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October 9, 2025
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邪馬台国の研究に際して、とても大事なんだけれども、
世の中の学者先生や研究家が考えない事がたくさん有る。
そのうちのいくつかは今までの僕のブログの中で解明したんだけれども、
最近いくつか、まだ書いていないことに気がついたので書くことにした。

その前にいくつか既に書いたことについて整理する。
一つ目は世の中の学者先生や研究者たちは、その内容から「理系」の方より「文系」の方が多い。
そのせいで「論理的な考え方」ができない方が多い。
ひどい学者先生になると「歴史はロマン」などと開き直ってしまう先生さえもいる。
そのせいで、議論は論理的なものよりもロマンティックなものが多い。

それでお給料をもらっている(ひどい場合は税金からもらっている)先生はダメだと思う。

一つ例を挙げると、
「纏向は3世紀半ばの遺跡だから邪馬台国の遺跡である」と言うのを考古学的証拠と言う人である。
論理学的に考えるとひどい間違いである。
論理学では、これについて高校の教科書で習う。
但し、高校の学科には「論理学」は無いので「数学1」の一分野として習う。

文部科学省で定めた学習指導要領を見てみる。但し手に入ったのが少し古くて平成30年版。


赤いアンダーラインに書いてある様に、
内容は数学だけではなく「社会の事象などから設定した問題」について応用できる。
ここで文系の人達は「命題」、「必要条件」、「十分条件」及び「包含関係」と言う用語を
(本当は高等学校で習うので知っていると思うのだけれども)

命題:論理学において判断を言語で表したもので、真または偽という性質(真理値)をもつもの
必要条件:ある事柄を成り立たせるために不可欠な条件
十分条件:ある事柄が成立するために、その条件が満たされれば、
     結果が確実に成立する可能性が高い条件
包含関係:ある集合が別の集合の部分集合であるときに成り立つ関係


「魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の年代は3世紀半ばである」と言う
「真」である命題であるの逆の命題である。
包含関係が完全に一致しない場合、逆の命題は必要条件にはなりえず、十分条件にしかならない。
従って成立する可能性は有るが「真」ではない。
特に包含関係が小さい場合は逆に「偽」の可能性が高くなる。
例えば「纏向」の場合、
魏志倭人伝では冒頭に「倭国はもとは百余国有ったが、
今では交流が有るのは30ヵ国程度」と書かれている。
つまり包含関係を見ると、邪馬台国は百余国のうちの1国でしか無く、
命題が成立する可能性は1%しかない。
つまり0%ではないが「考古学的証拠」である可能性はたった1%なのである。
(但し、ほぼ0%しか無かった近畿説が、
 1%とは言え「可能性が上がる」のは十分条件の十分条件らしさではある。。)

これを「考古学的証拠が有るので纏向は邪馬台国の遺跡である」と言う、
学者先生や研究家は高校生からやりなおした方が良いと思う。

これは三角縁神獣鏡についても同じである。
正始元年と書かれた三角縁神獣鏡が有ったとしても、
正始元年と書かれた理由が、例えばある国の王の即位記念だったり、
争っていた国々が同盟を結んだ印だったり、色々な可能性が有るので、
包含関係を考えると、その色々な理由の数(例えば100の理由)のうちの1つでしか無く、
これも「真」である可能性は1%くらいしかないのであり、
とても邪馬台国である証拠にはならない。
まずは「必要条件」を探さなければ「考古学的証拠」にはならないと思う。

過去のブログでもそのことは書いたんだけれども、ちょうど良い「証拠」が無かった。
なので平成30年版ではあるが、学習指導要領が見つかって良かった。文部科学省のものだから。

まぁ過去のブログの話は置いておいて、今回書きたい新しいことを書く。
それは「神武東征」の証拠を見つけたかもしれないと言うこと。
つまり卑弥呼の時代には九州に有った邪馬台国が段階を経て近畿に移動したかもしれない証拠。

まずは魏志倭人伝を見てみよう。
倭国の大きさについて書いている。
「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
意訳してみると、
倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、
巡り巡って五千余里ほどである。
と書いている。
1里に対する考え方が色々と有るので「絶対値」に関しては議論が有るだろうが、
既に分かっている物と比較して考える「相対値」であれば信頼がおけるので、
魏志韓伝に書かれた同様の部分を見てみる。
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里
 有三種一日馬韓二日辰韓三日弁韓辰韓者古之辰國也」
意訳すると、
韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。
およそ四千里四方。
三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。
これをgoogleMap上に書いてみる。
なお、倭国は伊都国や対馬・壱岐を含むので結構位置が固定される。


