うきよの月 0
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戦前書籍で興味深くて適度に安価なものがあると入手するくせがあったんですがー。これは「戦時下」という限定による強制性はあるけど、「防諜」に関する当時のリアルをよく表わしていると思うのでご紹介。まあなので、こういう意識も消されてしまったんだよねえ、という。
2019.01.30
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科研費のもんだいについてちと。ワタシが大学院に行くちょっと前、行こうと思った一つのきっかけとなった出来事。死者に鞭打つということは自覚の上で。この本に無茶苦茶抗議したくなったということがあるんだな。菅聡子/女が国家を裏切るとき https://amzn.to/2JsI394 ワタシは当時吉屋信子をコンプリートしようとともかく版の違う奴もところ構わず蒐集していたんだな。で、彼女に関する研究本も。その中の一冊なんだけど。今なら「岩波」で「2000円くらいのハードカバー」ってことで、「推してるよな」とわかるんだけど、当時は「買いやすい」程度。でまあ「あ、やっぱり戦争責任関係かー」とうんざりしたわけだ。まあ、女たちの戦争責任 https://amzn.to/2GGdbjK の論調ほどではないにせよ、文学(そもそも大衆文学そのものが文学としてあまり扱われていなかったという見方にいらつくことが多かったんだけど)に責任というのに?だった。吉屋信子ってのは、……まあ後でちゃんと全体的に見て自分なりの結論の中では、あれこれ言いたいことはあるんだけど、ともかくエンタテイメントという点では、非常に優れた人だったわけだ。だがしかし文学研究という中ではいつも下に見られてきた。そら小説の方法が違うんだから。今だったら、所謂文学作品って奴と、コミックを同じ方法で評価しようとするからおかしくなる。それが戦前からずーっと「誰に対して書かれたか」という点が中心におかれて上下を決められてた感がある。まあそれにも怒りを感じて突き詰めたくなったんだが。研究書も少ないので何でも読んだ。菅聡子氏の本もその一環で、しかもアマには買いやすい価格、「女の教室」を取り上げているという珍しさでありがたく読んだんだが、途中で首をひねったんだな。「あれ、このひと朝日の全集しか読んでない」だ。さてここからワタシの修士論文の前半分になった「再販本の検閲下修正」の問題がひっかかってくるんだが。吉屋信子というひとの本はまじ売れたんだよ当時。戦前戦後かけて。つか昭和40年代までは。「大奥」ブームの始まりもこのひとだ。問題は戦前本の戦後再販本だった。「女の教室」というのは、昭和14年に東京日日・大阪毎日で連載された小説だ。女子医学専門学校の同じグループに所属する七人の女性が、南京陥落に至るまでの時期、どうそれぞれ生きていくか、という話。「学校の巻」「人生の巻」「戦争の巻」の三部構成になってる。医専の時代、それから支那事変までの時代、そこから南京陥落までの時代。だから当時の人々に「受け入れられ易い意見」と「ちょっと先行した意見」が交差して入っているわけだ。毎日読まれることを目的としたエンタテイメントなんだから。当時ありがちなことや意見が普通に入ってる。そう、「当時としちゃ普通」の言葉に満ちてるわけよ。この人の文章とか考え方のクセがあるのは否めないけど、それでもキャラクター分けができている分、ちゃんと「あああるある」と、誰かしら読者が共感できるキャラがいるようにできてるわけだ。ただ共通しているのは戦時体制の中ということ。で、このひとは18年までは主婦之友と新聞で連載も書いてた。19年には少年向け小説と戦線文庫とかでも書いてた。20年にも一応短編依頼受けて書いてもいた。(雑誌そのものが出なかったので、載せたのは戦後だったけど)つまりは何だかんだと人気があった。で、戦後。20年12月にはもう再版物が出てくるわけだ。まだ表紙ボール紙が出せない時期からだ。活字に皆飢えていた。紙の悪い本でも「全集」とか売れまくった。……のだが。この時にGHQの検閲が関係する。あかんとこがカット/書き換えされるわけだ。北光書房というとこが24巻本を出したんだけど、まあここは先に手をつけたのか何なのか、「安全な」あたりを選んで出してるから文章の変更はあまりなかった記憶。だがしかし、それ以外のとこが出したものの中には、やはりあった。無論出せないものもあった。「女の教室」はすれすれ。さてそこで「女の教室」は、思いっきり書き換えと削除された形で出版されるわけだ。先に三部構成と書いたけど、その最後の「戦争の巻」全カット。それに加えて二部までのあかんとこカット。つながるように文章書き換えがこれでもかとばかりにされた。誰の意思かは判らない。例えばこの第二部のとこで、通州事件の件があるんだが。左が昭和14年。右が昭和22年だ。アミカケ部分をカットすると、全体の発言の意味合いが変わってくるのがおわかりだろうか?14年の場合は「ナショナリズムは必然」22年の場合は「中国と友好」傾向になってる。支那も中国に。 彼女の本はことごとく支那は中国となり、軍隊ラッパに郷愁と愛国心がかきたてられる場面はカットされ、遊就館の描写は全カットされた。「拓殖大学」(この時代ちょうどその名前で無くされた)はどこか別の大学になった。本当に細かく!さて時は流れて、彼女は朝日と和解し(これも色々あるんだが)、徳川の夫人たちでブームも巻き起こし、その後お亡くなりに。そして死後に朝日新聞出版から「全集」が出るわけだ。全くもって全集なんてものではない全集がな。ワタシが怒り狂ったのがこの全集だった。正直、これを「傑作集」「代表作集」とでもしておけばよかったわけだ。ところが「全集」としてしまった。なのに年表とか出しておくから、こっちに研究されるスキができてしまったんだが。というか出した千代さんにその意図があったのかわからないけど。ともかく全然「全」ではない。さて、その「全集」に「女の教室」も収録された。―――のだが。……昭和30年代に再び出たんだな。映画のせいかもしれんが。もう時代も独立後だったので、22年にカットされた戦争の巻も入っていた。ただ、その前の一部二部が、文章カットの22年のままだった。ここでおかしくなってくる。22年の書き換え版では、戦争反対的なムードになっているわけだ。ところが30年代では、14年のままの第三部が接木された状態になっていた。仮名遣い以外全く変更はなかった。違和感しきりだな。その形で単行本になった。……んで、その最後の単行本が全集の底本になったわけだ。さてそこで冒頭の菅聡子氏に戻る。「女が~」で語られる「女の教室」について使われたのは「朝日の全集」なんだな。なのに、先ほど出した通州事件あたりの記述も、文章の中で使われている。ちなみにこの論文は「戦争責任」のことを言ってるんだが。22年の文章で言えるか?つまり、氏は「朝日」版を使ったことで根本的に間違えてしまっているわけだ。14年の新聞初出か、単行本を使えば全く違う見解になったと思われるけど、朝日の全集ではあかんだろ、と。さてそこで疑問がある。「何で大学の教授がこの程度のこともわからないんだ」と。ちなみにこの本はhttps://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-19520140/ …この研究の一環から出されてる。https://ja.wikipedia.org/wiki/ 菅聡子 によるとお茶の水の教授でもあった。残念ながら、ワタシが気付いたときには故人だった。若かったのに。でもだから、言わないとあかんと思ったんだと思う。大学の教授が出す論文でも、戦争に関わる言説を研究していたとしても、そこまで作品を遡ることをしない、基礎研究ができていない、もしくは「気付いていない」ということに、もの凄い怒りを感じたんだな。だって考えてみい。気付いたのはまだ素人の、マニアのワシだぜ。素人で、大系だった研究するための場所もなくて、ただこつこつ本を自費で蒐集していただけの奴に気付けてしまった程度のことだぜ?そいつにミスを指摘されるってどういうことだ?と思ったわけだ。「当時はそういう書き換えもあったね」じゃねえの。「あった」ことを問題にしろや。それに時代性を無視していた。その人を使って歴史や社会上で何か語るって言うなら、文学の何とやら以上に周囲の歴史的文化的状況をきちんと把握するのが研究っーものじゃないんかい。というのはまだ頭の中で明確になってなかったけど、ともかくそれ+図書館で見たGHQ検閲の本で開眼したわ。そんで大学では大学で、日本文学科では「読み方」のサンプルを示される。まあサンブルでもいいんだけど、ジェンダーと戦争があたりまえのように一つの方法論として示されてしまっているんだよな。テキスト論と並んで。これ違うだろ、と今では思うんだけど。まあいい。で、この方のこの件についての科研費に関しては、年間60万くらい。まあ山口某のそれとはまるでケタが違うし、まあこんなものだろ、とは思うけど……羨ましくはあるわな。月5万くらいの特別収入、という感じかな。東京で動く人なら研究も安くあがる。地方よりは!だが結果がアレだということ、それでいてその業界で高く評価されていたことに関しては、微妙な気分になるわけだ。教わって、それに続く人々はどうだ?この程度の資料を見てりゃいい、ということを覚えはしないか?朝日の名を信頼しきっていなかったか?本当にご存命だったら、と腹が立つ。まあともかく、おそらくはゼミ運営費用と書物の購入程度にしかならなかったろう、この科研費に関しては、結果を抜きにすれば、割合妥当な線だと思うのだわ。実際出した結果はこれらの文章でしかなかったわけだし。だからこそ山口某とかの費用はおかしいんだけど。それにしても本当にご存命だったら殴りこみに行ってどう思うのか問いただしたいとこだった。と同時に、そういう土台研究に当時目が向けられていなかったことにどれだけ怒りを感じたか!まあ今は遠ざかってしまったんだけど、ここで素人が「教授」にも疑念を向けられたのは有意義だった。*なお比較画像がツイよりたくさんあるのでとりゃず載せてみる。
2018.04.07
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朝日の連載依頼は来なくなったらしい彼女が、「主婦之友」の石川社長に送って感動され、そのまま専属のような形でそれから十六年に渡って連載小説を書くようになったという作品。……もの凄くツッコミどころ満載なんですがね。ヒロインの性格とか。***<恋愛編> 市ヶ谷の伊沢達平の大きな家の敷地の片隅に、三人の娘とその母親が住んでいた。三人の娘は、初子・仲子・末子という。 この娘たちには父親は亡い。父・大庭育蔵は大きな骨董商だったが、その仕事がら、名門や富豪について遊里に遊んだ挙げ句、病気で亡くなってしまう。その父の悪血を受けて生まれた末子は盲目であった。妻の静枝が途方に暮れていると、同郷の伊沢達平がその義侠的な性格から、この親子を助けた。邸内の先代の隠居所を建て増しして住まわせ、静枝には家政婦のようなことをしてもらっていた。 初子は女学校卒業後、女子師範の二部に入り、いまは小学校の教師をしている。仲子は女学校卒業後、すぐに丸の内の睦商会と言う会社に女事務員として通っていた。末子は盲唖学校に通い、ヴァイオリンを習っていた。 初子は聖母マリアを心から信じ、妹にも優しい、ただちょっと潔癖すぎる感はある娘である。仲子は現実的で、流行の記事に目がない、美しいが多少虚栄心の強い娘である。末子は、上の姉の感化を受け、音楽に真面目な少女ではあるが、姉と違って、自分のような不具なものを生み出す神のことは信じられないと思い、姉を嘆かす。 この伊沢家にも三人の息子がいるが、その末息子の茂が初子に恋した。彼は穏和で夢見がちな青年で、某私立大学の商科に在学中である。父親は彼を溺愛するが、やはり考え方は大きく異なっていた。 その茂がある日ついに初子に思いを打ち明ける。貸した本に手紙をはさみ、YESなら本は返さないでほしい、NOなら黙って返してくれ、と。返事はYESであり、二人の仲は近付いていく。ただ初子の感情があくまで「結婚までは」プラトニックなものであってほしい、と願うのに対して、茂は男性的な欲望が次第に募っていく。そのずれがあった。 仲子はある日、百貨店でいいセル(着物地で、毛織物らしい)の反物を見つけ買いたいと思うが、貧乏の悲しさ、買えずに他の人の買うのを見るしかできない。そしてその買う少女の言葉「ああいうのが万引きをするんだね」の言葉に傷つく。悔しいと思いながら帰ろうとする矢先、会社の支配人である睦に会う。彼は仲子に特別目をかけていた。話を聞いた睦は怒り、彼女に「何反でも買ってあげる」といたわる。そして、その後二人の関係は深まっていく。ある日彼女は母親に、「大阪の睦の別宅に小間使として望まれた」と打ち明ける。初子は多少気が進まないが、仲子は姉への反感半分で行くことを決めてしまう。小間使ではない。実は囲いものになるのである。 夏。茂は初子への思いが募って仕方がない。彼女の心だけでなく、身体も手にいれたくて仕方がない。とうとう初子も唇を許してしまう。だが、その直後茂は父親に連れられ、長野へ旅行に出されてしまう。そして彼は父親と別れ、一人で旅行する中で、悪い友人に誘われ、酒と女を覚えてしまった。 帰ってきた彼に盲目ゆえに敏感な末子は冷たい態度をとる。 茂はようやく恋しい初子に会う。みやげ話などしているうちに、雨が降ってきた。雨戸を閉めようといる初子を手伝っているうちに、彼の心にむらむらとした欲求が起こる。そして彼は初子に自分を愛しているのならその証を見せてくれ、と迫る。初子は驚き恐れる。彼女は結婚までは童貞童女でいることが正しい道だと思っている。そして既に童貞ではないことを告げる茂に驚きながらも、必死でその手から逃れる。茂は怒り、二度と会わない、と帰っていく。 失恋に苦しむ茂は旅行時に会った友人達に囲まれ、歓楽の街に遊ぶ。そしてその中で負った多額の借財は、父親を怒らせるに充分だった。何処へでも行ってしまえ、との父親の声に、東京を離れる決心をする。 初子はそれとも知らず彼の謝罪の日を夢見て、彼のためにセーターを編もうとする。そこへ茂の家出の知らせを受け、驚き辛くなる。 茂は兄のいる下関にいた。彼は釜山へ渡る気だった。友人の紹介で新聞社の欠員に入れてもらうつもりだった。だかもちろんそんなこと納得しない兄は、とりあえず観光でもしろ、と勧める。観光中、彼は懐かしい顔を見つける。睦のお供で別府温泉にきていた仲子だった。睦が郷里の鹿児島へ帰っているので自分は一人でつまらない、一緒してくれないか、と彼女は茂に頼む。料亭に彼女といるうちに、二人は接近していく。そしてとうとう一夜を明かしてしまう。 翌日、自責の念にかられる茂は、罪と知っていてそうした、という仲子に驚く。そして彼女が昔から自分を慕っていた、ということを知ると、彼は感動して、彼女と結婚の約束をする。…もっとも彼はその直後初子から届いた手紙に、それをなかったことにしようと決意してしまうが…<受難編> 茂が戻ってきた。彼は初子に再会し、よりを戻す。学校をでるまでは自重する、と彼女に約束する。そして贈り物のセーターをせっせと編む日々が続く。 と、仲子が帰ってくるとの知らせを受ける。初子は彼女に勤め人なんて止めさせ、今度こそ家に居て貰って、何か稽古ごとでもさせたい、と思っている。幸福な新家庭の若妻になってほしいと願っている。そして自分はその力強い後ろだてとなってやりたい、と切に思うのだ。 そして仲子が戻ってくる。結婚するつもりだ、と姉に告げる。初子は喜ぶ。だがその相手の名を告げた時、初子は愕然とする。茂だった。妹は姉の恋を知らない。初子はもう彼女が茂との一線を越えてしまったという告白を聞き、悲しみを圧し殺して妹のために力を尽くす決心をする。 そして初子は茂にかつて贈られた本を返しに行く。茂は何故今ごろと、怒る。理由を言え、とくってかかる茂に初子は妹の帰郷のことを話す。そして「もう仲子は処女じゃなかった」と弁解する茂に彼女は、「処女ではない女性にはなにをしてもいいのか」と問いつめる。茂はショックを受け、仲子と結婚する、ということを彼女に誓う。 結果として、彼は勘当される。仲子を連れて彼は釜山へ行く。大庭母子も邸内から追い出される。出入りの植木屋の源吉が母子をなぐさめる。 ある日学校の校長の奥さんから初子へ縁談がある。「いい話なのよ」とすすめる彼女に、初子は「結婚を約束した人がいたがその人は死んでしまった」と言い抜ける。最も、初子の中のかつて愛した茂は確かに死んでしまったようなものだったが。一生独身で家族を守っていくという初子に奥さんは残念がる。 さらにある春の日。卒業式の娘の着物を母は心配する。平気と初子は答える。そんな頃、ある出かける時に袂が翻り、母の念珠の鎖が切れ、マリアの浮き彫りのメタルが落ちる。その日、会議中の初子に電話が入る。母が倒れたという。急いで駆けつけるが、母は既に息絶えていた。せめて娘の着物をなおそうと無理をした結果、持病の動脈硬化が悪化したのだという。初子の生きがいはもう末子だけになった。 その末子はひたすらヴァイオリンにうちこんでいる。 初夏。有名な文士A氏の情死事件のニュースが入る。話題にする同僚の女教師。「A先生だからできたのよ」と噂する中で、初子はぽつりと「死ねる方は幸せだ」と言う。 夏の近付いた朝、末子が初潮をみる。「どうしてこんな人並でない身体に余計なことがおこるの」と末子は泣く。それ以来末子は次第に娘らしく美しくなっていく。その妹に初子はできるだけのことをしてやろう、と自分の身のまわりはきりつめても妹にはきちんとした装いを用意した。 そして母の形見であるマリア像のついたメタルを末子にペンダントにしてあげようとするが、神を信じられない彼女は激しく拒否する。 その頃、釜山の茂と仲子は、当初は貧しいながらもそれなりに仲良くしていたが、やがて、お坊ちゃん育ちの茂は、安月給の大半を小遣いとして使ってしまう。仲子はさすがに泣き出す。それには茂も心動かされたのか、つつましい生活を心がけるが、彼はもともと根がお坊ちゃんで、自分の働きを目立たせることもせず、上役への愛想もなく、手腕とない平記者として編集室に取り残されてしまう。そしてそんな暮らしの中に彼の心はすさみ、また悪友を作り、遊里に過ごすようになってしまっていた。 彼は仲子にさほど魅力を感じなくなっていたのだ。彼がかつて仲子に惹かれたのは、彼女が睦の女として日陰者の生活を送っていた、その雰囲気に流されたのだった。今、つつましい生活の彼女には魅力を感じなかった。そしてかつての生活を口に出し、彼女をののしる。仲子も黙ってはいない。二人の仲は険悪になるばかりだった。 そんなある日、東京から母の死を告げる電報が届く。そのショックもあって「東京へ帰る」と飛び出す仲子だったが、二人のために骨を折ってくれた姉のことを思うと、やはりそうは思いきれない。それに、そこまでされてもまだ仲子は茂を愛していた。 9月1日。初子は始業式があったが、末子の学校は始まるまでまだ間があった。末子は留守番をしている。下宿している店のおばさんに店番を頼まれ、ヴァイオリンの弦を取り替えていた。と、昼近くになって、敏感な末子は妙な音に気付く。慌てて彼女はヴァイオリンをしまい、しっかりと抱きしめて下宿のおばさんのもとへ走る。 そしてそのとき、地震がきた。 おじさんも戻ってきて、三人して家を出て逃げ出す。関東大震災である。 と、最初の揺り返しのとき、帰り道、電車に乗っていた初子は、あわてて下宿へ飛び込み妹を必死で探した。そして第二の揺り返しが来た。家は崩れ、隣家の火が家を覆った。 末子はおじさん達と逃げる。とりあえず何処かへ身を寄せなくてはならない。姉を探さなくてはならない。そこで彼女の思いついたのは、あの植木屋の源吉である。そこを頼るべく、途中までおじさん達に送ってもらう。 懐かしい伊沢の屋敷につくと、源吉を見つける前に達平に出会ってしまった。事情を聞いて達平は末子を家に招き入れ、食事を与え、姉を探すと約束する。少し後でやってきた源吉もその達平の行動に感激する。とにかく達平も源吉も初子を探すが、見つからない、とりあえず末子の無事を書いた札を立てておく。 釜山の茂と仲子。ついつい夏の暑さに愚痴をぽろぽろともらす茂。と、そんなとき、家の前にいきなり自転車がとまった。震災の知らせであり、茂に新聞社から特派員の辞令が下ったのだ。残した姉妹への心配から、茂はここのところの生活のすさみようを反省し、これは天災だ、と自分をなじる。そして茂は東京へ向かう。直前に彼女は自分の妊娠を告げる。そしてこのばらばらになろうとしていた夫婦の愛情が復活する。 焼け跡を歩くと、立て札が目に入る。初子が行方不明ということを知り彼は愕然とする。 そして彼は家に戻る。達平は仲子との仲を認め、帰ってくるようにと言う。そしてしばらく初子の捜索が続けられた。 そんなある日、末子は以前住んでいた所の跡を掘り返してくれ、と頼む。そして揃ってそこへいくと、末子はしばらく灰の中を探っていた。と、彼女は姉の身につけていた母の形見のメタルが焼け焦げているのを見つけ、姉の死を確信する。一緒に探していた茂も絶望する。<復活編> 仲子が茂に連れられ、釜山から帰ってきた。そして改めて披露宴が行われた。 茂は父親の事業を手伝い、終日汗して働くようになった。家では舅である達平と嫁である仲子も仲がいい。末子はもうヴァイオリンだけが彼女の生きがい、と練習に熱心である。亡き初子の好きな「アヴェ・マリア」を弾きたくて練習しているのだが、なかなか上手くいかない。 初子の勤めていた学校で、初子の追悼会が行われた。遺族代表で末子が、親族代表で茂が出席した。末子は姉の顔が一目見たいと涙する。茂は「世にも美しい心を表現した聖らかな面差しの女性だった」と言う。 校長が初子の人となりを誉めたたえる。その中でかつて彼女が縁談を断った時のことが語られる。思い当たることのある彼は衝撃を受ける。亡くなった恋人とは自分のこと。そのために彼女は一生独身でいる決意だったとは。 それ以来茂はまた酒に親しみはじめた。ただ、釜山の生活のように仲子ほ手荒く扱うことはない。ただ気力を失ってしまったようだった。仲子はそんな茂を見かねて、何があったのか探ろうとする。 そしてある日、彼の机を調べると、かつて姉が彼に出した手紙があった。そしてその手紙から、かつて姉が夫の恋人だったことを知った。そして逆上した彼女は剃刀を手に、自殺しようとする。と、それを達平が見つけ、彼女をなだめる。事情を知った達平はもう一つ、彼女がかつて睦の囲われ者だったことを聞いても、全て許す。そして帰ってきた茂に、もう嫁を泣かすな、と笑う。 初子の遺志にも応えて、しっかり生きていこう、と二人は初子の墓参りに出かけるが、そこに末子が来る。彼女は一心不乱にやってきたようで、姉にも義兄にも気付かない。そしてヴァイオリンを出し、「アヴェ・マリア」を弾けるようになった、と弾き出す。彼女の胸にはあのメタルがかかっている。 と、末子は突然弓を取り落とし、「お姉様が見える」と言い出す。 その様子を見た仲子は「再び空の彼方へ消えてしまう」初子に精一杯弾いてあげて、と末子に弓を渡す。澄んだ空にヴァイオリンの音が流れていく…***このヒロインに関してのワタシの感想は、最初に読んだときは首をかしげた程度でしたが、二十年後に言葉にできたのは、「……うわー『べき論』のひとだー」でした。今思うと吉屋信子というひとが今生きてたら絶対田嶋さんあたりの位置にいたなあ、と思うゆえん。
2018.03.17
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ちなみに吉屋信子は、大正半ばに「大阪朝日新聞」の公募で一位とってプロデビューしたひとです。次の「海の極みまで」載ったんですが、そこから昭和20年代に一種の「和解」するまで、朝日とは対抗もしくはぐだぐだなこと(吉田茂との対談→天声人語で言葉狩り→毎日で反論→不買運動)になってます。週刊朝日で対談記事が載るあたりまで酷いことがあったやうな。が、その後週刊朝日に書いて→朝日に書いて→最後に「全集」(全然全集じゃない)を朝日新聞出版社から出してるというなかなか興味深いwww個人的感想は最後に。*******地の果まで <あらすじ> 東京市外の巣鴨のほとりに、一つの家族が住んでいる。 三人姉弟とその一番上の姉の夫である。 姉弟は春藤という外務省通訳の子供で、一番上の姉は直子、真ん中の娘が緑、そして末の弟は麟一と言う。 この三人の父である春藤氏は、園川領事に伴われた赴任先のイタリーで病死した。残された母・お俊は三人の子供を抱えて、宇都宮の妹の嫁いだ先である浜野隆吉という菓子屋を営んでいる家に世話になって暮らしていた。そしてこの家に子供三人を残して、自分は上京して園川領事の留守宅に残してある令息令嬢達のお付きとして奉公していた。そして宇都宮へ送金していた。 だが、その母も、やがて身体を悪くして、亡くなった。 残された姉弟はそのまま浜野の家に引き取られる。長女の直子は、小学校を出てから家事手伝いをしながら二十歳まで暮らしていたが、浜野の主人の異母弟の浩二に思われ、妻に乞われて恋女房となった。 浩二は多少女のような優しい気質の青年で、その点が異母兄には気に入らなかったらしく、彼は家の中で小さくなっていた。そして、結婚の際も激しく反対され、分家しようにも、資本を出してもくれず、せめて家だけでも出ようと、春藤の父の通訳時代の知り合い、志賀氏を頼り、その縁で園川氏の関係している会社に職を得て、何とか東京で住めることにらなったのである。そしてその際、この三人の姉弟が居るのもそこである。 姉弟のうち、直子は素直で優しい、女らしい姉であるのに対し、緑は勝ち気な少女だった。尋常6年を出ると(小学校卒業)、叔父叔母に黙ってミッションの高等女学校(5年制の女子中学教育機関)に入学願書を出し、子供の頃から可愛がってもらった女宣教師に叔父を説き伏せてもらった。そしてその後もミッションの補助を受けて、東京市内の英学塾(高等女学校の上の学校。女子の教育機関では専門学校が当時は最高のもの。現在なら女子大学にあたる)に入る。 弟の麟一は、小学校卒業後、店で使われるところだったのを、学問で立っていきたいという希望を出し、とりあえず師範学校へ入る。が、二年目に、どうしても師範は嫌だ、中学(現在の中学・高校が一括になったもの。尋常と高等がある)へ行きたい、と言って、東京の姉夫婦のところへ逃げ込む。 だがそのために、隆吉は浩二夫婦とも、麟一ともあまり関係が良くなくなる。緑の進学で、さらに溝は深まる。 麟一は自分に自信がない。特に、姉達が自分の将来に多大な期待をかけていると思うと気が気でない。姉、特に緑は、自分の一生は弟にささげる、という位の勢いであるから、麟一は余計に萎縮してしまう。 緑は学校では、梅原敏子という人と仲が良い。彼女は目的のためにがむしゃらになっている緑とは正反対に、何の目的もなくずるずると生きてきた、とぼんやりつまらながっている人だった。せめて宗教(キリスト教)でも信じたら、と勧めるが、自分の家は皆クリスチャンだと言う。そして「神を信じている者が、こんなに寂しくていいのかしら?」と懐疑的な言葉を吐く。 春の休みが過ぎると緑は寄宿舎へ帰った。家を出る際、姉の直子と、弟の心配をする。 その弟は、中学の友人、間宮である。間宮は成績がいい訳でもないが、腕力は強かった。そして、身体も意志も弱い麟一は、色々な意味で間宮の庇護を受けていた。彼は、街をぶらついているところを「緑に見つかる」と逃げる麟一をなじる。そして麟一の一高(ようするに現在の東大教養部)進学を馬鹿にする。 遅くなって帰る麟一を、直子は心配する。 麟一は、父親の写真が恐ろしくて、壁に向け返る。それは、緑が、「お父さんの跡取りだから、お父さんの野望も受け継ぎなさい」と渡したものだった。だが、彼は、そのような野望などなかった。むしろ、オペラの楽譜を見て楽しむような青年だった。だが、それではいけない、と思い、楽譜を破り捨てる。 そんなある日、叔父の隆吉がやってくる。隆吉は、麟一をこの上の学校へやるということは念頭になく、宇都宮へ帰らせ、銀行に口を聞くから、と言う。 その件について決着がつかないまま、寄席へ皆で出向く。それ自体は楽しめたが、緑は、やがて、あんまり皆が馬鹿げているので腹立たしくもなった。彼女は二時間も三時間もぼんやりしていると、苛々してくるのである。 帰り道に救世軍(「神の軍隊」として組織されているキリスト教の集団。廃娼運動でずいぶん力を尽くした。街頭へ出て太鼓を鳴らし、ラッパを吹いたりして、賛美歌を歌ったり、パンフレットを配ったり、など、布教運動を繰り広げていた)を見かける。その中で、神学校の生徒が一人、説教をしていた。坂田という青年は、緑も知っている人だった。 翌朝、機嫌のなかなか良い隆吉に、浩二は麟一の件を持ち出す。高等学校の試験を受けさせ、大学へやりたい、と。だが、自分たちにそれをやってやれるだけの資金はない、と。だが、「馬鹿な冗談はよせ」と一喝する。隆吉は隆吉なりに、麟一の将来を思って、勤め人にさせたいと思っている。その方がずっと麟一のためだ、と。 緑は「たった一人の春藤家の男の子だから」と叔父に哀願する。学歴もないためにお雇通訳で終わった父のようにさせたくはない、どんな苦労をしても、立派に学校へやりたい、と。 だが、隆吉は「程度の低い独立なんていらない」と言う緑に、腹を立て、要らぬ世話をした、勝手にすればいい、と言う。浩二も麟一も、その様子を見て、とりなすように謝る。だが、緑は、ヒステリー状態になり、「叔父さんはわたし共の若い芽生えほ踏みつける悪魔だ」と叫び、気を失う。 隆吉は完全に怒り、直子が浩二が麟一が何を言おうが無駄だった。そして、全ての援助を打ち切ると言う。 どうしようもなく、姉弟は再び志賀氏を頼る。すると志賀氏は、園川氏の家へ、麟一を書生としたらどうだ、と提案する。そして世間の風に吹かれるのもいい、と直子と緑は話を決めてしまう。 そして麟一は園川家へと出向く。 一方緑は、学校で久しぶりに敏子と話をする。彼女は入学試験の騒ぎをきいて「男に生まれなくてよかった」と言う。緑は逆である。 日曜に、四谷の教会に行く緑。そこでも敏子を見かける。そしてその日、説教壇に登ったのは、神学校生の坂田だった。彼は意気揚々と常の神父たちと違う新思想を取り入れた話をする。だが、もちろん、その新式な説教には、反発する声が上がる。緑はその反発に対する坂田の様子を面白く見守る。坂田は神経質なほどに自分の思想と主張を曲げない。やがて調停者が出る。そして旧来の思想に対し涙ぐむ人々に、緑は「なんて安価で愚劣な思想」と吹き出したい思いにかられる。 敏子が礼拝後も緑の前へ現れる。そして坂田のことを、「緑さんの兄さんみたい」と評する。そして敏子は坂田のことを「場所柄もわきまえない乱暴」と言う。自分のように心寂しいものが集い、心を慰める場所が教会である、と考える敏子は、そういう所に嵐を起こした坂田には好感情は持っていないようだった。緑は坂田の言うことは正しいと感じたので、敏子に反発する。 敏子はその二人の全く違った考え方を、「だけどそれが真実ではない」と自分も緑も否定する。が、緑は、敏子が間違っている、貴族的なわがまま病の患者だ、私は現実に生きる娘だ、と主張する。意見は合わない。これからも合わないだろう。だが、自分にとって、敏子が一番親しめる友達だと思う、と言う。 敏子と別れてから、坂田が緑に追いつく。一緒に帰る緑。怪しくときめく胸。だが、同時に、住所を教えてしまった、という軽々しい行為に恥じるのだった。 やがて、坂田から手紙がくる。神学校の研究雑誌をとってくれないか、とのすすめだった。緑はけろりとする反面、がっかりする。 その頃、麟一は、園川の屋敷で憧れだったピアノに触れる。彼は、もともと、「ガリガリの粗暴な武士道主義の中学教育」よりも、「さわやかな美しい異国の楽器」の方がよっぽど魅力があったのだ。それをかげから見ていたひとがいた。この家の、出戻りの令嬢、関子だった。彼女はあわてる彼をおさえ、もっと弾くように、と言う。 庭の手入れを一生懸命して、疲れた身体を休めながら、あの破いた楽譜の小曲を歌っていたら、緑がやってきた。だが、彼女は会うと必ずと言っていいほど、彼を励まし、諌めるから、やっとのびのびした気持ちになれた心はふたたびぺしゃんこになってしまうのである。そして、また苦しい勉強をしよう、と暗いぼんやりとした気持ちになるのである。 と、関子が買い物のお供を頼む。彼女は喜んで麟一に麦わら帽を買ってやる。と、街で間宮に出会い、はやされる。麟一は、関子とカフェーへ行き、夢心地になる。 緑はある日、教会の牧師の家へ呼ばれる。牧師夫人は、坂田が緑を妻に欲しいと願っている、と聞かされる。だが、緑は、その坂田の出した「妻に求める条件」を聞いて、腹立たしくなる。彼が冷血な利己主義者だと気付いて、一瞬でも惹かれた自分が恥ずかしくなる。そして今は、弟のてめにも、結婚する気はないから、と断る。 その沈んだ心持ちからか、いつもならけなしてしまう敏子の考えにも、簡単には笑えない。漂泊の身をうらやましいと考える敏子に何となく感心すらするが、自分はやはり弟が…と考えると、結婚も恋も自分自身も捨てて、一つの目的のために機械となればいい、と思いきる。 夏になって、間宮が以前麟一が関子とカフェーへ行ったことを緑に話す。 この園川家に矢野という紳士が出入りするようになった。彼は関子を後妻としたいと関子の継母であり、現在の園川家の夫人である順子に頼み込む。彼女は二人の子の継母として、世間にも恥ずかしくないように、と出戻りの娘の心配をして再縁口を考えていたのである。だが、関子は全く耳を貸さない。麟一に一生懸命ピアノを教えている。 この関子の上には、長男の良高がいるが、彼は身体が弱い。私立大学で農業を修めたあと、伊豆に山や農地を買って、そこに永住のつもりで住宅を建て、美しい若夫人と静かな生活をしている。 久しぶりに家へ帰るが、麟一は、以前間宮が緑に告げ口したことをたずねられ、困惑する。その相手が当家の令嬢ということは判って、一応の安心はする。そして、そのすぐ後、麟一は、関子やその異母妹と異母弟のお供わして伊豆へ出向く。そして、その車中で、自分に向ける関子のまなざしに気付く。 兄の良高の妻、千代子は、冷たい蝋人形のような美しい人だった。だが、その中に、麟一は、母のような聖らかで静かな優しい愛情をこの人に感じた。時には妖婦めいた関子と対称的である。この人、内輪どうしの集いにも、自分から身を引くようなところがあった。いつも寂しそうだった。そしてとうとう、自分は寂しいんだ、と千代子には告白してしまう。姉たちとは違った自分の気性のことなど、素直に話してしまう。 千代子は、「寂しいと思うのは、我侭な心て゜しょうか」と言う。そんな彼女の言葉は麟一の心に染み通る。そして、関子がその様子を見ている。 一方、直子は宇都宮へと出向く。せめて叔母には会いたい、と。そして隆吉夫婦のの考えていた計画を知る。幼なじみで慕っている麟一を、娘・お絹に添わせたかった、と。直子は驚く。 そのことを帰ってから浩二と緑に話すが、また緑は「人種改良説」云々と反発する。が、その自分の口調の中に、あの坂田と同じものを感じ、心寂しいものを感じる。 浩二の会社で労働争議が起こり、もしかしたら自分は会社をやめるかもしれない、だが、なんとしても直子と、姉弟は養ってみせる、と重々しく言う。結果として、労働争議には勝利し、給料の上がる転勤話が出る。それが北海道だと言う。直子は浩二についていくことにする。浩二は麟一の学資くらい送る、と約束する。緑は感謝感激して泣き崩れる。 伊豆で関子は病気がちになる。そして、千代子と仲良くなる。自分のかつての結婚生活の不幸を彼女に話し、麟一に恋している自分を、23で始めて恋を知った自分を告白する。千代子は、自分は人妻であり、これからさき、そういうことはかなわぬが、関子はこれからがあるから、と勇気づける。 そして関子は変わる。派手好きのはしゃいでいる人が落ち着いて寂しげになった。そして、兄良高も、その変わった妹のために、再縁の話を断固として反対した。その甲斐あって、矢野氏との話は立ち消えた。 浩二夫妻は北海道へ旅だった。園川家の方からは、千代子の申し出によって、麟一をまだ書生として止めておくことになった。そして麟一は千代子の口から、関子の自分に対する思いと、最近の変化を聞く。そして彼は関子のために変わろうと決心する。千代子はそれを見守る決意をし、東京の屋敷に残る。 冬、緑が血相を変えて園川家へ乗り込み、弟を返せ、と怒鳴り込む。志賀氏から、彼女が受け取った手紙には、麟一がこの家で関子や千代子の愛玩物にされている、というものだった。関子も千代子も半狂乱の緑を静めようとする。緑は「悪魔」「毒婦」と二人をののしる。千代子は麟一にも自ら選び取る運命がある、という。緑は姉の手で弟の輝く運命を築く、と主張する。 その騒ぎの中、自分がいるからいけない、と手紙を残して麟一は失踪する。死をもって償う、と。 緑ははだしのまま、屋敷を飛び出し、雨の中、狂ったように走る。巡査が怪しんで捕まえる。周囲の人々は狂気女だ、という。そこへたまたま通りかかった敏子が彼女を助ける。 残された千代子は、せめて関子のために、と伊豆の夫へ電報を打ち、呼び寄せる。そして志賀に話を聞こう、と居所を聞くと、彼は知り合いの豪農の娘の結婚式へ行っているという。どうやら相手は坂田らしい。 呼び寄せられた良高は、関子のためにも、と決心をする。そして、父親と、継母に、自分はこの家の財産は受け取れない、異母弟妹にやってくれ、と言う。彼は新しくやり直す気だった。そしてその心にうたれた父親は、伊豆の山と土地、関子には、彼女の実母の残した郵船会社の株を持っていってくれ、と頼む。 そしてその変わろうとする夫に、千代子は感激し、再び愛を誓う。 そこへ通りかかった志賀に、良高は、麟一は引き取る旨を述べる。麟一のことを悪く言う志賀に、良高は自分の決意を述べる。そして千代子の言葉、その二つにさすがの志賀も参る。 敏子は緑の世話をしながら、昨夜の緑の姿を見て、自分も何かせずにいられない、と告白し、二人は一緒にやっていこう、と誓い合う。 麟一を皆して探すが、一向に見つからない。緑も、伊豆の人々も心配する。 北海道の直子は、産後で、身体の調子を悪くしていた。生まれた子どもは元気である。だが、ついに、危篤状態となってしまった。 緑が呼び寄せられる。宇都宮の家にも連絡が行く。そしてようやく隆吉の心が解ける。と、いうか、もともと頑固ものゆえも周囲が気を使っていただけで、隆吉は、お秀を連れて、北海道へとんでいく。 緑は二等車をとったが、かつて三等車で向かった姉のことを思うと、ゆうゆうと乗っている気にもなれず、三等車へうつる。 そして、彼らが来る間もなく、直子は亡くなった。隆吉も緑も、皆それまでのことを謝り合う。 伊豆の良高のもとに、あの間宮から麟一の行方が届く。だが、それと同時に金の無心もしてきたが、良高はその十倍の金を出してもいい、と喜ぶ。 そして緑のもとにも、敏子から麟一の無事を告げる電報が届く。緑はようやく、麟一の将来は麟一にまかせよう、という気になる。 そして彼女は姉の遺骨を抱いて連絡船に乗るのだった。******このあらすじ自体はまだ二十代の頃にまとめたものを四十代のときに推敲したものです。……もの凄くヒロインに「何じゃこりゃあああああ!」となった作品でした。いやだってもの凄く都合よいこと言いやがるくせに人に支援ばかり求めて、ひたすらインテリであることでマウンティングしてるじゃないですかwwwあれ? 何かどっかで。
2018.03.10
