ポエムガーデン

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 二十四歳の春から夏にかけて僕は初めての詩集を自費出版するための作業に取り組んでいた。いきなり有名作家になるのだという焦りからではなく、僕の帰りを待っていてくれていたであろう仲間たちに上京していた間の成果を形として実感してもらえたらと、けして東京へは遊びに行っていたわけではないんだという証を示したいう思いからだった。創作ノートはどれも活字でぎっしりと埋め尽くされていたが人に見せられるレベルの作品はそれらのノート一冊に十編あればいい方だった。様々に修正を重ね、どうにか四十編の詩が完成品として仕上がり詩集としてまとめることができた。もう少し数が増やせたらと頑張ってみたがどう逆立ちしてもそれ以上の作品は出来てはくれなかった。自費での本とは言えこれで詩人の仲間入りが出来たかなという思いもあって本のペジをめくる度に感無量の心境になれた。そして「やればできる」の小六の担任の先生の言葉は真実だったのだと僅かながら実感できた。 今ようやく詩人としてスタートラインに立てた夢追い人。芸術は明日認められるかも知れないし、いつまでも認められないかも知れない。『隠れた名作』という言葉があって、『本当の名作は隠れない』という新説もある。そして本を買ってくれた友人たちは例外無く「素晴らしい」と誉めてくれた。


【何故】

人はなぜ平等に暮らせない
同じように幸せ求めても
同じように喜び求めても
人は何故・・・

人はなぜ運命を持っている
それぞれ願いは違うのに
それぞれ夢は違うのに
人は何故・・・

世の中はいつも
逆らえない川の流れ
立ち止まる者には辛い流れ
けして一人の為には
ゆるやかになってはくれない

人はなぜ孤独に生きる
こんなに多くの人の中にいても
こんなに青い空の下にいても
人は何故・・・

            ※

 風はどこへ向かって吹いているのか。気まぐれな風。運命は人をどこへ導こうとしているのか。僕にも誰にも分からない。
 レンタルのCDを返却したいということで入院先の病院から彼を乗せてレンタルショップまで車を走らせた。再び病院へ引き返すと彼が軽く右手を上げて「じゃあ」と言ってきたので僕も反射的に手を上げて「じゃあ」と言った。彼は松葉杖を手にすると車から降り、廊下の出入り口に置いていた車椅子に乗り換え、何度か僕の方を振り返りながら病室へ続く廊下へと漕ぎ続けやがて僕の視界から消えていった。僕はてっきりいつものように将棋をしたり会話をしたりするものと思っていたから少し拍子抜けをしたけれど、考えてみれば毎回同じようなパターンで将棋や会話を繰り返すのもさすがに飽きてきたのかなとそう解釈した。けれど結果的に僕が彼を見たのはそれが最後となった。

            ※              

 葬儀当日、同級生やリハビリセンターの職員の人たちが彼を見送りに来ていた。
「○○君は何年もの間、激しい痛みを抱え続けながらも一度として『痛い』とか『辛い』という言葉を口にしたことはありませんでした。ただ僕が睡眠時間を聞いた時には『痛みで一日一時間以上寝れたことはないんだ』とそう言ってました。もうこれからは痛みから解放され、思う存分安らかに眠ってください」と、僕は友達代表としてそのような言葉を彼に送らせてもらった。


【Glass Onion】


「・・・には会えたかい?」
「・・・・・」
あれからこの街も随分と変わった
他の街と同じような景色になってきた
君の記憶ではもう
僕を訪ねては来れないかも知れない
「空はどうだい? 時々は見ているかい?」
「・・・・・」
離れ離れと名づけたあの雲は
今も君の力で寄り添っている

夜から朝にかけて一通の手紙を綴った
あて先はグラスオニオン
凍てついた空から白い雪が
大地を傷つけないように
時間をかけて少しずつ降り積もった
昼間のうちに温もりを蓄えていた摩天楼が
病んだ空の痛みに小さく震えた

賑やかさに飢えたストリート
孤独に踊る少女のステップがこだまする
歪んだ街を落書きに飽きた盲目の詩人が
油でまみれた輪郭を頼りに
重い影を引きずりながらがらくたをあさって歩く
昨日の朝 同じ場所で
一匹のすたれた野良犬がひっそりと息を引きとった

僕は練習に明け暮れる三段跳の選手だった
Misery Misery Misery
愁いのある心の貧しさに触れて
腐りかけては水の中で息を吹き返した
栄光で飾られた広場では仲間たちが
エンジンをかけて僕の帰りを待ち続けてくれた