韓は東西は海だし、南は倭に接している。

<後日追記>
こうして地図に魏志倭人伝の行程を落として見ると、
歴史学者や研究者の罪は重いと思う。
近畿説の人がよく主張する、
1里=300~400mと言うのはどうやっても魏志倭人伝の行程には適合しない。
逆に魏志倭人伝は全部の行程で1里=70~80mで統一されている。

例えば帯方郡(上の地図の左上ソウルのちょっと上あたり)から狗邪韓国への行程は、
魏志倭人伝には南へ行ったり東へ行ったりして(つまり海岸線に沿って)水行で7000里と
書かれているが、地図上で約500km~550kmなのでピッタリである。
狗邪韓国から対馬までも1000里と書かれているが、
約70~80kmなのでピタリである。
しかも魏志倭人伝だけでなく後漢書や隋書及び旧唐書等に書かれた里程もそれに合っている。

どの書物に魏の里程は1里=300~400mなんて書いてあるんだと思って調べたら、
直接的に300~400mと書いた書物は無い。
日本の一部の偉い先生が、1寸から(想像して)計算して推理しただけで、
事実として確認できる中国の書物は無いのである。
しかもそれも、紀元前2世紀に書かれた「周碑算経」と言う本に基づくと、
逆に1里=76mと算出されるのである。

唯一大月氏国への行程だけは1里=300~400mと読めるが、
これだって「魏の里程」ではなく「大月氏国の里程」かもしれず、
そして上にも書いたように魏志倭人伝以外の中国の古い本も全て
1里=70~80mで統一されているし、地図に合っている。

つまりそれを唱えているのは近畿説のグループだけで、中国側はそんなことは言ってはいない。
「魏の里程は魏志倭人伝に基づくと1里=70~80mだった」と言っても良いような気がする。
大月氏国への行程と倭国への行程のどちらを信用するかと言えば、倭国なのでは?
後日追記終わり

<さらに後日追記>
ここまでの話だと邪馬台国近畿説は100%消えるが、
それでは申し訳ないので、
今までとは違った視点で見た場合には近畿説も有りうると言う話をこのシリーズ(その3)で書く。
お楽しみに。

やっぱり倭国って九州じゃんと思うけれど、
今日はちょっとそれは置いておいて、神武東征の話。

隋書倭国伝に次のように書かれている。
「倭国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居」
意訳すると、
倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。山島に依りて居す。と書かれている。
倭国の首都を福岡県の付近とすると
まさに百済・新羅の東南で、海と陸を経て3000里だと思う。
確かに1里の絶対値については議論があるかもしれないけれど、
方4000里や方5000里との比較で(相対値として見ると)けっこう正確である。
つまり隋の時代までは倭國の中心は福岡県付近に有ったと言うことである。
(女王国宮崎説の僕としては倭國の中心が福岡県と言うのはちょっと抵抗があるが、
 逆に魏志倭人伝の時代だけが、
 卑弥呼が女王に共立された為に一時的に宮崎に移っただけで、
 その他の時代には倭國の中心は福岡の辺りだったと考えれば他の色々な事実とも合うので、
 隋の時代には福岡付近に倭の中心が有ってもおかしくは無いのかなとも思っている。)

やっぱり纏向じゃありえないじゃん。
でも唐の時代には白村江の戦に負けた後には、唐の郭務悰は天智天皇に会いに大阪まで来ている。
これは唐側の文書でも書かれており、日本書紀の記述とも一致している。
と言うことは、隋の時代までは九州に倭国の首都が有り、
白村江の戦い後には倭国は無くなり日本国の首都が近畿に有ったことになる。
旧唐書に倭伝と日本伝が別々にあり、
「日本国は倭國の別種である」と書かれているのだから、
白村江の戦の前には九州の倭国と近畿の日本国が有ったのに違いない。
ならば、纏向は「日本国」の祖先の国なんだろうと思う。

