思えば遠くへ来た私

思えば遠くへ来た私

オーストラリアで働いた



sanshimai
(ベビーシッター先の三姉妹)

ワーキングホリデービザを持って、オーストラリアに9ヶ月いた事がある。

初めの1ヶ月はホームステイをしながら英語学校に通い、その後キングスクロスにアパートを借りて、チョコレート工場で働いた。

そのチョコレート工場は不思議な所で、日本人の女の子ばかりが働いていた。持って帰ってはいけないが、その場でならチョコレートは食べ放題だったので、そこで働いた3ヶ月弱の間で、4キロも太ってしまった。
一番好きな仕事は、マカデミアナッツをコアラの型に入れる作業だった。煎り立てのマカデミアナッツは思いのほか美味しくて、スキを見ては口に放り込んでいたので、太って当たり前だったかもしれない。

今はどうだか知らないが、その当時、ワーキングホリデービザでは、同じ所でフルタイムで3ヶ月以上は働けない事になっていたので、クリスマスでチョコレート工場の仕事が終わってしまった後、散々迷って結局、住み込みのベビーシッターをやる事にした。
一人暮らししていたキングスクロスのアパートが居心地悪かったためもある。

私が働く事にしたその家庭は、ノースボンダイに住んでいる、若い夫婦と3人の女の子の5人家族で、別段変わった所がないと思っていたのだが、前のベビーシッターである日本人の女の子と、引き継ぎのために一週間一緒にいた間に、全然普通ではない事に気付かされた。と言っても、悪い意味ではない。

彼らはユダヤ人だった。異国の文化に触れたいと思っていた私にはもってこいだったが、彼らと一緒に暮らしながら働くのは、やっぱり色々大変だった。

まず、食習慣が複雑だ。彼らはお肉とミルクを一緒に食べない。チーズバーガーなんてもってのほかだ。お肉を食べるときは、乳製品は絶対一緒に並ぶ事は無く、使うお皿やナイフやフォーク迄区別されている。それどころか、流し迄別々になっており、例えば私がカフェオーレを飲んだマグをお肉用の流しにうっかり入れていたら、旦那さんが、「これはこっちだね」と、優しく注意したりする。
もちろん、布巾も違う物を使うように言われていたし、驚いた事に、冷蔵庫の中まで、お肉を置くのは3段目で、チーズを置くのは1段目と決められていた。
食べるパンも、ユダヤ人用に売られている特別なパンを買って食べていたし、豚肉なんて全く食べない。豚肉好きな私にはちょっとつらかった。

奥さんは、ユダヤ人の子供達にイスラエルの言葉や(イディッシュ語?)歴史などを自宅で教えており、私の仕事は、主に3人の女の子(3歳半、2歳、1ヶ月)の世話と、夕飯作りだった。
1ヶ月の赤ん坊の世話は初めは怖かったが、慣れると抱くときもまるで荷物を持つような感じで気楽に持てるようになった。数年前に初めて母になったが、その時新生児の扱いがあんまり怖くなかったのは、このときの経験があったからに違いない。

ある日、奥さんの生徒の一人の“バ・ミヅバ”(成人式のような物)で、ピアノの伴奏を頼まれた。家にピアノはなかったが、妹のキーボードを借りてくるからと言われて、キーボードを自由に弾ける魅力に引かれて、引き受けてしまう。
生徒の名前はビアンカといい、とてもかわいい女の子だった。
伴奏は、主に女の子達が歌う歌のためだったが、イスラエルの国歌もあって、いまだに思い出して弾いてしまう事がある。

ビアンカの家は金持ちで、練習のため彼女の家に行くと、でっかいグランドピアノが弾けるので、とても楽しみだったものだ。敷地は広く、当日は庭にでっかいテントを設置してセレモニーをする予定だったが、生憎の豪雨で、結局街中のホテルの大広間を借りて行われた。

出席者は大人数で、たった一人の女の子のセレモニーに、こんなに人が集まるなんてと、その規模に驚かされた。今思えば、家が金持ちだったので、それも当たり前の事だったのかもしれない。

ところで、ビアンカの母親から、音楽演奏を頼んでいる人たちの休憩の間だけ、30分位、ピアノで何か弾いて欲しいと頼まれていた。実際は1時間くらいだったのだが、もちろん報酬があったので、お金に目がくらんだ私は、たいした技術もないのに引き受けてしまった。何を弾こうかと悩んだが、悩むほど弾ける曲もないので、結局ショパンを数曲と、後は“スイートメモリーズ”を自分なりにアレンジした物と、大好きなプリンスが「パープルレイン」の中で弾いていた曲をやっぱりアレンジした物をポロンポロンと弾いておいた。
皆食事に夢中で、私が弾いてる曲になんか耳を傾けている訳もないので、いい気になってプリンスばかり弾いてやった。
報酬は100ドルくらいだったが、お金のない私にはとても嬉しい臨時収入だった。

ベビーシッターをしていてつらかったのは、長女の我がままがすごかった事だ。
どういう訳か次女にはとても好かれて、たった4ヶ月働いただけだったが、別れる時には情が移っていてとても悲しい思いをした。
でも、オーストラリアにいるのは9ヶ月だけと、日本を出る前から決めていた私は、後の1ヶ月半を使って、どうしても旅行がしたかったので、涙ながらにノースボンダイを後にする。
でも、オーストラリアを一周してシドニーに帰って来た私は、結局日本に帰る前の一週間は、又この家庭に厄介になったので、本当に日本に帰る当日は、あんまり悲しまずにすんだ。

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