gaia2014のブログ

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「ぱなま運河の話」青山士(現代語表記)



 パナマ運河の歴史はコロンブス時代から始まっているといってもよかろうと思います。コロンブスは、地球は球体である事を信じ、而して当時大なる富源ありと思われていたカセイ(Cathey)即ちシナへの航路をどうかして発見しようと、西暦一四九二年より四回も大西洋を西に航し、その都度所々において島嶼を発見致しましたが、その目的であったカセイへ到着する事は遂にできませんでした。超えて西暦一五〇二年第四回目、即ち彼の最後の航海の時に北はホンジュラスより南はダリエン湾(Gulf of Darien)に至るまでを探検してどこかに隠れたる海峡を見出してカセイへの航路を発見しようと勉めましたが、起企成らずして終に不帰の客となりました。

 その後西暦一五二〇年十一月二十八日、フェルデナンド・マゼランが南米の南端に一つの海峡を発見しましたが、コロンブスが信じておったようなシナへ行くに好都合な海峡は実際なかったのでありますから見つかろうはずは有りません。その頃スペインの浪人ヴァスコ・ニニッツ・デ・バルボア(Vasco Nunez de Balboa)がパナマ地球辺を探検して歩いた時に、土人の話に「二つの海の間の狭き所」("a narrow place between two seas")あるという事を伝え聞いて、遂に西暦一五一三年に一つの遠征隊を率いて大なる困難と戦い、多大なる犠牲を払って森や林を突破し、北米より南米に通ずる分水嶺のコルデエラス(Cordilleras)を越えて他の大洋の岸へ出ました。而してこれを南海(South sea)と名付けました。これが即ち今の太平洋であります。それからスペインのペドラリアス(Pedrarias)だのその他の人々が出て諸所を探検し、同国の植民地が南米、中米に増加して西暦一八二三年にそれらが独立するまで、依然としてスペインの勢力の下に支配されておりました。その間にペルー(Peru)等より金銀財宝をスペイン本国へ送るために西暦一五一九年に始めて地峡の横断道路がパナマ(Panama)よりノンブレ・デ・デオス(Nombre de Dios)に至る九十マイルの間に開かれた、これがパナマ地峡を横断した最初の道路であります。然し折角出来上がった道路も雨天のために、たちまち破壊されて到底不便たるを免れなかったが故にスペイン王チアレス第五世(Charles 5)の時、西暦一五一九年にサアベドラ(Saavedra)という人がこの地峡を横切る最初の運河の目論見を立てました。而してチアレス第五世もその次のフィリップ第二世(Phillip 2)も初めの中は大いに運河開鑿に賛成しましたが、その工事至難なる事を知って、かつまた政略上の関係から遂にその企てを禁ずるに至りました。その後二百年ばかりの間はサー・ウオター・ラレイ(Sir Walter Raleigh)やハンボルト(Humboldh)というような人が出て運河の計画を立てましたが、単に机上の論をなすに止まり、いまだ実施の域に達しませんでした。然るに西暦一八二六年にニューヨーク(New York)のアーロン・エッチ・パルマー氏(Aaron H. Palmer)が会社を起してニカラグア運河を始め、ここに初めて運河開鑿の機運に向いました。この会社も資本不足にして、かつ工事に関する知識に乏しく、また機械の不完全なりしために失敗に終わりました。とくかくする時、西暦一八四六年にイギリスとアメリカとの間に締結されたる条約によって西暦一八四八年にオレゴン州はアメリカのものとなって、メキシコ戦争(Mexican War)は西暦一八四八年に始って同一八四八年に終り、カリフォルニアもまたアメリカのものとなり、これとほとんど同時に金鉱がカリフォルニア州に発見されたが故に、その採掘のために東部より西部へ盛んに移住を初め、ますますアメリカの東部と西部との連絡の必要を痛切に感じましたが、当時いまだ大陸横断鉄道も容易に建設されるに至らず、自然あるものはマゼラン海峡までも回航し、またあるものはコロン(Colon)まで船で行って陸路パナマ地峡を横断し、パナマから再び船でサンフランシスコへ行く順路を取っておりましたが、西暦一八四八年にはウィリアム・ヘンリー・アスピンウォル(William Henry Aspinwall)、ジョン・ロイド・スデペンス(John Lloyd Stephens)及びヘンリー・チョンシー(Henry Chauncey)等が時のニューグラナダ(New Granada)共和国よりパナマ鉄道(Panama R. R.)を建設するの権利を獲てコロネル・ジョージ・エム・トッテン(Col. Geoge M. Totten)、ジョン・シー・トラウトワイン(John C. Trautwine)が技師となって遂に西暦一八五五年一月二十八日にパナマ地峡横断鉄道を竣工致しました。時にマラリアや黄熱病等の流行病に襲われまして続々と倒れるものが甚だ多く「パナマ横断鉄道はその使用する枕木の数だけの人命を価いせり」("Panama R. R. cost the life of a man for every tie")という言葉さえ残っております。西暦一八五〇年より同一九〇一年に至る間は種々なる外交上の交渉の末、ヘイ・パンセフォト (Hay-Pauncefote) 条約が前のクレイトン・バルワー(Clayton-Bulwer)条約を取消し、この条約によりて「アメリカ人によって築造され、アメリカ人によって支配されるアメリカの運河」("An American Canal, built by Americans and controlled by Americans ")という題目がやや実現されるに至りました。

