酔眼教師の乱雑日記

節分会とその由来

「節分の由来と行事」

 節分という言葉は、”季節が分かれるとき”という意味ですから、本来は立春、立夏、立秋、立冬などの前日はすべて節分ということになります。ところがいつの頃からか明確ではありませんが、もっぱら立春に限っていうようになりました。
 もともとは中国から伝えられた習俗ですが、我が国でも広く行われるようになり、さらに春を迎えるにあたって邪気や災難を払い、新しい年の福善を願ったことから、節分と追儺(ついな)の習俗が生まれました。
 追儺(ついな)の行事は「鬼やらい」「なやらい」「鬼走り」「厄払い」「厄おとし」「厄神送り」等と俗に称せられ、疫病などをもたらす悪い鬼を駆逐する行事をいいます。我が国で、この追儺(ついな)の行事が行われたのは、文武天皇の慶雲三年(706)に宮中で初めて営まれたことが「続日本紀」に書かれています。その記事によりますと、慶雲三年には諸国に疫病が蔓延し多くの死者が出たので大いに「おにやらい」したと記述されています。
 宮中では官職の者が鬼の姿をして災害や疫病などの災いに見立て、また黄金の仮面に矛(ほこ)や盾(たて)を持った者が豆を撒きながら悪魔悪鬼を追い払い新しい年を迎えたといいます。
 後世になりますと、一般の神社やお寺でも節分の夜に豆まきが行われるようになりました。江戸時代になると宮中の行事ではなくなり、民間で広く行われるようになり今日に至っています。豆まきの方法も地域によっていろいろな風習がありおもしろいものです。

 山形市史の生活・文化欄には、豆まきの際「福は内福は内、鬼は外鬼は外、天打ち地打ち四方打ち、鬼の目ン玉ぶっつぶせー」と大声で唱えるとあります。この豆は災難よけになるといってとっておき、山へ行く時や遠出の時に食べます。また自分の年の数だけ食べると、福が授かると信じられています。神を恐れ自然を敬う姿勢がうかがわれます。
 一般的には「福は内、鬼は外」というのが普通のようですが、東京雑司ヶ谷の鬼子母神では「鬼は内、福は内」といいます。「鬼は外」といえば祭神を追い出すことになってしまうからだそうです。
 同じようなとなえごとは山形県山辺町にもあります。JR山辺駅から北西に約3キロ山辺町大寺地区に「鬼の目」という処があります。この珍しい地区の由来というのは 《昔、赤鬼と青鬼が隣村の黒鬼にいじめられていたのを村の男が助けた。二匹の鬼はお礼にと片目をそれぞれくれた。一つの目は天を見る目で天候を早く察知できる。もう一つの目は地を見る目で水のわき出るところが分かるという重宝なもので、村は豊作となり潤ったというのです。そして男亡き後、村人はその二つの目玉を岩の中に埋めて霊を慰めたという。以来岩肌には丸い石が増え続け、後の世も村人達の目には鬼の目のように映ったことからこの地名が生まれたという。》 以来、鬼の目に住む人達にとって、節分で豆まきをするときのかけ声は「福は内、鬼は内、鬼はござんしょう(よくいらっしゃった)」という豆まきをする習慣がむかし昔から伝わるという。
 さらに、奈良県吉野山の蔵王堂においても、「福は内、鬼も内」というそうです。こちらの場合は、鬼を集めて、お経の功徳、仏の力で改心させようというのであります。
 縁故ある西村山郡大江町の巨海院の本堂屋根には150cm以上もある木彫りの面がかけられています。「悪いことをすると巨海院の鬼に食われるぞ」と子供に話す親の姿は今でもかわらないようです。「魔よけの鬼」であって「悪鬼」ではないのですね。それを、裏付けるように、山形市漆山の真壁さん宅の節分行事では、他の家々で豆まきが始まる頃、他家から追われた鬼を門まで出迎え、客人を案内するかのように奥座敷に招き、坐布団に坐らせて丁寧に挨拶、酒やご飯をすすめるという行事が今でも行われているそうです。
 山形県天童市の若松寺では、豆まきそのものをしないという「鬼やらい」の儀式を営むことで知られています。若松寺では全国の鬼を呼び集めて供養する修正会(しゅしょうえ)がおこなわれます。これは、鬼を一方的に追い出すだけでは真の家内安全につながらず、身を清めて真人間にすることが本当の供養との考え方なのでしょう。和銅4(711)年の開創以来伝わる全国的に珍しい儀式です。
 一方、当寺での豆まきの言葉は、これもいつの頃からか不明ですが、「福は内福は内、鬼は外鬼は外、天に花咲き地に実なれ、鬼の目ン玉ぶっつぶれろー」と威勢がいいのです ・・・ 少々あらっぽい気もする唱え言葉です。私が小学生の頃からこの「となえごと」を「当然のように」大声でやっていたものですが、仏教を学ぶにしたがい、「こんな慈悲のなさそうなやりかたでいいのかな」と考えるようになったものです。
 一般的な「福は内、鬼は外」のやり方で鬼を一方的に追い出すのでは確かに外の世界は鬼だらけになってしまうような気もします。その点、若松寺の儀式はなるほど慈愛のある「鬼やらい」の儀式のようにも思います。
 ところで、当寺では今年もやっぱり、少し気恥ずかしさを感じながら「福は内福は内、鬼は外鬼は外、天に花咲き地に実なれ、鬼の目ン玉ぶっつぶれろー」と豆まきをした次第であります。
 私は鬼を虐待しているつもりでも、いい加減な気持ちでやっている訳でもありません。
 その根拠たる、鬼の歴史をごく簡単にふりかえってみましょう。
 [日本書紀」斎明天皇7年(661)8月には、大笠をかぶった鬼が天皇の御大葬をのぞき見ているという記述があるようですが、ここでは危害を加える鬼というのではありません。鬼が暴れ出すという記載が見られるのは奈良時代に入ってからというのです。「日本霊異記」や「今昔物語」などには、行きどころのない横死者、祀られない霊といった死霊・怨霊が鬼となって、その場所を訪れた人間に危害を加えるといったタタリとしての鬼の存在が説かれています。
 ところが、室町時代になると、恐ろしい鬼の面影はなく、ユーモラスで逆に人に恵みをもたらすという鬼が登場します。たとえば、「一寸法師」では、一口で鬼に呑み込まれてしまった一寸法師が、針の刀で鬼の腹を突きまくると鬼は降伏します。あわてた鬼は望みの物を何でも出すことの出来る「打出の小槌」を置いて逃げてしまいます。姫君が小槌を振ると、一寸法師はたちまち大きな若武者になり金銀財宝を打ち出し、姫と結ばれハッピーエンドという物語です。
 年中行事の上からも招福的な鬼として、秋田県のナマハゲ、屋久島のトシノカミ、沖縄の赤マタ・黒マタなど「幸せをもたらす鬼」が登場します。このように、鬼には「恐ろしい鬼」と「幸せをもたらす鬼」の二種類の鬼が存在することがわかります。