花束はいつか届けるつもりだった
自分を打ち砕いて迎えに行くつもりだった
とりとめのない渇いた言い訳が
一本のインクを使い果たしても尚止まなかった
まるで誰のせいでもない運命が
一つの生命を奪っていった夜のように

誰も正しいとは言わなかった
誤りだと責めたりもしなかった
幻想を彷徨うことの罪深さは
ガラスの玉ねぎの中だけにこだましていた

            ※

「すぐに夢は叶えてみせるさ」と彼にそう誓った僕は嘘つきだ。もっと時間をくれたなら、というのはただの言い訳にしか聞いてもらえないだろう。いつまでも振り返ってばかりいたならきっと軽蔑されることだろうから僕は僕の人生を歩き続けて行くよ。そして夢への足はけして止めることはしないからと。

 1991年の秋、可能な限りの集中力で作り上げた第二詩集完成の数ヵ月後のある朝、地元FM局の番組で詩の募集をしている告知が耳に入ってきて、僕はその詩集を一冊放送局へ送ってみた。そして朗読される予定の週の三日目の水曜日に僕の作品「防波堤」が公共の電波で初めて朗読された。僕はラジオで読まれたことで大きく夢へ前進できたのではと思えてならなかった。そしてこの放送が天国まで届いていたならどんなに報われるだろうとも思った。後日ラジオ局から朗読された放送のそのままが収録されたカセットテープが送られてきてそのテープは家宝として大切に保管してある。その後僕からも読んでくださったお礼を兼ねた手紙をリクエスト曲を添えてラジオ局へ送ってみたのだった。

「ミュージックサラダ」御中

お久し振りですが覚えておられるでしょうか?
僕は以前(去年の12月)詩を読んでいただいた「防波堤」の著者であります。
あのあといつかお礼をかねて一度はお便りをと考えていたのですが考えている間に
月日は流れ今日の手紙となってしまいました。のんきというかこれが僕のペースというか
それにしても完全にひとつの季節は通り過ぎてしまいましたね。
詩人は以外に筆無精でした。
あの時の放送はとても感動的でした。そう、僕が中1の時初めてビートルズの「抱きしめたい」を聴いた時と同じくらいの感動。
僕は歯みがき中の歯ブラシを口にくわえたままスピーカーの前に立ちつくしてしまいました。

ついでというかとりあえずリクエストも書いておこうと思います。
この春で社会人10年目を迎えるということも考えてこの10年間僕の中のヒットチャートで最も長く上位でがんばってくれた曲ということで選んでみました。「SOMEDAY」 佐野元春。
この曲の中の「SOMEDAY」っていうフレーズのところ、時々「ガンバレ」って言っているように聴こえてくるんです。『こんな事には負けないぞ』っていう出来事にでくわした時なんかは特にそう聴こえてくるんです。

リクエスト曲「SOMEDAY」 佐野元春   1992.5.12

            ※          

 2011年夏。道半ばで逝ってしまった彼の眠る墓の前。今年もおまえに会いに来た。享年二十六歳。あれから二十一年の歳月が経っていた。僕は四十七歳となったがおまえはいつまでも二十六歳のままだ。生前に熱く語り合った夢。その夢の実現の報告を今年もできないでいた。
「この歳にしてまだ夢追い人をしているのかい?」と笑っているかも知れない。それとも頼もしく思ってくれているのかも知れない。

            ※

 一つの障害を乗り越えるとまた次に新たな障害が待っている。ハードルを一つクリアするともっと高いハードルが待ち受けていたりすることも。僕らはどんなに自由でいられたとしても容易く不満をこぼしたりする。愚かにも他人のせいにしたりもする。ニンジンが食べられないくらいで挫けることなかれ。アイスクリームを取り上げられたくらいで涙を流すことなかれ。他人が幸福に見えたとしても哀れることなかれ。そして、終わりのない青春を今も走り続けている僕がいる。


























「青春に捧げるメロディー」

 2011年12月26日発行
 著者 上本秋人
 山口県山陽小野田市在住

 既刊書籍
 「孤独な群れ達」
 「Glass Onion」
 「イエローヒルズからはじめよう」
 「ドーナッツボーイ」
 「R氏の日記」
 「ハートじかけのシーズン」



















