<「BOOK」データベース>より roll one‛s eyesは「目をクリクリさせる」か?意訳か逐語訳か、「僕」と「私」はどうちがう?翻訳が好きで仕方がないふたりが思いきり語り明かした一冊。「翻訳者にとっていちばんだいじなのは偏見のある愛情」と村上。「召使のようにひたすら主人の声に耳を澄ます」と柴田。村上が翻訳と創作の秘密の関係を明かせば、柴田は、その「翻訳的自我」をちらりとのぞかせて、作家と研究者の、言葉をめぐる冒険はつづきます。村上がオースターを訳し、柴田がカーヴァーを訳した「競訳」を併録。
p60~62 <he said she said>
質問者B:
あの、語学力というのは私にとっても永遠のテーマなんですけれども、私が翻訳の勉強を始めた頃に、とにかく日本人の作家が日本語の文章を書いたように、日本の小説を書いたように自然な美しい日本語に訳しなさいというふうに先生に教わりました。で、まあ、そういうのを目指して、そういう風に思ってきたわけなんですけど、最近思いますのは、説明的な文章はいいんですけれども、たとえば、科白なんかが並んだ文章ですと、英米圏の小説では必ず一つの科白のど真ん中に「彼はこう言った」とか「彼はこう叫んだ」とか、科白がちゃんと完結しない、ど真ん中をぶちぎって二つに分けちゃうというような手法が多いですよね。
どうしてわざとこんなことをやるのかというと、普通の文章スタイルを意図的にぶち壊そうとしているわけですね。これはあとで知ったことなんですが、レイモンド・カーヴァーのその頃の編集者だったゴードン・リッシュという人が、本人もわりに前衛的な小説を書く人だったんで、強権をふるってカーヴァーが書いた普通の文章をズタズタに切ってhe said he said he saidって全部勝手に書き直しちゃったみたいなんです。 でもその頃はそういう事情を知りませんし、カーヴァー自身がこういうふうに書いたと思うから、なんとかその文体を忠実に再生しようとしたんだけど、日本語にするともう収拾不可能になってしまう。だから適当に止めちゃったんですよ。僕の判断で、he saidがひとつのセンテンスに三つあっても、場合によっては一つにしちゃいました。それでもカーヴァーの独自の文体はきちんと伝わると思ったから。いま原文を読み返してみても、やはりギミックっぽいなと感じるし。