
非常ベルが鳴り終わっても、俺たちはまだビルの11階にいた。エレベーターはとっくに止まっていたし、非常階段へ通じるドアを開けるとそこは真っ白な煙で充満していた。
どこか階下で火災が起きたのは確実だった。エレベーターホールにいるのは、俺を含めて五人しかいなかった。
それは、この階が大小の貸し会議室だけのフロアであり、現在が夜の10時頃、つまり会議や展示会が行われている時間でもないからである。
五人のうち四人は男だった。
一人は清掃員の作業着姿で手にほうきとちりとりを持っている。胸には川口という名札がついていた。
人の良さそうな川口さんに避難経路についてさんざん詰め寄った背広の若者がボブである。
そして不安そうな顔であまり喋らない眼鏡の中年がBー25号である。背中の電池蓋に品番が書いてあった。
もう一人の男は俺で、さらにもう一人、頭からすっぽりとジャスコの紙袋をかぶっている女性がいて、名前を名乗らないので、俺たちは彼女をジャスコと呼ぶことにした。きっといい女に違いない、雰囲気でわかる。
ボブと俺はずっと携帯電話を使おうと試しているのだが圏外で使えない。
多分、エレベーターホールが建物の中心辺りにあるとか、停電で建物内の電波の状態が悪くなっているのだろう。
俺はこの階の一番大きい会議室にベランダが付いていたのを思い出してそこへ向かうことにした。
何のこともない、非常ベルが鳴ったとき俺はその部屋で明日の会議の準備をしていたのだ。
俺の後を他の連中もついてきた。薄暗い非常灯の中をしばらく歩いた。
大会議室へ入ると正面には世界地図が掛かっている。我が組織の来年度の世界征服計画表だ。
俺は地図の上部、丁度北極辺りに描かれた組織のマークの前でかかとを揃えて敬礼した。
部屋の中は非常灯だけだったが、Bー25号が眼から光を出して照らしてくれた。普通の照明よりより明るくなったほどだった。
俺は夜食にコンビニ弁当を買ったのを思い出した。まず腹ごしらえをしようと提案したが、冷たい弁当はイヤだとジャスコに簡単に却下された。ボブも日本の食べ物はノーサンキューだと言う。初めからこいつに分けてやるつもりはなかった。
川口さんはこまめに床のちりを掃いていた。彼はまだ仕事中なのだ。
ボブが携帯電話を試してみようと、ベランダのガラスドアを開けようとしたが、鍵が掛かっていた。
「ちくそう」とボブが顔をゆがめた。彼が携帯電話を床に叩きつけ思い切り足で踏みつぶしたのは、川口さんがドアの鍵を開けてくれる直前のことだった。
しょうがない。今度は俺が携帯電話を取り出し、ドアを開けようとしたが、寒いからイヤだとジャスコに簡単に却下された。
なんと言うことだ。俺たちは一度に食料と通信手段を失ってしまった。
川口さんは黙ってボブの携帯電話の残骸をちりとりに掃き込んだ。
これで万事休す、俺たちはもう、ただ救助を待つしかなくなった。
でも、俺だけは携帯電話があったのでメールを打ったりワンセグテレビを見て暇つぶしができた。
そして、30分もたっただろうか、ボブが叫んだ「川口さんがいない!」。
確かに、大会議室に川口さんの姿が見えなかった。どこに行ったのだろう。その答えはすぐに出た。
Bー25号が言った「川口サンハ、コノ階ノ掃除ガ終ワッタノデ帰リマシタ」。
謎はあっさり溶けた。なんということだ。俺たちは四人になった。
人の良さそうな川口さん、と言うよりも、この建物に通じている大きな人材を失った。
我々の中にも悲しみが広がった。
ここまで気丈夫に振る舞っていたボブも急に気弱そうになった。彼の話では、彼はまだ新婚で奥さんが恋しくなってしまったらしい。
