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神経症から回復するにあたっては「実践課題」を作って取り組むことが多いと思います。そのうち実践課題がこなせるようになると、気のついたことをメモ用紙に書いて、積極的に行動・実践に取り組むようになります。その際、目の前のことだけではなく、仕事、家事、子育て、趣味、様々な人間関係、地域のつながり、集談会関係などに分けて、バランスのとれた取り組みを心がけるようにするとよいと思います。私たちはどうしても視野が狭くなって、行動の幅が広がっていかなくなる傾向があります。できるだけいろんな方面に視野が広がるように意識することが大切となります。この中で、私は「趣味」については、大きな見出しを作って時々見るようにしています。コンサート情報、老人ホームの慰問活動、健康情報、趣味の園芸情報、旅行情報、瀬戸内海情報、イベント情報、映画・テレビ番組・書籍情報、公共施設利用情報、株式情報、ファイナンシャルプランナー情報などに分けています。それをさらに細かく分けて、情報収集方法について一覧表にしています。それらの項目が全部で50個ぐらいあります。時間があるときにそれを見ていると、いろんな気づきやアイディアが浮かんできます。コンサート情報は、毎月の地域の音楽活動やイベントを紹介した冊子が役に立っています。これはどこの地域にも似たようなものが発行されているようです。これを見てコンサートや落語などのイベント、 植物園、一人一芸の演芸会などに行くようにしています。行く前は気持ちが乗らなかったりすることも多いのですが、行ってみると、来てよかったということがほとんどです。「イエスかノー」か迷ったときは、「イエス」を選択することを肝に銘じています。私のモットーは、 「サボりたい、楽したい」という気持ちになったときは、その気持ちはそのままにして、「尻軽に体を動かす」ということです。森田の実践をしているのです。これが習慣化されて、毎日忙しく充実した日々を過ごすことができるようになっていると思います。
2018.04.07
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「楽したい、人が見てなきゃサボりたい」という川柳がある。我々人間は、片方で大きな夢や希望を持って、努力精進したいという気持ちを持っている。ところが、その気持ちとは裏腹に、楽をしたい、サボりたいという気持ちも相当強い。嫌な思いをすることは避ける。苦しい事には手をつけない。努力しなければならい事はやらない。自分のエネルギーの消耗はできるだけなくしたい。親の遺産が入ったり、高額な宝くじに当たったりすると、仕事などはしないで美味しいものを腹一杯食べて、欲しいものはなんでも取り揃えて、面白い事、楽しい事ばかりをやって生活したい。生きる為に必要な日常茶飯事は、お金を出して人に依存すれば何とかなるはずだと考える。いくら森田理論学習で「生の欲望の発揮」が大切であるということが理解できても、このような安易な誘惑にすぐに流されてしまう。これは誰もが陥りやすい素直な気持ちなのではなかろうか。神経症者は、生の欲望の発揮が蚊帳の外になり、不安、恐怖、違和感、不快感を取り除くことばかりに神経をすり減らしている。森田理論学習によって、その誤りに気づき、精神交互作用を打破して、生の欲望と不安のバランスをとるようになる。それが継続できればよいのだが、次の壁が立ちふさがる。今度は人間本来の本能ともいうべき「楽したい、さぼりたい」などの気持ちとの格闘が待っているのである。安易で楽な方向に流れていってしまえば、人間本来の素晴らしい人生を謳歌することは難しい。安易で楽な怠惰な方向に流されないためにはどうしたらよいのだろうか。人間は油断をすると、すぐに安易な方向に流されてしまう存在であることをしっかりと自覚することが必要であると思う。それを打ち破るためには、尻軽に行動できるような習慣づくりをすることである。やろうかどうか迷ったときは、やる方を選択するようにしたいものだ。神経質者は納得しないと行動しないという特徴がある。すぐ動けるようになるということは、ひとつの能力である。その能力を獲得する必要がある。何度も繰り返して身に付ける必要がある。次に、目の前の事実をよく観察するという生活態度を身につけることが大切なのではないだろうか。事実がよく見えるようになってくれば、興味や関心が湧いてくる。発見や気づきがある。そうすれば、課題や問題に対して工夫やアイデアなどがを思いつくようになる。そうなれば意欲ややる気が高まってくる。創意工夫ができるようになれば、ますますやりがいが出てくる。森田理論では、感じを高める。ものそのものになりきるということだ。そうなれば楽な怠惰な方向に流されてしまうことは少なくなっていくと思う。
2018.04.03
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水谷啓二先生は、森田療法は「自覚療法」であって、 「暗示療法」ではないと言われている。暗示療法とは何か。水谷先生によると、暗示とは、相手の自主的な理性に訴える説得とは違い、無批判にこちらの観念を受け入れさせる方法である。暗示をかける時のやり方は、まず相手の信頼を得ることから始める。暗示者の自信に満ちた態度が、暗示の効果を一そう強力なものにする。例えば、学識の広さや深さを誇示して、その上更に最新の学説なども紹介し、威光暗示を与えて、相手に尊敬の感情を起こさせた上、すこぶる断定的な調子で、 「誰それの考え方は古い」などと言うと、自主的な判断力のできていない人たちは、たちまち暗示にかかり、 「そうだ」と思ってしまうのである。そして、その後は、暗示者の言うことを、何でも無条件に受け入れるようになる。森田理論学習で言うと、有名な森田療法家の講演などを聞いて、無批判にその考え方を受け入れていくようなやり方である。暗示療法でも、人格変換を起こさせることができるが、それは神経症のなくなったことを意味しない。自覚療法は、三聖病院の宇佐玄雄先生が名づけられたそうだ。自覚療法とは、自らの「生の欲望」に目覚めることであり、個性的にして自主的、発展的な人間になることである、と言われている。(生活の発見誌 2018年3月号 8ページより引用)すこし難しいので考えてみたい。森田先生のよく言われた言葉に、 「修養」と言う言葉がある。これは、自らの実践や行動によって、精神の動きや働きを体得することであると言われている。感情の法則1に、 「感情はそのままに放任すれば、その経過は山形の曲線をなし、 ひと昇りひと降りしてついに消失するものである」とある。例えば、腹が立った場合、その不快感を払拭するために、やぶれかぶれの言動をとる人が、その感情を持ちこたえて、その後どうなるかを体験してみるのである。そうすれば、 「なるほど。腹が立った時の何とも言えない不快な感情は、放任していれば次第に収まってくる」ということがわかってくる。こういう体験が積み重ねると、次第に感情の取り扱い方について自覚が深まっていく。体得なくして、理論だけの学習では自分の生活は変わっていかない。森田先生から、鉢植えの草花に水をやってくれと言われて、水をやっていると森田先生が次のように言われた。今水をやっている草花は、 1年草でもう枯れかかっている。そんな草花にも機械的に水をやっていてはダメだ。その時に、 「自分は草花を目の前にしながら、草花のほうに注意が向いていなかった。自分の意識や注意は、神経症を治すという方向にばかり向いていた。神経症が治るということは、内省的になっていた自分の注意や意識が外向きに転換して、物事本位の態度にならないといけないのだ」ということに瞬間的に気がつけば、神経症の克服につながる。このように体験を通じて、精神や意識の動き、働きが分かるようになる。それに基づいて、その後の実践や行動が大きく変わっていく。そのことを森田療法が「自覚療法」といわれる所以である。森田先生の頃の入院に療法とは違い、現代の森田理論学習では、理論学習偏重になっている。森田理論は、よく車の両輪に例えられる。この場合、理論学習によって、理論の車輪がどんどん大きくなり、行動の車輪が小さいままだと、前に進むことができなくなる。行動の車輪を起点として、その周りを理論の車輪が空回りすることになる。こういう場合は、理論の車輪は大きくなくてもよいのだ。それに見合った行動の車輪をつけて動いていると、少しずつでも前進していく。つまり学習と行動は、あざなえる縄のごとく一心同体でないとまずいということである。
2018.04.02
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神経症の悩みを抱えた人の対処方法は2つに分かれます。1つは、その悩みをなくするためにどんな努力も惜しまない人です。神経科にかかる。様々な精神l療法を受ける。カウンセリングを受ける。心身を鍛える。やたらに動き回る。宗教に救いを求める。などなど様々あります。2つ目は、神経症の葛藤や悩みからすぐに逃げてしまう人です。金縛りに遭ったように固まってしまうのです。私の場合は、予期不安や予期恐怖が発生すると、すぐに逃げてしまうということが習慣化していました。今日の投稿では、葛藤や悩みから逃避してしまう場合について考えてみたいと思います。逃げてしまうと、一時的には楽になります。しかし、やるべきことや仕事や勉強などに手をつけないので、暇を持て余すようになります。そのうち「退屈だな」 「心のスキマ風を埋めるような楽しいことはないかな」と考えるようになります。そして刹那的な本能的な快楽を追い求めるようになります。次に逃避してしまうばかりの自分を否定するようになります。自分という1人の人間の中に、逃避することが習慣化している現実の自分とそれを雲の上から眺めて否定している自分がいるのです。本来は一体化して、外に向かうべき注意や意識が内輪もめを繰り返しているのです。完全に悪循環のスパイラルにはまり込んでしまって、自分の力ではもはやどうすることもできなくなっているのです。逃げてばかりの人は、森田理論では気分本位の人といいます。気分本位が継続してしまうと情けない人生で終わってしまいます。森田先生は、気分本位の人は生の欲望が弱く、神経質性格者ではなく、意志薄弱性の気質に分類されています。しかし、少しでも生の欲望がある人は、森田適応だと私は考えています。なお、森田先生は、意志薄弱性気質の人は、神経症治療の対象外されています。アメリカ精神医学会の人格障害の分類に、回避性人格障害があります。気分本位の人はこれに該当します。・他人からの批判、拒否、拒絶をあまりにも恐れるために、仕事上大切な人と会わなければならないような状況を避ける・好かれていると確信できなければ、人と関係を持ちたいと思わない。・恥をかかされること、馬鹿にされることを恐れるために、親密な間柄でも遠慮がちである。・社会的状況の中では批判されはしないだろうか、拒絶されはしないだろうかと心を奪われる。・自分は人と上手く付き合えないと感じるため、新しい人間関係を築けない。・自分は社会的に不適切な人間で、長所はなく、人より劣っていると思っている。・恥ずかしいことになるかもしれないという理由で、何かにチャレンジしたり、新しいことを始めたりすることに異常なほど消極的である。気分本位の人をよく見てみると、 2つの大きな特徴があります。嫌なこと、不快なことが予想されるとすぐに目を背けるという面があります。例えば、テレビの画面に蛇が出てくると、すぐに目をそらすなどです。プロ野球などでも贔屓のチームが負けるとすぐにチャンネルを変えてしまいます。もう一つは、自分の身体を使って動かなければならない時に、 「しんどそうだ」 「体が動かない」などと理由をつけて、何もしないで楽な方向を選択してしまうということです。なかには、自分は何もしないで、他人に依存してしまう人もいます。このうち、 2番目の方ですが、目の前のやるべきことに対して、何とか手を出す習慣を作りたいものです。誰でも最初は腰は重くて動くことが困難な場合でも、手をつけると弾みがついて、行動してよかったという経験には持っていると思います。そういう経験に思いを馳せると、最初は億劫だと思った事でも手を出したほうがよいのです。身近なところから、小さな欲求が起これば、積極的に手を出していくことです。これはいくら気分本位の人でも、比較的取り組みやすいことです。そのためには、普段から気のついたことを書き留めておくことが必要です。それを眺めていると、ついすっと身体が動いていくようになります。そういう習慣は誰でも身につけることができます。習慣が身についてくると気分本位の態度を修正することができるのです。嫌な事、不快なことが、過度の取越苦労、予期不安・予期恐怖となって手も足も出ない人もいます。こういうことが習慣化している人は、自分1人の力ではどうすることもできないと思います。そういう人は、集談会などに参加して、 人からの刺激を受けることが必要です。他人から、助言してもらい、素直に従うことです。森田を日常生活に応用している人の話を聞いていると自然に刺激を受けます。神経症から回復した人がやっていることを見てまねてみることも有効です。訪問営業などの仕事の場合でいえば、そういう人は 1人で仕事をするとどうしても逃げてしまいます。それを防ぐためには、同行営業をすることです。それも、相手が気分本位でない人を選ぶことが必要です。人の力を借りて気分本位の態度を払しょくすることがよいと思います。気分本位な態度を放置しておく事は、決して自分の為にはなりません。森田先生は、チャンスの神様はすぐにつかまらないと、すぐに逃げてしまうと言われています。皆さんもいろいろと工夫をしてみてください。以上述べたことは、うつ病の人には適応できません。うつ病の人は、エネルギーが枯渇している状態ですから、まずは医師の診断に従うことが必要です。うつから解放された後で森田に取り組みましょう。
2018.03.15
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「目的本位」という言葉がある。この言葉は私が30年前に集談会に参加し始めた頃さかんに使われていた。神経症を克服する過程で、症状の有無とか、気分の善し悪しを重視するのではなく、目的を達成したかどうかを問題にしていたのである。内向き一辺倒の状態を、外向きに変えて、どんどん目の前の物事を処理していくのである。症状を抱えたまま、しっかりと目的・目標を持って、なすべきをなすという考え方だ。この範囲では、この言葉をキーワードにして、森田理論に取り組んでいくのは構わないと思う。いろいろな森田の本を読んでいると、 「目的本位」というキーワードをあげていることがある。しかし、この言葉は2つの意味で注意して使う必要がある。1つ目は、自分の症状を治すという目的を持った行動は、症状を治すのではなく、症状がどんどん悪化してくるという面があるということだ。例えば、トイレの掃除をすることを考えてみよう。トイレが汚れているので、いやいや仕方ながらも綺麗にしたいと思って掃除をすれば問題はない。しかし、トイレの掃除をすれば、神経症が治ると言われたので、思い切って掃除をしてみる、という態度では神経症は治らないのである。その時に注意や意識は、トイレにはない。神経症がよくなったかどうかにある。ここでの行動は、森田先生が言うところの、お使い根性の仕事になる。そうすれば、精神交互作用によってどんどん神経症は悪化してくる。この行為は、怪我をしてカサブタができたときに、そのカサブタを取り除いて、怪我の部分が治っているかどうかを確認しているようなものだ。あるいは、野菜の苗を植えて、しばらく経って引きあげて、根づいたかたかどうか確認するようなものである。ハツカネズミが糸車を回すような仕事ぶりでは神経症の克服には結びつかないのである。2つ目は、目的、目標達成至上主義に陥ってしまうことである。自分の立てた目的・目標に対して、何が何でも100%達成しなければならないという「かくあるべし」が出てきては、弊害の部分が大きい。理想や完全の状態から現実の自分を見て、批判し、否定するようになるのである。目標の大学に合格しなければならない。与えられたノルマは是が非でも達成しなければならない。このような目標を持って努力してみたところで、必ずしも目標が達成されるとは限らない。オリンピック選手でも、絶対にメダルを獲らないと、母国に帰ることができない。などという心境になれば、練習以上のパフォーマンスを上げる事は難しくなる。これでは逆に「目的本位」という言葉が、自分を苦しめてしまうのである。森田理論では、「努力即幸福」ということをいう。この場合は、自分の今の状態を基本にして、そこから達成可能な目標を立てて、精進していくという態度である。そこでは小さなできたことを喜び、また新たな次の目標を持って努力する。目標が達成できない場合は、その原因を追求して、次の成功に向かってさらに努力する。その試行錯誤しながら、行動していくという態度が生きがいそのものになっているのである。
2018.03.13
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水谷啓二先生は仕事の能率を上げるために最も重要なこととして、次のようなこと挙げられている。・すぐに手を出すこと。それも気楽にやれるやさしい仕事から始めること。目についたやるべきことを片っ端から尻軽に手を出していくのである。その際、普段から問題点や課題を見つけると、メモ帳やスマートフォンなどに記録しておくことが有効になる。できるだけ多くのストックをためるという意識を持っておくべきである。その他に川柳やユーモア小話のネタも書くようになればしめたものである。やるべき課題があらかじめ分かっていれば、行動しやすい。やりやすいものからどんどんかたずけていくのである。その際、100%完全は目指さないほうがよい。6割7割を目標にするぐらいがよい。・ 1つの仕事に疲れたら、仕事を転換することである。ひとつの仕事を長時間続けていると、疲れてくる。また緊張感がが薄れて集中力がなくなる。それを防ぐためには、 1つの仕事に長時間時間をかけないことである。例えば、時間を30分ごとに区切って次から次へと仕事を変えていくのである。新しい仕事に向かえば、緊張感が蘇り、疲れた部分を休ませることができる。頭を使う仕事が続けば、体を動かす仕事を取り入れるなどである。・同時に2つ、3つの仕事をすることである。我々の注意力は、その本来性として多角的に働くものであるから 、いくつかの仕事を同時に、いくつかの仕事を同時に、並行的に進めることができる。飯炊きをしながら本を読み、電気洗濯機をかけ、玄関にも注意するといった具合である。森田先生は夕食をとりながら話をし、新聞に目を通し、看護婦に指示をされるという風であった。観念的に考えると、1つのことに集中していたほうが仕事がはかどるように思いがちである。それは認識の誤りである。無所住心の態度で生活していると、周囲の目につくことが気になる。いわゆる雑念が発生する。雑念を取り去ろうと格闘を始めると神経症になる。雑念を受け入れながら、目の前の仕事に取り組むという姿勢を維持することが大切だといわれているのである。雑念を毛嫌いして、目の前の仕事に集中しなければならないと思うと思想の矛盾に陥るのだ。
2018.03.06
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瀧井宏臣氏の「農のある人生」 (中公新書)に面白いことが書いてある。宮崎県綾町の1坪菜園運動だ。この運動は50年前に始まった。農家だけではなく、町民、みんなが自分たちで野菜を作り、食べるという非常にシンプルな運動だ。春と秋に町役場が種を無料で配布している。たい肥を入れた土作りをし、農薬や化学肥料は使わない無農薬の美味しい野菜作りをしている。1坪菜園で栽培された余剰作物は、青空市、日曜日の朝市、町外にも出荷されている。その結果、綾町は有機農業の町としてその名を全国に知られるようになった。しかし、この運動は、国の政策と真っ向からぶつかった。国の政策は、経営の規模を拡大して国際的な競争力のある農業を目指している。大型施設・機械や大量の農薬や肥料を使う。そういうところに補助金をばらまいている。アメリカ型の大規模農業は生産効率の向上を至上目的としているので、問題ばかりを作り出している。品目を絞って大量生産するという国の方針では、農家は自分たちが食べる野菜も作らずに特定の作物を出荷する。そのために、野菜の移動販売車が農家を巡回している。そんな農業を国が先頭に立って押し進めていいのだろうか。リコーを3兆円企業にけん引した最高顧問の浜田広さんは、 「国民皆農」を提案されている。日本の自給率は40% 、特に穀物の自給率は28%しかない。しかも、米が入っての数字であって、小麦やとうもろこし、大豆などは一ケタです。ほとんどを輸入に依存している。日本は極めて危ない状態にある。いちど世界的な穀物不足が起こったら、どうなるか。おそらく食糧危機になると思います。このままいけば、日本の農業は崩壊するかもしれない。こうした強い危機感を背景に、浜田さんは2001年、 NPO法人「 市村自然塾」を創設された。もし政府が、今の農業政策を改めて、できるだけ多くの国民が、綾町のように、自分たちが食べる穀物や野菜は自分たちで自給自足をする政策に転換したらどうだろう。そのためのできるだけの援助を国が先頭に立って進めるのである。そうすれば世界中でいくら食糧難になっても困る事はなくなる。また食糧難になったときに、生産国からべらぼうな高い食料を買わされることも少なくなる。その他に、次のようなメリットが生まれてくる。・新鮮で美味しく、安全な食べ物が食べられる。・自ら作物をつくり育てる充実感や喜びを得られる。・農作業に携わることで健康になり、ストレスを解消できる。・日本の農業を支え、食料自給率を上げることにつながる。・残り少ない日本の自然や景観、文化を守っていく一助になる。・農業を通じて、地域の再生や活性化のきっかけとなる。森田理論では、自分達が出来る事やしなければならないことを他人に依存することはよくないという。いくらお金があるからといって、安易に買って済ますことは、人間本来の生き方とは程遠い。そういう生活に馴染んでしまえば、欲望が欲望を生んで、欲望の暴走が始まる。車で言えば、坂道でスピードが出た状態である。このとき、もしブレーキが壊れていれば大惨事につながる。制御機能を失った暴走する人間に、人類の未来を託す事は出来ない。人類の歴史は、欲望が渦巻く戦争の歴史を積み重ねてきた。今こそ、全人類が森田理論でいう欲望とその制御機能である不安の調和に心を寄せる時ではないだろうか。
2018.02.24