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大正~昭和40年代の女性大衆作家の大家・吉屋信子の二番目の長編。一応これは純文学。……そしてとてもアクが強い小説でございます。屋根裏の二處女 (吉屋信子乙女小説コレクション) [ 吉屋信子 ]ちなみにこれは河出から近年出たやつですが底本が昭和22年だったか23年だったか……のやつなんで、多少初版と文章が変わってるやつを更に現在のかなづかいにしたもん。****「第一篇」 滝本章子はそれまで住んでいたキリスト教系の寮を出ることにした。彼女は故郷からミッションの補助を受けて上京し、勉強しなくてはならない身である。 寮母のミス・Lは驚き悲しむ。何故と問われても、章子は言うことはできない。寮母の望むように、その性格を改善することができなかっただけである。 彼女は保証人の畑中先生の所へ挨拶に行く。そしてそこでも「敗残者」である自分に掛ける思いやりなどない、と感じる。 彼女は故郷の知り合いであり、同期に東京に出てきた志摩さんを頼った。夏の休みの後、志摩さんの住むYWAの寄宿舎に空き部屋があるということで住むことにした。 四階の屋根裏部屋が彼女の一人の部屋となった。広さは四畳半くらいで、三角形の部屋だった。彼女はようやく手に入れた自分だけの部屋に幸福を感じる。その部屋の夕暮れの情景に感動する。>(屋根裏) この一つの語彙のうちに、章子は溢れるやうな豊富な、新鮮な、そして朦朧とした幽暗と、そして(未知)に彩られた奇怪と驚異と、幼稚な臆病な好奇心と――の張り切れるほどいつぱいに盛り上げられて充満してゐるのをその一刹那から感じた。 その観念の前に(屋根裏)の語音は、非常に魅力ある巧な美しい響を伝へるものとなつた、そして美と憧憬とを含んで包む象徴的の韻を踏ませてゆくものとなつた。 譬えば、(薔薇の花)――(珊瑚樹)――(初恋)――(……)…… あゝ、若者達の多くの幻想を寄せるに、ふさはしいこのあまたの抒情詩集の中から引き抜かれた言句にも立ち勝つて更に深くつよく若い心を掻き乱す如き心憎くも幽遠な響と感じを発するものと――章子にはなつたので。 食事の支度ができたとの舎監の声に、それまで夢見ていたような彼女は幻滅する。 食事どき、彼女は新入りということで紹介されるが、その時、「腹立たしいくらいまでの狼狽と羞恥」が彼女を襲う。 そしてそこで、舎監に、同じ四階の隣の部屋に住むという「秋津さん」を紹介される。「秋津さん」はもの静かで澄んだ美しさを持つ人である。 その夜、まだ電球が入っていないということで、提灯を舎監から借りるが、その明かりにぼんやりとしているうちに、提灯がどういう訳だか、燃え出した。消えずにどうしていいか判らない彼女のもとに、「秋津さん」は現れて、花模様の友禅の掻巻で消し止める。「第二篇」 翌朝、どちらも使いものにならなくなった提灯と掻巻を見て章子は涙する。どうしたらいいか判らない。と、秋津さんはそのどちらもいただく、と言って受け取る。 とりあえず家具を買いに行く。机と椅子を買う。そしてその机でノートを整えているときに雀を見つける。米をあげようとして十銭で買って戻ってみると、既に雀はいない。 YWAの建物の中にはピアノがあった。彼女は不器用だったが、好きなものに対する根気はあったので、かつて教則本を一通り教わった時、「ベートーヴェンのソナタの十五番」を与えられていた。もちろん簡単な曲ではあったが、彼女にとっては世界唯一の名曲であった。彼女は夢想に酔いながら夜、広間で一人、ピアノを弾く。だが、弾き終わり、廊下に立ったとき、夢想は醒める。現実の冷たさと「暗黒の絶望」に彼女は泣き崩れる。「第三篇」 ある日、秋津さんが林檎の箱を運ぶのを手伝ってほしいと章子に頼む。彼女は喜んで手伝う。 なかなか持ち上がらない箱に二人が吐息していると、秋津さんの知り合いの工藤さんが通りかかる。工藤さんは女離れのした清楚できりっとした風采のひとである。そして三人して林檎の箱を運び上げる。が、今度はその箱が開かない。途中で秋津さんはあきらめてしまう。が、工藤さんはあきらめない。章子もそれに付き合う。とうとう箱は開き、林檎は彼女たちの手に渡る。 秋津さんにも、と部屋に入っていくと、彼女は籐椅子の上に眠っている。林檎を剥き始めるとその香りで彼女は目を覚ます。 それからたびたび章子と秋津さんは顔を合わせるようになる。浴室では使い方の判らない彼女を助けてくれる。髪を何処で乾かせばよいのかと思っていると露台(バルコニー)へ行こうと誘ってくれる。 月の光の下、章子はその美しい秋津さんとずっとこうしていれたらよいのに、と思う。 また、あるとき、洗面場で歯楊子(はぶらし)を落としてしまい、愛着はあるけれどもう落としてしまったものだから使えない、と思っていた矢先、靴のクリームを塗るのにいいから頂戴、という人がいる。それが嫌で章子は歯楊子を溝口の穴へと水で流してしまう。その真意が判ったのか、秋津さんはそれを手伝ってくれる。 そうやって秋津さんへの思いはつのっていく。 教会に日曜ごとに行く習慣はあるので、彼女は近い教会に通っていた。寄宿舎の人々はたいてい行くようなのに、秋津さんは行かない。章子は驚く。 章子はかつては宗教を信じもした。だが、現実のあまりに目的のない「広野の空漠」が開かれていることに気付くと、その信仰心は次第にあせていった。 日曜の夜は、応接室に集まって祈祷会が行われる。うろたえながらやっとのことで外国夫人たちとの会話をする章子は、そこでは喜劇役者だった。秋津さんはその様子に興味なさそうな顔で沈んでいる。冬の始めの祈祷会で、章子は、焦りながら言う「私は神様の姿を確かに目の前に見たらすぐに信じる」。人々は笑う。だが、それは章子のほんとうの願望だった。 賛美歌を感きわまって歌う信者の人々。だが秋津さんは堅く唇を閉じて、歌わない。その姿を章子は美しいと思う。 秋津さんは部屋に帰った章子を追って来た。「あなたは何て純な正直な方なんでしょう」「第四篇」 やがて屋根裏の部屋で、章子と秋津さんは一緒に生活するようになる。二つの部屋を二人で使うようになる。 片方を書斎にし、昼間はそちらで過ごし、夜は寝室にした方で休む。 ある日、林檎の会を開くことになった。余ったお皿のために章子はバタを彫刻する。 この日集まったのは、工藤さんと矢野さん、お静さん、佐々川さん、太田さん、森さんの六人であった。それぞれがそれぞれの個性を持っている。 秋津さんは章子を連れてよく夜の街をそぞろ歩く。それにやがて工藤さんが加わる。寄席に入った三人。章子はそこで見かける男達にしみじみと幻滅する。 煙草に辟易していた工藤さんは、「大型の扇子は持っていないから」と小座布団をぱたぱたさせる。さすがに煙草はその姿をひそめる。寄席自体はおもしろかった。 冬に入って、街へ出たとき、秋津さんは黒い絹の手袋を1ダース買う。皆へのプレゼントとして。そして友達たちと「黒い手袋党」ということにする。 またある日、その集団で、工藤さんの誘いでN氏の個人展覧会に行く。そのN氏に対して、いつもと違う、普通の女のひとに見られる仕草をとる工藤さんに章子は驚く。 展覧会の後、皆工藤さんに対して敬意を見せるような批評をする。 黒い手袋党でクリスマスをすることになった。その日秋津さんを訪ねてきた美しい女性がいた。彼女は秋津さんあてに可愛らしい人形を贈って姿を消す。 秋津さんは名乗らぬその客のことを章子にたずね、その正体が判ると、章子の前では初めて涙した。「第五篇」 新年が来た。秋津さんは故郷が遠い(北海道)なので帰らない。章子は郡会議員の伯父の家へと帰っていった。従姉妹の相手などをして日々を過ごすが、屋根裏の秋津さんのことを考えると胸がいっぱいになってしまう。熱病患者のようにしてペンを動かし、手紙を書くが、読み返し、狼狽し、字を次々と塗りつぶす。ただ一つ、「貴女を愛します」という言葉以外。だが、その一つすら彼女はやがて塗りつぶす。 故郷を離れ、屋根裏へと帰るのが章子はたまらなくうれしかった。ところが帰ってみると秋津さんの姿がない。外出したのだと舎監は言う。 卓の上にある人形を見て、不安になる。そして秋津さんの書棚の上にあった電報の「独り、待つ」の言葉に激しく動揺する。 そして彼女は自分を現在苦しめている激しい感情が嫉妬であることを知る。 工藤さんはその電報の主を知っていた。現在は伴男爵の夫人となっている「旧姓呉尾きぬ」さんであること。その彼女が夫君の留守に秋津さんを呼び寄せたのだということ。それを知って章子はますます苦しむ。 秋津さんは翌日帰ってくる。その姿に章子はただ喜ぶ。 やがて工藤さんが悪性の感冒(インフルエンザ)にかかったと矢野さんが告げた。章子は工藤さんが病気のため、意識不明のため、あの伴夫人に嫉妬する自分の様子を誰にも喋られずに済む、とほっとする。だが、そのほっとする自分に思い当たり、身の毛がよだつ思いをする。やがてそのまま工藤さんは亡くなる。 葬儀のあと、小さな洋食屋で「女」そのもののような店の女給を見てうんざりとするが、客の一人の兵士の、ライスカレーを二皿みごとに食べて帰った姿に、生命の一つの現れがあった、とすがすがしい思いをする。 ある時から、秋津さんに手紙が良く来るようになる。手紙は伴夫人からだった。読むたびに秋津さんが暗い表情になっていくのに章子は不安になる。だが自分にはどうすることもできないのが判る。そしてそれは章子にとってひどく苦痛なことでもあった。 やがて、手紙のことは普段は気にもとめないような秋津さんが自分で手紙を漁りに行くようになる。章子はその様子を見て苦しむ。 ある時、章子は伴夫人が秋津さんに贈った人形を手にし、いきなり畳の上に投げつけ、にらみつける。そして人形の腕をねじあげる。と、それはぽきりと折れてしまった。 秋津さんを失ったという思いは、章子を落胆させる。勉強にも身が入らず、再試験を命じられる。試験はなんとかなったが、自分が生命のない泥人形になったような日々がそこにはあった。 ある日、矢野さんが来たが、屋根裏の二つの部屋からどちらも返答が得られないので、あきらめて降りていってしまった。 次ぎにお静さんが登ってきた。彼女は遠慮なしに部屋に入ってきた。章子は彼女のずうずうしさが嫌いである。その嫌いなひとが秋津さんのものを取りに来た。それに気付くと、章子の頭に血が登った。 隣の部屋で籐椅子の上で静かに寝ている秋津さんに毛布と羽根枕を捧げて立っているお静さんの頬をなぐる。 お静さんは泣きながらそれを舎監に告げに行く。 章子は秋津さんを打ちつつ哀願する。私を顧みて、私は貴女なしでは生きていけない… 舎監は章子に退寮を命じた。ぐずぐずしているとどんな恐ろしいことがおこるか判らないと章子は震えながら荷物をまとめる。そこへ、秋津さんがやってくる。そして自分と一緒に行くという。伴夫人のことを心配している章子に秋津さんは、伴夫人からの手紙を見せる。「一緒に死のう」という夫人の言葉に心動かされもしたのだが、やはり章子のことが思いきれなかったと言う。 自我のために、恋愛のできなかった夫人は、死ぬことで強い自我を表そうとしていた。そしてまた章子は自分にも自我があることに気付く。そして秋津さんは「自我を持った強い女として一緒に生きよう」と言う。 そして彼女達は二人して屋根裏に別れを告げる。 ********若い頃首をひねったもんだけど、二十年後に読んで思ったのは「……いたたたたたたたたた」だったというのが。いや、耽美なのよ耽美。
2018.03.07
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えーこれは院生のときにぐだぐだ調べてた関係のものです。********昭和13年にペン部隊ってのがあったんですね。作家を戦地に送るっての。吉屋信子は海軍班。女性陣は二人で、林芙美子が陸軍班でした。林は一人離脱して軍隊と共に単独行動をとってその後ルポ本二冊出すんですが、まー文壇の男からはぶーぶーでした。吉屋はそれは無かったです。つか戦艦乗ってたし。杉山平助ってのは、こないだも出しましたが、当時の売れっ子ジャーナリストです。今の感覚で言ったら「ライター」だか、評論家だか、あのあたりのごちゃっとした感じです。個人的には今生きてたら虎ノ門ファミリーに推薦したい御仁です。書評もエッセイもハウツー本も出せば、戦地取材にも行くし、中国人を思った様に「支那と支那人と日本」でこきおろしもしてます。キョーミ深いです。綺麗なとこだけ行ってた訳じゃない人の視線ってのはなかなか。ちなみにその本は戦後GHQから没収図書指定受けてます。……という前置き。以下ちと堅い文章に。*********はじめに ~何故杉山平助なのか 吉屋信子(明治29年~昭和48年)は明治から昭和の長い間にかけて、“女性向けエンタテイメント小説”を書き続けてきた。 ただし彼女のその道のりは決して平坦ではなかった。時代、周囲の理解不足、女性ということ、そして彼女の性格が火種となって周囲との衝突をしたこともあった。 その最も有名な例は、小林秀雄が『文學界』において、吉屋の「女の友情」を感情的に攻撃したことだろう。>資料1 小林秀雄「女の友情」批評 『文學界』昭和十一年十二月 この本はほんの少し許り讀んで止めた。 他の事情もあつたがいかにも面白くないので到底我慢が續かなかつたのだ。 無論面白いであらうと思つて讀みはじめたのではない。興味ははじめからこれが非常によく賣れた小說だという點にあつたので、そこのところが納得出来れば何か言ふ事があるだらう、といふ氣持であつた。當人まことに冷靜な氣分であつたが讀み出したらどうにも向つ腹が立つて來て任を果たす事が出來なくなつて了つた。 作者に對して申し譯ないなぞと少しも思はぬが、讀者並びに編輯當番には濟まぬと思ふ。 だが、向つ腹も評家の見識だと信ずるから何故向つ腹が立つたか簡單に述べて置く。 子供に讀ませる本に必ずしも作者は人生の眞相を描いてみせる必要はない。 だがあんまり本當の事は遠慮する、或は甘つたれた話し方をしてやるといふ事と子供を侮る事とは違ふ。恐らく作者は無意識にであらうが、これをごちやごちやにしてゐる。 まるで子供の弱點を摑まへてひっかけるといふ文體である。子供がひつかけられるから本がよくよまれる、などといふと作者はおこるかも知れないが、僕の言ひ方は作者の文體より上品である。 例へば何とかいふ令孃が番頭と無理な結婚をさせられて、初夜を明かす温泉宿の描寫なぞは殆ど挑發的だ。あゝいふ筆致は言はば狡猾な筆致だ。子供を引つ掛けるにはこんないゝ餌はないといふ感じだ。どうせ通俗小說だ、そろ盤を彈いて書いてゐるといふ様なさつぱりした感じではない。何かしら厭な感じだ。人の眼につかない處で子供たちと馴れ合つてゐる、といふ感じだ。 この作者の文體には極く尋常な美しさすらない。尤もこの尋常の美しさなるものこそ一般通俗作家に一番缺けてゐるものかも知れないが。確かな事は「女の友情」を愛讀する子供達の裡には、「女の友情」より遙かに美しい健康なものがある、といふ事だ。(以下は漢字のみ現代/下線は引用者) この事件については、吉武輝子『女人吉屋信子』(文藝春秋社 1982.12)、 田辺聖子『ゆめはるか吉屋信子』(朝日新聞社 1999.9)といった評伝、駒尺喜美の評論『吉屋信子――隠れフェミニスト』(リブロポート 1994.12)にも取りあげられている。最近の研究では黒澤亜里子が「大正期少女小説から通俗小説への一系譜 : 吉屋信子「女の友情」をめぐって」でこの件を言及している。 この件については、上記評伝において、吉屋が東京日日新聞のパーティの席上で小林をやりこめたことで集束されている。 では他には何も無かったのだろうか。 それがここで挙げる昭和十五年末における『改造』誌上の吉屋と杉山平助とのやりとりである。 杉山平助(明治27年~昭和21年)は昭和三年?~十七年に渡ってマス・ジャーナリズム上で活躍した評論家である。 大正十四年に小説『一日本人』を出版したのが彼の文筆人生の始まりだが、そこから昭和十七年までが彼の短い活動期間である。十八年から終戦までの足取りは掴み辛いに加え、彼自身の生命が二十一年、五十二歳で尽きてしまったことが何と言っても大きい。 だがその短い期間に、雑誌・新聞に書かれた評論・随筆・紀行文をまとめたもの、書き下ろし小説といったものを、二十四冊出しているというのは、非常に旺盛な仕事ぶりだったと言えよう。 近年の研究としては、都築久義「杉山平助論」、山口功二「マス・ジャーナリズムとしての批評――杉山平助と昭和期ジャーナリズム」、森洋介「ジャーナリズム論の一九三〇年代」、作品論では『文芸五十年史』を吉田栄治が分析している。 しかし現代においては“忘れ去られた”批評家である。 だが何故杉山なのか。 それは彼が、戦前戦中期において唯一まともに吉屋の新聞連載長編小説をきちんとした文章で批評しているからである。>資料2 杉山平助『文藝春秋』昭和十三年九月号「新聞小説の社会性」(……)吉屋信子の「家庭日記」は現代の都会生活において幾組かの男のいりくんだ感情生活を描いてゐるものである。それが、どんなモデルを要求してゐるのかは、私の読んだ範囲では、まだハッキリつかめなかつた。 その中に、妻に対して忠実な男が却つて妻から裏切られ、女を平気で裏切るやうな男が幸福な家庭生活を営んでゐられるという現実を、紀久枝という女性が嘆息してゐるところがある。 これは男の側から裏返して云ふと、良人に対して忠実な女性が、却つて男から捨てられ、男を幾人も裏切つてゐる女が、平気で安全な家庭生活を営み、社会的に高い位地に上ることがある、とふ逆の現象も成立し得るので、事実としても、さういふ例は、相当に多い。 かういふところから見て、人間を幸福にさせたり、不幸にさせたりするのは、何か別の法則があるのではないかといふ疑問が生ずるやうなことがある。この作者にはさういふことを執念深く追求し得る興味はないであらう。しかし、その現象に首をかしげて、世間に告げることは出来るので、その解決は、おそらく或る程度の通俗的な線にとゞまることであらう。 この作品にも、「虹の秘密」にも、時代の影はさしてゐない。もちろん際物的に、事変を取り入れる必要はないが、この二三年間の社会の感じてゐた圧迫は、どこか知らんに雰囲気としてにぢみ出てもらひたいものである。 但し「家庭日記」には、職業的に独立しようとする女性の生活が描いてあるのは、今日の全日本の若い女性に訴へるポイントをつかんだものである。今日の結婚前の女性と話しあつてゐて、この点にインテレストを感じないものはほとんどないやうにすら思はれる。 実にえらい大群が洋裁学校へ、或は美容学校へ、或は喫茶店経営の志願者へ「流れ込んで」行く。そして、需要はもちろんこの供給とバランスせず、その大多数が中途半端で挫折し或は堕落して行くのである。この真相を描破せず、ごく希な成功者だけを語つたりすると相当に女性を誤まることになることを、警戒せねばならぬ、さらに最近の各種の経営統制が此等の独立職業をもとめてゐる婦人たちに、どういふ影響を及ぼすであらうか、などゝいふことはこの作者なぞが忠実に見戌らばならない点であらう。 それから、この作者のものを読んで感心させられるもう一つは、女がもとめる愛情と男が与へたがる愛情には、何かくひちがいがあるのではないかといふ疑点である。たとへばこの作品中の或る男が旅行に出て行く時に、門口まで見送った妻と飼犬を見て自分の留守中に奥さんを大切に保護するやうに、といふやうな文句を、飼犬に云ふところがある。 こゝらあたりおそらく多くの女性読者及び一部の男子読者に最も魅力のある描写であらうと想像されるが、私などはちよつと鼻持ちがならないのである。もちろん、我々でも飼犬にむかつてさういふ言葉を云ふことがあるかもしれないが、それは別の感覚で云ふのである。私はそれのどつちが善い悪いのなどゝ云つてゐるのでは決してない。たゞ男女の間のかうした喰ひちがひにこの作者が興味をもつて眼を開くやうになれば、作風は進展しはせぬかと考へるのである。(引用は『新しき日本人の道』第一出版社 1938.10 p289-291 ) 杉山が関心を持った箇所はかなり最後の場面なので、この時点までに新聞掲載されていたものを全部読んだ様である。 興味深いのは、その捉え方である。 「家庭日記」は二組の夫婦、その友人、昔の恋人とその妹といった人物で廻っていく物語である。これを通常の吉屋の読者なら、まずヒロインを中心に読むだろう。だが杉山はこの夫達の方の動きを中心に据えている。確かにその様な読みをすれば、男達が女によって変化させられるプロセスを描いた話として、矛盾はないのだ。 この様に杉山は、仕事として真っ向からこの作品をきちんと読んで批評している。その辺りが小林の「女の友情」評と違うところである。 だがこの評の書かれた直後の「ペン部隊」の従軍で、吉屋と杉山は同じ場面を見たはずなのに、何故二年後にこの様な誌上論争を巻き起こさなくてはならなかったのか。 そこで杉山という人物を通して、吉屋の持つ性格の側面を引き出してみたいと思う。1.問題の文章 杉山は『改造』昭和十五年十月号の「文藝時評」(単行本収録時は「闘争の時代」と副題がつけられる)中の「平和と文壇人」の中でまず前置き(資料3)した後、二年前の漢口従軍の際のことを記している(資料4)。>資料3 杉山平助『改造』昭和十五年十月号における「文藝時評」中の「平和と文壇人」(1) 今後も被占領地帯における支那文人と日本文士との交歓はいよいよ頻繁になることにあらうと思ふし、それはそれより外はないことであらう。しかし私は、この際日本の文士に対して、さういふ場合の心構へを、根本から据ゑておいてもらひたいことを警告する。現在は戦争の最中で、平和は未だ来てゐないのである。(p219)>資料4 杉山平助『改造』昭和十五年十月号における「文藝時評」中の「平和と文壇人」(2) 我々文学者が漢口従軍の時である。一行は、砲撃によつて破壊せられた或る小市街へはひつて行つた。それは見るもむざんな光景である。財産のあるものは全て逃亡し、最下級の支那人ばかりが逃げおくれ、ボロを着て、食に飢ゑて、よろぼふやうに、あつちこつちをさまよひ、また片隅にうづくまつてゐた。 やがて、我々は三四人の支那婦人に行きあつた。いづれもはだしで、垢にまみれ、眼のたゞれたやうな婆さんたちであつた。 その時、私と同行の女流通俗作家が、連中をつかまへ、通訳を介して、その汚い婆さんたちに、なるべく触れないやうに用心しながら、こんなことを云つてゐるのを、私は耳にした。「わたしたち日本の婦人は、あなた方支那の婦人に大へん同情をいだいてをります。どうかそのことを、支那婦人の皆さんにおつたえ下さい」 相手の婆さんは、たゞニヤニヤして頭ばかりペコペコさげてゐた。 この愚劣な光景を見た私は、突磋に、ヘドのこみ上げて来るやうなものをおぼえた。もしも出来ることなら、その女流作家の横面を、張り倒してやりたいやうな、はげしい憤怒をすら感じたのである。 かの女は、たしかに正しい言葉を云つてゐるのではないか。それに私は、何故にさうした感情をいだいたのであらうか。 私は、こゝにそれを説明しようとは思はない。かういふことは、分る人には云はなくつても分るし、分らない者には、いくら云つて聞かせても、わかりつこないのである。 或る国が流血の惨事を敢行する時に、そこから生ずる一切の悲惨さの責任は、自分自身にあるといふことを、身をもつて感じ得ないやうな人間は、真の日本国民でもなければ、文学者でもないのである。 その責任感も、内部的苦悶もなく、あまりに安易に語られる「正しい言葉」は、実は邪悪な精神冷血な心情の異つた表現にすぎないのだ。 だから真に深く考へこむ人間は、次第に綺麗な言葉や、正しい言葉を、口にすることを慎むやうになる。それは常に、自らの責任を痛感し、自己の力の不足の悲嘆があるからである。 愛を口にするのは易々たることである。しかし、これを行ふのは、何と難いことであらう。 それ故に生の悲痛と責任の観念の深いものほとじ、次第に却つて冷酷な言葉を口にするやうな、逆作用すら生ずるのである。 日本の現在の文壇人には、前にのべた女流作家程度の人間が、あまりに多すぎはせぬだらうか。そんな浅々しいところから生命のあるどんな文学も、生れて来るわけはないのである。(p219-p221) ここで取りあげているのは、昭和十三年に「ペン部隊」として文士達が大陸に派遣された時のことである。 この時ペン部隊に参加した女流は二人。陸軍班は林芙美子、海軍班が吉屋信子で、杉山が参加したのは海軍班である。当時「女流通俗作家」と言ったら、吉屋信子しか居なかった。女流作家と言われる女性は幾らか居たが“通俗”と専門性を持って呼ばれるのは彼女しか存在しなかったのである。 確かに他にも女流作家が“通俗的なもの”を書くことはあった。だが彼女達は、吉屋ほどのエンタテイメント長編に徹したものを書くまでの技量と想像力が無かった。またこの時代、優れた“フィクションの作り手”として堤千代も登場していたはずだが、彼女は基本病床にある作家だったので、除外していい。 杉山が挙げたこの二年前の事例は「文藝時評」の流れのある中の一つの章の更に一部分である。彼がこの号で語っていたのは、“支那事変”後の文壇と新体制のことである。 以下それはこの様な流れになる。一、文化人は平和を愛する本能が濃厚である。彼らは平和の役割には適格である。二、しかし彼らには、現在がまだ戦争の最中であることを自覚してほしい。三、理解せずに善良さだけで動くのはまずい。むしろ有害である。四、現在の文壇にはそういう態度の人間が多すぎないか。 この三、の段階における一つの典型的な例として、杉山は吉屋の行動を例として挙げたのである。 さてこの杉山の文章に対し、吉屋は十二月号(資料5)で反論している。>資料5 吉屋信子の反論 『改造』昭和十五年十二月号「支那難民と私――杉山平助氏に言ふ――」 (……)氏の言はれる砲撃によつて破壊された小市街とは、揚子江岸の武穴である。(それは見るもむざんな光景)と氏は言はれるが、私がその以前見た中支南支の市街戦の烈しく行はれた戦跡に比してはまだまだ幸ひにも、市街の建物の多くは、形を保ち、逃げ出した商店街の店頭には、商品の類が、そのまま海軍陸戦隊の治安下に、保存されているほどだつた。(財産のあるものは、すべて逃亡し、最下級の支那人ばかりが逃げおくれ)と、言はるゝまでもなく、これはどこの戦地も同じ状態であるが、氏の誇張して言はるゝ如く彼等が、(ボロを着て、食に飢ゑて、よろぼふやうにあつちこつちをさまよひ、また片隅にうづくまつていた)わけではない。 こゝの難民の多くは、日本海軍の手で、救助されて、いづれも胸に、良民の証としるした小切れをつけられたりして、保護され、食料も配給されてゐた。 氏は(我々は三四人の支那婦人に行きあつた。いづれもはだしで、垢にまみれ、眼のたゞれたやうな婆さんたちであつた)と記されるが、私が言葉をかけるはめに至つた処は、市街の建物にはさまれた石の舗道に椅子を持ち出して、割合に整つた服装容貌の廿人余もの、老婦人たちが集合、一群を為して、皇軍の保護下にあつた場所で、そこへ案内された遡航鑑の福岡参謀が、『貴女は女性だから、日本の従軍婦人として、何か慰めてやつて下さい。通訳も居ますから』 と言はれ、私は、とても言葉では表現尽されぬ、そのときの私の女としての気持を辛うじてさゝやかな短い言葉で通訳の方に託したのである。 氏はそのとき(相手の婆さんは、たゞニヤニヤして頭ばかりペコペコさげてゐた)と、私を痛罵する為にか、卑俗な皮肉を以つて記されてゐるが、そのとき、彼女等は、傍の海軍士官の前で、けつして日本女性風のニヤニヤなどの笑ひだにもらさず、中央の白髪の上品な感じの一老婆が、いきなり椅子をおりて、舗道の上に膝まづいて、通訳の伊藤氏何か答へた。『じぶんたちは、いまでは安心して此処に居ると、喜んでます』 と、伊藤氏が私に伝へられた。 勿論、私は、そんな私のさゝやかな言葉が、この戦禍に打ちひしがれた支那の女性たちに、なんの足しになると、思へもしなかつた。だが、そのときは、せめてもの女の心やりで言葉をかけた。その言葉で、敵国の老婆が舗道に膝まづいたりしたのは、堪へがたい苦痛だつたのを、今も忘れない。 そのとき、同行の文士従軍班の一行、菊池、吉川、佐藤、濱本、小島、北村の諸氏も、みなめいめい銀貨や持ち合せの林檎を通訳に託し、或は自分の手から、その老婆たちの一群に渡してゐられた―― その帰途の廃屋の戸口に立つてゐた、戦禍で孤児となつた支那少年を見て、菊池先生は、通訳を介して(日本ヘ連れて行つて教育させるが、行かないか)と伝えさせて居られた。 かゝる諸氏の行為言動も、さぞかし杉山氏には、ヘドのこみ上げて来る、横面を張り倒してやりたい憤怒を与えたことであつたろう――が、不可思議にも同じ文士の一行中の取るにも足らぬ一女性の私だけに、氏は全身的の嘲罵を、ほしいまゝにされてゐる。 それほどの憤怒を覚えた氏なら、それからも従軍中、一行がその日その日の見聞印象について、たがひに隔心なく論じ語り意見を交した機会にこそ、武穴の難民に対しての私のささやかな言葉を取りあげて論難さるべきであつたらう。おたがひ、危険を冒して共力団結した従軍行である。――それを三年後の今、持ち出して、広く刊行誌上で、嘲罵し、一人快とさるゝのは、氏こそ邪悪冷血な心険しき小人物であらう。まして、氏の文中私が(その汚い婆さんたちに、なるべく触れないやうに用心しながら)ものを言つたとか、書かれた卑小低級な悪意ある表現の、なんと男らしからぬ、御殿女中式の泥沼のやうな心境から、氏こそ脱して、この新体制の時局下、眼を大局にそゝいで、も少し権力ある大きなものへ向けて戴きたい。 私は氏から、如何に罵られやうとも、二年前の従軍中、支那の難民女性に向って、機会あつて短い言葉を伝へたのを、恥ぢ入る行為とは思はない(それが、何んの役に足らぬのを知り、何一つ誇るべき事でもないのもよく知るが)そして、今も私は、日本の女性として、支那の女性に対し、いささかなりと心のつながれん事を、夢見る信念を持つてゐる。 戦争に面し、流血の惨事に対し、様々の内部的苦悶を持つのは、氏一人ではなからう。 私は、自分の作品の批評ならともかく、支那女性への私の言葉をタテにの、氏のあまりの暴言と非礼に、同じ日本人として、一寸の虫にも五分の魂、敢て、今の日本の文化の為にも、かゝる何等の指導性も持たぬ徒らに人を傷つける暴言放語に酬ひ、事を明らかにしてち、世人の万一の誤解を解きたく一文を記した。恐らく氏の如きは(小さかしき女を返討に)など、更に得意の罵言を重ねられるかも知れぬが、私はもはや取り合はぬ。この時代に、筆を持つ日本人同志が、そのペンで傷つけ合ふやうな卑小な醜態な国辱から、私は逃れたいからである。(p223-225) こちらも流れをまとめてみるとこうなる。一、杉山は十月号で自分をこう罵った。二、しかし他の文士も当時同じことをしていた。三、何故自分だけ二年後の今頃取りあげるのか。四、そんなことをするのは「邪悪冷血」「卑小低級な悪意ある表現」「御殿女中式」で大局を見ていない。五、自分は当時自分がしたことに悔いはない。六、読者の誤解を解きたくてペンを取ったがこれ以上の討論は御免だ。 更に杉山は昭和十六年一月号で、吉屋を中心として上司小剣等、自分に反論した者に対し、「大根一束三文」という題の文章で更に応えている。(資料6)>資料6 杉山の反論 『改造』昭和十六年一月号「大根一束三文」(……)私自身が果して、吉屋女史の云ふ通りの人間であるかどうかという点にこはれを世間の批判に委せるより外はない。その前に、私が吉屋さんに注意しておいてあげたいのは、あなたはいつも、さういふ見識のないものゝ云ひ方ばつかりしてゐるから、いつまでたつても幼稚で、我々の話相手になれないのである。 それでは、あたかも悪いことをして先生に叱られた女学生が、これは自分一人だけがやつたのではない、誰々さんやりましたア、と泣きわめいてヒステリーをおこしてゐるのと、何の区別もないではないか。 もしも吉屋女史が、本当に私を論駁しようとするなら、さうだ、自分はたしかにその通り行動した。それがナゼに悪いのか。むしろ杉山こそ怪しからんことを云ふではないか、と云つてネヂ返して来るのでなければ、本筋ではないのである。自己の行動に自信のある人間なら、さうすべきなのである。 おそらくパール・バックや宮本百合子ぐらゐの女性なら、必ずその方面から、私に、反撃を加へて来たであらうと思はれる。 ところが吉屋女史には、そこまで問題を突つ込んでゆく脳力がない。そこで、いつまでたつても、女学生の口喧嘩みたいな、低級なところで、お相手しなければならないと云ふわけである。 支那の避難民に、物をほどこしたり、親切らしい言葉をかけてゐたのは、たしかに吉屋女史ひとりではない。菊池寛も外の文士もそれをやつた。さういふ私までが実は銭を与へてゐる。 それに私は、何故に外のものを問題にせず、吉屋女史だけを、槍玉にあげたのか? 私はかの女の態度のうちに、私が現在、最も嫌悪している日本の通俗的ヒユウマニストの骸骨を、その最もティピカルな形で看取したからに外ならない。小知恵と打算と形式的倫理はこれを具へてゐても、魂の真底から湧き上がつて来る人間としての同痛感も、すゝり泣きも、空虚にひからびてゐるその精神に、私は嘔吐をもよほしたのである。 私は、よくおぼえてゐる。文士連中のうち、真先に避難民に金を与へたのは菊池寛であつた。その時彼の表情には、真底からの惻隠の情がアリアリあらはれてゐた。彼は、例のボヤボヤした冴えない態度で、黙つて、難民に銀貨を与へていた。 その姿は私を感動させた。菊池という人物の真のよさが、そこに蔽はれるところなくあらはれてゐたのである。 それから間もなく、吉屋女史も、五十銭紙幣をふりまはし始めたのだ。かの女特有のペチヤクチャした調子の文句入りで。 それが私に、ヘドの出るやうな嫌悪の念を催させたのである。 これはいつたいどういふわけであらう。二人の人間が、外面的には全く同じ行動をしたのに、私はその一人にはむしろ感服し、他の一人には、嫌悪をおぼえて、これを罵つたのである。 形式的に物を見ることしか知らない人は、これをもつて、私を不公正な、卑劣な人間と考えるかもしれない。いはんや吉屋女史が、憤懣やる方なく、あらゆるヒス的絶叫をもつて、私を罵り返すことは、まことに無理からぬ話である。 しかしながら、私は文学者としての私の存在を賭けて云ふ。私は単なる眼に見える形式的なものより、私自身の直覚を、常に信頼するものである。私は、うそとまことを見わける眼力を力として、この世に生きてゐるものである。 私のこの言草について、さういふ主観的な独断を、無闇にふりまはされては堪らないと抗議する人も、或はあるかも知れない。それに対しては、吉屋女史に対する私の観察の誤りのないことを証明する、二三の客観的事実をあげられないわけでもない。しかしそんなこととは末の末なのだ。 それ以上のことは、いくら説明しても、分らない人には分らないのである。 たゞ吉屋女史が、女性としての劣性錯綜に帰同する被害妄想を一掃してあげるため、あの一行について、私が罵つたのは、何もか弱い女である吉屋女史一人でない、といふ事実を語つて見せる必要はあるかも知れない。 たとへば、私は昭和十五年新年のやまと新聞の津久井龍雄との座談会で、次のやうなことを述べてゐる。(……/引用) こゝでは、私は男の連中の腰投げぶりは罵つてゐるが、吉屋女史なぞは女だから無理はないとして、数の中に容れてゐないのである。 いづれにせよ、私は、相手が女だらうが、男だらうが、強からうが、弱からうが、敵だらうが、味方だらうが、自分が真実だと思ふことは云はずにはゐられない人間だ。さうして、そのうちに、自分の社会的役割の一部に認めてゐるものだ。今のところ、文壇を見まはして、私がこわいと思つて気がねする人間などは一人もゐない。屑々たる文壇的勢力の向背などを眼中におくべくは、私はあまりに気位が高すぎる。 この私をつかまへて、吉屋といふ人も、また途方もない云ひがゝりをつけて来たものである。(p248-250) これもまとめてみる。一、吉屋は前号でこう言った。二、だがその論法はまるで女学生のヒステリーだ。三、確かに他の人々も同じことをしていた。だが吉屋の行動の中に特に自分の嫌悪する部分が見られたので例に挙げた。四、自分は自分のものの見方に自信を持っている。五、女性だからと言うならば、以下の例もある。六、ともかく自分は誰であろうと言うことは言う。 因みに彼は、“嫌いなもの”にまず偽善者を挙げている。(資料7)吉屋が偽善者かどうか、は一口には言えないが、大正時代の白樺派的な理想主義者であることは、作品群の持つ傾向に現れている。>資料7 「私の嫌ひなもの」(『現代日本観』三笠書房 1938.3 p388-390)(……)まづ第一に、何より嫌ひなのは、偽善者だ。これだけは、ほとんど手がつけられないとふ感じがする。何しろ話がマトモに出来ない。人間性の悪さについてねこれくらゐのことは、お互に率直に認めていゝではないか、と思はれるやうなことまで、いゝえ、さういふことは神様がお許しになりません、と来やがる。ムカムカして来る。(……)偽善者に対する反感が、飛んだ方へとばつちりが行つたが、とにかく宗教家に限らず、偽善者が大嫌ひだ。 偽善者といふのは、何も道徳的なことばかりに限らず、文壇には文壇的偽善者があり、演劇には演劇的偽善者があり、政治には政治的偽善者といふものがある。 文壇的偽善者といふのは、寝ても醒めても、芸術芸術といふことばかり口走り、その実さいは、いつも文壇的党派関係や利害打算でいつぱいになつていやうな連中を云ふ。天下の鼻つまみだ。 政治的偽善者といふのは、何かと云へば忠君愛国を唱へながら、実際は、自分自身のケチまくさい勢や、慾や名誉欲でコチコチに固つて異るやうなヤカラを云ふ。 今の世相は、いたるところかういふ偽善者が多すぎるやうに思ふ。 白樺派に関して杉山は昭和十七年の『文藝五十年史』においてどちらかというと否定的である。(資料8)>資料8 白樺派についての杉山の批評『文藝五十年史』(鱒書房 昭和17年11月/新版22年) 新世代の文學が、まづ低調化した自然主義文學への反動として興ったのは当然の成行だつた。その最も優越した反抗勢力として台頭したのは、同人雑誌「白樺」に集つた学習院出身の華族およびそれに近い良家の子弟の一群である。彼等が「喰ふに困らない」家庭に育ち、「世間知らず」の文學を造りだすことによつて、最も有力な自然主義の克服者となり得たといふ事実には一応以上の意味がある。日露戦争後の経済的不況と国際的ボイコットを知り、現実生活の鉄壁につきあたつて、世紀末的な人生否定の虚無思想に陥らざるを得なかつた自然主義に対して、実生活の「苦労」を知らない華冑界の若殿原が、「愛」と「人道」による人生肯定の烽火を挙げたのは、それだけで自然な帰趨と考へられる。(……)喰ふに困らない彼等は、じめじめした裏長屋的な「人生」だけが人生でなく、思想し、恋愛し、芸術を楽しみ、何よりも先づ精神的存在として生きることに、人生の意義と価値とを見出した。彼等は欧羅巴の文学や美術を熱愛し、それらの芸術家の精神に触れることによつた、其処に「人間」の典型を見出した。偉大な天才の芸術、思想、行為に共感する自己の内部の生命を信じ、それを生かすこと以外に「人生はないと信じた。それが「人類の意志」だと信じた。(……)同時にそれは自由と独立と我にみちた大正人の生活倫理の基本信条となり得るものだつた。(……)精神的(基督教的)な「人類愛」をば社会の紐帯としようとする道義的社会改革思想が、人道主義である。(……)愛の勝利において新たな人生肯定の信仰に立つたトルストイは、その復員の宣伝と実行によつて悩める近代を救はうとし、全世界にトルストイ主義の精神運動が起つた。その福音が世界を救ひ得なかつたばかりでなく、トルストイ自身の個人生活をも最後まで救はなかつたことは周知の通りである。(……) 志賀直哉は、武者小路とならぶ白樺派の二大作家の一人であり、また大正以後の文壇に与へた影響力の強さと広さから云つても、武者小路に匹敵する。(……)志賀は思想的には白樺派的人間主義の作家である。作中に彼の告白した思想がさうであるばかりではなく、彼の描いた「人間」が、すべて彼の人間主義によつて加工された人間なのである。といふことは、人間を描く限り、彼の小説は、彼の道徳観を一歩も出てゐないといふことである。(……)志賀直哉の生活と芸術の基調が、強ひて概念的な言葉に翻訳すれば自我即人類的意志といふ人間主義的観念に要約されるといふことだ。(……)だから結果から云へば、描かれた人物はもはや作者ではないのである。この作者はおそらくどんなに実生活の事実そのものを題材とする場合でも、作者の無意識裡に行はれている。この対象化の原理が、彼自身の実生活上のモラルそのものだからである。作中人物たる「私」は、その生活原理たる人間主義の道義観に貫かれて行動し意識する美的存在である。純化された人間典型である。その道義性の独善性に歯がゆさや反発を感じる者も、この芸術的操作の完璧性には叩頭せざるを得ない。事実彼の私小説の主人公は、多くは社会的反省を欠いた強情なエゴイストに過ぎない。傑作『和解』にしても父子の和解は事実そのものとしては浅薄な妥協に過ぎない。だがその浅薄な妥協の場面で、脆い読者は泣かされるのだ。(p334-347) 引用においてあえて志賀の部分を取りあげたのは、この志賀に対しての評の中に、吉屋と共通するものが感じられるからである。 彼女は志賀ほどに文章や物事を突き詰めることはしなかったが、作品全体に人道主義に基づいた道徳が作品全体を覆っている。登場人物もまた「その生活原理たる人間主義の道義観に貫かれて行動し意識する美的存在で」あり、「純化された人間典型で」ある。 なお吉屋はその一方で、不用意もしくは残酷なまでに端々に、視覚的、精神的に汚いものを嫌悪する言葉を挟む傾向がある。 例えばこの従軍時期にも近い、昭和十二年作『相寄る影』では、事変直前の上海の描写を以下の様にしている。>街に入れば、さすがに原始的な黄や赤や青の色彩、油臭い支那料理の匂ひ、燻製の豚の肉のだらりと下つてゐる下等な飲食店、その前の土間に屯して、茶碗と箸をもつてわめいてゐる支那人の労働者、奇怪な支那街の光景も、支那を初めて見る二人には珍しく異国風だつた。 それから仏蘭西街の綺麗な街々、ほんたうに洋行してゐるやうな気分にさせる、その雰囲気、支那の土地でありながら、みだりに支那人の入つて遊べない仏蘭西租界の公園――(『神秘な男/相寄る影』新潮社 1938.12 p257) 「支那」的なものと「仏蘭西」的なものとの取扱の差異が判るだろうか。 また、同時収録のペン部隊時の紀行文の中で、米国経営の生命活水医院を見学した際の文章は、全文文語体で、 院内の一覧を乞へばいそいそと先導す。戦争以前の入院患者の外に、こゝに残れるは、おほかた廃疾者の如き支那の老婆多く、夕食の茶碗をベツドの枕辺に置きて、日本の婦人従軍記者を横目に見やり、ただ食べるに専念す。(p315)と表現している。 ここでは“廃疾者の支那の老婆”の“食欲”に視線が向けられている。貧しい、汚い、卑俗だ、そういったものに“食欲”は取り付けられる。 その一方で、創作文(紀行文も含む)における、美しい女性には食べさせること自体を殆どさせない。自身に関しても、後年改まって考えるまで、自身には原罪のうち食欲と性欲は無関係だ、と考えていたふしがある。(「たべものの話は尽きず」『吉屋信子全集 第十二巻』朝日新聞社 昭和五十年)この紀行文内でも自身には食欲が無い、喉を通らないという描写が多い。小説の中のヒロインは家族の食事を用意する場面があるだけで当人が食事している風景は殆ど出さない。少し食してもすぐやめてしまう、具体的な食事の様子を描かない。 それは食欲の否定だろうとは思われ、実に興味深いのだが、それはまた別の機会に詳しく考察したい。この傾向は程度の差はあれ、終生続いていくのだ。 ところでこの感性が、揚子江を「チョコレート色」「おみおつけ色」と描写させるのだとは考えすぎだろうか。 揚子江のおみおつけ色の水は、あひ変らずうねつてゐる。その黄土を溶し込んだ波を切つて、ランチは沿岸へと進む。もしも半沈状態の機雷が、ぷかりぷかりと浮いて来て、ランチの横腹へ、どかんと当れば、あゝ、人も舟も――水煙一筋――颯と舞ひ上るも一瞬、あとにはただ、おみおつけ色の水が、天地悠々と流れるのみと思ふと、あんまり嬉しくない。(p320) 土が溶かし込まれた水を表現するのに、直接口に入れるものを使って形容してしまう。それも「みそ汁」ではなく「おみおつけ」とそのものの持つ最大級の敬語表現で。 揚子江を肯定的に見ている文脈ならそれでも良いとは思われるのだが、決してそうではない。むしろ「嬉しくない」と否定的である。 すなわち、食物的なものを「美しい」対象に彼女は認めていないとも考えられる。 この描写は、奇しくも、その直後に杉山が指摘した吉屋の行動を自ら書いた部分へとつながってくる。「武穴上陸の日」と題され、体験直後の記述であるので、出来事としてはこちらが正しいと思われる。(資料9) 引用部分に続くまで、あちこちに花が出てくるのは、ハイティーン女性向けの『新女苑』の読者への配慮だろうか。 しるしの杭の前には、戦友の心づくしの秋の薄や、うす紫の野菊の花が、さゝげてあつた。 花と言へば、そのあたり、皇軍飛行機の爆撃の大きな穴の跡があり、叢のなかには、逃げ去つた敵の残した機銃の弾丸が散つてゐるのに、そこに浜撫子に似た花が紅く点々咲いてゐた。(……)防空壕のトンネルに似た穴の入口には、朝顔の蔓が、からまつて、すがれてゐるのも哀れ深かつた。(p320) やがて杉山が指摘したのと同じ場面が登場する。だがその時の所動に関しては、杉山の指摘したものと重なり、吉屋の反論の行動とはずれてくるのである。 十三年の時点で吉屋の行動をこの文章から読み取る限り、自分で見つけた女性達に通訳に頼んで言葉をかけてもらっている様に見られる。 その時の微妙な吉屋の動作が、杉山の目には偽善的な醜悪なものに映った。杉山の主観を信じるならば、吉屋はおそらく、その時無意識に「汚いものからは離れて」いたのではないか。 菊池寛が先に難民に金を与えた、というエピソードは昭和十三年時点の杉山の「日記」(資料9)に存在する。>資料9 杉山平助「日記」(『揚子江艦隊従軍記』第一出版社 昭和十三年十二月)(……)文学者一行は、武穴を見学す。花柳街の発達した、ナカナカ洒落た町であるさうだが、人影ほとんどなし。人家の器財また完全に空しいのは、ずゐ分と前から、逃げ仕度をしてゐたものであらう。それでゐて肝心の塩を、七千俵もおき忘れてゐる由。 