藤の屋文具店

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模型



              セピア

               模型


 幼稚園のころ、まだプラモデルはなかった。そのころの子供のお
もちゃは、ブリキで出来たクルマやロボットやジェット機、宇宙船
や汽車、電車などだった。たいていは、ツメがスリットに差し込ま
れて先端を曲げて留める、そういう構造だったので、ねじ回しを使
って分解することが出来た。分解すると裏側は、「あけぼのの桃缶」
とか「オーロラのシャケ缶」とかいった印刷がしてあって、ああ、
缶詰を切り開いて作ったんだなぁと納得したものだ。
 中のメカは、クルマやジェット機などの走るやつは、たいてい、
わりと重たい円盤が高速でまわる機械が入っていて、その減速歯車
のシャフトが外れるのが、故障の原因だった。ロボットだと、細長
いバネがぎりぎりと巻いたのが入っていて、その端っこが折れてび
ょーんとはみ出していた。こいつの修理は、おじいちゃんに手伝っ
てもらわないと無理だった。

 組み立て式の模型は、竹ひごとニューム管で枠組みを作り、障子
紙のような紙を翼に貼ってこさえる「模型飛行機」が全盛で、細長
い千歳飴みたいな袋に材料一式と型紙が詰められて売っていた。「
スカイアロー」とか「ブルーオーシャン」みたいなかっこいい名前
が書いてあったけど、出来あがりはみんな、同じ形だったな。
 もうちょっと高級なやつだと、紙箱に入ったパトカーも作ったこ
とがある。側面の形にバルサ板が切り抜いてあって、左右を補強の
角材でつないで、ボンネットからルーフ、トランクまでを印刷した
ボール紙を貼りつけて完成。RS40型のクラウンのパトカーだっ
た。これは、ゴム動力で後輪を回して走ったけれど、勢いよくダッ
シュしてあとは惰性だったので、動作ことしては今ひとつだった。

 最初に作ったプラモデルは、初代パブリカの前期型、UP10の
セダンで、ピンクというか肌色みたいな色だった。大阪から東京に
引っ越したおじさんのお土産で、メーカーはコグレ模型だったと思
うが、なにぶん40年前の記憶なので定かではない。窓ガラスを接
着するのに、セメダインで指紋がついたのが悔しかった。確か、マ
ブチ13モーターと単三乾電池一本で走った。
 当時の乾電池は紙の外装で、使えなくなったのを分解すると黒い
粉が出て来た。同封されていたモーターのオレンジ色の小さな四角
い箱には「TKKマブチモーター」と書かれていて、裏の面には「
定格電圧」だの「トルク」だの「消費電流」だのといった難しい言
葉がいっぱい並んでいたのが、子供心には本格的な「機械」を感じ
させて、とても嬉しかったものだ。
 やがて、50円や100円のプラモデルが次々と売り出されて、
ゼロ戦や戦艦大和がおなじみになった。隼や疾風、飛燕、五式戦、
雷電、銀河、九九式艦爆、双胴の悪魔P38、ヘルキャット、長門
に陸奥、金剛、伊勢、M4シャーマンに61式戦車、パットン、キ
ングタイガー、動力はゴムからモーターへと豪華になり、飛行機の
プロペラを回す「マブチベビー」や、ダイレクトにタイヤをつけて
走る「角型モーター」、吸盤で船底にくっつける「水中モーター」
に「電動船外機」なんてのまで出てきた。

 このころ、日の出電工という会社から、たぶん国産初のラジコン
が発売されて、僕は欲しくて欲しくてたまらなかった。定価は一万
三千円位だったと思う。ホームランバーというアイスクリームが5
円だった時代だから、今なら15万円くらいの感覚か。現代のデジ
タルプロポと違って、送信機にはボタンがひとつだけ。受信機側に
は「エスケープ」という装置があって、あらかじめゴムをうんと巻
いておくと、ボタンを押して電波が出るたびに、受信機のツメがか
ちゃりとはずれ、ゴムの力でスイッチ板が一目盛りだけ回転するの
である。船だと、前進→右回転→左回転→後退→停止、みたいな調
子で制御するから、望む通りにコントロールするには、モールス信
号みたくトンツーツーとボタンを押さなきゃならない。それでも、
離れたところにある模型を、コード無しで自由にコントロールでき
る「ラジコン」は、僕にとっておもちゃのチャンピオンだったので
ある。




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