俺は携帯電話を渡して、家に一言、電話を入れるように言った。
ボブは感謝し電話を取ったが、すぐにうめき声をあげながら頭を抱えた。
「家の電話番号なんて覚えてねえずら」と言いながら俺にそっと電話を返した。
皮肉な話だ。近代的な装置に限って、いざというときには役に立たないものだ。
「やっぱり、屋上へ逃げるんなら、あの非常階段を使うしかないんじゃないか」と、俺はもう一度、原点に立ち返って考えることを提案した。
ボブもうなずいている。Bー25号は笑っている。
「例えば、息を止めるとか、ビニール袋をかぶるとか」
俺の言うことに、ボブはうなずき、Bー25号は笑う。
ボブが怪訝そうにBー25号を見ると、Bー25号は金属音をたてながら大声で笑っていた。
ボブはそれを見て、「そうだ。お前、息もしないし、眼に煙もしみないだろ」と言うと、Bー25号は「ソウソウ、息モシナイシ、煙もシミナイ」。
俺は立ち上がり、「じゃあ、非常階段を上って屋上へ行って助けを求めて来てくれ」と言った。
Bー25号は腹を抱えて笑っている。
「息シナイ、煙シミナイ、…がく」
ついにBー25号の電池も切れた。彼は動かなくなった。
もうこうなったら自ら煙の非常階段へ飛び込むしかない。
俺とボブは装備を整えた。
顔には空気で膨らませたビニール袋をかぶり、首のところで絞って持った。
これで、煙に巻かれた非常階段へ飛び込み、手探りでとりあえず一階上の12階までたどりつこうというのだ。
俺たちはかけ声とともに非常階段のドアを開け、もうもうと立ちこめる白煙の中に飛び込んだ。
ボブが急に後ろから脇腹をこちょこちょくすぐってきた。俺の弱いところだ、しかし俺は歯を食いしばり必死に耐え、壁を伝い、階段を上った。
中間の踊り場まで来た。ボブが後ろからべったり抱きつき乳をもんできた。俺は、あぶら汗をかきながら、彼を引きずるように階段を上った。
丁度360度方向が変わった辺りで手探りでドアノブを見つけた。俺とボブは思いきりドアを開け12階へ転がり込んだ。
危ないところだった。まさにボブが俺のズボンをパンツと一緒にひざまでずり下ろしたところだった。
俺はズボンを直し、まず12階に残された人を探すことにした。
途中、掃除中の川口さんに聞いたところ、この階は機械室や倉庫ばかりで他に人はいないということだった。
もっと丈夫で大きなビニール袋が欲しいと言うと、親切な川口さんはわざわざ従業員エレベーターで1階まで行って取ってきてくれた。親切な人だ。
この階が機械室ということは、どうやらこの建物は12階まででこの上は屋上らしい。
脱出までもう一息だ。
今度はイタズラをされないよう、ボブを先に行かせることにした。俺たちは袋をかぶり、再び煙の充満する非常階段に飛び込んだ。
俺はすぐに後ろからボブの脇の下に手を入れ肉を思い切りつまんだ。ボブは簡単に落ちた。
一瞬の笑い声がしたかと思うと彼は倒れ込み、笑いながら階段を下方へと転げ落ちていった。やがて、その声も遠くへ消えていった。
俺は、ひたすら階段を上った。一人一人減っていった仲間たちを思いながら。
これで最後だ。ついにドアノブを探し当てた。もう息もわずかしか続かない。
しかし、なんとノブは回らなかった。鍵が掛かっているのだ。
俺はひざから崩れ落ちた。これで全てが終わった。
その時、目の前で小さな金属音がした。
俺は残ったわずかな力でもう一度立ち上がりノブを回した。はたしてノブは回った。
俺はドアを開け、せきこみながら屋上へ飛び出した。
その横には、鍵束を持った川口さんがにっこりと笑顔で立っていた。
俺は、ついに脱出したのだった。