 西暦一八七九年より同一九〇二年に至る間はフランスが運河開鑿の事業経営を掌握した時代であります。フアヂナンド・デ・レセップ(Ferdinand de Lesseps)が西暦一八六九年にスエズ運河を竣成し、その大なる誉望[編者:與望の誤植か]を担って三百余年来の懸案たる両米大陸を横断し、大西太平洋両大洋を接続する大運河開鑿の大抱負を抱き、西暦一八七一年にはアントワアプにおいて、また西暦一八六九年にはパリにおいてサイエンチフィック・コングレスを開き、その発展を促し、遂に西暦一八七九年五月十五日、百三十五人の委員(Delegates)(内四十二人は技師Engineer)を集め、その決議により二億一千四百万ドルを投じて十二年間の継続事業としてシー・レブエル運河(Sea Level Canal)をパナマ地峡(Isthmus of Panama)を通じて開鑿する事に決しました。而して西暦一八七九年八月(明治十二年)にレセップは七十五歳の老躯を提げてその事業に尽瘁し、八千万ドルの株式を以てコンパニ・ユニバーサル・カナル・インターオークシャニク(Compagnie Universelle du Canal Interoaceanique)を組織しましたが、応募額僅かに六百万ドルに過ぎませんでしたが、遂にこれをもって測量調査を始め西暦一八八二年一月いよいよ工事に着手しました。当時なお未だマラリアや黄熱病の蚊伝播論(Mosquito theory)の発見もなく、あまつさえ諸種の衛生設備極めて不完全にして流行病のため倒れるもの続々と生じまして、時代の人をして「食えや呑めや我らも明日は死するやも知れざるなり」(Eat drink and be merry, for to-morrow you may die.)を呼ばしめたのであります。

 [レセップスの運河計画は失敗に終り、その後アメリカにおいて企画されたニカラグア線の企画も失敗した。一九〇二年にアメリカ議会でスープナー・アクトが通過して調査し、ルーズベルト大統領にウランスの運河会社から財産と権利を買収し、コロンビア共和国と条約を結ぶ権能を与えた。一九〇三年十一月パナマ州はコロンビア国より分離し、アメリカはこの新共和国と運河の中心線より両方へ五マイルまでの広さの地帯をパナマから譲り受け、警察権・衛生規則励行・運河建設の権利を得た。またフランスの運河会社から既成工事の財産その他の特権を買受、一九〇四年五月に引継ぎを終えた]