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森田先生は敬語の使い方に警鐘を鳴らされている。たとえば、 「私のお祖父さん」ではありません。 「私の祖父」 「貴方のお祖父さん」です。近頃は小学校の先生までが、 「私のお父さん、 兄さん」という風に言うから、この言葉遣いの教育が普及するものと思われます。本当に不思議な社会現象です。「大学の先生が、神経を切って上げようと言いました」は、 「神経を切ってやろうとおっしゃった」というべきです。豊島園の池に、 「金魚を可愛がって上げてください」とあるが、 「金魚可愛がってやってください」が正しい。「赤ちゃんをお世話して上げてください」は、 「赤ちゃんを世話しておやりなさい」が正しい。母は娘に対して、 「して上げる」とか言うのは、子供言葉であって、決して成人の正しい言葉ではない。(森田全集第5巻 692ページより引用)以後4ページにわたって、言葉の使い方について持論を展開されている。敬語や言葉の使い方が神経症を治すこととどういう関係があるのだろうか。神経症に陥った時は、関心や興味、注意や意識が内向化している。森田先生のところに入院して、修養を続けていくうちに、徐々に外向きに変化してくる。そのうち、あれもこれも気になってくるようになる。そして尻軽に行動できるようになる。森田理論で言うところの、 「無所住心」の生活態度が身に付いてくるようになる。これは神経症が治る事から見ると、小学校卒業程度の段階であるといわれる。第1段階目の神経症が治るということが達成できるのである。この段階では、いろんなことによく気がついて、関心が興味、気づきや発見がどんどん増えてくる。例えば、集談会が始まると、ほとんどの人は携帯電話をマナーモードに切り替える。そうしないと途中で呼び出し音が鳴ってみんなに迷惑をかけるからである。しかし症状で苦しんでいるときは、そんなことにまでは気が回らない。心の健康セミナーやコンサートなどに行くと、あらかじめ司会者の方から携帯電話の呼び出し音については注意喚起がある。集談会ではそういうアナウンスはないので、そういう心配りができる人とできない人に別れるのである。森田の修養が進んでくると、そういう心配りが自然にできるようになる。敬語や言葉遣いについては、無意識に間違って使っている場合が多い。森田先生が指摘をして初めて、そうなのかなと気がつく。注意の向けどころか外向きになっている人は、それにヒントを得て、以後自分の敬語や言葉遣いについて意識をして注意するようになるということではなかろうか。森田先生の発言をきっかけにして、敬語や言葉遣いについても関心が出てきて気にするようになると言う事だと思う。修養の進んでいない人は、そんな細かいことをいちいち取り上げるようなことがない。あるいは、いいこと聞いた。これを書きつけて注意するようにしよう、と思うのではなかろうか。
2018.02.22
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森田先生は、 「凡人主義」ということを唱えておられた。その凡人の修養されて偉くなったのが偉人である。どうも目標は平凡が良い。平凡は円満完全であり、奇抜欠陥でない。これが私の精神病学から得た知識であります。芸術家でも、森鴎外などは凡人の偉大なものかと思う。医学の研究も・軍医総監の事務も・文学・哲学にも精通した。素直であり・奇抜でなく、絶えざるを努力家であった。(森田全集第5巻 544ページより引用)水谷啓二先生も、次のように述べられている。「神経質者は、風雲に乗じて成功をとげるタイプではありません。平凡を軽視しないで毎日の仕事に精を出す。そうゆう生活が20年から30年と積み重ねられると、非常に非凡な成果を生む」私はこの言葉に何度励まされたかわかりません。これなら私でもできるという気持ちを持てたからです。これは走ることで言えば、短距離走よりは長距離走にあたると思われます。私たちは、 100メートルを12 、 3秒で走る能力はありません。しかし、長距離で完走を目指す事は練習次第で可能になるのではないでしょうか。野球で言えばホームランはほとんど打たないが、バットコントロールが優れている選手のことだと思われます。ヒットや犠打しか打てない選手は、ホームランバッターから比べると大変地味です。しかし、安打を積み重ねて、 3割を超える打率を残し、それを何年も継続しているとなると話は別です。イチロー選手がそうではないでしょうか。イチロー選手は、ホームランバッターではありませんが、先日のテレビ番組を見ていると、過去最も優れた野球選手の第1位に選ばれていました。野村克也元監督は、長嶋選手と比べて、長嶋選手がひまわりなら自分は月見草であると言われていました。長島選手のように、他人から注目を浴びて賞賛されることが少なかったと言われています。しかし、 三冠王を獲得した実績等を見ると、決して長島選手に引けをとるものではありません。野村監督は、目立つパフォーマンスはなかったかもしれませんが、玄人好みのするいぶし銀の活躍だったのではないでしょうか。私たち神経質者は、細かいことが大変気になる。その気になったことを確実にキャッチして、行動に結びつけることができたら、大きな成果をあげることができるのではないでしょうか。それを1年、2年、 5年、 10年と続けることができるのは、神経質性格の執着心を活かした素晴らしい生き方だと思います。細かいことを宝物のように扱い、それを実践行動に結びつけていく。それを何年も継続していく。これこそが神経質性格を活かして、味わい深い人生にしていく秘訣ではないでしょうか。その方向以外に、神経質性格を大きく花開かせることは難しいのではないでしょうか。私は「凡事徹底」を座右の銘にしています。この道より我を活かす道なし、この道を行くという心境です。
2018.02.20
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形外会で川上氏が、次のような意見を述べられた。森田先生のお話ですが、 「いろいろと気をもんでハラハラしているときに、仕事がよくできる」と言われましたが、それは神経質ならば、よいでしょうが、一般の人は、仕事に注意を集中して、他のことを考えない時に、最もよくできるという人がある。それも本当であって一概に言う事は出来ないと思うんですが。これに応えて森田先生曰く。我々の心の最もよく働くときは、 「無所住心」といって、心が四方に働いて、昆虫の触覚が、ピリピリしている時のように、ハラハラしている時である。撃剣や、ピンポンのようなものは、間髪をいれない心の働きを要するもので、そのときによく、この心境がわかる。必ず注意が、 1つのところに集中してはいけないのである。静かに小刀細工をする時でさえも、心が固まっていては、何かにつけて、じきに指に怪我をするものである。このような心境は、やはり、精神を統一集中する方法とかにつき、一度迷い苦しんで、しかるのちに、悟った上でないと机上論では決してわからぬ事であります。(森田全集第5巻 328ページより引用)ここはとても間違いやすいところだ。一般的に考えると一つのことに注意を集中している時の方が、もっともよくできると考えやすい。集中しなければいけない時に、雑念が入ってきては、うまくできるはずはないと頭の中で考える。確かにアルトサックスの演奏をしていると、 「次は難しい部分だ。うまくいくだろうか」などという雑念が頭に浮かんでくると、間違いやすいのは確かである。そういった雑念が全くない状態で、無意識に手先が動いているときが最も安心できる状態である。その時は前頭葉の働きが休んでおり、記憶として蓄えられた手の動きがよどみなく自動演奏をしているようなものだ。無意識の頭の活動である。そのようなことが要求されるときに、意識が少しでも活動すれば、演奏はうまく進行しないのである。そういう意味では川上さんの発言はもっともなことである。でもちょっと待ってもらいたい。森田先生はどうしてことさら「無所住心」の話を持ち出しておられるのだろうか。それは仕事がはかどるときは、神経が緊張状態にあって、四方八方に気が張っていなければならないということを言われているのだと思う。神経が1つのことだけに集中していると、見逃してはならない基本的なことを見落とすことが多くて、出来上がった仕事や作品を見るとあまりにも不完全なものが多いということを言われていると思う。森田先生は、集中するということについては、私たちが一般的に考えていることとは異なる。一つのことだけに注意が集中している状態は、ダメだと言われているのである。また、たとえ精神を統一し、集中したいと思っても、実際には雑念だらけであるのが普通である。それを邪魔になるからといって片っ端から否定するということは、 現実を否定していることである。雑念や連想が次から次えと生まれては消え、消えては生まれるという現実を否定してはならない。そういう状況をあるがままに受け入れて、目の前のことに一心不乱に取り組んでいると、関心や興味、疑問が湧き起こったときに一瞬集中状態が出現してくるのである。それが通り過ぎると集中状態は無くなり、また雑念が湧き起こるという状態になる。そして後で振り返ってみて初めて、あの時は目の前のことに集中していたと気がつくのである。しかしそれにヒントを得て、ものそのものになりきれば集中できるのかといえば、もはや集中することはできない。次に森田先生は、ハラハラというのは、あれもしなければならない、これもしたい、という欲望の高まることであって、これがために自分の異常に対して、ひとつひとつこだわっていられなくなり、そこに欲望と恐怖との調和ができて、神経質の症状がよくなるのであると述べられている。神経症に陥っている人は、自分の気になる症状一点に注意と意識を集中している。そういう時は精神は症状一点のみに緊張状態にあり、それ以外は全く弛緩しているのである。神経症を克服してくると、症状一点のみに注意や意識が集中しなくなる。自己内省一辺倒が解消される。意識や注意は外向きになり、自分の周囲の人や物に拡散してくるのである。
2018.02.13
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先日、老人ホームの慰問に行って入所している人たちと話をした。「最近の楽しみはなんですか」「なにもない。テレビを見ても面白くないし、毎日目が覚めると、今日は何をしようかと考える。もういつお迎えがきてもいいんだ」という人がいた。話ができる人は、まだよい方で、全く話に乗って来ない人も多い。毎日暇を持て余し、特に何もすることがない。退屈だ、退屈だと言って無為に時を過ごしているような人がいるのだ。人生の最終章にあたり、何かやり切れないものを感じた。人間は最後にはこんな状態になるのだろうか。先日テレビを見ていると、前日まで元気で野良仕事をしていた人が、その日畑で、心不全を起こして亡くなったという。この人は亡くなる前日まで、会話もしっかりしており、体もよく動いていた。突然死というのも恐ろしい気がするが、退屈だと言って毎日無為の人生を送るよりはよいかもしれない。そういえば、日野原先生が105歳で亡くなられた。それまで医師の仕事を続けておられ、大往生であったという。私はこの人たちのように、死の間際まで、認知症ならず、自分の足で動くことができる体でいたいと思う。でも、年をとってどうなるかはわからない。だから、認知症にならないように普段から脳を鍛える。脳細胞が廃用性萎縮を起こさないように常に頭を使って刺激を与える。たとえばこのブログへの投稿は、脳活性化という面ではとてもよいと感じている。また、毎日続けているスクワットや階段のぼりを続けて、体力維持に努めたい。日常茶飯事を丁寧にこなしていくという森田的な生活を継続していくことがカギになると思う。また、好奇心を発揮していろんな興味のあることや関心のあることに手を出す習慣がついてきたので、これを継続して行きたいと思う。それに加えて、夢や希望を持って生活することが大切なのではないかと思う。夢や希望は漠然としたものでは、やる気や意欲が湧いてこない。そこで、私が考えたのは、人生を仮に90年とした場合、残りの人生を何期かに分ける方法である。私の場合は、現在60代後半なので、残り人生を4期に分けることを思いついた。1期をおおむね5年と設定した。それぞれの期で何か夢や目標を設定するやり方である。第1期は、とりあえずこのブログを最低でもあと5年は続ける。一人一芸をさらに広げて、老人ホームの慰問活動を続ける。慰問仲間とカラオケ仲間との交流を継続して楽しむ。集談会活動は継続する。仕事は70歳で定年を迎える。第2期は、ブログの投稿原稿を整理して、本にまとめる。森田で何らかの貢献をする。田舎で本格的に自給生活に入る。果樹や花や加工食品、ニワトリやヤギなどを飼い、そば打ち、ピザつくりなどを楽しむ。その生活の中で、幅広い人脈を広げる。第3期、第4期はまだ設定していない。そのうち大まかな目標を設定してゆきたい。もし運よく90歳を超えて、長生きができていれば、それから先は1年1年の目標設定をして、取り組んでみたい。こんなことを考えていると、これから先の人生も楽しく過ごすことができるのではないかと思うようになった。私は50代ぐらいまでは、神経症で暗くつらい人生であったが、森田のおかげでそれ以降は見違えるほど変化してきたのである。森田先生には感謝しかない。
2018.02.12
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先日テレビを見ていると、日常生活のヒントを紹介していた。例えば、硬いステーキなどの肉を柔らかくする方法。これは、マイタケをみじん切りにしてステーキにふりかけてラップに包んでしばらく置いてから焼くと柔らかくなる。早速我が家で実験をしてみた。硬くて安価な肉を買ってきた。確かに硬くて噛み切れないという事はなかった。マイタケのみじん切りはそれを使ってソースを作った。続いて、風呂の湯垢取りである。鏡や石鹸などを入れた入れ物、座椅子などの湯垢である。これには研磨材入りの歯磨き粉買ってくる。サランラップにそれをつけて、グルグル円を描くように擦るとすぐにとれる。実際に実験をしてみると、なるほど、すぐにきれいになる。歳をとると内臓が下に下がって、腹回りが出てくる。一般的には、内臓脂肪と言われているが、内臓が重力によって下に下がってくるのも原因だそうだ。これには仰向けになって、ヘソのあたりに丸めたタオルを置く。足の親指は輪ゴムで留めておく。足の踵は開き気味にする。両腕は頭の上で組んでおく。これで5分ぐらいじっとしておく。これは、まだ効果のほどは確かめられてはいない。しばらく続けてみたいと思う。今現在、気になっていることは、トイレの水をためるタンクの中に黒いカビが発生していることである。定期的に水を止めて、タンクの中をブラシでこすっているが、しばらくするとすぐに黒いカビが発生している。多分、生活の知恵として、黒いカビが発生しないような方法を知っている人がおられると思う。妙案があったら是非教えてほしいものである。さて、私はこのテレビ番組を見て、本屋に行って生活の知恵を集めた本はないだろうか探してみた。すると、 「おばあちゃんの知恵袋」 「一生使えるおばあちゃんの知恵」という本があった。「おばあちゃんの知恵袋」 (おばあちゃんの生活の知恵研究会 成美堂出版)という本の中から、これはぜひ応用していくみたいと思うことが何点かあった。・畳は長年使っていると黄ばんでくる。これは、まずホコリを払い、酢だけを含ませて固く絞った雑巾で拭く。そして最後に抹茶を溶いた水で拭くことで、畳に青みが戻るという。・畳の上に、テーブルなどの家具を長いこと置いておくと、重みでどうしても畳に凹みがついてしまう。これはあて布をしてから、スチームアイロンで蒸気をあてれば次第に凹みが消えてくるという。・蒸れやすい革靴やブーツなどは、夏になると臭いが気になる。そんな時は10円玉を入れておく。 10円玉の銅イオンの働きでニオイの元のバクテリアの繁殖が抑えられる。・パスタや野菜などのゆで汁は、熱々のうちに雑草にかけると除草剤の代わりになる。・切り花を長く持たせるコツは、漂白剤を1滴垂らし、 2 、 3%の砂糖水を作り花瓶の中に入れる。漂白剤が菌の繁殖を防ぎ、砂糖が花の栄養になるから、切り花が長持ちをする。・うっかりビールを冷やし忘れたときは、飲み物の容器に濡れタオルを巻き付けて冷蔵庫に入れるとよい。・ハサミはしばらく使うと切れ味が落ちてくる。それを防ぐには2枚重ねたアルミホイルをハサミで切る。アルミホイルには研磨作用があり、切れ味が回復してくる。・うどんやパスタを茹でるとき、ふきこぼれを防止するには、お湯に少量のサラダ油を垂らしておくといい。・卵を茹でるとき、卵の丸みを帯びた部分に針で小さな穴を開けておくと、中の二酸化炭素が抜けて、 卵のカラが剥きやすくなる。・えびの天ぷらなどを挙げるとき、衣の小麦粉の中に軽く小さじ1杯のベーキングパウダーを入れる。これだけで、衣から出る炭酸ガスが余分な水分を蒸発させて、サクッとした口あたりに仕上がる。その他にもたくさんあるが、これぐらいにしておきたい。これらのことは、自分でも実際に試してみたいという気になる。こういうところから、行動が外向きになり、弾みがついて自分でも工夫することができるようになり、森田的な生活に移行できるとしめたものだ。みなさんもぜひ研究をしてみてほしい。
2018.02.05
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形外会である人が、次のような質問をした。自分の職業を決める場合、興味のあるものを選んだほうがよいでしょうか。あるいは、自分の才能のある方を選んだ方がよいでしょうか。これに応えて森田先生曰く。興味とか才能とかいうものは、単なる机上論であって、実際に行われるものではない。「自然に服従し、境遇に従順なれ」というやり方になる。これに反応して、その人が次のように反論された。しかし、得手・不得意は、先天的に、あるいはそうでなくても、後天的にはほとんど決定的のもので、足の筋肉の弱い人が、いくらランニングの練習をしても早くはなりません。私は語学が下手です。建築家へでも行けば、自分の才能が表われるような気がするのです。これに応えて森田先生はさらに説明をされている。このような考え方は、もっともらしく思われるけれども、実際にはそんなことはない。自分の興味とか得意とかいうものが予定されているものではない。もし自分が軽率に、これを想像したり・独断したりしては、大いなる間違いの元になり、またわがままになることが多い。興味は実行により、得意は熟練し・成功することにより、次第に後からわかってくるものである。我々の仕事なり・職業なりは周囲の境遇によるいわゆる運命によって定まることが多い。従って富裕で・自由に何でもできるような人は、いたずらに仕事に迷うことが多く、なす事もなく終わることが多い。これに反して、貧乏の人はやむをえず、境遇に従順であるよりほかに仕方がないから、ますますその才能を発揮するようになることが多い。野口英世・ 後藤新平・エジソン・ムッソリーニなど、みなその実例である。これらの人々が、自分の興味とか才能とか、何が自分に適するかといった事は、ないようである。(森田全集第5巻 341頁より引用)森田先生は職業は、周囲の境遇によって決まるのであって、頭の中で取捨選択して最適なものを選択するというやり方はよくないと言われている。親が歌舞伎役者だった場合は、自分には向かないと思っても、成り行き上、後を継がなければならない場合が多い。親の稽古などを見ているので、必然的に興味がわいてくるのだろう。普通の人は、職業に就く前にあれやこれやと悩むことが多い。森田先生に言わせると、職業の選択はその時の自分の置かれた境遇によって決まるのだから、それに素直に従っていけばよい。何に就くかで悩むよりも、実際に仕事をしてみることがより大切である。むしろ大切なのは、職業に就いてからのことである。腰掛け的な仕事ぶりではいけない。一心不乱になって運命を切り開いていくような態度で取り組んでいく必要がある。そうすれば、興味や関心が高まり、多くの経験と成功を積むことができる。何年か経って考えると、自分はこの仕事に興味や才能があったということが分かるようになるのがベターである。このようにして、自分の職業を見つけていくというのが森田のやり方である。これは職業を見つけるというだけではなく、普段の生活ぶりにも応用ができる。最初は興味や関心がなくて、イヤイヤ、仕方なく取り組まなければならない課題は多い。先に嫌な気分をなくしてから、課題に取り組むというやり方では、いつまでたっても重い腰を上げることができない。そういう時はイヤイヤ、仕方なく、ボツボツ取り組んでいくしかない。森田先生は富士山や筑波山への登山でそのことの重要性を説明されている。そのうち弾みがついて、興味や関心が出てくることがある。そして目標を達成して、自信が出てくる。そうすればしめたものである。次第に面白くなって積極的に目の前の課題に取り組んでいくことができるようになる。嫌な気分を払拭してからそのうちにと思っていた人から比べると、雲泥の差となってくるのである。どうしても興味が湧いてこない、能力的に無理という場合はその時点で考え直せばよい。
2018.01.22
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森田先生は「自信」について次のように語られている。強い人が勝ち、弱い人が負ける、上手の人がよくできて、下手な人がうまくできない。それが事実であって、その事実そのままに見るのが、信念であり、自信であります。皆さんは、できないこともでき、強い人にも勝つように、自信というものを作りたいという野心があるのではありませんか。それは自欺であり、間違いだらけになる原因であります。「事実唯真」の私の言の反対になります。そこで、例えば高跳びの時、気後れして、やれなくなる。その時に、どうすればよいかといえば、自信とか、その他いろいろの自分の心の態度を決める、というはからいごとに迷わずに、私は「静かに自分自身を見つめよ」といいます。そうすると、自分はもう少し上達したい、ちょっとでも余計に飛びたいという欲望があるかないかを見定めることができます。もし欲望がなければ、楽なものです。気おくれも何もいらない。ただ、やめさえすればよい。しかし、また欲望の強いときには、一方にはその努力の苦心を考えると、その欲望を否定するような、 「自分はこんなことよりも、勉強しなければならない」とか、 「自分の素質には不適当だ」とかいうような考えが起こって、闘争心を鈍らせて、中止する。しかしまた、次の日には、ついついその欲望にかられて、手を出してみると言う風で、それでも辞めずに続けていさえすれば、ついには上達して、自信も出てくるようになる。それで、気の勝った人は、一途に自分の欲望を見つけて奮闘し、意志薄弱のものは、少し骨の折れるようなことには、じきに中止してしまう。神経質はまた、その中間にあって、欲望は捨てられず、一方には、自分の素質や力量を較量して、種々の迷いを起こし、それでも中止しきれないで、引きずられていくうちに、人並み以上に上達すると言う風になるのは、人間の種々の素質の模型的の成り行きであるのである。 (森田全集第五巻 606頁より引用)物事を始める前から「自信」を持っている人は誰もいません。最初は自信よりも、興味や関心があるのだと思います。できるのかできないのか取り組んでみる前には想像もできません。取り組んでみても、素質や能力の面で無理なこともある。また人がやるのを見て、簡単そうに見えても、実際に自分でやってみるととても難しいということもある。その困難な壁にぶち当たって、途中でくじけてしまうこともある。そこであきらめてしまえば、自信につながる事はない。指をくわえて見ているだけになってしまう。それでも欲望を捨てきれず、困難に打ち勝って目標に向かって努力精進した人が成功をつかむ。目標に達すると、自信が湧き出てくる。 二度、三度と目標を達成すると、ますます自信がついてくる。森田先生は、最初から頭の中で自信を作り出してから物事に取り組むという姿勢を問題視されている。自信があろうがなかろうが、興味や関心のある事には、すぐにとりかかってみる。とりかかってみて、どうにもならなければそこで中止すればよい。時には思っていた以上にうまくいくこともある。それがきっかけとなって、次から次へと欲望が膨らんでくることもある。尻軽に、手足を出していけば、 「努力即幸福」というやりがいを見つけることができる。とにかく森田理論は実践や実行が大切なのである。森田先生は修養という言葉をよく使われるが、これは実践や実行によって、精神の働きが分かるようになり、神経質者の生き方、人生観を確立していくことであると思う。