ため息が出るほどに素晴らしいと思える歌詞に出会った時には『このような感動的な詩が書けたならな』と憧れを抱き試しに自分でも書いてみたりする。逆に、レコードや本になっている詩でも『僕にでも書けるんじゃないかと思えるようなシンプルな詩だ』と思える作品に出会った時にもやはり試しに自分でも書いてみるのだった。そのように思いながらノートに詩を書き綴っていくうちにいつしか『客観的に見ても素晴らしい』と自分自身の詩に感動を覚えるような作品を書けていることにふと気づくのだった。
 振り返ってみると、幾つもの歌が僕の人生に寄り添うように存在していて、沈んだ気持ちの時には勇気を与えてくれて、ご機嫌な気持ちの時には更に愉快にしてくれたり。そうやって様々な歌が僕の人生に少なからず影響を与えてきたように、僕が生み出す作品が知らない誰かの心に触れ、その人の人生を少しでも豊かにしたり勇気を与えられたとしたらどんなに素晴らしいだろうと、いつしかそう思うようになっていった。








 会社は軟式の野球部が存在していてその実力は県内の大会などでは毎回のように優勝候補に挙げられるほどの強豪チームとのことであった。職場の野球部の人に連れられて練習の見学へ行ってみた。まだ人がそんなに集まっていなかったのでピッチャーズマウンドから遊びで投げさせてもらった。マウンドからピッチングをするのは中学生以来のことで野球をすることじたいがそれ以来のことだったのでとても新鮮であった。ボールとグラブをマジマジと眺めながらピッチャーズマウンドに立ちバッターボックスに向かい合うと「こんなに近くから投げていいのかな」と思うくらいにキャッチャーの位置がとても近くに感じられた。そして投球をしてみるとキャッチャーが戸惑うくらいのスピードボールに誰よりも僕が一番驚いてしまった。それを見ていたチームの正捕手の同級生Mがキャッチャーミットを手にして僕の前に現れてきてホームベース後方でキャッチングポーズを取っていた。僕はそのキャッチングフォームを見た時にこれまでに見たことのない本格的なキャッチャー姿を見たのだった。
後に噂を聞いたのだが彼は彼が高校時代の現役の硬式野球部でいた当時、県内ナンバー2の実力者であったとのこと。どうりで投げやすい完璧なキャッチングフォームをしていると思った。とういうことで僕は遠慮のないおもいっきりな投球を投げ込んでいったのだった。僕は投げる程に、振りかぶるテイクバックがサード方面から気がつけばショート方面までねじっていてそれに比例してボールスピードが上がっていった。その日の閃きでそのような投げ方になっていったいわゆるトルネード投法をトルネード投法が世間に登場する何年も前に僕はいち早く実践していたということになる。県内ナンバー2キャッチャーも気持ち良く受け取っているものと思いきや、あまりもの快速球、いや、剛速球のためかミットからボールをポロリ、ポロリと何度も落としていたのだった。僕としてはまだまだ腕も振れてもっと速いスピードボールが投げれるくらいの余力はあったのだが彼に恥をかかせることになってはと思い余力を残してその時のキャッチボールはそこそこで終えた。確かにスピードはかなり出ていたと思うが硬式野球をしていてしかも県内屈指のキャッチャーともなれば140キロどころか150キロ前後のスピードボールだってキャッチングすることはそんなには難しいことではないはずで。なのに何度もミットの土手などに当てたりして受け損なっていたのはなぜなのだろうと。しいて考えられることとしては僕のボールの握り方にあると思われる。ストレートボールを投げる場合に僕は一見カーブの握りに見えていて、縫い目に指を掛けるのではなく縫い目の上に指を置いて投げるというものだった。なのでミットにたどり着く直前に左右不規則に僅かに変化していると思われる。現在で言うことのカットボールである。世間で主流となるそのカットボールというものをその二十年以上前に既に投球してみせていたことになる。この握りは中学時代からずっとしていたが当時はスピードが無かったのでそういう変化にまで至らなかったのであったのだろう。
 ということで僕がその会社のエースピッチャーになったかというとそうとはならなかった。
理由は、簡単に言うと魔法がとけたからである。中学生以来のキャッチボールで自分でもあのようなスピードボールが投げられるとはまったく思っていなくて、なのでどのようなフォームで投げていたのかが思い出すことができず、次の日からはごくごく普通のどこにでもいるようなピッチャーに戻っていたのだった。当時そのボールを受けた同級生キャッチャーとその近くで一緒に見ていた数人の人たちだけが知っている幻の剛速球ピッチャー。間違いなくその人たちの記憶の中ではその後何年もインパクトある記憶として存在し続けたことだろうと。




 人生において安定だけを求めるなら趣味は趣味の範囲内だけにとどめ勤めている会社やこれまでの人間関係を育み続ければそれで問題ないだろう。ゼロからのスタートの  何かの可能性に賭けてリスクを覚悟でサラリーマン意外の職業を選択している人たちは社会人の仲では少数派で