 私が明治三十六年彼の地へ向けて≫出発するに際しー彼の地に着いたのは明治三十七年の夏でありましたー大学の先生は("Panama R.R. cost the life of a man for every tie")という語を繰り返して健康に注意された位で、上は技師長(Chief Engneer)より下、人夫に至るまで働き人を集むるに非常なる困難があったのであります。しかのみならず本国ではパナマ運河を開鑿する権利等のために五千万ドルも支払うた事故、一日も早く竣功を見たいという、その所でそのアメリカ人の希望を満足せしめんがために衛生を顧慮する暇なく、専ら工事の進捗に務めました。これがため西暦一九〇五年頃は黄熱病やマラリア等の悪疫猖獗を極め、陸続として本国に逃げ帰るものもあり、またパナマへ来航する途中種々恐ろしき話を聞かされてコロンの港へ着くや、その所に茫々たる沼沢を見て彼の所に「死が住んでいる」といって次の便船で本国へ帰るものさえ出来ました。一方運河委員の間においても互いの意思の疎通を欠き、頭に来て采配を振る人が続々交代して事業の統一を欠いて来ました。即ちジョン・エフ・ウオレイオス(Jhon F. Wallace)は一九〇四―一九〇五年、ジョン・エフ・スティーブンス(Jhon F. Stevens)は一九〇五―一九〇七年というふうに技師長の交代がありましたから、遂に勝手にやめることの出来ない陸軍工兵技師(Army Engneer)をしてこの任に当たらせました。かくのごとくにして組織を改良すると同時に種々なる方法によって衛生工事だけに八年間におよそ三六五万ドルを費やし、黄熱病を伝播するスデゴミア(Stegomyia)やマラリヤを伝播するあのフエレス(Anopheles)を撲滅する事に勉めました。家屋には金網を張り、また下水工事を施し排水を良くし、蚊の発生を防ぎました。これがために蚊は著しく減少して私が西暦一九一一年(明治四十四年)の暮れに帰る頃にはアメリカ人の住める部落には蚊はいないようになりました。また一方において従業員をして倦まざらしめんがためにクラブを作り運動を奨励し、工事従業員には家屋家具は元より灯火、石炭等の日用品に至るまで無料貸与あるいは供給し、かつ政府直営の百貨店を開き物品を廉価に供給し、冷蔵庫、洗濯屋の設備をも設けアイスクリーム等まで作り、また毎朝四時には二十一台を連結したる貨車をもってクリストオボル(Cristobal)よりパナマに至る沿道の従業員に氷その他の食糧品等を供給し、独身者のためには食堂またはホテルを経営し一食三十セントをもって食事を供給し、また年六週間の休暇を与え温帯において静養せしめ、かつ一か月の病気欠勤をも許し、あらゆる手段を尽くして従業員の便益を計りました。かくのごとくして従業員は安心してその地に働くようになりましてこの運河開鑿工事の成功は疑いなくなりました。

(以下、パナマ運河の概要が続くが本集においては省略する)