2018.01.20
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高良武久先生は、神経症に陥った人は片寄った自己防衛をしていると言われている。自己を外敵から防衛する働きは、すべての生物に共通する本能である。しかし、消極的な防衛にのみ専念すると仮定すれば問題だ。貝類は身を守るために、厚い殻に身を固めているが、そのために運動が極端に鈍くなって、人の手にかかれば無抵抗に捕らえられてしまう。装甲をむやみに厚くした戦艦は、速力が落ちて、飛行機や魚雷の攻撃にさらされる結果になる。人間における片寄った自己防衛は、神経質症状を起こしやすくなる。病気から身を守ることに専念するあまり、疾病恐怖症という症状を起こす原因になる。彼らは病気にかからないことが人生の最大の関心事になり、そのために建設的な活動が弱められる。生の欲望の発揮が置き去りにされてしまう。他人の思惑に対する防衛へのかたよりは、対人恐怖症にかかりやすくなる。他人から軽蔑されるのではないか、他人に不快感を与えるのではないだろうか、バカにされるのではないだろうか、悪い噂を立てられるのではないだろうか、そのような警戒心が強すぎると、人と会うこともつらくなり、人との会話を楽しむことなど思いもよらないことになる。どこにいても他人から注視されているように感じたり、人から圧迫されているようで、人前でかたぐるしくぎこちなくなる。金縛りにあったようで自由自在な活動ができなくなってしまう。こうなると最終的には、他人との接触を避けて外出も難しくなり、非社会的になってしまう。自己防衛がかたよると、物事に対して過度に用心深くなり、行動力が半減する。石橋を叩くばかりで、一向に渡ろうとしないので、用心深いと言うよりはグズになる。失敗恐怖症などもその1つの表れである。私たち人間のやる事は、すべてのことに万全を期することはできない。ある程度の失敗は避けることができないといってもよい。絶対に失敗してはならない、と考えれば考えるほど、ついには何もしないでじっとうずくまっているほうがましだということになる。しかし何もしない事は、人生においては、それ自体が大きな失敗であると言わなければならない。自己防衛の偏向は、外敵に対してばかりではない。自分自身におけるいわば内敵に対しても行われる。雑念が勉学を妨げるものと思い込んで、雑念からの防衛に熱中して、雑念をいちいち意識してしまう雑念恐怖、あるいは犯罪的、反社会的な考え、もしくは他人に知られたくない想念が心に浮かぶことを恐れて、そのために、そのような想念との争いに明け暮れているものなど、すべて広い意味での自己防衛の片寄った現われであると言わなければならない。このようにして自己防衛にかまけていると、外界の刺激や内心の不安がすべて自分に襲いかかる強敵のように感じられる。すでに精神的敗北主義に陥っているのである。(森田療法のすすめ 高良武久 白揚社 99ページより引用)私たちはともすれば専守防衛に陥りやすい。バランスを取るためには守り一辺倒の態度を改める必要がある。この際自己防衛には手をつけない。言葉は適当ではないかもしれないが、攻めや攻撃を前面に押し出すことが大切になる。言い換えれば注意や意識を積極的に外向きにしていくようにしてみる。そのためには、まず実践課題を設けて取り組んでみる。その次には気づいたことを忘れないようにメモして、行動に移していく。好奇心に沿って興味や関心のあることに手を出していく。課題や夢を持って挑戦してみる。そして時々は、心の中にやじろべいや天秤を思い浮かべて、「不安・恐怖」と「生の欲望の発揮」のバランスが保たれているのかどうかを点検していくことが大切になる。バランスが壊れたところに人生の意義は見出すことはできないと思う。
2018.01.13
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富士山の登山ルートは4つあります。吉田口、御殿場口、富士宮口、砂走り口です。登山時間はそれぞれ、 6時間10分、 8時間10分、 5時間30分、 6時間後50分と違いがあります。人気度から言うと、 1位は吉田口、2位は富士宮口、 3位は砂走口、4位は御殿場口です。難易度から言うと、 1番難しいのか御殿場口、続いて吉田口と砂走口が続き、比較的登りやすいのか富士宮口です。しかしどの登山ルートを選択しようが、最後には富士山頂に到達するのは間違いありません。どうしてこのような話をするのかといいますと、森田理論を生活に応用するということを考えた場合に参考になることがあるからです。森田理論は最終的には生活に応用していかないと、ほとんど意味をなしません。ここで問題となるのは、その切り口が多種多様であるということです。ざっと挙げただけでも、実践力や行動力をつける。大きな課題、目標、夢を持つ。ものそのものになりきる。バランス感覚を磨く。変化対応力を磨く。生の欲望に邁進する。物の性を尽くす。純な心の実践、 無所住心、あるがまま、事実本位・物事本位などがあります。森田理論学習では、これらの一つ一つについては十分に学習されることと思います。この段階では、例えば医者になるのに、医学の基礎知識を一通りすべて学んでいきます。その後自分の専門分野を決めて、内科、外科、精神科、麻酔科、小児科、耳鼻咽喉科、肛門科、眼科、整形外科、産婦人科のように分かれて行きます。ファイナンシャルプランナーの場合もそうです。一応は基本科目の6項目すべてについて学習していきます。ところが、開業するにあたっては、金融資産運用、不動産運用、保険分野、ライフプラン、税金、相続・事業承継等専門分野に分かれて行きます。一般的な知識では、 ほとんど顧客のニーズに応えることができないのです。この考え方はT字理論と言われています。最初は幅広く基礎的な事を学び、その後は専門分野を1つに絞って、どんどん深耕していくやり方です。私はこの考え方を「森田理論を生活に活かす」という方面にも応用していくことを提案しています。私の森田理論学習の先輩に、「物の性を尽くす」「ものそのものになりきる」という2点に集中して森田実践を続けている人がおられます。その方の話を聞くのがとても楽しみとなっています。私が判断するに、とても地味ではありますが、森田の達人の5本の指に入るような話をされます。例えば、庭の雑草退治の話、ビールを美味しく飲む方法、鯛のアラ炊きの話など具体的な話がたくさん出てきます。庭の雑草退治の話は、 2016年5月5日にすでに投稿していますのでご覧ください。物の性を尽くすにしても徹底して生活の中に取り入れられています。私は、森田先生の多彩な芸を真似ることから始めました。題して「 一人一芸」を磨くことです。これは森田全集第5巻の中の余興の数々の紹介が参考になります。そのうち弾みがついて、自分で本を参考にしたり、詳しい人の集まりに参加するようになります。アルトサックスの演奏、どじょうすくいの踊り、高知のしばてんの踊り、獅子舞、浪曲奇術等をマスターして老人ホームの慰問活動を行っています。この正月には大型ショッピングセンターで客引きの音楽演奏に呼ばれて行ってきました。森田を学習し、1つのことを極めた人は、富士山頂に到達したようなものです。すると芋づる式に森田理論の伝えたかったことがよくわかるようになるのです。この喜びは達成したことのある人でないと、実感がわかないのではないかと思います。ひとつのことが体得できれば、森田理論の10が分かるようになるのです。あるいはもつれた糸が次第にほぐれてくるようなものです。プロ野球の王貞治さんはバッティング理論の解説をすると、球をいかに遠くへ飛ばすかということにかけてはとても納得ができる説明をされます。王貞治さんは800本以上のホームランを打たれたわけですから、無理もありません。しかし、私が感心しているのはバッティング理論だけではありません。王貞治さんは、人間が生きるということはどういうことかについてのしっかりとした見識を持っておられます。これは一般的には木の棒を振り回すという、たいして意味のないようなことに真剣に取り組むことによって、培われたものだと思います。森田理論も総花的にあらゆることに手を出してつまみ食いをすると言うよりも、 1点か2点に絞って粘り強く継続して深耕していく態度が欠かせないと考えます。自分が取り組むべき事は、人それぞれに違います。自分が取り組みやすいこと、興味のあることから始めてみてください。きっとよい結果が出ると確信しています。
2018.01.04
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年賀状の作成の時期がきた。挨拶がわりに、 「年賀状書いてますか」というのが風物詩である。一般的には、気が重いなと思っている人が多いようだ。特に出す枚数が多い人によく見られる。森田では、イヤイヤ取り掛かっればそのうち弾みがついてくるという。とにかく早く取り掛かっれば、精神的苦痛は少なくなると思う。たまに、年賀状作りがとても楽しみだという人もいる。聞いてみると、そういう人は 11月に入るとさっそく準備しているようだ。そういう人は絵手紙を書いたり、版画づくりから始める。あるいは毛筆で1枚1枚丁寧に書くので早くから始めないと間に合わなくなるという人もいる。心のこもった年賀状を受け取ると、とても嬉しいものである。草木染で自作の作品を描いたもの、達筆な字で書かれたもの、絵手紙に一言添えてあるものなど手作りの作品はとても好感が持てる。そういう人は毎年丁寧な年賀状作りに力を入れておられる。そういう年賀状をいただくと、そういう年賀状が少ないだけに、とても目立つのである。その人に対する印象が、好印象となってとても好感が持てる。人間的な優しさも感じることができる。今年も何かいいことが起きるかもという期待を持たせる。毎年2枚か3枚はある。なかには出してない人が聞きつけて、その作品を催促されることもあるという人もいる。これこそ年賀状作りに森田理論を応用している例だと思う。なかには市販の年賀状や印刷屋に頼んだ年賀状にそのまま宛名書きを印刷して出している人もいる。こういう人は、時間がなくて慌てて作ったのか、あるいは強いて出したいとは思わないが、相手からくるので、義理で出しているのだという気持ちが透けて見える。義理でいただく年賀状は多いが全く嬉しくない。出すだけ時間の無駄ではないかと思う。かえって相手に対する不信感すら覚える。むしろ出さないほうが悪い印象を与えないので、そのほうがよいということが分かっていないようだ。せめて一言、近況報告や相手のことを思いやる言葉を添えるのが常識のある人間のやることだ。一言書き添えるのは、「おはようございます」「おつかれさまです」という挨拶のようなものだ。こちらが挨拶をしたのに、無視されることほど不愉快な気持ちになることはない。さて、そのためには、 12月も押し詰まってから取り掛かるのでは遅いと思う。11月に入ると大まかな計画を立てて、早くから少しずつでも取り掛かることが大切だと思う。11月中に裏面は自分の撮った写真などを貼り付けて、一応は完成させておくのがよいようだ。喪中はがきが来るので、一旦目につくところにそのまま放置しておく。私は今年は老人ホームの慰問活動で撮った獅子舞を踊っている写真にした。12月10日過ぎから毎日5枚から10枚ぐらいずつ宛名書きを始める。そのとき、あらかじめ、昨年頂いた人のリストを作る。その際昨年喪中はがきの来た人が漏れないように気を配る。発見会関係、会社関係、OB会、友人、親戚や近所の人、資格試験の時の仲間、同窓会関係、趣味の関係などジャンル分けをしている。そして喪中ハガキが来た人に誤って出さないように先に印をつける。これが来年役立つ。それが完成すると、出す人を思い浮かべながら、余白に一言付け加えるのである。相手との思い出について書くことが多いが、ない場合は自分の日頃の生活状態を伝えるようにしている。そうすれば、特に年賀状作りのための時間を作る必要がなくなる。億劫でなくなる。さらに弾みがついてやる気が高まってくる。20日もあれば、自然に終わっており、後は年末に投函するだけとなる。出した人が懐かしさのあまり電話をいただくことがある。そんな年賀状を作りたいものだ。年賀状はとりかかるまでは、億劫で面倒だと思いがちである。でもそれを突破して、ものそのものになりきれば急に楽しい年末の活動に早変わりする。森田でよく言われるように、苦楽はコインの裏表なのだ。たかが年賀状、されど年賀状である。生活の発見誌でも、今年もらったうれしい年賀状というコーナーを作ってみてはどうだろうか。よく公民館や郵便局などで絵手紙年賀状の展示をしている。見事な作品がそろっている。現物展示は、来年の年賀状作りの励みになるかと思うのである。
2017.12.16
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先日、森田療法学会での「踊る森田療法」「歌う森田療法」について紹介したが、もう一つ「書く森田療法」というのもあった。これは書道を取り入れた森田療法だ。自分の思い思いの字を選んで毛筆で書くのだ。一文字、あるいは2文字というのが多かった。これは1人で作品を作る場合と、4人ぐらいのグループで1つの作品を完成させる場合があった。やり始めると、みんなできるだけ素晴らしい作品にしようと一生懸命になる。そこで出来た作品はしばらく展示しておくということだった。それは不満足な作品であっても、それを受け入れるという体験になるということだった。この話を聞いた人からは、その際墨汁を使っているということだったが、墨をするということから始めたほうがよいのではという意見が出た。私は書くといえば、川柳やユーモア小話つくりを思い出す。これらもお金もかからず、いつでも手軽に楽しめる。その作品を皆の前で公開してあげれば、人からも喜ばれる。「おばあちゃん 試合のある日は カープ女子」「新年会 一人一芸 花盛り」「不眠症 集談会では 大いびき」「馬になれ 孫が飛び乗り ムチを打つ」来年の生活の発見誌1月号に掲載されるかどうか今からとても楽しみだ。私は1年を通じて川柳を作り続けているので、常に注意や意識は外向きになっている。こういうのを物事本位というのである。森田理論の目指すべき方向と一致している。このブログは初めて丸5年になる。文章を書くという事は、まず本を読んでネタを探す。心にひっかかるところがないと文章は書けない。疑問や興味や関心を持つことがとても大切である。次に森田理論に照らし合わせて、頭の中でいろいろと構想を練り、音声入力でどんどん入力していく。さらにそれを手直ししていく。そして投稿原稿として予約している。楽天のブログには予約機能があるので、旅行に出かけるときなどはとても楽である。今日現在は20日先の原稿づくりをしているのである。この作業を毎日繰り返していて思ったのだが、5年も経つと森田理論の理解は確実に深まっていった。また正式に文章の書き方を学んでいるわけではないが、ある程度の文章力がついた。また頭を使うのでボケ防止にもなっているのではないかと思う。それどころか益々さえてくる。これもアクセスしてくれる人がたくさんおられるから、弾みがついてきたのである。始めた当初は1日で10名から20名程度だった。現在は1日で1000名を超える日も珍しくない。最大4000名以上のアクセスがあったが、生活の発見会以外の人も森田に関心のある人がおられるということが分かった。始めた当初は5年で10万人ぐらいのアクセスがあればと思っていたが、実際には70万人を超えた。これはうれしい想定外だった。今では、5年を過ぎてももっともっと続けて、森田理論の普及に力を注ぎたいと考えるようになった。これが自分に与えられた天職ではないのかと思うようになった。私の参加している集談会では、水彩画の先生をしている方に指導してもらい、水彩画体験をしたことがある。その先生は、絵は上手い人と下手な人がいるので、今日は自分の利き腕とは違う手で描いてくださいと言われた。私は持参していた録音機と小型スピーカーを描いた。左手で描いたので少しぎこちないものになったが、味わい深いと思っていまも部屋に展示している。つい1年位前になるが、全員で向かい合わせになって似顔絵作りをしたこともある。本職の人が描くような作品にはならないが、とても個性的な作品が出来上がった。みんなの前で発表しあって大いに楽しんだことがある。森田先生の所では、夜は版画づくりのようなことをされていたという。例えば「事実唯真」と言うようなもの彫刻刀で彫っていた。これも興味を引く。そのほか集談会で取り組んだ「折り紙体験」も面白かった。その時は鶴を折った。こういう体験を集談会で短時間でもいろいろ取り入れていると、弾みがついてくる人がでる。ある人が小型ドローンの操縦実演をされたが、私はそれを見てすぐにやり始めた。模型ヘリコプターよりも簡単に操縦できた。こんなことがより多く頭の中に浮かんでくるようになれば、もう神経症で振り回されて生活が滞ってしまうことはなくなると思う。
2017.12.14
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パニック発作に森田療法を応用していたお医者さんの話である。パニック発作に対して、森田療法の「不問」だけで対処すると、患者は「不満や不安」で治療から脱落してしまうことを少なからず経験してきた。これは我々も思い当たることがあるので、思わず苦笑してしまった。パニック発作の急性期にはベンゾジアゼピン系薬が有効である。即効性があり、使い勝手が良い。有効であるが故に、これを使いすぎると薬物依存になることも経験してきた。SSRIは長期的には有効であるが、即効性がないのが欠点だ。ところでパニック発作に陥ると、脈拍や呼吸が速くなる。脈拍や呼吸は早いと不安になるし、不安になるとますます脈拍や呼吸が増えるという悪循環に陥る。この場合、脈拍は変えられないが、呼吸は不随意でも随意でも行うことができる。呼吸をゆっくりすることで落ち着く。特に呼気をゆっくり吐くことが重要である。リラクゼーションに有効な深呼吸、ヨガ、太極拳、 禅 、瞑想、自律訓練法などに共通する。しかし、これらは習得するのにトレーニングが必要であり、時間がかかる。1番お手軽な呼気をゆっくりする方法は「歌を唄う」ことである。(第35回森田療法学会 一般演題5-2から要旨引用)この話をもとにして話をしてみたい。まず歌を歌う前に、声を出すということは大切だと思う。集談会のような場に参加して、自分の抱えている苦しみを人に向かって話すということである。話すということは、ダムに溜まり過ぎた水を放水するようなものである。放水しないで貯めてばかりいると、いつかは溢れ出す。また、ダムの強度がその水圧に耐えられないと、決壊して大災害を引き起こす。災害を起こさないためには、小出しに自分の悩みなどを誰かに話すという作業が必要なのである。そう言う意味では、守秘義務が徹底されている集談会は大変貴重な場である。普段はなかなか愚痴などを思う存分口に出す事は出来ない。しかし集談会では、自分をさらけ出してもほとんどの場合は相手がよく聞いてくれる。集談会は傾聴、受容と共感が建前になっているので安心して自分の葛藤や悩みを話すことができる。私が参加していた集談会では、以前集談会の最後には、ギターの上手な人の伴奏に合わせて、「仲間たち」というフォークソングを歌っていた。「君の行く道は、果てしなく遠い・・・」と言う歌である。最後に合唱で締めると和やかな雰囲気になる。 。この歌を歌うと、われわれは共に神経質で悩む同士なのだなという気持ちが湧いてきた。また、毎年1回、カラオケを使って新年会や忘年会があった。その時は、音痴である私も1曲の歌を決めて1ヶ月ぐらい前から練習をしていた。練習で歌った歌を録音してそれを聞いてみた。これも大事なことだった。とにかく最初から上手に歌おうという気持ちはない。みんなと一緒に楽しめればいいと思っていた。それだからこそ、 神経質性格を活かして、周到な準備ができるのだと思う。最悪なのは、カラオケに行って本を開いて、どの歌が歌えるだろうかと探すことである。私などのような音痴な人はその時点で負けであると思う。カラオケは苦痛以外の何物でもなくなり、人生の楽しみを一つ失うことになる。最近、あることに気がついた。嬉しい発見だった。歌手が歌っている歌声を何回も繰り返して聴いていると、歌うスピードがわかる。さらに、盛り上げるところと、おとなしめに歌うところがわかる。またのばすところと、短く切るところもわかる。それを紙に詳細に書いていった。それを見ながら真似をして歌ってみると、なんとか形になることがわかった。だいたい5人ぐらいでカラオケに行くと、よく歌っても一人3曲ぐらいである。だから、普段から何曲も用意する必要はない。これだと思う曲を2曲から3曲用意して繰り返して練習すればいいのである。あとはカラオケでは上手な人の歌声を聴いていればよい。とにかく、カラオケでは思い切って楽しむことに徹することである。そのためには後ろ盾となる何とか歌える曲を、2曲か3曲は日ごろから用意して持つことである。
2017.12.05
