闘魂 サバイバル生活者のブログ

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ニヒリズムの克服

チェ・ゲバラの生涯 、というサイトがいい。

最近は僕も保守的になっていて、金融資本や軍産複合体、信用創造や中央銀行システム、CIAやマフィアの悪行を叩く勇気がなくなっていた。

チェ・ゲバラの最期のセリフを読むと勇気が出るので、引用する次第。

このセリフが意味を持つには、彼の人生がどんなものであったかを知らねばならない。ぜひ、このサイトへ飛んで行って、チェ・ゲバラの生涯を知った上で、この彼の最期のセリフを味わってもらいたい。

(引用はじめ)

そして運命の1967年10月8日、ボリビア山中でCIAのゲバラ追跡部隊に指揮されたボリビア軍に捕らえられ、その翌日、全身に弾を撃ち込まれて射殺された。捕虜として収容所へ送られるのではなく処刑されたのだ。最期の言葉は上官の命令でゲバラに銃口を向け、ためらう兵士に叫んだ「ここにいるのは英雄ではない。ただの一人の男だ。 撃て!臆病者め! 」。39歳の若さだった。

ゲバラの遺体はすぐにヘリコプターで近くの町バージェグランデまで移送され、そこで“ゲリラのリーダーが死んだ証拠”として、見せ物のように晒された。人々が見学に訪れると、ゲバラは目をしっかり見開いたまま死んでいた。その死に顔があまりに美しかった為、「まるでキリストだ」と胸で十字を切る者までいたという。

ゲバラはキューバを去る時、カストロに別れの手紙を送っていた。

『フィデル、僕は今この瞬間多くのことを思い出している。初めて君と出会った時のこと、革命戦争に誘われたこと、準備期間のあの緊張の日々のすべてを。死んだ時は誰に連絡するかと聞かれた時、死の現実性を突きつけられ慄然とした。後に、それは真実だと知った。真の革命であれば、勝利か死しかないのだ。

僕はキューバ革命で僕に課せられた義務の一部は果たしたと思う。だから僕は君に、同志に、そして、君の国民達に別れを告げる。僕は党指導部での地位を正式に放棄する。大臣の地位も、司令官の地位も、キューバの市民権も。今、世界の他の国々が、僕のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、僕には出来る。別れの時が来たのだ。

もし僕が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向うだろう、とりわけ君に。僕は新しい戦場に、君が教えてくれた信念、人々の革命精神を携えてゆこう。帝国主義があるところならどこでも戦うためにだ。永遠の勝利まで。革命か、死か』

(引用終わり)

帝国主義はいまはリビアで猛威を振るっている。なぜ、NATOが反政府軍の支援をするのか、それは利権が絡んでいるからだ。カダフィの罪状として最大のものは、アフリカ共通通貨の創設に動こうとしたことだ。貿易の決済通貨をドルやユーロ以外にするのは帝国主義者たちのいい口実になる。

通貨こそは彼らが享楽生活を続けるための生命線だからだ。

そして冒頭のチェ・ゲバラの最期のセリフ。彼こそは「自由」の精神の持ち主だった。自分の信じる理想を実現するために「自由」に行動する。「自由」とは、既成の概念にとらわれない、利権や欲得から自由であることだ。もちろん自主自立は当然の前提である。依存心を克服するのが第一歩だ。


追記:

通貨の本質を論じたブログ記事を見つけた。社会事象【のらくら】の 「通貨の本質」 という記事がそれだ。地域通貨への橋渡しの部分を引用する。

(引用はじめ)

通貨の本質は、無限増殖であり、バブル形成能力であり、バブル崩壊=金融恐慌=世界大戦が、通貨の本質である。

言語は抽象度が高いほど無限増殖する。単なるリンゴという言葉からは、様々な赤いリンゴ、青リンゴ、アップルパイ等の言語が増殖する。しかし「お菓子に加工されていない、イチゴのような赤いリンゴ」と具体的に記載すれば、朱色のリンゴ、青リンゴ、アップルパイは増殖しない。抽象度を下げた、具体的な記号は増殖が抑えられる。