生まれて間もない赤ん坊を抱いてゐた老婆あり。菊池寛が銭をやつてゐた。哀れな子供たちあり、麻屋や紺屋の覆い街である。河岸の陸戦隊本部で昼食する。(……)(p314-315) その後で、なおかつお喋り入りで、という記述に関しても、これは吉屋が欧州に滞在した時の『異国点景』に収録されているエピソードとも何処か共通する部分が感じられる(資料10)。>資料10 吉屋信子「靴屋の飾窓」(『異国点景』民友社 昭和五年六月)明日はニースへ旅立つといふ日、私はいさゝかの旅支度の用意に買物に出かけた、買い物の包みを重くさげて帰る頃、もう街には灯がついて居た、旅で履く踵の低いスポーツ型の靴がふと欲しくなつて、六時までに僅な間があるのを幸ひ、通りがゝりの靴屋へ飛び込んだ、もう少しで店の戸はおろされる前だつた、外套や帽子の色に合つた望通りのを買つていそいそ出かけた時、私はふとその店の飾窓の前に立つ人影を見出した、靴屋の大きい窓飾には上から下までぎつしり靴の雨の降るやうに飾りつけてあつた、その靴屋はそんなにブルヂヨア専門でなく普通の店なので、実用的なのが多くならんで居た、その飾窓の前に立つて喰ひ入る様に見つめて居るのは黒いうす汚れた襟のあたり垢と古さでよれよれになつた薄いマントウをぼそぼそと身につけて、手には汚い汚い口金の半分とれたハンドバツクとそして恐らくパンの包みであらう、がさがさとした新聞紙包を後生大事に胸のあたりに抱え込んで居る、十一月末から四月始めまで、ほとんど太陽の無い都になる巴里の此の二月の夜、その身なりでどんなに寒いか、毛皮のマントウに身をくるんでゐる私だちもまだ寒がるものを、そして彼女は帽子もかぶつてはゐない、埃にまぶれた金髪が少しく乱れたまゝだ、巴里で帽子なしで歩く女が恐ろしく賤しいものにされてゐるならひだのに、そして彼女の顔にはむろん白粉もなく、労働と貧しさと生活苦と孤独の悲しみと、そんなものゝ陰がぎぢやぎぢやに乱暴に刻み込まれ叩きこまれ押しつぶされた、おゝその顔の中の彼女の眼は今燃えるやうにぢいつと飾窓の中を見入つてゐるのだ、彼女の視線の焦点となるところには、此の店でも一番安い靴であらう、たゞの黒皮に一つ釦の止め帯をつけた粗末な靴――その脇の小札に八十フランとしるしてある、彼女は外の高い美しい靴には眼もくれず、ひたぶるにその八十フランの最低価の靴に専念悲しげな瞳を向けてゐるのだ、彼女の双の眼から二本の腕がいきなり出てその靴に獅噛みつくかと思はれた店先の燈下のもとあかあかと照らす下に彼女の履いてゐる靴は無惨な姿を見せてゐた、踵の如き有るも無いもなく、ぴちやんこに擦りへつて足指は露出せぬばかり、靴とは名ばかりさながらよごれた古草履のやうである。そして――彼女はついに諦め切つた顔でうなだれつ、その飾窓の前を立ち去つた、八十フランの安靴を買ふのは彼女にとつては、あまりに遠い夢なのだ――けれど花の都の巴里の巷にかゝる女性も有る事はけつして珍らしいことではなかつた。とぼとぼと靴屋の飾窓から歩き去る彼女、歩いたとて冷たい石の舗道に足音一つ立ゝぬ踵のない破れ靴の足を運ぶ彼女の一間ばかり前に、私は歩いて居た、華やかな灯の通りから曲る――その四辻の孤燈の下にうづくまつてボロボロの毛布に身をくるめたむさい乞食の老爺が、半身動かぬ様な形でおづおづと骨ばり痩せ朽ちた手先に小さいブリキの空缶を道行く人に差し出して居た、私の前にも彼の手は空缶をさゝげ出した、私はニース行きの旅費の為にも日頃よりたくさん用意してある、ハンドバツクを開けて小銭を探した、そんな時に意地悪く重なつた紙幣ばかり手に触れて小銭が見当らない、そんな為に何秒か費やしたであらう、その時一間ほど遅れてうしろから歩いて来たあの彼女が通りかゝた、老いた乞食は彼女の前には進んで空缶を出さなかつた、それより此の老爺は私の前へまだ空缶を出して待つて居たのゆゑ、彼女は灯の下の此の哀れな老いた廃人が眼に入つた時、一瞬立ち止まつて口金の取れたハンドバツクを開けた、小銭を探す必要のない彼女はすらりと指先につまみ上げた銅貨を一つ――そして空缶はかちりと鳴つたと思ふと、彼女はもうさつさと破れ靴の音もせで歩いて去る――私は此の時言ひ知れぬ「恥」に全身ぴしやりと打ちのめされた、かゝる恥を覚えたのは生れて始めてゞあつたらう、わなわなと震える手先に無我夢中、それが五フランか十フランかともかく一枚の紙幣を投げるやうに、そゝくさと缶の上に落すと逃げ出すやうに私は駈け出す気持だつた。その四辻の別れ道、私とは反対の側の小路を辿りゆく彼女のうす寒いボロマントウの後姿もあゝ気のせいか意気に締まつて颯爽として――おゝ巴里女! 彼女こそ此の名のもとに呼ばるゝ女性でなくて何んであらう、そしてもしかしたら八十フランの安靴を買いかねた女は彼女でなくて私ではなかつたらうか?明日は避寒地のニースへカーニバル祭~見にゆく嬉しい旅の前夜といふ此の身にすつかり元気も失はれて、たゞむしやうにへんに夜の寒さを覚えて、私はうなだれて、暫名残の巴里の夜道をタクシーを呼ぶ声も出ず――うなだれて歩いて行つた、抱えた買物の包はいやに重苦しかつた。(p131-136) ちなみに杉山は、この派遣の前、七十日という期間、濃い密度で大陸を駆け回ったり滞在したり、時には病気で寝込んでもいた。時には支那服を作って街に出歩いたこともあった。彼は大陸の庶民をこれでもかとばかりに見てきたはずである。 一方、吉屋はその十三年のレポートに(資料11)おいても分かるが、戦禍の街においてもあくまで美しいものを高め、汚いものは見ないか、貶める描写になっている印象が強い。>資料11 吉屋信子「武穴上陸の日」『新女苑』昭和十三年十二月号(……)その街は、相当大きな街だつた。ならぶ民家といふ民家の中の床は、皆掘り返されて、俄づくりのトーチカ化されて、こゝに敵は籠つてゐたらしい。 防空壕のトンネルに似た穴の入口には、朝顔の蔓が、からまつて、すがれてゐるのも哀れ深かつた。 その街の道は、全部石畳で、雨にもぬかるみにもならぬのは、古いローマの市街のやうで、東京郊外のぬかるみになるのよりは、はるかに文化的だと思つた。 その石畳の街路のほとりに、この街に居残つた支那の避難民の女性が屯してゐた。 あゝ敗残国の女性の、その一群の姿――私は胸が痛くなつて、そのまま立ち去りかねた。 銀貨を幾枚か、彼女らに贈つて、同行の漢口生れの支那語通訳の伊藤さんに、日本の女性として、敵国の彼女らへの同情の言葉を伝へて貰つたら、その通訳の言葉の終らぬうちに、一人のお婆さんは、へたへたと地べたに、私の足許に膝まづいて、両手を合せて、いきなり私を拝むのだつた。 私はどきまぎし、胸がいつぱいになつてしまつた。 その外に、父も母もこの戦禍で失つた孤児の女の児らも、陸戦隊の保護のもとにゐた。 支那の罪なき民衆は、いまこゝに、敵の兵隊さんの情に縋つて、安全に生活してゐる――海軍服の姿を見ると、彼らは、まるで力と頼む保護者、救世主 が現はれたやうに、奥の路地からでも、駈け出して来て、お辞儀をしたり、笑顔を見せたりする。(……)(九月廿八日、旗艦○○にて) 彼女の大陸における滞在期間は事変前にしても決して多くはない。しかも有名人の女性であるという点から、決して危険な場所に連れて行かれることはなかったろう。 あくまで彼女が出会っているのは上層の世界の人々であり、一般の人々は風景の一つだったものだと思われる。その風景の中でも、美しい女性を中心にものを眺めている辺り、吉屋らしい。 そして全体的に、対象が『新女苑』読者であることを考えてのこともあるだろうが、よくも悪くも綺麗事である。 杉山への反駁の中でもこう書いている。今も私は、日本の女性として、支那の女性に対し、いささかなりと心のつながれん事を、夢見る信念を持つてゐる。 「夢見る信念」というところに吉屋の行動規範の中心が感じられる。 現状に不満を持ち、高い理想を掲げ、それをこの時代、小説にルポに描いて行ったのだろう。 それはそれで一つのあり方だったろう。だが杉山にとっては甘く、有害とも感じられる程腹立たしい行動だったのだろうと考えられる。2.論争に関する吉屋の態度~もう一つの論争を通して さてこの昭和十五年の『改造』誌上の論争に関しては、私は杉山に軍配を上げたいと思う。 と言うのも、吉屋は自分の文章の最後で、自ら杉山に突っかかっていきながら、最後には逃げていくという姿勢を見せるのである。発言すれば杉山が反論してくることは目に見えている、だがそれは拒否したい。それは論争においては“逃げ”だろう。 同様のことが、ペン部隊派遣前の『婦人公論』昭和十二年における「夫の貞操座談会」においても起こっている。出席者はこの二人の他に、太田医学士、宇野千代、丹羽文雄、今井邦子という顔ぶれであった。 司会としての婦人公論側の編集者が居ない状況下では、評論家たる杉山が自然、司会的な立場となっている。彼と、話の発端である『良人の貞操』の作者である吉屋がやはり座談会の中心となっている。 ここで果たしている参加者の役割としては、女性関係で何かと当時世間を騒がせていた丹羽、恋愛沙汰が多い宇野、そして歌人で賢夫人として知られる今井、医者という性に対する専門的な立場の太田、であろう。 そこでも両者のスタンスは浮き彫りになる。 杉山は恋愛に関して自分の意見をはっきりさせ、吉屋にもそれを要求する。 だが会話という流れやすいものの中で、吉屋はそれをかわし、杉山も、そしておそらくは読者も知りたいであろう彼女の本音をのぞかせることはない。 オブザーバー的な三人もスタンスは一貫し、あくまで自分の言葉で語っている。だが吉屋に関しては、人の意見の引用という形と、回答拒否、逃げに終始している傾向が強い。 杉山にしろ婦人公論編集部にせよ、実際には彼女が秘書の門馬千代と同居/同棲していることはよく分かっているはずである。その辺りを彼女の口から引き出したかったのだろうと思われる。だが決してそこには触れさせまいという意識が感じられる。 杉山はそんな吉屋の一般論に徹し、自分をあくまで隠す吉屋の態度に不快感を感じていたと思われる。むすび 『改造』誌上の件は「大根一束三文」が単行本に収録されていないこと、杉山が戦後すぐに亡くなったこともあり、おそらくは見出しがたい文壇事件の一つだろう。 ちょうど同時期に花形であった二人がこうも悪罵をぶつけ合い、小林の場合と違い活字に残る証拠が残されているというのは興味深い。 ただ現在において、自分自身が杉山>吉屋というバイアスをかけて見ている自覚があるので、現在これを論文の様な形で外に出すことは難しい。 また、殆ど同世代でありながら、まるで正反対とも言える吉屋と杉山の家庭事情、人間関係についても考察したかったがそれはまた次の課題とする。*****************よーすんにこれは使おうか使うまいか扱いかねてる論文の一部どす、ってことなんだわな。何かえらそーな口調で書いておりますがこれでも子供っぽいらしいぜ(笑)。ま、それはともかく、吉屋信子って人は必ずしも「いい人」という訳ではないというのがワタシにはある訳です。「いい人らしく振る舞おうとしてしている人」って方が正しい。まーだから杉山には「偽善者」って映ったと思う。吉屋のばーいは、まずともかく自分が仕事していく上でアブノーマルだ、ってことは言われまい言われまいとしていたふしがある。例えば博多で門馬千代と暮らしていた時、官立女学校の教師である千代さんにはさすがに同性愛だーっていうのは御法度だったよーです。んでもって、個人雑誌を出した時、またこの同性愛的なものにえらく苦情が来た訳だ。いやまじあれは凹むだろーと思うくらい。とは言え、吉屋もそーとーラジカルっちゅーかぶっとんだことは言ってるんだし今の人から見れば「処女厨」と言っていい位の人ですー。もっと言ってしまうとメアリ・スー入ってます。でも書かれたものが人気あったんだから、そこんとこは需要があったってことだし、そもそもその彼女のメアリ・スーなお話がなければ日本の少女マンガの歴史は無いんですから何ともいえまへん。情報局の資料とかでも「奇妙に小心なところがあり」とか出てくるし、伝記とかでも「子供のような人だった」とか色々言われてるんですが、しょーじきこの人は「気づけない」人だったと思うんですよね。それと千代さんを「嫁」としちゃった後はもう「ダンナ」と「子供」両方やってる訳ですよ。そもそもこのひとが求めていた「久遠の女性」ってのは、「美しく亡き母」的なものなんですから。何がどう気づけないと言えば、上の例で言えば、支那の貧しい人のとこに行きました「ああ可哀想だな」ここまでなんですね。「汚い」もたぶんあったと思います。無意識に身体を遠ざけてたんではないかとも杉山証言からは見えます。だけど菊池寛はそこで無言で金を出すんですね。彼は判ってる訳ですよ。何かえらそーな自分が知らない日本の作家が自己満足のために送る綺麗な励ましの言葉より、まず金やモノ、ってことくらい。で、菊池のばーいはそういうの「生活者」だから判ってる訳ですよ。そして下手に何か言えるものじゃないってのも知ってる。だから「無言」。だけどどーも吉屋はそこで「女性として……」とか言ってしまったんだろうなー。いやしょーじきこのひとワシ、「女性として」と言えるかどうか疑問でして。この人の女性キャラに向ける視線ってのは、基本百合男子なんですよ。きゃっきゃうふふの中に自分は入れない、遠くから見ている。だがそれがいい、というくらいの。つか、自分がそういう姿のきゃっきゃうふふできる様な世代を過ぎたら女だって同じ様な視線に(ごほごほともかくだ(気を取り直して)この人が「女が女に優しく……」と言えば言う程、「あー女流文学者ハーレム作ってたんだな」という感じがして仕方ない今日このごろなのです。はい。女流文学会は当初結構このかたのお家で開かれたようですよ。だって邪魔な「旦那さん」が居ないですから。そらそーだ。「ダンナ」は彼女自身なんだから。**************↑はなろうにおいたぶん。今付け足すと、吉屋は「パヨク」の行動に近いざんす。はい。……もの凄くわかりやすく言えば、たじませんせいなんですよ……花物語(上) (河出文庫) [ 吉屋信子 ]
2018.03.03
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え~「話」というのは、文藝春秋社の「文藝春秋」よりは大衆的な雑誌です。菊判。吉屋信子研究の際に集めまくったものの一つなんですが、なかなか面白い。インテリではなく一般人対象の雑誌です。「オール読物」よりは総合誌的。で、表紙。目次。色々支那事変の順を追って記事が書かれてます。で、通州事件に関して。……写真暗いかな。個人的にはこういう記事もいいけど、後であげようと思う杉山平助の対支那観とかがいいのだった。対談だったし。
2018.02.26
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今日のAP通信の「コンゴ民主共和国の戦闘激化、約7000人の避難民 湖を渡りブルンジに」リツイしていて、「ん? ブルンジ?」何か既視感あると思ったら昨日の労働新聞じゃん!>自主的発展のための闘争に立ち上がっ立ち上がるよう呼びかけブルンジ大統領が最近の演説で、全人民が国の自主的発展のための闘争に立ち上がっ立ち上がるよう呼びかけた。彼は実質的な独立を達成しなければ、再び奴隷の運命にさらさなると言いながら自分で発展するためにはすべての努力と言った。それとともに国の法規定を遵守する気風を確立し、不正腐敗行為を根絶し、貧窮を清算するための闘争を強度の高さを広げていかなければならないと彼は強調した。【朝鮮中央通信】で、今日のニュースのほうは>【1月27日 AFP】政府軍と反体制派の戦闘が激化しているコンゴ民主共和国から今月24~26日までの3日間で7000人近い避難民がマットレスやスーツケースなどの家財道具を船に積んでタンガニーカ湖(Lake Tanganyika)を渡り、隣国ブルンジに入っていたことが分かった。ブルンジ警察が26日に明らかにした。なんだけど。たしかコンゴ民主共和国も北朝鮮とつながりがあるんだよなあ。つか、アフリカでは労働新聞や平壌放送ではおなじみの国なんですが。……海外安全ホームページ……うわぁ。ブルンジ側って真っ赤じゃないですか。>●危険度レベル4を発出している東部地域などにおいては,依然として反政府勢力による地元住人に対する虐殺,誘拐などの非人道的行為の発生が報告されているため,渡航は絶対に止めてください。……「まだまし」レベルってことですかい……
2018.01.27
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ケントさんのフェイスブックの発言で、ヤフーのリアルタイム検索に特定の人物が出ない、という話の検証~ケントさんの言うとことは違うかもしれないけど、「特定のアカウントの人物の発言」があかんのはどうかな、ということで調べてみた。この場合、ヘルプによると>ID:xxxxxx id:xxxxxx「xxxxx」というユーザーの投稿(ツイート(つぶやき)やFacebook、Instagramの投稿)を検索できます。「ID:xxxxxx ○○○」または「id:xxxxxx ○○○」で、「xxxxxxというユーザーの、○○○が含まれる投稿(ツイート(つぶやき)やFacebook、Instagramの投稿)」を検索できます。 ID:YahooSearchJPid:YahooSearchJP@xxxxxx @xxxxxx「@xxxxxx」で、「xxxxxxというユーザー宛てのツイート」を検索できます。「@xxxxxx ○○○」で、「xxxxxxというユーザーあてで、○○○が含まれるツイート」を検索できます。 @YahooSearchJP@YahooSearchJPこの二種類あるんだけど、前者、ともかくその人が発言したことが出るか。ケントさんの指定したのと比較。× ケント・ギルバート @KentGilbert01× 百田尚樹 @hyakutanaoki× 有本 香 Kaori Arimoto @arimoto_kaori ○ 上念司 @smith796000○ 石平太郎 @liyonyon○ 竹田恒泰 @takenoma× 小坪慎也 @kotsubo48 × 美しい日本の憲法をつくる国民の会 @kenpou1000○ 文化人放送局 @Bunkajin_tv○ チャンネルくらら @chanelcrara× それでも反日してみたい(青林堂) @hasumi2943100× テキサス親父 日本は世界一だ!宣言 @texas_sekaiJP× はすみ としこ @hasumi29430098× そうだ 難民しよう!(青林堂) @hasumi29430099○ カミカゼ@mynamekamikaze ×のときもある× アメリカから見た日本 @yamatogokorous× 5newspaper @_5newspaper○ アノニマス ポスト @anonymous201504 × CatNA @CatNewsAgency× 以下略ちゃん™@ikaryakuchanちなみに自分でやってみたら、出るときと出ないときがあったなー。あとワタシがフォローしている中の右系で出てこないかた。根戸ウヨ子【公式】@neto_uyokoRyuichi-shigaki・やまざくら会@RyuichiShigaki田山さとし@battery_brides辺野古誌@team_henoko タクラミックス@takuramix 沖縄サンゴハート@sango810 東トルキスタン情報収集bot@et_info_jpえら呼吸速報@erasoku1 thx4311@平壌運転@thx_4311Radio Free Asia認証済みアカウント@RadioFreeAsia REIKO CHIBA認証済みアカウント@CHIBAREI_DURGA 新唐人テレビ(日本)@ntdjp Share News Japan@sharenewsjapan朝鮮進駐軍bot@cyoushingun ←出るときもあるEast Turkestan Daily@EastTurkDaily Abdugheni Thabit@AbdugheniSabit Voice of Uyghurs@VoiceUyghur WorldUyghurCongress認証済みアカウント@UyghurCongress Nobie@NobieTsukakoshi Free Tibet (bot)@z_shokunin日の丸子&君が代子。新垢@Yuu14Sunplas彼方 (かなた)@16backdoorもえるあじあ(・∀・)@moeruasia日本の心@panda3091NorthKorea Newz@NorthKorea_Newz林 智裕@NonbeeKumasanカイカイch|카이카이ch@kaix2ch……ちょ、ちょっと疲れたのでこのくらいで。まあわかりやすいのは「ウヨ子ちゃん」「東トルキスタン」「ウイグル関係」「もえるあじあ」「シェアニュース」「チベット」「ちばれいこさん」「新唐人テレビ」「辺野古誌」あたりかなあ。国内政治じゃないね。基本。たぶん。ワタシのアカウントも結構あかんのだけど、まあこんだけ混在させてりゃなあ。まあ単にRT量多すぎて確認求められたことが多かったから、という可能性もあるけど。ただしDAPPIさんのように影響多くても関係ない場合もあるわけで。一人で短時間で調べられるのはこんな範囲かな。皆自分のアカウント調べてみてねー
2018.01.23
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「太平洋戦争」って言い方は、この日からなんですよねー。少なくとも国民にとっては。ということで朝日の縮小版。朝日の場合は、表裏で。で、この翌日から「太平洋戦争史」が連載始まったんだよな。↓大きさはこのくらい。読売新聞(当時は「読売報知」)は見開き。ごたごたもあったし……ともかく全紙やったわけだ。ところでここクローズアップ。縮小版の拡大だから見にくいけど。この時点では南京、2万人って出てますがな。東京裁判でもこの程度だったんだわ。で、読売報知も翌日から同じくらいの大きさで連載が始まるんですな。文章に差があったかは写真比較できるぞ。それと同時期に「眞相はかうだ」が放送されだしまして。これに関しては、国立国会図書館ライブラリに資料もありやす。桜チャンネルで解説。【日いづる国より】水間政憲、「眞相箱」の真相はかうだった![桜H27/8/21]櫻井よしこさんの本もおすすめ。GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く 戦後日本人の歴史観はこうして歪められた (小学館文庫) [ 櫻井よしこ ]
2018.01.19
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……日記やら小説で出しているウチの親父という人はだな、前にグラビアをきちんとまとめていた(金になったわ!)のことも書いたが、こういうものも収集していてだな。朝日新聞の(名古屋版だが)中国関係の記事を、まあこれでもかとばかりに綺麗にスクラップブックに貼り込んでありましたわ。一番古い奴で昭和42年3月。ワタシが生まれる前どすわー。でまあ、記憶によると、小学生のときは延々続けていたから、40冊近くあるそれの何処かには本多勝一の「中国の旅」もあるかもしれないな!とりゃず最初の42年のブックににあった記事↓どうレポしているかフンイキをつかんで欲しいざんす。こういう事件があったぜ。で、当時の「栗田特派員」は半日人民解放軍にお邪魔してきたそうだ。実に肯定的な文章!銃剣術訓練は「日本流に」ですと。何をやらせたんだ。こういう連載もあった。「粛清」まずあるまい?笑わせるぜ。当時の特派員。現代の北朝鮮は今でもこういうことをしているわけだな。権力があった当時の江青の記事。書きぶりに意図とか推測が見えるぜ。以下ズーム。推測だよな? これって。ただ最近の文章よりは巧みだな、さすがに。現在のアレは酷すぎる。意図が透けて見えるようじゃお終い。
2017.12.14
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朝日毎日と読売産経とかはまあ左だ右だと色々あるんだけど。まあここでは「なんであんな書き方(文体とか文章の癖とか文章の流れとか)なんだ?」という疑問を解決するために、Wikiソースですがwww調査。まあ時系列とか用語の面でそんなにあまり齟齬が無えよな、ということでそのまま使ったというか。研究という姿勢じゃねえので調べものレベル。なのでまあ、>引用してあるのは、いちいち書かないけどウィキです。はい。比べてみるのは、朝日・毎日・読売・日経・産経・中日/東京。そもそも論の場合、まずこれを出しておきたい。https://ja.wikipedia.org/wiki/ 大新聞と小新聞>明治時代初期(1870年代 - 1880年代)に行われた、新聞の二大別。 知識階級を対象に政論を主体としたものを「大新聞」、 庶民向けに娯楽記事を主体としたものを「小新聞」と呼んだ。>後発の小新聞の方が大新聞より売れたので、大新聞も小新聞的記事を載せるようになり、小新聞も社会状況に遅れないよう論説などの記事を充実させたため、両者は次第に近付き、呼び分けも消滅した。そもそもこういうわけ方がされていた、ということ。明治時代、「知識階級」と「庶民」の間にはもの凄く深いなんとやらがあった。ちなみに庶民向けのそれは、ようすんに瓦版流れです。絵入り新聞とか。だから「面白おかしく」も入るけど、基本ファクトを載っけていたのはこっちでしょう。一方、「政論を主体」という大新聞は、基本的に「こうあるべし」「~についてこう思う、こうであるべきだ」という論調になりやすかったのではないかと。そういう前提。じゃあ当時どういう新聞が大新聞・小新聞だったか。>京浜地区で政論を主張する知識階級向け新聞には、横浜毎日新聞(1870年1月(明治3年)創刊)・東京日日新聞(1872年5月創刊)・郵便報知新聞(1872年6月創刊)・朝野新聞(1874年9月改題新出発)・東京曙新聞(1875年改題新出発)↓大新聞庶民向けの娯楽新聞も、>読売新聞(1874年11月創刊)・平仮名東京絵入新聞(1875年4月創刊)(のち、東京絵入新聞)・仮名読新聞(同11月創刊)など続々と現れた。↓小新聞毎日(当初は東京日日)はこの時点で既に「大新聞」。政論の新聞。読売はこの時点で「小新聞」。庶民向けの娯楽新聞。でも「そもそも」新聞って言葉は何なのか。「新聞」Wiki>清朝末期に欧米人が中国で「newspaper」を発刊し、現地の中国人たちもこれを真似て新聞を発刊した際、古来の「新聞」という言葉を当てて「新聞紙」と呼んだ。>日本語には明治時代に英語の「news」に相当する訳語として、この中国語が取り入れられ、新聞の語源http://gogen-allguide.com/si/shinbun.html 「新しく聞いた話」ところで。朝日。>京阪地区の小新聞には、浪花新聞(1875年12月創刊)・朝日新聞(1879年1月創刊)などがあった。当初は小新聞だったらしい……何故だああああ。というとこで朝日の流れ。>1879年1月25日 大阪において、1部1銭、4ページ建てで創刊。 1888年7月10日 東京の『めさまし新聞』を買収・改題し、『東京朝日新聞』に「めさまし新聞」系。>1884年5月11日 星亨が自由党の機関紙として『自由燈』を創刊。1886年1月14日 『燈新聞』と改題。1887年4月1日 『めさまし新聞』と改題。1888年7月10日 大阪の朝日新聞社が買収。『東京朝日新聞』と改題の上、新創刊。ということは、そもそもが政党機関紙から始まっているわけですね。つまりこれは「大新聞」部分なわけだ。大阪のほうは>1879年1月25日 大阪・江戸堀(現在の大阪市西区江戸堀)で『朝日新聞』創刊。 1889年1月3日 大阪本社発行の新聞を『大阪朝日新聞』と改題。 1904年1月5日 コラム「天声人語」が掲載開始。吸収したほうの朝日新聞は小新聞だったってことだな。では毎日。>1872年3月29日(明治5年2月21日) 『東京日日新聞』、東京浅草の日報社から創刊。 1882年 『日本立憲政党新聞』大阪で創刊。 (1885年、『大阪日報』と改題。さらに1888年、『大阪毎日新聞』と改題)>1906年 大阪毎日新聞社、東京の『電報新聞』を買収、同紙を『毎日電報』に改題して東京進出を果たす。 1911年 大阪毎日新聞社は日報社を合併(『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』の題号はそれぞれ変更せず)。大毎発行の『毎日電報』を『東京日日新聞』に吸収させる>1936年 『東京日日新聞』が『時事新報』を合同。 1943年1月1日 東西で異なっていた題号を『毎日新聞』とする。つまり毎日は、大新聞としてスタートして、他社を飲み込んで大きくなったということだな。これをも少し細かく。大毎。>1876年2月20日に前身紙である『大阪日報』が西川甫の手により創刊。 その後、日本立憲政党(自由党系の地域政党)が『大阪日報』を買収 1882年2月1日、『大阪日報』が言論弾圧に遭い休刊 代替紙として『日本立憲政党新聞』を創刊。>政党機関紙の草分け的存在であり、民権派の政論新聞であった 1884年日本立憲政党も解党 『日本立憲政党新聞』は翌1885年9月1日に『大阪日報』と題号を戻して政論新聞の幕を閉じる。 1887年10月には兼松房治郎に買収されて実業界の機関紙に転換>1888年11月20日に『大阪毎日新聞』に改題。 1906年、東京の『電報新聞』を買収の上、『毎日電報』に改題して念願の東京進出を果たし、1911年には歴史と伝統をもつ『東京日日新聞』の日報社を合併。『東京日日新聞』を承継して『毎日電報』をこれに合流させ、東京の拠点を強化。つまり、大阪で政党機関紙→政論新聞→実業界の機関紙→他社吸収の流れ。朝日→東京の政党機関紙+大阪の小新聞毎日→大阪の政党機関紙+東京の大新聞で、戦前はこれが「二大紙」になる。さて読売。>1874年11月2日 合名会社「日就社」から「讀賣新聞」創刊。初代社長は岐阜県出身の子安峻。創刊当時は1日おき発行の隔日刊紙で、漢字によみがなを振った画期的な庶民のための新聞だった。 1875年 日刊紙に移行。>1904年5月7日〜1905年9月29日 本紙直接購読者を対象に、電報料読者負担で重大事件の速報を電報で伝える「電報通信」サービスを行う。 1906年10月2日 現在のスポーツ面にあたる「運動界」欄を新設。 1914年『身の上相談』(現在の『人生案内』)連載開始。>4月3日 現在の生活家庭面(くらし面)にあたる「よみうり婦人附録」新設。 1917年12月1日 商号を「日就社」から「讀賣新聞社」に改称。 1924年2月25日 関東大震災後の経営難から、前警視庁警務部長、後の衆議院議員、正力松太郎が買収。>1925年11月15日 「よみうりラジオ版」新設(テレビ・ラジオ欄=番組表の先駆け)。 1931年6月1日 社説の掲載を開始。 1934年12月26日 大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)創設。 1942年8月5日 新聞統制により、報知新聞社を合併。「讀賣報知」に改題。>読売新聞は、「文学新聞」として知られた。分かりやすい新聞、だれでも読める新聞を目指しただけでなく、西郷隆盛戦死の号外を自決した当日に出すなど早くから電信の導入をおこない、1877年 (明治10)、発行部数は2万5千部を突破して、早くも日本最大の発行部数を誇った。途中で統合された「報知新聞」。>郵便報知新聞1872年(明治5年)7月15日(6月10日 (旧暦))前嶋密らによって「郵便報知新聞」が創刊された。草創期には旧幕臣の栗本鋤雲が主筆を務め、藤田茂吉・矢野龍渓(文雄)らの民権運動家が編集に携わったり、寄稿を行ったりした。>1877年(明治10年)に西南戦争が勃発すると当時記者であった犬養毅による従軍ルポ「戦地直報」を掲載している。1881年(明治14年)矢野龍渓は大隈重信と謀って同社を買収。犬養毅・尾崎行雄らが入社し、立憲改進党の機関紙となった。当時記者だった原敬はこれに反発して退社している。>政論新聞(大新聞)は自由民権運動の退潮とともに人気が低下。1886年(明治19年)に同社に迎えられた三木善八は漢字の制限や小説の連載などを行い、新聞の大衆化を図ることになる。>1894年(明治27年)に三木善八が社主に就任、同年12月26日「報知新聞」と改題した。>1898年には案内広告のはじまりである「職業案内」欄が創設された。1904年(明治37年)には川上貞奴の写真を掲載、これは日本初の新聞写真であった。1906年(明治39年)には夕刊の発行を開始する。1913年(大正2年)の第一次護憲運動では政府系と見られて群衆の襲撃>明治末から大正にかけて東京で最も売れた新聞で、東京五大新聞(東京日日・時事・國民・東京朝日・報知)の一角を占めた。1930年には講談社の野間清治に買収され、販売方針を見直す等経営努力を重ねたが、結局振るわず1941年に講談社は撤退。>戦時下行われた新聞統合により、1942年、讀賣新聞に合併された。「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は「讀賣報知」に改題された。ちなみに>題号は、江戸時代に瓦版を読みながら売っていた「読売」に由来する。だの、「報知新聞は独立独行不偏不党の高等絵入新聞なり」と、郵便報知→報知の時に宣言してたりする。ちなみに「新聞小説の時代」においては、読売も報知もルビ入り、小説が盛んな新聞とされている。ただし読売の読者層が知識人・学生・文学愛好者、報知が「新聞講談を愛読する教育水準の低い階層に多数の読者を見出していた」と、山本一利氏の本を引用。「大衆紙」であることを選んだといえる。まあ読売に関しては、戦後の争闘とか色々ありつつ、ナベツネの時代に現在の傾向になったよな、というのはあるけど、「読みやすさ」に関しては筋金入りなのだ、ということがいえてる。日経は。>1876年12月2日:三井物産の発行する「中外物価新報」として創刊。週刊。 1885年7月:日刊化(日曜日・祝日の翌日は休刊)。 1889年1月:「中外商業新報」に改題。 1905年:解散、野崎廣太の個人事業として、存続。 1942年11月1日:「日本産業経済」改題。ここはもうそもそもが経済紙ですからして。で、産経。これが実はかなり新しい。>1933年(昭和8年)6月20日 - 前田久吉の経営する夕刊大阪新聞社から『日本工業新聞』として大阪市で創刊される。 1942年(昭和17年)11月1日 - 新聞統制で愛知県以西の産業経済専門紙を統合して『産業經済新聞』となる。戦前記述はこれだけ。で、前身の大阪新聞。>1922年7月9日、大阪府西成郡天下茶屋(現在の大阪市西成区天下茶屋)で新聞販売店を経営する前田久吉が、旬刊「南大阪新聞」を創刊。 1923年6月1日に日刊化され、「夕刊大阪新聞」に改題。>1933年6月20日、産経新聞の前身である「日本工業新聞」を僚紙として創刊。 1939年3月6日、日本工業新聞の発行元が「株式会社日本工業新聞社(現・産業経済新聞社)」に分社化。 1940年に「関西中央新聞」、翌1941年に「関西日報」、「大阪日日新聞」等を統合。>次いで1942年7月1日に「大阪時事新報」と合併し、「大阪新聞」として新発足する。では「時事新報」。>かつて存在した日本の日刊新聞である。1882年(明治15年)3月1日、福澤諭吉の手により創刊。>その後、慶應義塾大学及びその出身者が全面協力して運営した。戦前の五大新聞の一つ。創刊に当たって「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。1936年(昭和11)に廃刊になり『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)に合併された。一方「大阪時事新報」。>1905年3月15日、時事新報が大阪に進出し、「大阪時事新報」を創刊。 1920年6月、大阪時事新報社は東京の時事新報社に合併。 1923年8月、再び大阪時事新報社として独立。 1930年3月、神戸新聞社に買収され、同社の系列会社として新発足する。>1931年8月1日、京都日日新聞社と共に神戸新聞社に合併され、京阪神の新聞トラスト・三都合同新聞株式会社が誕生。同社大阪本店となり「大阪時事新報」を継続発行。>1940年7月30日、三都合同新聞株式会社は解体。元の神戸新聞社に戻り、大阪時事新報は再び独立会社・大阪時事新報社として発足。しかしまもなく読売新聞社が株式を買い集め、経営に参加する。1941年12月8日、「夕刊大阪新聞」と合併。「大阪新聞」となり終刊。ようすんにそーいうバックボーンのあるごたまぜの「新しい新聞」ってことになる。ところでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ サンケイ新聞事件において、>元来サンケイ新聞は反共主義を掲げていたが、この反共主義は何処から来たのかなと思ったんだけど、>逆コース真っ只中の1958年(昭和33年)、(中略)前田が住友銀行頭取・堀田庄三に財界からの支援を要請した結果、国策パルプとフジテレビジョン両社の社長を務めていた水野成夫が代表取締役に就任し、財界による「はっきりした保守新聞」の要望に応える形での紙面刷新・転向と改題を行った。かな。結構意識的な保守紙として存在しているのね。ちなみに東京・中日。>1886年(明治19年)前身である『無題号』『金城だより』を創刊。 1887年(明治20年)『無題号』が『愛知絵入新聞』に改題。 1888年(明治21年)『愛知絵入新聞』が『新愛知』に改題。 1906年(明治39年)『名古屋新聞』を創刊(金城だよりを継承)>1942年(昭和17年)9月1日 政府の新聞統制により、『新愛知』と『名古屋新聞』が合併して『中部日本新聞』を創刊。 1956年(昭和31年)2月23日 東京に進出し『東京中日新聞』を創刊。 中日新聞東京本社の旧社屋(東京都港区港南)。現在は解体。>1960年(昭和35年)11月1日 株式会社北陸新聞社と提携して『北陸中日新聞』を創刊。(『北陸新聞』を買収の上改題。) 1963年(昭和38年) 『東京新聞』(1942年、『都新聞』と『國民新聞』が合併して創刊)を発行する東京新聞社の経営に参加。結構東京新聞が参加したの遅かったのね。ちなみに東京新聞の経緯。>1884年(明治17年)に東京・京橋で「今日(こんにち)新聞」として創刊されたのが始まりである。1886年(明治19年)には「都(みやこ)新聞」と題号を改めた。>福田英助が経営にあたって以降、社会面や花柳・芸能界の話題、そして市況情報や文芸欄を充実させる等大衆を重視した紙面作りで部数を伸ばし、優良経営を誇った。しかし、戦時体制下は国策に沿った「一県一紙制」により1942年10月1日、「國民新聞」(1890年創刊)と合同その「國民新聞」。徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊した日刊新聞。>1890年(明治23年)2月1日に第1号を発行。発行会社は国民新聞社。 徳富が雑誌『國民之友』の発行に成功したのちに創刊した日刊新聞で、最初は「平民主義」を唱え、平民主義の立場から政治問題を論じていた。>やがて、三国干渉問題を契機に帝国主義的国家主義の立場を取るようになる。明治後期から大正初期にかけては山県有朋、桂太郎、寺内正毅、大浦兼武ら藩閥勢力や軍部と密接な関係を持ち、「御用新聞」とも呼ばれることもあり、政府系新聞の代表的存在となる。>日露戦争終結時には世論に対して講和賛成を唱えたため、1905年(明治38年)9月5日には講和反対を叫ぶ暴徒の焼き討ちに遭ったが(日比谷焼打事件)、またしても憲政擁護運動で第3次桂内閣を代弁する論陣を張ったため、1913年(大正2年)2月11日に護憲派民衆の襲撃にあっている>(大正中期に大衆化が図られ、東京五大新聞(東京日日・報知・時事・東京朝日・國民)の一角を占めるようになるが、関東大震災の被害を受け社業は急激に傾いた。その後もいろいろ経営的にはありまして>1933年(昭和8年)5月1日、窮した根津は経営を名古屋の新愛知新聞社(現・中日新聞社)に譲渡。>新愛知傘下を期に編集方針を国防・軍事に重点を置くこととなる。1941年(昭和16年)度には黒字決算に漕ぎ着け、再建に成功した。1942年(昭和17年)、戦時体制下により『都新聞』と合併することとなり、10月1日『東京新聞』が誕生した。>同時に新愛知は東京から撤退を余儀なくされ、『東京新聞』の主導権は都新聞側が握った。>経営不振に陥り、1961年(昭和36年)東京新聞社は社団法人から株式会社に改組したがその甲斐なく、1963年(昭和38年)、再び新愛知新聞社の後身の中部日本新聞社(現・中日新聞社)が支援都と国民という性質の違うものが中日の前進がバックについて……統合前にも絡まりはあったんだな。中日の母体の一つ「新愛知」。>1886年(明治19年)3月 - 前身となる無題号創刊 1888年(明治21年)7月 - 大島宇吉により創刊 1933年(昭和8年)5月1日 - 東京の國民新聞を譲り受け。(國民新聞は昭和17年に都新聞と合併し「東京新聞」になる)ここでびっくりが。>1936年(昭和11年)1月 - 名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)を結成。 1942年(昭和17年)9月 - 名古屋新聞社と合併し、株式会社中部日本新聞社設立。日刊紙「中部日本新聞」創刊。つまりドラゴンズはそもそも「新愛知」が作ったということなんだな。では一方の「名古屋新聞」。>1886年(明治19年)3月 - 前身となる金城たより創刊。 1894年(明治27年)4月 - 真金城に改題。 1896年(明治29年)7月 - 中京新報に改題。>1906年(明治39年)11月 - 小山松寿が中京新報を譲り受け、名古屋新聞を創刊。 1936年(昭和11年)1月 - プロ野球チーム名古屋金鯱軍を結成(現存せず。中日ドラゴンズとは無関係)。 1942年(昭和17年)9月 - 新愛知新聞社と合併し、株式会社中部日本新聞社設立。まーどっちも野球チームだけは共通していたのね。しかし何でああいう論調かと思ったら、>幹部に岡田三兄弟の三男・昌也がいる(長男はイオン社長・元也、次男は民主党(現・民進党)元代表・克也)。というのがwww直接関係しているのかは不明。☆個人的けつろん。朝日・毎日→小新聞に大新聞が吸収された形だけど戦前の「二大紙」。吸収合併だけど「大新聞」色強し。読売→小新聞+方針を変えた大新聞の足し算。戦前から「読みやすさ」重視。日経→そもそも業界紙。産経→歴史が新しい烏合の衆。当初から反共。中日・東京→何でそうなった?
