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2006年08月09日
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佐伯(さえき)の叔母の尋ねて来たのは、土曜の午後の二時過であった。

その日は例になく朝から雲が出て、突然と風が北に変ったように寒かった。
叔母は竹で編んだ丸い火桶(ひおけ)の上へ手を翳(かざ)して、
「何ですね、御米(およね)さん。この御部屋は夏は涼しそうで結構だが、これからはちと寒うござんすね」と云った。
叔母は癖のある髪を、奇麗(きれい)に髷(まげ)に結(い)って、古風な丸打の羽織の紐(ひも)を、胸の所で結んでいた。
酒の好きな質(たち)で、今でも少しずつは晩酌をやるせいか、色沢(いろつや)もよく、でっぷり肥(ふと)っているから、年よりはよほど若く見える。

叔母さんは若いのねと、後(あと)でよく宗助(そうすけ)に話した。

すると宗助がいつでも、若いはずだ、あの年になるまで、子供をたった一人しか生まないんだからと説明した。
御米は実際そうかも知れないと思った。
そうしてこう云われた後では、折々そっと六畳へ這入(はい)って、自分の顔を鏡に映して見た。その時は何だか自分の頬(ほお)が見るたびに瘠(こ)けて行くような気がした。
御米には自分と子供とを連想して考えるほど辛(つら)い事はなかったのである。
裏の家主の宅(うち)に、小さい子供が大勢いて、それが崖(がけ)の上の庭へ出て、
ブランコへ乗ったり、鬼ごっこをやったりして騒ぐ声が、よく聞えると、
御米はいつでも、はかないような恨(うら)めしいような心持になった。
今自分の前に坐っている叔母は、たった一人の男の子を生んで、
その男の子が順当に育って、立派な学士になったればこそ、
叔父が死んだ今日(こんにち)でも、何不足のない顔をして、

御母さんは肥っているから剣呑(けんのん)だ、気をつけないと卒中でやられるかも知れないと、安之助(やすのすけ)が始終(しじゅう)心配するそうだけれども、
御米から云わせると、心配する安之助も、心配される叔母も、
共に幸福を享(う)け合っているものとしか思われなかった。

「安さんは」と御米が聞いた。

「ええようやくね、あなた。一昨日(おととい)の晩帰りましてね。それでついつい御返事も後(おく)れちまって、まことに済みませんような訳で」


「あれもね、御蔭(おかげ)さまでようやく学校だけは卒業しましたが、これからが大事のところで、心配でございます。――
それでもこの九月から、月島の工場の方へ出る事になりまして、
まあさいわいとこの分で勉強さえして行ってくれれば、この末ともに、そう悪い事も無かろうかと思ってるんですけれども、
まあ若いものの事ですから、これから先どう変化(へんげ)るか分りゃしませんよ」

御米はただ結構でございますとか、おめでとうございますとか云う言葉を、間々(あいだあいだ)に挟(はさ)んでいた。

「神戸へ参ったのも、全くその方の用向なので。石油発動機とか何とか云うものを鰹船(かつおぶね)へ据(す)え付けるんだとかってねあなた」

御米にはまるで意味が分らなかった。
分らないながらただへええと受けていると、叔母はすぐ後(あと)を話した。

「私にも何のこったか、ちっとも分らなかったんですが、安之助の講釈を聞いて始めて、おやそうかいと云うような訳でしてね。――
もっとも石油発動機は今もって分らないんですけれども」
と云いながら、大きな声を出して笑った。
「何でも石油を焚(た)いて、それで船を自由にする器械なんだそうですが、聞いて見るとよほど重宝なものらしいんですよ。
それさえ付ければ、舟を漕(こ)ぐ手間(てま)がまるで省けるとかでね。
五里も十里も沖へ出るのに、大変楽なんですとさ。
ところがあなた、この日本全国で鰹船の数ったら、それこそ大したものでしょう。
その鰹船が一つずつこの器械を具(そな)え付けるようになったら、莫大(ばくだい)な利益だって云うんで、この頃は夢中になってその方ばっかりに掛(かか)っているようですよ。
莫大な利益はありがたいが、そう凝(こ)って身体(からだ)でも悪くしちゃつまらないじゃないかって、この間も笑ったくらいで」

叔母はしきりに鰹船と安之助の話をした。
そうして大変得意のように見えたが、小六の事はなかなか云い出さなかった。
もう疾(とう)に帰るはずの宗助もどうしたか帰って来なかった。

彼はその日役所の帰りがけに駿河台下(するがだいした)まで来て、電車を下りて、酸(す)いものを頬張(ほおば)ったような口を穿(すぼ)めて一二町歩いた後(のち)、
ある歯医者の門(かど)を潜(くぐ)ったのである。
三四日前彼は御米と差向いで、夕飯の膳(ぜん)に着いて、話しながら箸(はし)を取っている際に、どうした拍子か、前歯を逆にぎりりと噛(か)んでから、それが急に痛み出した。
指で揺(うご)かすと、根がぐらぐらする。
食事の時には湯茶が染(し)みる。
口を開けて息をすると風も染みた。
宗助はこの朝歯を磨(みが)くために、わざと痛い所を避(よ)けて楊枝(ようじ)を使いながら、口の中を鏡に照らして見たら、
広島で銀を埋(う)めた二枚の奥歯と、研(と)いだように磨(す)り減らした不揃(ぶそろ)の前歯とが、にわかに寒く光った。

洋服に着換える時、
「御米、おれは歯の性(しょう)がよっぽど悪いと見えるね。こうやると大抵動くぜ」
と下歯を指で動かして見せた。
御米は笑いながら、
「もう御年のせいよ」
と云って白い襟(えり)を後へ廻って襯衣(シャツ)へ着けた。

宗助はその日の午後とうとう思い切って、歯医者へ寄ったのである。
応接間へ通ると、大きな洋卓(テーブル)の周囲(まわり)に天鵞絨(びろうど)で張った腰掛が并(なら)んでいて、待ち合している三四人が、うずくまるように腮(あご)を襟(えり)に埋(うず)めていた。

それが皆女であった。

奇麗(きれい)な茶色の瓦斯暖炉(ガスストーヴ)には火がまだ焚(た)いてなかった。
宗助は大きな姿見に映る白壁の色を斜(なな)めに見て、番の来るのを待っていたが、
あまり退屈になったので、洋卓の上に重ねてあった雑誌に眼を着けた。

一二冊手に取って見ると、いずれも婦人用のものであった。

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最終更新日  2006年08月09日 05時58分11秒
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