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土曜日や日曜日は休日という方も多いと思いますが、生活面では注意が必要です。会社や学校でため込んだストレスを休日に一気に解消しようとするのです。パジャマのまま過ごす。昼近くまで寝ている。外出もしないでパソコンゲームに没頭する。テレビを見続けたり、音楽を聴きながらスナック菓子を食べる。規則正しい生活が土曜、日曜でいとも簡単に崩れてしまうのです。精神的には、金曜日まで緊張していた状態から、急に弛緩状態に変わります。糸の切れた風船のような状態になります。森田先生はそんな生活をしていると、風邪をひきやすくなるといわれています。寒い冬の日に外出すると寒さのために心身共に緊張しています。家に帰るとほっとして緊張感から解放されて、こたつに潜り込んでうたた寝のようなことをするとよくない。これで一挙に心身共に弛緩状態になる。その精神状態に体のほうがついてゆけない。体調の変化を起こし風邪をひきやすくなるのである。精神は緊張から弛緩状態に移行させるときは、ソフトランディングを心がける必要があるのである。土日もあまりにも弛緩状態に浸りまくるのは、心身の活動にとって問題があるのである。また月曜日から金曜日までは、会社に出社していたので、曲がりなりにも生活のリズムがありました。そのリズムがこの土曜日、日曜日で一挙に崩れてしまうのです。リズムというのは海の波と一緒です。波は持ち上れば、必ず谷底に沈んでゆきます。それを絶えず繰り返しています。それでバランスがとれているのです。土日にそのリズムを破壊してしまうと後が大変です。また、月曜日になって一から生活のリズムづくりをすることになります。これが大変な作業となります。土日は普段の生活のように大きなリズムを作る必要はないかもしれませんが、ある程度のリズム感のある生活を心がけることが大切です。土日といえども基本的な生活スタイルは崩さないようにしたいものです。集談会で「くつがそろえば心がそろう」ということを聞きました。形を重視することが大切です。定時には起床する。歯磨きをする。洗面を済ませる。着替えをする。朝食をとる。新聞をよむ。等いつも毎朝やっていることは、いつもどおりすませる。これはウォーミングアップのようなものです。ウォーミングアップが済めばいよいよ活動開始という態勢になります。その際役に立つのは、普段から土曜、日曜日になすべきことのストックをたくさん持っておくことです。当日になって、さあ何をやろうかと考えるようでは遅すぎます。そのために気のついたことは常にメモする習慣をつけておきたいものです。私は100均で買った小さなメモ用紙にストラップつきの小さなボールペンをつけてメモしています。また携帯のメモ機能やカレンダー機能を大いに活用しています。書いたらときどき取り出して眺めるといいでしょう。準備が済んでいると、体が動きやすくなります。すぐに処理できることからどんどん片付けてゆきましょう。いろんなことが片付くとうれしくなってきます。その途中で小さな気づきや発見もあります。新たな関心や興味も湧いてきます。たまには普段できないことに挑戦するのもいいでしょう。美味しいものを食べに行くのもいいでしょう。映画を見に行くのもいいでしょう。釣りに行く。コンサートに行く。図書館や本屋さんに行ってみる。あるいは卓球やバトミントンなどのスポーツに挑戦してみる。一日が終わり、日記を書くころには思い出せないほどのたくさんのことに手を出していたことに気が付きます。一日何もしないでゴロゴロと寝っ転がっていると後悔の念が湧いてきます。自己嫌悪に陥ってしまいます。土日は普段の気にかかっていること、やりたいことを片付ける絶好の機会であると認識することが大切です。
2017.12.02
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私はマンションの管理人をしている。マンションの管理人の仕事は5つある。まず受付業務。清掃業務。立会業務。点検業務。連絡報告業務である。今日はその中の清掃業務について投稿してみたい。清掃という仕事はとても奥が深い仕事である。私が1番力を入れているのは、開放廊下の側溝の掃除である。ここは大規模修繕工事などがあると、ウレタン塗装でピカピカに輝いている。ところが管理人がここの掃除を怠ると真っ黒に変色してくる。しつこい黒い汚れが付着してしまうと、なかなか元には戻らなくなる。そうならないためには、 1週間に1回ぐらいモップ掛けをするとよい。この側溝の掃除を丁寧にしていると、実に気持ちがよい。居住者の人も、管理人の清掃業務を高く評価してくれる。開放廊下の掃除が少し手抜きになっても、側溝と面台の拭き掃除は手抜きはできないと考えている。開放廊下は基本的にはホウキとちりとりによる拾い掃きである。しかし、エントランス自動ドアやエレベーターの溝のゴミはなかなか掃き出すことができない。そんなところによく綿埃のようなゴミや虫が入り込んでいる。私は長年の経験により、清掃の7つ道具を絶えず携えている。ちょっとした気づきですが、他の管理人さんでまだ知らない人がいるので、教えてあげることがある。実際に実践してみるととても役に立つと言われる。・側溝用ちりとり・・・側溝の砂などのゴミを掃除するのに欠かせない。・小さなブラシ・・・エレベーター回り、ドア周り、廊下の隅の掃除に欠かせない。・ドライバー・・・水道メーターの点検するときに欠かせない。こびりついたゴミをほじくり出すときにも便利である。・ピンセット・・・ドレンの中に詰まったゴミを拾いあげるときに必要である。・メモ帳・・・水道メーターの数字を記入したり、居住者の伝言を素早くメモしている。・ライト・・・電気のタイマーのセットや、暗い場所での作業時に欠かせない。・カメラ・・・不具合箇所や不審車両などを撮影して、管理会社に見てもらっている。この7つ道具は、清掃をしているときにとても役に立つ。100均で買ったものが多い。これがないと、きちんとした清掃作業ができないのである。小さなブラシにはドライバーをくっつけて、ちりとりに取り付けている。側溝用ちりとりもちりとりに取り付けている。ピンセットはバンドにセットしている。メモ帳、ライト、カメラはスマートフォンで用が足せている。先日、管理人の研修会があった。その時に、みんなで清掃作業の工夫を出し合った。清掃作業中に気づいた問題点や疑問をもとにして、みんな様々に工夫しておられることがよくわかった。そういう人は、 「たかが清掃、されど清掃」と言うような気持ちでおられることがわかった。清掃作業という仕事は、 3kと言われるような仕事である。そんな仕事でも、一歩踏み込んで取り組んでいると、いろんな気づきや発見がある。それを元にして工夫や改善を心がけていれば、苦痛と言う事はなくなり、むしろ面白くなってくる。そして、居住者の人に気持ちよく生活してもらうことができる。すると、何かにつけて居住者の人が仕事ぶりを評価してくれるようになり、自由にのびのびと仕事ができるようになった。最近ではいろいろ優しい言葉をかけてもらったり、いろんなものを差し入れしてもらえるようになった。最初この仕事を始めたときは、アルバイト程度で5年ぐらいで辞めるつもりだったが、今では弾みがついて10年までは続けたいと思うようになった。森田でいう「ものそのものになりきる」という実践は、色々なメリットがあることに気がついた次第です。
2017.11.16
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森田先生のところに入院していた舘野健さんが次のような話をされている。森田先生が亡くなられた。前年の秋のことである。日曜日の午後、高良先生・古閑先生をはじめ門弟一同が先生の病室に集まって雑談をしていたが、誰が始めるともなく、みんなが思い思いに人の顔を写生しはじめた。私は高良先生のお顔を写生していた。 ○○先生だけが仲間に加わらなかった。「 〇〇君はどうして描かないのですか」と森田先生がいわれた。〇〇先生は何か口ごもりながらバツわるそうな表情をした。そばから古閑先生が、 「 〇〇君は絵のほうはダメなんです」と、おとうと弟子に助け舟を出した。「僕は風邪でねたときに下手な俳句を100首以上も作ったことがある。上手とか下手とかということにとらわれず、なんにでも手を出さなければ」と、 〇〇先生のほうを見据えるようにして、意外に厳しい調子で、 「自分の本職のほうにしろ、 1人前にはなりません」といわれた。一瞬、ピリッとした空気が、その場を領した。舘野さんは、入院中、夜に庭に出て発声法の練習をしていた。それを聞いていた森田先生が、ある日、 「舘野君は声楽をやっているそうですな」と先生に訊かれ、叱られるのではないか、と黙ってみまもる私に「僕も試験勉強中に三味線を習ったことがあります」とポツリと言われた。そして、しばらくしてから、 「何にでも手を出しなさい。僕の療法も、西洋医学の療法といわず民間療法といわず、あらゆる療法に手を出して、やってみた結果、自然にできたもので、初めから作り出そうと思ってやったことではありません」と言われた。私は、この時ぐらい嬉しい気持ちで先生のお顔をみあげた事はない。(形外先生言行録 204ページより引用)この文章を読むと、いかに森田先生が実践や行動を重視されていたかがよくわかる。私は実践や行動は、好奇心が湧いてきたり、興味がある事は基本的には何にでも手を出した方がよいと思う。手を出してみれば、いろんな感情が沸いてくる。簡単にできると思っていたことが、意外と難しかったりする。例えば、大道芸で皿まわしがあるが、簡単そうに見えるが、うまくできるようになるまではかなりの練習をつまないとできない。また、取り越し苦労ばかりして右往左往していたようなことが、実際に取り組んでみれば意外と簡単にケリがつくこともある。また、豆腐のやわらかさは口でいくら説明しても分かりづらいが、実際に自分の手で触ってみれば、その感触がすぐにわかる。実践、行動がなぜ大切なのかというと、様々な感情がわき起こってくるからである。その感情がまた次の感情を生みだして、弾みがついてくるのである。すると、自分の症状にばかり関わっておられなくなる。それは、気づきや発見によって、自分の中でやる気や意欲が次第に高まってくるからである。仮に手を出してみれば、さらに新たな感情が生まれてくる。さらに工夫や挑戦を続けることによって、建設的生産的な生活へと変化していく。実践や行動は、最初のうちは面倒だとか億劫だとか色々理由をつけて、回避しようとしがちである。その気持ちをある程度封印して、嫌々仕方なしにでも体を動かすことが大切なのである。規則正しい生活を心がけていれば、体がひとりでに動いていくようになる。学校での勉強や会社での仕事は、最初から好きでやっているような人はあまりいない。勉強は大学に入るため、あるいは、いい仕事に就くため仕方なく始めることが多い。会社での仕事は、自分の生活と家族の生活を成り立たせるためにやむなく携わっていることが多い。いわば他人から強制されて、自分の意志に反して無理やり行動しているようなものである。最初はそんな状態でも一向に構わない。むしろ、そこには嫌々仕方なしに行動しているということに大きな意味がある。とはいえ、そのような状態がいつまでも続く事はストレスの蓄積につながる。そのうち、精神的な苦痛に耐えきれず怠けたり挫折したりすることがある。 それではせっかくの実践や行動が台無しになる。これを避けるためには、森田理論で言うところの「ものそのものになりきる」を取り入れるとよいのだ。いやいや、仕方なしに始めた勉強や仕事であっても、いま一歩踏み込んでみることだ。少しでも面白み、疑問や改善点などの気づきや発見という宝物を探し当てるという気持ちが大切なのだ。その宝物を1つでも見つけようと言う気持ちがあると、必ず「ものそのものになりきる」という行動につながる。そうすれば次第に、勉強や仕事に興味がわき、いつの間にか時間を忘れるぐらいにのめり込むようになるのである。それが森田理論で言うところの、 「努力即幸福」の体験である。いつもいつもそういう状態になることは難しいが、勉強や仕事を面白くするためには、どうしても通らなければならない関所のようなものである。
2017.11.15
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この迫力ある獅子をご覧ください。踊る森田といえば獅子舞も見逃せません。この獅子で老人ホームなどで、篠笛、太鼓に合わせて「江戸寿獅子」を舞っております。重さ約4キロあります。そのため日ごろから手の筋力をつけています。また地面に這いつくばった状態から、急に飛び上がりますので、足腰を常に鍛えておく必要があります。つまり、体力勝負なのです。普段から毎日仕事で10階建てマンションの階段を2段跳びで駆け上がり、足腰の強化を図っています。獅子舞は見る機会がないので、見た人は喜びます。獅子舞が終わると、希望者に縁担ぎで頭を噛んであげます。
2017.11.14
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集談会の懇親会で、しば天踊りを披露する私。第35回日本森田療法学会に参加した。約200名近い方が全国から参加されていた場所は、森田先生が学生生活を過ごされた熊本であった。森田先生の五高時代のエピソードがふんだんに紹介されて感慨深かった。私は初めて参加したが、大変役に立ったので、近くの県で開催される時は、また参加してみたいと思った。その中で印象に残ったことをお話ししてみたい。北海道の方で、復職デイケアを担当されている方が、「踊る森田療法」について発表された。身体からのアプローチを重視して、運動系プログラムを積極的に取り入れていることが特徴です。その中でも、エアロビクスはクラスの看板プログラムである。その目的は、仕事に欠かせない身体的な疲労耐性を養うことである。最初は踊ることに抵抗を示す人が少なくない。ところが、参加を重ねていくうちに、好きなプログラム・ナンバー 1へと評価が変容していくことが多い。その理由の1つとして、気分がすぐれないまま踊るという行動を起こすことで、不快な気分へのとわれから抜け出すことを体験的に学んでいることが挙げられる。リズムに乗ってダンスを踊るという事自体、人間の根源的な楽しみの1つであり、固有の音楽と舞踏を持たない民族はない。それは舞踏が「楽しさ」を内包しているためである。理屈抜きにしても、実際、音楽に合わせて踊る時は、余計なことを考える暇が一切ないのである。踊っている瞬間は、言葉や観念からは解放され、今この瞬間に「なりきる」ことを体感できるのである。一般に悩んだり不安にさいなまれている人ほど、体が動いていないことが多い。さらに、動かず、考えても答えが出ないことで悩み始めると、自分のこと(気分や立場)ばかりに関心が向きがちになる。その結果、今やるべきことがおろそかになり、ますます苦悩にとらわれるという悪循環に陥ってしまう。それを打破するために踊りは有効なのである。これは集談会活動に取り入れるべきであると判断した。普段の集談会では、自己紹介、理論学習、体験交流が定番プログラムです。その中に、このような体験学習を取り入れてみるという考え方はいかがでしょうか。私は集談会の中に、「生活森田・応用森田」というコーナーを設けるべきであるという立場に立っている。私の所属している生活の発見会の瀬戸内支部では、毎年1回、 1泊研修会行っている。その時の懇親会の時に場所があれば、徳島阿波踊りの音楽をかけて踊っている。徳島集談会の人が講師になり、最初に簡単なレクチャーを受ける。阿波踊りはそんなに難しい踊りではない。あとは自由気ままに踊りまくるのである。文句なしに楽しい。私は、高知のしば天踊りをYouTubeで発見し、かぶりものを高知の北村染物店から取り寄せて練習を開始した。最初は所作を覚えるのが大変だったが、現在はアドリブも含め、完全にマスターした。忘れないために、毎日朝練習を続けている。毎日踊り続けて約3年である。長く続いているのは、老人ホームの慰問活動で出し物として使うためである。それに加えて、安来節のどじょうすくいの踊りも私の得意な踊りであり、毎日練習している。獅子舞、浪曲奇術も習得しており、これらは本番前には1週間程度集中練習をする。場を和ませて、人に喜んでもらえるし、自分もそれに没頭しているときは、症状のことは完全に忘れるので一挙両得である。これらについては、挑戦したいという人がおられればいつでもすぐ応じている。将来はホームページを立ち上げることも考えている。題して「一人一芸の持ち主、全員集合」である。座学の森田理論学習も大切であるが、もっと大切な事は森田理論を実際に生活の場で応用してみるということである。
2017.11.14
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私が集談会に出席し始めた頃には頻繁に野外学習会があった。これは座学ではなく、実際に野外でキャンプのようなことを体験した。薪で飯ごう炊飯やカレー作りをした。その後は、ギターの上手な人の伴奏に合わせて、みんなで歌を歌った。ときには、みんなでテニスをした。ゲームをしたり、付近を散策して楽しんだ思い出がある。最近はこのような体験学習はほとんど行われなくなった。野外学習会は体験交流のようなものはあったが、森田理論学習はなかった。これはいわば森田先生の入院療法の真似事のようなものだった。頭でっかちになり、理論ばかりに取り組むことよりも、視点を変えてこうした取り組みは必要だと思う。最近は生きるのが精一杯で、そうしたゆとりを持つことができないのかもしれない。もし今集談会で行うとすれば、せめて 「応用森田・生活森田」というコーナーを設けて取り組むことぐらいか。私の参加している集談会では、毎回15分ぐらいな時間で、代わる代わる発表した。楽器の演奏、水彩画、川柳づくり、似顔絵作り、編み物の楽しみ、折り紙の楽しみ、私の取り組んでいるスポーツ、ヨガ、ペットとの付き合い方、陶芸の楽しみ、趣味の紹介、映画の紹介、書籍の紹介など多彩であった。今はネタ切れになり中断中だが、いずれまた復活させていきたいと思っている。他人の日常生活の中での実践や工夫例、趣味への取り組みなどの話を聞くととても楽しい。それに刺激を受けて、自分の生活の中に取り入れたり、趣味などへの挑戦を始めたりする人も出てくる。集談会は、森田理論学習だけではなく、お互いに様々な刺激を与え合う場でありたい。広島風お好み焼きの作り方、魚の3枚おろしの作り方などは集談会で聞いて修得した。NHKの「ためしてガッテン」というような、新しい発見や体験は、自分の生活自体が活性化する。魚釣りの好きな人がこんな話をしてくれた。その方は魚を釣り上げるとすぐに後処理をするという。普通は釣り上げるだけで、海で後処理までしている人は少ない。後処理をすると、鮮度を保ち、刺身にしても、とても美味しく食べられる。その方によると、すぐにえらぶたの脇の神経や血管がくっついている背骨を切るという。次に海水を入れたバケツの中に魚を入れて血抜きをする。それからバケツを変えて、持参した氷の中に2、3分入れておく。それが済んだら、クーラーの中へ入れる。クーラーは底に氷を入れる。その上に新聞紙を敷く。その上に処理の済んだ魚を並べておく。冷気で冷やすといった感じだ。このような処理をするだけで小料理屋で出されるような美味しい魚料理が食べられるのだという。この方は、魚釣りの名人だと言われているが、釣り上げた魚の処理の名人でもあった。こういうところに注意や意識が向いている人は、神経質性格を持っていても、神経症にはならない。むしろ神経質性格を存分に活かして、どんどん生活を膨らませて楽しんでいる人だと思う。
2017.11.09
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「たかが人生、されど人生」という言葉があります。今日は自分の人生をキラキラと輝かせるためには何が必要なのかを考えてみたいと思います。お金が有り余るほどあって欲しいものが何でも手に入る。おいしいものがいつでも腹いっぱいになるまで食べられる。仕事をしないでも毎日遊んで暮らせる。名声を得て、多くの人から賞賛されている。世界中を旅して珍しいものを見て回れる。これらが満たされることが、人生をキラキラと輝かせることにつながるのか。これらは確かに生活の中にアクセントとしてあれば楽しいことには間違いない。ところが、そういう生活にどっぷりつかってしまうと感覚が麻痺してしまう。それは丁度毎日脂ののったトロや霜降り肉を食べているようなものである。すぐに飽きてくる。さらに刺激のある珍しくて美味しいものを求めるようになる。そんなことが実現できたからといって、死ぬ間際になって面白い人生だったと振り返ることはできないだろう。森田理論では、その質問に対する明確な答えを持っている。それは今自分が取り組んでいることで、感情が生まれ高まっていくかどうかということである。気づきや発見が生まれたかどうかということである。工夫やアイデアを思いつけばしめたものである。そうすれば自然に意欲や、やる気が高まってくる。そこに自分の人生が活性化するかどうかのカギがある。これは勉強や仕事をやっていて、誰でも経験したことがあると思う。最初は誰でも生活の為、生きていくために何らかの仕事に就く。できるだけ自分に合った面白そうな仕事を探すが、なかなかそういう仕事はない。しかし食べていくためには、仕事をしないわけにはいかない。いわば嫌々仕方なしの仕事である。会社に行けば、仕事のやり方を指示、命令され自分の意思とは関係なくやらざるを得ない。そんな状態がもし、定年まで続くとすると大変な苦痛である。精神を病んでしまう。たとえば自動車組み立て工場の仕事を思い出してみるとよい。自分の持ち場、ある特定の単純作業に就くと、2年間はくる日もくる日もそれに専念する。機械に使われているかのような仕事である。普通の人では耐えられないのではないかと思う。もし、仕事の中で生きがいを見つけようとすると、別のやり方が必要である。それは仕事の中にいま一方踏み込み、その仕事の中に工夫や改善点を見つけることである。他人から教えられて見つけることでは不十分である。自分で気づくことが大切である。自ら気づきや発見を得た人は、急に仕事に対する意欲やモチベーションが上がってくる。そこからさらに創意工夫をしていると、ますます仕事が面白くなってくる。これは学校の勉強でも同じことが言える。ここで注意したいのは、最初は嫌々仕方なく取り掛かってもなんら問題はないということである。人間は、しんどいことはしたくない。新しいことをやるのは不安だ、億劫だ、気が進まないなどと思う。何もしないで他人よりよい思いをしたいなどといった怠惰な面を持ち合わせた生き物なのである。そういう生き物が、他人から指示命令された仕事などに対して、最初から積極的に取り組んでいくなどということは考えにくい。最初は自分の意思とは無関係に、嫌々仕方なく取り組んでいくというのがほとんどである。しかしそういう気持ちを持ちながらも、必要なことに手を出していくということがとても大切である。そのうち、いったんやり始めたことは、次第に弾みがついてくる。弾みがついてきたときに、森田理論で言うところの「ものそのものになりきる」と言う経験を持つことが大切である。これはお使い根性やよこしまな目的本位の態度では到達することはできない。我を忘れて瞬間的にそのものにのめり込んでしまうという体験が必要なのである。今一歩踏み込んで、一心不乱な態度である。そして、感情が発生して、興味が湧いて、気づきや発見がいつの間にか生まれてくるということが肝心なのである。森田理論学習では、 「 見つめよ」とも言われる。その先に感情が生まれ、気づきや発見が自然に生まれることが大事なのである。そのようなことを心がけて生活していれば、人生はキラキラと輝くようになるのである。そういう人は目がキラキラと輝き人生を謳歌しているのである。森田では努力即幸福ともいう。これが私が森田理論学習で学んだ、人生を実りあるものにするかどうかのカギとなる。
2017.11.07