2017.10.26
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「ふう…」 バスを降りて、歩いて二十分。日射しは強し。雅之はスポーツバッグの中からタオルを取り出し、額に浮かぶ汗を拭く。あと十五分は歩かなくてはならない。 駅で買った緑茶のペットボトルを口にあてるが、もうこれで最後だ。呑んだ分だけ汗は流れる。水は身体を通り過ぎるだけだった。 まさかあそこで終点だとは思わなかった。判っていれば、もう一本ペットボトルを購入していたところだ。 だがバスの運転手はこう言った。「何、駅で見て来なかったの?」「いえ、実家に戻るものだからてっきり…」「あー前のままだと思ってたんだなあ。残念だねえ。一昨年だったかなあ。あそこより先は、廃止されたんだよ」 実家は、その廃止されたバス路線を使った所にある。最後に来た時には、一日に三本、朝昼夕しか通っていなかった。この不況の世の中、当然と言えば当然かもしれない。「…仕方ない、歩いて行きますよ」「悪いねえ」「いえ知らなかった僕も悪いんですから」 そう言って、彼はバスの終点で降りた。 目の前には山山山。圧迫される様な大きさが迫ってくるその方向へ彼は歩き出した。焼けたアスファルトはやがて白茶けた砂利道へと変わる。じりじりと太陽の光が、半袖シャツから出た腕をじりじりと焼く。 きっと今夜は痛むだろうな、と彼は思う。普段、温度調節の利いた職場で働いていて、皮膚も軟弱になっているに違いない。幼い頃は、こんな暑い日にも平気でランニングシャツに半ズボンで走り回っていたというのに。 やがて彼は砂利道からあぜ道へと降りて行った。そして更にその向こう、ざくざくと左右に雑草の生い茂る道へと進む。 道と言っても、自然にできたものであり、何の整備もされている訳ではない。ただ人が踏みならし、自転車や耕耘機が通るために、植物が生えないから道となっているだけの所だ。 むっとする匂い。夏草の、特有のにおいだ。 昔はよくこの辺りで友達と遊んだ。何も無いところだが、走り回ったり、「基地」を作ってヒーローごっこをするには充分だった。 背の高い雑草の道を越えると、目的の場所があった。 広くて古い平屋の農家。そしてその前には、決して広くは無いが、手入れの行き届いた畑。 その中で一人の女性がトマトを足元の竹籠に入れていた。きゅうりと茄子が上にはみ出している。ああきっと底には冬瓜が入っているんだな、と彼は思った。 相変わらずだ。 薄紫の、木綿の農作業用のフードにスモック、足には紺のズボンに長靴。そして手には軍手。「ただいま」 雅之は声を張り上げた。すると女性はのっそりと顔を上げた。「あれ」「休みが取れたんだ」「えらく急だね。電話の一本も入れてくれればいいのに。歩いたろ」「うん。バスがあそこで切れてるとは思わなかった」「昨日にでも電話入れてくれれば、山下さんにでも頼んで、迎えに行ってもらったのに」「いいそんなの。…本当、たまたま休みが取れたから、来ただけだし」 ふうん、と母親は軍手をつけた手を突っ張らせる様にして、汗びっしょりの息子を見た。彼女はよいしょ、と一度屈むと、竹籠を両手で持ち上げた。「何も無いよ」「うん」 ちりん、と風鈴が音を立てた。 家の窓は全開だった。都会とは違い、防犯も何も無い。たった一人の住人が外に出ていようが、東西南北全ての窓が開け放たれていた。「そうでもしないと、湿ってしまう」 彼女は土にまみれた軍手を取ると靴箱の上に置いた。そして台所に入りながらフードを取ると、流しで勢い良く手と顔を洗った。「お前も洗ったらどうだね」「うん」 流しには白い石鹸がぽん、と置かれている。母親は昔からそれ一点張りだった。もっとも、村の雑貨屋にはそれしか無かったから、というのもある。 だが。「あれ、石鹸変えたの」「ああ…最近は便利だね。ほれ、共同購入ってのがあるだろう? あれでひとまとめにして買っておくんだよ」 ほらそこに、と協同組合のものらしい箱が置かれていた。「丸さ屋ではもう買わないの?」「ああ…あそこ、一昨年、旦那さんが亡くなってね」 言いながら母親は洗い晒しのタオルを差し出す。「…へえ…」「まあ実際、わたし等の様に、本当に近くて、車なんか使わない連中しか来なくなってたし…息子も外に出てったしね」「じゃあ仕方無いね」 雑貨や文具、化粧品が置かれ、薬局も兼ねていたその古い店のことを、雅之はふと思い出す。小さい頃には、そこでプラモデルも買った記憶もある。「カネ長も辞めちゃってさ」「あそこも!」 そこは食料品店だった。「スーパー」ではないが、一応何でもそこで揃う、「総合食料品店」というものだった。「だから今じゃあ…そうだね。牛乳や肉や魚は皆組合の車が回ってくるし」 おかげでこんなでかいもの、久しぶりに買ってしまったよ、と母親はぽん、とクリーム色の大きな冷蔵庫を叩いて笑った。「肉や魚は、できるだけ冷凍しておくんだよ。ああ、パンもだ。と言ってもそうそうパンを食べる訳じゃあないよ。時々さ。毎週回って来るから、牛乳なんかも間に合うし。野菜はねえ、うちで作った分で充分だし。…まあ別に不自由はしていないね」「…ならいいけど」「どんどん人が減ってる。…いっそわたしも自動車の免許、取ろうかねえ」「今からかい?」「何だね、バイクだったら今でも乗ってるよ」 確かにそうだった。母親は昔から125CCの業務用バイクを乗り回していた。周りでは「ポンポン」と呼ばれていたカブだ。「今でも乗ってるんだ」「ああ。テクニックは結構なものさ。さすがに雨の日にゃこの道じゃあ無理だけど」「事故には気をつけてよ」「お前こそ、車の免許取らないのかい?」「苦手なんだ。それに向こうじゃ必要ないし」「まあそれもそうだねえ」 ほら、と居間の畳の上に座り込んだ雅之の前に母親は麦茶を置いた。外の熱気に、既にコップは汗をかいていた。ありがと、と彼は受け取り、一気に飲み干した。おかわり、という彼に母親は丸い肩をすくめた。「一息入れたら、お父さんにご挨拶しておきな」「判ってる」
2005.07.31
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図書室の彼女。屋上の彼女。彼の知っているどちらの彼女も、垣内の言う「仕事」とは結びつけることができなかった。「高村先生は、あいつのこと、どう思いましたか?」 力が抜けた高村の手を、垣内はそっと自分の肩から外した。「…珍しい女だ、と思いませんでしたか? 動きがとろくて、ちょっといつもと違うことが起こると、すぐにパニック起こしてしまって、本の世界が大好きで、…友達の一人も居ないような、そんな女生徒」 ああ、と高村はうなづいた。「何故だと思います?」「何故って」「俺達は、小学校卒業認定試験で、『R』と『B』のランクをつけられたんですよ」「『R』? …『B』? …何だよそれは?」 高村は問い返した。そもそも、そんなランクの存在すら、彼は知らない。 垣内はくく、と笑う。「先生には判らないでしょう。判る訳、無いんです」「そりゃあ、判らねえよ!」 ばん、と屋上の扉が、開いた。 高村はその声に、慌てて段差から飛び降りた。「山東君! 大丈夫か?」「…大丈夫じゃ、無いですよ…」 はあはあ、と息をつきながら、山東は扉にもたれかかる。その身体に近付くにつれて、熱気が漂って来るのが高村にも判る。顔も身体も、汗まみれだ。「おい垣内、どんな事も、言わなきゃ、判る訳、無いだろ!」 山東は叫ぶ。叫びながら、背後の様子を伺っている。 あ、と高村は気付いた。 よく見ると、山東は扉にもたれかかっているのではない。背中で、腕で、腰で、力一杯、扉を押さえているのだ。 やがて、ばん! と大きな音が、扉から響いた。 う、と山東は顔を大きく歪めて、歯を食いしばる。「…おい垣内、言ってみろ…あれは、何だ?」 うめく様な声で、垣内に向かって問いかける。「おい!」「…山東君、一体、後ろに…」 高村はおそるおそる、扉のガラス窓に視線を向ける。予想はできる。だが。「…あれは…」 一瞬、山東は何かを言いかけて、首を横に振った。「あれは、少なくとも、まともな、人間じゃ、ない」 がぢゃーん。 ガラスが、割れた。くぅ、と山東の喉から、反射的に、悲鳴が漏れる。「山東君!」「先輩!」 高村は慌てて山東の腕を掴み、その場から引きずり出した。「…痛!」 雨で濡れているせいか、ガラスの破片が皮膚や服からなかなか払うことができない。脱いで下さい、と垣内は言った。「できるだけ、…そっと。…来ます」 何が、と言われた通り、山東のシャツを脱がせながら、高村は問いかけた。 ばん! と大きな音がして、扉は前のめりに、倒れた。錆びた蝶番が二つとも、衝撃ではじけ飛んだのだ。「みぃつけた」 少女は壊れた扉をぐっ、と踏みつける。きゃはははは、と不自然に明るい笑い声が、辺りに広がった。「高村さん、どいて下さい! あれの目標は、まだ、俺だ…」 あ、と思う間も無く、山東は駆け出した。まだ、肌の上には細かい破片が残ったままだった。「ふふ。いーいかんじ」 楽しそうに声を上げ、少女はその場にかがみ込んだ。そして大きなガラスの破片を拾い上げると、ぐっ、とその手に掴んだ。 う、と高村はうめいた。そんなこと、したら。 だが少女は、何でも無い様に破片を握りしめ、山東を追い、走り出す。 髪を振り乱し、スカートをひるがえし、屋上の縁にとん、と足を付き、ジャンプし、笑いながら山東に跳び蹴りを加える。 ここが屋上であることなど、まるで考えてもいない様だった。 ちっ、と山東も落ちていたガラスの破片を投げるが、軽くかわされる。 高村は呆然として、その様子を眺めることしか、できなかった。あれが村雨なのか。 彼は自分の見ているものが、信じられなかった。彼の知っている村雨は、動きも言葉も穏やかな少女でしかなかった。 今まで見てきたそれは、全くの嘘だったというのだろうか。やっぱり自分の目は、信じるに値しないものだ、というのだろうか。 不安が、一気に彼の中に鈍く広がって行く。「うわ!」 山東が叫ぶ。 二人はいつしか取っ組み合いになっていた。どう見ても、山東の方が、力は強そうに見える。筋肉もある。背もある。重量は言わずもがなだ。 だが。 ぐっ、と両手で二人は押し合った。ただ、それだけだった。 それだけで、彼女は、山東をその場に、押し倒してしまったのだ。 山東に「女だから」という隙があったとは、高村には思えない。彼は言っていた。「少なくともまともな人間じゃない」と。ただの少女と、思っているはずが、ない。山東は本気を出していたはずだ。「くぅっ!」 山東の声が苦痛に漏れる。背中や首の後ろに細かく残った破片が、転がった衝撃で、彼の皮膚を切り裂いているのだろう。「…おい、止めさせろよ!」 やはりその場から動かない垣内に、高村は再び掴みかかる。「おい、これも『仕事』だ、って言うのか?」 強く、両肩を揺さぶる。だが垣内は高村から目を逸らし、口をつぐみ続ける。 くそ、と高村は組み合う二人の方へと顔を向けた。「村雨さん!」 高村は思わず、叫んだ。
2005.07.30
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誰だ? と高村はきょろきょろと辺りを見渡した。 頬を冷たい水が滑って行く。耳に頭に延々と流れて行く水の落ちる音も聞こえる。…雨が降っているのだ。 そこには誰も――― いや、居た。 斜め前に、見覚えのあるすっきりとした姿勢の男が腰掛けているのに、高村は気付いた。「気が付いたんですね、高村先生」 バリトンの声。「垣内君…」 常夜灯の光もここまでは上手く届かないせいか、表情までは判らない。ざらりとした、濡れたコンクリートに手をつき、高村は身体を起こそうとする。「…痛っ!」「すぐには起きあがれないと思いますよ。鳩尾をやられたんでしょう? あの人の腕は半端じゃないから」「あのひと?」 高村は、自分の状況を思い返す。 確か、図書室へ、山東の応戦に行こうとしていたはずだ。そしてその途中で出会ったのは…「…南雲…先生か?」 眉を寄せ、高村は問いかけた。だが垣内はそれには答えなかった。それとも、雨の音で、かき消されてしまっていたのかもしれない。 そう言えば。高村は慌ててポケットの携帯を取り出す。自分を起こしたのは、この声ではない。そして山東の声でもない。一体。 受信したナンバーを確かめる。見覚えがあるような、気がする。だがすぐには思い出せなかった。「…それで連絡を取り合ってたんですね、山東先輩と」 ふらり、と垣内は高村の手の中の光に目をやる。ああ、と高村はうなづいた。「高村先生」 あ? と高村は顔を上げた。「どうして足を突っ込んでしまったんですか? …遠野さんも、山東先輩も…先生も」「どうして、って」「余計なことをしてくれた、と言ってるんですよ」「余計なこと?」 ええ、と垣内はうなづいた。余計なこと。余計なことなのだろうか。高村は自分の中で何かがふと、揺らぐのを感じた。 不意にぐいっ、と垣内は高村に掴みかかった。階段室の壁に、身体を押しつけられる。「余計なことなんですよ! …あなた達が、下手に動かなければ、…俺達は、こんな無駄なことをしなくても、済んだのに…」 ぎり、と歯ぎしりする様な音が、高村の耳に飛び込んでくる。「…今年の『仕事』は、これで終わりのはずだった…俺達は、最後の一年を、精一杯、一緒に過ごすことが、できたのに…」「…『仕事』?」 その言葉に高村は引きつけられる。「『仕事』って、…何だよ!」 その問いには垣内は答えずに、顔を逸らした。「さっき南雲先生も言ってたけど、何が君等の『仕事』なのだよ? 一体!」 おい、と力の抜けた垣内に、今度は高村が手を伸ばした。両肩を掴み、強く揺さぶる。だが垣内は、視線を逸らし、それをただ、振り解こうとするだけだった。高村は力を込めた。この問いには、どうしても、答えてもらいたかったのだ。「…校内の、ファッション・リーダーを殺すことなのか?」「ファッション・リーダー?」 その言葉に、一瞬垣内の力が緩む。「…ああ…そういう言い方をするのかも、しれませんね。ファッション・リーダーか…はははは」 垣内は笑い声を立てた。「ファッション・リーダーねえ…いいなあ…その言い方、すごく、いいなあ…そうかあ…俺達は、ファッション・リーダーを消してた、って訳かあ…」 ははははは、と垣内の乾いた笑い声は、しばらく続いた。頭をがくん、と後ろに倒し、彼はしばらく、笑い続けた。 雨が、彼の顔に、強く降り注ぐ。その様子をまるで、楽しんでいるかの様に、高村には見えた。「…おい」 大丈夫か、と高村は掴んだままの垣内の肩を大きく揺さぶった。「おい! 垣内君!」「…ははははは…大丈夫ですよ、高村先生。別に俺、どうかしてしまった訳じゃあないですから…いや、もともとが、どうかしてるんだっけ…」「しっかりしてくれよ、垣内君!」「…そうまだ、大丈夫だ。そう、あなたの言う、ファッション・リーダーを消してたのは、俺達ですよ。…でも俺達には、その意味は、別に重要じゃないです」「重要じゃ、ない?」 高村は思わず頭に血が上る自分を感じた。今まで自分達が考えてきたことは、意味が無いことだったのか、と。「その意味を決めるのは、俺達じゃ、無いんですよ」「…じゃ、一体誰なんだ」 垣内は首を軽く前に落とす。ぽとぽと、と水滴が、髪から途切れることなく、落ち続けている。「俺達の上ですよ。俺達はただ、ターゲットとされた生徒を誘い出し、その手で殺して、箱詰めすることだけなんです」「箱…詰め」 ―――俺達ヒラの教師が知ってるのは、ある日いきなり朝、校長室に黒い箱と黒い封筒がやって来ることだけさ――― 高村は島村の言葉を、思い出していた。「…もしかして、俺が、先週の月曜日に玄関でつまづいた、黒い箱は…」「そうですよ」 さらり、と垣内の口から言葉が流れ出た。「箱の中には、あの前日に俺達が殺した日名が、入ってたんです」「!」「…行き先は、…ああ、でもこれを言ったら、もう全く取り返しがつかなくなりそうだ。俺達の役割は、そう、それだけ、なんですよ。それが誰であろうと…」「俺達…村雨さんも、…か?」「ええ」「何故…」 高村には、想像ができなかった。
2005.07.29
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「仕掛けた」のは、その翌日だった。 山東は日名や遠野の携帯ナンバーを知っている。日名は取り巻きの多くにナンバーを知らせていたが、遠野はほんの一握りの相手にしか、教えていなかったという。 日名の携帯が、見つからなかった様に、遠野の携帯も、見つかっていなかった。 あの、血ではないかと思われた染みのあった化学室。できる範囲で彼は探し回ったが、何処にもそれは無かった。南雲にも、落とし物は無かったか、と問いかけたが、その返事はNOだった。 もっとも、高村は南雲の返事を半分信用していなかった。何となく、引っかかるものが、彼女の言葉にの端々にはあるのだ。 そしてその「仕掛けた」反応が、今日来たのだ、と山東は言ってきた。『今夜八時半、図書室、だそうです』 図書室。ふと、村雨の姿が浮かんだ。あの場所を荒らされたら、彼女は困るのではないだろうか。できれば、そこで何も起こらないで欲しいものだ、と高村は思った。 と、その時、携帯が震えた。彼は慌てて着信ボタンを押した。左の耳に直接、ノイズの様なものが飛び込んでくる。山東との計画だった。お互いそれで、状況を通信しあう、と。『…何で図書室、なんだ?』 大声で、山東が叫んでいるのが聞こえる。彼はわざわざ声を張り上げて、自分の居る位置を高村に教えようとしていた。 その他の声は無い。おそらく、暗い部屋の中、気配がしたから彼は動き始めたのだろう。 別の声が、耳に入る。『だあって』 はっ、と高村は思わず立ち上がった。 この声は。 彼はそっと扉を開ける。音を立てずに、そろそろ、と購買分室から、同じ階の、廊下の突き当たりにある、図書室まで進まなくては、ならない。 この声には、聞き覚えがあった。 だが、どちらの声なのか、彼には判らなかった。 あの時の、声。 六年前の五月、あの雨の日、踊るように、暴れていた少女の声。 そうでなければ、彼女の。 生まれ変われたら、ひまわりになりたい、と言った、彼女の。 どちらかの声に、聞こえる。どちらの声にも、聞こえる。 どっちなんだ? 彼は足を速めた。知るのは怖い。どちらであったとしても、そうであって欲しくない、声。 なのに。『ここはあたしの、場所なんだもーん』 あはは、と笑い声が、耳に飛び込む。自分の場所。自分の場所。 ―――図書室。 …村雨乃美江。 高村は、立ち止まった。 何で彼女が。『もう、いいのぉ? 殺しちゃってぇ』『ああ』 そしてもう一つ、男の声が。 あの時見たのも、少女と―――少年だった。 声は違う。確実に違う。 でも男の声は、変わる。特に、中等の間には、確実に。『とってもお偉い、伝説の生徒会長サマだよ。やりがいがあるだろ』『そぉねえ』『何でお前が! 垣内!』 はっ、とそこで高村は立ち止まっていた自分に気付いた。 山東も明らかにショックを受けているはずだ。一年間、彼は垣内と生徒会をやってきている。 なのに彼は、ちゃんと、相手が誰なのか、自分に伝えて来ているのだ。できる限りの冷静さをかき集めて。 何をやってるんだ、オレ! 高村は慌てて歩き始めた。急がなくては。急がなくては。 その間にも、垣内の言葉が聞こえてくる。『…先輩がたが、悪いんですよ。『仕事』は一回で終わりだ、と思ったのに』『仕事…?』 「仕事」?『でもあたしは楽しかったわよぉ』 村雨の声が混じる。『あの遠野サマがあたしなんかにあの身体を簡単にズタズタにされてくのよぉ。綺麗だったわよぉ』 くくく、と笑い声が飛び込んでくる。嘘だ、と高村は次第に早足が駆け足になって行く自分を感じる。嘘だ嘘だ嘘だ。村雨が、そんなことを言うなんて。 だけど。その一方で彼は思う。あの時の少女だったら、ああ言ってもおかしくはないだろう。二人の少女の頭を、簡単に潰してしまったのが、少女の方だったと、すれば。 じゃあ何で、君が。 高村の疑問は、直接村雨に対するものに変わっていた。 階段の前を通り、図書室まで数歩、という所だった。もう少しで、彼女に、彼女自身に理由が聞ける。彼は自分が音をひそめなくてはならないことも忘れていた。 だから、気付かなかったのだ。「…帰ったんじゃなかったの? 高村先生」 図書室の前と、職員棟をつなぐ吹き抜けの渡り廊下から、声がした。「…南雲先生」「確か、図書室以外の全部の部屋に鍵は掛かっている、という報告を受けたはずなのに。一体あなた、何処に居たんでしょうねえ」 窓から差し込む常夜灯の灯りの中、南雲は腕を組んだまま、ゆっくりと高村に近づいて来た。「…南雲先生こそ、何故、今ここに居るんですか」「あら高村先生、私が、先に聞いているのよ。こんな時間に、何で、帰ったはずのあなたが、ここに居るの、って」 ゆっくりと、しかし圧倒的な迫力で、彼女は高村に迫ってくる。 確かこの場所は、最初に南雲とまともな会話を交わした場所だった。『…南雲さん? 南雲さんがそこに居るのか?』 高村の声が聞こえたらしい、山東の声が飛び込んでくる。そうだ、自分は自分で、彼女となるべく話さなくては。「せっかく、『仕事』の尻拭いを今日で終わらせてやろうと思ったのに」「『仕事』! 『仕事』って何ですか!」「あなたまで巻き込んでしまって悪い、とは思うのよ、だけど『仕事』なのよ、私達の生きていくための」「だから『仕事』って一体」「そんなこと」 闇の中からぬうっと、拳が飛び出して来る。 ―――次の瞬間、彼の身体と、意識は、飛んだ。*『…おい高村君起きろ! 起きろ! 起きやがれ! 起きんか!!!』 はっ、と高村は目を開けた。
2005.07.28
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「…例えばさ、遠野さんは『スタア』で『ファン』が多かったじゃない。そういう感じ?」「そうですね…うん、多少それもある。ただ、それだけじゃないんですけど」「と言うと?」 高村は眉を寄せた。「日名は遠野程には人気は無いです。まあ、男にはもてましたがね。ただ、あいつがクラスで何かやらかすと、同じことがぱーっ、と広まるんだ、と自慢…してましたね」「ファッション・リーダー」「あ、それです。そういう感じ」「…」 そういうものなのか? と自分が口にしたに関わらず、高村はやや首を傾げた。「ファッション、じゃないかもしれないけれど、クラスや部活の、何かそういった、良くも悪くも、そういう流行りを作り出してしまう奴…だったそうですよ。その『転校』した奴と直接知り合いだった奴に聞くと」 何か呑みますか、と山東は言った。さすがに喉が乾き掛けてきたのだ。お茶がいいな、と高村は答えた。ふとその時、彼は森岡のことを思い出した。「…そう言えば、森岡先生と島村先生、って、同じ趣味持ってるんだなあ」「同じ趣味?」「折り紙」「ああ、折り紙ですか」「知ってた?」 はい、とコーヒーカップに緑茶を入れて渡しながら、山東はうなづく。「そうですね…森岡さんの折り紙好きは有名ですから。で、それにあの珍しいもの好きの島村さんが」「面白い、と」 ずず、と高村は茶をすすり、なるほどね、とつぶやいた。「それでですね、高村さん」 再び座った山東は、ぐい、と身を乗り出した。「その『転校』した奴の傾向が『ファッション・リーダー』だとすると、遠野はそれには当たらないんですよ」「当たらない? でもファンは多いじゃないか。実際ボイコットする連中も」「でもファン、って言うのは、所詮ファンですよ。それを好きな自分、って奴は忘れていません」 そう言えば、と高村は元部の態度を思い出す。遠くから見ているだけの「ファン道」もあると言った。「だけどファッション・リーダーの場合、その人物を好きである必要はないんです」 そのあたりが日名と遠野の違いなのかもしれない、と山東は表現した。「『転校』―――つまり、その場所から移動させられているのは、そのファッション・リーダー的な生徒です。だとしたら、遠野の『転校』は、もしかして、他のそれとは違うんじゃないでしょうか?」「違う?」 と言うと? と高村は切り返した。「例えば、口封じ」 さらり、と山東は言った。「口封じ」「ええ。『いつものこと』で終わらせようとしたのに、遠野が騒ぎ立てて、『いつものこと』にならなくなってしまった。俺達の関係を甘く見ていた向こうの『失敗』じゃないですか? これは」 うーん、と高村は腕を組んだ。「遠野は『予定』に入っていなかった。だから、あいつのご両親は、学校に押し掛けてくるだけの時間があった。そう考えると、結構つじつまが合いませんか?」「…かも、しれない。…ただ」「ただ?」「どうして、だろう?」 その言葉を、高村は吐き出した。「誰が、だ? 何でそんな『計画的な』ことがあちこちで、何年も、起こっている? どうしてだ?」 山東は首を振り、真っ直ぐ高村を見据えた。「…高村さん、今はそれを考えては動けませんよ。その理由は、俺達が無い頭を絞って考えるより、相手に直接聞いた方が早い、と思いませんか?」「…相手に」「おそらく、次の標的は、俺です」 おい、と高村は腰を浮かせた。だが淡々と、山東は続けた。「それに、俺の場合、家族は遠方に居る。その位、きっと『向こう』は知っているでしょう。だったら、もう後は俺一人消せば、今回の件で騒ぎ立てる奴も居なくなるだろう、と思うんじゃないですか?」「…だけど生徒達は」「『ファン』は、結局、自分のために相手を好きなだけですよ。泣いて、騒いで、それで終わりです。それでいい。だけど」 自分達は、そういう関係では無かったのだ、と山東は暗に含める。「…だから、こっちから仕掛けてみるつもりです」「危険だ」 即座に高村は言った。「承知です」 何を言われても。どう説得されても自分はてこでも動かない。そんな気迫が、山東の静かな口調からは、感じられた。「…OK。じゃあオレも何も言わない。オレは、何を手伝える?」「いいんですか?」「オレの問題でもある、ってさっき言ったろう?」 そうですね、と山東は笑った。共闘ですから、と。
2005.07.27
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彼はボールペンを持った手を強く握りしめる。みしみし、とペンがきしむ音が、高村の耳にも飛び込んでくる。「それだったら、俺は喜んで驚いてやります。笑い者になってもいい。あいつ等が無事で帰って来るなら。だけど」 ぴし、とボールペンが、音を立てて折れた。中の芯だけが、かろうじてその形を保たせていた。「本当に、…あの二人が、君は、好きだったんだ」「ええ」 山東は迷うこと無くうなづく。「俺が苦しい時に、あいつ等は俺を力づけてくれた。だからあいつ等が困った時には、何が何でも、俺にできることなら、いや、できないかもしれなくても、守ってやりたかった。そうするつもりだった。…なのに、何です?」 どん、と山東は、折れたペンを握ったまま、座卓に両手の拳を思い切り落とした。折れたプラスチックが、手に食い込んで赤くなっていた。「俺は何にもできなかったじゃないですか」 高村は黙って聞いていた。下手に掛ける言葉など、彼には見つからなかった。 彼にはそれほど強烈に思いを寄せる様な友人は、いなかった。 いや、その友人を選ぶ自分の目を信用できなかった。 どれだけ相手が親切にしてくれようが、その行動の何処までが本当で、何処までが嘘なのか、判断するだけの自信が持てなかったのだ。 そんな自分が、この男に掛けられる言葉など、何処にあるだろう? ただできるのは、握りしめすぎて、とうとう血が流れている山東の手から、壊れたボールペンをゆっくりと離してやることくらいだった。「…すみません」「いや、いいよ」「本当のこと言うと、高村さんを巻き込んでしまって、申し訳ない、と思うんです。これは俺達の」「…いや」 高村はペンのかけらをゴミ箱に入れながら、首を横に振った。「オレの問題でもあるんだ。いや、君以上に、これはオレの問題かもしれない」「記憶のことですか? でもそれは、忘れてしまえば」「忘れられないんだ。結局」 高村はぱら、と手を払った。「忘れられるものだったら、もうずっと昔に忘れてしまってる。でも結局それはオレにはできなかった。そしてずっと、オレ自身を縛り続けてる。それこそ、君が、友達を無くした悲しみとは違うところで、オレはオレの、カタをつけたがっているんだ」「高村さんは、高村さんのカタを」「そう」 彼はうなづいた。「こう言ってしまうと、卑屈だと思うんだけど、オレは君の様に、自分の行動に自信を持ってやっていけない。せいぜいがところ、カラ元気だ」「だけど俺だって」「それだけ大事なひとが居る奴、に自信が無い訳ないだろ?」 それは、と山東は口ごもった。「オレにはそういうひとが居ない。友人ができても、彼女ができても、結局何だかんだで離れていってしまう。いつもそうだ。オレがどれだけその相手のことを思っている、と思っても、それが何処かずれてしまう。オレはそれが嫌で嫌で仕方なかったんだ」「…昔の記憶が、それに関係していると?」「判らない。…でも、可能性は、ある」「可能性」「だからオレはオレで、君を利用しているのかもしれない」「利用、ですか」「そう、利用。だから君がオレに悪い、と思う必要は無い」 そうですか、と山東は苦笑した。そして、そこのばんそうこう取って下さい、と彼はいきなり言った。高村は唐突な話題の転換に少し困惑しながらも箱を渡すと、巻いてくれますか、と山東は更に付け足した。 高村はばんそうこうの一枚を取ると、傷ついた山東の右手にぺたり、と押し当てた。「あのね、高村さん」 山東はそのばんそうこうに視線を置きながら、言った。「利用じゃ、ないですよ。こういうのは」 そしてひょい、と顔を上げた。「共闘、って言うんですよ」 「共闘」することになった彼らは、その晩作戦会議を延々続けた。結果、高村はそのまま山東の部屋から学校へと行くことになった。 服を貸しましょうか、と言われたが、クラスメートのスーツよろしく、まるでサイズが合わないので、それは遠慮した。 「会議」は明け方までかかった。だがおかげで何とか方針が決まった。 と言うより、もう次の朝から、臨戦態勢に入らざるを得ないだろう、というのが二人の共通の見解だった。 日名と遠野、そして二人の家族の失踪。これを生きてるとみるか、死んでいるとみるか。 最悪の状況を考えよう、と山東は言った。「最悪の状況」「ええ」 既に皆死んでいる。それが最悪の状況だった。「まず何で日名が殺されたか」 高村は首を横に振った。「これはさっぱり判らない。君には判るか?」「いいえ」 山東も同じ様に首を横に振る。「ただ、週末、大学の友人達に聞いてみたんですよ。ざっと二十人位」「…すごいな」「と言っても、クラスメート、ですがね」 日名や遠野の様な親しい友人ではないのだ、と彼は暗に含めていた。「…やっぱり何処の学校でも、一年に一人は、何処かの学年で、『転校』する奴が居たそうです。それはまあ良くあることだ、と皆そう気にはしなかったんですが、ただ」「ただ?」 ぐい、と高村は身を乗り出した。「目立つ奴だった、ということです」「目立つ奴? 君みたいな?」「と言うか…何って言うんでしょうね…」 山東は言葉を探す。高村は何かヒントになる言葉は無いか、とまた言葉を探す。
2005.07.26
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「ずいぶんと島村先生と仲が良くなったようじゃないの、高村先生」 くすくす、と南雲は笑う。「仲が良くなった…と言うんでしょうか」「だって最初の時のあなたの反応からしても大違いよ。それに今の見てたら誰だって思うわよ。島村先生からしたらこれはすごく気に入った部類よ」 そうですか、と答えつつも、高村の気持ちはやや複雑だった。「…あ、で、今聞こえちゃったんだけど、あなた今日は、早く帰るの?」「ええ」 高村はうなづいた。「明日担当の一時間は、前にやった所の手直しの様なものですから…どちらかというと、体調万全で、ちゃんと生徒に向かいたくて…」「そう」 南雲はうなづいた。「それはそれで、良いことじゃない? じゃあ、定時で帰るのね」「定時よりは少し遅くなるかもしれませんが」「それでもここ最近の七時八時上がり、なんてのは無しよ。私もそろそろちゃんと定時少しで切り上げたいわ。お肌の曲がり角なんだし」「南雲先生、女性のお肌のピークは十代だそうですよ」 島村が声を飛ばした。「うるさいですよ!」 彼女は腕を振り上げながらも笑った。高村もつられて笑ってみせた。* それにしても。 高村は扉近くの床に座りながら、ぼんやりと窓の外を見上げた。 星が全く見えない。 雲行きが怪しい。雨が近いのだろうか。ゴールデンウイーク明け以来、この時期にしては安定して晴れていたのに。 低気圧が迫っているのかもしれない。森岡が腰が痛む、とつぶやいていた記憶がある。風向きも多少変わって来ていたようだ。 しかし実際のところ、どの程度の雲行きなのかは、この時間でははっきりとは判らなかった。 彼はぴ、と携帯で時間を見る。手元だけがぼっ、と明るくなる。午後八時。そろそろだろう、と彼はズボンのポケットから、携帯用ワイヤレスイヤホンを取り出し、左耳に入れた。 耳にすっぽりと入れる形なので、髪を下ろせば、入っていることは判らない。 そして白衣のポケットからは、一枚の地図を取り出す。 校内の平面図だった。その昔、山東が校内改革を進める時に、何でも、当時の工事業者から建築の平面図をコピーさせてもらったのだ、という。 さぞ工事業者もびっくりしただろうな、と高村は思う。一介の学生が、数十年前の工事図面が無いか、と掛け合いに行ったのだ。結果的には見つかったし、それは首尾良くコピーできたが、そうそう手に入るものではない。山東の熱意の程が感じられた。 そして更にそのコピーが、今、高村の手の中にあった。 建築図面は、距離が正確に表されているから、欲しかったのだ、と山東は言っていた。何処に購買分室があれば便利なのか、それが可能な場所は何処なのか、割り出すのに必要だったのだ、と。 しかし実際、先週末彼の部屋で見たその地図には、もっと様々な、細々としたことが書き付けられていた。*** 先日、遠野の自宅の探索を終えた二人は、そのまま山東のアパートへと直行した。「自宅じゃないんだ」 六畳一間の部屋に入った時、高村は思わずそう口にしていた。「ええ、俺、中等の途中から一人暮らしなんです」「適性検査のせい?」「まあそんなものでしょう。それに親父が転勤族で、ちょうど俺が後期部に入る頃、東北の方に行ってしまったんですよね」 ああ、と高村はうなづいた。確かにそれは遠い。遠すぎる。 六畳一間のアパートには、無駄なものは無かった。 高村自身の部屋よりずっときちんと整頓されていた。ただ、本だけはやや雑多に広がっていた。量があるのだ。それもまた、ちょっと見ただけでも「節操なし」と言える様な、多彩なジャンルである。「…全部読んだの?」 思わず彼は感心して問いかける。「そりゃあまあ、読むために買ったんですし」 それはそうだった。「と言っても、古本屋とか、友人からもらったものもありますよ。それにほら、そいつは図書館の本だし」 確かに、指された厚い本のカバーには、バーコードのついたラベルが貼ってある。「こんな高い本、買えませんよ。所詮貧乏学生ですからね」「それはオレだって同じだよ」 ははは、と二人は笑い合った。「…で、気の合ったところで、本題に入りましょうか」 ああ、と高村も表情を引き締めた。「まず、整理してみましょうか」 山東は新聞の広告の裏に、ボールペンで箇条書きにしていった。 ゴールデンウイークの日名の「転校」。家族の「引っ越し」。 月曜日に高村がつまづいた「黒い箱」。 遠野の「転校」。家族はそれを知らず、その後に「引っ越し」があった。しかし「引っ越し」たのは家族だけらしい。 島村の意味ありげな言葉。黒い箱と封筒の伝説。 高村の記憶。「考えたくはないです」と山東は眉を寄せ、口を歪めた。「けど、目をそらしてはいけない、と俺は思うんです。それが冗談であって、実はあいつらが何処かに隠れていて、俺を驚かせよう、という計画だったなら」
2005.07.25
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「明日までなんですねー、高村せんせー」 帰りのHRが終わった時、教壇に早瀬や、他の生徒が寄って来て、口々に言った「明日まで…」 高村は天井を向いて、思い返す。「うん、そう言えば、そうだな」「何だよ、高村さん、忘れてたのかよ」 へへへ、と男子生徒の一人が笑った。「うるせえな、その位、オレは真剣だったんだよ、覚えとけ」 けっ、と高村は笑いながら毒づく。だがすぐにその笑いは止まった。「うん。そうだなあ…二週間なんて、長い長いと最初は思っていたけど、過ぎてみると、あっと言う間だったなあ」「ここは居心地良かった?」 教壇に腕を乗せて、女生徒の一人が問いかける。「良かった…うーん、…考える暇、無かったような」「何だよそりゃ」 男子生徒がげらげら、と笑った。「君等そうやって笑うけどな、いつかこっちの身にもなってみろって言うんだ」 口を歪めて高村も応戦した。うーん、と中には考える生徒も居た。おそらくは、教職志望の者だろう。「ま、何にしろ、明日までだし、それまでは、オレもきっちりとやるからな」「南雲さんの授業より、あたし、好きだったなー」「それは南雲先生の前じゃ言うなよっ!」 高村は慌てて声をひそめた。ういっす、と男子生徒達が声を揃えて返事をしたので、その場は大笑いになった。* 二週間か。 高村は職員室に向かう廊下を歩きながら考える。 確かに、よく考えてみると、授業に関することは楽しかった気がする。 あまりにも、他に惑わされることが多すぎたせいかもしれない。幸か不幸か、他の馬鹿馬鹿しさが目について、本分の楽しさが印象つけられてしまったのかもしれない。 とにもかくにも、自分には合っている職だろう、と高村は思った。おそらく、自分はこのままこのコースを進むのだろう、と。 それこそ、森岡の言う通り「あと一押し」なんて無いのかもしれない。気がついたらそれが天職だった、と気付くのかもしれない。それならそれも、いいだろう。 彼はそう思い始めていた。 ただ。 ぷる、と図書室の前に差し掛かった辺りで、ポケットの中の携帯が震えた。「はい」『高村さん?』 山東の声だった。*「高村先生、明日までだねー。俺は寂しいよっ」 島村の本日の眼鏡は、丸い金属のフレームだった。そう言えば、このひとはこれが一番似合うかもしれない、と彼は思う。「そうですねえ、島村先生とももうお会いできないと思うと、オレも寂しいですよ」「ふうん。君もずいぶん、口が上手くなったねえ」 にやり、と島村は笑う。「まあ口の上手さは教師には大切だしね。良いことだ良いことだ」 ははは、と何処からか、金銀きらきらの扇を取り出し、ぱたぱたとかざす。 一体このひとは何処から何を取り出しているんだ、と本気で高村は判らなくなった。「それはそうと、今日も残ってくの? ここのとこ、ずっと夜遅くまで、化学準備室に残っていたそうじゃないの」「あ、今日は早く切り上げようと思います」 少しばかり、彼は声のヴォリュームを上げた。「明日で最後ですから、今日はゆっくり睡眠をとって、明日最後の授業と、HRを堪能しようと思いまして…」「余裕だねー、高村先生。よし、そんな君に俺からとっておきのお手紙をあげよう」「お手紙?」「折り紙愛好会連合へのご招待状」 そう言いながら、島村は小さな小さな薄桃色の包みを彼に手渡した。「…これが、ご招待状、ですか?」「そ」「もしかして、森岡先生も入ってる、っていう…」「おや、よく知ってるじゃないの。ただし、ちゃあんとこれを破かずに開けられない奴には、その資格は無いからね」 とん、と島村はその包みを人差し指でつつく。「はあ…」「あ、またそんな顔をしてる。この『手紙のバリエーション』はね、全国の旧女子高生が、長い伝統の上に作り上げていった、現代折り紙の中の一つの形なんだよー」 それはそうかもしれないが。 高村はちょこん、と手の真ん中に小さく乗ったそれを見つめる。どうやら、薄手の桃色の紙をこれでもかとばかりに小さく複雑に折り畳んだものらしい。「ま、返事は明日もらうからね。それと」「ま、まだ何かあるんですか?」 高村はやや逃げ腰になる。「高村先生の、携帯の電話番号が欲しいなー」「携帯の」「これは個人的に」 にやり、と島村は笑った。「…」 個人的に、って一体何だろう… 不可解に感じつつも、高村はじゃあ、と近くのメモに自分のナンバーを書いた。「ちなみに俺のはこれね。何か役立つかもしれないからさ」 役立つ…役立つだろうか。高村は非常にそれは疑問だったが、とりあえずメモを受け取り、ちら、と見ておいた。「忘れないでよ、ご招待状」「はいはい」 そう言いながら高村はズボンのポケットに「ご招待状」を入れ、今日明日限りの自分の席についた。
2005.07.23
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「ねえ『R』…ちょうだい」 ベッドの上に身体を伸ばし、女は男に向かって腕を伸ばす。「今日は、駄目になったよ」「…また?」 薄暗い照明の中、女は悲しげに男を見つめた。「…ねえ、今度こそ、これで、終わりよね」「ああそうだ。もう、これで本当に終わりにしたい」「そうね」 女はふっ、と微笑む。「…ごめんね、あたしなんかと組まされて」「おい!」 悲しげに笑う女の両肩に、男は手をかける。「あなたはあたしと違って頭もいいし、このまま『B』を続けていれば…」 もうやめろ、と男は女を抱きしめた。「そんなこと…言うんじゃない」「どうして? だって、ねえ、もう、ずっと前から判ってたことじゃない。いまさら」「それでも、だ。俺は聞きたくない」 女はつ、と男を離す。そして真っ直ぐ見据えた。「ねえ、あたしはあなたが好きよ。大好きよ。あなた知らなかったかもしれないけれど、最初にあたしを止めて、ぎゅっと抱きしめてくれた時から、ずっとあなたのこと、大好きだった」「…過去形で、言うなよ」「だけど、どうしようもないことだわ。これで最後だと思ったから…あたし達、気を抜いてしまったのね。手順も何もかも、大狂い」「いいや、俺のせいだよ、手順は…だから、あんな奴が、変に気付きだした」「…気付いているのかしら、本当に」「おそらくは」「…でも、あのひとなら、あたし、構わない様な、気がする」「気に入っている、ようだな」「そうね…」 女は目を伏せる。「あたしと楽しく話を続けてくれるひとなんて、ここに来てから、誰もいなかったもの」 男は女の普段の様子を思い浮かべる。そう、確かに女はいつも、一人だった。「あなたはあたしと親しくしてみせることはできなかったし、それに近くにあたしが居ては、あなたもうっとうしいでしょ」「おい」「本当に、今度生まれ変われるなら、ひまわりがいいなあ。あんな綺麗で、そう、あのひとのような、ぱっとした明るい、綺麗な、居るだけでその場が明るくなるような、そんな花だし。そうしたら、あたし、ずっと空ばかり見て過ごせるでしょ? 今の季節から、真夏の青い空まで、ずっと」「だったら俺は太陽になるから」 女の言葉を遮るかの様に、男はそう言った。「お前がそうなりたいって言うならそれはそれでいい。だったら、俺はひまわりが空に追い続けるって言う太陽がいい」「…何で…そういうこと、言うの」「お前は、お前のままで、充分、俺は」「やめて!」 悲鳴の様な声を上げると、女は耳を塞ぐ様にして、大きく首を横に振った。「それじゃあ駄目よ。あなたはあなたに似合った、普通の可愛い女の子と、楽しくやって行くべきなのよ。…六年も、あたしの後始末ばかりを、…ずっと、ずっと…」「言うな、って言ったろ!」「だけど」「本当に嫌だったら、お前も放って、俺は屋上からでも飛び降りてた。その位、『仕事』は俺も嫌だった。だけど、お前だから―――」「…」「お前だったから…」