 節分会には鬼に豆がまかれますが、これは中国の習俗をそのまま伝えたものです。すでに、我が国にも米をまいて悪霊を払う呪法がありましたので、豆をまくことが容易に受け入れられたものとみることができます。  豆まきをする人を「年男」といい、神仏への飾り付けを勤める縁起の良い役の人のことで、一般家庭では一家の主人がこれにあたります。  当寺では豆をまきおわってから、それぞれ自分の年の数だけこれを食べ、この豆は災難よけになるといって取っておき、山へ行く時や遠出の時に食べます。自分の年の数だけ食べると、福が授かると信じられていたというのは山形市周辺と同じ風習のようです。
 また、節分には昔から鰯の頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺して、鬼門や門口にはさむ風習があります。悪い鬼は鰯の臭いのと、柊は「鬼の目突き」といってトゲがあるので逃げ出すのだと説明されています。鬼門とは北東の丑寅(うしとら)の方角をいいます。そういえば、鬼は牛の角を持ち、寅の皮のパンツをはいていますがこれは偶然なんでしょうか。
 一般的には生まれるのはめでたいが、老病死は不吉と見てしまいます。しかし、生まれるという「生」には必ず老病死はくっついているのであって、めでたい生だけとって、老病死は捨てようとしてもできない相談です。考えてみるば、充たされないというのは充たそうとするからです。充たそう充たそうとするのは充ちていないからです。充ちていないものを仏教では餓鬼と示します。充たしても充たしても充たされたと思えないのを餓鬼というのです。
 ですから「福は内鬼も内」と仏教的な理に適っていても、或いは、懸命に「福は内鬼は外」と呼びかけながら、実はその本人が「餓鬼」というのでは、「福は自然に逃げてしまい、鬼が常に内でがんばる」ということになってしまいます。 

「腹立たば 鏡を出して 顔を見よ 鬼の姿がただで見られる」という俗諺もあります。 

 お釈迦さまは、福だけを取って禍をのがれようとし、徳だけを取って損をしまいと思い、楽だけを取って苦をさけようとするような幸福追求の鬼ごっこをやめなさいと、人生は「苦」であることを前提として示されます。その苦の原因をたずね、苦を除く道を示されるのです。つまり、豆まきという「行事」は、私たちのむねの中にある迷いの邪鬼を追い出して、幸せに人生を送れるようにという反省と願いが込められているのじゃないでしょうか。 邪鬼をほうっておくから、邪鬼がどうも増えているように感じるのですが ・・・


「福は内福は内、鬼は外鬼は外、天に花咲き地に実なれ、鬼の目ン玉ぶっつぶれろー」


 (しあわせ地蔵の寺 曹洞宗 長泉禅寺
 http://www.ic-net.or.jp/home/yaguchi/index.htmから全文を引用しました、ご住職のご了解も得ております)




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