災いの後半戦

災いの後半戦

痛覚と何か

パソコンを起動して

メモリーに入っている音楽を起動する。

耳障りな音楽を飛ばして今の自分好みの音楽を選曲する。

こんなときに自分好みのリストがあればな。

なんて考えて少し苦い思いに浸る。

ん?つまり俺は俺が今現在好きな音楽を聞いて選ぶにしか過ぎないってことか。

まぁ当然作ることは出来ないさ。

確かに音楽は流行の移り変わりや飽きなんかも関係してくるんだろうけど

なんか少し不愉快であるが認めざる終えない事実って奴だ。

自分に対しての不安はつき物だ。

この先も付きまとう亡霊みたいなものだろう。

何が不安かってことすら理解できないものを自分が抱え込んでるってことだろうか。

でもしょうがないだろ?

それはおかしいといわれるかもしれないけど。

自分は自分であって自分ではないのだと俺は思うのだ。

精神的にも肉体的にも存在価値的にも

俺たちは俺たちのことを理解しているけど実感性には妙にかける動物だと思うのだ。

例えば腕が動くとか神経を立って命令信号が送られて筋肉細胞が収縮してだのって

理解はしてても実感はないだろ?

それはあくまで動いてるってだけだ。

意思は反映されていても実感性にはかける。

実感性の変わりに動いたという結果が残る。

昔小説で読んだことがある。

この世の中を感じるためには痛覚が必要なのだと。

痛みがなければ、生きている実感はわかない。

些細な痛みがこの世を感じる大きな実感なのだと。

まさしくそう思う。反面そう思わないこともある。

あぁじゃぁ少し否定出来るな。

だからこの瞬間は実感する。

俺たちの心は痛んだり喜んだりするだろ?

音楽を聴いて何かを実感しているじゃないか?

それは結果か?それは痛みか?違うだろ。

じゃぁこの世は痛みだけじゃない気がするよ。

まぁあくまで痛みを感じられるからこそ、この世界は成り立っているのかも知れないけれど。

平行して存在する存在価値の複合的作用の産物とでもいうのかね。

まぁよく分からないけどね。だってそれが世界なんだからさ。

カオスだね。なんて誰かがいって現実に戻る。

現実に戻ると今聞きたい音楽が流れているような気がした。

そして一人パソコンの前で気持ち悪く苦笑する。


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