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森田先生は、物事を処理するについて、能率を上げることを強調されました。その方法を箇条書きにしますと、おおむね次のようであります。1 .処理する仕事が2つ以上あって、自由に選択することができる場合、まず易しい仕事から手をつけること。2 .考えてばかりいないで、まず着手すること3.1つのことを長時間継続しないで、仕事の転換を図ること。 「休息は仕事の転換にあり」とは、先生の名言であります。4 .しかけている仕事は、仕舞いこんでしまわないで、目につくところに出しておくこと。(形外先生言行録 山野井房一郎 81頁より引用)ここで言われている「考えてばかりいないで、まず着手すること」から考えてみたい。神経質者の場合は、様々に思考をめぐらし、成功間違いなしという確信を持たないと、なかなか行動に移らない。その結果、千載一遇のチャンスを逃してしまうことが多々ある。後で後悔するが、すでに時遅しである。私もこの手の失敗を積み重ねてきた。森田理論では、頭の中で試行錯誤することは極力少なくして、仮説を立てて、仮に実際に行動してみることをすすめている。仮に行動しているのであるから、これはまずいと思えばすぐに手を引くことができる。また失敗の経験は貴重な体験となり、次回の成功の糧となる。思考することと行動実践することのバランスが崩れている場合は、行動実践することに注意や意識を重点的に配分することが必要である。その2つのバランスを整えることにエネルギーを投入するべきである。神経質者は元々慎重な人が多いので、尻軽く行動できるようになれば、それがプラスに働くと思う。次に難しい仕事と易しい仕事がある場合、どちらから手をつけるか迷うことがある。基本は、易しい仕事、数多くこなせる仕事から手をつけるとよいと思う。嫌な仕事や、やる気が出ないとき、嫌々仕方なしに手を出していくとしだいに弾みがついてくる。そうすると、気づきや工夫が生まれてくる。そして意欲や、やる気が高まってくる。とっかかりとしては、気持ちが入らないのでやらないというのではなく、気が乗らないままに身体を動かしていくことが大切なのである。そうすれば、弾みがついたその勢いで難しい仕事も挑戦できるようになる。難しい仕事は納期をはっきりさせることが大切であると思う。いつまでにやらなければならないという最終締切りがわかれば、それまでに色々と段取りを考えることができる。難しい仕事も単純な仕事が複雑に絡まっているだけのことが多い。それを分解して単純な仕事にして、ひとつひとつクリアしていけば、最終的に難しい仕事もこなすことができるようになる。また、自分1人ではできない仕事、あるいは今現在では時期が悪いというような仕事もある。そういう時は、自分1人で抱えずに、上司などに相談して、何人かで協力し合いながら取り込むことも必要である。まだ時期早尚と言う場合は拙速にとりかかるのではなく、タイミングを計るということも頭に入れておく必要があると思う。「休息は仕事の転換にあり」は、森田理論学習をした人は生活の場に応用されている人も多いと思う。30分経てば、今手がけている仕事を中断して新しい仕事に取り組んでみる姿勢が大切である。そうすれば、また新たな緊張感が生まれて精神が弛緩状態に陥ることを防ぐことができる。それが積み重ねられば、疲労を感じることがなく、相当仕事がはかどるということである。4番目に言われていることであるが、森田先生は気になる事は、よく目に付くところに置いておくと良いと言われている。人間はすぐに忘れる動物である。先程まで、これは絶対に忘れてはならないと思っていても、別のことをしているとすぐにうっかり忘れてしまう。そういう時は付箋に書いて机の上に貼っておく。あるいは携帯のアラーム設定をしておく。皆さんも忘れないための工夫を様々にされていることと思う。気になることをよく目に付くところに置いておくと、すぐに思い出すことができる。あるいは、こまめにメモするようにしたらいいと思う。最近は携帯電話にメモ機能、ボイス機能、カレンダー機能が付いているので、有効に活用した方がよいと思う。余談だが、携帯といえば、最近UQモバイルに変更した。ここ1年間は2メガついて1か月1,980円だった。通話は1か月60分以内0円というプランだ。来年からは2メガ使えば2,980円になる。それにしても、格安である。 田舎の方で使っても支障なくつながる。既存のauの回線を使っているからだ。どうしてこんなに安いのかと聞いてみたら、店舗をあまり持たないので、事務所、人件費などの必要経費がかからないからという回答だった。他の格安スマホは、使用回線の関係で支障があることがあるので、よく調べてからにした方がよいと思う。これはあくまでも参考のために書いてみた。
2017.11.06
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今月号の生活の発見誌の体験談に次のような記事があった。私は集談会で恐怖突入の大切さを学び、症状の苦痛にうめき声をあげながら部屋の掃除、トイレの掃除、風呂の掃除、台所の掃除、シャワーなどを浴びたりしました。森田療法の形から入る、健康な生活をするというのは、苦痛にうめき声をあげながらやるものなんだなあと実感しました。そうまでしなければ神経質症というものは治らないものなのかと不満を抱きながらも、集談会に出席し、発見誌で学んだ超低空飛行を続けました。私が今までの自分を振り返ってみて、神経症まっただ中に1番役に立った事は、 「試してみる」ということだったと思います。形から入る、健康人らしくすれば健康人になれる。何でも試しにやってみるということが、素直ということであり、いつの間にか恐怖突入もできてしまって、精神交互作用も破壊され、 ヒポコンドリー性基調も陶冶されていくのだと思います。「試した時点で大成功」これなら気楽に行動できますと言われている。この話は第一段階目の神経症が治るということをわかりやすく説明されている。私も神経症で苦しかった頃、実践課題を作って取り組むことから始めました。まさにこの方と同じです。それを筆ペンで書いて机の前に貼り付けて実行に移しました。集談会の前になると、その進行状況がどうだったのかを整理していました。集談会では、実践課題の発表コーナーというのがありました。今まで布団をあげなどはすべて妻に任せていましたが、その後は現在に至るまで自分が行っています。集談会では、 「靴がそろえば心がそろう」というスローガンを教えてもらいました。それまでは注意や意識が対人恐怖の症状のことばかりに向いていました。この体験により、目の前の日常茶飯事に取り組むことによって、多少なりとも症状のことを忘れることができました。この経験は、森田理論でいう恐怖突入でしょうが、私にとってはそういう意識はありませんでした。先輩方のアドバイスに従って、やろうと思えばすぐにできることばかりだったのです。そのうち実行する力がついてきて、実践課題だけでは物足りなくなってきました。その頃ちょうど生活の発見誌に、「紙きれ法」が紹介されました。思いついた事や、やるべき事を、すぐに紙の切れ端にメモしておくというものです。それを時々取り出して片っ端から処理していくというものです。この頃になりますと、いろんな気づきやアイディアなどがたくさん頭の中に浮かんでくるようになりました。最初のうちは、できるかできないかは度外視して、とにかくストックを増やすことに重点を置きました。急にやることなすことがキメ細やかになりました。メモしたことの全てができたわけではありません。70%くらいできれば十分だと考えていました。この実践は仕事の上でも役に立ちました。仕事ではやりやすい仕事、すぐにやらなければいけない仕事を重点にして数をこなすようにしました。次に、納期や仕事の重要度に応じて臨機応変に仕事の組み合わせを考えるようになりました。難しい仕事のように思えても、単純な仕事が組み合わさっているだけのように思います。その時その場でやるべき仕事をきちんと丁寧にこなしていると無駄な余計な仕事は発生しないように思います。その体験をもとにして、「仕事に追われる人と仕事を追っていく人」の違いについてまとめてみました。これは、このブログですでに投稿しましたのでご覧ください。神経質性格の小さなことか気になるという特徴を活用して、細かい雑事をいい加減に扱わないで、宝物のように扱うということに尽きると思います。例えば1枚の納品伝票でもお金のように扱うようになると、仕事の出来栄えが格段に向上しています。この実践によって、自分も仕事に対して自信が出てきて、人にも喜ばれ、一石二鳥であったと思います。今現在、神経症で苦しんでおられる方は、尻軽く動けるようになるということが、神経症治癒の鍵を握っていると思います。
2017.10.29
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大工さんの棟梁を育てている高校があるという。その高校では鋸で木を切ることを次のように指導しているという。木を鋸で切るといっても奥が深いところがある。まず鉛筆などで線を引く。鉛筆で引いた線には幅がある。その幅を拡大して考えたときに、鉛筆の線の外側で切るのか、内側できるのか、あるいは真ん中できるのか。細かいことを言うようだが、そういうことを意識しながら鋸を使ってほしい。また鋸の幅も考えなければならない。鋸の刃は薄いものもあれば、厚いものもある。どういう鋸で、鉛筆のどこを切るのかを頭に入れておかないといけない。ほんのわずかな差であっても、たくさんの部材を積み上げていけば大きな誤差となってしまう。また、鋸で切る時の目線も重要だ。これは挽くときの正しい姿勢による道具の使い方を習得して経験を積まないといけない。右足をどこに置き左足をどうするのか。そして自分はどう構え、どこへどういうふうに力を入れるのか。定石や基礎をきちんと身につけるためには、まず先生や師匠等に謙虚になって教えを請うことだ必須である。口うるさくて、腹が立つことがあっても素直になることだ。普通は叱責されたりすると、すぐに腹をたてて、逃げだしたりしてしまう人が多い。でもそのような態度では、いつまでたっても極意を習得することができない。理不尽で腹の立つことがあっても、先生や師匠についていくと、いつの間にか高度な技を自然に身に着けてしまう。自分が一人でできるようになると自信がつく。それを基にして自分独自のやり方を工夫し創作するようになれば、益々仕事が面白くなる。その時になって、厳しく指導してくださった先生や師匠のありがたさが身に染みて分かるようになる。これはノミの使い方、カンナの使い方、釘の打ち方についても言えることだ。ただ言われた事だけをやっている人と、反発しながらも先輩や師匠の持っている優れた技術を早く身につけたいと思っている人との違いである。その後の仕事に対する姿勢や面白みが全く違ってくる。それはものそのものになることによって感情が動き出してくるからだ。感情が動き出して、高まってくると気づきや発見が自然に出てくる。アイデアや工夫も思いつくようになってくる。すると仕事に対して積極的になり、意欲が高まってくる。このことを森田では「物そのものになりきる」と言います。だから行動するに当たっては、最初はイヤイヤ仕方なくとりかかっても一向にかまわない。意に沿わないことを強制的にやらされていても一向にかまわない。最初は注意や意識が内向きから自然に外向きに変わってきたということに意味がある。でも最後までそのような気持ちでは苦痛でストレスが強くなってくる。そこで少しだけ目の前の仕事に我を忘れるくらいにのめりこんでみる。後から振り返ってみたら無我夢中になって、悩みことはすっかり忘れていたという状態だ。そんな回数を数多く経験するようになることが肝心だ。神経症が治るということは、実はそのような繰り返しが身についてくるということなのだ。(棟梁を育てる高校 笠井一子 草思社 48ページを参照)
2017.10.21
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水谷啓二先生は、人間には誰でも作業欲、あるいは仕事欲とも言うべき極めて強い欲望があるといわれる。この作業欲は、単なる運動欲ではなく、手足を動かして仕事をしたいという欲望であり、人間の最も人間的な欲望である。経済的に豊かな生活をしていても、何らかの意味で、やりがいのある仕事をしていなければ、なんとなく生きがいが失われ、社会からも閉め出されたように思われて、人間として生きる張り合いがなくなるのである。これらのことによっても仕事をすることは人間本来の欲望であって、決してお金を得るため、あるいは経済生活を維持するための、単なる手段ではないことがわかるのである。森田先生も、作業欲が人間の根本的な欲望であると言われている。もし、人から運動もしくは作業を取り除いたならば、そこに生命はない。食べ物を食べなければ、生存できないようなものである。食欲、運動欲、作業欲は人の本能である。子どもたちは、身体的にも精神的にも、目が覚めている間は、寸時もじっとしていることはできない。もしこの子供に対して、運動と作業を全く抑制したときには、その苦痛はいかばかりであろう。大人でも、ひとたびこれを隔離し得る。何もさせなかったときには、はじめてはなはだしい退屈の苦痛を感じ、盛んな運動作業欲に駆られるようになる。これが人の自然である。労働を苦痛と考え、盛んな運動作業欲に駆られるようになる。労働を苦痛と考え、何もすることのない苦痛を知らないのは、社会的境遇が、私どもに色々不自然な抑制を与え、そういうことが、あたかも習い性となっているからである。私どもの心身が、絶えず活動を営んでいることは、あたかも私どもの心臓や消火器などの内臓が、寸時も休息することのないのと同様である。作業に当たっては、常に身体的および精神的の機能がよく調和的に働いているのであるが、もし身体的の作業が抑制され、あるいはその機会が奪われたときには、自然に考察、思想などの精神的な方だけが働くようになり、些細な自己の内部感覚にも気づくようになり、これを異常と思い、病的と判断するときには、ますますこれに対する考察や取り越し苦労をたくましくするようになり、次第に病的観念を養成するに至るのである。私の母は、今年83歳になる。その働きぶりは、若者よりも盛んである。人々は母に対して、 「楽隠居した方がよい」と勧める。しかし、家事を見るにつけ、あれやこれやと世話を焼き、干渉もし、孫の世話まで引き受けて自ら働き、ついつい自ら楽になる時間を延期している。これが、母の老いざる事実であり、老いるに至らざる境遇である。 「楽になりたい」というのは、思想である。その働かずにはおれないのは、衝動であり、活気である。思想は多く、実際と矛盾するものである。私どもは自分のしたい事、知りたいこと、成功したいことがあり、自己本来の衝動に駆られて働くことの喜びは、自動車や高い地位などに変えがたいものがあるのである。ここに、私どもの人生のありがたいところがある。もし、思うがままに直ちに楽隠居になり、自動車を買うことができたならば、世の中は極めてあっけないもので、それはあたかも珍味を丸のみするようなものである。働かざるを得ず、努力せざるを得ない自然の衝動の中に、大いなる力があり、若やぎがあり、侵すべからざる自信があり、誘惑されない強健があり、我本来の面目があるのである。(慎重で大胆な生き方 水谷啓二 白揚社 169ページより引用)ここでは生の欲望の発揮について説明されていると思う。まずは日常茶飯事に対して丁寧に取り組むこと。目の前に突きつけられた問題や課題に対して取り組んでいくこと。夢や目標に向かって挑戦していくこと。そういうことを放棄していると、人生はつまらなくなってくる。本来手をつけなければならないことに対して、逃げずに取り組んでいくように、人間は宿命づけられているのである。口で言ってしまえば簡単なことであるが、実践実行できている人は非常に少ない。それが神経症に陥る原因となったり、生きる意味を見いだせない原因となっているのである。森田療法では、人間には作業欲があるという点に注目して、その欲望を推し進める療法であると言える。
2017.10.17
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政治家はよく国民の生活をよくするために、政治活動を続けているという。会社の社長は、社員の生活を守るために会社の経営をしているという。ここで「 ・ ・ ・のために」という目的志向について、森田先生がどのように考えていたのか見てみよう。私のやった仕事が社会の役に立ったという事は事実だと思うのが、同時にそれは自分の為でもあったわけだ。「 ・ ・ ・のために」という目的意識を考えている間は、おそらく、まだ解脱した人間とは言えないだろう。例えば、 「 ・ ・ ・のために」と、考えてやった仕事がうまく行かなかった場合、当然、そこには失望、落胆、憤慨、怨恨等々 、諸々の情念が群がり起こってくるだろう。「 ・ ・ ・のために」という目的意識がなければ、心はいつも静かな水の流れのごとく、平静であるに違いない。波打ち際の砂浜で、やがては波に洗い去られることも考えずに、子どもたちは無心に砂の池を掘り、砂の山を作るが、彼らにはなんらの目的意識もなく、ただ作ることの楽しみと喜びがあるだけである。私は思う。たとえどんなな小さなことでもいい。その大小は問うところではない。善事をなすことの満足、この楽しさ、この嬉しさ、これで何もかもつぐなわれているのではないか。なまじっか娑婆っけを抱いて、 「 ・ ・ ・のために」と動き回っては、かえってよろしくない。しいて言えば、楽しさのために、やれるだけのことをやればいいのではないか。「 ・ ・ ・のために」という目的意識がなくて、 純な心のままにやるときには、そこには何の無理もないから、仕事そのものになりきることになる。それが人間にとって、 1番幸せな心境であるだろう。森田先生は、神経症の治療をする時も、原稿を書くときも、風呂焚きやサボテンの世話でも真剣に取り込まれた。修行の積んだ人の日常生活は、仕事をしていても遊びと同様の気分である。これを遊戯三昧(ゆげざんまい)という。三昧とはものそのものになりきることである。 一心不乱の状態である。森田先生の場合は、診察をすればツイつり込まれて時間を忘れるようになり、風呂焚きをしていれば、いつの間にか四方八方に心が働いて、全力をあげると言うふうになってくる。このような関係から、遊びことと仕事が一如になって、当然精神が集中するようになり、決してお使い根性や、気まぐれの申し訳の仕事にはならない。神経症を治すための行動は、神経症が治るのではなく、益々神経症が悪化する。最初は神経症を治すという目的を持っていても構わないが、行動に弾みがついてくるとどこかの時点で、「ものそのものになりきる」という態度が欠かせないのである。森田先生は、努力即幸福ということを盛んに言われたが、ものそのものになりきって、目の前の仕事や日常茶飯事に取り組むことこそが、生きるということそのものだということを言いたいのだと思う。
2017.10.05
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水谷啓二先生の啓心寮に対人恐怖症のMさんという娘さんがいた。この方は、 「人前でオナラが出て嫌われたら困る」などと思って、人を訪問することもできず、昼間は電車や汽車に乗ることもできなかった。東北生まれの娘で、顔立ちは悪くないが、ひどく青白くて、まるで生気というものがなく、それに目がガラス玉のように冷たく、態度も固くてぎこちなかった。水谷先生のところで、この人の対人恐怖症が治ったのである。どのような事をされたのか興味がある。水谷先生の所では様々な小鳥を飼っていた。水谷先生はその世話をMさんに頼んだ。Mさんははじめ、仕方なしにやっていたが、やがてジュウシマツの卵がかえって、小さなヒナが二羽産まれた。ところが、餌が悪いのか、ヒナは育ちそうにない。彼女は、まだ羽毛の生えていない、生まれたばかりの小さなヒナをそっと手に握り、自分でこしらえた柔らかいすり餌を箸の先に付けて、用心深く、しかも丹念に食べさせていた。こうして毎日、まるで赤ん坊にお乳を含ませるようにして育てていった。やがて羽毛も生えそろい、若い元気なジュウシマツどうなったが、とても彼女になついていて、手のひらに乗ったり、肩に止まったりしていた。この頃から今まで凍っていた彼女の心に、生きるものを育てる喜びや、みんなのために働く喜びが芽生えてきたらしく、料理作りや掃除、ミシンがけなども、とても熱心にやるようになった。そしていつの間にか彼女の顔には、健康そうな自然の赤味がさし、目も人間らしい暖かみのある潤いを帯びてきた。また固い感じがなくなって、柔らかく生き生きとしてきて、態度にも親しみやすい中にも若い女性らしい慎みがあって、まことに人間味豊かな美しい娘が誕生したのである。その後水谷先生にあてた手紙には、 「今まで自分のことばかりに明け暮れていた私も、少しは相手は今どんなことを求めているかを考えるようになりました」とあった。水谷先生は、神経症の全治とは、とらわれの古い殻を破って、自分の本来性、そのままの本物の人間、つまり当たり前の人間が誕生することだ、と思っているが、これはその実例だと思うと言われている。(慎重で大胆な生き方 水谷啓二 白揚社 88ページより引用)確かに、神経症が治るということは、自分の症状のことは横に置いて、目の前の仕事や日常茶飯事に注意や意識を振り向けることである。こうすることで、いったんは神経症のアリ地獄から地上に入れることができる。今症状でアリ地獄に陥っている人は、苦しいだろうがこの道にかけてみるとよい。欲を言えば、神経症に陥る人は、 「かくあるべし」という考え方が強く、思想の矛盾に陥って葛藤や苦悩を抱えている場合が多い。 「かくあるべし」という考え方を弱めて、事実本位・物事本位という生活態度に転換できれば、神経症とは完全に縁が切れる。その後は不安を活用しながら、生の欲望の発揮に向かって、自分の持てる力を存分に活かしていけば、味わいのある人生を全うすることができると考えている。
2017.10.04
