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敗者と勝者 歴史の見方の違い




情報 敗者と勝者


  多くの日本人がこの点では中国に感謝と思っているようですが、
 中国残留婦人・孤児の実際は多くが中国人に逆恨みされ、強姦され殺されたり、餓死したりしたそうです。その中の、嫁が貰えない貧乏な人に無理やり嫁にされたり、子供のいない夫婦に引き取られたという、何分の一かの確率の運のよかった生き残りの婦人や子供が中国残留婦人・孤児だというだけなんです。また、敗戦で急いで何百キロも逃げなければならない日本人から子供を預かってくれるように頼まれて、それで育ててくれた優しい中国人もいたそうです。
 だから、中国人にも心優しき人もいるし、愚かな人もいるということであって、その点は日本人と同じなんですよね。

 今の中国は、お金を追いかける経済だけでなく政治・社会に自由を求める若者が、社会にストレスを感じながら、そのはけ口として反日運動にのって騒いでいるという構造です。もちろんその背後には中国共産党の体制堅持為の反日教育や歴史博物館の存在が大きく横たわっています。

 日本は当時の多くの列強の国々アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、フランス、イタリア、ソビエト連邦などと同じように植民地拡大主義をとり、進出したアジアの人々に多大な困難と苦痛を与えてしまいました。

 しかし、多くの真実が一面からだけでは判断できないように、日本は迷惑をかけた、ただそれだけではないのです。

 日本は第二次世界大戦でアジア全域を植民地にしていたオランダ、イギリス、フランス、アメリカ、オーストラリアら欧米の白人の国々をアジアから追い出し、これらの国に替わって日本がアジア諸国に親日政権を建国しようとしました。しかし日本は敗戦。結果として、アジアの国は植民地支配から独立することが出来ました。このことで日本人に感謝のコメントをする東南アジアの政治家もたくさんいたんですよ。

 全ての事柄は裏と表があり、敗者である日本国の言葉は勝利した大国アメリカの意向により歴史に封印されてきました。戦後の日本の歴史教育がまさにそれです。

 本当の歴史は学校や他人じゃなく自分で勉強しないといけませんよね。私は日本人であることに誇りを持っていますよ。


 参考資料: タイ人新聞記者 ククリツト・プラモート(後のタイ国首相)
「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすく育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」


参考資料 : インドネシア スカルノ大統領
 「我々が(オランダから)独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのに、同じ有色人種の我々に同じことが出来ない訳はないと発憤したからである」


参考資料 : インドネシアの新聞記事 オランダが日本に太平洋戦争での賠償を求めてきたことに対して
              『祖国と青年』平成7年4月号P37より

 「日本政府は、1958年に賠償と援助で8億ドルを出してくれた。ハッタ副大統領は“日本軍はインドネシア独立の恩人だから、賠償という名称は不適当だ。独立達成を記念する祝賀金として戴く”と言っていた。日本政府が3年半の占領の分として8億ドル払ってくれたのだから、オランダは350年分の賠償として800億ドル支払うべきだ。それに独立戦争の死者は80万人だから、一人当たりの補償金を1万ドルとすれば80億ドル、10万ドルとすれば800億ドルになる。つまり、オランダは最低1600億ドルぐらいは支払うべきである。その前に、まず女王に謝罪してもらいたい。」



 ベトナム戦争のもう一つの側面、中国VS南ベトナム・アメリカの戦争を思い返すべき。
 中国政府の、共産主義の維持拡大を目的とした、一切の宣戦布告も無く、突然ベトナム領に進入してきた行為は侵略戦争そのものです。

 この中国の侵攻でベトナム人には1万5千~2万人の死者が出たといわれています。
 しかし中国は当時の国家主席で中央軍事委員会主席だった華国鋒や総参謀長だったトウ小平を未だに教科書に載せて功績を称えています。特にトウ小平については開放政策の父として江沢民や現政権すら賞賛している。
 中国が日本のことをとやかく言える立場には無いでしょう。むしろ日本がこうした中国に対し堂々と言うべき事をいってこなかっために今後も予想される弊害が大きいのです。




 日本のマスコミ。テレビがなぜ特に韓国に関する報道に神経質になるかといえば、韓国の報道で事実であるが日本人の多くに知られたく無いようなことがある場合、それらをあえて報道すると、そのマスコミやその番組のスポンサーの会社に在日韓国人の組織的な電話やFAXの抗議が山のように来て仕事にならないばかりか、そのスポンサーの商品の不買運動を起こすと脅されます。それらの組織、団体はこれはマイノリティーの社会的戦いだと言われるかもしれませんが常識をわきまえず明らかにやり過ぎではないでしょうか。

