闘魂 サバイバル生活者のブログ

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陰謀論にダマされるな!?



陰謀論を総論的に否定するのだが、例によって陰謀論にあっては問題は各論である。タイトルが扇動的なので、あまり期待はしていなかったが、読者を甘く見すぎていて、お話にならんとはこのことである。

…情報の洪水の中で、人々はそれを処理できないで溺れそうになるので、指針にできる情報の場所を求めています。けれども、伝統的なメディアや教育を含めた情報伝達ルートに対して人々は信頼を失っている。第一、既成のメディアが陰謀グループの支配下に置かれて操られているというのも、陰謀論のメジャーなテーマなんですから始末におえません。「真実とは大衆の目に隠されている=あなたは騙されている」というのが刷り込みになっているんですね。

で、権力による弾圧や隠蔽を受けることのない自由の空間であるネット上にこそ真実があると勘違いする人も多いし、逆説的なんですけど、そういうオープンな公共空間なのに、情報を受けるときは、パソコンの画面と向き合う独りだけの場所が普通ですから、いかにも自分「だけ」が秘密を知ったぞという気分になるんですね…

●基本的な問題状況は同じなのに、感じ方に迷いやためらいがなく、しかもバッサリ行くわりには、根拠が示されていない。すべて自明であり、要するに、結論ありきなのである。さらに悪いことに陰謀論の定義がなく、おまけに目を凝らすと政治・歴史はターゲットにしているが、経済・金融はそっとターゲットから外している。だから、著者の陰謀論は、通常の陰謀論と内容が違っている。都市伝説や終末論、UFOや宇宙人など論外である。定義を聞いていたなら本書は買うことはなかったであろう。ダマされた!


…陰謀論ではそのような不確定要素がすべて除外され、分かりやすい解説や予測だけが構築される。その「結論」を支えるために倒錯的なまでに細密な「証明」が展開されるせいで、「最初に結論ありき」の矛盾が見えにくくなっているのが特徴だ。陰謀論は「論」とはあるが、真偽については「議論」の余地を持たない。たとえて言えば、革命時の「人民裁判」や中世の「魔女裁判」のようなものだ…

…現在広まっているような陰謀論は、西洋キリスト教的な文脈の中で紡がれてきたもので、奸計をめぐらす謀略者の原形とは、「悪魔(サタン)」に他ならない…

●もうこれを聞いた時点でアウトである。文学が専攻だから経済・金融に関心がないのか、経済・金融に関心を持つ必要のない生活をしているか、その辺はわからないが、謀略とサタンは関係がないと思われる。

…これと似たケースは、「アメリカ政府による陰謀」論だろう。CIAが世界中で暗躍したり、NASAやFBIが砂漠に落ちたUFOや宇宙人をひとかに回収したりという話はおなじみだ。ベトナムやアフガニスタンで発見された未知動物が米軍に連れ去られたという話もある。アメリカが、CIAやNASAやFBIを「秘密」保持のツールにするように、カトリック系の陰謀論も、テンプル騎士団、イエズス会からオプス・デイまでヴァリエーションがある…

●有馬哲夫「CIAと戦後日本」(平凡社新書)を引き合いに出すまでもなく、有馬氏の誠実さと比べて、この著者の無責任な扇動家ぶりは何かがおかしい。明らかに過剰反応なのであって、このひどい売文の書き散らし方は目を覆うばかりである。反論しようにも理屈になっていないので、反論のしようがない。

…陰謀論者というのは、実際は歴史を超越したところに立ち位置があるんですね。彼らにとって、陰謀とは、「歴史の外側から歴史を動かしている」、ということです。だから、歴史の事実のほうからのフィードバックはあり得ないのです。言ったら言いっぱなしです。もちろん錯綜した事実の中には説明不可能なアクシデントや例外や明らかな偶然だってあるわけですが、それは問題になりません。除外されます。事件の中にいるんじゃなくて外にいるんだから平気です…

●鼎談の形を取った語りの部分から抜粋。陰謀論への総論的な攻撃である。反証可能性を示せないのが陰謀論の特徴だ。そういう意味では、先述の有馬氏の文献は貴重だ。なお、著者がいう陰謀論者は、確かにどうしようもない陰謀論者である。ぼくは透徹した意志と理性だけで、歴史が動くとは思っていない。それプラス機会主義というか、微分的な見通しでプレイヤーがゲームをプレイする、また、ひところ流行った「カオス」的な振る舞いもあるのはないかと思っている。

…ポスト・モダンの社会においてはパラダイムが変わり確かなものは何もないのだという相対化が起きました。すべてについて疑問を呈するのが当然だということになったのです。

カール・ポパー…によると、隠れた法則が世界を動かすという考え方は、プラトンもヘーゲルもマルクスも同じなんです。その隠れた法則がコスモスや形而上学や原理や階級闘争史観でなく、隠れた陰謀者グループに置き換えられたのが陰謀論と言えます…

●80年代を潜り抜けてきた影響が見てとれて悲しい。フーコー、デリダ、ドゥルーズと言ったきら星の仕事を一行で総括するところなんか、もう完全に読者をなめている。陰謀論が生活と接点があるかどうか、あるとすればそれは唯一「カネ」の問題であって、経済史や金融史の議論を抜きにして、陰謀を語るなかれということだ。まともな読者なら思いは同じだと思う。誰彼も衒学趣味のスノビズムに関わっている余裕はない。

…で、これを否定するのに…一つは徹底的に検閲する、頭からトップダウンで叩く方法ですね…もう一つは、まともに検証したり論破したりすることです。これは、事実関係でなく政治や歴史観にも関わるのでなかなか労多いのが問題です…

●まともに検証したり論破したりすることこそが読書人の仕事であって、存在意義なんではないのか。著者は、フランス在住で、バロック音楽奏者だそうだが、これが本音だとすると労多い仕事に関わるのはゴメンだという理解でいいのだろうか。もしそうなら、労働を否定して、実直勤勉を重んじる日本人的な価値観から非常に遠い存在、すなわち寄生虫である。輝かしい学歴が残念なことになっている。総論的に言えばこういうことだが、冒頭で述べたように、陰謀論つまり経済史や金融史の文脈における謀略にあって、本当に論破すべきは、仮説の形を取るディテール、要するに各論なのだ。なのにである、この人は読書人として論破すべき立場にありながらそういう煩瑣な作業は面倒だという。こんな言説を吐く反陰謀論者による陰謀論批判ははじめてだ。前代未聞とはこういうことを指していうのだと思う。

2010年7月24日 根賀源三

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