2005.07.22
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「確かに今朝、引っ越し業者が来た、と隣の人は言っています。だけど、トラックを見ただけで、運び出す様子まではいちいち見ていないそうです。…建て売り住宅ですよ? こんな『引っ越し』がありますか?」 高村は首を横に振った。少なくとも、彼は、知らない。「『夜逃げ』でも、ちゃんと家財道具の基本は持ち出して行くはずです。だけど」 彼は慣れた足取りでさくさくと奥へと進んで行く。「ほら」 TVの下、ありふれたソフトラックの中に彼は手を入れる。「これ、何だと思います?」 山東は二つの巾着袋を取り出した。「…何?」「大切な、ものですよ」 さらり、と彼はベージュ色の絨毯の上に、その中身を空ける。「え」 銀行の通帳がざらざらと落ちた。印鑑を入れた袋がぽとり、と落ちた。「幾らどんな引っ越しや夜逃げでも…これを置いていきますか?」 まさか、と高村も思う。「…それじゃ、その親父さん、はそれを、本当にいざという時のために、君に教えて?」「ええ」 山東は大きくうなづき、出したものを元の場所に戻した。「日曜日、どうしてもあいつからの連絡が入らなかったら、月曜日、学校と警察に連絡する、と言っていました。だけど、日名の件があったから」「何か、あったら」「ええ、何か、あったら、と」 二人はその「何か」を具体的には言わなかった。いや、言えなかった。言ってしまうのが、怖い様な気がしたのだ。口にすれば、それがそのまま現実になってしまうような。「月曜日、そう言えば、確かに遠野のご両親が学校に、来た」「でしょう?」 出ましょう、と山東は高村をうながした。長居は無用だ、と。電気を消し、音を立てない様にして、二人は外に出る。「…本当に、何処もかしこも、同じ家なんだなあ」「ええ、時々気持ち悪い、とあいつも言ってましたがね」「気持ち悪い?」「マンションとか、ああいうものの中に住む所があるのならともかく、『家』一つ一つが、こうも同じ形をしているというのが、気持ち悪い、って」「でも、住み心地は良さそうな家じゃないか」「そうですよね。でも、住み心地ってのは、皆一緒という訳ではないでしょう?」「それは」「ちょっとしたことかも、しれないんですけど」 山東は鍵をかけると、それをポケットに入れた。そして行きましょう、と再び駅の方へ向かって歩き出す。「もし、あの家に人が引っ越してきたら、今そのまま、生活がすぐにできると思いませんか?」「…どういう意味だ?」「俺にも、まだうまく、説明ができないんですけど…何か、嫌な感じ、がするんですよ」「嫌な感じ」「高村さん、学校の方では何かありませんでしたか?」 山東は高村の方をじっと見た。「学校…学校ね」 ああ、と彼は大きくうなづいた。「島村さんから、変なことを聞いたんだけど」「島村…そういえばあの先生も、妙なとこ、ありますね」「教わったこと、あるのかい?」 ええ、と山東はうなづいた。「現代国語なんですがね、あんまり教科書を使わない授業で」「へえ」 それは初耳だった。「とにかく現代国語ができる様になりたかったら、四の五の言わずに本を読め、何だっていい、好きなものでいい、とにかく量を読め、というのがあのひとの主張でしたよ」「…そんなこと、あのひと言ってたのか…」 嫌味ばかり言う人か、と当初は高村も思っていたのだが。「口は決して良く無いですね。でも俺は、結構好きですよ」「そうなのかい?」「ええ。趣味や好き嫌いがはっきりしているし、あ、そう言えば、何故か好きな子は苛めるタイプなんですよ」「何だそりゃ」「子供っぽいでしょ」 くく、と山東は笑う。「嫌いなひとには、いくらでもご丁寧な言葉を吐けるけど、好きな奴の場合は、当初から苛めて様子を見ているんだ、と、日名の奴が良く言ってました。あいつ、そういうところ、鋭かったから…」「女のカン、って奴かな」「かも、しれませんね。…で、島村さん、あんたに何言ったんですか?」「ああ」 気を取り直し、高村は「黒い箱」の件を簡単に説明した。「で、よく考えてみたら、それと同じものかどうか判らないんだけど、オレが最初に来た月曜日? 先週だけどさ、オレ、教師用の玄関で、黒い箱につまづいてるんだよ」「つまづいて」「遅刻したからね。勢いあまって、突進してしまったんだけど、凄く重い箱らしくて、オレが転んで青あざ作っただけで、箱はびくともしなかったんだ」「…その『行き先』、高村さん、読みました?」「いや、そんな暇無かったよ。だってその日、朝礼があると思って、オレはもう焦りまくりだったし。だけど」 朝礼はあるはずだった。あの日。「…山東君、朝礼がいきなり中止になるってのは、あまり無いことだよな?」「そうですね。だいたい『重要なこと』があるから、するんです。だからそれが無いってことは」「あの朝、もっと重要なことがあった、ということ…だよな。実習生なんか、どうでもいいような」 黒い箱。黒い封筒。「…そう、島村先生、こう言ってたんだ。月曜日に。とうに引っ越していなくてはならないご両親が乗り込んで来ている、って。だから余計に大騒ぎになっている、って」「とうに引っ越していなくてはならない?」 山東は足を止めた。「ああ。だって教頭先生までが、ずいぶん焦っていたし」「…あの鉄面皮が?」 顔をしかめる山東に、嫌いだったのかな、と高村は思う。「と言うことは」「うん」「…高村さん、ちょっと俺の部屋、寄って行きませんか? 考えをまとめたいんですが」「仕事の道具も持ち込んでいいなら」「当然です」 大きく二人はうなづきあった。
2005.07.21
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電話で指定された駅で、山東は既に待っていた。改札で高村を見つけると、大きく手を振り、こっちだ、と合図を送る。「電話ではらちがあかないことなのか?」 そのまま早足で歩き出す山東に、高村は問いかける。ええ、と相手はうなづいた。「この駅、オレは降りたことは無かったけど、もしかして」「ええ、遠野の家の最寄りです」 だろうな、と高村は思った。 横を歩こうとしても、すぐにやや斜め前になってしまう男は、一分一秒が惜しいに違いない。 寝不足の身体には、この男の早足はややきついが、仕方ないだろう。高村は観念した。 山東は歩みを速めながらも、話をすることは忘れない。いや、それが目的の様でもあった。はっきりとした彼の言葉はしっかりと高村の耳には届けられた。「金曜日、あの時別れてから、俺は友達に急に呼び出されて、一度学校方面に戻ったんです」「学校?」「大学の方です。メールで、ノートを渡すから急いで来て欲しい、って来たんです。ほら、この件で数コマさぼっているから、覚えはあったんですよ」 うんうん、と高村はうなづく。道はやがて、住宅街に入って行く。同じ様な家が、同じ様な間を空けて建てられている街。「…少し気をつけないと、すぐに迷ってしまうんですよ」 山東はつぶやく。やっぱりな、と高村も思う。「それで?」「そう、それで一応出かけてみたんです。だけどそれは嘘でした。もっとも、発信源が携帯ナンバー以外だったから、多少怪しいとは思ったんです。ただ、学内のPCから、という可能性もあったので、一応出向いたんです。実際、俺の頼んだ相手の携帯は通じなかったし」 偶然かもしれませんがね、と山東は付け足した。「一時間ばかり、指定された、学校近くの本屋で時間を潰していたんですが、やって来る気配がまるで無いし、本屋も閉店だ、ということで引き返しました。そうしたら、いい加減時間も遅くなっていたので、俺もそのまま帰って」 こっちです、と山東は看板をチェックしてから角を曲がる。「そうしたら、気付かなかったんですが、留守電が入っていて。あいつからでした」「遠野さん?」「ええ。あいつも自宅からでした。後で電話が欲しい、ということで。さすがに夜も遅くなっていたので、携帯の方に電話したんです。だけど出なくて。仕方なく、留守電にメッセージだけ入れておいて」「で、その日はそれだけで」「ええ」 山東はうなづいた。「…で、翌日、もう一度、今度は家の方に電話したんですよ。…そう、ここです」 彼は一軒の家の前で立ち止まった。「ここが遠野の家です」 はあ、と高村は二階建てのその家を見上げた。こぢんまりとした、綺麗な家だった。ただ、決して隣の家と見分けがつくというものでもなかった。 正直、その付近一帯の家は、ほとんど全部が、同じ様な形、同じ様な色、同じ様なサイズのものだったのだ。違いがあると言えば、広くも無い庭に止められた車、門構えや柵の形、その周囲の植物、そういったものくらいである。「…確かに、これじゃあ迷うな」「でしょう?」 そして今、その目の前の家は、同じ顔をした周囲のそれとは違い、灯りが一つも点っていなかった。窓によっては、雨戸のシャッターが降りているところもあった。「…今朝からです」「今朝」「土曜日、俺は朝、電話したんです。そうしたら、あいつのお袋さんに、不思議そうに逆に問われました。俺のところに行ったんじゃなかったのか、って」 怪訝そうな顔で見る高村に、山東は付け足す。「ああ、一応、三人で公認の仲、でしたから。しょっちゅうお互いの家を行き来して、泊まったりもしてましたし」「それはまあ、いいけど…」 高村は苦笑する。「でも俺のところには、無論来ていません」「と言うと」「何でも、俺に呼び出されて、あの後、出ていったそうなんです。日名のこともあったんで、お袋さんも仕方ない、と思ったそうで…」「金曜日」「ええ」「でも、それから彼女は帰っていない、と」「そういうことです」 ぞく、と高村の背に、一瞬悪寒が走った。「俺は一応、あいつの携帯に何度も何度も掛けてみました。だけど駄目です。まるで通じない」 くっ、と山東は唇を噛む。「日曜日、もう一度ここへ来ました。だけどやっぱり帰っていない、と言います。おばさんはもう大変でした。あいつによく似た綺麗なひとなんですが、そのひとが、俺の前で、化粧も直さず、髪も整えず、赤い目で飛び出して来るんですよ。娘が帰ってきたんじゃないか、って。…で、やってきたのが俺で、力が抜けてしまって」 何となく、想像ができた。「で、その日は親父さんも居たので、三人で、少し話したんです。警察や学校に言うべきか、それとも、って」「それとも?」「日名の件と―――少々、高村さんの話も気になりましたから」「オレの?」「ええ」 山東はそしてそのまま、門を開けた。「…い、いいのか?」「大丈夫です。ほら」 山東の大きな手には、鍵が握られていた。そのまま彼は、入り口へと向かった。周囲を見渡し、そうっと扉を開け、高村を手招きする。「親父さんから、合い鍵を預かっていたんです」「また、何で…」「日名が『転校』した時のことを、親父さんに話したんです。家族ぐるみの付き合いだから、ここの二人も、日名のご両親がどういうひとであるとか、ある程度のことは知ってるんです。そしてお互い出した結論は、『転校/引っ越しなどする訳がない』」「わけが、ない」 高村はその部分を繰り返す。ええ、と山東は周囲を見渡してから、ぱち、と中の灯りを点けた。「ほらまだ、電気も生きてる。『引っ越し』だったら、電気は止められてもおかしくはないのに」「引っ越しって…」「…でしょう?」 目前に広がったのは、「引っ越し」などまるでしていない部屋だった。家具はもちろん、今朝広げていた新聞も、みそ汁をひっくり返したままの朝食も、テーブルにそのまま残っていた。
2005.07.20
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「…お久しぶりです、高村先生!」 昼休み、屋上に出向くと、村雨は満面の笑顔で高村を迎えた。可愛いじゃないか、と彼は思った。「久しぶり…久しぶり、かなあ」 よいしょ、とコンクリートの上に腰を下ろしながら、高村はつぶやく。「久しぶりですよ。だって、週末はさんでるし、先生、昨日来ないし」「ああ…」 確かに昨日は、遠野の件でばたばたしていたので、昼の時間そのものがずれ込んでしまったのだ。「それにしても、高村先生、今日元気無いですね、何か遅かったし…」「何っか、ねえ」 ふう、とコンビニで朝買ってきたおにぎりをごろごろ、と転がす。「授業やっていた方が気が楽って実習ってありかな、って感じだよ」「そんなに、それ以外のことも、色々あるんですか?」 村雨は眼鏡の下の目を丸くする。「あるって言うか…ほら、君と同じ学年の、遠野さん、知ってる?」「知ってるも何も、有名人ですから…」「うん、何か彼女のこととか、化学実験室で、妙な染みがあったこととか」「妙な染み?」 村雨は首をかしげる。「たぶんインクか何かを一気にこぼしたんだと思うよ。だけどあの机も隙間が狭いから、きっとこぼしたまま、拭けなかったんだな。ただそれを見て、五年生、少し騒いでしまって」「確かに、あそこの机って、掃除には向いてませんね」「うん。オレもそう思う。だけどまあ、別に動かす様に作られている訳じゃあないから、いいんだろうな。きっと校舎の解体でもした時には、下に凄い量のほこりが出てくるんじゃないかなあ?」 こんな風に、と彼は手で雲の様な形を作った。「…それで、遠野さん、結局、転校したんですか?」「転校…らしいね。オレにはさっぱり判らないけど。君等はどう聞いてるの?」「私達は、もう。急に自主退学した、とか転校した、とか聞く分ですよ」「そういうこと、良くあるのかなあ」「良くって言うか…でも一年に一人は、聞きますね。だいたい」「ふうん」 やっぱりあるのか、と高村は思った。 彼もまた、思い出していた。 週末、山東と会った後から、寝付きが悪くなっている。 そんな、眠りにつくまでの長い時間に、ずっと忘れていた記憶が戻ってくるのを感じていた。 確かに、自分が中等に居た頃も、そういうことはあった。確実にあった。ただ、小学校の頃程、頻繁ではないから、当時は疑問にも思わなかっただけなのだ。「…あのさ、村雨さんは小学校の時、あちこちに回された方?」「私ですか?」 そうですね、と彼女は空を見上げ、何度かうなづいた。「そう…でしたね。人並みには、何回か、学校変わりましたよ。でもそれなりに、最終的には、落ち着きましたけど」「人並みに、ね」「先生は、違うんですか?」「オレ等の頃くらいまでは、そういうのは無かったから。だからそう、転校は、確かにあの頃は多かったな」「それで、理系に?」「最終的にはね。君はもう、文系以外の何ものでもない、って感じだけどね」「そうですね。確かに、それ以外何も無いし…」 ふふ、と彼女はまた空を眺める。「そう言えば、先生、実習終わったら、また大学ですか?」 唐突に彼女は話題を変えた。「あ、ああ」「機会があったら、私、遊びに行ってもいいですか?」「それはいいけど…でも君、オレ化学だよ」 彼女と化学の接点が、彼には思い浮かばなかった。 ふふふ、と彼女は笑う。「ほら、何となく、縁が無いところだから、興味があるんです。私と化学って、似合わないでしょう? 知り合いでもなくちゃ、絶対入ることなんかできそうにない場所じゃないですか」 縁の無いところ、ね。あまり説得力のある理由とは思えなかったが。似合わないというのは納得が行くのだが。「いいよ。でもちゃんと、オレが実習終わったらね」「ありがとうございます。あ、じゃあ私の携帯の番号…」* 「何か君、本当に毎日毎日、忙しない実習になってきましたねえ」「はあ」 高村には、そう答えることしかできなかった。「…インク、ですか」 茶を前にしながら何かを折る森岡は、ふう、とため息をついた。はい、と高村はうなづく。「…と言っておいたんですが、ちょっと気になって、オレ、後でその床を水で拭いてみたんです」「水で。ほう。それでどうなりました?」「ほうろうの流しが、…赤黒…色に。溶けきってしまうと真っ赤に…」「赤黒色。ちょっとそれは、インクの色じゃ、ないような気がしますねえ」「ええ。ですので、ちょっと、お借りしたい薬品があるんですが」「ルミノール反応を見るんだったら、駄目ですよ」 即座に森岡は切り返した。だがその手の止まる様子は無い。「森岡先生」「それは、インクであるべきでしょう。だから駄目。…で、そのことは、南雲さんに言いましたか?」「南雲先生がご覧になっている授業で、見つかったんですが」 んー、と森岡は口元をきゅっと閉じると、ようやく手を止め、顔を上げた。「あんまり、先走るんじゃないですよ、高村君」「先走る、って」「物事は、なるようにしかならない、ということです」 それだけ言うと、森岡は視線をTVへと移した。この時間はローカルニュースの様である。「…全くもって、平和なニュースが多くて、いいですねえ」「え?」 不意のつぶやきに、高村はどう反応すべきか迷った。「昔、私がまだ子供や学生の頃なんてねえ、残酷な事件が多かったもんですよ」「はあ」「それも、中等に行く位の子供達が、意味も無く、人を殺したり。またそれを、TVの方も、これでもかこれでもかとばかりに報道したものです。動機とか、背景とか」「そうだったんですか?」「昔は、ね。まあ、政府の長期展望の教育改革も功を奏して、今はそういうこともほとんど聞かないから、いいじゃないですかね。いい世の中になったってことでしょう」 はあ、と高村はうなづいてみせる。だがどうしても、その口調からは、その逆の意味しか感じられなかった。「…おや、高村君、君の携帯、鳴ってませんか?」 あ、と彼はズボンのポケットに手を突っ込む。「よく判りましたね」「いや、画面が揺れるんですよ」 ああそうか、と彼は思う。音は立てない設定にしてあるのだ。「…はい?」『…高村さん、高村さん、遠野が…本当ですか?』「え?」 その声は。「山東君、…か?」 森岡の視線がちら、と高村の方を向いた。『…今朝、あいつの家を見に行ったら、いきなり鍵がかかってて』「まさか、また、引っ越した、とか」『そうですよ。見た訳じゃないけれど、隣の人が、昨夜遅く、何か、引っ越し業者が来たとか何とか…』 何だそれは。 高村もさすがにぞっとするものを感じた。遠野に関しては、昨日、学校に両親が怒鳴り込んで来ていたはずなのだ。つまり、「両親の引っ越し」に遠野がついて行った訳ではない。『高村さん、そっちで何か、判ることはありますか?』「オレには…」 ちら、と森岡の方を見る。「…後で会おう。また連絡する」 呼び止める相手の声を半分無視する形になって、彼は通話を切った。「…すみません、今日、今から帰ってもいいですか? 急用なんです」「急用」「…はい」「別にいいですけど、ちゃんと指導案は書いておいて下さいよ。南雲さんはどうも忙しそうで、君の相手はまるでできそうにない様ですから」 ありがとうございます、と彼は頭をさげ、それから一分も経たないうちに、化学準備室から飛び出していた。
2005.07.19
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「…全く大変な時に、君、来ちまったよなあ」 まるで大変ではなさそうな口調で、島村は頭の後ろで腕を組む。「まあだけど、こういう時に実習に当たった奴は、絶対に単位もらえるから、君は安心してていいよー」「…それ、慰めてくれてるんですか?」 あまりにも職員室が騒々しいので、高村は作業を図書室に移していた。南雲の様子がぴりぴりしていたので、化学準備室には近づく気にはならなかった、ということもある。 もっとも、今行った所で、誰も居ないことは判っている。南雲は最後に遠野に会ったということ、森岡は遠野の学年ということで、職員室に居るはずだ。「…だいたい何で、あなたここに居るんですか、島村先生」「空き時間なの。俺が居ては、邪魔?」「…少なくとも、気が散ります」「言う様になったねえ」 にやにや、と眼鏡を持ち上げながら、島村は笑う。「まあ直接的に俺は遠野とは関係が無いし。それに俺の担当は現代国語よ。図書室に居たところで何の不都合がありましょう。司書さんとも仲良しだし」 それはそうだが。奥の机で教師二人がぼそぼそと話をしていようが、相変わらずガラスの向こうの司書は、何の興味も示さない様だった。 だが高村は何となく、日を追うごとに、島村に遊ばれてきている様な気がする。 月曜日。昼になって、遠野が「転校」したことを高村は知らされた。それは、あまりにも高村にとっては唐突なことだった。 何せ、週末に彼は遠野に会っている。しかもその時、彼女は山東と共に、日名の「転校」にあれほど憤っていたはずだ。「それにしても、もうあの遠野の綺麗な男装が見られないっていうのも、ちょっとつまらないなあ」「島村先生、彼女にきゃあきゃあ言う女生徒が嫌だったんじゃないですか?」 少しだけ、高村も嫌味を言ってみる。「そりゃあそうだろう。君、何が悲しくて、男を放って女に嬌声を上げる連中を暖かい目で見られるものか」「だけど」「それはそれとして、確かに遠野の男装が綺麗、なのは、俺だって認めるからな。綺麗なものは綺麗。それは大切だ」 うんうん、と思い出すように島村は目をつぶり、うなづく。なるほど、と高村は思った。「…遠野さん、日名さん…を追っていった、とか」「あー、それは駄目駄目」 島村はひらひらと手を振り、あっさりと否定する。高村はややむきになって問い返す。「…どうしてですか?」「だって、『転校』先なんて、俺達の誰も、知らないんだから、遠野が追えるはずが無いだろ」 高村は眉を寄せた。どういう意味だ?「…一体、島村先生、何をご存じなんですか?」「別に」「別に、って」 大きな机に、島村は突然腕を伸ばして前のめりになる。伏せた顔の下から、ぼそぼそと彼はつぶやく。「俺達ヒラの教師が知ってるのは、ある日いきなり朝、校長室に黒い箱と黒い封筒がやって来ることだけさ」「黒い箱?」 確か、先週の月曜日、自分がつまづいたのは。「その箱の中身も、封筒の内容も、俺達は知らない。ただその箱には、宛先の書かれた宅配便のラベルが始めから貼られていて、それを校長の名で、すぐに送らなくてはならない、ということ。それだけ」「…何ですか? それは」 何かさっぱり判らなかった。「さあ。俺達も、判らないんだよ」「判らないって」「だから、そういうこと」 くい、と島村は顔を上げ、真面目な表情になる。「もし予想がついても、それを口にしてはいけない、ということさ」* どういうことだろう。 島村があっさりと言った言葉は、翌日まで彼の中に後を引いた。 しかしそれを授業の時には、顔に出さないのがプロである。彼はそのプロにはなろうとしていた。「…と言う訳で、グループごとに、作業を開始。今度は誰も爆発させるんじゃないぞっ!」 よく響く声で、彼は先週実験の失敗を起こしたクラスで、二度目の授業を始めていた。この日の実験には爆発やケガの心配は少ないはずである。彼はゆったりと、化学実験室の机の間を回っていた。 ああ平和だなあ、と彼は生徒達の様子を見ながら思う。こんな実習授業の時にそう感じてしまうのも変だが、それ以外のところで、何やら色々起こりすぎるのだ。 できればもうこの先、週末まで、何も起こって欲しくはない、と彼は切実に感じた。 その時。「…やだ、何これ…」「ちょっと待ってよ、ねえ…」 窓際の席から、ざわざわとした声が聞こえてきた。 高村はやや急ぎ足でその声のグループの方へ向かった。 彼女達は椅子を降り、皆で机の下をのぞき込んでいた。「どうしたんだ?」「あ、高村先生、ちょっと、ここ、見て下さいよー」 その中の一人が、机の下を指す。「さっき消しゴム落としたから、拾おうとしたら」 どれどれ、と彼も身をかがめた。化学室の机は、グループごとの器具庫も兼ねているので、下に転がった消しゴムは、それこそ床に頬をつける位の姿勢で手を伸ばさないと、取ることができない。 高村もまた、その様にして、下をのぞき込み―――あぁ? と声を立てた。「何か、黒いものがべとべとして、気持ち悪いんですよー」「黒いもの…先週、こんなの、あったか?」「知りませーん」 あったとしても、まず何か拾ったりしない限り、見つからないだろう。掃除の時にも何の報告も無かった。 よいしょ、と立ち上がり、高村はそのグループに問いかける。その間に他のグループも、何ごとか、と周囲に近づいて来ていた。「…別に何でもないみたいだ。たぶんインクか何かだよ。ワックスと混じってべとべとしてるんだろ。ちゃんと実験は続けて。時間内にグループの結果をレポートにすること!」 はーい、と低い声が教室中に響いた。野次馬達は、のろのろと自分の席に戻ったが、当の席の生徒達はやはりいまいち落ち着きが無い。 だが後ろで観察している南雲も、腕を組み、背を壁につけたまま、特にそれに関して注意することも無い。 高村はそのまま、その時は授業を続けた。
2005.07.18
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気がついた時、高村は家の前に居た。既に鍵が閉まっている扉をがんがん、と叩いていたのだ。 母親はこんな時間に、と叱ろうとした様だが、彼の尋常でない様子に、何も言うことができなかったらしい。 そしてその晩は、なかなか寝付けなかった。 いつまで経っても、あのびんの赤が、目に焼き付いて、離れなかった。 翌日、高村は放課後になってから、前期部へと寄って行った。 彼はまっすぐ、あの二階通路の下へ向かった。だがそこには、何も無かった。元はケーキのクリームの様に白かっただろう、一様に薄汚れた壁があるだけだった。 そんな馬鹿な、と彼は思った。 二階通路は数ヶ所あったので、他のものも調べてみた。だが何処も同じだった。そこには何も無かった。何かが起こった、という痕跡一つ無かった。 夢だったのだろうか。 だが、夢であるというなら、彼はその確実な保証が欲しかった。「あれえ、高村先輩、どうしたのー?」 声に振り向くと、軽音楽部の後輩が数名、ふらりと外に出て来ていた。「よお、…や、別に」「変なの」 さっぱりきっぱりした後輩は、そのまま去って行こうとした。ちょっと待て、と高村は慌てて彼等を呼び止めた。「何ですかあ、一体」「先輩、後期部行って、やせましたあ? 何か顔色悪いっすよぉ」「…そ、そうか? あの…な、お前ら、どっかのクラスで、女子二人、死んだ、とか、いなくなった、とか…聞かないか?」 内心の動揺を隠して、高村は後輩達に問いかけた。「死んだ?」「いなくなった?」 何だそりゃ、と後輩達は顔を見合わせた。やがてそのうちの一人がああ、と眉をつり上げた。「そういえば、うちのクラスの女子が一人、急に転校になったって聞きましたよー」「転校だったら、そう言えば、うちの隣でもあったよなあ」 そうそう、転校なら、と彼らはうなづきあった。「そっか…あったのか」「何ですか高村さん一体、唐突に」「や、…何でもない」 変なの、と今度こそ後輩達は、さっぱりきっぱりと彼らの先輩の元から去って行った。 聞くんじゃなかった、と高村は思った。これで、夢ではない確率が高まってしまった。 彼はその後、何度も何度も、同じ場所を繰り返し繰り返し、染みの一つでもないか、と見渡してみたが、そんなものは何処にもなかった。 ただ。「…あれ?」 最初に調べた場所にあった、玉砂利の一つが。「…白い…石だよな?」 時々混じっている、白い石の一つが、ひっくり返った拍子に、どす黒く汚れていたのに気付いた。 彼は慌ててそれを拾い上げ、近くの水道で軽く濡らしてみた。 赤みが、混じっていた。 彼はその石を洗い、玉砂利の中に投げ込んだ。一度投げ込んでしまえばそう簡単に見つからない。そのまま埋もれてしまえ、と彼は思った。 そしてそのまま彼は、家へ駆け戻った。まだ明るいうちから、ベッドに飛び込んだ。眠ろうとした。あれは夢だ。夢なんだ。そう思おうと、した。 だがなかなか、眠ることはできなかった。 眠れないまま、ふと手を見ると、石を洗った時の赤い染みが、手のひらのすじに入り込んで残っていた。 彼は慌てて飛び起きて、手を洗った。いつまでも、洗った。 取りに行ったギターケースは、ばらばらに分解して袋に詰め、燃えないゴミの日に出してしまった。記憶はケースと共に、ゴミの袋を閉めた時に閉じこめたはずだったのだ。 なのに。*** 「…そんなことが、あったんですか?」 長い長い、高村の話をじっと聞いた後、山東は目を大きく見開いた。「判らない」 高村はコップの水をくっ、と飲み干した。「今となっては、あれが夢だったのか本当だったのか、オレにはさっぱり判らないんだ。それが今度の君等の友達の居なくなったのと関係あるのかどうかも、さっぱり判らない。ただ、君等の話を聞いてるうちに、…何か、思い出してしまったんだ」「日名の話から思い出されるというのも何ですが…でも、突然の『転校』は、俺が中等に居た時も、確かにありましたね。一年に一度程度は…」 考えてみれば、と山東は唇を噛んだ。「うん。だから、オレも正直、自分の見たものは夢か幻覚じゃないか、と思ってる。いや、思おうとしてきたんだ。思いたかったんだ」 それ以来、自分の見るもの、決めることに、何処か自信を無くしていたことも事実だった。「でも仕方ないですよ、高村さん。そんなこと…俺だって、そんなもの、見たら、自分の目も記憶も、疑ってしまいます」「君がそう言ってくれるんなら、ちょっと気が楽になるけど」「俺程度で、いいんですかね、高村さん」「充分」 実際、そうだった。存在そのものが、何処か安心させてくれる人物、というのは、確かに居るのだ。 またお会いしたいです、という山東と携帯のナンバーを交換し、高村はその日、部屋に戻った。*「おはようございます…一体どうしたんですか?」 先手必勝、と週明けの月曜日、高村は職員室に入るなり、何かを折り畳んでいる島村に問いかけた。明らかに職員室の様子がおかしかったのだ。 ざわついているだけではない。何しろあの教頭が慌ててあちこちを駆け回っている。そして、ここに来てから何故か一度も見たことが無い校長が、職員室にやって来ていた。「おお、おはよー高村先生。いやぁね。嫌ぁなことが、起きた様なんだよ」「嫌ぁなこと?」「今、校長室に、遠野の両親が乗り込んで来てるんだ」 肩をすくめ、こそっ、と島村は高村に囁いた。まるで島村は、その様子を楽しんでいる様だった。「遠野…ってあの遠野ですか?」「それしかいないね。あの名前は」「でも嫌ぁなことって」「だから、普通だったら、とうの昔に引っ越しているはずのご両親が、乗り込んできてしまってるんだよ」 は? どうも島村の話は要領を得なかった。「つまりなあ」「島村先生!」 背後から、南雲が腰に手を当てて、鋭く声をかけた。「また、変なことを高村先生に吹き込んでいるんじゃないでしょうね」「別に変なことは言ってませんがね。まあ、南雲さんが怖いから止しておきましょ。はいはい」 不真面目だわ、と南雲はいつも以上に眉間をこわばらせ、自分の席へと向かった。 高村が遠野の「転校」を知らされたのは、その日の昼だった。
2005.07.16
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それは六年前のゴールデンウイークだった。 高村は理系寄りの中等学校の、後期部に進んだばかりだった。「全く…オレのバカバカ」 そうつぶやきながら、彼はこの三月まで学んでいた校舎へと忍び込んでいた。 この年、彼はそれまでの前期部から、後期部へと進級していた。そして進級に伴い、校舎も移動した。 しかし、三年間を過ごした学校から次の場所へ行く時には、結構な荷物が出てくるものだ。彼は結構な量の私物を、前期部の特別教室だの、軽音楽の部室に置きっぱなしにしていた。 ちなみに、その時彼が探していたのは、アコースティックギターのケースだった。中身は自宅にあった。 春休み前、進級のお祭り騒ぎをした時に、楽器だけ抱えて友人達と騒いで帰ってきた。ただその時、ケースを部室に置き忘れてしまったのだ。 中身があれば、ケースはどうでもいいじゃないか、下級生に頼んで持ってきてもらえばいいじゃないか、と言うかもしれない。 だがしかし、そのケースには、煙草だのエロ本だの、正直、見つかって欲しくないものを隠していたのだ。そして中には、名前もしっかり書かれていた。 そんなものなのに、だ。 高村はその存在を五月になるまですっかり忘れていたのだ。思い出した時には、既に学校はゴールデンウイークで休暇中だった。 思い立ったが吉日、彼はその晩、自転車を漕いで、慣れた道を走った。後ろにケースを積むためのロープも用意していた。 そうっと校舎の裏手まで自転車を運び入れ、記憶にある、鍵の壊れた窓から彼は忍び込み、彼は部室からケースを運び出すことに成功した。 ただ、再び窓から出た時、彼はちっ、と舌打ちをした。道中、雲行きが怪しい、と思っていたが、雨が降り出していたのだ。 彼は仕方なく、しばらく待っていれば止むだろう、と校舎の、二階が通路になっている部分で雨宿りをすることにした。 だが、なかなか雨の止む気配は無かった。 むしろ、どんどん雨足を増している様だった。遠くで雷の音までしていた。通り過ぎるのを待っていては、日付が変わってしまいそうだ、と彼は思った。 仕方ない、とケースをくくりつけた自転車を引いて、高村は歩き出した。しかし、周囲は玉砂利なので、自転車に乗ることもできず、足も取られて歩きにくかった。 もう少し雨宿りしていようか、と苛立ちかけた彼が引き返そうとした時だった。 ぎゃああああ。 すさまじい声が、彼の耳に飛び込んできた。何事だ、と思ったが、彼の足はそこからびくりとも動こうとはしなかった。 やめてやめて、いやあ、何すんの、と声は続いた。 女の声だった。それも二つの違った声だった。 女生徒が襲われているのかもしれない、と彼は思った。いや、それ以外の何物でもなかった。 だが二人が襲われているとしたら、相手も複数だろう。下手にそこに飛び込んだら、自分までやられてしまうかもしれない。 そんな無意識の計算が、彼の足をそこに縫いつけていた。 雨宿りも、帰ることもできず、彼はしばらく、そこに立ちすくんでいた。ぼぼぼぼ、とギターのケースに雨が降り注ぐ音が、奇妙に耳にうるさかった。 どのくらい経った時だろう。何度か続いた叫び声はいつの間にか消えていた。 ぽたぽたと頭から水を滴らせながら、彼はもう大丈夫だろう、と先程の所へ行こうとした。ただ何が「大丈夫」なのか、自分の中で説明はできなかった。 だが。 彼はちら、と二階通路の下をのぞき込むと、うっ、と息を呑み、のけぞった。 少女が二人、玉砂利の上に、足を投げ出して座り込んでいた。先程の二種類の声の持ち主だろう、と彼は思った。 だがそれだけではなかった。遠目で良くは判らないが、二人の頭のすぐ上のコンクリートの壁に、どす黒い染みがあった。 何だあれは。 高村はしばらく、その染みを呆然として見ていた。 よく見ると、染みはあちこちに飛び散っていた。まるで、何かを強くぶつけて弾かせた時の様に――― 弾かせた。 彼はそのままゆっくりと、頭をがっくりと前に落とした少女達の方へと視線をやった。少女達は、ぴくりとも動かなかった。 何だこれは。 高村はその時ようやく、自分の中でその疑問が湧くのを感じた。 悲鳴。逃げている様な少女達。そしてこの壁。 それって。 ざあああ、と雨の音が、急に彼の耳に強く響きだした。 ぺたん、とざらつく校舎の壁に背をつけた。腕をつけた。 そのままずるずると、座り込んだ。腕が壁に擦れて痛かったが、それどころではなかった。 何なんだ何なんだ何なんだ。 死体なんだろうか。死体にされてしまったのだろうか。 少女達は、誰かに、殺されたんだろうか。 高村は今度こそ、本当になかなか動けない自分に気付いた。震えが止まらなかった。 あんな風に、壁に叩き付けて殺す様な奴なら、自分などひとたまりもないだろう。 ようやく自転車に手を掛け、彼はその場から走り去ろうとした。とにかく、すぐに逃げたかった。だけど上手く、身体が動かなかった。 と、その時だった。「…落ち着け、落ち着けよ!」 子供の声が、聞こえた。少なくとも、自分よりずいぶん年下の、声変わりする前の、少年の声だった。「やーだー、はなしてよー」 また、もう一人、少女が。 そう思った時、高村の足に、急に力が入った。彼は歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がった。 そしてそっと、本当にそうっと、中の様子を伺ってみた。 すると、本当に少年と少女が、そこには居た。 雨の中、踊る様に暴れる少女の両手を、少年は力を振り絞って掴んでいた。少年は少女を抑えるのに精一杯で、高村が見ていることには全く気付いていない様だった。「あんたなんかー、ひとりじゃなんもできないくせにー。あたしのしごとだよ、これはあ」「***!」 ぴく、とその声に、少女の動きは止まる。 名前を呼んだのかもしれなかった。ただそれは、彼にとっては耳慣れない音のものだった。 そして次の瞬間。 少年は、ポケットから何か取り出すと、口に含み、さして背丈も変わらない少女を抱きしめ、強く口づけた。 長い時間だった。 少なくとも高村にはそう思えた。 やがて少年は、少女をゆっくりと離した。既に少女からは暴れようとする様子は見られなかった。 少女は背後に座る二つの身体を見、次に自分の手を見た。少年は、大きくうなづいた。「…嘘…」 少女はその場にゆっくりとひざをついた。少年もまたかがみ込み、少女をゆっくりと抱きしめた。 やがて少女は、少年の胸に勢い良く顔を埋めると、うめく様な声を立てて泣き出した。 その拍子に、少年のポケットから、何かが転がり落ちた。 小さなびんだった。赤いびんだった。
2005.07.15
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「そうですか。なら良かった」 そして本気でほっとしているあたり、やはり何処か好感が持てた。「まあ俺、やれることは何でも楽しもう、と思ってきたんですよ。中等ではずっとそうやってきて…誰も立候補なんかしないから、生徒会に出てみて…これまた面白かったから、色々校内を良くできないかな、と学校のことを、あれこれ調べてみて」「あ、それで、あの購買の分室も作ったんだ」「そうそう、よくご存じですねっ」 うんうん、と嬉しそうに山東はうなづいた。「あれは苦労したんですよ! 業者はそこまで商品を毎度運ぶのが面倒だ、って言うし、学校側は、確かに五年七組と八組の間の小部屋は空き教室だけど、そこは時々先生達の控え室にすることもあるんだし、って主張するし」 言いそうだよなあ、と高村は思った。「でも業者は業者なんだから、売りたいのだったら、その位の労力は惜しむべきではないし、たまにしか使わない先生達と、毎日毎日苦労している老番クラスの連中とどっちが大切なんですか、って交渉できるごとに主張して」「…確かに君の迫力だったら、通じるよなあ」「や、駄目ですよ」 山東は太い眉と口元をきゅ、と引き締めた。「一年じゃ、駄目でした。たったそれだけのことにですよ? だから俺は、その翌年も立候補しました。そうしたら、今度は学校側から、今度の立候補は止した方がいいんじゃないか、って横槍が入りましたね」「学校側が、君を生徒会長にさせたくなかった、ってこと?」「そうです」 山東は大きくうなづく。「ま、それでも立候補する、と言った奴を止めることは、学校の規則上ではできないし、出てしまえば俺の勝ちです。だけど今度の戦いはもっと厳しくなるなあ、と覚悟はしてたんですよね。実際俺でも、多少くじけかけましたねえ」 その時のことを思い出したのだろうか。ふと彼の目が遠くなる。「で、その時に、日名や遠野が居てくれて、俺、すごく、励まされたんですよ」「日名さんと…遠野さん?」「ええ」「…ちょっと立ち入ったことだけど…君らって、三人で、友達…」「ええ、まあ」 あっさりと彼は答える。「本当に、三人で?」「何か悪いですか?」 悪くはない、と高村は思う。ただ、少し状況が理解しにくいだけで。「そのちょっと沈んでしまった時期に、俺にハッパかけたのが、日名でした。遠野はもともと彼女の友達で。で、もともと遠野は日名のこと、好きだったんですよね」「…女の子だけど」「別に、いいんじゃないですか?」 はあ、と高村はうなづく。やはり大物だ、と彼は思った。「で、俺は日名を好きになって、日名もまたあれが、好きは好きでいいじゃない、というタイプだったから、皆で仲良くしようよ、ということで、俺達は三人で付き合い出したんですよ」 こう口にするとちょっと照れますね、と山東は赤くなりながら、頭をかいた。なるほど、と高村はうなづくしかなかった。すっかり箸は止まっていた。「…ああそう言えば、生徒会の役員で、垣内君って知ってる?」「ああ、垣内ですか。そう、奴も二年続けて生徒会やってるんですね。…あいつは今年はやらないと思ったのになあ。去年は会計でしたが、有能な奴でしたね」「やっぱり」 高村の脳裏を、見事な会釈がよぎった。「知ってるんですか?」「や、よく化学準備室に来るから」「あー、南雲さんのところに」 納得した、と言うように彼はうなづいた。「生徒会は南雲さんの配下にありますからねえ。でも俺は、正直、南雲さんはそう好きじゃないんですよ」 え、と思わず高村は問い返した。「同じ化学だったら、俺は森岡さんの方がいいです」「またそれは、どうして」「うーん、高村さんにあんまり先入観を持たせてしまうのも何だけどなあ…」「いいよ、別に」 正直、ここで聞いておけば、自分があの二人の態度に対する違和感の様なものの正体に近づける様に思えるのだ。「そうですねえ。何っか、南雲さんは、確かに熱心に関わってくれるんですがね、結局はこっちの行動を規制しようとしている様に見えるんですよ、俺には」「規制?」「さっきもそうだったでしょ」 ぽり、と山東はたくあんを噛む。「森岡さんはそういうとこで、何だかんだ言って、俺達の自主性って奴を大事にしてくれたんですよ。学校側はそれは『ほったらかし』だとか、『無責任』とか言うけど…俺にはあのひとは合ってましたよ」 うん、と高村も大きくうなづく。「…オレも正直、森岡先生の方が好感持てるよ」「でしょう?」 ぐい、と山東は嬉しそうな顔を寄せてきた。「何っか、あのひとは、あまり表情も変わらないし、何考えてるのか判らないって感じはありますけど、南雲さんより信用できるような気がするんですよね」 確かに、と高村は思った。 少なくとも南雲の、あの正しいには違いないだろうが、何処か首を傾げたくなるようなお題目より、曖昧で、厳しいのか甘いのか良く判らない森岡のつぶやきの方が、信用できるような気がするのだ。「ああそういえば、あのひと今、一人暮らしなんですよね」「え?」「離婚した時、奥さんが子供連れてって、何でも、それっきりだそうです」「へえ…じゃあ自分で弁当作っているのか…大変だなあ…」 そう言えば、子供が居る、とは何となく聞いたことがある、と高村は思った。…そうだ、屋上の話だ。「そう言えば、山東君、君は『立入禁止』のロープがあったら屋上には入らない方?」 どういう意味ですか、と山東は首を傾げた。高村は先日の話を軽く説明した。「…ああ。俺は立入禁止があろうが無かろうが、とりあえず一度は乗り越える方ですねえ」「あろうが無かろうが?」「参考意見にはする、ということです。自分の目で危険かどうか確かめて、…もちろん、屋上みたいなとこは、すごくすごーく、気を付けてからですけどね。それから判断したいなあ、と思います。やっぱり一番信用できるのは、自分の目ですから」「自分の目、ね」 高村はコップの水を一気にあおった。「オレは自分の目が、いまいち信用できないんだ」 高村は、ある一つの記憶を呼び起こしていた。