 民放各社は韓国関連の報道に対して神経節質にならざるを得ません。私の勤めている会社もある番組のスポンサーをしておりますが、その番組で統一教会の特集をやったときに山のような抗議が在日組織から会社に入り仕事になりませんでした。日本のマスコミがサッカー日韓ワールドカップの報道では、まるで韓国政府の提灯持ちのような報道だったのは、少しでも韓国の恥部的な報道をすればたちまち上記のような状態になるからです。
 もし友人や知人にテレビ番組のスポンサーをしている企業の方がいらっしゃいましたら聞いて見て下さい。このような事は日常的に行なわれているのです。
(第18光洋丸の悲劇より)


 さて、韓国人がなぜあれほど日本に対し対抗意識を持ち、日本人に対しコンプレックスを持っているのか。複合要因だがその一つを挙げると。

 反日教育の環境で育ち 少年時代から韓国の文化だと信じていたもの が実は日本のマンガの海賊版だった。

 このことは鉄腕アトムだけでなく、キャンディキャンディ、機動戦士ガンダム、キャプテン翼・・・と、つい最近、日本文化の輸入が解禁されポケットモンスターが日本のアニメとして普通に紹介されるまで延々と続いたのである。まさに近代韓国文化の多くが日本文化の模造と海賊版で作り上げられていた。そしてその事実を韓国人はずっと知らされないまま自分たちの文化としてアイデンティティー(自分が自分であることを感得しうること)に取り入れられ大人になったのである。

  これは一昔前の韓国のマンガの例(コミック本の製本スタイルまで日本式)である。日本人から観るとまるで海賊版と盗作の見本市であるが、韓国人にとっては少し前の韓国のマンガとして懐かしく思うだけなのだ。これもほんの一例に過ぎない。罪なのは金のために自国の子供を騙し続けた当時の韓国社会なのだ。

 韓国という国は日本文化解禁以前から海賊版や盗作の形で日本文化に溢れていたといえる。全てではないが韓国の作者というのはクリエーターではなく日本の作品をいかに韓国風に作り変えるかという編者の面があった。しかも日本の作品ということを隠して、日本の関係会社に著作権使用料を支払わず、勝手に海賊版として。しかも反日教育と平行して日本文化は韓国作品として発表され続けたのであった。※今は日本文化が解禁され日本の作品は日本の作品として韓国で若い世代を中心に日本文化が広く受け入れられています。







参考資料: 韓日人協会理事長 鄭時東
第二次世界大戦を日本国民は団結してよく戦った。それが契機となってアジア諸国はすべて独立した。この偉業は将来誰も否定できなくなるであろう。そして注目すべきことは、あれほど戦っていた日本が敗戦と決まれば、整然と矛を収めたことである。この見事な収拾ぶりは世界の驚きであった。


参考資料 :インドネシアの中学3年用の歴史教科書
 「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた」


参考資料 : 元KBS(韓国放送公社)会長 徐英勲 
「近世以来の受難な歴史の中で、島山先生(韓国独立の父、安昌浩)のような偉大な指導者がいることを在日の方が知らないことを憂いて、この本を発行しました。日本は吉田松陰や福沢諭吉ら先覚者が出て明治維新を成功させて独立を守り抜いた。しかし、韓国は余りに形式にこだわって改革を進めることができず、国を弱くしてしまった。島山先生は吉田松陰に似ていて、古い封建体質を改造して国の力を強くしようとしました。責任は私たち自身にあるのであり、日本を恨む暇があるならば、自らの実力の向上に努めるべきであると島山先生は訴えていました。だから暴力に訴えるとか、日本人を恨むとかはしなかった。お互い、日本、韓国、中国がそれぞれに立派になって東洋精神を持って世界に貢献しようと、島山先生は訴えておられたのです。その島山先生の精神に基づいて、アジアの文明の主人公である私たちが世界のために尽くそうではありませんか」


参考資料:朴鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳、韓日文化研究所 昭和四十二年十月)
「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」

「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」

「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」


参考資料:韓国大統領 朴正熙(パクジョンヒ)・・・韓国には極めて珍しい(一応は)親日派大統領。日韓併合時代は、日本の創始改名に呼応して「高木正雄」という日本名を名乗り、敗戦時には中尉にまで昇進。戦後は韓国軍少佐へ昇進し、やがては大統領に就任。キューバ危機直前の1961年当時、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディと会談し、親米進路を固める。日韓基本条約によって日本との国交を復活させ、独裁政権を取りながらも韓国の近代化を徹底した。このときの経済成長が無ければ、韓国は北朝鮮に滅ぼされていたと言われている。しかし韓国国内の反日派の反感を買い、1976年10月26日金載圭中央情報部長に射殺され死亡 享年62歳。