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アドラーは、 「共同体感覚」を持つということが、精神的な健康を保つために必要不可欠であるという。共同体と言うのは、さしあたって自分が所属する集団、すなわち家族、学校、職場等のことを言う。自分はその共同体の中にいる。そして共同体の一員である。共同体から養われている。そして共同体に貢献している。そういう感じを「共同体感覚」という。そのために、次の4つの態度を身につけることが精神衛生上大切だという。・自分で自分を受け入れているということ。自己否定をしないということ。・他人との関係では、基本的に無条件に他人を信頼しているということ。他人を否定しないということ。・共同体の中で自分の居場所があり、周囲の人に役に立っているということ。・自分に対しても他人に対しても正直であるということ。・いつも目の前にある問題に、冷静に誠実に取り組もうとする姿勢を持っていること。これらはすべて、森田理論で学習していることと同じことである。問題は、どのようにして、そのような態度を身につけていくかということである。自己否定、他人否定をする人は、バランスの取れた考え方はできない人である。森田理論の「神経質の性格特徴」を学習すると、性格には必ずプラスとマイナスの二面性があるという。自分たちは小さいことにすぐに動揺して何事も手につかなくなり、神経質性格はダメな性格だと思いがちである。しかし、裏を返せば、感性が鋭いということでもある。高精度のレーダーを標準装備しているようなものである。その感性をプラスに生かしていけば、性格が問題になるどころか、有効に機能させることができる。また、自己や他人を否定する人は、強力な「かくあるべし」を持っている人である。森田理論学習でいつも学習しているところである。 「かくあるべし」 に現実の自分や他人を引き上げようとしている。そういう態度でいると、なかなか自分の思い通りにならなくて、葛藤や苦悩が生じる。その考え方を改めて、まず心もとない現実の自分や他人をどこまでも信頼して認めていく。そこから目線を今一歩上に向けて、努力精進する態度を堅持するようにするとよい。次に森田先生は、人からよく思われたいと言う前に、人に役に立つ人間になりなさいと言われている。普段の生活の中で、積極的に他人をよく観察し、人に役に立つことを見つけて実行に移していくことである。そういう態度でいると、注意や意識は内向化することがなく、他人や物事に向かっていく。他人の役に立つことばかりに気を配っていると、自分が損をしているという気分になる人がいるが、実際は回り回って自分が得をしているのである。最後に、自分の容姿、性格、境遇、弱点、欠点、ミスや失敗などを隠したりしないで、むしろ人前にさらけだす方がよい。そうすると、周囲の人が自分を馬鹿にして、軽々しくみられるようになるのではないかと心配になる。実際には、欠点や弱点を取り繕ろったり、隠したりしない人のほうに人が集まってくる。取り繕ったり、隠したりしていると他人は距離を置いて離れていく。自分の頭の中で考えたことと、実際が反対になるのである。アドラーは、 「何をもって生まれたかはたいして重要なことではなく、自分に与えられたものどう使いこなすかがより重要である」と言っている。森田理論と全く同じである。集談会でもアドラー心理学に詳しい人がおられます。それは構わないのですが、一般の人にはアドラー心理学は難しい。とっつきにくい面があります。森田療法との考え方の共通点や違いを自分の立場でよく検討して具体的に説明するようにすると、森田理論がより深まっていくのではないかと考える。アドラー心理学は、森田理論をより深めるために有効な学習であると思う。(続アドラー心理学トーキングセミナー 野田俊作 星雲社 参照)
2017.10.03
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先日の集談会で面白い話があった。その方は長らく町内会の役員をされている方である。町内会では毎年町内会祭があり、いろんな出店がでる。その方は毎回おでんの出店を切り盛りされている。最近はおでんの中にジャガイモを取り入れることに挑戦されているという。80個ぐらいジャガイモを用意されているという。おでんの中でもジャガイモ大変難しいそうだ。それはすぐに煮崩れするからである。 40分ぐらい鍋の中にいれていると煮崩れしてくるといわれる。インターネットで調べたり、おでん専門店に行ったりして、どうしたら煮崩れしないジャガイモのおでんができるか研究をされたという。まず品種としては、メイクイーンが比較的煮崩れしないが、絶対的ではない。今までは大きな鍋でおでんを作っていたが、町内会に頼んでコンビニにあるような電気鍋を買ってもらった。これでいったん出来上がったおでんは温めるだけに温度調整ができるようになった。おでん専門店で聞いたところ、ジャガイモは一旦茹であがると、別の空の鍋に移しておくそうだ。必要に応じてそこからおでん鍋に移していく。それが売れればまた追加していくやり方をとるとよいと言われた。その時の温度は、急激にあげたりしないで温める程度にする。そのやり方でいかに味を染み込ませるかがコツであるという。そのやり方でやったところ、ほとんど煮崩れをしないジャガイモのおでんができるようになったという。最近では評判になりすべてのジャガイモが完売できるようになったといわれた。本人も自信が出てきて、ますます町内会活動に積極的に参加するようになったという。集談会の参加者は、「これは素晴らしい森田実践である」と最大限の賛辞を贈った。これは実に森田的な体験であると思う。最初は嫌々町内会活動を引き受けたにもかかわらず、自分の与えられた役割を全うするべく熱心に取り込まれたのである。すると次から次にアイディアが浮かび、創意工夫が出てきた。そうしているうちにおでん作りがとても楽しみになってきた。目の前の仕事や役割に今1歩踏み込んでいくと、その先に大きな宝の山に出会ったようなものである。これは森田先生が、入院森田療法の中で入院生に適宜指導されていた内容と同じことである。これは私たちもとても参考になる。最初は嫌々仕方なしに手をつけることであっても、 「ものそのものになりきる」態度によって、新しい感じが生まれてくる。次第にその感じは高まっていく。すると、気づき、工夫や発見、アイディアなどが生まれてくる。次第に意欲が高まってやる気に火がついてくる。その段階ではもうすでに自分の症状のみに格闘する段階から離れているのである。神経症のアリ地獄からぬけ出る道は、まさにここにあると思うのである。この方は忙しくてあまり集談会に参加できなくなっているが、この話を聞いただけで森田を生活の中に活かして充実した人生を過ごされていることがよく分かった。
2017.10.02
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横浜高校の渡辺前監督は守備練習の時、守備の上手な選手にはやさしいゴロを打ってやるという。それは基本を忘れないようにさせるためだ。うまい選手は何をやらせてもうまい。でもうまい選手は基本を忘れて、手を抜いたりすると元に戻すことが難しい。簡単なゴロをなめてかかる。すると大事な試合でまさかということが起きる。足の運びやグラブのさばきを一つ一つ確認できる平凡なゴロをさばかせて基本動作の徹底に努めさせる。球際に強い選手は、基本がしっかりしている。ちなみにこの言葉は、努力によって大成した広島カープの新井貴浩選手の座右の銘だという。これは森田理論学習を続けている私たちにも参考になります。集談会では森田理論に詳しくて、理路整然とみんなに説明できる人がおられます。でもよく聞いてみると、例えばパチンコなどのギャンブルにはまった生活をしておられるという。あるいはネットゲームにはまって深夜遅くまでゲームを楽しんでいるという。そうなりますと、森田理論でいう「物の性を尽くす」という実践はどうなっているのでしょうか。また規則正しい生活を送るという日常実践はどうなっているのでしょうか。森田的生活からはかなり乖離があるように思えてなりません。森田理論の基本は、そのものの持っている価値をできるだけ工夫して活かしきっていくということです。また、規則正しい生活。衣食住にまつわる日常茶飯事を丁寧に物そのものになりきって行うということです。これらがすっぽり抜け落ちていることは、自分が思想の矛盾に陥ることになります。森田理論を知らなかった、以前のほうがまだ良かったといえるかもしれません。これはマラソンに例えて考えると分かりやすいと思います。マラソン選手は短距離の選手と違って瞬発力はありません。その代り持久力はあります。スピードはゆっくりなので、42.195キロは誰でも完走できそうです。しかし実際には誰でもができることではありません。誰でもできることを、継続し続けるということは、簡単なようでとても難しい。それができる人は、100メートルを10秒台で走れる能力を持っている人と同様の別な能力を持っているということです。野球でいえば、普段は三振ばかりしているが、たまに試合をひっくり返すようなホームランを打つ選手がいます。そういう選手は目立ちますし、みんながあこがれます。普段の失敗を一挙に取り戻すことができるからです。普段はのらりくらり遊んでいて、肝心なところで一発試合を決めるような仕事をするだけで済むのならば、そちらのほうがよほど魅力的に感じます。しかし、私たち神経質者はどうもそんなタイプではないように思います。細かいことによく気が付くわけですから、その特徴を活かして、コツコツと地道に日々努力していくのが性に合っているのではないでしょうか。水谷啓二先生は、我々神経質者は風雲に乗じて大きな成果を上げるタイプではありませんといわれています。平凡な雑事を10年ぐらい続けるといったタイプです。そのような実践を積み重ねていけば、平凡な人から非凡な人へと変わってゆきますといわれています。そのような方法で、評価してもらえるように努力していくことが理に適っている。我々は普段そんな小さなことは意味がない。価値がない。もっと意味のあること。クリエイティブな創作活動。人から注目を浴びるようなことをしたいと思いがちです。するとザルで水を掬い上げるのと一緒で、求めるものがすべてこぼれ落ちてしまうのです。これを一言で表現すれば「凡事徹底」ということです。その方向で努力する以外に、我を活かす道なし。私はそう思いながら日々生活しているところです。
2017.09.29
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森田先生は後年、リズムについての研究をされていた。我々の生活機能は、心臓の拍動・呼吸・消化器の活動・筋肉の運動など、みなリズム運動であるように、われわれの精神機能も、リズムであり、注意の機能にも、知らず知らずの間に、緊張と弛緩とが交代してリズム運動になっている。時計の振り子の音は、初めに聴く音が高く、次の音が低く、高低交互に聴こえる。実は振り子の一音に、高低があるのではなく、これを聴く耳の注意に、緊張と弛緩との変化があって起こるのである。すなわち振り子は、はじめに右から聴けば、その方が高く、また左から聴きはじめれば、左が高く聴こえる。これはちょうど、ハッと驚いて、手を握りしめ、次に安心して、これを弛めるということに相当し、すなわち筋肉の緊張と、弛緩に相当しているのである。これが我々の周囲のリズムである。我々の心身の機能は、変化がなく無刺激であるときには、 いつとはなく、弛緩して、倦怠を生ずる。またたとえ、刺激は相当に強くとも、同様のことが長くつづくときは、いつしかこれに慣れて、変化を感じないようになる。すなわちわれわれは、適度な刺激によって、その心身の機能が、弛んでいるときには、これを鼓舞し、あまりに過敏であるときには、これを緩和して、その生活機能を調整していく時に、私たちはこれをリズムとして感じるようになる。(森田全集第7巻 379ページより引用)リズムについては、音楽を聴いているときに容易に理解できる。音楽は強弱の繰り返しである。強い音の後には、弱い音が来る。複雑なリズムでもそのバリエーションの応用である。森田先生は、われわれの精神活動も緊張と弛緩というリズムの中でおこなわれていると言われる。ハラハラドキドキという緊張感が1日中続くという事はあまりない。不安や恐怖による緊張感が持続すると、気力が減退し、胃潰瘍などの身体変調として表面化する。1日中テレビを見たり、パジャマのまま寝転がっていたりすると、 1日中弛緩状態が継続するということはあり得る。その場合には、外に向かう精神活動が停滞して、自己内省的になったり、外出したりすることが億劫になる。ここで、私たちが学ぶべき事は、精神活動は緊張と弛緩という波が繰り返されており、その波に逆らわないで波に乗って生活をするということが大切であるということです。そのためには、普段の生活を規則正しく行うことが大切だと思われます。特に、起床時間と就寝時間は、毎日一定にすることが大事です。そして昼間は頭を使ったり、体を使って緊張状態の中で生活をする。夜は十分な睡眠時間を確保して、心身を弛緩状態に持っていく。これで日々の生活の中で緊張と弛緩状態のリズムが生まれる。簡単なことのようですが、これが夜更かしなどによって、崩れてしまっている人が多いのは残念なことです。昼間は、基本的に緊張状態にあるとはいっても、例えば同じ仕事を長時間続けたりすると、緊張状態が薄れて弛緩状態に移行する。また昼ご飯を食べたりすると、血液の循環が胃腸のほうに回り、頭の中は弛緩状態に陥る。昼間も少なからず緊張と弛緩状態の波が発生している。まずはその波に乗って過ごすことが大切である。ただし、基本的には昼間は緊張状態の持続期間であるので、弛緩状態をそのまま放置しておくのはもったいない。森田理論の中には、 「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」という言葉がある。いったん弛緩状態に陥った時は、まったく別の行動をとることによって、頭と体がリフレッシュされて新たな緊張状態が生まれてくることになる。受験勉強などをしている時、頭が疲れてくると、勉強に身が入らなくなったり、眠くなったりする。そんな時、食器を洗ったり、洗濯をしたり、あるいは体操をしたり、散歩をする。すると先ほどまで眠くて仕方がなかったにもかかわらず、心身ともにやる気がみなぎってくることもある。リズム感を養うといえばカラオケがよいと思う。私はかなり音痴だったが、それなりに仲間とカラオケを楽しんでいる。アルコールが入った後は比較的声が出る。今は、「娘よ」「博多時雨」「還暦祝い唄」「祝い船」「宗衛門町ブルース」「南部蝉しぐれ」「平成音頭」「札幌ふたりずれ」をメインに歌っている。一番よく歌うのは「祝い船」だ。歌手の歌唱に合わせて練習を繰り返していると、強弱の付け方はある程度できるようになった。カラオケは思い切り声を出すことができて、ストレスの発散になり、仲間との交流が深まるなどの利点がある。私はいろんな人に「カラオケはどうですか」と声をかけているが、乗ってくる人は10人に2人か3人程度しかいない。なかにはカラオケの「カ」の字を聞いただけでしり込みする人が多いのに驚いている。実に残念だ。
2017.09.20
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森田先生は恐怖と欲望の調和について次のような話をされている。今、戦争で敵と相対してその矢面に立っているとする。小銃弾が頭をかすめて、自分の前方、後方で破裂して土石を散らす。恐ろしい、身の毛もよだつ、心臓は高鳴る。身を隠しながら、一生懸命に敵に向かって射撃していくしか方法がない。精神は敵のほうに集中して一心不乱になっている。今や敵弾の飛来も、自分の心臓の高鳴りも少しも感じない。自分の疲労、苦痛はもとより、生死も何も念頭にはない。ここにいわゆる心頭滅却がある。思慮も判断も思想の矛盾もない。ただ一念の生の努力があるのみである。これが、我々の心理の状態における欲望と恐怖との調和である。これがもし思想の矛盾にとらわれる時は、恐れるために、自分の死地を切り開くことを忘れて、逃げ場所と隠れるところばかりを考え、敵弾の音と自分の身震いのみが身にこたえて、前後不覚となり、自ら立ち惑う間に、かえって敵弾に身を落とすのである。また、一方には、いたずらに自ら恐れないようにとし、卑怯と人に笑われないようにと焦る時には、そのすることがすべて軽弾みとなり、虚偽の勇気となり、無謀にも命を捨てるようになり、ただ100人に1人が偶然に成功して、賞を授けられるようなことがある。真の勇気は、素人には勇気とは見えない。真の勇気は自然であり、思想の矛盾に煩わされず、毀誉褒貶にかかわらず、自分自身の努力そのままになりきったものである。(神経衰弱と強迫観念の根治法 森田正馬 白揚社 160ページより要旨引用)森田先生はこのような話をしながら、神経症の克服の仕方について説明されている。内容はともかく、とても分かりやすい話である。これによると、目の前の仕事や日常茶飯事、目の前に突きつけられた問題点や課題、夢や目標に向かって努力することが最も大切である。不安や恐怖、不快な感情、違和感にとらわれて、目の前のなすべきことを放り投げて、それらをやりくりしていると、精神状態がどんどん内向化してくる。ちょっとした体の違和感や不安な気分にばかり注意や意識が向いてくる。これが神経症の始まりである。神経症に陥らないためには、不安や恐怖などに過度に関わりを持たないことである。そして、不安を抱えながらも、目の前の仕事や家事に淡々と取り組んでいくことである。これは症状を克服のためだけではなく、これから先の人生に対しても、同様の態度で臨むことが大変重要になる。もともと神経質者は、細かいことによく気がつく。好奇心が強い。物事をよく分析する力がある。責任感が強く粘り強い。などという素晴らしい性格が備わっている。それらを仕事や生活の面に活かしていけば、大いに人に役立ち、自分自身も「人間に生まれてきて良かった。また機会があれば再び人間として生まれてきたい」と思えるようになるのではなかろうか。
2017.09.18
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森田先生の言葉です。ここで修養の第一の出発点は、物事に対する「感じ」を高めていくことである。われわれは、見るもの・聞くもの何かにつけて、ちょっと心をとめていれば、必ず何かの「感じ」が起こる。かりそめにも、これにちょっと手を出しさえすれば、そこに感じが高まり、疑問や工夫が起こって、興味がわく。これを押し進めていけば、そこにいくらでも、進歩がある。これと反対のものは「感じ」に対する理屈である。注意せねばならぬ・誠実であれ・努力し忍受すべしとかいう抽象的な文句をもって、自分の心の働きを制御しようとすることである。このときは、いたずらに心の不可能の努力のために、物に対して起こる自然な感じは、一切閉塞して、心の発展進歩はなくなってしまうのである。僕は、熱海に行けば原稿を書き、囲碁将棋より他にあんまり仕事はないが、それでもイタドリを採りに行くとか、山の植物を採集し、谷川に盆石を探して回るとか、その時と場合に応じて、なんとか必ず希望に満ちた一日を送ることができるのである。煩悶は煩悶のままで、何かと手を出していさえすれば、自然に心が、その方に引きつけられていく。ここで3 、 40日間、入院規定のとおりに、実行していさえすれば、 いつとはなしに、自然に感じと欲望が高まってくる。(森田全集第五巻 425頁より引用)ここでは我々の普段の生活態度について述べられている。神経質者は、不安や恐怖のために、取り越し苦労ばかりしてなかなか行動することができない。そうなると、意識や注意が自分の身体や心に向かいやすくなる。それをなんとかしようともがけばもがくほど逃れられなくなってくる。その悪循環にはまらないためには、目の前の仕事ややらなければならない事などに、いやいや、仕方なしにでも手をつけていくことである。意欲ややる気が沸き上がってこないのに行動すると出鱈目になるので、手をつけないというのは気分本位である。気分本位になると目的や目標を失い、その時々の感情に左右されて消極的な行動になる。気分本位な行動は後で後悔するようになる。自己否定するようになるので、とても苦しい。いやいや、仕方なしにいても手をつけていると、そのうちに行動に弾みがついてくる。ここが肝心なところだ。すると次第に気づきや発見、疑問などが出てくる。つまり、新しい感情が養成されたのである。新しい感情が養成されると、古い感情は相対的に薄まってくる。新しい感情に基づいて新たな行動をとると、次から次へと新たな感情が湧いてきて、今まで悩んでいた不安や恐怖はいつの間にか忘れてしまうようにもなる。私たちは、不安や恐怖で苦しい時に、それらを解消することでで将来に展望が開けてくるものかを見極める必要がある。あるいは人の役に立つことなのかを考えてみる必要がある。それから外れる不安や恐怖については、目の前の仕事や家事などに積極的に取り組むようにして、新しい感情をどんどん作り出して、不安や恐怖を乗り越える技を身につけることが大切であると思う。
2017.09.05
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森田先生は修養のためにする仕事はデタラメになると言われている。たとえば障子の埃をはたきで叩く例で説明されている。入院生が埃があるなしにかかわらず、パタパタとはたく。その音は単調で一本調子であるから、隣の部屋で聞いていて、すぐにそれが、掃除の気持ちになっていないということがわかる。このような人は、またいつでも、障子を閉めきっておいてはたきをかける。「その埃は何処へ行くか」ということには気がつかない。すなわち、その埃は、そのほとんどは撒き散らされて床の置物や器具の上に置き換えられる。その結果、障子の桟の上に、埃を置いたよりもかえって始末が悪いということがわからないのである。汚いから清潔にする、埃がいやらしいからはたきだすというふうではなく、人から指示されたから仕方なしにするということでは、かえってその後始末をすることが大変なことになる場合がある。 (森田全集第5巻 583ページより要旨引用)これは森田先生がよく言われている、お使い根性の仕事ぶりの例だと思う。しかし考えてみると、他人から指示や命令されて手をつけることはどうしてもやる気や意欲が湧いてこない。いやいや、仕方なしにやらされているという気持ちがあるので身が入らないのである。自分が今からやろうと思っている事でも、親から指摘されると、急にやる気をなくして反発することもある。例えば、冬にこたつでうたた寝をしている時、母親に 「早く風呂に入りなさい」などと急かされると、そろそろ風呂に入ろうかと思っていたにもかかわらず、その言葉に反発してすねてしまい、実行しないということもある。その半面、自分が自らやろうと決めた事は、他人から見ると、とてもきつそうに見えるような事でも本人にとっては、面白くて仕方がないのである。例えば世界の最高峰の山々に登山をする人、あるいは太平洋をヨットで単独航行を試みる人などである。私達も夏の炎天下の下、魚釣りをしたり、トライアスロンを楽しんだりしている人を見ると、あんなに苦しそうなことをよくできるものだと思ってしまう。ところがやっている本人たちは、苦しみながらも、それ以上の充実感を味わうことができると思っているのである。森田先生のいわれるお使い根性と無謀とも思えるような挑戦はどこが違うのであろうか。趣味や目標に向かって挑戦するというのは、例えばテレビなどで他人がやっているのを見て、自分も挑戦してみたいという感情がわき起こってきたのだ。そして実際に思い切って自分でも挑戦でしてみることになる。やる気や意欲がみなぎっている状態である。ときには失敗することもあるが、自分でも出来るようになると喜びの感情が湧いてくる。さらに、自分でもやればできるという自信になる。次第に弾みがついて、どんどん高みを目指していく。行動は生産的、積極的、創造的に発展していく。ところが森田先生の言われるお使い根性と言うのは、そのような感情がない状態で、他人からの指示や命令によって行動すること求められているのである。自分でやってみたいという感情が湧き起こらないで、いきなり行動を求められるという事はとても苦痛なことだということだ。森田ではそのものをよく見つめなさいという。つまり、観察していると、何らかの感情がわき起こってくる。観察しているうちに、気づきや発見が出てくるとしめたものだ。人間はその感情に基づいて、意欲ややる気が高まってくるように出来ているのである。いやいや、仕方なしにやり始めた仕事であっても、今1歩踏み込んで行動していると、新たな感情がわき起こってくる可能性が高くなる。だから森田理論では、目の前の仕事や家事などはお使い根性ではなく、 「ものそのものになりきる」ということをお勧めしているのである。
2017.08.30