通貨の無限増殖を避け、人類が世界大戦で殺戮を繰り返さないためには、通貨の抽象度を下げる必要がある。「何でも買える通貨」「世界中で通用する世界通貨」という抽象度の高い通貨は、世界大戦を生み出す。

地域通貨のような、使用範囲の限定された通貨、消費期限の限定された通貨は、無限増殖の阻止機能を持っている。さらに、こうした新しい通貨を作り出すだけでは不十分であり、通貨の「暴力抑制機能」に着目し、通貨の暴力機能の爆発を阻止する社会機能を社会の中に作り出さなければならない。

国家の発行する通貨、さらには世界政府あるいは国連の発行する世界統一通貨による、「市民生活の支配、植民地化」から、どのように脱出するか。

この分野での経済学者・ 室田武 の地域通貨の研究と地方自治=中央政府の「解体」理論は、経済と政治の並行したシステム転換が必要であることを示している。中央政府による支配から脱出するためには情報が中央に集中するシステムから、地方・各個人に分散する情報流通ルートを作らなくてはならない。

こうした情報理論としてジェシカ・リップナック、ジェフリー・スタンプスの「ネットワーキング」論がある。人間の脳が本来、中央集権的でなく、分散型のネットワーク形態を持っていることについて優秀な言語学者でもある精神分析学者ジュリア・クリステヴァは語っている。

クリステヴァの言語学は、先のバフチンの言語学と共に現代言語学の双璧を成す。

こうした反中央集権思考は、宗教学ではユダヤ教タルムードの研究として ゲルショレム・ショーレム の思想書に結実し、ショーレムの親友ワルター・ベンヤミンの哲学書に結実している。

ベンヤミンの哲学書は100年もののワインのように美味である。

ショーレムの思想は、世界最高峰とも言われる美術史家 アビ・ヴァールブルク の美術分類方法に受け継がれている。この美術史家は、自分の兄弟ポール・ヴァールブルクが米国中央銀行FRBを創立した事に激しく抵抗しながら、芸術の世界に逃げ込み、自分の美術史を形成した。

この美術史、宗教学に見られる地域通貨理論は日本の近世文学研究者である 広末保 の井原西鶴研究、連歌・俳諧研究となって文学の領域に姿を現している。江戸幕府、明治政府といった中央政府に抵抗した地方分権派の生き方が、広松の古典研究、特に孤高の絵師である絵金の研究に見事に結実している。

哲学・通貨・経済学・宗教学・精神分析・情報理論・古典文学・古典芸能等、細分化され専門家された学問の形を取りながら、これらは地域通貨の理論を語っている。

(引用終わり)

この一節を理解するには、このブログのアーカイブを丹念に読んだ上で、紹介されたキーパーソンをたどって行くのが多分最も効率的だと思う。

ところで、同記事の引用箇所以外の別の箇所で、「死の恐怖」を忘れたことが「市場経済」の異常さを生み出したとある。

特定の個人の死とは関係なく日常は流れて行き、世界は存続して行くので、世界に対して絶望し、対象化・道具化できるようになった、というくだりがあって、すごく共感を呼ぶのだが、いかんせん「市場経済」の異常さを生み出すまでのロジックが上手く伝わらない。

ここは追記の形で考察して見たいと思う。手がかりは世界の対象化・道具化だと思う。


追記:

道具としての「市場経済」に引きずり回される現状を憂うのは誰も同じだ。ただ、「死の恐怖」が「市場経済」を生み出したのではなく、むしろ「世界に対する絶望」が「市場経済」を放置したのではないだろうか。いわば「市場経済」は「絶望」に由来するニヒリズムの申し子だ。

そう考えるとニヒリズムを克服することが肝要になる。「希望」をもたらす宗教的な規律正しさ、つまり、モラルハザードをもらたさないための律法と祭祀(政治)が要請される。具体的には、戒律、他者への思いやり、公共の概念などである。

この延長で考えると地域通貨への橋渡しがスムーズになる。ニヒリズムを克服するためのツールとして地域通貨という選択肢が存在する。ここで、選択肢という具合に多少の貶めが必要なのは、大掛かりではあるが、フリーバンキングという選択肢もあるからだ。

