酔眼教師の乱雑日記

空間考



「空間」とは、私的なものか、公的なものなのだろうかと。
最近、空間に対する気遣いが希薄になってきているように思うのは、小生だけでしょうか。私的空間以外は、他者と共有している公的空間であるという意識がなくなっています。一例をあげれば、最も公的空間ともいうべき電車、携帯電話で声高に話す人、化粧をする若い女性、足を投げ出す青年(親父もいるか)、荷物を座席に置く小母さん、べたべたするアベック、目を覆いたくなる惨状です。その人たちにとっては、自分という空間しかなく、空間とは広がりを持った、他者との関係で出来上がっている場であるという認識が出来ないのでしょう。同じような現象が、大学のピロティや教室など、校内全体でも見られます。乱雑におかれた自転車などその典型でしょう。大学の施設のあり方にも問題は多々ありますが、社会的秩序と規範を学ぶべき場でもある学内の現状に、寂しさとともに怒りを感じることも多いです。
 ニューヨークで生活していた26年ほど前、地下鉄の落書きや、化粧をする女性を見て、驚いた記憶がありますし、テレビでは毎日殺人事件の報道がありました。まさか20数年後、日本で同じ現象が起こるとは思いませんでした。さまざまな原因があるのでしょうが、情けないという感情をもつのは、小生が歳を取った証拠でしょう(酔眼でみているせいもあるのだろうな)。
 戦後、あらゆる分野でアメリカを模範として追随してきましたが、真似をしなくてもいいことも多いのです。「ミーイズム」などはその際たるものではないでしょうか。農業社会であった日本には「結」による「協労・共生」の思想が根底にあり、貧しくとも、たえず、他者への「思いやり」や「気遣い」があったはずです。言いかえれば、共生のためのルールや規範がありました。農業社会の規範やルールは、工業社会、情報社会へと基軸が変わるに従って、変質するとは思いますが、第一に経済的豊かさを追い求めるとしても、人間社会であるかぎり、変わってはいけない思想・価値観・規範は存在すると思います。たとえば、「命の価値」が時代とともに変わることはないと思います。
 他者への「気遣い」や「思いやり」は、人間として、いつの時代にあっても忘れてはならないことではないでしょう。しかし、今の日本では、他者に対する「やさしさ」・「思いやり」・「気遣い」を知り、学び、身につける機会や場が少ないのでしょうね。それらは、日常の家庭生活や社会生活の中で、自然に身につけていくべきことなのではないでしょうか。
 一人一人の小さい空間が、「思いやり」・「気遣い」の満ち溢れたものであることを期待していますし、これからの日本社会が、経済的な豊かさよりも、精神的に豊かさを感じられる世の中になればと、願わずにはいられません。

 どうも、お説教調だなー。でも、考えてもらう機会にはなるかな。


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