、なんてことをよく小学生・中学生の頃とかに言われたのを覚えているけれど、なかなか実行できないなぁ、といつも思わされている。これの理由は17節にあるように「もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」てあるように罪が原因らしい。気持ちが善をしたいと思っても、体が悪をしてしまうのかな。最初ここを読んだ時は、何パウロ言い訳してんだよ、て思ったけれど、その後を読んでみるとそんなことはない、ということがわかる。22・23節で「内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです」と言っている。つまりパウロは心と体でやりたいことが違うといっているけれど、あくまで両方とも自分の一部だから、彼は別に自分の悪さに対して弁解しているわけではないらしい。24節なんか「私は、ほんとうにみじめな人間です。」とか言ってるし。まあこの章のまとめはここだね:「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」。それでも許してくれるそんな神様に感謝の気持ちを忘れずに。
   話は少し変わって、22節の内なる人の意味なんだけど、これは第二コリントの四章十六節を見てみよう。まあ単純にいうと肉体的なものではなく精神的なものだな。この言葉に関してはどんなイメージが浮かぶかな?ハジメは、もっと内面の深いところ、てのを想像するらしい。直ちゃんは、誰にも知られていない自分、俺は、自分の理想の性格みたいな感じ、を思い浮かべる。笑えたのは、ふみちゃんの、ちょっと恐いイメージ、例えばエイリアンかなんか。絶対映画見すぎだろうとみんな言っていた。まあ確かに内なる存在ではあるけれど・・・。そしたら谷本先生「あ、そういえばふみちゃん、知ってる?夜中にトイレ行って鏡見ると内なる人がぐぐぐっておでこのあたりから出てくるよ」と冗談を言って、それに対してふみちゃんはけっこうびびってた。相変わらず谷本先生は冗談好きなんだな。最近実は俺の中で内なる人という単語は流行だったりする。とても便利だからみんなもお試しあれ。
   まあ、こんな感じで木曜はいつものように楽しく過ぎていきました。いつもいつも本当に勉強になる時間です。飯はうまいし。一週間でも日曜の次くらいに楽しいかな。それじゃ今日もあれでお別れさせていただきます。さいならっきょ!

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