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神経質者の性格特徴の1つに、普通の人と比べて好奇心が強いと言われています。森田理論でいうと「生の欲望」が強いということです。集談会で時々自分は意欲ややる気がない、つまり生の欲望があまり強くないという人がいます。それは注意や意識が自分の症状一点に向けられているために、「生の欲望」に向かうべきエネルギーが少なくなっている状態だと思われます。症状に向けられていたエネルギーが減少してくると、あり余ったエネルギーは、神経質性格者であれば、「生の欲望の発揮」に向かうのが自然だと思われます。その特徴を生かして生活するということは、神経質者の場合はとても意味があることだと思われます。私の場合は、森田先生の普段の生活を見ていて、「一人一芸」を身につけることから始めました。生活の発見会の一泊学習会に参加した時、夜の懇親会で余興が予定されていました。なんでもよかったのですが、当時勤めていた会社の近くにアルトサックスの教室がありました。早速、そこに入会して、 1カ月間でなんとか「ロンドンデリィ」という曲を吹けるようになりました。さっそく披露しましたが、本番では失敗してうまくいきませんでした。でもそこからずっと毎日のように練習をしています。コツコツ続けてもう10年以上になります。そのうち、今所属しているチンドン屋のグループを見つけました。その人達に演奏を教えてもらっているうちに、今では100曲以上の曲を演奏できるようになりました。今では500人以上の観客がいる場で、緊張しながらでも、何とかこなせるようになりました。私は対人恐怖症で、本番前は胃が痛くなるほど緊張するのですが、反面、良い演奏をしてみんなから拍手喝采を浴びたいという欲望が非常に強いことがわかりました。私はそれから自分の興味のあること、やってみたいことなどを整理してみました。それを大分類してみると、コンサート情報、サックス関連、習い事情報、健康情報、花見情報、旅行情報、瀬戸内海島めぐり、釣り情報、スポーツ情報、イベント情報、生活の発見会情報、映画、ビデオ、テレビ番組、書籍情報、公共施設利用情報、株式情報、 fp情報などがありました。これらをさらに小分類して、具体的に 50項目以上書き出しました。そして、それらの情報の収集方法を調べました。私は人の思惑が気になって仕方がないという特徴があります。それらを抱えたまま、自分の好きな事には何でもかんでも足を運んで見に行ったり、自分でも試してみるようにしました。会社での人間関係は依然として苦しいことが多かったように思いますが、その分仕事以外で発散できました。気がつけばいつもやめようやめようと思っていた仕事を定年まで続けることができました。それ以上に仕事以外の知り合いがたくさんできて、今でも交流が続いています。様々なことに取り組んだので途中でやめたものもたくさんあります。その中で、いまも続いているのは、生活の発見会活動、コンサート、サックス演奏、老人ホームの慰問活動、獅子舞、浪曲奇術、どじょうすくい、しばてんおどり、ブログの投稿、健康麻雀、趣味の花つくり、バス旅行、プロ野球観戦、図書館巡り、自然公園巡り、株式投資の研究、 financial planの勉強などです。過去に作った資料の一部をご紹介します。大分類にあたるものです。 私は森田先生の好奇心旺盛なところをまねてみようと思い、趣味ややってみたいことの棚卸をしてみました。 すると、たくさん出てきました。私もとても好奇心旺盛だなと思いました。 コンサート情報 市の情報誌による検索、区民文化センター行事 クラッシック観賞、警察、消防、自衛隊の音楽隊の観賞、アマチュアオーケストラ サックスの情報 チンドン屋の情報 練習場所 楽器情報 グループ情報 習い事情報 ブログ、デジカメ画像処理、DVD加工、パソコン活用情報 川柳、ユーモア小話の作り方 安来節、どじょうすくい 獅子舞い 浪曲奇術 しばてん踊り 蕎麦打ち、加工食品、燻製作り、男の料理教室、魚のさばき方 第9合唱団員参加、健康麻雀、自家用野菜作り、大菊仕立て 健康情報 ヨガ、水泳、卓球、ハイキング、魚釣り 花盆栽情報 季節の花見情報 盆栽展 ラン展 菊花展 五月展 花ごよみ作成 公園、植物園情報 旅行情報 工場見学、ビール工場見学、博物館、美術館、温泉情報、グルメ イベント情報 祭り、プロ野球、サッカー、イベント情報、写真展、公開講演情報 映画、テレビ、ビデオ、書籍情報、落語情報 公共施設利用情報 みなさんも趣味などの棚卸をして、常にアンテナを四方八方に張って、有用な情報の取得に力を入れてみてはどうでしょうか。生活がすぐに活性化すると思います。
2017.08.11
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「かくあるべし」と「夢や目標」には共通点がある。それは両方とも、意識や注意が今現在ではなく、遥か彼方にあるということだ。そのためか、この2つを混同して考えることがある。共通点はあるが、この2つは似ても似つかない違いがある。今日はこれについて考えてみたい。「かくあるべし」は自分の頭の中で考えた理想を意識している。こうでなくてはならない、こうであってはならないなどは、すべて現実の事実を無視して、現実を自分の頭で考える理想に近づけようとする態度である。「かくあるべし」は、自分の立っている位置が、現実とはほど遠く、雲の上のようなところに立っているのである。その地点から、事実、現実、現状を見降ろしていると、理想とはほど遠く、我慢がならなくなる。自分の容姿や性格、能力や境遇、欠点や弱点、ミスや失敗などを素直に認めて受け入れることができないのだ。そこで事実を修正、改造しようとする。また、その事実をねじまげたり隠そうとする。そこにエネルギーの大半をつぎ込んでいるので、本来やるべき仕事や日常茶飯事がおろそかになる。しだいに観念と実生活の悪循環が始まるようになるのだ。そういう人は、他人を見る場合も、自分以上に「かくあるべし」という物差しで善悪の判定をするのである。自分の頭で考えた理想に他人を合わせようとするのである。自分のやることなすことを否定してくるので他人にとっては面白くない話である。自分の存在や問題点などの事実を否定された人は当然反発してくる。そのうち「かくあるべし」を正面に押し出して、人と付き合っている人は敬遠されるようになる。その結果、ますます対立を深め、さらに「かくあるべし」を強引に押しつけてしまうということになりがちである。森田理論学習では、 「かくあるべし」を少なくしていくことが実践目標となる。そのためには、どんなに気に食わない事実、現実、現状であっても、まずはそれらを素直に認めていきましょうということになる。その方法はこのブログで述べてきているとおりである。次に「夢や目標」も遥か彼方に視線を向けている。視線は今現在自分の立っているところから、遥か上にある「夢や目標」を見上げているといえる。「かくあるべし」と違うのは、 「夢や目標」の達成に向かって、努力精進してゆきたいという気持ちを持っていることである。つまり現在の自分の立ち位置が、事実、現実、現状にあるといえる。事実を認めているのだ。ここが決定的な違いである。そして今の自分には、 「夢や目標」との間に大きな乖離があるというこを素直に認めている。次に「夢や目標」の達成に向かって問題点や壁を乗り越えて、階段を一歩一歩登ってみたいという気持ちを持っている。次第にやる気や意欲が高まり、生きがいを持てるということにもなる。これは森田理論で言えば、生の欲望の発揮に邁進している状態である。「かくあるべし」と「夢や目標」というのは、同じように事実、現実、現状とはかけ離れたところに注意や意識があるのだが、その中身を見るとまるっきり違う。その大きな違いは、自分の立ち位置である。現実に身を置いて、下から上目線で見上げているのか。あるいは雲の上のようなところに身を置いて、上から下目線で現実を見ているのかの違いである。森田理論を学習していると、上から下目線が少なくなり、下から上目線でものを見るように自分自身が変化してきたと感じられるようになる。「かくあるべし」が少なくなると、葛藤や苦悩で苦しむことが少なくなるので、とても生きやすくなるのである。
2017.08.08
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森田先生は安定した姿勢よりも、「不安定」な姿勢を勧めておられる。我々が起立する時、両足を広く開き、固く踏みしめているときには、全く安定の姿勢であって、この状態では、少しも周囲の変化に応ずることができないので、ちょっと何かに突き当たられても、直ちに倒れてしまう。これに対して体操の時の「休め」の姿勢、すなわち片足で全身の重さを支え、他のほうの足を浮かして、つま先を軽く地に触れている態度は、いわゆる「不安定」の姿勢である。このときには、そのつま先で鋭敏に身体の動揺を感じることができて、周囲の変化に対して、迅速に適切に反応することができる。この「休め」の姿勢の少し足を開いたものが、剣道・柔道・薪割りなどの姿勢である。電車内でも「休め」の姿勢で立っていれば、つり革等をつかむ必要がなく、読書しながら、電車の動揺にも決してジタバタすることがなく、乗り換え場所を忘れることもなく、またスリにガマ口を取られるようなこともないのである。不安定の姿勢というのは、ことさら注意を1つのことに集中してないからこそできることである。これを生活の中で生かしていこうと思えば、 「無所住心」ということである。我々の心は最もよく働くときは、 「無所住心」と言って、心が四方に働いて、昆虫の触覚が、ピリピリしている時のように、ハラハラしている時である。剣道やピンポンのようなものは、間髪を入れない心の働きを要するもので、その時によくこの心境がわかる。必ず注意が1つのところに集中してはいけないのである。神経症で苦しむような人は、神経症の症状1点に注意を集中させている。注意を集中させると感覚が鋭くなる。いわゆる精神交互作用が発生して奈落の底へと落ちていくのである。そうならないためには、どんなに症状で苦しくなっても、注意を集中させないで、分散させることを心がけることだ。症状を軽減するために、症状と重点的にかかわり合うという態度ではなく、それを抱えたまま目の前の仕事や生活のことに注意を向けていくのだ。目の前のなすべきことに少し心を入れて取り組んでいけば、新たな感情が生まれてくる。そう言う状態が常態化すれば、自分の症状一点に悩んでいるというわけにはいかなくなる。症状を抱えたまま生活がどんどん前に進んでいくことになる。そうして、あとで振り返ってみると、症状のことは忘れていた。どうしてあんなに悩んでいたのだろう、と思えるようになる。これは実際に体験してみないとなかなかわからない。今現在、神経症で苦しんでいる人は、そんなこと言われても症状が軽くなるとは思えないのが実情だろうと思う。私も対人恐怖症で苦しい時、先輩から対人恐怖症の治し方については何もアドバイスをしてもらえず、実践課題の立て方やその結果の報告ばかりを求められた。その時は、求めるものが求められずイライラしたが、アドバイスに従って行動した結果、 1年も経つと会社の中で仕事ぶりが評価されるようになった。依然として人間関係では苦しむことが多かったが、意識を仕事の方にも向けていたので、四六時中対人恐怖症で苦しむという事はなくなった。それとともに、仕事で他人から評価されるようになったので、仕事を辞めることもなく続けることができたのだと思う。
2017.08.02
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以前、タレントとして活躍されていた島田紳助さんが報道番組「サンデー・プロジェクト」のキャスターをされていたことがあった。田原総一朗氏を始めそうそうたる論客が出演されていた。その時期に話題となっている政治や経済の問題を掘り下げて議論する番組であった。お笑い出身の島田さんは果たしてうまく乗り切れるものだろうかと思っていた。島田さんも引き受ける事は決めたものの、日増しに「自分に出来るだろうか」という不安ばかりが募っていったという。最初の1年間は、毎週土曜日の晩にあすこそは辞めると言おうと思っていたそうだ。うまく進行できないということが、自分にとってすごく辛かったという。政治や経済の問題について、野球で言えば、打ったこともないような内角の球が来るわけですよ。こんな内角の球は、どう打ったらいいのか皆目見当もつかないというような球が。半ば逃げ腰ではあったが、それは心の1部の問題で、実際の島田さんは、放送に合わせて時間をかけて取り上げるテーマについて予習を欠かさなかった。ビジネスにおける情報収集や下準備のように、番組と真摯に向き合っていった。番組を降板する頃には、国会議員の立候補者として名前が取りざたされるまでになったと言われる。島田さん曰く自分には無理だからと言って、それを正当化して最初から何もしないということが1番よくない。出来なかったら出来ないなりに、精一杯自分ができる範囲内のことするのが大切なのではないか。サンデー・プロジェクトのスタート直後の島田さんは、未知の領域であり、全く何も出来ないような状態であった。それでも引き受けると言ったからには、少しでもやるべき事、自分の出来る範囲内で精一杯やっていく。「よくわからない」などの屁理屈をこねて逃げ回るようではダメだと島田さんは身を持って力説しておられる。(島田紳助の話し方はなぜ9割の人を動かすのか 久留間寛吉 アップル出版社参照)これと同じような話は森田先生にもある。突然に富士川博士から、東洋大学の「教育病理学」の講義の口を授けられた時は、思いがけないことであり、僕はとくにその方面の研究をしたものではないから、ずいぶん見当のつかない恐ろしいことであった。けれども、僕の平常のことを知っている人に見込まれたことなら、なんとかならない事はなかろうという要領で、さっそくこれを引き受けたのである。その時は本当に恥以上であって、恥ずかしい恐ろしいになりきって、一生懸命に下調べをして勉強するほかに道はない。それで恥を突破して次第に向上するのである。(森田全集第5巻729ページより引用)この2つのエピソードから学ぶ事は何か。人から依頼されたこと引き受けようか、あるいは断ろうか迷う事はよくある。依頼されるということは、その人に任せればなんとかなるのではないか、と思って依頼されているのである。依頼する人の人物を見て、この人なら途中で投げ出さないで成し遂げるだろうと判断して依頼しているのである。片や依頼された自分にとっては、うまく責任を全う出来るだろうかと不安になるのは当然である。ましてや、全く今まで経験したことがない事はネガティブな思考に陥りやすい。そのような状態で引き受ける事はうまくいかないのは目に見えている。無責任な態度であるという人もいるだろう。特に神経質性格の人はそのような考え方に向きやすい。森田先生は、このように迷う場合は有無を言わずに、引き受けなさいと言われている。そういうチャンスはいつもいつもめぐってくるとは限らない。せっかくのチャンスをみすみす逃していると、そのチャンスは他の人に与えられる。あとで引き受けっておけばよかったと思っても、後の祭りである。そしていったん引き受けたからには、その責任を果たすべく、精一杯の努力をすればよい。一生懸命努力をしたにもかかわらず、結果が思わしくないときはそのときに考えたらよいことだ。とにかく、人から依頼された事はよっぽどのことがない限り引き受けた方がよい。気が進まないとか、自信がないとかいうのは屁理屈だ。森田先生も1時間の講義をするのに、 8時間の時間を使って準備をしておられたという。神経質性格の人は、チャンスはいろいろ目の前に与えられるが、悲観的、否定的な取り越し苦労を繰り返した挙句、最終的には辞退するということが多い。そうなると、後から振り返ってみた場合、辞退してよかったということは当然あるだろう。でも、数は少ないのではないか。もしあの時引き受けていたら、今の私の人生は大きく花開いていたかもしれないと後悔することが多いのではないだろうか。以前の生活の発見誌に、「自信というものは、行動していくことで少しずつ積み上がっていくものです」とある。よく、 「私は自信がないからやりません」という人がいますが、何の経験もなく自信があるというのは、自信ではありません。少しずつ行動や実践することで、自分にもやれることが積み重なり、そして「できる」と言えるようになった状態が本当の自信です。そういう経験もなしに、最初から「私はできます」と言う人がいるとすれば、それは「自信」ではなく「過信」しているに過ぎないのです。
2017.07.21
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今日は「日々是好日 」について考えてみたい。一般的には、毎日苦労や煩わしいことがなく、心穏やかに生活できている状態のことを指すのだろうか。その上、安定した仕事で給料がたくさんもらえる。欲しいものは何でも手に入り、美味しいものはいつでも食べられる。美人の奥さんやイケメンの主人と結婚し、子供たちが素直ですくすくと育っている。周りの人間関係が良好で、いつも温かい交流が続いている。自分は何もしないで、思いつく限りの贅沢ができるような生活を享受している。そんな生活をしている人がいる。高額な宝くじに当たった人である。あるいは、多額な親の遺産を相続した人である。あるいは、多額な生命保険や損害保険が手に入った人である。あるいは、潤沢な年金暮らしができる人である。お金が十分にある人が、「日々是好日」の生活を満喫するためのひとつの条件になるのか。これに対して、森田先生曰く。金があろうが、なかろうが、位が高かろうが、毎日毎日を明るく朗らかに、好い好いと暮らし得る人、それが本当の幸福児であります。そこにあるのは希望である。生きている以上は必ず希望はある。すなわち「日々是好日」とは、煎じ詰めれば「希望」ということに帰着する。つまり、あれもしたい、これもしたい、と言うことがすなわち好日なのである。この〇〇したい、すなわち希望は、人が息を引き取る刹那まであるところの事実である。あらんかぎりの力で生き抜こうとする希望、その希望のひらめきこそ、 「日々是好日」なのである。こういう人は目の前に解決しなければならない問題点や課題を持っている人である。あるいは夢や目標を持って努力している人である。森田で言えば生の欲望の発揮に邁進している人である。そのような生き方をした人は、人生を終わる時に当たって、あっという間の人生であった。いろいろ苦しいこともあったけれども、今となっては、充実した楽しい生活であったと思えるのではないだろうか。「日々是好日」と言うのはお金がたくさんあって、精神的な悩みが全くなく、やりたいことが全て出来て、欲しいものが何でも手に入り、食べたいものが何でも食べられるような事ではないようだ。亡くなった私の母親がよく言っていた。昔はお金がなかった。生きていくのがやっとという状態だった。今は、遺族厚生年金もはいる。お金に不自由することは全くなくなった。生活のすべてにわたってお金さえ出せば、ほとんど賄えるようになった。掃除、洗濯、後片付け、食事なども人任せで生きていけるようになった。田んぼも小作に出して、煩わしい農作業がなくなり、その上有り余る小作料も手にすることができる。後は、思う存分やりたいことをして、美味しいものを腹いっぱい食べられる時代になった。日本中の有名な観光地にもほとんど行った。カラオケ教室にも通った。趣味や手芸の教室にも行った。昔では思いもしなかった贅沢な料理を毎日口にすることができるようになった。これ以上のことを望めばバチが当たるような生活をしている。でも、何も思い煩うことがないように見えるかもしれないが、何かむなしい。今日は一日何をして暇をつぶそうかと考えるようになった。しいてやらなければならないことがない。生きているという実感がない。砂を噛んで生きているような味気ない人生を送っているような気がする。もう何時お迎えが来てもいいような投げなりな気持ちになることがある。昔生活が苦しかった時は、生きていくために懸命に日常茶飯事に取り組んでいたのだ。それはつらいことではあったが、絶えず生きる目標を持つことができていたのだ。今は、お金があるためにそんなことに目くじらを立てて真剣にならなくても生きていける。人間は余裕ができると手抜きをするようになる。自分自身ができることでも、お金を払って専門業者に依頼するようになる。また掃除機、洗濯機、炊飯器、水洗トイレ、テレビ、ゲーム機などの便利な道具ができて手間暇をかける必要がなくなり、余暇時間を娯楽に費やすようになった。自分のできることや本来自分のやるべき日常茶飯事の手を抜くということは、人間の生き方を放棄して動物のようにただ命をつなぐだけの生き方に甘んじていくということである。それは本来の人間性に背く生き方であり、生きることに葛藤や苦悩を招くことになる。
2017.07.20
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結婚している男性で家事のすべてを妻に任せている人がいる。料理、洗濯、部屋の掃除、後片付け、整理整頓、ペットの世話、観葉植物の手入れまでほとんど妻に任せている。自分のやることは、配偶者の不十分なところを見つけては文句を言うばかりである。こういう男性は、妻が泊まりがけの旅行に行った時など、途端に右往左往する例えば全自動式の洗濯機の使い方がわからない。どれぐらい洗剤を使ったらよいのかもわからない。料理などは作る気にもならず、外食したり、総菜を買ってきて済ます。こうした男性を作るのは小さい頃から家庭の中で家事の分担をさせてこなかった親にも責任がある。最近では料理をしてみたいという子供に対して、 「あなたはそんなことはしなくてもいい。勉強だけを頑張りなさい」という親もいるという。このような育て方をしていると、家事・育児に対しては、配偶者に全面的に依存してしまう。神経症の発症という面から見れば、とても危険なことである。それは神経症からの回復という過程の中で、日常茶飯事をきちんと取り戻すということを重視していることからもよくわかることだ。では、子どもに対してどのように家事の分担を考えていったらいいのかまず幼児期には、自分の身の回りの事は自分でやれるようにすることが大切だ。小さな子供なら、毎日でも着替えや脱いだものをきちんと畳む事。出かけるときには自分で上着を着て靴を履く事。自分のことを自分でできる子供は、どんなことでも「自分の意思できちんとやる習慣」は知らず知らずのうちに身についてくる自分のことは自分で出来るようになったら次は家事の手伝いをさせる。例えば箸を並べる、料理を運んで並べる。食べ終わったものキッチンまで運ぶ。簡単なことから始める。そしてゆくゆくは食べ終わった食器を洗うなど、子どもの年齢と能力に合わせて、手伝わせる家事をステップアップしていくとよいでしょう。家事をするということは、決して楽しいものではありません。でも、どんなに嫌なものでも、やらなくてはいけないのか家事というものです。それに手をつけることで、子どもの中に「なんとか早く終わらせよう」という気持ちが芽生えてくればしめたものです。子供なりにいろいろ工夫して、素早く終わらせるための工夫をするようになります。料理ほど、多くの「なるほど」と出会える機会はありません。料理には、何を作るか。そのための材料の調達。料理の手順。下ごしらえ、味付け、盛り付けなど様々な要素が組み合わされます。毎日の食事を準備するということは、とても大変なことです。それだけに、料理に挑戦することは様々な能力を身につけることになります。それを子供と一緒になって取り組むことは、子供を教育する上においてはとても有効なことだと思います。家の中で全員が役割分担を持ち、協力し合うことで家庭は円滑に運営することもできます。そういう子供が大人になった時、不安や恐怖、不快感などに一時的にとらわれるようなことがあっても、それらを抱えたまま家事や育児に組めるような人間になるのではないでしょうか。そういう意味では神経症に陥る人は、小さい頃から家庭の中で役割分担を持ったこともなく、甘やかされて育てられてきたということかもしれません。(男の子を伸ばす母親はここが違う 松永暢史 扶桑社文庫参照)