それは何か?
「晉書」宣帝紀に「東倭重譯納貢」と書かれている。
西暦240年つまり正始元年である。
卑弥呼が魏に使いを送ったのが景初3年(239年)で、その返礼が有ったのが240年である。
中国では漢の時代から唐の時代までたくさんの史書が書かれており、
「倭」や「卑弥呼」に関しては相当に研究されており、
この「東倭」が倭国のことであれば、また納貢したのが卑弥呼ならばそう書くはずである。
それをわざわざ「東倭」と東を付けているのは、倭ではなく倭の東に有った国だからであり、
東倭は、
帝位に就いていなかった司馬懿(宣帝は晋朝初代武帝で司馬炎による追号)に朝貢している。
恐らく卑弥呼が魏に朝貢したのに対抗して、
司馬懿に朝貢した別の国だと思われる。
(司馬懿と書くと難しい漢字なので知らない人も多いと思うけれど、
 字が仲達(ちゅうたつ)だと書くとすぐにピンと来る人は多いだろうと思う。
 有名な「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の仲達である。
 彼は魏の大尉(総司令官)を努め、
 本来は魏の東方(遼東=朝鮮半島のつけねあたり)地方を治めていた
 現在で言えば知事のような地位であった公孫淵父子が起こした反乱を鎮め(景初3年頃)、
 蜀漢を諸葛亮孔明の死後に屈服させた。
 曹操の子で献帝からの禅譲を受け魏の皇帝となった曹丕の信頼が厚く、
 黄初7年(226年)、曹丕が崩御し、その子の曹叡が皇帝に即位したが、
 その曹叡も景初3年(239年)司馬懿が遼東から帰還する最中に病に倒れて、
 ものすごい権力闘争の後に曹一族を滅ぼし、
 彼の死後に孫の司馬炎が魏より禅譲を受けて正式に皇帝となると、
 祖父の司馬懿を高祖宣帝と追号した。)
東倭は公孫淵父子を滅ぼした司馬懿にすばやく使者を送るほど外交や政治に敏く、
卑弥呼に劣らない賢い王が治める国だったのだろう。
つまり九州に有った倭国に対して、近畿には東倭が有ったのだと言うことである。

そしてここからが僕の新しい想像(推理)なんだけれども、
魏志倭人伝に書かれた難升米は、
(なんしゅうまいと読む人が居るけれども、
 音に漢字をあてる場合には2音に漢字1字はあてないので)
「なすめ(なんすめ)」と読み、
「奴のすめ」と名乗ったのを、中国人が誤って「難升米」と言う漢字をあてたのだと思う。
「奴のすめ」とは何か?
奴は奴国のことで、「すめ」は統べる(すべる=支配する)の古い言葉なんだと思う。
この言葉は後世の「天皇=すめらみこと」までつながる言葉だと思う。
(コトバンクによれば「天皇を敬い尊んでいう語。すべらみこと」と書いている。)
難升米は奴国の支配者で、王は卑弥呼だったので王は名乗らず「すめ」と名乗ったのだと思う。

そして重要なのは難升米もしくは彼の子孫が現皇室の祖先で、
神武天皇の先祖は難升米なんだと思う。
卑弥呼は生涯独身だったのだから、子供はいない。
なので、難升米は卑弥呼の弟で神武天皇のひいおじいさんだったのである。
そう日本神話に出てくる月読の命なんだと思う。
(日本神話ではスサノオの命は暴れて、天照大御神が武具を持って迎え討つ事になっているので、
 僕は卑弥呼が天照大御神、狗奴国の王がスサノオで難升米は月読の命だと考えています。)
そして彼が名乗った「すめ」は一族の主の名前となり、後世の天皇につながるのである。
子孫の神武天皇は東倭を滅ぼし、近畿に「日本国」を建国して天皇になるのである。
(今までの歴史学者は、
 何故この時代に倭ではなく日本、王ではなく天皇(すめらみこと)を名乗るようになったか、
 ちゃんと説明できていないが、この推理が正しければその理由が説明できる。
 難升米が卑弥呼のせいで王を名乗れず、
 倭ではない日本にあっては「すめらみこと」が王を示す名前だからである。)
なので、しばらくは倭国と日本国は九州と近畿に両立するが、
天智天皇や天武天皇の時代に「倭国」と王は無くなり、「日本国」と天皇ができるのである。

つまり神武東征は実際に有ったことで、
難升米の曾孫の神武天皇が東倭を滅ぼして日本を建国したと言うのが神武東征だと思う。
違うかなぁ。
今日はここまでにして、明日は別の「新しい発見」を書く。






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最終更新日  October 13, 2025 04:03:22 PM
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