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「今を希望の時に」(マタイ 3 : 1-12 )
今日の説教題は「今を希望の時に」としました。これは「自分たちの心持ちで今を希望の時にしよう」ということではなく、「今は希望の時である」ということを聖書から聞きたくてこのようにしました。
今日の箇所は洗礼者ヨハネについての箇所です。ヨハネはイエス様に先立って現れ、当時既に珍しくなっていた預言者の伝統的な姿で活動していました。この時代にはもう私たちでいう旧約聖書は成立しており、様々な場面で活動していた預言者たちの存在は過去のものとなっていたようです。ところが彼らと同じ使命を持って、ヨハネが現れたのです。旧約聖書に収められている預言者たちの活動は、多くの人から好かれ尊敬されるようなものではありませんでした。自分と同じ民族に対して神様からの警告や裁きを告げ、命の危険にさらされることもありました。人々の心が神様から離れているとき、またそれなのに自分たちは特別だと思い上がっているとき、預言者たちは活動したのです。聖書の中では、そのようなことが繰り返し起こっています。今日の箇所の時代もそのような時でした。神様のことを思わず人間、自分たちのことを思い、それなのに自分たちは神の民であると誇る。ローマの支配下で何とか神の民であるという考えにすがりたかったのかもしれませんが、これは誇りではなく思い上がりであると言えます。預言者はそのような時と共に変わってしまった人の心を指摘し、本来の神様のことを思い起こさせるのです。
ヨハネは、当時の腐敗してしまった神殿や宗教的指導者たちと一緒に活動するわけにはいきませんでしたから、荒れ野で生活していました。悔い改めの洗礼を延べ伝えていましたが、そこにやってきたファリサイ派やサドカイ派に対して厳しい言葉を語っています。「神はこんな石からでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」というのは、彼らの心のおごり高ぶりをよく表しています。そして神様がどのような方なのか、本質的な部分も言い表しています。それは何もないところに命を与えることができる方、ということです。何かしたところに命を与える方ではないのです。イスラエルの歴史も、何もないところに恵みを与え、命を与えていったという神様の救いの歴史があります。ですがその中で繰り返されてきたことは、この命の根源にある神様の恵みを忘れ、ただ自分たちを誇りとして得意になるということでした。おそらくヨハネの洗礼ですら、彼らは自分たちの誇りにしようと、正しさを証明しようと思っていたのではないかと思います。ヨハネはイエス様に先立つ最後の預言者として、そのことを指摘し、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と彼らに言うのです。
ヨハネの言う悔い改めは、この神様のもとに立ち返ることです。与えられた恵み、命をさも自分のものであるかのように考えることをやめ、この方によって生かされているということに立ち返って、イエス様を待ち望みたいのです。イエス様なしには、私たちは悔い改めにふさわしい実を結ぶこともできません。私たちが生きていること、生きていくこと、これら一切は神様あなたが共にいてくださるからですという、この信頼に立ち返っていきたいのです。クリスマスのメッセージを今年も感謝して受け取るための備えとして、この信頼へと立ち返ってまいりましょう。( 2022 年 12 月 4 日 待降節第 2 主日 市原悠史)
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