中曽根元首相との対談より
「私は貧農の生まれで学校に通うなど思いもよらなかったが、日本人の役人が両親を説得して小学校に行く事が出来た。そしたら学校の教師がお前は頭が良いから無料の師範学校に行った方が良いと推薦してくれた。
師範学校では更に優秀さを認めてくれて陸軍士官学校に推薦してくれた。その結果士官学校首席として日本人同期生のトップで卒業し、陸軍将校に成る事が出来た。今の私が有るのは清廉で誠実な日本人達のおかげである。」


参考資料 :朝日新聞 2000/3/6
【ロサンゼルス5日=宮川政明】
日本は侵略者だったと思うが、戦争犯罪行為についての新たな補償は必要ない――。第二次大戦中の日本の行為や現在の対日観などについて、米カリフォルニア州の有権者1000人に聞いたところ、こんな傾向が浮かび上がった。クレアモント・マッケンナ大学のアルフレッド・バリツァー教授(政治学)が2月に調査した。
調査では、まず日本の戦争犯罪行為について十分な謝罪がなく、補償がなお必要だと感じている人々がいると説明した上で、謝罪や補償が必要かどうかを尋ねると、29%が「必要だ」とし、60%が「必要ない」と答えた。当時、日本企業によって過酷な労働を課せられたとする米兵捕虜経験者への補償については、「必要」は35%で、51%は「必要ない」と答えた。
広島、長崎への原爆投下は90%が知っていたが、南京虐殺事件は55%が知らなかった。
日本は戦争の犠牲者でなく侵略者と見る人が83%に達した。
さらに、日本の再軍備の是非については、米国と密接に連携した限定的な武力を「持つべきだ」という答えが55%、「再軍備をすべきだ」は24%だった。
カリフォルニア州では、戦時中の強制労働の犠牲者救済をめざす州法条項が昨年7月に制定され、日本企業の責任を問う訴訟が相次いで起こされている。

※ 賠償問題は1952年のサンフランシスコ講和条約で政府・個人ともに解決しているため、連合国側の国々(アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、オーストラリア、中国、【韓国&北朝鮮?】)が日本に対し第二次世界大戦関連で訴訟を起こしてもことごとく敗訴している。


 プロパガンタ(情報戦、政治的宣伝)とは何だろう

  『手を切断されたベルギー人の子供』
 神様、わたしにはもう手がありません。いじわるなドイツの兵隊に切られたのです。 ドイツの兵隊は、ベルギーやフランスの子供には手は必要ないと言いました。ドイツの子供だけが手を持てるというのです。
 私の手は切り落とされてしまいました。とても痛かったです。
でも、ドイツの兵隊は笑っていました。 ドイツの子供でない限り、痛みを感じるはずが無いというのです。
 神様、それ以来ママは気が変になってしまいました。パパもドイツ兵につれて行かれてしまいました。パパからは手紙も来ません。きっと銃で撃たれて殺されてしまったのでしょう……。

このエピソードが発表されるやいなや、アメリカの中立主義は揺らぎはじめ、欧州戦争介入に向けて世論が動き始めていく。
 戦後アメリカの大富豪がこの不幸な子供にあって話をしたいと、使者をベルギーに派遣した。ところが、誰一人として実際の被害者を見つけることが出来なかった。

それはフランスによるプロパガンダだったのである。



 かつてサンデータイムスの記者であったF・W・ウィルソンは次のように語っている。


 ロンドンにあるディリーメール紙の特派員として、私ウィルソンは戦争当時ブリュッセルにいた。
 本社から敵の残忍さを語る記事を送れと電報が届いたが、当時そういった事件は起こっていなかった。それならば難民についての記事を送れと再度電報が来た。 これなら取材に出なくて済みそうだ。
 ブリュッセルの近郊に、今時珍しく美味しい夕食を取れる街がある。ここにドイツ兵が来たと話に聞いた。きっと街には赤ん坊くらいいるだろう。
 そこで私は、感動的な話を書き上げた。家が焼かれ、ドイツ兵の手に掛かる寸前に助け出された赤ん坊の話だ。
 掲載の翌日、ロンドン本社からその赤ん坊を連れてこいと電報が来た。その子を養子にしたいという手紙が五千通も届いたというのだ。
 翌々日、本社には赤ん坊用の服がどっさり届いた。
 私はいまさらそんな赤ん坊は存在しないと本社に電報を打つことは出来なかった。

   アンヌ・モレリ著「戦争プロパガンダ10の法則」(草思社刊)より



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