それよりも何よりも僕は人生のどこかのタイミングで学業で手を抜いていたことの代償を自らに貸せるという大切な責務を果たさなければいけないということにしていた。

も継続していけばいいだろう。 勤めている会社に留まり続け、趣味を持ったとしてもそれを職業にしようと考えなければ たとえどんなに興味が湧いたとしても趣味の範囲内にとどめて  るという選択や、他にももっと有効で効率の良い道はいくら81ってあるだろう。けれど僕は人生のこのタイミングで自らの判断でこのような行動の選択をした。今そうしないと後に後悔するのではないかという自分なりの予感に基づいての行動。




 僕が小学六年の時、当時三十代の男性担任先生が十二歳の生徒を一年間見続けた後に僕に教え伝えた言葉、『おまえはやれば出来る人間なのだから・・・』と。学業にこれっぽっちも興味を示さなかった当時の僕にはその言葉の意味や重さや込められた期待などまったくもって理解できないでいた。けれどその後、どんなに年月が過ぎてもその言葉は僕の頭の片隅から消えることはなく存在し続けた。やがて僕は社会人四年目の二十二歳という年齢となり、次第に向こう数十年の将来の姿が見えてくるようになってきた。
と、同時に、僕は僕の中で眠るなにかしらの能力をこのまま眠らせたままにしておいてよいのだろうかということを自問自答し始めるのであった。
 僕が詩人としての可能性に賭けるということ。約束された生活を捨てて信じた才能に賭けるということ。二十二歳という年齢でのこれらの行動は僕をどのような未来へ導いてくれるのだろうと。
そんな時、僕を後押ししてくれた『やれば出来る・・・』の言葉は僕の進路の背景に存在していたことは否定できないところであろうかと。
 人生はタイミングであり、閃きである。そして人生は、僕だけのものであり、僕だけのものではない。二十二歳当時、もう子供の自分へは戻れないと自覚し始めた当時の僕の人生観である。


先生から十回質問されるとその八回くらいを正しく答えられていたものが気がつくと三回か四回程度しか答えられなくなっていて、「こんなことも答えられないのか」と



そして僕が、故郷を離れてまでも成し遂げたいと思えるものに出会え、創作活動から作品が形になっていく度に                                                                                                     眠っていた才能によって作品を生み出す度に  いうものに出会え 、当時の先生の数々の言葉は真実だったのだと実感できたのだった。

情熱を注ぎ

結果的に小学四年生から高校卒業の日まで学業を疎かにすることの信念は曲げることはなく実践された。本人が決めたことだからそのことで社会へ出てから後悔を覚えても仕方が無いということで・・・。それよりも勉強以外の何かの分野で才能を発揮し、世間に示さなければ僕のポリシーは安物のままで終わってしまうことになるので僕に記憶や気力のあるうちにその何かを成し遂げねばと真剣に模索し続けたのだった。

社会は楽しいことばかりではない。けれど学生時代とは比べ物にならないくらいに刺激的な所であることは間違いなかった。学生時代に校則が存在していたように当然社会にはルールが存在していたが窮屈さや縛りのようなことを感じるようなものではなかった。




僕に付加価値をもたらせ潜在的な可能性を見出し様々な人々の元へと僕を導いてくれた車という存在。その昔人々の生活を一変させた産業革命の原動力となった蒸気機関。僕にとっての蒸気機関的存在は車だろうと。それだけ僕の日常を革命的に一変させてくれた。



 プロ野球選手の夢が叶わなかったから、プロゴルファーへの道を諦めたから、大学へ進むだけの学力が無かったからこその尊き出会い。趣味としての音楽、ゴルフ、野球、車、そして恋愛。それぞれの趣味が引き寄せた仲間たち。僕のアドレス帖から溢れんばかりの数の名前と電話番号が綴られてた。
高校時代の校則から解き放たれた心からの笑顔を分かち合えた仲間たち。



高校当時の僕は学生時代の中では最も学業から離れたいという気持ちが強かったのだけれど、勉強が嫌いと勉強が苦手との違いは理解していて、ちなみに当時の僕は勉強は嫌いでそして苦手だった。先生が教室から出て行った姿を確認するとあらためて言葉にするのだった。「なんだ夢か」と。

たとえハードルを容易く飛びE8えられたとしても人生を甘く考えることなかれ。


 親友は一日にしてならず、そして親友との信頼を無くすのには五分とかからず。僕の人生において少なくとも僕の方から親友をやめると言葉にしたことは一度もない

「○○君はあんなにも大きな手術を行い、毎日眠れない程の痛みを抱えていたにも関わらず、一度として痛いとか辛いといった言葉は口にしない

群れからはぐれた少女の孤独に踊る少女のステップがこだまする
明日が見えない街を落書きに飽きた言葉を失くした盲目の詩人が

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