2005.07.14
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「…ともかく、今日のことは、学校側には何も言わないから、今後、この様なことは二度としないでちょうだい」「南雲先生」 珍しい、と高村はふと思った。このひとがこういうことで見逃す、ということが何となく彼には不思議に思えた。 南雲は続けた。「とにかく遠野さん、あなたのここ数日の行動は本当に目に余っているのよ。ただでさえ、あなた達三人は、学校で目立っていたのよ。他の生徒に、良くも悪くも影響を与えてしまうの」「それは」「無論、そのくらいの個性も能力もある人物を育成できた、ということは、我々教師としても嬉しい限りだわ。でも、影響が強い、というのは、プラスにもマイナスにもなりうるの。実際、今年になってからの日名さんは、それがマイナスに傾いていたし、月曜日からの遠野さん、あなたもかなり、そうやって周囲を巻き込んでいたのよ」「だけど、それは巻き込まれる方も」「自分にそれだけの影響力がある、ということを自覚しないのは、あなたの問題だわ」 ずばり、と南雲は言い放つ。「それは時に置いては、影響を与えられるばかりの一般生徒より、時にはたちが悪い、と私達教師の側としては、見てしまうこともあるのよ」 遠野は黙って首を横に振る。「…南雲先生の言われることは、私には理解できません」「あなたは頭のいい生徒でしょう?」「頭の問題じゃない。気持ちの問題だ!」 今度は山東が、大きく両手の拳をテーブルに叩き付けた。 あ、という高村の視線とともに、コーヒーカップがゆっくりと床に落下して行った。かしゃん、と幾つかの音が響き、周囲のざわめきが一瞬止まる。 お客様、と店員が慌てて飛んで来た。ふう、と南雲はため息をつく。「…そろそろ引き上げ時ね。ここの支払いは私がしておくわ。遠野さんは私が自宅まで送るから。山東君、君も彼女にあまり悪い影響を与えないでちょうだい」「俺は…!」「あなたは、優秀な生徒会長だったじゃないの」 山東はぐっ、と言葉と歯を噛みしめた。 行くわよ、と南雲は遠野の手を引き、さっさと店の支払いを済ませ、出て行った。 それを見送ると、山東はすぐに腰をかがめ、自分が落としてしまったカップの破片を、迷わずつまみ上げ、拾っていた。「お客様、それは我々が…」「誰がやったって、こういうことは早く済ませた方がいいだろ? それに俺のせいだし。俺これ拾ってしまうから、あなた床を早く拭いてしまった方がいいよ」 ウェイトレスもバイトらしく、その口調に、はい、と従ってしまった。 高村も破片を拾おうとかがむ。「高村…先生だっけ、あんた」 ちら、と山東は高村の顔を見る。「あー…実習生だけどね。だからまだ、大学の三年だな」「じゃあ先輩ってとこか。いいですよ、高村さんあんたは。俺のしでかしたことだし」「いや、今、君も言っただろ、誰がやったって、って」「そう言えば、そうですね」 ははは、と山東は笑った。明るい笑い。迷いの無い行動。歳は二つ下だが、明らかに自分より器が大きい男だ、と高村は思った。確かに「伝説の生徒会長」にはふさわしい気がした。「よし、この位でいいかな」 一カ所に破片を集めると、後はよろしく、とテーブルと椅子の位置をある程度直し、行きましょう、と山東は言った。*「そう言えば、メシでもどうですか?」 駅方面の牛丼屋の前で、山東はふと立ち止まった。「コーヒーじゃ、腹はふくれないですよ」「ああ確かに。それに、学生には」「安いのが一番ですって」 ははは、と山東は笑った。 確かにいい奴だなあ、と高村は思う。彼はもう少しこの山東という男と話してみたくなった。 同じように生徒会の役員をやっているという垣内に、あまりいい印象を持てなかったこともある。比べてみたい、という程ではないが、どう違うだろう、という疑問は確かにあった。 店内に入ると、案の定、山東は大盛りを注文した。その一方で、しょうがをどうぞ、納豆はとりますか、とずいぶんとマメな性格も伺わせる。「やー、やっぱり俺はこういう所、好きですよ。学食もいいですが」「そう言えば、森岡先生に聞いたけど、山東君、体育系の大学に行ってるんだって?」 ぱちん、と箸を割りながら、高村は問いかけた。ええ、と目を大きく広げ、口に物を入れたまま、山東はうなづいた。「中等の卒業適性では、何処の大学でもOKだったんで、じゃあいっそ、今まで部活で楽しかったことを、今度は真面目に取り組んでみようか、と思いまして」「ふうん」 そういう考え方もあるのか、と高村は思った。「じゃあ特に、なりたいものとかは?」「そうですねえ」 ううん、と彼は箸を口にくわえ、軽く視線を天井に移す。「まあ体育系を出たなら、スポーツ選手か、スポーツ系企業か、そうでなければ教師ですけど、正直、俺は、人間とどんどん関わっていけるものなら、何だっていいんですよ」「それはまた、ずいぶんと曖昧だ」「ううん…何って言うか、俺、こういう言い方すると、すごい皮肉に聞こえるかもしれないけれど、結構、何でもできちゃったんですよね」「何でも」「まあだいたい、学校で習うものって奴ですよ。あ、そういえば、俺、料理とか被服だって、結構いけましたよ」「そ、それは…」 意外だ、と気持ちが露骨に表情に出たらしく、山東はまたははは、と笑った。「だからまあ、選択肢は、俺にはたくさんあったんです。うーん、やっぱり何か自慢している様に聞こえますかね」「や、そんなことないよ」 実際、他の奴が言うならともかく、この目の前の男の口調では、皮肉は感じられなかった。あまりにもあっけらかんとしているのだ。
2005.07.13
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「もともと、学校側が、あの子の行き場所を最初からはっきりさせてくだされば、私達だって、こんな風に学校にもぐり込んだりはしません!」 どん、と遠野は右手でテーブルを叩く。一瞬、トレイに乗ったコーヒーが揺れた。「だけどこっちも、日名さんについては、唐突に学校を辞めた、という連絡しか入っていないのよ。学校側もそうしたら、後は書類上の手続きをすることしかできないの。それは、どうしようもないことだわ」「じゃあ、一体、何処に聞けばいいって言うんですか?」 遠野はぐっ、と詰め寄る。そして突然声をひそめ、抑揚の無い声でつぶやいた。「あの子は…殺されたんだわ」 え、と高村は目を大きく広げた。「…馬鹿なことを」 南雲は軽く目を伏せ、首を横に振る。「馬鹿なこと、じゃないです」「うん、俺も、その予測もしてみた」 山東もまた、声を低くする。「…あの、どうして、君等、そう思う訳? それにどうして、調理室に…」「高村先生」「だって南雲先生、こちらが説明しない限り、結局この二人は、同じことを繰り返すんじゃないですか?」 ううん、と南雲は唇を歪め、腕を前で組んだ。「どうして? 二人とも。遠野さん、それが判れば、ボイコットも止めるの?」「それは、結果次第です」 遠野はきっぱりと言う。「このままこんなことを続けていると、遠野さん、あなたの心証はどんどん悪くなるわよ。おそらくあなたが第一に希望している、演劇に力を入れている大学への推薦はまず確実に取り消されると思うわ」 高村はぎょっとして南雲の方を見た。そんなことをさらりとこんな所で言ってしまっていいのか。 だが受ける遠野の方もまた、堂々としていた。「ええ構いません。私にとって、あの子が最初の観客でした。あの子が居ないのだったら、舞台で演じる意味など、半分以上無くなりますから」 そう、と南雲はふん、と鼻で息をつく。「判ったわ。ともかく、あなた達に何があったのか、そしてこれからどうしたいのか、言ってみてちょうだいな」「…ゴールデンウイークの最後の日のことです」 あああの日か、と高村はふと、自分にとっても服の調達に忙しかった日のことを思い出す。「私達は、もうあの期間を思う存分遊び倒しましたから、その日はそれぞれゆっくりしようと思って、会う約束はしていなかったんです。ところが、夜中に急に携帯に電話が入ってきて―――」 そこで遠野の言葉が詰まった。「入っては、来たんです。ナンバーが彼女のものでした。だけど、会話でも、メールでもなく、外の音だけが入ってくる、って感じで。変だな、と思いながら、私、しばらく聞いていました。…すると、何か変な声が入ったんです」「変な声?」「『見ぃつけた』、って」 かくれんぼか? と高村はふと考える。「それからあの子の…かどうかは判らないんですが、ひいっ、って悲鳴の様な声と、がたん、と何か落ちる様な音がして…どうしたのか、と耳をぐっと当ててみたんですけど、ぱちん、とまた何か、音がして」「携帯の蓋が閉まってしまった?」 南雲が問いかける。遠野はカップを両手で包む様にすると、大きくうなづく。「たぶん。だからもう後は、聞こえなくなってしまって…」「でも、それだけでも十分怪しいじゃないですか」 山東は拳を握りしめ、震わせる。「どう考えても、怪しいじゃないですか。それでいて、いきなり翌日居なくなった、なんて。しかも火曜日、こいつから俺、呼び出されて聞くと、あいつの家、引っ越したとか言われたらしくて」「だから、急な…」「だけど、あのうちはもうご両親とも定年退職して、悠々自適の生活を送られてたんですよ?」 南雲の言い訳めいた口調に、即座に遠野は切り返した。「私達三人とも、お互いの家によく行き来してました。だから多少は家庭の事情も知ってます。あの子よく言ってました。上のお兄さんもお姉さんも、皆もう独立してしまってるから、今住んでるあの家は、いつか自分がもらうのよ、って。そこからわざわざ引っ越すなんて、おかしいじゃないですか」「…え、だって、日名さん…って五年生だろ?」 高村は思わず計算してみる。「あの子、末っ子なんです。しかも、上のきょうだいとは少し歳の離れた。それでご両親も彼女をずいぶんと可愛がっていたんです…だから、ちょっとわがままな所も多かったけど、だけどそこが私達には可愛くて…ねえ!」「ああ」 山東も大きくうなづく。「俺も遠野も、日名が本当に本当に大好きだったんだ。日名も日名で、俺も遠野も同じ様に大好きだ、と言ってた」 それはまた不思議な関係である。 はあ、と興奮した気持ちを治めようと、遠野は自分の分のコーヒーに手を伸ばした。ブレンドにミルクだけで、砂糖は入れない。山東はブラックのままだった。 何となく、ここに日名という女生徒が居たら、彼女はミルクも砂糖もたっぷり入れる様に高村には思えた。「…それで、もしかして、校内の何処かに彼女の携帯が落ちていないか、と思ったの?」 南雲は問いかける。遠野は黙ってうなづいた。「私もこいつも、学校の中のことは、熟知しています。特にこいつは、隅から隅まで把握してました。だから、私、あの時のことを、自分の覚えている限り、こいつに話したんです」 そう言いながら、遠野は隣に座る山東の肩をぽん、と叩く。「それで? それが調理室だった、ということか?」「調理室…とも限らないんですが、普通教室ではない、と思ったんです。『見つけた』と夜の教室で言える場所。月明かりや常夜灯でも、普通教室はあまりに机と椅子ばかりですっきりしていて、隠れる所など何も無い。としたら、特別教室のどれか、と思ったんです」「そこでまず、という訳?」「ええ、一階ですから」 なるほど、と南雲は軽く目を伏せ、低い声でつぶやいた。
2005.07.12
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「高村先生! まだ居たの!」 鋭い声に、高村ははっと顔を上げた。「あ、南雲先生…」「何時だと思ってるの、あなた。司書室からもう帰るから、と連絡が来たのよ…ああ、何だ、こっちであなた、作業していたのね」 図書室の一角。机の上には、資料や指導案の下書きが散らばっていた。「向こうでやれば、良かったのに」「たまには気分を変えてみたら、と言われまして…」「森岡先生ね…」 ち、と南雲は軽く眉を寄せ、舌打ちをした。「ともかく時計を見てちょうだい。もう職員室の皆も帰って、あなた一人なのよ。ここの教員が残る場合は、鍵を渡せばいいだけのことなんだけど、あなたじゃそういう訳にはいかないのよ」「わ、わかりました」「熱心なのもいいけど、時間も少しは気にしてね」「は、はい…」 矢継ぎ早の言葉に、高村は慌てて机の上を片付けた。 窓の外は既に夕方を通り越して真っ暗だった。「南雲先生も遅かったのですね」 やや早足で階段を降りながら、高村は問いかけた。「ええ、少し用事があってね」「はあ」 高村は曖昧にあいづちを打つ。 彼女の口調には、その用事の内容に関して、決して踏み込ませない強さがあった。きっとこの女性には迷いも何も無いのだろうな。高村はややうらやましく思う。「…ああ、一階も真っ暗ですね」「防火扉が閉められてしまうのよ。だから、昇降口の方の常夜灯の光も入って来ない…どうしたの?」 廊下の真ん中で、高村は立ち止まっている。出入り用の小扉に手を掛けながら、南雲は問いかけた。「…何か、音が、するんですが…」「音?」「向こうの突き当たり、って何でしたっけ」「調理室だけど? …そんな訳はないでしょう?」「すみません、見て来ていいですか?」「ちょっと、高村先生!」 ぱたぱたと、音を立てながら彼は、廊下の突き当たりまで駆け出した。確かにこの方向から、がらん、と物が落ちる音がしたのだ。 調理室だ、と言われれば納得する。あれは彼の記憶にあるものの中では、ボウルや小鍋を落とした時の音に近い。 扉に手を掛ける。がらり、と戸車の動く感触があった。「開くの? 鍵は閉めたはずよ?」 南雲の声もやや上ずっていた。「でも、ほら…」 彼は奥の扉も開けた。あ、と彼は声を立てた。窓に飛びつこうとしている二人組がそこには居た。「おいそこの二人!」 彼は思い切り声を上げた。常夜灯の逆光に、一人は男、一人は女に見えた。どちらも長身だ。窓を開けて、そこから出ようとしていた。「おい!」 男の方が先に出て、女を受け止めようとしている様である。高村は迷わず、女の方へと走った。やや長いスカートをうるさそうにまくりあげ、女は窓に足を掛けた…その時。「きゃ」 ずる、と女はバランスを崩して、床に引きずり落とされた。高村が窓に掛けた足首を掴んだのだ。「高村先生!」「南雲先生、…女性のようなので」「わかったわ」 南雲は高村が押さえ込んでいる手を受け継いだ。女はばたばたともがき続ける。「やめて!」 はっ、とその声に、高村はこう呼んでいた。「遠野さん?」 *「…だからって、ねえ…」 はあ、と大きく南雲はこめかみに指を当て、ため息をついた。「もう少し、何か方法があるでしょう? あなた方ともあろう者が!」 ああ声が大きい、と高村はふと思う。周囲の目が全て、このテーブルの四人に集中しているかの様だった。 四人。そう四人だった。 あの後、窓の外に出た男が、女―――遠野のために、もう一度、窓から律儀に入り直して来たのだ。「真っ暗な学校の中で口論しても仕方が無いわ」 南雲はそう言って、高村とともにこの二人を、最寄りのコーヒーショップへと連れて来たのだ。 この時間のコーヒーショップは賑わっていた。 会社帰りに小腹が空いた者、学校帰りの大学生、そんな人々であふれている。空いているテーブルを見つけるのが難しいくらいだった。 話し声もうるさい。音楽もひっきりなしに鳴り響いている。なのに、この二人と南雲の声は、その中ですら、実によく響くのだ。自分を加えれば、四つ巴の大声合戦になるのが見えていたので、高村はできるだけ発言を控えていた。「山東君…あなたまでが」「だけど、行動するしかない時だって、あるでしょう!」 山東と呼ばれた彼もまた、声が大きく、響く人物だった。 身体も、顔のパーツも全体的に大きく、濃い。肌はよく焼け、髪は短かかった。 体育系の大学生と聞いていたが、確かにうなづけた。これが、森岡が言っていた「伝説の生徒会長」。「だいたい、何で今更、あなたがが中等のことに足を突っ込むの? あなたはもう、大学の勉強が本分でしょうに」「お言葉ですが、南雲先生」 山東はテーブルに両手をつくと、ぐいっ、と身を乗り出す。言葉こそ丁寧だったが、その口調には相手とは既に教師と生徒ではない、対等の人間に切り込もうとする時の迫力があった。「日名は俺達の共通の友人でした。だからその行方を知りたい、と思うのは当然ではないですか。大学だろうが、中等だろうが、それは関係は無いはずです」「そうです」 遠野もまた、強く言い放つ。
2005.07.11
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「…生徒会役員として…」「あー、じゃあ別に、取り締まる必要なんて無いよ。ほら、風が気持ちいいし、雲の流れは綺麗だし」 ややわざとらしい程に、高村は両手を広げてみせた。「何ですか高村くん、君のお話相手とは、雲とか風ですか」「悪いですかね? 昔から『ハイジ』もやってきたことじゃないですか」 にやり、と高村は笑う。「『ハイジ』…?」「んー? 垣内君、君、知らない? 児童文学の名作だよ。理系のオレが知ってるのに、文系の君が知らないの?」「…今度調べてみます」 垣内は少しばかり、悔しそうな顔をする。やや大人げないとは思ったが、高村は何となく爽快な気分がした。「…でも文学に詳しいなら、化学じゃなくて、国語の教師にでもなれば良いでしょうに」 お、と高村は相手に反撃の意を感じる。垣内は垣内でまた、何処か引っかかるものがあったらしい。 森岡は黙ってTVの画面を眺め、手はまた何か紙を折り始めていた。口論したかったら勝手にしなさい、という態度だった。「得意なのは理系だったから、そっちに行かされたんだよ。文系は好きだったけど、役には立たないってね。もし役に立ちそうだったら、中等もきっと、この学校に通ってたな。近い方だし」「そうですか」 垣内は納得したようにうなづく。「だいたい何だよ。人にそういうこと聞いていて、そっちは自分の将来の夢とかは、無い訳?」 垣内は高村の口調が好戦的になったことに、一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに気を取り直し、切り返す。「将来の夢、ですか?」「そうだよ。将来の夢。成績いいんだろ、垣内君」「ええ、まあ成績は、それなりにいいですよ。あれは努力で何とかなりますからね」「それで生徒会もやっていて」「はい」「大学もちゃんとそれなりに良い所へ進学するつもりなんだろ?」「いいえ」 垣内は即答する。え、とその答えに高村は詰まった。そう来られるとは思ってもいなかったのだ。 すると垣内はにやり、と笑った。「驚きます? 先生。俺がそう言うと」「…ああ、正直」「無論、俺にだって、漠然とした夢はありますよ」「漠然とした…夢?」「ええ。あります。だけど、それは本当に曖昧で、漠然としたもので、人にどうこう言わせたくもないし、叶うこともないものですから」 さらり、と彼は言った。薄ら寒いものが、高村の中をよぎる。 この感じは。「…ああ、言い過ぎましたね。でも高村先生、人を見た目で判断しないで下さいね。俺のしたいことと、できることが違う、というだけですから」 判った、と高村は言った。付け足しくさい、とは思ったが、垣内の口調に、それ以上は言わせないぞ、という何やら強い覚悟が感じられたのだ。こうなるともう切り返せないのが、彼の弱いところだった。 ただそうなると、もう会話は続かない。森岡は黙ってTVを見続けている。 そんな空気を察したのか、垣内はつぶやいた。「…南雲先生、遅いですね。やっぱり俺、化学室の方へ行ってきます」「ああ、そうした方がいいですよ」 ひらひら、と森岡は手を振った。では、と見事な会釈をし、垣内は部屋を出て行った。 出て行ったのを確認するように、森岡はひょいと顔を上げた。机の上には、小さな百合の花がいつの間にか幾つか並んでいる。「…ふうん。彼、君には喋るんですねえ」「え?」「垣内君は南雲さんにべったりですから、私は彼の夢やら何やら、聞いたことは無いんですよね。それに彼が怒った所を見たのは初めてです」「初めて…ですか?」 はい、と森岡はにっこりと笑った。「彼自身は面白い子だ、と思うんですがね」 はあ、と高村はうなづく。その拍子に、彼の視界に百合の花が入った。 花と言えば。「でも…森岡先生、今の子、って皆、ああなんですか?」「皆、ああ、とは?」「いや、今日、別の子からも、『将来別に何もなる気ない』っていう意味のこと言われて、『生まれ変わるならひまわり』とか…」 ずず、と森岡は茶をすすった。ああ冷めたな、と彼は立ち上がった。別に聞いていない訳ではないのだろう、と高村は続けた。「別に皆が皆、そうじゃないと思うんですが、オレが今日聞いたその子と、今の垣内君と、全然違うのに、…何か何処か、同じ様な答え、するから」「君が屋上で、話していた子、ですか?」 高村は黙ってうなづいた。「全部が全部、ではないでしょう。例えば、今少々問題起こしている遠野さん」「ああ…」「彼女は卒業後、ちゃんと演劇の勉強ができるところを本気で探しています。劇団なり、大学の演劇学科なり、とにかくそういう主体性がある者も、ちゃんとそれなりに居ます。ただ全部ではない、というのも、確かですね」 そういうものなのか、と高村は黙って二度、首を縦に振った。「そういう君は、どうなんですか? 高村君」 え、と彼は顔を上げた。「君は、教師になる気があるんですか?」 それはあまり、ここでは聞かれたくない質問だった。しかしそこでごまかせるほど、彼は器用な人間でもなかった。「…判りません」「では何か、別の夢でも?」 それだけでは満足できない、といった表情が、森岡の上にはあった。「そういう訳ではないんです。今結構、こうやって指導案とか苦労しているけど…」 未だに半分も埋まっていない用紙を持ち上げ、彼は言う。「これはこれで好きなんです。オレにはたぶん合ってます。人前で喋るのも嫌いじゃないです。ちゃんと理解してくれるのを見るのは楽しいです…ただ」「ただ?」 とどめの様に、森岡は問いつめる。「何か、一つ、オレの背を押すものが無いんです」「背を押す?」「どうしても、これじゃなくちゃいけない、ってものが」 ふと森岡は、表情を和らげた。「…高村君、まずそういうものは、そうそう現実には無いと思った方がいいですよ。そう、誰かが背を押してくれる、というのは期待しない方がいいですね。結局は選ぶのは君ですよ」 確かにそれは正しい、と彼も思う。おそらく、答えは既に出ているのだ。「まあでも、選んでみたらそれが必要だった、ということもあるでしょうが」「はあ」 結局、その時が来ないと判らないのかもしれない。高村は黙ってシャープペンシルを動かし始めた。 部屋の中には再びTVの音だけが広がる。 と、がらり、と扉が開く音がそこに加わった。「…高村先生、ようやく処理、終わったわ。あなたの方はどうなの? 進行状況は!」 疲れの反動なのか、威勢の良い声でまくし立てながら、南雲は彼の指導案をのぞき込んだ。「まだこれだけ! 何をやっていたの、あなた?」「まあまあ南雲さん。彼は彼で、自分の将来について、悩んでいるのですよ」 ふふふ、と森岡は声だけで笑った。「将来?」「自分は本当に教師に向いているのか、とかね」 やや違うぞ、と高村は顔を上げ、口を開きかけた。だが森岡の目線が、ちら、と向いた時、自分の言葉が止まるのを感じた。 南雲はそれを聞くと、両手を広げ、首を大きく横に振る。「…それは考えても仕方ないことじゃないですか。教師になれるコースに居るなら、それで万々歳ですよ。何を迷うことがあるの? 高村先生」「それは…」 迷いの無い、その口調に高村は圧倒される。「このコースに居る、そのこと自体で、あなたは既に『向いている』と国から保証されているようなものじゃないの」「それは、そうですが…」 確かにそうなのだが。 教育系大学に進学できた、という時点で、既に「適性」は保証されているのだが。「だったら四の五の言わず、今は自分の作業を進めてちょうだいな。また明日も同じ実験よ。同じ失敗を繰り返されては、たまったものではないわ。今日の失敗を生かせないようだったら、意味が無いのよ」「どうもすみません」「謝らないで。謝りたくないのだったら、自分のすべきことを完璧にやってちょうだい。私の言いたいのは、それだけよ」 判りました、と高村は深く頭を下げた。確かにそこまで言われると、彼も悔しかったのだ。「ああ…ところで、垣内君を見かけましたか?」 再び小さな百合を作りながら、ついでのように、森岡は問いかけた。一体幾つ作るつもりだろう? ふと高村は思った。「垣内君ですか? いえ? 何か?」「いや、さっき廊下で見た様な気がしたので」「また何かあったのかしら…全く、今年の連中は」 南雲は首をひねる。あれ、と高村は思った。確か彼は。 しかし森岡は何事も無かったかのように、平気で紙を折るばかりだった。
2005.07.09
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コン、と一つだけノックの音がした。 失礼します、と見事な会釈が高村の視界に入る。確か。高村は記憶の中からその名前を思い出す。垣内だ。生徒会の。「ああ垣内君、南雲さんだったら、まだ化学室の片づけの方、やってますよ」「片づけ」 垣内は首を軽く傾げ、不思議そうな顔をした。 「珍しいですね。南雲先生がこの時間まで…」「なあに、この高村君の後始末ですよ」 ははは、と森岡は高村を指さした。しかし顔はまるで笑っていなかった。高村は肩を少しだけすくめた。 六時限目は、彼の初の実習授業だったが、それには化学実験が含まれていた。 実験の授業というのは、講義の授業と違って、理解させること自体はそう難しいものではない。ただ、化学の実験だけに、手順の徹底と、安全に関しては、強く生徒に指導しなくてはならない。 …はずだったのだが。「手順を間違えた生徒が一グループ居ましてねえ。ちょっと軽い爆発、起こしまして」「…ああ、あれですか」 垣内はぽん、と手を叩いた。どうやら、その音は彼の居たクラスまで響いたらしい。「毎年あれって、一人は爆発させる奴が居るって言いますけど、ちょうど当たったんですね」 くく、と垣内は笑う。それは先日生徒会の用件で南雲に見せた表情とは違っているように、高村には感じられる。「でも、だったら、高村先生、どうして南雲先生のお手伝いに行かれないんですか?」「…その南雲先生から、明日はそんなこと起こらないように、完璧な指導案書いておけ、というご命令なんだよ!」 疲れもあり、思わず彼の口調も乱暴なものになってしまう。おっと、と垣内は肩をすくめ、軽くのけぞった。「まあまあこらこら、生徒相手に癇癪起こすんじゃありませんよ。ほらほら、お茶でも入れましょうか。お昼は一人で寂しかったですよ」 森岡はつと立ち上がった。「お昼?」 垣内は怪訝そうに首を傾げた。「ふふん、この先生は、お昼に禁止されている屋上で食事をしてるんですよ」「屋上…ですか」「君は出たことありますか? 垣内君」「一度だけありますが。だけど自分は高所恐怖症なんで、それから後は。何であそこには『立入禁止』って書いてないんでしょうね」「何故でしょうね」 森岡はそう言いながら、高村の前に茶を置いた。ありがとうございます、と彼は少し恐縮しながらそれをもらった。「どうせ南雲さんもそう簡単に来ないし、垣内君、君もどうですか、緑茶」「はい、いただきます」 どうやら垣内はこの部屋自体に慣れている様で、脇にあったパイプ椅子を自分で持ちだし、南雲の席の隣に広げる。 その拍子に、垣内のポケットから、かたん、と小さな音を立てて、何かが転がり落ちた。「…落ちたよ」 高村はひょい、とそれをつまみあげる。それは小さな、ガラスの青いびんだった。「あ、ありがとうございます」「綺麗なびんだね」「少女趣味って言われるかもしれませんが」「いやいや、綺麗なものはいいものですよ」 森岡の鶴の一声に、やや照れた表情を見せながら、垣内はそそくさと、びんをポケットにしまった。「『立入禁止』ですがね」 TVのスイッチを入れながら森岡はつぶやく。「何故か、そう書いてロープを張った方が、その上に行こうという輩が多いからですよ」「って?」 思わず高村は問い返す。「ほら高村君、小さな頃、思ったことは無いですか? 非常ベルを押したくなったこと」「…ありますね」 うんうん、と彼はうなづく。「先生それは、まずいでしょう」 垣内が即座に言葉をはさんだ。「おや、垣内君、君は小さな頃とか、思ったこと無いですか? 私は今でも時々思いますが…」 くす、と珍しく森岡は笑った。「それは…でも、禁じられてます。でしょう? それに、そう思ってしまったら、もうそれは危険の第一歩と」「ええ。そうなんですよねえ。今じゃ本当、皆が皆、そう言うんですよ。だから、つまらないんですよ」「つまらない、って…森岡先生」 垣内の表情が、あからさまに変わる。「昔むかしは、そういうことを考える子供が大半でしたよ。まあ場合によりますが、やってみて、悪かったらしかられて、ケガをしたら痛いのが判って。…まあ、屋上から落ちたらたまったものではないですが。高村君は…そうですね、その最後の世代かもしれませんねえ」 どういうことだろう、と高村は茶をすすりながら考える。垣内はやめて下さいよ、と目を伏せる。「そういうことは…禁止は、禁止です。どうにも、ならないでしょう」「そうですね。それが安全でしょう。まあ特に君は高所恐怖症だというし、あまり危ないことはしない方がいいですね」 森岡はそう話を締めくくる。論点をすり替えたな、と高村は気付いた。 時々こうやって、森岡は昔を懐かしむ様な発言をする。 もっともそれは仕方が無いことかもしれない。改革が始まった頃、高村は小学三年だったが、森岡は現役の教師だったのだ。「でも、屋上で食事して、楽しいですか?」 それでも垣内は、話題を屋上から離さない。「…ああ、まあ、楽しい話相手が居るし」「それは誰です?」「言う必要がある?」 高村は思わず言い返した。 言ってしまったら、何となく、このやや切れ者らしい生徒会役員に、村雨が罰せられそうな気がする。何となく、それは嫌だった。 彼女にはきっと、あの屋上の日溜まりにしか、気を抜く場所が無いのだろう。高村は彼女からその場所を奪わせたくはなかった。
2005.07.08
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「今日は何か、元気ないですね」 並んで足を投げ出す高村に、村雨は声を掛けた。「元気無い? そう君には見える?」 ええ、と彼女はうなづいた。 昼休み。彼はまた、屋上の階段裏に居た。「今日もいい天気で、風も気持ち良くて…とーっても、いい気持ちなのに」「まあ、いろいろあってね」「先生でも悩むことが、あるんですか?」「そりゃあオレも人間だからね。色々あるさ」「私にも色々ありますよ」 そうだね、と高村は笑った。「でも三年前の悩みと、今の悩みとは違うよ。あの頃、もっと大人になれば楽になるのかなあ、と思ったのに、未だにオレはこんな奴だしね」 そう言いながら、彼はがさがさ、と出がけにコンビニで買ってきた弁当と飲み物を取り出す。村雨はその様子をのぞき込む。「今日は購買のパンじゃないんですね」「うん、時間がもったいないな、と思ってね」「あ、それは私と同じですね」 村雨は卵焼きを口にしながら、軽く笑った。君が? と高村は思わず村雨に向かって目をむく。彼女は首をかしげた。「そんなに私がそうだと、おかしいですか?」「…いや、そんなことはないけど」 ならどうして、あんなに作業のもたつきやパニックを起こしてしまうのだろう、と彼は思う。本人は気にしているのだろうから、あえて彼は口にはしなかったが。「ただオレが君くらいの時には、そういうこと、考える暇も無かったなと思って…」「時間は大切ですよ」 彼女は短く、しかしきっぱりと言った。「私、自分がもっと、他の皆の様に、てきぱき物事ができる人間だったらなあ、と思うこと、すごくよくありますもの」「だけどそれはそれで、君の個性だろ? いいんじゃない?」「そうかも、しれませんね」 曖昧に彼女は笑った。「そうだよ、そう。オレなんか、これと言って、強烈な個性なんてないし。中途半端なんだ」「だけど先生には、先生になる、っていう未来があるじゃないですか」「難関だよ」「でも先生って職業は、昔と違って、色々あるじゃないですか? ほら、アルバイト教師とかパート教師とか。専属教師でなくても、本当にその職をやりたければ、色々道があるじゃないですか」 へえ、と高村は本気で感心する。自分など、大学に入ってから、そういった現在の状況を知ったのだ。先輩達には「お前知らずに入ったのか!」と怒鳴られたこともしばしである。 この現在の教育改革が続く限り、教員免状を持っていれば、出世や、安定した場所であるかはともかく、食うことに困りはしないだろう、と現在では言われているのだと。「ひょっとして村雨さん、オレよりずっと、詳しいんじゃない?」「そんなことないです。でも逆でしょう。先生が知らなかったら、その方がおかしいですよ」 それは彼にとって、耳が痛い話である。「先生は、先生になりたいんじゃないですか? 違うんですか?」 村雨は不思議と食い下がってくる。「…うん、確かに食える資格だから、欲しいと思うよ。だけど正直、迷ってるんだ。これでいいのかって」「他にやりたいことがあるんですか? だったら、そっちを必死でがんばればいいんじゃないですか。どうしてそういうことで、悩むんです? …私には判らないですけど」 彼女は本気で首をかしげる。「…色々、あるんだよ」 高村はとりあえずそう答える。本当は理由なんて無い。ただ、自信が無いだけなのだ。「…大人も、ややこしいんですね」 村雨はつぶやいた。「大人になる程、ややこしくなるんじゃないかな」 ふうん、と彼女はうなづいた。「君は?」「私? 何ですか?」「村雨さんには、何かやりたい事とかなりたいものとか、そういうものは無いの?」 「…ああ、無いです」 拍子抜けする程のあっけなさで、彼女は答えた。「無い、って君」「本当に、無いんです」 そしてふわり、と笑う。「私はだから、今の時間、こうやって先生と、大好きな屋上の日溜まりでお弁当しているのが楽しいし、大好きな本に囲まれて委員の仕事しているのが楽しいんです」「委員の仕事、好きなんだろ?」「もちろん好きです。私、本が何よりも大好きですから」 箸を止め、両手をひざに置くと、彼女は空を見上げる。つられて高村も空を見上げた。 綺麗な空だった。五月特有の、うすぼんやりとした、青空と雲の境界線が曖昧な空だった。「本の中にはたくさんの世界があって、それを読んでいるうちは、私は私以外のものになれるし、ここ以外の世界に居られるんです」「…村雨さんは、今の生活が嫌いなの?」「嫌い? いいえ、私今の生活、好きですよ。私がやっていること、全て、学校の生活全て、私が考えて、私が動いてやってることなら、何でも好きですよ。勉強だって好きです。決して得意じゃないけど。…もっともっと続けられたらって思います。ただ」 ただ? と彼は問い返す。「それとは別に、本の世界って、ここではない別の世界に、自由に行き来できるでしょう? それが楽しいんです。少なくとも、読んでいる間、私は自由です」「そうなんだ」 そういう見方もあるんだなあ、と高村は思う。そしてこれはこれで、説得力があるものだった。 村雨は空を見上げたまま、目を閉じた。「じゃあ君、司書になればいいのに。本に囲まれて居られるじゃないか。君くらいの熱意があれば」 彼女は黙って首を横に振った。「…駄目なんですよ」「でも人間には、努力ってのが」 くす、と彼女は笑い、駄目なんですよ、と繰り返した。「そうですね。努力して何でもなれるなら、私、ひまわりがいいです」 は? と高村は思わず問い返した。ひまわり? いきなり、ひまわりがそこで出るのか?「だって高村先生、別に人間とか職業とか、って、さっき言ってなかったじゃないですか」「それは、そうだけど」 それでもいきなり「ひまわり」は無い、と彼は思う。「生まれ変われるなら、うん、ひまわりがいいなあ」 彼女はうっとりと目をつぶり、笑みさえ浮かべてそう言った。何だろう、と高村はふと、うすら寒いものを感じる。「ねえ先生、私、今の季節の空も好きなんですけど、真夏の、ものすごく綺麗な強い青の空も、大好きなんです。入道雲がもくもくと出て、それがくっきりはっきり見えるような、そんな強烈な青い空も。それをずっと見上げて、大きな綺麗な花を咲かせて、それでたくさんの種をつけて、また次の年に、たくさんの花を咲かせるって、いいじゃないですか」「だ、だけど…」 生まれ変われるなら、なんて。「…先生、ひまわり嫌いですか?」 不思議そうな顔をして、彼女は高村をのぞき込んだ。「や、好きだよ。花としては…」 だけど、そういうことではなくて。「だったら良かった。…あ、先生、さっきからお弁当、全然進んでないじゃないですか」 彼女の手の中の弁当は、既に空になっていた。
2005.07.07
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しかし物事は、自分の思う通りには進まないものである。 水曜日、一・二時限目に森岡の授業の見学があり、三時限目。ようやくできた空き時間に、高村は図書室に足を運んでいた。 普通教室棟も、理科棟も、騒々しくて、どうにも落ち着かない。 たった二週間しかないから、できることはやれるだけやろう、ということで、この日の六時限目から、南雲の担当する化学で、授業を担当することになっていた。「まあ気楽に行きなさいよ」と先程教室を離れる時、森岡は彼に穏やかに笑いかけた。「何だかんだ言ったところで、この学校は、理系ではありません。ですからあなた一人が数時間担当したところで、できない所はできないし、できる所はできるんです」「はあ…」 高村も大学の方から指定されてから気付いたのだが、彼が派遣されたこの学校は、普通科中等の中でも、文系寄りだったのだ。 改革で学校制度が変わった2032年以来、「普通科」の学校でも特性を明確にする様になりつつあった。 高村が今現在居るここは、小学校卒業認定試験、及び日常成績によって、「どちらかと言えば文系科目に適性がある生徒」が入学してくる中等学校なのだ。 やがてこの「普通科」というものは全く無くなるだろうと言われている。だが今は過渡期であるので、「文系」と「理系」、どちらかに寄った学校という形が取られていた。 ところで高村は、現在の学校制度についてはそう詳しくはなかった。ここへ来て、森岡がじわりじわりとつぶやく中で、そうだったのか、と改めて気付いた位なのだ。 だけど、仕方ないよな。 彼は思う。森岡にとっては「変わった」と言う制度にしたところで、高村にしてみれば、それが普通だったのだ。制度の変わった年に彼は小学校三年だった。改革の中でも重要視された、「初期能力振り分け検査」からはぎりぎり外れていたのだ。 彼の下の学年からは、その検査が活発に行われるようになり、必要とあれば、クラスや、時には学校も変わることが頻繁に行われる様になった。場合によっては、越境もある。その場合には小学生といえども、寮住まいとなる。 森岡はこうも言っていた。「いずれは全ての小学生をも全寮制にするつもりですね…きっと、文科省は」 そういう話は大学でも聞いたことがある。高村はその時思ったものだ。そんなことが可能なのだろうか? と。 だがその疑問は、なるべく自分の中で封じ込めておこう、と彼は決めていた。同じ大学の先輩達も、かつて忠告してくれたことがあるのだ。「いいか高村。お前はどっか抜けてるから、四の五の考えずに、これだけ覚えとけ」 はあ、とその時彼はうなづいた。「とにかく上の指令をちゃんと聞け。そして聞き間違えない様に注意しろ。制度の内容とか意義に関しては、深く考えない様にしろ。それだけだ」 何となく先輩達から馬鹿にされている様な気もするし、実際、それでいいのだろうか、と高村も思わない訳ではない。 だが、思っていると、この早い時流の中、立ち止まってしまう。周囲から遅れてしまう。それはまずい。 とにかく、やれることをやるしかないのだ。 半ばあきらめの心境で、彼はこの実習に取り組んでいた。そして目の前には、実習授業があった。 がらり、と図書室の扉を開ける。 この時間は誰も居ないはずだった。開けられた窓から体育実技の笛の音やかけ声が聞こえる以外は、静かな空間だった。 カウンター奥では、あの司書が、端末を叩いている。 だが閲覧席は無人ではなかった。「…あれ」 遠野みづきがそこには居た。 ショートカットの長身の少女。改造制服の大きなスリーブ。間違いない。彼女は斜めの光の中、頬杖をつきながら、大判の写真系の雑誌を、ぱらぱらと物憂げに眺めている。「…君、今授業中…」「あ、さっきの」 さっ、と遠野は彼の白衣と、手の中の書類に目を通す。「…ああ、確か化学で、実習の先生がいらしてたと。今朝方はどうもすみませんでした」「いや、こっちもあの時は、通り道を」 立ち上がり、彼女はさっと礼をする。演劇部だからだろうか。身のこなしが綺麗だった。 高村は何となく、彼女の向かいに座った。「毎年でしたら、ちゃんと朝礼で紹介があるのですが、今年は無かったものですから、私のクラスなど、先生をまだ見たことが無いって子も多いんですよ」 言葉使いも丁寧だ。何だ、いい子じゃないか、と高村は思った。 背が高く、胸はそう大きくは無く、肩幅が広いわりにはすっきりとしている。ショートカットの下の顔の目鼻立ちは、くっきりとし、媚びが無い。確かに女生徒が遠野「サマ」と呼ぶのも判る様な気がする。「先生、私達とそう歳変わらないですよね」「…ああ、三つくらいしか違わないだろ」「先生が中等の時にも、そんなことありましたか?」「そんなこと?」「実習に来た先生が、朝礼で紹介されないようなこと」 首をかしげ、高村は自分の当時を思い返してみる。春先に実習生が来た場合…「…そう言えば、うん、そうだ。必ず何らかの形で全体に紹介はされていたな。朝礼とは限らなかったけど」「…そうか、変だ…」 彼女はつぶやく。しかしそれは、高村に向けたものではない様だった。「もう一つ、なんですが」「何?」「先生は、周囲で、友達が急に連絡も無く消えてしまう、なんてことありましたか?」「それは君、日名さんの、こと?」「ご存じでした? そんなに有名になっているんですね?」「…まあ一応」 そうですか、と遠野は苦笑した。そしてどうですか、あったんですか、と彼女は繰り返し問いかける。高村はまたも考える。思い出す。「あったような、気もする」「いい加減なんですね」「いや、違うよ。だってさ、例えば、隣の隣のクラスの、名前だけ知ってる様な奴がいきなり転校した、…くらいのこと、君、覚えてる?」「…」「だから正直、今オレも、君に言われるまで、思いだしもしなかったし。それに普通、人には事情があると言われれば、大半はそれで済ませてしまうだろ」「…確かに、そういうひとだったら、そうでしょうね」 だけど、と遠野は両の拳を握りしめ、雑誌の上に大きく振り下ろした。だん、と机が大きく音を立て、振動する。「…あの子が、あの子が私に黙って行く訳が無いんですよ!」 浪々と響くその声は、図書室中に広がった。 どうしたんですか、と司書室の扉が開く。司書の女性がカウンターの中から腕を組み、苦い顔をしていた。「遠野さん…またあなた?」「申し訳ございません」 遠野は丁寧な、しかし冷たい口調で切り返す。もっとも、それは司書の女性も同様だった。「滅多にここに来ないあなたでも、ここのところ、ここで時間を潰すしかないのは判るわ。でもせめて、静かにしていてくれないかしら?」「判りました。すみません」 遠野はあっさりと頭を下げる。腰を下ろそうとした時、ポケットから軽い音が響いた。携帯だ。彼女は机の下でメールを読んでいる様だった。「…高村先生、図書室で何か用事があったのでしょう?」「あ? ああ」「どうもお騒がせしました。私、用事ができたので、帰ります」 遠野はがた、と椅子を引いて立ち上がった。「では、失礼します」 扉が開く音がした。「本当に帰ってしまうのかい?」「だって」 遠野は苦笑する。「授業の邪魔するよりは、帰れ、と皆言いますよ」