 余録

 私は学校にいる時、スエズ運河が有名なる仏国の技師レセップ伯によって開鑿せられた事を聞きました。またパナマ運河も同伯によりその工事を始められたが失敗に終った事をも聞いておりましたが、明治三十六年学校を出る少し前に東京経済雑誌に出ていた峰岸氏の視察報告だの、その他の書物及び広井教授のお話よりその運河開鑿工事に興味持つ事になりまして、終にとにかく機会を得れば彼の地に渡ってその仕事の一部に従事してみたいという希望を抱いておりました。而してその時の環境心境からして父母兄姉の了解は得ておりましたが、同年七月十一日に卒業式を終るとそれらの人達に会わずして八月十一日に四、五人の友人に「我汝に命ぜしに非ずや。心を強くし且つ勇め。汝のすべて往く処にて汝の神エホバ偕にいませば懼るることなかれ。戦慄なかれ」(ヨシュア記第一章第九節)の言葉を以て送られて横浜港を後に旅順丸(四千トン位の船と覚ゆ)(1)の三等先客となって幻を逐ってまずカナダへ渡り、直ちに米国へ入りました。而してワシントン州のシアトル市付近において種々なる労働に従事してその時の至るを待っておりました。然すると前歴史の所において申し述べましたような具合で一九〇四年二月、パナマ共和国と米国とが運河条約の批准を交換しましたから大丈夫、同運河工事は遂行せらるるものと見当を付け、私の小学校時代の先生でその後種々お世話に預った森三郎先生及び当時シアトル市におられ、後日本へ帰り、代議士になられた服部綾雄様等のご援助により米国西部を出発して大陸を横切り、三月中旬にニューヨーク市に着きまして、当時米国のイスミアン・カナルコミッショナアの一人なるコロンビア大学のウィリアム・H・バア教授へ広井教授の紹介状を持って行って運河工事に就職方を依頼しましたが、いまだ出発する組も定まらない故、今少し待っておれという事でありました。異郷の空で金もないのにノンベンクラリンと遊んでいるのも知恵のない事と思い、その間何か働く事はないかと尋ねますと、親切にニューヨーク・セントラル・エンド・ホドソンリバー鉄道会社へ紹介状をくれまして、ニューヨーク市給水のために新クロトン堰堤の築造に当りクロトン湖の水面が上り、そのためにその付近にある同社線を変更せねばならなくなった。その線路変更工事へ働く事になりまして、ニューヨーク市の北四十八マイルのマウント・キスコ町へ行き、身長六尺以上もあるノルトンというセシデント・エンジニアの下に働く事になりました。初めは言葉も出来ず、常に必要なる数の聞き取り、言い出しがなかなか出来なくって二週間ばかりは下宿に帰るとその練習のみに費やしました。而して弁当持ち、杭持ちからちょっとした試験を経て、水準儀及び経緯儀を持たせられる事になりまして、時には汽車に乗り後れそうになって、その六尺男がトランシットを担って停車場まで走る後を追っ駆けたり、また一心に線路中にトランシットを据え、曲線を打ちかえている時、急行列車が後方より驀進して来て、将に轢かれんとする所を危うく助かった事がありました。しかしその仕事には無理に働かして貰ったという事情もあったものですから、ノルトン氏が骨を折ってくれましたが、終に一文にもならず、ただ働きの形でありました。しかしこの二か月にわたる仕事の練習は将来パナマに行きまして直ちに役に立ちまして、非常によかったのでありました。そのうちに前に依頼しておいたバア教授のご尽力により、いよいよイスミアン・カナル・コミッションの職員の一人となることになり(2)、またその当時ニューヨークの副領事(?)であった永井松三・学兄等のお世話になって、遂に同年六月一日ニューヨーク港でユカタンという船の中で契約書に自署して工事従業員の一人となり、同日同港を出版して同月七日の午後熱帯夕陽の照らすコロン港に着船しました。この辺のカリビアン海はある西洋の小説家の書いた灯台守という小説のロケーションに似ている所でありまして、この港はそテキスト ボックス:   Beyond the Chagres.
Beyond the Chagres River Are Paths that lead to death
To the fever’s deadly breezes, To malaria’s poisonous breath!
Beyond the tropic foliage, Where the alligator waits,
Are the mansions of the Devil- His original estats !
Beyond the Chagres River Are Paths fore’er unknown,
With a spider neath each pebble, A scoion neath each ston.
Tis here the boa-constrictor His fatal banquet holds,
And to his slimy bosm His haples guest enfolds !
Beyond the Chagres River Lurks the couger in his lair.
And ten hundred thousand dengers Hide in the noxious air.
Beyond the trmbling leaflets, Beneath the fallen reeds,
Are ever-present perils Of a million differrents breeds !
の当時は不潔で、また善い宿もありませなんだ故にその晩は港の中で船中に泊まりまして、翌日各人は蚊帳と毛布一枚までとを渡され、この所より七マイル余り離れたボヒョというシャグレス河の岸にある村へ落ち付く事になりました。

(1) 高崎哲郎氏はシアトル郊外の米国国立公文書分

館で、明治三六年(一九〇三)八月の入管記録の「旅順丸」の記録から Aoyama Akia と書かれた記録を発見した。旅順丸は八月十一日に横浜を出て同月二六日にシアトルに入港した。二四人の日本人客が乗船していて、青山は二四歳十一か月で、civil engineer であり、Shizuokaken の出身である。渡航料は自費で、カナダのヴィクトリアで下船したと記されていた。(「発見!青山士の米国入国記録」)

(2) 「一九〇四年五月三十一日Akira Awoyamaボイ

オ支局トリニダト川測量隊の測量補助員として三か月間臨時雇用する。無試験採用バー教授の紹介。月給七五ドル。肌の色黄色。国籍日本人」(写真集p.15)