2017.07.09
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1999年10月号の生活の発見誌に、私のよく知っている人が巻頭言を書かれていた。内容は、 「晩酌のビールをいかに美味しく飲むか」という実践課題だった。喉が渇くと格別に美味しく感じるという生理現象をうまく利用して、仕事から帰っての晩酌のビールに焦点を合わせ、いかに喉を渇かして家に帰るかが、実践の最大のポイントになるという。会社では、支給されたお茶以外は控える。そしてとにかく体を動かす雑事があれば喜んでやっている。喉を渇かす目的で動いておりますので、体を動かすことが苦になりません。また、この実践は、尻軽く動くことで、結果的に人のために尽くすことにもなります。さらに、普段の運動不足の解消にも役に立っています。外出したときは、極力エレベーターを使わずに階段を使うようにしています。なお晩酌のビールは、どんなに欲しくなっても1本までと決めております。それは明日を楽しみにするためにということです。 この実践課題は素晴らしいと思います。私は以前、仲間と一緒にバトミントンをしていたことがあります。終わった後、仲間の家に行ってビールを飲むのが楽しみでした。めいっぱい運動して汗をかいた後のビールの味は格別でした。こんなに美味しい飲み物がこの世の中に存在していたのかと改めて感じました。このように工夫すれば日常生活の中でいくらでも楽しみや感動を見つけ出すことができるのだと思います。普段実践課題というと、布団を上げ、家の中の掃除、靴磨き、風呂やトイレの装置、洗車、整理整頓などを挙げる人が多い。そういう実践課題ももちろん大切ですが、いつも行っている生活の中で、潤いをもたらすようなちょっとした楽しみを見つけ出す事を実践課題として取り上げることが大切です。この方がよく話されるのは、「鯛の粗炊き」を美味しく作る方法。食器の後片付けのやり方。カラオケをプロ歌手並みに歌い上げる方法。雑草の処理をする方法。剪定の上手なやり方。路傍に咲く花を楽しむ方法。相撲観戦をより楽しむ方法。昔の映画を楽しむ方法。付近の山や近くの温泉を楽しむ方法。などなど。日常茶飯事で行っていることに対して、日々様々な発見や工夫をこなして、普段の何気ない生活の中に数多くの楽しみを見つけておられるのです。この方は自分の生活の楽しみ方はちっぽけなことばかりだ。だから大きな声で自慢話をするようなものは何もないと言われる。私はこれこそが森田で追い求めているものではないかと思います。日常生活を離れて、森田はないわけですから。普段生活を楽しむと言うと、それなりにお金をかけて、人から与えられる楽しみを求める人が多い。海外旅行やゴルフ、観劇やグルメ三昧などです。それらはすべてそれ相当のお金がかかります。でも普段ストレスのかかる仕事や人間関係から一時的に逃れるためには、それ以外の方法はなかなか思い付かない。そんな人にはこの方の実践は参考になると思う。普段何気なくやっている日常生活の中で、 1手間2手間をかけて、日常生活そのものを豊かにして楽しむ方法である。やろうと思えば、お金もかからないし、すぐにでも、誰にでもできることである。集談会の中で、こうした発見や工夫例がたくさん出てくるようになれば、それを応用して生活を変革してくる人も出てくる。それが積み重なっていけば、神経症の克服はもちろんのこと、生活していく事、生きていくことが楽しくなり張り合いがでてくるのではなかろうか。それが本来我々が目指している人生の醍醐味というものではなかろうか。
2017.07.02
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鳥取県の山あいの町八頭町では、耕作放棄地の田んぼを20センチほど掘り、用水路から水を引いてホンモロコという魚の養殖を行っている。現在養殖をしている人は51人です。ブームは周りの町や他県にも広がっている。ホンモロコは体長10センチほどの琵琶湖特産の魚で、昔から京都の料亭などで、高級食材として珍重されてきた。炭火であぶったり、甘露煮にしたりして食べる。上品な味の白身魚です。ホンモロコを京都の台所である錦市場に持っていくと、甘露煮が100グラムで1,500円を超える値段をつけていたこともある。しかし問題はホンモロコを食べる文化を持つのは京都周辺だけということである。だから、われもわれもと京都の市場にホンモロコを出すと、途端に供給過剰になり、値段が下がってしまうのである。生産者は、高級魚としてのブランド維持するためにどうすればよいのか。市場の拡大は図れないのか。会合を開いてさまざまな議論が行われた。しかし妙案は出てこなかった。ここでホンモロコの養殖の発起人である鳥取大学の七條喜一郎さんがある問題提起をした。荒れ果てた先祖伝来の田畑を見るのは悲しいことだ。耕作放棄地を活用することはできないのか。そこで始めたのがホンモロコの養殖だった。最初はそもそも儲けようとか、採算が取れるとかを考えて始めた事ではない。楽しいからしているのだ。それでもいいじゃないか。産地間競争をしてたの生産者と争うなどもってのほかだ。自分たちの田んぼで高級魚が育つ。そういう地域を誇らしく思う気持ちが大切なのではないか。この七條さんの提案をもとに、生産者は出発した原点に戻って考えることにした。ボタンの掛け違いが起こったのは、京都でホンモロコが高値で取引されているということに気づいたからだ。このホンモロコが八頭町の農家が、現金収入を得るための戦略商品になるのではないかと甘い幻想を抱いたことから始まっている。 1番最初にホンモロコを養殖し始めたのは、そうではなかった。過疎化進行する。空き家が増える。地域に活気がなくなる。そんな中で地域が元気になる。若者はuターンしてくる魅力のある地域づくり。地域の人の相互交流が増えて、人間関係の輪を広げる。その一環としてホンモロコを養殖したら何かが変わっていくのではないかと思って始めたことだった。その原点に帰って議論してみよう。するとこんな意見が出てきた。私たちはホンモロコを生産した時、これを外の市場に持っていき、現金化しないといけないと頑なに信じていた。京都の市場で値崩れが起きると、ホンモロコの品質と生産量だけにひたすらこだわり、他の産地に負けないように、価格競争をしてきた。海外産はもっと安いと言われ、しぶしぶ値下げに応じてきた。こんな状態がずっと続けばお手上げになる。そして、私たちが食べる魚は八頭町の外から入ってきたもの買って食べていた。発想の転換をして、私たちは食べる魚は、お金を出して買わないで、私たちが作っているホンモロコを料理して食べるようにしたらどうか。みんなで集まり、工夫して美味しい食べ方のレシピを作る。みんなで集まって酒を酌み交わしながら、その味を自画自賛する。そしてホンモロコを知らない人に、食べ方を紹介しながら、こんなに美味しい魚が取れる八頭町を自慢する。ホンモロコは、学校給食でも使うようになってきた。七條さんたちは何度も小学校を訪ねては、ホンモロコが育つ水がきれいなこと、そんな環境に自分たちが暮らしていること繰り返し子供たちに教えている。その結果、子供たちは自分の住んでいる地域を好きになってくれればいい。そして将来八頭町に住み続けてくれることがあればもっといいと考えている。 (里山資本主義 藻谷浩介 NHK広島取材班 196ページより引用)今の農家は自分たちの生産したもので、自分たちの生活を潤すという考え方が希薄である。自分たちが自立するために米を作る、麦を作る、野菜を作る、ニワトリやヤギを飼育するという考え方をしなくなった。売れる農産物を作り、それを市場に出荷してできるだけ多くの収入を得ることだけを考えている。そして自分たちが普段食べるものは、販売して得た収入でスーパーなどで購入してまかなう。やろうと思えばできるのに、実に効率の悪い方法をとっているのである。現在、アメリカは日本に対して全農産物の完全自由化を目指している。これが実現してしまうと、日本の農家が農産物を販売して現金化するという生活は成り立たなくなる。アメリカの安い輸入農産物に対して簡単に負けてしまう。その先はアメリカの穀物メジャーが我がもの顔で日本の市場に入り込み、暴利を貪ってしまうことになる。この考え方は日本の農家が完全に資本主義の論理で頭の中も実際の農業のやり方も翻弄されていると言える。八頭町の実践に学べば、農業をするということは、まず自分たちの食べるもの自分たちでまかなうということである。自分たちの町でできるものを多品種少量生産で取り組んでいく。そして今まで町外からお金を出して購入していたものを町内で賄うようにする。相互に融通しあうようになれば町内での人間関係も活発になってくる。そういう方向でせめて食料の分野だけでも、お金に振り回されない生活の仕方に変更していくことが大切なのではないか。いったん突破口を見出すと、それが様々な方面に波及していくことが考えられる。利潤追求、効率化一辺倒の資本主義社会に対して、生活中心、人間中心の社会を作り出していくことが今人間に課せられた大きな課題である。
2017.06.30
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京セラやKDDIを創業した稲森和夫氏は、 「会社は誰のものか」という質問に対して、 「会社は全従業員の物心両面の幸福のためにある」と言われている。そして、お客様、取引業者の皆さん、地域の方々をはじめ、企業を取り巻く全ての人々のために存在している。もちろん、商法上の会社の持ち主は、株主です。最近は、会社は株主のものだから、株主が儲かるようにするのが経営者の責任だなどと言われます。中には株を大量に買い占めて、敵対的TBOを仕掛けたり、株主総会に出席して、 「もっと配当を出せ」とか、 「もっと利益が出るように、従業員のリストラを進めろ」などと要求する株主もいます。しかし、京セラは創業以来、 「株主のために会社が存在する」とは1度も言ったことがありません。これは、決して株主を軽視しているわけではありません。もし、株主から「けしからん」という苦情が来たら、私はこう説明します。「従業員みんなが安心して、喜んで働いてくれるような会社にする。さらに広く社会から信頼と尊敬を受けるような立派な会社にする。その結果として、すばらしい業績を実現する。そうすることが、ひいては会社の価値を高め、株主にとっても望ましいことになるはずです」ここで大事な事は、最初の目標の立て方が違うと、同じようなことを始めても、その内容は似ても似つかないものになってしまうということです。会社は株主のものという考え方に立つと、株主により多くの配当をもたらすことが経営者の最大の目標となります。そうなりますと従業員、お客様、関連会社、地域の人々に役に立つという使命はどうでもよいということになります。また経営者は、利益を最大限に出すことによって莫大なキャピタルゲインを得ることが目標になります。逆に、会社は従業員を始め、企業を取り巻く全ての人々の幸せを作り出すことに目標を定めると、経営者は自分の利益追求ではなく、自分を脇に置いて従業員の生活ややりがいを大いに高めるように努力するようになります。(ど真剣に生きる 稲森和夫 NHK出版 107頁より引用)このことを森田理論では、 「ごうりの誤り、千里の差を生ず」と言われています。普通神経症に陥った時、その原因となった不安や恐怖をなんとか取り除こうとします。それだけのエネルギーのない人はその場からすぐに逃避するようになります。その方向は、神経症の葛藤や悩みがとれないばかりか、精神交互作用でどんどんと増悪してきます。そして最後には神経症として固着し、うつ病になったり、実生活上の悪循環に陥ったりします。これは目標の立て方とその後の解決の手段を誤っているのです。神経症に陥る人はこのような誤った努力目標を持って、1人相撲を取っているようなものです。森田理論学習を続けると、原則として不安や恐怖は自然現象であり、人間の意思の自由はないと学びました。できないことにエネルギーを注ぎ込む事は最終的に無駄になりますので、不安や恐怖はそのまま受け入れて、自然に服従するようになります。そこに投入していたあり余るエネルギーは、日常生活や人のために役に立つこと、自分の夢や課題や目標の達成のために使う。こういう方向に向かえば、その後の両者の展開は雲泥の差となって表面化してきます。もともと小さなことが気になるという神経質性格が、目標の立て方の違いによって時間が経つにしたがって大きく差が開いてくるのです。神経質者が建設的で創造的生産的な方向へ舵を切っていくためには森田理論学習は欠かせないと考えます。特に自分の性格特徴の両面性、認識の誤り、感情の法則、精神拮抗作用の活かし方、生の欲望の発揮、自然に服従する生き方などを重点的に学習してもらいたいと思います。次に学んだことは体に覚えこませるようにすることが大切です。神経質性格は正しく活用すれば、自分だけではなく、人のため世のために大きな威力を発揮するようになるのです。
2017.06.08
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音楽家の久石譲さんは、オンリーワンよりはナンバーワンを目指したいという。オンリーワンであればよい、というのは向上心のかけらもないということだといわれます。もっと言えば、その社会から降りる、ドロップアウトすることを意味する。「いい曲ができないんですけれど」「いいですよ。一生懸命努力したんでしょう。だったらしょうがない」こんなことを言われて慰められても、ちっとも心が軽くならない。むしろその程度のものでいいのかと憤りたくなる。書くからには、いい曲にしたい。そうしなければ、作曲家としての命運など、あっという間に尽きてしまう。(感動を作れますか 久石譲 角川書店 182ページより引用)私の以前勤めていた会社の営業マンで、常にトップクラスの営業成績をたたき出す人がいた。その人は、見るからに神経質性格の持ち主であった。しかし彼は神経症とは全く無縁だった。それは真面目で努力家、細かいことによく気がつきやすいという神経質性格を、自分の類まれな長所として捉え、営業活動に存分に活用していた。口癖は、得意先は10個役にたつことを積み重ねて行っても、 1個、相手の機嫌を損なうことをすると途端に信用を失う。だからアンテナを幅広く張って地道なことを数多くこなしていた。一度でも信用を失うと、その得意先は他のライバル会社に簡単に鞍替えしてしまうといっていた。そしてもう一つは、社内でライバルとなる成績優秀な営業マンの動向を常にマークしていた。ライバルの営業成績よりも少しでも上回ることを目標としていた。さらに彼は毎年優良営業マンとして社長表彰を受けていた。それも彼の目標だった。そういう目標がなかったら他の営業マンと同じ程度の成績に甘んじていたのではないだろうか。彼はオンリーワンであったが、そのうえでナンバーワンを目指していた。以前、民進党が政権与党だったとき、事業仕分けというのがあった。税金の無駄をなくするため、国家予算を投入するかどうか選別していたのである。その時、事業仕分けをした女性の議員の人が、 「ナンバーワンではどうしていけないのですか。ナンバーツーでもいいのではないですか」と言っていた。これは資本主義の仕組みをよくわかっていないのではないかと感じた。資本主義社会では勝ち組企業が圧倒的な力の差を見せつけて、1人勝ちというケースが多い。負け組企業は市場から退場させられたり、 M&Aで吸収合併させられてしまう。資本主義社会では常にライバル企業と生死をかけた生き残り競争を繰り返しているのである。その仕組みを知っていれば、資本主義社会で生き残るためには、ナンバーワン企業として君臨し続ける必要があるのである。企業は宿命的にナンバーワンを目指すしか生き残れない。これは資本主義の弊害ではあるが、よい悪いにかかわらずそういう流れになっている。アメリカや東欧諸国では、オリンピック選手がドーピング検査に抵触する場合がある。特に金メタルが予想されている選手は、どうしても金メダルをとりたい気持ちが強くなる。ナンバーワンになるためには、ドーピング検査で引っかかるかもしれないという危険を犯しながらも、薬物に手を出してしまう。つまり、ナンバーワンになるために、ともすると他人を蹴落をしたり、違法行為に手を染めてしまうということになる。ナンバーワンを目指す事は、やる気やモチベーションを高めることにつながるが、反面「かくあるべし」を助長して、自分を苦しめる原因になるということは心しておくべき問題である。またナンバーワンを目指す生き方は、目標がしっかりしている面があるが、休む暇がなく、いつも神経が緊張している。オンリーワンというのは、 SMAPが歌った「世界に1つだけの花」という歌で有名になった。これは森田理論の「己の性を尽くす」という考え方に近いものだ。世の中にはいろんな花がある。どの花もそれぞれの道で精一杯生きていければよい。人と比較したりして、自分を卑下する必要は無い。それぞれによい点や能力があるはずだ。自分の特徴や能力を見極めて仕事を選択し、人と競争することなく、マイペースで生活していくことである。ただ楽器の演奏をしていて思うことですが、その演奏技術を高めていったり、継続していくためには、マイペースで練習だけしていると、途中でマンネリになり練習に身が入らなくなる。同好の士を集めて切磋琢磨したり、演奏会を企画して、人前で披露するという目標がないと長続きはしない。末永く楽器に親しみ、上達しようと思えば、マイペースでやればよいというだけでは無理があるような気がする。オンリーワンというのはマンネリ化に陥りやすく、意欲や気力を維持するということは難しい。また、オンリーワンの生活は、自営業で成功した人や年金がたっぷりある人は可能であるかもしれないが、会社勤めなどをしている人は実質不可能である。憧れの生き方であるが、絵に描いた餅のようなものである。だがこの考え方には、物、自分、他人、お金、時間などそのものが持っている特徴や能力を見つけ出して、最大限にその力を発揮するという考え方がある。森田理論の「物の性を尽くす」という考え方である。人間本来の生き方としては真っ当な生き方である。ただ、貨幣経済で翻弄させられているために、全く相反する生き方を押し付けられているのである。こうしてみると、ナンバーワンがよいとかオンリーワンがよいとか言う問題では無いと思う。ナンバーワンにもよい点もあれば、悪い点もある。オンリーワンも理想的ではあるが、問題点もある。それぞれのよいところを取り入れて調和を図ることが必要なのではなかろうか。
2017.06.03
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森田先生の話です。最近、朝日新聞に、五重奏ということが出ていた。それは本を読みながら、会話をし、字を書き、計算をするとか、同時に5種類のことをするということです。聖徳太子はいちどに8人の訴えを聞かれたとの事、すなわち八重奏である。私どもも平常、 2つや3つの仕事は同時にやっている。たとえば、病院などでも、患者の家族に面会しながら、机上の雑誌を読み、一方には看護婦に用事を命令するとかいうようなものである。三重奏である。我々の日常は、誰でも同時にいくつもの方面のことを考えているのが普通のことである。強迫観念でも、苦しめながら、なんでもできるものである。神経質の人の考え方の特徴として、それを自分で出来ない事と、理論的に独断してしまうのである。(森田全集第5巻 白揚社 99ページより引用)これに対して我々は、物事に取り組む時はそのものに集中しなければいけないと考える傾向がある。余計な考えが頭の中に入り込むと、物事は決してうまくいかないのではないか。こういった事は頭の中で考えると、それが最も効率よく、しかも正確に素早く目的が達成できるようには思う。森田先生は、実際の生活の面ではそういう事はありえないと言われている。机上の空論である。時と、場面に応じて様々なことが、眼について、気になるのが普通の人間である。そうでなければ、他の動物の餌食となって、人類がここまで生き延びることはできなかったであろう。その上で、では一体物事に集中するということはどういうことか。たとえば、先生が学生を相手に講義をしているとする。もちろん、講義している内容には集中している。でもその時、森田先生は決して講義の内容のみに集中しているわけではないといわれる。机の上に置かれた水差し、時計、書物なども気になる。また、外の自動車の騒音や学生の仕草も気になる。眠っている人や、遅れてきた人が気になるのだ。森田先生の集中と言うのは、それらのことすべてに一時的に注意と関心が移動して、しばらくすると気になったことが次から次へと変化していく事を意味する。一時的にとらわれても、時間が経てばまた別のことにとらわれる。つまりいつまでも一つのことにとらわれるということはありえないのである。集中とはその時、その場で瞬間的に一時的にとらわれているのである。一時的にとらわれてなりきることを集中といっている。時間が経てば速やかに、別のことに意識が移り、別のものに集中している状態のことをいう。その時、注意と関心が講義の内容のみに固定されるとどうなるのか。本来外へ向かうべき自分の注意や意識が自然と自己内省化してくる。講義の内容はこれでいいのだろうか。自分の表情や声の調子は問題ないだろうか。体の震えを止められないものか。そうした不安や心配事が次から次へと湧き上がってきて、大勢の前で講義をしすること自体が恐ろしくなってくる。これは血管の中を血液がスムーズに流れなくなってきた状況によく似ている。血管の中に詰まり気味に血液が流れているような状態だ。これではいずれ病気になる。目の前に現れてくる様々な感情に対して、変化流転を拒み、無理やり歯止めをかけようとしているようなものである。森田先生は、日常生活の中では雑念だらけだと言われている。目の前の状況に応じていろんな感情や気持ちが湧き上がっては消え、湧き上がって消えていく。決して一つの感情のみに固定したいと思っても不可能なことなのだ。神経症に陥ると、意識や注意の固定化が起きて、変化流転という自然の動きが止まってしまっているのだ。だから神経症を治すためには、谷間を勢いよく流れる小川がイメージできるようになるといいのだ。私たちはその自然の流れに身を任せて、その時々の様々な感情を受け止めながら、生きていくしかない。決して人為の力で手出ししてはならないものなのである。
2017.05.25
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