2005.07.06
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「だから、何処へ行ったのかだけでいいんです!」 何だ何だ、と高村は職員室の扉を開けた途端、のけぞった。アルトの声だった。それもよく通る、意志の強そうな声だった。「それは教えられない、と言っているでしょう?」 今度は教頭の声だ。何事か、と高村は声の方に顔を向けた。 あ、と高村は小さく声を上げた。 その横顔には見覚えがあった。 ショートカットの長身。袖が奇妙に大きい。改造制服だ、と彼は思った。裾もゆったりとした、やや眺めのひだの少ないものに変え、またそれが良く似合っている。 …確か彼女は、昨晩見た…「おや、高村先生、おはようございます」 面倒臭そうに煙草をふかした島村が、今やっと気付いた、とばかりに高村に声をかける。「あ、おはようございます。今日はまた、細身の眼鏡なんですね」「おや、気付いてくれたんだ」 にやり、と島村は笑った。「昨日は鼈甲だったでしょう?」「そう。結構君、いい目しているじゃない」「視力はいいんです。…それで、どうしたんですか? 一体」 高村は声をひそめ、視線で教頭達の方を示した。「あー、えーと、高村先生は、遠野のことは知らなかったんだよね」 面倒臭そうに、島村は両手を頭の後ろで組む。「何か、授業ボイコットしているっていう…」「そう、なーんだ君、知ってたんだな」 あんたの声がでかいから聞こえたんだ、と言いたい衝動も無くは無かったが、高村はそこであえて止めた。 遠野の声が、その間にも耳に鋭く飛び込んでくるのだ。何となくその声には「聞き逃してはいけない」という様な力が込められているように、高村には感じられた。「だって中等は義務教育でしょう? 退学は無いはずですよ?あるんだったら、『転校』じゃないですか」「…そうとも、言いますね」「だから、その転校先を教えて欲しいと、私はそう言っているだけです。どうして、それが、駄目なんですか?」 遠野は一気にまくし立てた。両手を大きく広げたその姿は、確かに演劇部のスタアだ、と言われるのも当然かもしれない。「…何か、いい声ですねえ…」 高村は思わずつぶやいた。「そりゃあ、今やこの学校で一番人気の、演劇部の花形だからなあ。声くらい通るよなあ」「ああ、そういえば、何でも王様をやったとか…」「そうだよ。なーんだ、良く知ってるじゃないか」 煙草をひょい、と上げると、島村は椅子を半分回す。「だけどなあ、男子より女子に人気があるんだよな、あいつは。おかげで、うちのクラスの女子が大変で大変で。男も決してここの学校、少なくないのに、何だってまあ、女が女に、ああきゃあきゃあと言えるのかね」 愚痴なのか楽しんでいるのか、島村のその口調では判らない。だが実際、彼女のせいで授業ボイコットする生徒が増えたことは困ったことだろう、と高村も思う。 だが遠野の言うことにも一理ある気がする。中等学校は義務教育だから、少なくとも「退学」は無いはずということは。「教頭先生、どうしてそんな、平気な顔できるんですか?」「あのねえ、遠野さん」 ため息混じりの教頭の声が聞こえる。遠野の声と負けず劣らずの、よく響く声だった。「別に私達だって、平気な訳ではないのですよ。だけどそれぞれの御家庭の事情に、学校側もそうそう口出しはできないでしょう?」「嘘です!」 間髪入れずに遠野は叫ぶ。思わず高村は肩をびく、と上げた。「ともかく!」 そして教頭も、そんな遠野に対して、一歩も退かない。 当然だろう。対峙している遠野の母親以上の歳の、しかも現場で大勢の教師の指揮をとっている人物なのだ。 いくら遠野の声や態度に毅然としたものがあったとしても、たかが十代半ばの小娘に、ひけを取るはずが無いのだ。しかもこの職員室という、彼女の職場で。「判りました」 ぴしり、と遠野は背筋をしゃんと伸ばして言い放った。「それがそちらの言い分なのですね。それなら、もう、いいです。私は私のやりたい様にさせていただきます」 失礼します、と彼女は一礼すると、くるりと教頭に背を向けた。そしてそのまま早足で、職員室を出て行こうとする。「…何じろじろ見てるんですか!」 え、と不意に掛けられた言葉に、高村は間抜けな口調で返す。動きの一つ一つに、無意識に華がある遠野に、自分が思わず見入ってしまっていたことに、高村は気付いた。「そこ、どいて下さい」 慌てて高村は横に退く。ちょうど通り道を塞いでいたのだ。 それを見ていた島村はぽん、と肩を叩き、ふっと鼻で笑った。「…高村先生、駄目だねえ、女生徒に負けてちゃ」 言い返す言葉は高村にはただの一つも無かった。確かに自分は、遠野の剣幕に完全に圧倒されていたのだ。 正直、見ている分にはいいが、直接ご対面はしたくない相手だなあ、と彼はその時、しみじみと感じた。
2005.07.05
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「それじゃ先生、さよならー」「明日またー」 おぅ、と高村は手を振る。 彼女達の姿が駅の改札をくぐると、彼の背中にはどっと疲れが押し寄せて来た。同時に、胃も空腹を訴えていたので、彼は近くに見えた牛丼屋へと足を伸ばすことにした。 自炊とは縁が無い彼にとって、二十四時間営業の、しかも格安のチェーン店は、そこにあるだけでほっとするものだった。 賑やかな店内。馴染んだ匂い。「へいっ、牛丼大盛り、お待たせ」 目の前に置かれるほかほかの牛丼。ぱん、と割り箸を開くと、高村は即座に、その濃いめの味つけに舌鼓を鳴らした。ああ、疲れていたんだなあ、としみじみ彼は思う。 さて明日の昼はどうしよう。彼はふと考える。 今日食べたパンも、中等の頃を思い出し、決して悪くは無いのだが、やはりそれだけでは栄養が偏るし、だいたい甘すぎる。朝、行く途中で弁当やパンを購入していくのが無難だろう。 そしてまた、禁止されていようが、やっぱりあの屋上は食事場所として良い所だ、と彼は思う。それに、何となくあの村雨という女生徒のことが気になっていた。 中等学校の頃、彼の周囲に居たのは、皆、先程の早瀬や元部の様に、元気で物怖じしない少女ばかりだった。 小学校の頃までは、確かに居た気がする。例えば、いつも仲間外れになって、一人で図書室で本を読んでいる子。給食がどうしても食べられなくて泣いている子。いつも何かにおびえていて、フォークダンスの時に手を握ろうとすると遠慮している様な子。 いつの間にか、そんな子達の姿は彼の前から居なくなっていた。考えることもしなくなっていた。 村雨の態度は、そんな小学校時代の知り合いの姿を思い出させた。 彼らは一体、何処に行ったのだろう。皆が皆、中等で変わってしまったのだろうか。 彼ははっとして、頭を大きく振った。いかんいかん。 ここのところ本当に、考えが暗い方へ暗い方へ、と向かってしまう。落ち着こう、と彼は茶をすする。 そしてふと、今日発売の雑誌だの、録り忘れたTVドラマのことだの、とりとめも無いことを考えながら、彼は視線をウインドウの外へふっと飛ばした。 日が暮れるのが遅くなってきてはいたが、それでも既に、辺りは真っ暗だ。 と、ふと制服の少女が横切る姿が彼の目に映った。 ショートカットの背の高い、綺麗な少女だった。 そしてその横には、その彼女より更に背の高い、体格の良い男が居た。二人とも、何やら力を込めて話しながら、どんどんスピードを上げて歩いている。 思わず目を奪われ、高村は彼らが視界から消えるまで、ずっとそれを眺めていた。
2005.07.04
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「せんせー、一緒に駅まで行こうっ」 正門辺りで、数名の女生徒が高村に声を掛けた。「確か君達は…」 見覚えのある片方が、元気に手を上げる。「はいっ、五組の早瀬めぐみでーす」 そしてもう一人は、のそ、と顔を出し、低い声でぶっきらぼうに声を掛ける。「…同じく、元部洋子でーす」「ずいぶん君等、帰り、遅いじゃない。部活?」 もう既に周囲は暗かった。この時期の下校時間としては、かなり遅いと言ってもいい。「うん。と言ってもうちの部活なんて、半分以上お喋りだけどねー」「うんー」 聞いてみると、「アート部」だと言う。美術部とは違うのか、というと彼女達は大きく首を横に振った。「そうゆう真面目なのじゃなくって、ねえ」「そぉそぉ」 ははん、と高村は合点がいった。「要するに、マンガとかイラストとかそっちだな」「ぴんぽーん」 早瀬は高村の目の前で指を立てた。「何で判ったの?」「カンだよ、カン」 うっそぉ、と二人は笑った。「けどもうかなり暗いじゃないか。いくら連れがあるにしても、この学校、駅まで結構距離あるし、もっと早く終わらせろよな、部活」「だから先生見つけた時に、やったー、って思ったんでしょ」 早瀬はそう言いながら、高村の腕に腕を巻き付ける。確かにそれももっともである。彼には切り返す言葉が無かった。「ああっ、抜け駆けは禁止と皆で言っただろうにっ」「早いもの勝ち、って言葉知らないのー?」 舌を出す早瀬に、元部は自分も、とばかりに空いている方の手にからみついた。両手に花、と言えば聞こえがいいが、この二つの花はどう見ても、標準よりやや重かった。「重い、重いって」 さすがに高村も腕を振り払う。つまんないの、と二人はぱっ、と手を離した。「でも、紹介もされてない割には、高村先生、もうファン居るんですよー」「そうそう、購買での大声とか、特攻とか、有名になってますし」「あ、あれは」 必要に応じてそうしただけ、なのだが…そんなところで「ファン」がつくとは彼は思ってもみなかった。 そう言えば。「…ファンと言えば、六年の遠野みづきさんって、ファンが多いんだって?」「えーっ、何で先生、遠野サマのことを知ってるんですかあ?」 思いがけない程の大声を立てて、元部は高村の前に回り込んだ。「遠野…『サマ』かい?」 高村は何となく、口を歪めた。「だってあのひとに、それ以外のどんな呼び方ができましょう?」 うっとりと元部は目をつぶり、両手を前で組み合わせた。思わず高村は退いてしまう自分を感じる。「去年の文化祭、演劇部の恒例の公演で、遠野サマがお演りになった『千夜一夜物語』の残酷な王様の美しかったこと! ビデオでもあれば、高村先生にも見せて差し上げたいわ…」 ううむ、と高村は内心うなった。 何だか内容はよく判らないが、遠野みづきという女生徒は、どうも「お姫様」ではなく、「王様」役で、しかもそれが「美しかった」、ということは高村にも理解できた。となると、彼女の雰囲気も予想ができる。「ビデオは遠慮するよ。じゃあやっぱり『ファン』、多いんだ?」「そりゃあ、もう!」 元部は両手の拳を力一杯握りしめる。「でも元部、あんたは例の『授業ボイコット』には参加しないじゃない。ファンとして、それでいい訳?」 やや嫌味な口調で早瀬は突っ込む。すると元部は、口元をにっ、と両方上げて、ちちち、と人差し指を振った。「そこをあえてしないのが、あたしのファン道というものよ」「…あんたのファン道って、時々あたし判らなくなるわよ」「ファンというものは、遠くにありて思うもの! それがあたしのモットーなんですよ。ねえ高村先生、そう思いません?」「うーん…変質者にはなるなよ」 高村は苦笑しながらそう言った。「ファン道」と言われても、彼の中では、それが「電柱の陰からそっと見守るストーカー」とどう違うんだ、という気持ちもあった。 だが彼の嫌味に気付かないのだろう、彼女達は平然と会話を続ける。「まあでも、遠野サマがあんなことする気持ちも判るけどね」「気持ち?」「先生あの時、川原が南雲さんに聞いてたでしょ? 七組の日名さんが退学したの、どーのって」 早瀬は高村の顔をのぞきこむ様にして問いかける。「ああ…そう言えば」 そういうことを聞いていたような気もする。「日名さんって?」「あのひと、去年の劇で、シェヘラザードだったんですよね」「シェヘラ…?」 高村は眉を寄せた。「ヒロインです。可愛い子なんで、男装した遠野さんと組むと、すっごく綺麗なんですよ」 へえ、と高村はとりあえず想像を試みる。しかし上手くいかない。早瀬は構わずに続ける。「あたし普段、こいつの様に、先輩のこと、遠野サマ遠野サマ、って騒いだりはしないけど、あの時は、あの二人見て、ああすごく綺麗、って思いましたもん」「実際、日名と遠野サマ、凄い仲良しで、それこそユリじゃないか、って噂もあるんですよねー。でもあたし達、あんな綺麗な二人組ならいいか、と思ってましたからねー」 げげ、と高村は口元をゆがめた。「あー、でも日名って、山東先輩とも噂無かったっけ?」「それを言うなら、遠野サマと山東会長とも結構言われてた時期あるじゃない」 だんだん二人の会話が自分を差し置いて、訳の判らないものになってきたのに高村は気付く。このままではいかん、と彼は口を挟んだ。「…で、つまり、遠野さんは、日名さんの退学に怒って、ボイコットしている訳?」「えーと、正確には違うんですよ」 元部はぴ、と目の高さに指を立て、真剣な表情になった。「じゃ、何?」 そこなんですよ、と声と姿勢を低くする。「遠野サマは、日名が『何で』突然退学したのか、その理由を学校が教えてくれないから、そのことに抗議してボイコットを続けてらっしゃるんです」「ああ…」 ようやく話が見えた、と高村は思った。
2005.07.02
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はっ、と高村は顔を上げる―――上げるということは。「あ」 いつの間にか、ため息とともに、高村はべったりと顔をデスクにつけていた。「まあ彼女も、言葉はともかく、結構きつい所がありますしねえ」 あなたもきついですよ、と高村はふと言いたい衝動にかられたが、言わないだけの理性は残っていた。「南雲先生は、生徒会も担当されてるんですか?」「そうですねえ」 折り鶴を飛ばす様な動作をしながら、TVに再び視線を移し、森岡はうなづく。「彼女がここに赴任して…そう、六年になりますが、三年目くらいから、生徒会は担当していますよ。やはり生徒会の担当は若い教師の方がいい、ということでね」「六年」 ということは。高村は彼女の歳を思わず数える。「ああ、彼女はまだ三十歳前ですよ。まあ中等学校は、あまり異動が無いのが普通ですしね。昔と違って」「昔は…異動が多かったんですか?」「ああ。私が教師になった頃はまだ『中等学校』じゃなくて、『中学校』と『高等学校』の時代でしたしね。そう、表面上は殺伐としていましたが、私にとっては、いい時代でしたよ」「いい時代、だったんですか?」 ええ、と森岡はうなづく。「私は高等学校の教師でしたから、改革後も引き続き、後期の方にずっと居させてもらっているんですけどね、あの後に教師になった連中は、学校の異動は無いのですが、前期も後期も行かされて、大変だったと思いますよ。ああ、君も来年は、前期の方へ実習でしょう?」「ええ」 彼の大学のカリキュラムでは、三年次で中等学校の後期、四年次で前期の実習を経験することになっている。すなわちそれは、前期の方が難しい、ということでもある。「まあ、今年楽して来年困るよりは、今苦労しておく方がいいですね」「そうですね…」 確かにそうだ、と彼も思う。少なくとも、今年失敗したことは、来年繰り返さずに済むだろう。「それにしても、生徒会も、今の連中は大変なことですよ」「そんなに、去年とは違うんですか?」 森岡は大きくうなづく。「違いますねえ。去年の会長と比べられては、可哀想というものですよ」「去年の会長は、そんなにすごかったんですか?」 高村には、そんなに凄い生徒会長、は上手く想像ができなかった。「あー…そうですねえ…確か山東は、結局四年の半分から六年の半分まで役職についていましたが、お、そうそう」 ぽん、と森岡はTVから目を離して手を叩いた。「高村君、二階の購買分室は見ましたか?」「え? ええ」 昼休みの喧噪を、彼は思い出す。「オレは今日も、あそこでパンを買いましたが」「その割には、今日はここでお昼にしませんでしたね」 ちら、と森岡は非難めいた目つきを投げる。「…い、いえ、いいお天気なので、屋上で」「屋上? 屋上は、基本的には立入禁止ですよ」「え」 高村は大きく目を広げた。初耳だった。出口には、特に「立入禁止」の表示もしていないので、てっきり出入りは自由だ、と高村は思い込んでいたのだ。それに、あの図書委員の村雨。彼女もどうも、屋上の常連らしいというのに。 だがそう考えてみれば、あれほど景色の良い場所に、誰もいないのも不思議ではない。「まあ別に、とがめる気は無いですがね。ただ、金網が張られていないから、危険なんですよ」「…それだけ、なんですね? 別の理由とか」「それだけですが、安全面は非常に大切ですよ。私の息子も昔、金網の無い柵から落ちてね」「え」「いや、この学校ではないですが」 森岡は付け足した。「何にせよ、危険には違いないから、気をつけて下さいよ」「…すみません」 さすがに高村も素直に頭を下げる。森岡が言いかけたことも気にはなる。だがそれはプライベートに関することだろう。聞かないだけのデリカシーは高村にもあった。「ああ、それで購買の話でしたね」「ええ」「あそこはですね、その先代の会長が取り付けさせたんですよ、学校と業者と直接対決をして」「へええ」 思わず高村は目を丸くしてうなづいた。確かに、購買があの場所にあると無いでは大違いだ。「その昔、当初、この校舎を作った時点では、体育館付近に購買専用の部屋か、小さなプレハブが専用に作られるはずだったそうです」 高村は位置関係を頭の中に思い描く。「ところが予算だか、敷地面積だか、防災通路だかの関係で、その場所を特別に作れなくなりましてね。結局空いた場所は、一階のあの場所しかなくて」 そう言えば、と高村も思う。 確かに体育館の辺りなら、教室棟のどのクラスからも近からず遠からず、という位置なのだ。「まあしかし、そうなってしまったものは仕方ないですからね。購買は余った場所に設置されることになりました」「はあ」「しかしそれでは、あまりにもその距離に、クラス間・学年間格差が大きい、ということになりましてね。普通、会長は激務ですから、四年の後半から五年の前半の一年で終えるものですが、彼は自分の任期を一年延長させて、二年越しでそれを達成させたんですよ」「はー」 それにはさすがに高村も感心した。行動力もさながら、二年間かけて、というあたりに、粘りを感じさせる。「もうその会長、卒業したんですよね」「そうですね。山東と言うんですが、確か、体育系の大学に行っていたはずですがね…そう、現在のこの学校で、あれほどの人望がある生徒は、もう居ませんねえ。もう伝説化されてますよ」「さっきの垣内君という生徒は?」「彼ですか? まあ頭が切れるようですが」 それ以上では無いのだ、と森岡は暗に含めている様だった。「人望というのは、能力では無い何か、が必要ですからねえ…」 人望。それを聞いてふと、高村は思いついたことを口にする。「あの、遠野…という女生徒はどうなんですか?」「遠野みづきですか? 彼女がどうしましたか?」「いえ」 高村は職員室で耳にしたことを、簡単に説明した。「…ああ。そうですね。去年や一昨年の彼程ではないけれど、遠野もそれなりに人気はあります。ただ山東と違って、彼女の場合は、『ファン』ですよ」 ああそうか、と高村は大きくうなづいた。人望、というよりは「人気」なのだ。
2005.07.01
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「ふうん」 夕方。化学準備室の中、南雲は高村の提出した指導案を一瞥すると、一言そう言った。「ど、どうでしょうか」 高村は思わず弱腰になる。 実習生は、実際の授業実習の前に、必ず指導案を担当に提出し、指導を受けることを義務づけられている。 彼なりに、何とか形にしてみた案だった。時間もそれなりに掛かっている。一応、大学の「教材研究」授業でも実際の授業の指導案の書き方は習ってきたつもりだった。模擬授業も経験している。 なのに、一瞥するなり、この態度だ。 さすがに高村は、どう反応していいのか判らなかった。 南雲はデスクの上に、彼の書いた指導案を軽く投げ出した。「どうでしょうか、もどうも、ないわね」「…って」 南雲はにっこりと笑った。だがその目は決して笑っていない。「まあ、そう固くならないで。一度、やってみなくては判らないでしょう? 生ものだし。授業は」「は?」 まだ合点がいかない、という表情で高村は彼女を見つめた。「つまりですね」 何やら紙を丁寧に折り畳んでいる森岡が、そこで初めて口をはさんだ。「君の指導案はまだまだ全然、詰められていない、ということですよ、高村君」 南雲はち、と舌打ちをし、軽く目を細めた。「詰められて、いない?」「内容がスカスカだ、ということです」「スカスカ…」「それこそベテラン教師なら、その案で授業も進められるでしょう。彼らは蓄積がありますからね。しかし君の様に、初めてとか、数回限りの実習生の場合、手順や予想される反応等、きっちり詰めておく必要がある、ということですよ」 はあ、と高村は思わずうなづいた。穏やかな口調なのに、言うことに容赦はまるで無かった。「でもまあ、やってみてそれが判る、というのも確かにありですね、南雲さん」 そうですね、と言いつつ、振られた南雲の目は相変わらず笑っていなかった。 それに気付いたのか気付かないのか、森岡は付け足した。「ああそうそう、それと高村君、ハッタリも一つの手ですよ」「ハッタリ?」 いきなり何を言うんだ、と高村は思わず声を張り上げた。「君が何よりも、彼らに呑まれない、なめられないことの方が大事ですよ。教える内容よりもね」「…?」「彼らは後期生です。授業を聞くも聞かないも、自己の裁量に任せられている訳です」「はあ?」「ひらたく言えば、彼らに聞く気にさせて、飽きさせなければ、いいんです。…まあ、私が言えた義理ではないですがね」 よし、と森岡は両手をほら、と広げて見せる。「あ」 思わず高村は目を見張った。その手の間には、三つにつながった鶴ができあがっていた。「…い、いつの間に…」「趣味なんですよ」 そう言われれば。もしや机の上の恐竜や昆虫も、森岡の作ったものなのだろうか。高村の目が、机の上と森岡本人の間を往復する。「これも一つのハッタリですがね」 はあ、と高村はうなづいた。確かに直接科目に関係無くても、一芸に秀でている人物には、一目置きたくなるものである。 しかし自分にその真似はできない。彼は案を手に取ると、もう少し考えてみるべく、デスクの上に全部を広げてみる。 今考えてみるべきなのか、とにかく一度体験してショックを受けてみるべきなのか。 いずれにせよ、今目の前に、確実に課題があるのなら、できるところまでは詰めてみるのが、今ここに来ている自分の義務だろう。彼はシャープの芯をかちかち、と数回出した。 と、その時、こんこん、と扉を叩く音がした。「失礼します」 戸車のがらがらと動く音と共に、低い声がその場に響いた。ん? と高村は聞き覚えのある声に振り向く。「あら、垣内君、どうしたの?」 南雲は親しげな口調で、部屋に入って来る生徒に声を掛けた。そう、垣内だ。図書室でも確かにそう呼ばれていた。 森岡は興味が無い、という顔で、目の前のTVのスイッチを入れる。ローカルのニュース番組がちょうど始まる所だった。「…実は生徒会の問題で、南雲先生に相談に乗っていただきたいことがありまして…」「また?」 南雲は苦笑しながら、こめかみに指を当てた。「去年と違って、あなた達の代は、私を呼び出すことが多いのね」「それは仕方無いですよ、先生。先代の会長の頃とはまるで今は違いますから、皆…」「ええ、わかった、わかったわ」 南雲は冗談だ、とばかりに笑うと、両手をひらひらと振る。「ともかく今からすぐ、そっちへ行った方がいいのね?」「はい、すみません、ご足労お願いします」 垣内は南雲に向かって軽く会釈した。「では少々、行ってきます。高村先生、別にそのままでも案は構わないけど、必要があるのなら、ちょっと待っていてちょうだいね」 言い残すと、南雲は足早に化学準備室を出て行った。その姿は、ここで高村や森岡を相手にしている時よりも、むしろ楽しそうに見えた。 その後に垣内が続く。部屋を出る時に、彼はもう一度軽く会釈をしていった。扉が閉まると同時に、高村はふう、と息を吐いた。「何ですか、高村君。ずいぶん気疲れしていた様じゃないですか」「え? …そうですか?」「だって君」 森岡はつ、と折り鶴の一つを高村に突きつける。
2005.06.30
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「え」 丸い眼鏡の下の目が、レンズと同じ位に丸くなる。 数秒。「…なーんて、ね」 にやり、と高村は笑った。「うそうそ。女の子の方が大好き」「…やーだ」 ははは、と彼女は苦笑した。「一瞬、本当かと思ったじゃないですか」「…何、オレそんなにホモに見える?」「あ、そうじゃなくて、あの、先生の言い方が真に迫ってたんですってば。あ、今度はヤキソバパンですね」 焦りながら慌てて話題を変えようとする彼女に、彼はうん、と返事をする。彼は既に、次の獲物に取りかかっていた。「購買の一番人気なんですよ、それ」「あ、そーなんだ」「私も時々購買は利用するんですけど、ヤキソバパンはさすがに買えたこと、無いんです」 へえ、と彼はその優秀な戦利品を口にくわえながらうなづく。「…ってじゃあもしかして、村雨さん、遠いの? クラス」「いいえ、私、ただ単にとろいんです」 うーむ、と高村はどうフォローしていいか迷った。確かに図書室での、彼女のあの調子では、昼の購買では確実に潰されてしまうだろう。「あー…でもね、村雨さん、あれは気合いよ、気合い」「気合い?」 彼女は首を傾げた。そうそう、と高村は指を立てる。「『おばちゃーん! ヤキソバパンとチョコリングとパピロバターとポテサラサンド!』…ってね。遠くからでも、とにかくこれでもか、とばかりに叫ぶ! それしかない!」「そ、それは…」 彼女は苦笑しながらそれはできない、と首と手を横に振る。「んー、でも、だいたいオレ、それでこうゆうことは、物事通してきたからね」「そうなんですか?」「そうなの」 そうなのだ。まず態度から。それが彼のモットーだった。気持ちは、つい揺らぎそうになるから。「あ」 突然、彼女は胸ポケットから携帯を出した。「何、メール? 友達から?」「あ、まあ…」「そう言えば、いつも一人で食べてるの?」「ええ、まあ…」 そうだろうな、と彼は思う。図書室に居た時の周囲の反応も気になる。そしておそらく、それをこの敏感な少女は気付いている。 なら、一人で居る方が、気楽なのかもしれない。「…違う学校の、友達なんです」「あ、ちゃんと友達は居るんだ」「居ますよぉ、幾ら何でも」 くす、と笑いながら、彼女はぱちん、と携帯の蓋を閉めた。 何となくほっとする自分に、高村は気付いた。*「…全く、『遠野サマ』にも困ったもんだよなー」 あの声は島村だ、と高村はちら、と横目で見る。今日の眼鏡のフレームは、鼈甲の太枠だった。確か今朝聞いたところによると、「有閑マダム風」だそうだ。「また何か、あったんですか?」 別の教師が問いかけている。明らかに島村のぼやきは、誰かに聞かせるためのものに違いなかった。独り言にしては、声が大きすぎる。「んー、まあ別に、一人で休むんならいいですよ、あいつ、成績いいし、理解力あるし。だけどなー」 はああ、とややわざとらしく両手を広げ、島村は大きなため息をついている。「あれがボイコットすると、うちとか、隣のクラスの女子とか、結構便乗する奴が増えちゃってねー」 便乗? ふと高村は注意を向けてしまう。「…で、今後のスケジュールの変更についてですが…高村先生、聞いてますか?」「は、はい!」 職員室の端にある応接スペースで、彼は教頭と一対一で向かい合っていた。「…慣れないことの連続であるのは判りますが、皆、最低二度は通る道です。しゃんとして下さいよ、しゃんと!」「はい!」 高村は思わず姿勢を正した。 確かにこの教頭の口調には、人を鼓舞する何かがある。正しいことを、正しく守らせようとする人だ、という印象があった。 そう言えば。彼は南雲にもそんな傾向を感じていた。ただ教頭の方が、言葉に重みが感じられる。「…あの、教頭先生、一つ聞いてもいいですか?」 ふと彼は、昨夜軽く疑問に感じていたことを口にしてみた。「何ですか?」「昨日、結局、朝礼は無かったんですよね」「ええ。あなたも遅刻したことですし」 そう言われると、きり、と高村の心臓も痛む。「でもオレのせいではない、って聞きましたけど…」「誰からですか」「いえ、誰という程でもなく…」 教頭は眼鏡の下の目を軽く細めた。「この学校には、この学校なりの事情がある、ということです」 なるほど、と短い答えに彼は悟った。 下手にそのことについて頭を突っ込むな、ということか。 だったらこれ以上、ここで聞いても仕方あるまい。この女性は決してそれ以上を口にしないだろう。彼は教頭に軽く頭を下げた。「判りました。ありがとうございます」「判ってくれたのなら、良いのです。次に…」 教頭の話は先へ先へと進められて行く。しかし一度立ち上がった疑問はそう簡単に消せるものではないことを、彼は良く知っていた。
2005.06.29
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「おお~いい景色じゃないかっ」 屋上へ続く扉を開けた途端、高村は右手の拳を強く握りしめた。両手が空いていたら、きっと両手で感動の表現をしたに違いない。だが左手は、パンとコーヒーに占領されていた。 数歩進み、180度見渡す。五月のさわやかな風が、彼のやや乱れた長めの髪と、腕まくりをした白衣をさわさわと翻す。「何でこんないい景色なのに、外で食おうって奴が居ないのかなあ、全く…」「…あの…金網が無いせいじゃないですか…」 彼はとっさに、声の聞こえる方を振り向く。だが姿は無い。「誰!? 誰か居る訳?!」「…すみません、つい」 先程出てきた階段室の裏から、ひょいと女生徒が顔を出した。高村は思わず指を突き出す。「あ、君、見覚えある! 確か図書委員の…」 いかん、名前が出て来ない、と高村は口を開けたまま、上げた右手の指を何度も何度も上下させた。「…村雨です。高村先生。村雨乃美江」「そうそう、村雨さんだ」 そう、あの図書委員の子だ。あの印象は非常に強かった。「どうも昨日はすみませんでした。私とろくさくて」 言いながら、彼女はまたも頭を下げた。「うーん…それはまあ…いいけど」 苦笑しながら、高村は彼女の方へと近づいて行く。 彼女が腰を下ろしていたのは、屋上の他の所より一段高く、ややこの季節には、陽当たりが良すぎるかもしれない場所である。だが南向きの風が緩やかに吹き込んでくるせいか、全体的には心地よい空間となっていた。 よいしょ、と高村は彼女の横に座り込むと、買ってきたパンを次々に放り出す。それを見て村雨は目を丸くした。「高村先生…四つも食べるんですか?」「そりゃあ、まあ。慣れないことばっかだから、腹も減るし…」 ぴり、と高村はその中の一つ、チョコリングの袋を破く。 ふと彼女の方を見ると、膝の上には手作りのカバーを敷いた、可愛らしいお弁当箱があった。その脇には、ステンレスの小さな水筒も置かれている。「へえ、ちゃんとおべんと作ってるんだ」「ええ、料理は好きなんです」「ってことは自分で作るの!? すげえ」 率直な高村の賞賛に、彼女は顔を赤らめた。「そんなこと、無いですよ。お弁当の子もたくさん居るし、これだって、あり合わせのものとか、昨夜の残りとか…」 いやいや、と高村はわざとらしい程に、首を大きく横に振る。「こう見えてもオレ、大学に入ってから一人暮らし三年やってるけど、マトモに料理なんて作ったことないぜ?」「だって先生は、男だし」「男女は関係ないさあ。料理はできるに越したことないし。オレの友人にも、そういうの、すげえ上手い奴が居てさあ」「彼女ですか?」 ぷっ、と高村はパックのコーヒーを吹き出しそうになる。慌てて口を拭きながら問い返す。「彼女?」「だって…先生、結構、六年の間でも、もう結構、人気出てるんですよ?」「えええっ? 何でオレがっ」 思わず彼は退く。「だって、先生格好いいですよ」「…冗談はよそうね」「冗談じゃないですってば。細身だし、結構すっきりした顔だし…」「今ってそういうのが、流行?」 彼は眉間にやや大げさなまでにシワを寄せた。「…かどうか知らないですけど、クラスの子が、トイレでそういうこと、言ってたの、耳にして…そう、今日だって、何かそのだらん、と着た白衣が格好いい、とか…だから大学で彼女の一人くらい居たっておかしくはないって、皆…」 うーん、と高村はうなる。それは彼にとって、あまり触れられたくない話題だった。 彼はぽん、と村雨の肩に手を置いた。ぴく、と彼女の身体がその瞬間震える。 昨日の本にびっしょりとついた汗。彼女が緊張するタイプであることを高村は思い出した。 気付かないふりをして、彼はすぐに手を離した。そしてあえて真剣な声で囁く。「…あのね、君だけに言うけど…」「は、はい?」「…実はオレ、女には興味ないんだ…」「え」
2005.06.28
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「村雨さん」 彼は声を掛けた。ぴくん、と飛び跳ねる様に、村雨は顔を上げる。眼鏡の下の目が、大きく丸く開いた。「な、何でしょう」「ええと、…あ、村雨さん」「は、は、はい」「ええと…オレ五年に、教育実習で来てるんだけど、司書の先生から、貸出のことは君に聞いて、って言われて」「か、貸出ですね、はい」 何を焦っているのだろう、と高村はその態度に驚く。「ええと、…あ、でもこれ『禁帯出』ですね…ええと…」 彼女の視線は、本と高村の間を忙しなく往復する。「あ、高村だよ」「高村…せんせい。はい。ああ…どうしましょう」 ばたん、と彼女は司書室の扉を大きく開ける。禁帯出の本の貸し出しはどうしましょう、と泣きそうな声で問いかけているのが高村の耳に飛び込んでくる。「あーあ、またかあ…」 後ろで、五年五組の女生徒が本を玩びながらつぶやいていた。「また?」「あ、高村せんせーだぁ。そぉ、また」 ねー、と更に後ろに居た女生徒と顔を見合わせる。「そぉ。いっつもあのひとそうだよ」「きゃ!」 声と共に、飛び出してきた村雨の姿がカウンターから消えた。何かが崩れる音と共に、痛ぁ、という声が下から聞こえる。「お、おい、大丈夫かよ?」 高村は思わずカウンターの中をのぞき込んでいた。するとそこには、転がった村雨が必死で立ち上がろうとしていた。「だ、大丈夫です…な、慣れてます~」 良く見ると、床は未整理の本でごちゃごちゃと散らかっていた。どうやら、つまづいたらしい。「ええと、すみません、あの、この本の手続きは」 置かれ直した本がじっとりと濡れていることに高村は驚く。良く見ると、村雨の手がびっしょりと汗をかいていたのだ。 やがて彼は、次第に背後の気配が増えてくるのに気付いた。自分一人にかまけているうちに、貸出希望の生徒が列をなしてきたのだ。昼休みの終わりも迫ってきていた。「ああもうっ! また先輩!」 不意にぱたぱた、と声と共に、列の中から一人の女生徒が飛び出して来た。そしてカウンターの中にするりと入り込み、村雨を横に押しのける。「先輩は、この先生の分だけ、やっていて下さい。あたし、この後ろを担当します。お願いします」 言葉は丁寧だが、態度はぞんざいだった。「あ、…はい、ごめんなさい」 ぺこん、と村雨は後輩の委員に頭を下げた。「じゃ、すみません、高村先生、こっちにちょっと…」 入り口に近い方へ高村は促された。ちら、と見ると、後輩の委員はてきぱきと貸出者の処理をこなしていた。「…どうもすみません…あたし、いつもこうで」「…いや別に、いいよ。オレもそんな、急いでないし…」「だけど先生、もう次の授業…」 え、と慌てて時計を見る。いけね、と彼は大きく頭を振った。どうやら自分まで、この村雨のテンポに巻き込まれそうだった。「あ、垣内先輩、お久しぶりです!」 その時、後輩委員の声が、急に弾んだものになった。「あれ、今日は君が当番だった?」 低い声が問いかける。先輩。六年か。高村は思う。「今日はこっちの村雨先輩です。あたしは助っ人!」「ああ…」 ちら、と垣内と呼ばれた男子生徒は、村雨と高村の両方を交互に見て、微かに笑った。「先輩がぁ、またぐずぐずしてるからあ」「いいじゃない。その分、君等後輩が、しっかりしているんだから」 言うなあ、と高村は思った。そうですね、と後輩委員はその言葉に気を良くしている。それに声もいい。深いバリトンだ。背も高いし、肩幅も結構ある。やせぎすな自分よりずっといい身体だった。 なるほど、人気者の先輩ってことか。高村は納得する。「村雨さんも、がんばってね」「あ…ごめんなさい」 ぺこん、と村雨は出て行く垣内に頭を下げた。その様子を見て、高村は軽く眉を寄せる。「いつも、そうなの?」「え?」「いや…村雨さん、さっきから何度も何度も、頭下げてるから」「あ、だって…あたし色々、すぐに皆に二度手間三度手間とか掛けさせてしまうから…」「…じゃ、なくてさ」 ううん、と高村は再び眉を寄せた。 何と言ったらいいんだろう。彼は自分のボキャブラリイの無さに呆れるだけだった。「だから、頭を下げるのは…」 キーン・コーン… チャイムの音が言葉を遮った。「あ、時間です」 村雨は何気なく口にする。まずい、と高村は本を抱えて図書室を飛び出した。「また今度!」 思わず彼は、そう叫んでいた。 また今度。 彼女には、きっとまた会う様な気がしていた。*「はあ…」 部屋の電気を点け、スーツの上着を放り出した瞬間、高村は大きくため息をついた。 そのまま座卓の前に座り込み、ミニコンポのスイッチを入れる。古典的パンクを模したバンドの音が、部屋中に流れ出す。 イカサマな、切れた様な音が好きで、彼は大学の受験勉強の頃も、よくそのディスクを繰り返し流していた。 座卓の上には新聞と、菓子パン半分が置かれたままだった。 今朝読む暇の無かった新聞を床に放り出し、菓子パンを口に放り込む。かさかさに乾いているそれに顔をしかめ、彼はキッチンへミルクを補給に立った。 密度の高い、充実した一日だった気がする。だがこれが二週間も続くと思うと、ややうんざりする。 鞄の中から、本やノート、教頭から配られた日程表のコピーなどを取り出し、座卓の上に広げる。これから改めて腹ごしらえをしたら、取り組まなくてはならない諸々。 日程表には、二週間の予定がぎっしりと記されている。「ん?」 ふとその一点に、彼の視線が止まる。 「第一日目」の予定の最初に、「朝礼」という文字がある。「やっぱり予定にはあったんだよなあ…」 だけど結局、朝礼は無かった。その結果、校内のあちこちで、彼を知ってる者、知らない者がまちまちだった。 そう言えば、どうして朝礼が無かったのだろう? 事務員も南雲も、自分のせいではない、と言っていたが。 まあ自分のせいじゃないなら、いいか。 彼はそう思いながら、放り出した上着と、クローゼットに並ぶ柄シャツを眺めた。 …そう言えば、まともに履いて行けるズボンなんてあっただろうか?