その晩は元仏国の運河会社の建てた古びたる汚い古家の石炭酸水で洗いて、その香りが残っている、而して屋根裏に何千匹というコウモリとアブラムシがギイギイ啼いている所へ寝たのであります。それ以後もこの所を宿舎としておりました。それから二、三日して測量、ボーリング等の機械が到着して測量及び地質調査の準備に掛り、まず初めにポヒョの堰堤予定位置の測量と地質調査に従事し、それから堰堤予定位置がガトウンに変更せられるようになってからガトウン人工湖の貯水面積地形調査に移りましてバス・オビスポからシャグレスの河の上流へ遡り右枝カトウンシュ河から分水嶺を越えアグア・スシアからガトウン河を下り、ガトウン村に出で、またシャグレス河の左の一大支流のトリニダッド河へ遡り天幕生活を続けました。大概この野外測量隊の本部には組長一人または外、米人エンジニア五、六人の割にて一人に土人労働者四、五人の割その他荷物糧食運搬及び料理人五、六人で我々は天幕中の帆布のコットに蚊帳を吊って寝、土人は大概パームの種類の葉にて葺いた掘建て小舎へパームの一種の幹を割って開いて板のようにした床を造り、その上にアンペラのようなものを敷き、毛布一枚位へくるまって寝るのであります。測量には見透しがきくようにいわゆるトロピカン・ジャングル(熱帯叢林)をバイ・インチ切り開いて行かなければなりませんから、なかなか労力を要するのでありますが一方には一度二人位しか働けませんから大概一組に五人位を配して交代に二人ずつそのジャングルを刃渡り約二尺五寸、柄はようやく二た握り位の日本刀型のものと清龍刀型のものとを振って切り開いて行くのであります。その刀をマチエッテと申しまして、なかなか便利なもので、土人の腕もなかなか利いております。バナナの幹の径五寸位のものは一刀にて切りますし、また径一尺位の樹なれば斧を用いずして伐り倒します。また仕事の都合により、その仕事場への往復は三時間ないし四時間を要するようになりますれば本部を移すか、さなくば、支部を置く事になります。これはなかなかひどきもので米国人が二、三人行く時は天幕を持って行きますが、独り二人の時は土人と同じくパーム葺きの掘建て小舎を建て、それに折畳みの出来る帆布のコットを持って行くのであります。私はしばしばこの支部へ行った事がありましたが、その内一度ただ独りで土人労働者五人及び一人の糧食運搬兼料理人を率いて行っていた時、下痢症に罹り、一昼夜十四、五回の下痢にてそれも相当の便所はなく、ジャングルの中に二本の大木を伐り倒して並べてある位のものであります故、夜中ランタアンを提げて行く等なかなか苦しくありました。而して医師は無し。本部からは誰も来てくれなかった故、三、四日絶食療法を試みました。而して料理人が山鳥を獲て来てくれて、そのスープにておいおい力を付けて一週間目位に、また測量に出た所、眩暈を起こし、土人に背負われて帰った事等もありました。また一度はアグアシア(スペイン語の濁水の義)の上流において組長と労働者との間の些細の行き違いより土人に同盟罷業を起こされまして遂に米人が例のマチエテにて測線を切り開き、一米人をロッドマンとして私が水準測量をやった事もありました。その時、一日仕事に出て、幅五間位の谷川を渉りて、その向う側にて仕事をしている中に非常なる急雨があって、急に水が出て濁水トートーと流れ、水嵩を増し、その谷川の幅も倍位になって渉るに渉れず、終に泳ぎ越す事になりまして、私が最も後になって測量野帳のカバンを頭に結んで、泳んで将に対岸へ着かんとする二間ばかりの所でその野帳カバンが下へ流れて行ったにの気が付き、その後を逐い、それを口にくわえてずっと下流に流されて対岸に着いた時は疲労して、ようやく岸に這い上がり、暫くは動く事も出来ませんでした。而して翌日その下へ行って見たれば、その所に瀧があって、今少し下流へ流さるれば、最早この世のもので無かったであろーとゾットした事もありました。またある時は山猫に出あいたり。マチョとて犀を小さくしてその角を無くしたような強力な動物で、ほとんどどんなジャングルでも、その鼻の先と体にて突入して行くようなものにも出あいましたが、余り大きな蛇には出会いませなんだ。しかしサソリ、カメレオン、アリ、これにはなかなか多くの種類がありまして、ある者に喰い付かれますと(頸筋等を)頭が痛み、顔が腫れたり、また手等を咬まれると手が痛み、わき下にグリグリが出来たり致します。