かんたんな金沢史

金沢の歴史

鎌倉時代末以来、加賀一国は富樫氏の支配下にありましたが、
1488年に一向一揆が勃発し、富樫氏を滅ぼしました。
その後、大坊主・国衆・百姓の連合政権が誕生し、
尾山御坊(現金沢城跡)に本願寺の大寺院が完成。
以降100年間、本願寺は大きな勢力を持っていました。
室町時代末、本願寺と対立していた織田信長の勢力が北陸にも及び、
1580年に佐久間盛政が尾山御坊を攻略しましたが、
信長が本能寺の変で倒れると、羽柴秀吉が急激に勢力を強め、
その結果、能登にあった前田家を加賀に移しました。
豊臣政権で五大老を務めた前田利家が没すると、徳川家康の力が増大しました。
それからは、前田家は家の存続に苦労する事となります。
徳川家との婚姻を繰り返し、警戒心を解くよう努力しました。
学問や工芸に力を入れ、5代綱紀の時に図書を大収集し、
「天下の書府」の名を得たのをはじめ、武具制作の為に創設された「細工所」は、
一流の工匠を迎えることにより華麗な工芸工房に生まれ変わりました。
更に、名物名品の収集にも財を使い、その品々を家臣に与えました。
その事により、家臣や職人の間にも優れたものに対する美意識が芽生え浸透していきました。
全国から集められた名品は300点にもなり「百工比照」と呼ばれています。

※江戸末期の金沢の人口は12万人で、東京、大阪に次いで第3番目の都市でした。
しかし、明治30年頃には8万人まで落ち込み、
その後、鉄道の開設等に伴い、人口も次第に回復していきました。


城下町金沢

お城がある小立野台地は左右に犀川、浅野川が流れていて、
犀川のところには寺町台地、浅野川のところには卯辰山があり、
それぞれに多くの寺院を置いています。
また、小立野台地の裾辺りにも寺院を置き、
金沢城の三方向を固めていることから、防備の役割を持っていたと言えます。
城の周囲には堀がつくられ、その水をたくわえる為に10kmも上流の犀川から辰巳用水を引いています。
金沢は自然の地形を利用した城砦都市だったのです。
金沢地形


「金沢」の由来

芋を掘り、その芋を洗って神仏に捧げていた藤五郎という人が、
ある時、いつものように芋を洗っていると、
その沢から金を見つけたことから「金沢」とついたと言われています。
沢で採った砂金で造ったと伝えられ、国指定の重要文化財になっているのが、
伏見寺にある阿弥陀如来金銅仏像です。
・伏見寺 8:00~17:30 電話0762-42-2825


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