2005.06.27
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「まあしかし、南雲さん、あなたのクラスの生徒はそれでも良く、授業を聞いているそうですね。他の学科の先生達も実に褒めちぎっていますよ」「それはそうです。生徒は、すべからくそうでなくてはいけません。いけないんです」 南雲はきっぱりと断言した。「そして教師もまた、生徒にはそうさせなくてはならない義務があると思いますが?」 ふむふむ、と森岡はうなづく。「それはそれで、一理ありますねえ」「一理、ではないですよ、それが…」「さあて。ところで、高村君はどう思います?」「え」 思わず高村は問い返す。むきになる南雲に、はらはらしてはいたが、いきなり自分に振られるとは思ってもみなかったのだ。「お、オレは…」 言葉に詰まる。そんなこと、考えたこともない。「…まあいいですか。ところで、ずいぶん君、そのスーツを気にしていたようですが」 ぷっ、と今までの剣幕も何処へやら、南雲は再び吹き出した。「どうしました?」「いや、実は彼…」 ああ、と高村は両手をばたばたと振る。「借り物だ、そうですよ。何でもスーツは一枚も持っていなかったということで」「まあ、若いですからねえ」 森岡はずずず、と茶をすすり、遠い目をする。「服ですか…私も若い頃は色々苦労しましたよ…ま、別にここは化学の教師だけの場所ですし。それにそんな、昔じゃあなし、教師も生徒も、学校でさえちゃんとやっていれば、ねえ」 振られた南雲は、再びやや苦い表情をする。「と言っても、その格好じゃ、自分はスーツを持っていません、って大声で言いふらしている様だわ」 ふむ、とたくあんをかじりながら、森岡はうなづく。「君、シャツは持ってますか? それと地味なズボン」 彼は思わず、自分のクローゼットの中を思い起こした。 シャツは…まあ、それなりに、ある。柄もあったような気がするが。ズボンは…「…まあ、それなりには」「じゃあ明日からは、それにネクタイでいらっしゃい」「い、いいんですか?」「大丈夫、もう初夏ですし。下手なスーツよりは、さっぱりしていてよろしい」 森岡は箸を一度置き、立ち上がる。そしてロッカーの中から白衣を一着取り出すと、どうぞ、と高村に手渡した。「学校では、これを着てればいいですよ。まあそのかわり、期間中、どんなに暑くなっても脱げなくなりますがね」「い、いいんですか?」「いいも何も。これから実験とか、色々あるでしょうし、スーツなんかじゃあ、化学教師なぞ、やっていけませんよ」 ありがとうございます、と高村は丁重にそれを受け取った。「けど高村先生、この先ちゃんと教師になろうって思うなら、スーツはきちんとそろえておいて下さいね」 南雲はぴしり、と言った。おおこわ、と高村は一瞬身を震わせる。「まあそれも、そうですねえ。まあもっとも、それは教師だけに限りませんが」 南雲は黙って目を細める。森岡は再び箸を取り、弁当の続きを口にする。「お、パン買って来たんですね。さあさ、君も早く食事しなさい。時間がもったいないでしょう」* そう、時間は限られている。無駄にはできないのだ。食事の後、高村の足は図書室に向かっていた。 図書室は、教室棟の二階の突き当たりと聞いていた。 二重になった扉を開けた時、思わず彼は目を見張った。彼が昔通った理系の中等学校より、よほど大量の本が、この部屋にはありそうだった。「あらあ? あなた確か、教生の?」 右横から、声が掛かる。顔を上げると、淡いピンクのスーツを着た小太りの女性が、カウンターの奥の小部屋から身体半分をのぞかせていた。歳の頃は三十台半ば、というところか。「何か借りて行かれます?」「…あ、まだ判らないですが…」「そう。じゃあその時には、一言私か、委員の子に言ってね」「判りました。すみません、司書の…方ですか?」「ええそうです。あなたは、確か高村先生、でしたね」「はい」「委員の子なら、向こうに今、居ますよ」 彼女は部屋の南の窓際を指した。 そこには、背中の真ん中まである長い髪を、ざっと後ろでくくった丸眼鏡の女生徒が居た。高所の本の返却中らしく、やや頼りなげな姿勢で、踏み台に足をかけている。「村雨乃美江さん。六年間、ずうっと図書委員をやっているの」「へえ…じゃあベテランですね」「ベテラン? まあ、そう言えばそうだけど…」 その口調に高村は首を傾げる。彼女の表情には何処か苦笑が含まれていた。「まあ、私しばらく中で仕事続けたいので、やっぱり彼女に聞いて下さいね。よろしく」 そう言うと、彼女はさっさと奥へと入って行く。何だろう、と高村は首をひねる。気になる笑いだった。 とはいえ、とりあえずは時間が惜しい。彼はさくさく、と書棚の間を回った。化学の棚から、数冊引き出す。確かに書籍の数も種類も豊富だった。できれば棚の全部を持ち出したいくらいである。 だがそれではきりが無い。後でまた来ればいいんだ、と高村は自分に言い聞かせ、三冊だけを手に残す。そして先程の村雨という女生徒を目で探した。 南の書棚には既にその姿は無かった。カウンターに視線を移す。居た。
2005.06.25
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「え~…遠野さん…」 学校最古参の平教師、五十を幾つか過ぎたらしい六年の化学担当の声は、教室の中にのんびりと響きわたった。「あの、森岡先生」「何ですか」「遠野さんは、欠席です」「ほぉ、欠席。だが今朝、私は彼女を文化部棟の方で見かけましたが?」「あの…授業は欠席する、と伝えてくれ、と」 穏やかに、しかし鋭く追求する森岡の声に、伝言役の女生徒も、やや恐縮している様だった。 後ろで聞いている高村にも、それは良く判った。 教室の定員は三十名である。 この校舎は、かつて一クラスに五十人の生徒がひしめいていた時代に作られたものなので、現在では座席の背後は広く空いている。 高村はその空いた場所にパイプ椅子を持ち込み、授業を見学していた。 さすがに後ろに実習生が居る、ということで、内職や早弁をしている者は居ない。しかし、手元で携帯にメールを打ったり、古典的に手紙を書く者は、当たり前の様に多数存在した。 要は、授業そのものを壊さなければいいのだ、と彼は言われていた。直接的に授業妨害をする様なことが無ければ、後は自由。個々の成績が上がるも落ちるも、後期生に関しては自主性に任せられるのである。 変わってないなあ、と彼は彼らの様子を見ながら、ふと自分の頃を思いだし、ため息をつく。 一方、生徒達が聞いているのか否かにも関わらず、森岡も授業を淡々と進めて行く。 彼もまた、この生徒達の様子を知っているだろうに、冷静極まりない。表情一つ変えずに、講義内容を次々とホワイトボードに書き付けて行く。 高村はそんな生徒達の様子も含めて、見学をしているのだが、組んだ足の上のメモボードが、さっきからずり落ちそうで困っていた。 と言うよりも、彼が現在着ている紺色のスーツが、肩から膝からずり落ちそうだったのだ。「ちょっと待て、お前スーツの一着も持ってねえのかよ!」とクラスメートからそのことを指摘されたのは、既にゴールデンウイーク最終日だった。「仕方ねーだろ、仕送りはだいたい生活費に回るしさあ」「へいへい、バイト代はだいたいそこいらのものに変わってしまうからな」と、友人は彼の部屋の中にあるCDや、ずらりと並べられている、柄シャツ・Tシャツといったものを指さした。「…だってこの間、『ベイシックDD』で、セールやっててさあ」 馴染みの古着屋の名前を彼は口にしていた。「何かちょうど、オレはまりのモノばっかでさ~」「…使い果たした訳ね」 クラスメートは額を押さえ、ため息をついた。 結果、まともなスーツを買う程の現金は、その時の彼の手元には存在しなかったのだ。「おい、どうしよう~オレ~」 泣きついたら、そこは友達だった。仕方ねえなあ、と呆れつつも、そのクラスメートは「就職用に」と持っていた中の一着を貸してくれたのだ。 大感謝、という所だが、着てみたら、肩幅もウエストも違いすぎていた。 柄や色合いが良ければ、レディースのシャツも着られてしまうスレンダーなサイズの彼にとって、運動部在籍のクラスメートのスーツは大きすぎたのだ。 朝起きて、焦って飛び出した時はまだ良かった。しかし、一度落ち着いた場所に居着いてしまうと、こういうものはどんどん気になってしまうものである。* 南雲はいきなり吹き出した。「それであなた、そんなぶかぶかのスーツだったのね!」 四時限目の後のことだった。歩くたびにスーツのあちこちを摘んだり上げたりしている高村に、業を煮やした南雲が理由を問いただしたのだ。「…そんなに笑うなんて、失礼ですよ…」「ああごめんなさい、いや確かに、変だ変だと思ってはいたんだけど」 勝手にして下さい、と高村は眉を寄せつつ、くいっ、と落ちかけた肩をまた持ち上げた。「昼食はどうするの? 私は化学準備室に行くけど」「…購買があるんですよね、確か」「ええ。すぐ目の前にも、分室があるわよ」 え、と高村は南雲の指さす方向を向いた。五年七組と八組の間の小部屋に、生徒が群がっていた。「まあ今からだと、パンも果たして買えるか…」 そう彼女がつぶやいた時、既に高村は生徒の中に突進していた。*「おや、遅かったですね、南雲さん」「森岡先生」 先客は、既に手弁当の半分を食べ尽くしていたところだった。 化学準備室は、理科棟の一階の階段横にあった。 広さは他の教室の半分程度しか無かったが、静かなうえ、日当たりが良く、騒がしい学校の中では、居心地の良い空間だった。 また、書棚やデスクの上の書類や本、無造作に置かれたTVモニターと言ったものが、必要に応じて配置されている。何処かそれは、大学の研究室を思わせるものだった。 その中で、ふと高村の目に、色鮮やかなものが飛び込んできた。紙細工の動物や恐竜だった。 折り紙の様に見えたが、ずいぶんと細かいものだな、と彼は感心した。「高村くん、何か疲れた顔してますね。六年生はなかなかあなどれないでしょう」「…え」「あれでも、半分は、聞いていますよ。ご心配なく」 はあ、と高村はうなづいた。「彼、何か妙なことを?」 南雲は眉をひそめた。いえいえ、と森岡は箸を持ったまま、軽く右手を振った。「彼はちゃあんと、私の授業を熱心に見学していましたよ。ご心配なく。ただまあ…授業というものは、皆すべからくきちんと聞いているとは限らないものでしょう。古今東西」「…全く。どうにかならないでしょうか」 ふう、と南雲はため息をつき、今度は露骨に眉を寄せた。
2005.06.24
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「と言う訳で、よろしくね」 南雲は出席簿を手に高村に近づくと、左手を差し出した。「こちらこそ、よろしくお願いします」「私の担当は化学なの。だから今回、あなたの担当に選ばれたらしいわ」「化学担当の方は、南雲先生だけなんですか?」「いいえ、もう一人いらっしゃるけど。森岡先生」「こちらには」「…ああ、もう姿が見えない。化学準備室の方かしら。私は五年の化学を担当しているの。森岡先生は六年の方。だから今回は私に白羽の矢が立ったようね」「五年」「ええ。それと、私の担任しているクラスは五年五組。そう、こっちのHRの方も経験してもらいましょうか」 ふふ、と彼女は笑う。 化粧気の無い顔だったが、白衣にショートカットのその姿には良く似合っている、と高村は思った。「しかし高村先生? ずいぶんとでかい声だねえ」 先ほど彼の大声に肩をすくめた茶髪の教師が、くるりと椅子を回した。プラチナ色の六角形の眼鏡のフレームが、きらりと光った。「あ…すみません、そんなオレ、でかいですか? え…と」「島村だよ。俺は五年の現代国語を担当してる。まあ時々顔を合わすことになるけど、その時にはもう少し、声のヴォリューム下げてくれる?」 島村は、そう言い捨てると、にやりと笑った。机の上には、古今東西の文学の本が山と積まれている。「高村先生!」「は、はい!」「HRが終わったら、一度職員室に戻って来て下さい。今後の日程についてお話いたします」 先程の女性だった。どなたですか、と高村は南雲に小声で訊ねた。教頭先生よ、と彼女は答えた。教頭! はい、と高村は再び大きな声で返事をした。*「そういえば」 教室へと向かう廊下は、長かった。「朝礼が今日は、無かったって聞いたんですが…」「ああ…朝礼ね」 確か事前にもらった資料によると、週明けの朝礼で彼は教生として、生徒の前で紹介されることになっていたのだ。「まあ色々事情があって。あ、もしかしてあなた、自分のせいだと思っているの?」「そう思ったんですが…違うらしいと。下の事務の…」「…お喋りなひと」 南雲は軽く眉を寄せた。「でもまあ、あなたの遅刻のせいではないのは、確かなのだけど。…でもどうして、大事な時なのに、遅刻したの?」 高村は言葉に詰まった。「なるほど、困ること?」「…寝坊なんです」「寝坊!」 ぷぷ、と彼女は吹き出した。「…笑うことはないでしょう」「あ、ごめんなさい。だけど、今まで私、六年間教師やってきて、寝坊で実習に遅刻してきた学生は見たことなかったから」「…そうですか?」 高村は口をとがらせ、言い返す。「そうよ。皆、緊張して昨夜は眠れなかった、とか言ってるのがほとんどなのに。大物ね」 まあいいわ、と彼女はぽん、と頭半分高い教生の肩を叩いた。 吹き抜けの渡り廊下を過ぎると、右手に図書室、左手に緩やかに曲がる廊下が続いていた。「ここからが、教室棟」「ここからが? 全部ですか?」「そう。さっき私達が出てきたのが、管理棟。そしてほら」 南雲は右手に大きく広がる階段を指す。半階進んだ部分に通路が広がり、その向こうにもう一つの棟があった。「向こうが理科棟。私達は向こうに居ることの方が多いわ」「そうなんですか?」「ええ。職員室には皆、朝のミーティングと、帰りの報告くらいしかやって来ないの。そうね、中等の後期部担当の教師となると、科目ごとに、皆個性がばらばらで、世間話も少しやりにくくてね」 それは初耳だった。 しかし自分の中等の頃のことを思い出せば、それも判らなくはない。たかだか、三年前のことなのだ。現在の彼は、県立大学の教育学部理科専攻化学部門の三年である。 2045年現在の日本では、小学校の六年と中等学校の六年、計十二年間が義務教育となっている。 中等学校は、前期三年と後期三年に校舎とカリキュラムを分けているが、課外活動や祭事に関しては、共同で作業を進めることになっている。 その六年間のうち、確かに後期の三年は、教師の姿を職員室で見ることはそう無かった様な気も…する。「仲が悪いということ…は?」 先ほどの「現代国語」の島村という教師の、からかう様な口調を思い出す。南雲は首を横に振った。「仲が悪い、という訳ではないのよ。ただ、あまり共通言語が無いの。同じ職場なら、居心地がいい場所を皆求めるでしょう? それだけのことじゃないかしら」 はあ、と高村はうなづき、階段の横をすり抜ける。と。「まあでも、この作りは無いって思うわね、さすがに」 南雲は両手を広げた。彼らの行く手には、長い廊下が延々と真っ直ぐ続いていた。「一学年、十組あるの。五年生は二階よ」「まさか、十クラス、ずらっと」「そう、並んでるわ。クラスによっては、さすがに色々不便もある様ね」 そう言いながら、彼女は「五組」のプレートが付けらけた扉に手を掛けた。がらり、と戸車が音を立てる。 南雲は厳しい表情になると、大股で教壇の前まで歩く。そしてざっ、と生徒達を一瞥した。それまで騒いでいた生徒達が、その瞬間、さっと静まった。「空席は無し…OK、今日も欠席はゼロね。出席を取る必要は無し。時間も押していることだし、てきぱき、と紹介しましょう。高村先生です」 彼女は高村を手招きすると、背後のホワイトボードに、最太のマーカーで「高村正治」と大きく書いた。「二週間、教育実習で県立大学からいらしたの」 おお、と教室中が一瞬沸いた。そういえば自分の時もそうだったな、と彼は思い出す。 ただ。「南雲さん、そんなこと言わなかったじゃんかよー」「ちょっとした連絡不足よ! まあ、急に決まったことには違いないけどね。でもいい機会だわ、滅多に無いことだし、二週間、彼と仲良く楽しく厳しくやって行きましょう」 厳しくぅ? と女生徒の声が上がる。「そう、厳しくね」 ふふふ、と南雲は笑う。「何か彼に質問は? 時間の関係上、二つまでね」 はい、と一人の女生徒が手を挙げた。「川原さん?」「はい。…あの、これは高村先生ではなく、南雲先生への質問なのですが」「何ですか? 私に個人的質問? 今更」「いえ」 くすくす、と周囲がさざめき立つ。「七組の、日名さんが急に退学したって、本当ですか?」 その途端、周囲の空気が変わった。質問する川原という女生徒の目も、真剣なものだった。「…何処からあなた、それを聞いたの?」「あの、私、同じ部活ですから…今朝」「ああ、あなた、演劇部だったわね。そう、日名さんは退学したらしいわ。自主退学という奴ね。だけど、それ以上のことは、私には判らないのよ」 ええっ、と男子生徒の声が上がる。そうですか、と消え入りそうな声を立てて、川原は座った。「それでいいかしら? 川原さん」「はい。…仕方、ないです」「他には? …無いなら、今朝のHRはこれで終わりにします」 オレは? と高村は口をとがらせた。確か自分への質問のはずだったのに。 だが何となく、それを言い出せるムードではなかった。やれやれ、と彼は肩をすくめた。
2005.06.23
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「だーーーーっ!!」 強烈な声が、廊下に響き渡った。 何ごとか、とばかりに事務室の小窓が開けられる。 男の声だった。生徒の誰かだろうか。それとも。だが見渡しても、誰の姿も無い。 いたずらだろうか、と閉められようとする。「ちょ、ちょっと待って…」 小窓を止めようとした手に、事務員は思わず手を止めた。 下から頭が、身体が、ゆっくりと上がってくる。青年だった。それも、やや大きめの紺のスーツを着た。 何処か打ったらしく、痛そうに片目を細めている。だがそれでも何とか、顔を上げた時には笑顔を作っていた。「す、すいません、ちょっとあの箱に、けつまづいちゃって。何入ってるんですか、ずいぶんがっしりして」 青年が指した先には、大きな黒い箱があった。上には「冷蔵指定」のラベルが添付されている。「…ああ、あれ…頼まれたの。何でしょうねえ…朝一番で校長から、宅配屋に集荷に来てもらうようにって…えー…と、すみません、当校に、何のご用ですか?」 彼女は改めて青年に問いかける。「え? あ、あの、オレ、…あ、すいません、時間、ずいぶん遅れたから、朝礼、もう、終わりました?」「朝礼?」 彼女は首をかしげた。「いえ、今日は中止になったけど…」「うーん…オレのせいかなあ…」「あなたの? …ってあなたは?」「あ、何度もどうもすいません」 ひょい、と彼は頭を上げ、姿勢を正す。「オレ、今日から二週間、この学校で教育実習をさせていただくこととなりました、高村と言います!」「教育実習…ああ!」 彼女はぽん、と手を叩いた。「そういえば、今日からだったわね。ねえ、そうでしょう?」 奥の別の事務員に、彼女は問いかけた。ええそうです、と高村の耳にも声が飛び込んできた。「そうそう、そうだったわ。あー…でも、朝礼が無いのはあなたのせいじゃあないと思うけど」「へ?」 彼は眉を大げさに曲げた。「だって、今の今まであなたが来るとか来ないとか、こっちには全く連絡が無かったもの。忘れていたわ、ごめんなさい」 曲げた眉が、更に間にシワを作る。「ま、とにかくすぐに、職員室の方へお行きなさいな。ちょうど、この上よ」 彼女は小窓から天井を指した。「上」「そこを真っ直ぐ行くと、左に階段があるから。そこを上がって、右側の突き当たり」「判りました! ありがとう!」「あああああ、ちょっと待って! スリッパくらい履いて行って!」 上がって右、上がって右… 確かに突き当たりに、職員室はあった。高村はその前で思わずぐっ、と生唾を呑む。二重になった扉はぴったりと閉ざされ、遅れた彼を弾き返しているかの様だった。 しかしここは一発気合いだ。自分に言い聞かせる。一度大きく深呼吸をすると、高村はがらり、と扉を開けた。 途端、空気がざわり、と動いた。中の教師達の視線が一斉に、戸口の彼に集中する。「…誰ですか、あなた」 張りのある、真っ直ぐな姿勢の女性が問いかける。声には、明らかに非難の色が含まれていた。 高村はその声に一瞬気圧される。「あ…すみません、オレ、今日から教育実習に参加させていただくことになっている、高村といいます」「高村…?」 訝しげな声で彼女はつぶやき、二秒後、ああ、とうなづいた。「ずいぶんと、遅かった様ですね」「どうも、すみません!」 彼はその時とばかりに、声を張り上げた。とにかく遅れた事に関しては、自分が悪い、悪いのだ! そんな時には、もう平謝りに徹するに限る! 自分に言い聞かせながら、彼は次の雷に対する心の準備をする。 だが。「…まあ、いいでしょう」 女性の言葉に、彼は思わず目と口をぽかんと開けた。「どうしました。起きてしまったことは仕方ないでしょう」「は、はい…」「ただ何の理由であれ、遅れると判っていたなら、連絡の一つは欲しかった所です。以後気をつけて下さい。あなたは実習とは言え、二週間、この西区中等学校後期部の教師ですから!」「…はい」「声が小さい!」「は、はい!」 近くに居た茶髪の教師が肩をすくめた。今度は、大きすぎたのではないか、と彼は思った。「南雲先生」「はい」 一人の女教師が立ち上がった。「今回の実習の担当は、あなたでしたね」「はい。会議終了後、直ちに高村先生を私のクラスに案内いたします」 高村「先生」。いきなりのその呼称に彼は面食らった。 先輩から聞いてはいた。行ったらすぐにそう呼ばれる。そんなことでいちいちびっくりしていたらやっていけないぞ、と。「あなたに任せます。高村先生、あなたは二週間、南雲先生について実習を行って下さい。判りましたか?」 はい、と今度は初めから大きな声で、彼は答えた。
2005.06.22
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夜中の校舎になんて来るもんじゃない! そもそも、自分がここに居ることがおかしいのだ、と彼女は思った。 普通の生徒は、夜の校舎に用は無い。しかもゴールデンウイークの、最後の日だ。 だから遊ぼう、と携帯で呼び出されたのは確かだ。最後の夜だから、心ゆくまで、と。誰も居ない校舎で遊ぼう、と。 ただそれが誰からなのか、彼女はその時、確認しなかった。そんなことを急に言い出す友達は、彼女には幾らでも居たのだ。 だが彼女は確認すべきだったのだ。しかしもはや遅い。 メールには、「図書室で待っているから」とあった。 図書室。それは彼女にとって、学校で最も縁の無い場所だった。「日名さん?」 声が聞こえた。男の声だ。「そう。誰?」「来てくれて、ありがとう」 楽しそうな低い声が、広い部屋の中に響いた。聞き覚えのある声の様な気がする。だが思い出せない。逆光で、顔も判らない。「…誰?!」 返事は無い。「からかってるんなら、あたし、帰るわ!」 簡潔に判断を下すと、彼女は戻ろうとした。が。 ぐい、と後ろから、スカートのサスペンダを互い違いに引っ張られた。喉に食い込み、息が苦しくなる。 やめて、ともがくと、目の前で、きりきりという音がした。目を寄せた視界に入ったのは、分厚い刃のカッターだった。そして。 ―――女の手、だった。 男の動いた様子は無い。もう一人、女が居たのだ。「夜遅くごめんね。ゲームをしようと思ってね」 男が近づく気配がした。「げ、ゲーム…?」 彼女の声は震えた。「そう。ただし、君が楽しめるかは、君の努力次第だけどね」 背後の女はぴくりとも動かない。「今から君を解き放つ。一分後に、後ろの彼女が君を追いかける。逃げ切って、この校舎の外に出ることができれば君の勝ち。できなかったら君の負け」「負け…って」 その時、鼻の頭に、つ、と痛みが走った。「切れ味がぁ、わるい」 気怠そうな女の声が耳に飛び込む。何処かで聞いたことがある。何処かで…「今すぐじゃあ、ダメなのぉ?」「それじゃ、お前が面白く無いんだろう?」「たぁしかにぃ」 ぱ、と女は彼女を離した。男はポケットから携帯を出す。ぽ、と緑色の光が、その口元の笑みを浮かび上がらせた。「では、よぉい」 どん。 調理室に逃げ込んだ彼女は、教卓の調理台の下に入り込んだ。 足音は、一度強く響いたが、次第にその場から遠ざかって行く。 大丈夫、こっちには来ない様だ。向こうの、普通教室の棟へと走って行ったんだわ… 彼女は携帯を開く。液晶画面は、穴蔵の様な机の下で強い光を放った。今のうちに、誰か、助けを。 ぴ、と画面に映った一つの名前を選択する。 その時、かたん、と音がした。彼女は顔を上げる。「見ぃつけた」 携帯の光が、くい、と上がる唇を闇に映し出す。のぞき込む顔が、間近にあった。 背中の半分はあるだろう、重そうな髪をざんばらに乱して、女は至近距離から笑いかける。ひいっ、と彼女は尻餅をついたまま、机の下から飛び退いた。はずみでぱちん、と携帯の画面が閉じる。「やぁだ。そんなに嫌わなくてもいいじゃあなぁい?」 女はゆっくりと彼女に近づく。両手にはいつの間にか、鋭く、刃渡りの長い包丁が握られていた。 背中が一気に冷たくなる。彼女は窓へと飛びすがった。 手はひたすら鍵を探る。―――あった! がちゃ、とレバーを押し上げる。そのまま窓をぐい、と開けようとした時――― 彼女は自分の頭が、アジアンタムの葉に埋まっているのを感じた。かしゃん、と軽い音が床に響いた。 女は空けた左手と、身体全体で、彼女を植物の中へ押し倒していた。その力が強まる。ぺき、と奇妙な音が響いた。「ああああ」「うるさぁい」 女はそれまで首の付け根を掴んでいた左手を、彼女の口へ突っ込んだ。だらだらとよだれが流れるが、止めることもできない。「あ・わわ・わ」 彼女は大きく目を開いた。間近で見たその顔。自分はその顔を知っている! だけど何で! 思い切りもがく。逃げれば。逃げることさえできれば。こいつが誰か判るから。そうすれば。「うるさい、って言ってるじゃないのぉ」 さっ、と女の包丁が右に動く。 彼女の目は大きく見開かれた。喉から血が吹き出す。ひゅうひゅう、とそこから音が漏れる。痛みにだらり、と両腕から力が抜ける。 女は包丁を投げる。ステンレスの調理台が音を立てた。 そしてそのまま軽々と、彼女を教卓の調理台の上に転がし、どん、と台の上に飛び乗った。 馬乗りに押さえ込まれ、両手を左手でまとめ上げられた彼女は、打ち上げられた魚のように、ぴくぴくと身体を跳ねさせる。「ねぇゾーキン、たくさん用意してよ」「判ってる」 男の声も聞こえた。 そうだ、と痛みの中で、その時ようやく、彼女はその声の主を思い出した。クラスは違う。だけど知ってるはずだ。だって…「いくら暖かくなったからって、夜にこんな薄着、女の子が良くないねぇ」 さらり、と女は言った。 そして包丁を持ちかえ、刃の先端を彼女の胸の真ん中に突き立て、思い切り力を込めた。「!!!!!」 彼女の身体は、大きくのけぞった。山吹色のシャツに真っ赤な染みがじわじわと広がった。 女は一度勢い良く包丁を抜くと、二度三度とその付近を突き刺す。抜くたびに血が吹き出す。そしてまた刺すごとに、新たな血がにじみ出す。 何度も何度も、それを女は繰り返した。 やがて彼女の動きと呼吸は、完全に停止した。「何してんのぉ」 床で雑巾をかける男に、女は問いかけた。「少し、飛んでた」「ふぅん」「喉の時のだ」「仕方ないじゃなぁい。あんなとこに居るからさぁ」 女は生徒用のステンレス台から飛び降りた。 教卓の台には未だ遺体が乗せられ、それを取り囲む様に、幾枚もの雑巾が置かれていた。「細かいよね、あんたいつも。そんなこと、後でいいじゃん」「そういう訳には行かないだろう」 ふうん、と女は首を傾げる。「でもあんたは、あたしには早く消えてもらいたいんでしょ」 男は遺体の足が投げ出されたシンクで雑巾を洗う。水は、シンクに流れた血も一緒に押し流して行った。「だったら、早く、来てよ」 女は男の背中に腕を回す。 まだ点々と血が飛んでいる白い手が、男の首をゆるやかに愛撫する。ぴったりとしたTシャツからはちきれそうな胸が、彼の背中にぎゅっと張り付いた。「ねぇ」 ぐい、と女は男の首を自分の方へ向けさせ、有無を言わせずにキスを突きつけた。 ことん、と男は赤い小さなびんを、台の上に置いた。「ん…」 熱い息と共に、男は女の唇に深く口づける。 それはひどく長いキスだった。もつれ合い絡み合い、いつ終わるとも判らないものだった。 だがふと、ごくん、と女の喉が鳴った。 男はそれが合図の様に、女から唇を離した。 女の腕から、次第に力が抜けて行く。 やがて、女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。「…お帰り」 男は女の頬を撫でた。 女はしばらく周囲を眺めると、やがて男に強くすがりつき、激しく泣きじゃくった。 男はくり返しくり返し女の髪を撫でる。それは、それまで交わしていた長く、濃い時間の中で、決して女には与えなかった優しいものだった。「それに」 男は女の瞼にキスを落としながらつぶやく。「これで、最後だ…」
2005.06.21
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「よし野っ! よし野っ!!」 合流した地点で、母親は車の中で眠る娘に、思わず飛びついた。「ケガさせてしまって、すいません…」 中里は母親に向かって頭を下げる。だが母親は、ぱし、と一発、彼の頬を叩いた。「…何言ってんの、あんただって血だらけじゃないの!」「いや、これは…」 もう止まっている、とか痛みは無いんだ、という言葉はその時の彼には出なかった。母親は、大きく首を横に振る。「…生きててくれれば十分だわ! よし野も、あんたも! ああ良かった…」 そう言って彼女は、娘の頬に顔をすり寄せた。よほど悪い予想をしていたのだろう。 肩に刺し傷、そのせいで熱も出ているし、足もくじいているし、膝下の裏側にも擦り傷。 でも――― とにかく生きていてくれさえすれば、構わない―――そういうことだった。「うん、まあこのくらいなら、大丈夫だろう」 ざっと診察した岩室もうなづく。「けど肩ばかりは、ちゃんと医者に診せた方がいいな。熱も出てる。抗生物質も要るだろうし…今から急ごう」 そんな訳で、彼らは一度、自分の市へと戻り、一軒の動物病院の前で止まった。 既に夜になっていた。どう見ても、時間外治療なのだが、岩室はここの主にあらかじめ電話連絡をしておいたらしい。「…岩室さん、もしかして、ここって」 玄関から診療室に向かう壁に所々掛かっている、奇妙な面や槍、といったものが中里の目にとまる。「ああ、前に言ってた、アフリカに行ってた先輩だ」「…でも、…あの、獣医さんだろ?」「刺し傷の縫合くらいなら、動物も人間も大して変わらん。…まあ、時々世話になってるんだ」 なるほどそういうことか、と中里は思った。「お前も着替えろ、中里」「いや、俺は」「見てる方がびっくりするんだよ。ほら、お前の荷物」 そう言って岩室は、彼の前に見覚えのあるスポーツバッグを放り投げた。「俺の? …だよな」「ああ、寄宿舎から、持ってきてやった。中身は適当だが、仕方ない。ついでに引き出しにあった貯金箱も入れてきたぞ。お前結構マメだな」 手回しがいいなあ、と彼は感心しながら苦笑した。「とにかくさっさと着替えろ。血のついた方は、こっちで処理してやるから、脱いだらよこせ」 有無を言わせぬ口調に、彼は逆らう術も無かった。「…私たち、これから、どうしたらいいんでしょうね」 獣医の夫人から勧められたコーヒーを呑みながら、ぽつんとよし野の母親はつぶやく。 普段気丈な彼女にしては、珍しい弱音だった。 それに対し、高村はあっさりと、しかし容赦なく告げる。「今は、逃げるしか、無いです」「無いですか」「はい」 そうですね、と母親もうなづく。それしかないことは、彼女も良く判っているのだ。「とにかくこの市からは確実にすぐ、出てください。西でも東でも。できれば海外が一番いいんですが、あいにくそこまで支援できる体制が、我々にはまだ整ってはいない…」「いいえ」 母親は大きく首を横に振る。「全く無関係の私達に、これだけのことをしていただければ十分です」 いいんですよ、と高村は笑った。「好きでやっている、ことなんですから」* 翌朝早く、彼らは岩室と高村に見送られ、西行きの列車に乗ろうとしていた。「本当に、どうもご迷惑おかけしました」「迷惑…迷惑になってしまう、この体制がおかしいんですよ」 岩室は小さな声でつぶやく。「羽根、しばらくは薬をちゃんと飲んで、包帯も変えろよ。足首には湿布も忘れるな。歩けないようだったら、そこの大男におぶってもらえ」「判ってまーす」 できるだけ明るく、とつとめていたが、まだ熱がひかないよし野の声は、やや元気がなかった。「それから中里」 岩室はポリ容器を二つ、真面目な表情で中里に渡した。「こっちは昨日、ダンナが奴から奪った奴」 濁した言葉に、ああ、と中里はその中身が「R」であることに気付いた。「容器に番号をつけておいた。1の方から使ってくれ」「2の方は?」 するとそれには高村が答えた。「そっちはまだ俺が作った複製品だ。効くことは効く。昨日の朝のキミで立証済みだ。ただ、あくまで試作品だ。できるだけ、使用は後に回してくれ」 了解、と中里はバッグの中に容器を押し込んだ。「何のこと?」「…後で、ゆっくり話すよ」 わかった、とよし野は納得しないながらも、ゆっくりとうなづいた。「岩室さん」「何だ」「俺、できるだけあいつと上手くやってゆける様に、してみるから」 岩室の表情が微妙にゆがむ。 「R」を飲み続けている限り、「彼」は自分と話すこともできない。表に出てくる訳でもない。「これも、いつかは切れるだろ」「…その時にはまた、取りに来ればいいさ」「ああ、できるだけね」 でもそれはしないだろう、と彼は決めていたのだ。 「人殺しのできる人格」が「彼」だ、と思っていた。「彼」もそう言っていた。 だけど違った。大事な何かを守るためだったら、自分もあんなに非情になれた。 自分も「彼」と変わらない。いや、もしかしたら「彼」の方が、本来の自分だったのかもしれない。 ただ、どちらにせよ、自分であるのは変わらない。 動くのも、止めるのも。 だったらもう、それはどちらでもいい、その時考えよう。中里は思う。 生きられる時間の中で、ぎりぎりまで。「なあ、岩室さん、あいつにも何か、言ってくれないかな」 ああ、と彼女はうなづき、真っ直ぐ中里を見つめた。 だがその視線はその向こう側を見ている様でもあった。「お前も生きろよ、できるだけ」 それじゃあ、と三人は改札口を通り抜けた。「さ、行こうか」 岩室は車を置いた駅の西口へと歩き出す。「ずいぶん急ぐね、めいかさん」「お前も私も、昨日まる一日学校をさぼったからな…今日一日勤務して…そうしたら、週末に、中里の血液の分析の方にも取りかかろう」「そうだね。でもその前に、奥さん、忘れているものは無いですか」 はた、と岩室の足が止まり、高村を見上げた。「…お前、覚えていたのか」「当然でしょ。俺はそういうことは忘れないんだよ」 ふっ、と彼女は肩をすくめて苦笑し、ロータリーに降りるエスカレーターへと足を乗せた。「悪いな、お前にとわざわざ買って来たものを、騒ぎの中で、車に入れっぱなしにしていて」「まさか…」「そう、そのまさか。…一度溶けたチョコって、味が落ちるんだよなあ…せっかくお前のためにと必死で検索した結果なのになあ」「ったく、もう」 呆れた様に高村は肩をすくめた。「いいだろ! だから、お前、明日の分析、つきあってくれ。そうしたら、キリのいい時間にでも、上手いザッハトルテをおごるから」「そして俺は、あなたに、一番美味しいシュークリームとお茶をおごればいいんだね、奥さん」「ふん、よく判ってるじゃないか」 当然だよ、と彼はちょうど降り立った地面の上で、岩室の背を後ろから軽く抱きしめた。 * あれから、二ヶ月。 花壇には、チューリップを中心とした春の花が満開だった。 ただ、二人きりの部員だった中里もよし野も既に居ない今、「園芸部」は存在が保留のままになっている。後期部に進級したばかりの四年生が興味を持ってくれない限りは、廃部扱いだ。 そうしたらこの花壇は、やはり自分が世話するべきなのだろうな。 ふう、と岩室は手紙を丁寧に折り畳むと、元の様に封筒に入れて、引き出しの中に入れた。 この二ヶ月というもの、岩室は彼らに対して自分達がやっていることが、結局一時しのぎに過ぎないのではないか、と思うことが多々あった。 中里に渡すことができた「R」は、せいぜいがところ、一年分程度だ。その後については、まるで予想ができない。 いや、それ以前に、学校生活よりも緊張する日々の中、二人を守りながら、彼の身体がその時まで保つのか、という心配もある。 逆に「R」を切らした彼が、あの親子を捨て、凶暴性をまき散らしてしまう可能性だってある。 だが、それでも。 中里の言った、「彼」と上手くやって行きたい、という言葉を信じるしかなかった。 それは他のこれから手を貸したいもの達に対しても同様だ。自分達にできることは、結局、不完全なものを、少しづつでしか、ない。 だがそれも、無駄な努力なのかもしれない。 そんな思いが、ここ二ヶ月の間、ずっと渦巻いていた。 それだけに、中里からの手紙は、正直、岩室にとって嬉しかったのだ。 中里は「彼」と上手くやっていけるだろう。 三枚目を見た時、そんな確信が、彼女の中にじわり、とわいてきた。 さて、とそろそろ換気時間も終わりだ、と窓を閉めようとした時、四年生のネクタイをした男子が一人と、女子が二人、花壇の所に集まっていた。「お前ら何だ? 花は好きか?」「好きです。ここ、先生がお世話してるんですか?」「いや、私は最近は水やりしてるだけだ。転校してった奴が、園芸部だったんだが…」「あ、園芸部、あるんだって」「どうする?」 こそこそ、と少女達は顔を寄せる。おいおい、と男子はその二人に向かって何か言おうとする。「先生、園芸部があるんなら、入りたいんですけど、どうすればいいんですか?」 そうだな、と岩室は外側の扉を開けた。「まあちょっと中に来い。カルピスでも呑んでけ」 その朝、花壇のチューリップが一斉に花を開いていた。
2005.06.20
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「哲ちゃん…」 その声に、彼ははっと我に返る。「よし野!」 彼は駆け寄る。「おいよし野! 大丈夫か? 痛いか?」「痛いけど…大丈夫」「大丈夫な訳、ないだろ!」 彼はそう言うと、自分のシャツの袖をちぎり、彼女の肩を縛った。 だが所詮、応急処置も何も知らない自分のすることである。一刻も早く、医者に。 せめて岩室に診せなくては、と彼は思った。 そして引き裂いたセーターで彼女をぐっと自分の背中に縛り付け、彼はやって来た道を下り始めた。 やって来た道は、既に木も枝も何もなぎ倒され、非常に判りやすい道になっていた。だが小さな崖などを、無理矢理上って来たこともあり、逆に帰りの足場が辛い所もできていた。 と、その時携帯が鳴った。 取ろうか、とも思ったが、木に両手をついている、この足場の悪い状態では無理だ。 はあ、と彼女の吐息が首筋にあたる。熱い。「…おい、よし野」 答えが無い。 疲れと痛みと、中里に会えた、という安心感から気を失ってしまったのだろう。 しかしその状態が、彼に不安を呼び起こさせる。 コール音は鳴り続ける。何とか足場の安定した所に降りると、彼は再び駆け出した。 やがて、コール音に混じって、クラクションが聞こえた。彼はぱっ、と立ち止まり、左を向く。「高村さん!」 その声に車は急ブレーキを踏む。「中里君! 音が聞こえたから…見つかったんだな! あ!」 車窓から身体を乗り出した高村は、二人の様子に息を呑む。「高村さん、よし野がひどいケガを…」「キミもひどいじゃないか! 早く来い!」 後ろの扉が開く。言われるまでもない。彼はよし野をそっと下ろすと、車に乗った。「どうしたんだ、一体…何があった?」「肩を刺されてるんです。それと、何か他にも、あちこち痛そうで…今、気を失ってます」 どれ、と高村はよし野の傷の具合を見た。「…ああ、とりあえず血は止まっているな。気を失っているのが逆に今はいいよ。大丈夫、戻って手当すれば。キミは…?」「ああ、俺は、大丈夫です。…もともと、痛くも無いんですよ」「…そうか」 苦笑する中里に、高村はそっと目を閉じる。「…それでも何とか、キミ等が無事で、良かった」「あ! そう言えば、溝口が逃げたんですが…」「ああ、さっきワゴンに焦りながら乗ってたな。逃がしたよ」 あっさりとした返事に、中里は訝しげな表情で問い返す。「逃がした…?」「ああ。こっちも顔を見られる訳にはいかない、という事情があってね」「高村さん!」 非難を含んだ声が車中に大きく響く。「まあそう、いきり立つなって…その代わり、と言っては何だが」 うい…ん、と高村は窓ガラスを半分程開ける。「…そろそろだな」「そろそろ?」「まあ、よく耳を澄ませていてくれ」 高村はそうつぶやくと、ゆっくりと車を出した。 やがて、山道が次第に太く、二車線道路になってきた頃。 ず…ん… 低い音が、遠くで鳴り響いた。 そしてそれに引き続いて、黒い煙が、ゆっくりと立ち上った。「な…」 まさか、とそのまま平気な顔で車を走らせる高村に、中里は身体を乗り出した。「あのワゴンのブレーキを、ちょっとばかり、壊れる様にしておいたんだよ」 中里は思わず声を失った。「きっと今頃、ガソリンと、チョコレートの匂いで大変だろう。ま、でも、キミが向こうに残した遺体同様、身元が判明したら、事件にはできないさ」 さらり、と高村はそう言ってのける。「さて、警察だのレスキューだので一杯にならないうちに、俺達もさっさと戻ろう」 傷の手当もあるし、と高村は付け足した。
2005.06.18
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