また蜂も至る所に巣食うておりまして、一日に数度打ち付ける事があります。コメヘンと土人が称する蜂(コメヘンとは、スペインのコメ、食う、ヘンで、人間の詰りしものでありましょー)は人がその巣の近所を通ると上より翔び降りて来て刺すという始末におえないものもありました。また乾燥季になりますとダニが所々におりまして毎日それに取り付かれて困った事もありました。ワニは私どもの働いていた近所に余り大なるものはおりませなんだ。大きなものでも約七、八尺位でありましたが、アグアドルセという河の方へ行きますと二間以上のものもいて、時々物好きに殺生に行ったものもありました。また時には河の縁の村落の近くへ天幕を張った時等は、フェスタ即ち祭りで出あって田舎の盆踊りのような踊りを見たり、白き人魚が河の中で泳いでいるのを見て、ある者は顕(うつつ)をぬかしたり話もありました。また雨季には朝から晩まで雨に湿れ、または一日沼地に入り腰の辺まで水に浸かった事もありました。要するに熱帯無人の境における測量はなかなか費用を要するのみならず、天然との戦争で大なる苦痛の伴うものでありますが、今に成りて顧みると血の沸き返るを覚えて愉快の事もあります。而してその天幕測量隊の労務は現場へ行き戻りの時間に合わせて九時間位でありますから、キャンプに帰ってからは、その日の測量の野帳を整理し計算する事のあるものは計算を為し、誤差を見い出せば翌日直ちにその所へ行って、その訂正を為す事とし勉強且つ精力のある組長はその夜中にその日に出来た測量の結果をPlotし、図面に書き入れ、それによって、また翌日の仕事をそれぞれ割り当て翌朝 Party が出て行った後に昼寝をするという具合に仕事を進めて行きました。かくのごとくして二年余りの天幕生活をしてその測量を終った頃に、前に申し上げたような計画の運河が出来るようになって、私はガトウンへ戻り、ガトウンの堰堤及び閘門等に関する精細なる測量、続いて余水吐、堰堤、閘門、工事の施工に必要なる線及び勾配即ち種々のやり方のステーキ・アウトに従事しておりました。一体この運河工事に従事する職員は日給にして歩増を儲くるものの外は役所の仕事の忙閑により一か年の中に六週間の休暇(もちろんその間の給料は支給せらるるもの)を取り、その間を温帯地方において休養のために費やすことになっておりまして、その所に至る汽船賃は非常なる割引を為し、その特典をその家族までにも与えられました。また一か年を通して三十日の病気欠勤はその間の給料は支給せられ、また無料にて官設の病院へ入院治療を受くる事が出来、それ以上は給料は支給せられないが無料にて入院治療を受くる事が出来るようになっておりました。また私どものように天幕生活を余儀なくせられていたものには、その期間はかなり上質の食料品をただで支給せらるる事になっておりました。それで米人は働く事も善く働きまして測量等の撰点は必ず組長が先に立って行きます。また器械はその測量中、測点より測点まで運び据え付くる等は皆測量技師がやります。また幾ら山の中でも日曜祭日は万止むを得ざる急の仕事でない限りは休養する事になっておりました。而して気温は乾燥季、即ち十二月より翌年四月の初めまでは夜明方は華氏の六十度位まで下降する事があります。左様なる時は常に八十度以上の温度に馴れているのでありますが、故に指の先等は感覚を失う事もありましたが、日中は大概八十度以上でガトウン閘門築造中等は深さ八十尺もある閘門の室の中でコンクリートの上では百十度以上になり暑いのみならず日光の反射で目が暗むような事もありました。湿度はなかなかのもので、クレプラの分水嶺の太平洋側は大西洋側に比すれば雨量も少なくありましたが、私のいたガトウン等においては一年の雨量三千六百ミリ位に達した事もありまして、帽子、衣類、書籍等の黴ることは夥しく、靴等は雨に湿れて、その侭明朝まで置けば青かびが生ずるという有様で、雨季はあまり気持の良い所ではありませんが、衣服は極めて簡単で、役所にて仕事中はDivision Engineer(所長)以下皆、上、シャツ、カラア、ネクタイ、ズボンという出立ちで、上等のホテルの外、一般食堂にても上衣御免でございました故、上衣を着る事は他を訪問する時位で、年に数うるほどでありました。