ただし、フリーバンキングは、歴史的な産物で、理論上は可能だというだけで、地域通貨のような手っ取り早さはない。とにかく等身大で、生活に密着した、身近な存在である地域通貨を、まずは、気づいたところからトライして行くべきであろう。


          *          *          *


前回、特定の個人の死とは関係なく日常は流れて行き、世界は存続して行くので、世界に対して絶望し、対象化・道具化できるようになったと述べた。しかしながら、世界に絶望し、対象化・道具化することと「市場経済」までは若干の隔たりがある。

道具としての「市場経済」に引きずり回される現状を憂うのは誰も同じだ。ただ、「死の恐怖」が「市場経済」を生み出したのではなく、むしろ世界に対する「絶望」が世界を対象化・道具化したことで「市場経済」が育まれた。

いわば「市場経済」は「絶望」に由来するニヒリズムの申し子だ。

ひょっとするとニヒリズムを克服して、世界を対象化・道具化を徹底する、すなわち、市場の生育歴を注視すると市場の暴走癖を糾すことができるのではないか。

ニヒリズムの克服同様、「希望」をもたらす宗教的な規律正しさ、つまり、モラルハザードをもらたさないための律法と祭祀(政治)を要請することで、具体的には、戒律、他者への思いやり、公共の概念などを強調することで、市場を健全化できるのではないか。

この延長で考えると地域通貨への橋渡しがスムーズになる。ニヒリズムを克服するためのツールとして地域通貨という選択肢が存在する。ここで、選択肢という具合に多少の貶めが必要なのは、大掛かりではあるが、フリーバンキングという選択肢もあるからだ。

ただし、フリーバンキングは、歴史的な産物で、理論上は可能だというだけで、地域通貨のような手っ取り早さはない。とにかく等身大で、生活に密着した、身近な存在である地域通貨を、まずは、気づいたところからトライして行くべきであろう。

戒律、他者への思いやり、公共の概念は、宗教的なコミュニティを支えるキーワードであり、律法と祭祀を背後で支えるキーワードである。宗教が万能でないように地域通貨は万能でない。しかし、市場の暴走による社会の機能不全をカバーするツールのひとつとして、期待されるところ大である。

市場を暴走させるのがニヒリズムであるというというのは極論だ。しかし、ニヒリズムがそれに寄与していることは確実だ。ニヒリズムに由来する快楽主義、刹那主義、やけくそや投げやりな感情、自傷他害、テロ、不労所得の追求、搾取の謳歌、自己中心主義、人間中心主義、公(おおやけ)の欠如、コミュニティの解体…こうしたものがモラルハザードを許し、市場の暴走に加担する心性に通低している。

したがって、市場の暴走に対する処方箋として、ニヒリズムの克服を挙げるのは、あながち的外れなことではない。ニヒリズムの克服には、宗教的なコミュニティー、相手の顔の見えるところで、たとえば、それはキリスト教会であってもいいが、そういうリアルな活動を通して、等身大の生活通貨をやりとりする。

それは暴走した市場と隔壁一枚でつながっている、つまり、一般通貨と交換ができてもいいが、そのためには、自治体やNPOといった後ろ盾を仕組み的に整備する必要もある。ここでは話の焦点が拡散するので、立ち入らない。

とにかく、市場の暴走からセキュアな通貨を媒介とした宗教的なコミュニティを前面に据える。そうでないとニヒリズムの克服はかなわないからである。唯一、世界の対象化・道具化に対抗できるのは、宗教という実存的な関与しかありえない。「死」と正面で向き合うには、宗教以外の対抗馬は余りにふがいなく無力である。

人が死んでも世界はまるで何も起こらなかったかのように通り過ぎる、その疎外感がニヒリズムの源泉だ。日常というものはそういうものだと何も考えないで、近代以降、われわれはやり過ごしてきた。その無頓着な楽天主義が市場の暴走を生んだ。みんなが自分のことだけに専念して来た結果が昨今の世界・金融情勢である。

この点をしかと見据え、ニヒリズムから目をそらさない。そのために先達は宗教という伝統を残してくれた。それにすがろうではないか。それに頼ろうではないか。祈りから希望は生まれるのは絶対正しい。祈りからニヒリズムが生まれるとは普通は考えない。ここが私たちのグランドゼロである。


2011年9月25日  根賀源三

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