話が少々横道に入りましたが、その後は事務所へ入って一九一一年十一月十一日、パナマ運河地帯を去るまで、設計製図の内業に従事しておりました。而して私が設計して残してきたうちで、ガトウン閘門の湖水の方の翼壁及び下流の中央繋船壁及び小規模ではありますが、ガトウン村の給水工事中の鉄筋コンクリート造のアグアクララ・フイルトレーション・プラントは私が帰る時は百分の七八十出来ておりましたが、その後、出来上がりの写真を見ますと取水口、沈殿池、ラピッド・メカニカル・サンドフイルタア、浄水池、ポンプ小屋及び試験所等、皆設計通りに出来ているのを見ますと、少しは働きがいがあったように感ぜられます。而してこれは余談ではありますが、その小規模ではありますが、アグラクララ給水工事中の貯水池を作りました時、東京市が東村山村の貯水池を作ったように土堰堤を築いて、水を湛え、その浸水区域は一度は草及び樹木及びその根を掃除しましたが、水を貯えると数か月にして藻が生じ、田んぼ水臭くなって困りましたから、沈殿池へ取水口の所へバファアを作り、その所へパーホレーテッド・パイプより水濾砂を洗うに用いる圧搾空気を送りエリイリエイト(Airiate)したれば、その臭みも取れ、またアルジイ(Algae)のために濾水速度を殺減せらるる事を免れたように思われます。その道の人のご参考までに付け加えて置きます。而して一九一〇年の運河地帯のセンサス(Census)に依りますれば私は同地に働いているイスミアン・カナル・コミッションのただ独りの日本人土木技師でありました。この私の七年半のパナマ滞在中、日本人が同地を訪れてその方々にお会いしたのは、ただの五度でありました。最初は西暦一九〇六年頃その時はサンフランシスコの日本総領事であられた上野季三郎様と西尾ドクトルが視察に見えられ、おの次は京都帝国大学教授であった神戸正雄様、この方は私がちょうどガトウンからカヌウ(これは本当の丸木舟で土人が大木を彫り抜いて造るもので幅七五センチ、長さ八メートル位のもの)でほとんど一日掛る所のキャンプにいた時に尋ねて来られたので、キャンプへ一晩泊めて戴きました。次は管船局長をしておられた内田嘉吉様とその同行の梅村貞明様でありました。それは私がキャンプ生活からガトウンへ来てからの事で、その次は衆議院議員の森格様、その次は八代海軍中将の率いられた練習艦隊がパナマへ入港した時で、今の横須賀海軍鎮守府長官長谷川海軍大将がいまだ中尉(?)の時、臼井国様と共に多くの士官候補生を連れて運河見学に上陸せられ、私はその当時、運河工事に働いているただ独りの日本人としてガトウンからコロンまでご案内致しました。またこれは前の方々とは異なりますが、三重県の人だと申しました名前は忘れましたが、この人は私と同じように出稼ぎに出た大工さんで初めペルーへ行ったところ、労働が烈しく賃金が安いというので避けてパナマまで来たところ、日本人なる私がいるという事を聞いて、私を頼みに来ましたので、パナマ鉄道会社へお世話を致しましたが、後に船大工として英国の船(?)に乗られました。その後いかがしたか消息はありません。かくのごとくして藤村先生の詩にあるように、いずれの日か国に帰らんと思いながら、遂に帰れなくなって異郷に骨を埋むる人は幾人あるであろー、しかし、これらの人達及び意識的に異郷に骨を埋むる人達によって民族の発展は遂げらるるものであれば、それらの人達に対しては深甚の敬意を表したいと思うのであります。

次の詩は私がパナマ地峡に働いている間に、一人の親友より書き送ってくれたもので、それを故郷を離るる数千里のヤシの生えている彼の地において、ただ独りで読んだ時は実に感慨無量でありました。

    椰子の実

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ

故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月

旧の樹は生ひや茂れる 枝はなほ影をやなせる

われもまた渚を枕 孤身の浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば 新なり流離の憂

海の日の沈むを見れば 激り落つ異郷の涙

思ひやる八重の汐々いづれの日にか国に帰らん

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